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 ゴールデンウィークの最終日、川嶋亜美は機上の人だった。撮影地である沖縄からの便は
連休の最終日ということもあってほぼ満席で、さらに子供連れも多かった。旅慣れない客が
多い時期の飛行機の快適度はビジネス客しかいない時期に比べると数段落ちる。悪気は無いの
だろうが滅多に飛行機に乗らない人にとってはそれ自体が非日常体験だから興奮するのも
わかるし、旅への期待や思い出で話しが盛り上がるのも理解はできる。でも、仕事で旅する人の
立場で言わせてもらえれば、ぶっちゃけ、あいつら超ウゼーってのが亜美の正直な気持ちである。
 それでも事務所が用意してくれたプレミアムシートは空間も椅子も少しだけたっぷりしていて
快適だし、周りの乗客も旅慣れている感じで快適度は低くない。ガキどもの喧噪の中で
二時間半も過ごす事を覚悟していた亜美にしてみれば、これは嬉しい誤算だった。
 ベルトサインが消えるのを待って、亜美はバッグからiPodを取り出してカナルタイプの
イヤフォンを耳に埋めた。お気に入りのプレイリストを選んで再生する。女性ボーカルの
バラードが聞こえてくる。手にしていた雑誌をシートのポケットに押し込んで瞼を閉じた。
 
 高須君のことはなんとも思ってない、そう奈々子に宣言した翌日に沖縄に移動して、
それからは早朝から夕方までひたすら移動、待機、撮影の繰り返し。日が沈んだらモデル仲間や
スタッフと食事に繰り出し後はホテルで爆睡、そんな毎日だった。忙しさと南国の気怠さに
かまけて、自分の事は全部保留のままだった。
 ウソついちゃったな、と思った。正確には『なんとも思っていない』のではなく
『想わないように努力中』あるいは『諦めていく途中』だった。それが捗らない理由も
分っている。高須竜児が少しずつ魅力的になっていくから。大河というパートナーと
結ばれてからは特にそうだ。彼の中で私は友達に確定している。それは理解している。
逢坂大河にはかなわない。それも理解している。二人が互いを想い合う気持ちの強さは
普通じゃない。

 それに比べれば自分が彼を想う気持ちは随分と中途半端な気がする。芸能界に身を置きながら
高須竜児と恋人として付き合うというのは、あの二人の駆け落ち以上にリアリティが無い様な
気がする。だから、この恋は封印しておくのが得策だとは思う。でも、それが出来なくて、
そうしたくなくて八方ふさがりの状況だった。
 やはり、高須君に手伝ってもらわないとダメなのかもしれない。そんな事を考えていると、
いつもは聞き流しているバラードがしみた。

***

 連休明けの初日はダルいものと相場が決まっている。午前中の授業を乗り切って今は昼休み。
教室では大河、亜美、奈々子が一緒に弁当を食べていた。大河の弁当はいつも通り竜児が作った
もので、なんとなく気合いの入ったおかずのラインナップは大河の顔を綻ばせた。亜美の弁当は
コンビニで買ったサンドイッチ。奈々子の弁当は自分で作ったものだった。

「奈々子、麻耶は?」亜美が聞いた。
 奈々子は「特進」とだけ応えた。
 それを聞いて大河の眉毛が少しだけ動く。
「ふぅん。気になる? タイガー」亜美は冷やかす様な口調で言った。
「…」大河はジトっと亜美を見て、視線で興味無しの意思表示。
「タイガーもあっちで食べたら。高須君だって喜ぶでしょ」と、奈々子。
「ケンカでもした?」得意の軽口で亜美が茶化す。
「してないわよ。昨日だって…デートしたもん」
 二日前に大橋に戻ってきて、昨日は二人で映画を観に行った。
「ケッ」
「じゃあ、どうして?」
「自粛してんのよ。あたし達は。学校では自重することにしてんの」
 大河は面倒くさそうに話した。
「なにそれ?」亜美は不思議そうな顔で大河を見て、奈々子は小さく頷いた。
「食べてからでいいでしょ。面白い話しじゃないし」
 そう言って、卵焼きに箸を突き立てて口に放り込んだ。ほんのりとした甘さと出汁の
うまみが口に広がってちょっと幸せな気分になる。
「あんた、ホントに美味そうに食べるね」
「いいでしょ。美味しいんだから」
 大河は箸を持ったまま腕を組んで、フン、とそっぽを向いた。
 その隙をついて、奈々子の箸が大河の弁当箱から出汁巻卵をつまみ出した。
「ああっ! 何すんのよ!」と、虎は吠えたが既に手遅れ。卵焼きは奈々子の口に消えた。
 ふんわりとした焼き加減。しみ出す旨味と甘みのハーモニー。
「ど、どうよ?」
 奈々子はゆっくりと味わい尽くしてから飲み込んだ。
「おいしい。すごく、優しい感じ。まるで…」
 まるで、おかあさん。言いそうになって奈々子は口を噤んだ。
 どうしてあんな裏切り者の事を優しさの象徴として思い出すのだろう。
「まるで?」
「プロの仕業」
「あっそ。もう、盗むんじゃないわよ」
 得意げに大河はそう言って、立田揚げに箸を突き刺して口に運んだ。
「そんなに美味いの?」亜美は奈々子に聞いた。
「ふふ、ホントに美味しいわよ。ほとんど反則」
 立田揚げを頬張って幸せを満喫している大河を見ながら、二人は同時に『餌付け』という
言葉を思い浮かべていた。実際、大河の頭の中は『サクサク、じゅわ〜』だけだった。

 食事が終わり、休み時間もあと僅か。気怠い一時。
「で、あんた達、なんで自粛なんてしてんのよ」
 大河は一瞬きょとんとして、それから、面倒くさそうに、
「ああ、そのこと。だったら、秘密」と言った。
「はぁ?」
「言いたくない。だから秘密」
「ふん、まあ、いいわ。話す気になったらいつでも聞いてあげるから」
「そりゃ、助かるわ」
 大河は目を逸らして外を見た。
「もう時間だね。解散、解散」
 亜美は奈々子を連れて大河の席から離れていった。

***

 翌日、二時限目の授業を終えた亜美は大好きな自販機の隙間に収まっていた。三年生に
なっても、やっぱりそこは亜美のお気に入りの場所だった。
「おぅ、川嶋」と、声をかけられ顔を上げると高須竜児がそこにいた。
「げっ。なんであんたがいるのよ」
「別に茶を買うぐらい好きにさせろよ」
「昼休み以外はダメなんじゃないの。優等生の高須君」
「ふん、どこの世界の皮肉だよ」
「そんなつもりはちっともねーんだけど」
「そうかい、そうかい」
 廊下の方をチラッと見た亜美は数人の女子が竜児と亜美の様子を見ながら何かを話している
ことに気がついた。竜児はそんな視線には構わず自動販売機に小銭を入れてペットボトル入りの
緑茶を買った。
「ねぇ。高須君」
「なんだ?」
「あんたも気付いてるんでしょ? バカバカしいうわさ話」
「ん? あれか、俺とお前が付き合ってるってやつか?」
「そう、それ…」
 それは四月の中旬にどこからか湧いて出て来た噂話だった。確かにこんな風に亜美と親しく
会話できる男子は北村祐作と高須竜児の二人だけだった。亜美に憧れる男子は山ほどいたが、
有名女優の娘にして女子高生モデルの超絶美人に話しかける度胸を持ち合わせている男子生徒は
殆どいなかった。 
「なんでも俺は大河と川嶋に二股かけてるらしいからな」
「旦那は余裕ですなぁ」
 噂話の筋書きでは、逢坂大河が不在の間に川嶋亜美と高須竜児は実は出来ていたのだが、
そこに大河が復学して三角関係ということらしい。確かに、大河が姿を消していた時期、
竜児と亜美は随分といろんな話しをしていたのは事実なのだが。
「俺はいいんだけどよ、変な噂されるの慣れてるし。けど、川嶋には迷惑だろうし、大河がな」
「あんた達がもっとバカップル感を出せばいいんじゃねぇの」
「お前なぁ」
「あ、そうだ。タイガーが自粛してるとか妙な事言ってたけど関係あんの?」
 竜児は頬に手を当てて目を伏せた。
「あのよ、その事は大河には聞かないでおいてくれねぇか」
「かえって気になるっての。でも、まあ、いいわ…」
 亜美はそう言って軽く溜息をついた。
「それによ、また面倒な感じだぜ」
 竜児が廊下の方に視線を送ると、数人の生徒が一斉に目を逸らした。
「だね。いっとくれ」
「あいよ」竜児はペットボトルを片手にぶら下げて教室に向かった。
 あいつらはきっと面白い方へ面白い方へと解釈するんだろうな、と亜美は思った。とにかく、
何かがあって高須竜児と逢坂大河は校内で目立つ事を避けているという事だけは間違いない。
そうしなければならない原因は大河にとって面白いことでは無い。それも分った。

***

 大橋の全ての人々に愛されて絶賛営業中の須藤バックスに、今日も三人組の姿があった。
「まるおと高須君の話って聞いててもなんのことかさっぱり分んない時があるんだよね」
「そりゃ麻耶とまるおじゃ頭の出来がちがうもの」
 奈々子はバッサリと一刀両断。
「ひっど〜い」
「で、何を話してるわけよ。祐作と高須君は」
 一応、亜美は聞いてみることにした。
「勉強の事とか、あと、たまに進路のこととか」
「ふっつーだねぇ」
「あとは生徒会の事とか」
「普通ね」
「もうちょっとなんとかなんないわけ?」亜美は少し呆れ気味。
「そりゃなんとかしたいけどさー。話題が無いんだもん。亜美ちゃんと奈々子も一緒に来て
くれればさ、きっと盛り上がれると思うんだよね」
 麻耶の北村攻略はすっかり頓挫気味だった。クラスが別だと本当に共通の話題がないのだ。
「パス」亜美はあっさりと。
「いいわよ。付き合っても。タイガーも連れて行こうかしら」
「やった。さすが奈々子」
「タイガーは行かないと思うけどね」
「自粛してるから?」
「自粛って何?」
 麻耶は不思議そうに奈々子を見た。奈々子は昼休みの出来事をかいつまんで麻耶に説明した。
「へぇ〜。そんな事言ってるんだ」
「なんか思い当たる事ない?」亜美は麻耶に聞いてみた。期待はしていない。
「…関係あるのかな」麻耶がぼそっと呟いた。
「え? 何か知ってるの?」
「あのね、言っていいのかな…新学期が始まってすぐだったかな、高須君とタイガーが
説教部屋から揃って出てくるところを見ちゃったんだけど」
「すごい偶然ね」
「え、実は偶然じゃ無くて、私も学年担任に呼び出されちゃったの。成績がどうとか生活態度が
どうしたとか化粧がどうとか、もうウザイったらなかった」
「へぇ、そんな事があったんだ」
「で、二人は?」
「そう、高須君はまあ神妙な顔つきっていうか、まあ、いつも通りのヤンキーフェイスだった
けどタイガーがね、泣いてた。そんで高須君に何回も謝ってた」
「高須君が生活指導ってのがピンと来ないんだけど…」
 奈々子が不思議そうに言った。確かにエスケープ事件なんてのも有ったけれど、とっくに
ケジメはついている。
「そうだよね。考えてみればそうだよね。成績も凄く良いし、真面目だし」
「生活指導に二人まとめて呼ぶのっておかしくね?」
 亜美はブツブツと何かを呟いていた。二人一緒、高須君に謝る大河、生活指導…

「高須君、先生達に目を付けられてるのかもしれない」
「どういうこと?」
「思い出してみなよ。大河が狩野先輩に殴り込みをかけた時も、大河が遭難したときも、
そこには高須君がいたんだ。元々、あの見た目のせいで教師からもちゃんと見てもらえて
なかったからね。トドメは集団エスケープ事件だね。ゆりちゃんのお陰で停学には
ならなかったけど」
「でも、高須君が間違ってたとは思えないけど」
「奈々子、大人ってのはね、そういう見方はしないのよ。タイガーや高須君がこの学校に
いること自体が迷惑だって思ってる奴がいるんじゃないの。職員室には」
「そうかもしれない」
「それだけじゃないかも…」
「麻耶?」
「この前、お母さんが特進クラスに不良がいるらしいわねって聞いて来た。そんな人いない
から何かの間違いじゃないのって言ったんだけど」
「あーイヤだ。でも、それが高須君って可能性は高いね」
 亜美は吐き捨てるみたいに言った。
「どうして、そっとしておいてあげられないのかしら」
 奈々子は哀しげに呟いた。
「まあ、自粛するのは正解だろうね」
 そう言って亜美は氷が溶けて少し薄くなったアイスラテを口にしながら、ケジメを付けるには
丁度いいタイミングなのかも知れない、そんな事を考えていた。

***

 そして土曜日。授業が終わり、ホームルームも終わって竜児は帰り支度をしていた。
大河と待ち合わせるために竜児が教室を出るのはいつも少し遅めだった。同級生たちが
慌ただしく教室を出て行くのを尻目に、竜児は悠然と構えてのんびりと帰り支度をするのが
習慣になっていた。そうして少し時間を置いてからちょっとだけ閑散とした玄関で大河と
待ち合わせて一緒に帰るのだ。
 いつも通り竜児がのんびりとバッグに教科書やらノートを詰め込んでいると、教室に
数人だけ残っていた同級生がざわつきだした。
「高須君、お客さん」
 同級生に声をかけられて、そっちの方に顔を向けると教室の入り口に川嶋亜美が立っていて、
にこやかに手を振っていた。
 あいつ、何考えてんだ? そう思いつつ、バッグに荷物を詰め込んで机のフックに引っ掛けて
から、竜児は亜美の待つ出入口に向かった。
「なんだよ? 川嶋」
「ちょっと話しがあるんだよね。付き合ってくんない」
 ノーとは言わせないわよ、といった表情で亜美は竜児を見た。
「あんまり時間はねぇぞ」
「すぐ終わるわよ。きっと。いいから、こっち来て」
 亜美は竜児の手首を掴んで教室から引っぱりだした。二人は階段を下りて一階へ、亜美は
強引に竜児を引っ張り上履きのまま外へ出た。そして竜児が連れてこられたのは一年前に
大河が北村に告白した、あの場所だった。つまり、来客用トイレの外の微妙な空間だ。
 竜児はまさかここに連れてこられるとは予想していなかった。確かにここは人はいない。
いないけれど、二階から上の男子トイレに声は筒抜けなのだ。さらに靴は上履きのままで、
無理矢理とはいえ竜児的には気まずいことといったらこの上ない。

 亜美は竜児の手首を離して竜児の正面に立った。
「なんだよ。話しって」
 亜美は目を伏せた。
「あのさ、あんたに頼みたいことがあんのよ」
「おぅ、なんだ」
「コクるから…」
「へ?」竜児はひどく間の抜けた声を出した。
「ふって…」
「は?」
 竜児は口を半開きにして亜美を見ていた。
 亜美はそんな竜児の顔を見た。
「あんた、あたしが何を言ったか把握できてる?」
「んーとだな。一応、把握出来ているから理解出来ないんだと思うんだが」
「じゃあ、三十秒だけ待ってあげるから理解して」
「はぁ? お前、いきなり何言ってるんだよ」
「こっちはマジなんだから。逃げないでよ」
 竜児の目を刺す様に見据えた眼差しは本当にマジだった。
「わかったよ。逃げたりしねぇよ」
 言った時には竜児の胸は傷み始めていた。なんとなく、うっすらとは気付いていたのだ。
亜美の気持ちには。でもそれが本気だと思う程、竜児は自惚れている筈もなく、むしろ本気で
あって欲しくないと思っていたのだ。もし、そうだったら、竜児は亜美を傷つけなければ
ならないから。

 そう、それでいいんだよ。そんな表情で亜美は竜児を見た。目を伏せ、ふっと息を吐く。
 スッと肩が下がり顔を上げて竜児を見据えた。
「高須君。あなたの事が好き。本当に」

 頬を微かに染めて亜美は言葉の一つ一つの音に思いを込める様に言った。少し風が吹いて
奇麗なストレートヘアがひらひらと踊った。均整の取れた奇麗な顔に埋め込まれた潤んだ
大きな瞳が竜児を捉えていた。どこか演技っぽい仕草を全て捨て去って、完璧に自然な
川嶋亜美がそこに居た。
「川嶋…。俺は…」
 竜児は一瞬だけ考えて言葉を選んだ。
「俺はお前とは付き合えない。大河を愛してるから、俺はあいつが大好きだから」
 竜児は目を伏せた。
「すまない」
「ふふ、ありがと」
 亜美はやさしく微笑んだ。目尻に涙が浮かんでいた。
 ああ、本当にふられたんだな、そう思った。胸が苦しかった。痛かった。それで、本当に
分った。川嶋亜美は高須竜児が好きだった。亜美が考えていた以上に亜美は竜児が好きだった。
彼にキチンとふってもらって、微笑みながら『ありがとう』、そう言って終わる筈だった。
なのに…
 なのに、溢れ出した涙が止まらない。最初から分っていたのに、実らない恋だと分っていて、
ただ自分を納得させるためだけに告白した筈なのに。転ぶと分っていて転んだのに、
転べばやっぱり痛かった。

「はは、涙、止まんないよ。なんでだろ」
「そういうもんなんだよ」竜児は静かに言った。
「そっか。こういうもんなんだ」
「泣くしかねぇんだよ。ったく、無茶な奴だな」
「そうだね…」
「なあ、川嶋」
「なに?」
「俺は、お前とは良い友達でいられる様な気がする。ずっと…」
 竜児は残酷だなと思いながら、でも、それは言いたかった。
「なにそれ。慰めてんの」
「そんなんじゃねぇよ。本当にそう思ってる」
「そう…。そうかもね。それが私たちの適切な関係なのかもね」
「そう思うよ」
 亜美はスンと軽く鼻を啜った。
「ねえ、泣いてる友達に、泣く場所を提供するのは友達としてアリ? ナシ?」
 それが中途半端と言われれば返す言葉も無いけれど、でも竜児は亜美をこのままになんか
しておけなかった。
「……ギリギリで有り」
「お人好しなんだから。そんなんだから、好きになっちゃうのよ」
 亜美は竜児の肩に額をくっ付けて、でも身体は付けない様にして、自分のつま先と竜児の
つま先の間に落ちた涙の雫が染みを作っていく様子を眺めていた。奥歯を噛み締めても
漏れだす嗚咽は止められなかった。竜児は亜美の身体には触れず、両手はただだらんと
垂らしたままで、そこに生えている木の様に突っ立っていた。

***

 一部始終を建物の影から見ていた奈々子は胸を撫で下ろしていた。奈々子が想像していた
より竜児の気持ちは強かった。亜美が本気になれば、高須君だって少しぐらいは心が揺れて
しまうかも、と奈々子は思っていたから、状況によっては飛び出していって亜美の告白を
妨害するぐらいのつもりでいた。結局、奈々子の出る幕は無く、亜美は失恋して大河の幸せは
守られた。あとは、適当なタイミングで二人に出くわしたフリでもして亜美を慰めながら帰れば
ミッション完了。そうなる筈だった。

「あれ?」 
 遠くで声が聞こえた。

「まさか?」
 近づいてくるのは確かに彼女の声だった。

「りゅうじぃぃ! どこ!」
 土煙を上げる様な勢いで校舎から飛び出して来たのはやっぱり大河だった。
「竜児! 無事なの?」
「え?」竜児は間の抜けた声を上げる事しか出来なかった。
 無事かと言われれば無事なのだろうが、なぜ大河がそんな事を言っているのか分らない。
それはともかく、この状況はちょっと不味い。この後、無事じゃなくなるような、そんな気配。
「ど、ど、ど、どういうこと?」
 大河は竜児の肩に額を預けて泣いている亜美の姿に気付き、キョトンとした表情が魔人の
ごとき怒りの表情に変わっていく。
「りゅうじぃぃ! あんた、一体なぁにやってるのよぉ」
「な、大河。ちょっと…」竜児は大河が何か根本的に間違っていることに気づき、
「タ、タイガー…」亜美は顔を上げて驚き、
「まって! タイガー」奈々子は思わず校舎の影から飛び出した。

 鬼の形相で大河は一直線に竜児に突進した。そしてジャンプ。必殺の飛び蹴りが竜児の
脇腹にめり込んで……。亜美も奈々子もそんな展開を予想したのだ。
 でも、竜児に近づくにつれて大河の速度は遅くなり、小走りになり、とぼとぼと歩く様な
速度になって、残り二メートル程のところでぱったりと足が止まってしまった。目から
ポロポロと大粒の涙をこぼしながら大河は立ち尽くしていた。
「りゅーじ…なんで? どうして? どーなってんの? わけわかんない」
「行ってやんなよ」
 亜美は涙を浮かべたままで微笑んだ。
「言われなくても」
 竜児はすっと大河に歩み寄り、うつむく彼女の前に立った。
「誤解だよ」
 大河は顔を上げて竜児を睨みつけた。
「ウソ!」
「ウソじゃねぇよ」
 竜児は左手を大河の頭に乗せて撫でた。
「今、川嶋と友達になったところだ」
「へ? 友達?」
「おぅ。友達だ」
「なんで? 今更?」
 大河は本当に不思議そうに竜児を見た。
「高須君の言ってる事、本当だから」
「ばかちー」
 そう呼ばれるのは久しぶりだな、と亜美は思った。
「あたし、高須君に振られたから」
「え?」
「コクって振られたから。大河が好きだから付き合えないって、はっきり言われたから」
「そう、なの?」大河は竜児を見上げた。
「ああ、そうだよ」
 竜児は優しい口調で言った。眼差しは優しかった。大河にはそう見えた。
「けどよ、川嶋とは友達でいたいんだよ。俺は」
「竜児…」
「それは、いいだろ?」
「…なら、いい」
 カクッと大河の膝から力が抜けて崩れそうになった。竜児はとっさに片膝をついて大河を
抱きかかえた。
「おい、大丈夫か!」
「ごめん、なんか、ホッとしたら腰抜けた」
「心配させるなよ」
「あたしの方が百万倍は心配したわよ」
「すまねぇ」
「いいわよ。結局、あたしの早とちりだったんだし。ホント、相変わらずドジだわ」
「大河、立てるか?」
「はは、まだ膝がガクガクしてる。思ったよりも効いてますよ。これは」
 おどけて話す声も小さな肩も震えていた。
「保健室。すぐそこだし。貧血とでも言っとけば休ませてくれるでしょ」
 亜美が言った。
「そうだな。大河、首に掴まれ」
「え? あ!」
 竜児は大河を抱きかかえてゆっくりと立ち上がった。大河は竜児の首に腕をまわして
掴まった。お姫様だっこされて大河の顔はすっかり赤くなっていた。
「あたしも行く。あんた達だけじゃあらぬ誤解を招きそうだからね」
 亜美は泣き腫らしたままの目で微笑んだ。
「おぅ。助かる」
「で、奈々子はここでなにしてんの?」
 亜美の問いに奈々子は曖昧に引きつった様な笑みを浮かべる事しか出来なかった。


***

 保健室の窓側のベッドで大河は横になっていた。ベッド脇の椅子には亜美が腰掛けていて、
竜児と奈々子は鞄を取りに教室に戻っていた。一応、貧血ということになっていた大河は
形式的な問診を受けさせられ、検温されたりしたのだが、健康上の問題が有ろう筈もなく、
養護教諭のしばらく休んでから帰りなさいという言葉に甘えてベッドの上で休憩中だった。
その養護教諭も今は職員室で雑務中、保健室にいるのは大河と亜美だけだった。

「ばかちー」大河は天井を向いたまま亜美を呼んだ。やっぱりバカだから『ばかちー』だ。
「ん?」亜美は外を見たまま応えた。やっぱり『ばかちー』の方が馴染む。
「なんで、あんな事したの?」
「好きだったから」
「そう…」
 亜美は外の風景を眺めながら静かに話し始めた。
「高須君はさ、私の中身を知ろうとしてくれてた。それが嬉しかったのかもね。こいつと
一緒にいられたら素敵だなって思うようになってさ、でも、あたしが高須君を好きって気持ちは
全然中途半端でね…」
 大河は黙って天井を見ている。
「…彼にはあたしなんかより大事な女の子が他にいてさ、その娘は彼のことがメチャクチャ
好きで、きっと二人でならどんな事でも乗り切っちゃえるんだろうなって。あたしはその娘の
事も結構好きなんだ。口喧嘩ばっかりしてるけどね」
「へぇ」
「だから彼の事を好きって気持ちを消そうと思ったんだよね。どうせふられるって分かってたし。
ふふ、なんだかどっかで聞いた様な話だね」
「初耳だわ」
「フン。でもね、あたしは我侭だから、あたしもあんたの事が好きだったんですよーって事を
高須君に知ってて欲しかったのよ。そんでスパッとふられて、ちゃんと友達になれたらいい
なって思ったのよ」
「もともと友達でしょ」大河はボソボソと言った。
「ケジメの問題よ」
「めんどくさ」
「でもね、もう、あっけないぐらいあっさりふられたわよ。秒殺あるいは瞬殺よ。亜美ちゃん、
こ〜んなにカワイイのに。失礼な奴よね。せめて一分ぐらいは悩めっつーの」
「そう…」
「そしたらね。予定通りだったのにね、予想通りだったのに、どうにも泣けてきちゃったのよ。
自分があんなふうになるとは思わなかった。もう、どうにも身動き取れなくて、そんで泣く
場所を借りたのよ。ロマンチックでしょ」
「まったく、貸す方も貸す方だわ」ブツブツと言った。
「あそこで見捨てて帰るような奴だったら最初っから要らねーって」
「そりゃ…そうだけどさ」
「で、そこにあんたがすっ飛んで来て、あとはもう…」
「わるかったわね」

 カラカラと引き戸が開いた。
 竜児と奈々子はそれぞれ二人分の鞄を持って戻って来た。竜児は鞄を床に置いて、大河が
横になっているベッドの脇に立った。
「大河、具合は?」
「うん、落ち着いた。もう大丈夫」
 そう言って大河は身体を起こした。
「その…、悪かったな」
「ううん、竜児のせいじゃないもの。悪いのは全面的にばかちー」
 大河は亜美を一瞥。
「あたしだって別にあんなみっとも無いところを見せるつもりなんてなかったのよ。あそこに
あんたが来たのは予定外」
「だって、竜児がボコボコにされるって聞いたから、もう、あたし真っ白になっちゃって
飛んでったのよ」
「俺がボコボコ? なんだそれ?」
「だってさ、竜児がなかなか来ないからさ、あたし探したのよ。そしたら能登と春田が竜児が
ボコボコにされるって言ってて、そんで、あたしは二人に『どこじゃ〜』って聞いたら場所を
教えてくれて…」
「なんだ、そりゃ」竜児は首を傾げた。
「あ〜っ!」亜美が声を上げた。
「それ、男子トイレの近くじゃね?」
「そう言えば、そうだったかも」
「はは、あはははは」突然、亜美は声を上げて笑い出した。
「チョー、おかしー。ぜってー笑える」
「な、なにがおかしいのよ?」
「だってさ、考えてみなよ。あの状況に出くわして高須君をボコボコにしそうなのは誰か」
「へ?」大河には分らない。
「あ!」竜児には分った。
「なるほどね」奈々子にも分った。
 三人の視線が大河に集中。
「あ、あたしっ?」
「正解よ!」
「そりゃ、能登も春田もビビったろうな」
「タイガーに見られたら高須君ボコボコにされるって言ってるところにタイガーだもんね」
「しかもさぁ」
「どこじゃ〜、って」
 大河の顔は赤く染まって耳の先まで真っ赤だった。
「はぁ〜もう、恥ずかしいからやめておくれよ」
 竜児は大河の頭にぽんと右手を乗せてくしゃくしゃと撫でた。
「ありがとよ。助けに来てくれたんだな」
「そうよ。もう、ほんっとに真剣だったんだから」
 口を少し尖らせながら大河は竜児を見上げた。 
「ただの早とちりでホントによかったわよ」
 優しい表情で見つめ合う二人を、亜美と奈々子は同じ様に優しい目で見ていた。

*** 

 竜児の手の中でくるくるとシャープペンが回っている。宿題を終わらせた後、予習に手を
つけたのだが、これが一向に捗らない。宿題と違って予習には明確なノルマというものが
無いからやる気というものが必要なのだが、今の竜児の脳みそを支配しているのはそういう
勉学へのモチベーションなどではなく悶々とした感情と葛藤だった。

 原因はシンプルだ。倒れかけた大河を抱きかかえた時のことを不意に思い出したのだ。
彼女を抱きかかえてベッドに運ぶという行為は否応無くセックスを連想させるものだったし、
そのとき両腕に感じた質量や、抱えた身体から伝わる熱にたまらない愛おしさを感じたのも
事実だった。そして感じた愛おしさは竜児の性的な衝動を燻らせていた。

 気持ちは半々だった。
 彼女と一線を越えてしまいたい。越えてしまえと思うこともある。より低レベルな欲望も
健在だけれど、それよりもうちょっと気持ち的なところで、もっと彼女と強く繋がるために
必要なコトだとも思う。
 ただ、やはりどこか恐ろしいのだ。
 泰子が自分を身篭ったのはどう考えたって事故みたいなものだったろう。泰子が自分を
愛してくれていることは疑う必要のない真実だけれど、勢い任せのデタラメなセックスが
彼女と彼女の両親の人生に多大な影響を与えたことは間違いなく、ゆえに竜児は自分が適切な
手順さえしっかり踏めば、まず大丈夫だと分かっていても、やっぱり大河を抱くのは怖かった。
もし、彼女を妊娠させてしまったら、そのときは出来る限りのことは勿論、無理だって
無茶だってするつもりだし、逃げ出したりするつもりだって更々無いけれど、でも、
今の自分に大したことが出来無い事も分かっている。そうなったときの代償の大きさは自分で
散々見てきたのだ。それでも、竜児は大河を抱きたかった。もっと、強く繋がってみたかった。
でも……。

 そんな思考の無限ループを何回繰り返したのだろう。保留にしては蒸し返し、そんなことに
何時間も、いや何十時間も費やしているような気がした。そんな竜児のループ思考を強制中断
させたのは携帯電話の着信音だった。
「たいが?」
 おやすみコールの時間にしては早かった。まだ、十時半だ。もう寝るのかよ。まあ、今日は
色々あったからな、などと考えつつ竜児は着信ボタンを押した。
「俺だけど」
「あ、竜児。あのさ、今から行ってもいいかな。ていうか、下まで来ちゃってるんだけど」
「へ?」
「だめ?」
「あ、いや、かまわねぇけど」
 竜児が部屋を出ると外階段を駆け上がってくる音が聞こえた。玄関の鍵を開けてゆっくりと
扉を開けると、そこにはちょっとだけ申し訳なさそうな表情をした大河が立っていた。
「ごめん、来ちゃった」
「まあ、いいから入れよ」
「うん」
 大河は靴を脱いで上がると居間のいつもの場所に座った。
「何か飲むか?」
「いい」
「そうか」
 竜児もいつもの場所に座った。
 大河はなにか思い詰めている様な感じでずっと黙りこくっていた。二分間程も続いた
沈黙に堪えられなくなった竜児が、「どうしたんだよ?」と聞くと、体育座りをしたふわふわ
コットンの大河はぽつりぽつりと話し始めた。

「あたし達さ、去年、ずっと一緒に居たじゃない」
「おぅ」
「夜遅くまで二人っきりで居たじゃない」
「そうだな」
 いい若いモンが恥じらいもなくゴロゴロと一緒に過ごしていたなぁ、と竜児はその頃の
様子を思い出す。
「竜児はあたしのこと、ちゃんと女として見てくれてるんだよね?」
「あたりめぇだろ。でなきゃ、…嫁に来いなんて、言わねぇよ」
 大河の口元が小さく微笑んだ。
「…じゃあさ、あんた抱きたい? あたしのこと」
 竜児は眼をそらして頬を掻く。あまりにもタイムリーだった。
「だ、抱くって、なんだよ?」
「わかるでしょ、その、あれよ、えええ、えっちよ。なに言わせてんのよ!」
 真っ赤な顔をした大河がべったりとまとわりつく様な視線で竜児を睨んだ。
「そりゃあよ…」
「うん」
「…してぇよ」
 答えた竜児も耳まで赤い。
 俯いた二人に沈黙がおとずれて、それが続く事約五十秒。
「よかった…てっきり女としての、その、魅力がさ、無いのかなって」
「んなわけねぇだろ」
「あんまりキスもしてくれないしさ」
 竜児は自分の頬に右手を当てて眼を伏せた。
「俺は怖かったんだ。ブレーキがかけられなくなるっていうか、見境がなくなるっていうか、
それでお前を傷つけたくないし。それに、お前に泰子みたいな苦労はさせたくないし…」
「でも、ちゃんと、その、なに、あれよ、ナニはちゃんとしてくれるんでしょ」
「あ、あたりまえだろ」
 大河は膝の上に顎を乗せて、まるで子ネコのように小さくまるくなって話す。
「あのさ、あたし、不安なんだ。今すぐじゃなくてもいいんだけどね。ちゃんと、竜児の
彼女になりたいのよ」
「今だってちゃんと彼女じゃねぇか」
「そうなんだけどね、もっとね…」
「そりゃ、俺もそう思うけどよ…」
「待ってるから。でも、早くしてくれないと待ちきれなくなって襲うかも…」
 大河は天使の様に微笑みながら悪魔みたいなことを言った。
「う、なんか、リアルだな」
 竜児は自分が大河を襲うより、大河に襲われる事の方がよっぽどリアルに思えてしまう
ことが情けなかった。彼女を組み敷いている自分よりも彼女に跨られている自分の方が
想像しやすい。情けない事に。

「でもさ、あたしドジだからとんでもない事になるかもね」
 確かに大河はドジだ。筋金入りだ。今日もそうだった。
「そうかもな」
「じゃ、じゃあ、あんたがちゃんとしてよね」
「お、おぅ」
「あたしだって、こわいんだから」
 入っていくより受け入れる方が何倍も怖いだろう。
「こんなカラダだし。見たら引くかも…」
 段々声が小さくなり、最後にちいさく『ハァ』と溜息。
「ばぁか」
 竜児は大河の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「大河、見てもらいたい物があるんだ。ちょっと待ってろ」
 竜児は自分の部屋に行き、すぐに居間に戻って来た。手には百二十パーセント事務的な
茶封筒。その中に入っていた薄紫色の便箋を取り出して大河に渡した。
 大河は便箋を受け取って折り畳まれていたそれを開いた。大河の眼が便箋の上を
三往復程したところで動きが止まり、手入れの行き届いていないロボットみたいな動きで
カクカクと顔を上げて竜児を見た。さっきまで苺ミルク色だった顔はトマトみたいに赤く
なって、頭から湯気が上がっているのが見えるみたいだった。『ぽぉお〜』という効果音が
ばっちりハマる程だった。
「竜児、これって?」
「泰子だよ。母さんが書いてよこした」
「りゅ、りゅーちゃん、あんど、たいがちゃん、あ、あいのせいやくしょ…」
「いや、朗読しなくていい。恥ずかしいから黙読で頼む」

 薄紫色の紙にまるっこいヘタ文字で書かれていたのはこんな文面だ。
『竜ちゃん&大河ちゃん 愛の誓約書 byやっちゃん
 えっちしてもいいけど、ちゃんと約束守ってね。
 ・ちゃんとコンドームを使うこと。女の子に安全日はないんだよ!!!!
 ・大河ちゃんがしたくないときは絶対にしないこと!
 ・大河ちゃんがいやがることをしないこと! させないこと!
 ・生理中はだめ!
 ・竜ちゃんのお部屋か大河ちゃんのお部屋で(応談)
 ・竜ちゃんは朝まで大河ちゃんといっしょにいてあげること(基本よ)
 ・するときは朝までにやっちゃんに連絡(帰る時間を遅らせてあげるからね)
 ・何かあったらやっちゃんにすぐに連絡すること
 ・LOVE & ピース
 そんなとこかな(はあと)
 ↓ここに署名』



 竜児がこの怪文書を泰子から受け取ったのはゴールデンウィークの最初の休日の朝だった。
竜児も大河と同じように脳天から湯気を吹き上げながら、しかし泰子の真剣な表情に
『そりゃあ、泰子にしても気が気じゃないだろう』と思い、一つずつ丁寧に説明する泰子の
言葉を仔細漏らさず拝聴したのだった。全ての項目(LOVE & ピースは除く)を説明した後、
泰子は「やっちゃんからのプレゼント」と言ってコンドーム一箱を取り出した。外装フィルムを
剥がして、箱の中から個包装されたラテックス製のブツを取り出し、使い古しの化粧品か
なにかのボトルを餌食に、正しい装着方法と使用上の注意を説明した。そして、最後の
トドメに『大河ちゃんには竜ちゃんから説明してね』と、のたまった。

「それ、お前の母さんも知ってるんだと。大河ちゃんのママも分かってくれてるからね〜、
だそうだ」
「え、え?どぇぇ?」足をばたつかせ畳の上を転がり回る大河を見ながら、竜児は、まあ、
そりゃそうだろうと思っていた。自分だって泰子から聞かされた時は似た様なものだった。 
「いいか、大河。俺はお前にきっちり説明するよう泰子から言われてる」
 大河はふるふると小さく震えながらコクリと頷いた。
 幾分偉そうに話し始めた竜児も首から上は真っ赤になっていた。恥ずかしい事この上ないが
泰子からの大マジなメッセージなのだ。役者不足も甚だしいんじゃ無いかと自問しつつ、
『俺がやらねば誰がやる』と無理矢理にテンションを上げて竜児は話し始めた。
「ま、まずはヒ、ヒ、ヒニンについてだ・・・」
 もともと、過剰の上に超が三つ付くくらいの潔癖性。多少、マシにはなってきているが平然と
好きな娘の前で『こんどーむ』などと発声できるはずもなく、つっかかったり、声を裏返したり
しながらやっとの思いで十五分程かけて任務を完了した。
 その後、便箋の下の方の余白に二人で署名した。そうするように泰子に言われていたのだ。
いかにも几帳面に丁寧に書かれた竜児の名前の隣に、少しを丸みを帯びた丁寧な文字で大河の
名前が書き込まれた。
 大河は「婚姻届みたい、だよね」と小さく呟いて竜児に向かって微笑んだ。
 その微笑みに竜児は背中を軽く叩くみたいに優しく押されたような気がした。

***

 竜児と大河は家を出て鍵をかけた。外階段を下りていくとボサボサ頭の小柄な人影が
近づいてきた。今日もお好み焼き・弁財天国は盛況だったようだ。
「あれ〜、竜ちゃん、大河ちゃんどうしたの」
「ああ、大河を送ってくところ。すぐ戻るからよ」
「そう、遅いから気をつけてね」
「おぅ」
「あ、そうだ。竜ちゃん、ちょっと待って」
 泰子はハンドバッグの中をごそごそと探り、小さい紙袋を取り出した。
「サイズ直し出来たから。大河ちゃんに渡してね」
 そう言って竜児に小さい紙袋を渡した。竜児は袋から取り出した指輪を左の掌に載せた。
「泰子がサイズを直してくれたんだ。ちょっと填めてみろよ」
「本当!?」
 大河は竜児の掌を眺めた。
「えーと、俺が填めてやったほうがいいのか?」
「いい、自分でつける」
 大河は竜児の掌から指輪を取って恥ずかしそうに薬指に填めた。
「ぴったり」
 そう言って、その場でくるっと身を翻して月に背をむけると、小さな水色の石が月明かりで
一番輝く角度を探して広げた左手をゆっくりと動かした。大河はそれが美しく光るアングルを
探し当て、本当に嬉しそうに目を細めて指輪を眺めていた。
 大河があまりに嬉しそうにするものだから竜児はちょっと申し訳ない気分になった。
「ばあちゃんのだってよ。値段も付かない安物だけど、そんなんでいいのかよ?」
「いいの! だって、こんなに綺麗だもの」
 そう言って、振り返った大河の笑顔は月明かりに照らされて白く輝いていた。

(つづく)

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