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380 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/05/19(水) 08:29:17 ID:muPNFQMm






カバンを放り投げると数秒空けて何かが割れる音がした。
力任せに投げつけたから、どこに飛んでいったのか見当がつかない。
何にぶつかったのかも、何を壊したのかも、見る気もしないからわからない。
そもそも、私はさっきまで竜児の家に居たはずなのに、いつの間にか自分の家の玄関に立っていた。
一体いつ、どうやって。
「どうでもいいわよ、そんなこと……」
呟いたその声はひどく掠れていて、私にしか聞こえなかった。
もういい。
そんなこと考えてたって、なんの意味もないし、もうなにもする気が起きない。
もうなにもしたくない。
靴を脱ごうと、今まで寄りかかっていたドアから背を離すと、チャリ、というドアに備え付けられている鎖が擦れる、小さな音が聞こえた。
振り返ると、キィ…キィ…と、小さく耳障りな金属音を立てながら、今にも動きの止まりそうな鎖が、振り子のように揺れているのが見えただけ。
自分が動いたせいで鎖が揺すられて、それで鳴った音だっていうのなんて考えなくてもわかる。
それ以外に、この鎖が揺れるような理由が、「今」は、思い当たらないから。
私以外にこの家に来る人間なんて一人しかいない。
けど、そいつが来る、わけが、ない。
だって、来た時はまずインターフォンを鳴らすだろうし、合鍵だって渡してあるんだから勝手に入ってくるはず。
今までだってそうだったから、間違いない。
だから、鎖が鳴っていたのは私のせいに違いない。
でも、ひょっとしたら。
もしかしたら、このドアのすぐ向こうに。
「まって」
誰かが勝手に掛けていた鍵とチェーンが煩わしい。
誰よ、人ん家でこんなもん勝手に掛けてくなんて。
早くしなきゃ、置いてかれちゃうじゃない。
せっかく今日は私から行ってあげて、なのに、あのバカ今日に限って寝坊なんかして、呼んでも出てこなくて。
まったくもう、だらしないわね。しょうがないんだから。
けど、怒んないわよ? 遅れちゃったけど、でもいつもどおりに、ちゃんと迎えに来てくれたんだもん。
ちょっとは言うこと聞いてもらうけど、そんなに難しいことじゃないから…そのくらい、いいでしょ?
……ううん、やっぱりそんなこと言ったりしない。
それだけじゃない。
もうワガママも言わないし、もういつもみたいにすぐ怒らないようにするし、もう自分のことは自分でするようにする。
もう困らせたりしないから。
もう迷惑なんてかけたりしないから。
だから、だから。

おねがいだから、そばにいてよ。

「お待たせ、竜児!」
バンッ!って、頑丈な作りのドアが壊れて外れそうなくらい、おもいきり勢いよく開けた。
「珍しいじゃない、あんたが寝坊するなんて。まあいいわ、今日は怒んないであげる。それよりもほら、ボサっとしてないで早く行こう…よ……」
てっきり、これでもかってほど目を見開いて、驚いた顔をした竜児がそこに立っていると思ったのに。
「危ねぇじゃねぇか、なに慌ててんだよ、大河」なんて、遅刻しそうだっていうのにとぼけたことを、きっと竜児は言う。
それを合図にいつもと同じ、代わり映えのしない今日が始まる。
そう予感めいたものがあったから、精一杯の笑顔を作った。
なのに。
ドアの向こうにも、廊下の先にも、階段にも、エレベーターの中にも、エントランスにも、マンションの外にも、どこにも竜児は居なかった。
探しても探しても、視界に入るところはくまなく探したのに竜児の影さえ見つけられない。
きっと居るはずなのに、居るに違いないのに、居なくちゃだめなのに、見当たらない。
そうこうする内に荒くなっていく呼吸、不規則に乱れる動悸、指先から消えていく感覚と共に震えだす手足、止まらない冷たい汗、散漫になる意識。
それらが猛烈に襲いかかってきて気分が悪くなる。
特別重い時のアレにも匹敵するほどの嘔吐感が急激に込み上げてきて、ただでさえ良くない気分を一層悪くさせる。
口元を両手で押さえて前屈みになって、押し寄せる波が引くのを待ってみたけど無駄だった。
きもちわるい。踏ん張らないと立っていられない。
だけど、ガタガタと震える足にどんなに力を入れようとしても、思ったようには入らない。
それどころか抜けていく一方で、


「あ、やぁ…竜児」
とうとう耐え切れなくなって、私のなのに私のじゃなくなってしまったように言うことを聞かない体は地面に引っ張られていくように崩れていく。
咄嗟に手を伸ばしても、伸ばした手は空を切っただけだった。
いつだって手の届く所に居たはずの竜児に、無意識に助けを求めて。
いつだって手の届く所に居たはずの竜児が、どういうわけか居てくれないから。
伸ばした手をそのままに、私は道路に大の字に倒れた。
なんで竜児が受け止めてくれないの…?
なんで竜児は助け起こしに来ないの…?
なんで竜児の声も、駆け寄ってくる音も聞こえないの…?
なんで私の傍に、竜児がいないの…?
おかしいじゃない、こんなの。
「……なんで……」
段々と暗くなる視界の隅に、いつも傍にいる竜児と、いつでも優しい     と、いっつもブサイクなブサインコが住む、あのアパートが見えて。
気がつくと、私はまた自宅の玄関に立っていた。

                    ***

玄関の中、何をするでもなくボーっとしていると、突然焼けるような痛みを感じた。
「なによ、これ」
その痛みに沿って目線を下げていくと、手から血が出ている。
もっと目線を下げれば、ゆっくりと指先から滴り落ちた血が、玄関のタイルに小さな斑点をいくつも作っていた。
よくよく見れば両手とも擦り剥けちゃってるし、割れてしまった爪まである。
手だけじゃなくて足も痛い。つま先がジンジンする。
右膝も両手同様擦り剥けて血が出ているし、左の足首なんて多分捻っている。
歩き辛くて、とても痛い。
それ以外にも制服も靴も土や埃まみれで汚れて、所々ほつれちゃってる。
そんなに大袈裟に転んだのかしら。
どうすんのよ、また困らせちゃうじゃない。
制服は洗濯するのが大変だって、前に頼んだ時に竜児がそう言っていたのを思い出す。
なのに、こんなにボロボロにして。
もう困らせたりしないって、そう決めたばっかりなのに、なにやってんのよ、いったい。
今決めたことも守れないでどうすんのよ。
悔しくて涙が出そうになる。
けど、こんなことで泣いてたら竜児に嫌われるかもしれない。
傷だらけで、みすぼらしい格好して、全然女の子っぽくない私のことなんて竜児は───あるわけない。
そんなこと、絶対ない。
心の片隅に顔をのぞかせたバカな考えを頭の中でおもいっきり否定して、必死に奥歯を噛みしめて堪えた。
涙を流すことはなかったけど、真っ赤になってるだろう顔からは、目元からじゃなくて唇の端から別の何かが流れていった。
知らない間に口の中いっぱいに溜まっていた液体の中に舌を泳がせてみれば鉄の味がした。
口の中まで切ってるみたい。
転んだせいか、奥歯を噛みしめすぎたせいかは定かじゃないけど、どっちにしろ、最低なことに変わりはない。
口腔に溢れて止まらない血の味と、鼻を抜けていく生臭さに我慢できなくなって、玄関ということもあって私は床目掛けて口を開いた。
吐き出した血が玄関のタイルを汚して、跳ね返ったそれが靴を、口元から伝う赤い色をした唾液が制服に嫌な色の染みを作る。
余計に汚してしまったことと、そんな自分にうんざりしながら制服をはたいていると、またしても鎖の擦れる音が聞こえた。
振り返ると、当たり前だけどドアがあるだけ。
さっきみたいに鍵もチェーンもしっかり掛かっている、まるで私を閉じ込めているようなドア。
「……まただ」
だから誰よ、人ん家の鍵勝手に弄って、気味が悪いったらないわ。
防犯対策緩いんじゃないの、なんのために無駄に高い家賃払ってると思ってんのよ、たく。
そうだ、今度竜児が来たら相談しよう。
竜児のことだから最初は信じないわね、絶対。
自分で掛けたのを私が忘れてるだけだって、そう決めつけて。もう、人のことバカにして。
でも…あいつ、優しいから…どんなにぶっきらぼうに言ってたって、必ずどうにかしてくれる。
聞き流そうとしないで、知らんぷりしないで一緒にいてくれる。
いつだってそうだったもん、私にはわかる。
そうよ、いつだって竜児はそうだった。
初めて会った日もそう。


放課後、北村くんへの想いを託した手紙を間違って竜児のカバンに入れちゃって、竜児がやって来てからカバンを間違えていたことに気付いた。
その場は手紙を取り返すことができなくって、夜中になってから、竜児の家に忍び込んで、それで、私は、竜児のことを……。
それなのにあいつは、口ではゴチャゴチャ言ってたけれど、夜中に勝手に家に入って、自分を襲った私にチャーハンを、暖かいごはんを作ってくれた。
中身のない手紙のことで、恥ずかしさから泣きそうだった私に恥なもんかって。
悩んでるだけの自分よりもすごいじゃないかって慰めてくれた。
最初は同情かとも思った。
だけど、バカな竜児は私にあれこれと自分の妄想の産物をよこして見せた。
あんな気の遣われ方されたこと、一度もなかったっけ。
変な奴って思ったけど、不思議と嫌な気はしなかった。
上っ面だけのヤツじゃないって思えたんだと思う。今となっては、そう断言できる。
それに、あの時誓ってくれた。
そうよ、誓ったんだから。
内容なんてどうでもいい、とにかく私と竜児は誓ったのよ。
その事実は、何があったって、消えない。
次の日も、竜児のごはんはおいしかった。
ちゃんとした朝ごはんなんていつ以来だったかしら。
掃除だって頼んでもいないのにしてくれていて、お礼は素直に言葉にできなかったけど、感謝してる。
嬉しかった。
それからの日々は、少しずつ、けれど確かに変わっていった。
───竜児は優しい、私にも優しくしてくれる。
作戦だって、いつも失敗するのは私が原因なのに、何度も何度も竜児は手伝ってくれた。
私がドジを踏む度に、あいつは、それこそ体を張って助けてくれた。
───竜児だけは優しい、こんな私でも見捨てないでいてくれる。
私のせいで失敗した作戦なのに、それでも、ウジウジしていた私のことを気にかけてくれた。
手を組むって言っても、ほとんど私のワガママに巻き込んでおいて、勝手にもういいって私が突き放しても、それでも。
───竜児だけが優しい、私だけに優しい竜児。
北村くんに告白した時だって……。
あいつは、竜児は横に並んで、いつものぶっきらぼうな口調で私を慰めてくれた。
それに大河って、初めて名前を呼んでくれて。
傍らに居続けるって、そう言ってくれて。
「傍に居るって言ったんだから居なさいよ…ばか…」
呟き、いい加減中に入ろうと靴を脱ぎかけたその時、ズキリと痛みが走る。
それでも我慢して脱いで、家に上がった。
手の指みたいに爪は割れてないし、しっかり曲がるから骨はどうともないみたいだけど、ちょっと、キツイ。
すぐそこの部屋まで、なのに、遠いな。
いつも居た竜児の家は狭いけど、暖かかった。
ただ広いだけで冷たいこの家は、歩くのも億劫な今の私にはいつも以上に憎らしい。
愛着も、生活感も、居心地も、自宅だっていうのに、この家からは全然感じられない。
隣のあのボロっちいアパートの方がなにもかも揃ってる。
愛着なんて一入だし、生活感なんて半端じゃないし、居心地なんか…たまらないほど、良い。
きっと、なによりも竜児と一緒だったから。
竜児の隣だから、竜児の傍だから、竜児と居られる空間だったから。
竜児さえいれば狭いだのボロいだのなんてつまんないことだもの、どうってことない。
心が暖かくなってくようで、なにもしてないのに嬉しくなって、なにもしてなくてもドキドキしてふわふわして、心地がいい。
竜児と一緒にいるとホッとする、安心できる。
こことは大違い。いっそ無くなったらいいんだ。そうすれば竜児の家にずっと居られるのに。
本気でそう思うくらいイラつくだけの長い廊下を、凍てつく壁を支えにしながら歩いてやっと自室に入った。
カーテンに遮られてるせいで十分な日差しが届かず、少しだけ暗い部屋の中、ボロボロに汚れてしまった制服を脱ぎ捨てると、姿見の前に立ち全身をチェックする。
相っ変わらず貧相で、自分で自分を嘲ってやりたくなる。
けど、くだらないことやってないで今はやることをしないと。
「チッ」
痛みを訴える体をできる限り隅々まで鏡面に映してみた。
思わず舌打ちが漏れる。
他はどうともないみたいだけれど、やっぱり両手と片膝を擦り剥いてるのが一番目立つ。
もしかすると痕が残ってしまうかもしれない。
最悪。ホントに最悪で最低。心の底から後悔した。


この体は、もう私だけの物じゃないのに。
竜児と一つになって、竜児の物になった。
だから、傷なんてものが肌に残るなんて絶対に認めない。
小さな背で、小さな胸で、高校生にもなって「手乗りタイガー」なんてバカにされるような、子供みたいな体つきをしてても、竜児は、竜児だけは求めてくれた。
それだけで、今までコンプレックスだった背も胸も、この時のためにあったんだと感謝してしまったほど嬉しかった。
一昨日の夜。私と竜児の、初めての夜。
こんな体をしてても、竜児は綺麗だって…私のことを、大切だって、お前じゃなきゃって…そう言って、優しく抱きしめてくれた。
死ぬほど恥ずかしかったし、今手や足に感じてる痛みなんて比じゃないほど痛かったけど、竜児の想いも心も一緒に私の中に入ってくるようで、文字通り身が裂けるような痛みを、抱きしめ返して抑えつけた。
それに痛いだけじゃなかった。
痛がる私を抱きしめて落ち着かせてくれた竜児のぬくもりが。
全部入りきると、私が泣き止むまで待っていてくれた竜児の優しさが。
その後ゆっくり、慣らすように緩慢な動きで私を愛してくれた竜児の思いやりが。
生まれて初めて体に感じる異物感の、その異物感に感じた竜児の熱が。
私が求めると、呼応するように私を求めてくれた竜児が。
竜児の動き一つからでも、何かがたくさん伝わってきて、言葉にできない感じがした。
「……ん」
思い出すと、まだ腰や背筋をゾクゾクしたものが駆け上がる。
丸一日以上経ってるのに、この場に竜児が居たら、押し倒してでも始めそうな自分に、少し驚く。
クセになっちゃいそう…もうなってるのかも。
竜児だってきっとそう思ってるに違いないわよね、私がこうなっちゃうくらいだもん、きっとそう。
今度は私が主導権握らなくちゃ。
それまで我慢できるかしら?
「痛っ……」
半分夢見心地のまま体を動かしてしまい、足の痛みがぶり返し、私は我に帰った。
ムカつく。
せっかく機嫌がよくなってきそうだったってのに、鏡に映る現実を見せられてまたイライラが募る。
今の今まで感じていたものが引く代わりに、それとは逆の嫌なものが私の中に広がっていく。
この体に傷を付けていいのは竜児だけ。
「竜児の所有物」っていう痕以外は絶対に認めない。
竜児が綺麗だって言ってくれたのに、竜児以外に汚されちゃうのは許せない。
そんな考えが頭の中でグルグル回っていると、くちゅんと、突然クシャミが出た。
そういえば鏡の前でずっと裸でいたままだった。
いけない、着替えてる途中だったのに。
早く代えの制服を…いっか、もう。今から出たってどうせ出席には間に合わない。
それに一人で行ったって意味ないじゃない。竜児が一緒じゃないんなら、意味がない。
今日はサボろう、学校なんて一日くらい休んでも別にどうってことない。
元々内申なんて酷い事しか書いてないだろうし、そんなもの、明日の天気よりもどうでもいい。
教師なんかがつけた評価よりも、私には竜児が、そう、竜児。
竜児、竜児、竜児。
「大河」って名前で呼んでくれて、傍らに居続けるって言ってくれたあの時から、私達は、あそこから始まった。
心が動く音はなんて例えればいいんだろう。
キュン? クラッ? ゴトン? どれも違う気がする。
そんなもんじゃない。
あの時聞こえた音は、そんな軽い音じゃなかった。
もっと、だから私は───。
部屋着を頭から被ると、ベッドに倒れるように寝転んだ。
服やシーツに血の跡が付いちゃうのは嫌だけど、もうなにもかもめんどくさい。
気にはなるけど、目が覚めたら自分で洗濯しておけばいい、手当てもしとけばいい。
それなら竜児の迷惑にはならないはずだから問題ないわよね。
今だけは、少しでも竜児のことを想いたいから。
なにもかも忘れて竜児のことだけを考えていたいから、私はベッドに入って目を瞑った。
そうすると、いろいろと頭に浮かんでいく。
竜児はいつも一緒にいてくれた。
学校でも、帰ってきても、寝るとき以外は、私たちはほとんどの時間を一緒に過ごした。


朝起きて、最初に見るのは竜児の顔。
他の奴らは恐いって言うけど、そんなことない。
誰がなんと言おうと、あいつはカッコいい。
ドコが? と問われても、そんな連中に説明したってきっとわからないし、教えてやらない。
竜児は私の、私だけの竜児だもん。
学校にいるときも、ずっと一緒。
席が離れてるのは気に入らないけれど、このクラスになれたから竜児と知り合えた。
だから、少々のことは我慢する。
それに昼休みになって、竜児と机をくっ付けて食べるお弁当は、我慢していた分だけ余計においしく感じるから。
ホントは二人っきりがいいけど、少々のことは我慢する。
竜児の前でみんなに「邪魔だからあっち行ってて」なんて言ったら、変な娘って思われそうだもの。そんなの嫌。
学校が終わっても一緒。
帰りにスーパーで買い物をしてると、ああ、こんな日常が死ぬまで繰り返されるんだと思って、自然と笑みがこぼれる。
来年も、再来年も、十年先も、もっと先も、並んで歩く私たちだけは変わらないのよ。
なにがあっても、絶対に。
帰ってきたら、やっと私たちの時間。
あの狭いけど暖かい家の中、どこにいても目に入る所に竜児はいて。
何もしなくても、肌で竜児を感じられて。
二人っきりの時間が、あのままずっと続けばいいって、何度も思った。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。
でも、べつに、本当に二人っきりじゃなくってもいい。
あの場所にはあの二人よりも、何倍も優しい「ママ」が───

『竜ちゃんを盗るのだけはだめ! 絶対にだめぇ!』

なんだろ、今の。
変ね、私、なに考えてたのかしら。あ、そうよ、そうそう、竜児のこと。
竜児とのことを考えてたんだった。
竜児とはいろんな所へ行って、いろんなことを一緒にした。
プールも、海にも泳ぎに行って、ドッキリをしかけたら、逆にドッキリにハメられて。
あんなに楽しい夏なんて、今までなかった。
来年は二人でどっか行ければ文句ないわね。
文化祭も……あれは余計な奴のせいで竜児と擦れ違って……。
あのクソ親父だけは絶対に許さない。
私だけじゃなくて、竜児を利用して…竜児は悪くない。絶対悪くない。
あいつは私のことを真剣に考えてくれて、私のためにって、それで、私を親の元へ帰そうとしてくれただけ。
自分だって私と離れるのが寂しいのを我慢して、それが私の幸せのためだって。
胸の奥が熱くなる。
そこまで自分を想ってくれる竜児が、焼けそうな胸が裂けてしまうくらい、嬉しい。
けど、竜児は勘違いしてたのよ。
私の幸せが、竜児と離れた先にあるなんて、ほんとバカなんだから。
あの時はクソ親父が生活費も出さなかったり、竜児を都合よく言いくるめたりして、周到に根回しをしていたせい。
本当に卑怯者の、最低な親だわ。信じられない。
なによりも、あの時はクソ親父の本性をまだ知らなかった竜児の後押しもあって…今なら絶対ありえないのに、まだ竜児以外も信じてた私はすっかりクソ親父に甘えてしまった。
どうせ捨てられるのなんて、最初からわかりきってたくせに───

『大河ちゃんはぁ、やっちゃんの家族じゃないよ』

まただ。なんなのよ、もう。
私は竜児のことだけ考えてたいの、他のことなんてどうでもいいの。
邪魔しないで。
まあ、結果的に言えば、私達がもっと近づくことができたのはあの文化祭があったから、とも言える。
あれがあったからもう絶対に離ればなれになりたくないって、心からそう思うことができる。
それもやっぱり竜児のおかげ。
あのクソ親父は引っ掻き回すだけ引っ掻き回しただけよ。
あんな親、もう要らない。
私には竜児がいるもん。
竜児さえいれば、それだけで私は幸せ───


『やっちゃんと竜ちゃんの幸せを壊さないで』

やめてやめてやめて!
あんなの嘘、なにかの間違いよ。
やっちゃんはそんなこと言ったりしない、あいつらみたいに私のこと───

『竜ちゃんが寝かせてくれなくって』

私の、こと……───
朝、待っても待っても起こしに来ない竜児を逆に起こしに行くと、竜児のシャツを着て出てきたやっちゃん。
髪もボサボサで、気だるげだったやっちゃんはすっごく汗臭かった。
それに汗の臭いに混じって、生臭いような、ツンと鼻につく臭いがしてて、私はそれを、つい最近嗅いだ覚えがある。
それもやっちゃんからじゃなくて、私自身から出ていた、あの臭い。
気になって、二回も体を流したくらい独特の、アレの臭い。
でも、なんでそれがやっちゃんからしてくるのか理解できなかった。
そんな私を、やっちゃんは今まで見たことのない顔をして見ていたのもわからない。
ばかちーが見せる勝ち誇ったような顔を、百万倍煮詰めたようないやらしい……いやらしい?
いやらしい、なに?
なんでやっちゃんがそんな顔して私を見るの? どうして?

『竜ちゃん元気一杯だからぁ、最後の方はやっちゃんが参っちゃった』

本当は、はじめから、全部理解していた。
どうしてあんなにいやらしい顔で私を見てたの?
───そんなの、ほくそ笑んでたから。
どうして私を笑うの?
───私を見て笑ってたんじゃない。私を見て、優越感に浸ってたから笑ってたのよ。
どうして……。
───やっちゃんが、私から、竜児を奪ったから。
竜児が獲られた。
目の前で私を見下ろしていたのは、私の知ってる優しいやっちゃんじゃない。
竜児と体を重ねて、私から竜児を奪い取っていったあの女は、もうママでもなんでもない。
まただ。また捨てられたんだ。
あんなに優しくしてくれたやっちゃんも、他の奴らと一緒だった。
家族だって思ってたのに、ママみたいに思ってたのに、手の平を返して私を捨てた。
「……やっちゃんは、違うって思ってたのに……」
なにも初めてのことじゃない。
パパにもママにも捨てられて、パパだったクソ親父には何度も裏切られて。
そんなの、もう慣れてたはずなのに。
実のだろうが何だろうが、親なんて言っても所詮は男と女ってだけ。


結局自分が一番で、子供の事なんて二の次。ましてや他人の子供なんか歯牙にもかけない。
勝手に作っておいて、勝手な理由でほったらかしにして、厄介払いまでしておいて、平気で親の顔をしている。
養育費や生活費なんていう名前をしたお金を振り込んでおけば責任は果たしたって思ってる、ただ自己満足を満たしたいだけの骨と肉の塊。
所詮そんな程度だって思い知ってからは、変に期待することもやめたはずなのに。
でも、だけど、やっちゃんは優しかった。
見てくれは全然違うけど、こいつらは絶対親子だって、そう確信できるほど竜児に負けず劣らずやっちゃんは優しかった。
いつだって優しく抱きしめてくれた。
普段は子供っぽいのに、私と竜児がケンカをすれば、自然と間を取り持ってくれた。
聞いてるこっちが恥ずかしいくらい私のことを「かわいい」って、「大好き」って…「家族」だって言ってくれた。
こんなママが欲しかった。
やっちゃんがママだったら、どんなによかったんだろう。
ううん、竜児と家族になれば、やっちゃんは本当のママになってくれる。
私の「本当の」家族ができるんだ。
そう思ってた。思ってたのに───。
ギュウってシーツを握り締めた指先がジクジクと痛い。
割れていた爪から、私の中を駆け巡っていたなにかが滲み出してシーツを染める。
赤いはずなのに真っ黒に見えるそのなにかは熱を持っていて、指先と、目からどんどん流れ出していく。
壊れた蛇口みたいに止めようとしても止まらない。
どうすればいいんだろう。
ママみたいに思ってたやっちゃんからも裏切られて。
竜児まで獲られて。
「どうしてこうなっちゃったのよ……どうして……」
答えなんて求めてない、それはただの独り言だった、
なのに、

やっちゃんのせいでしょ。

錯覚かもしれない。
それでも、誰かの声と、誰かに背中から抱きすくめられている感覚を、その瞬間の私は確かに感じていた。

やっちゃんのせいに決まってる。
竜児が来てくれないのもそう。
竜児と離ればなれなのもそう。
竜児を抱きしめられないのもそう。
竜児が抱きしめてくれないのもそう。
全部、全部やっちゃんのせい。
私と竜児の仲を裂こうとする、やっちゃんのせい。

背後に目を向けたとき、やっぱりそこには誰もいなかった。
けれど、

そうでしょ?


私は、竜児の私はここにいた。
「そう…そうよ、やっちゃんのせいじゃない…やっちゃんが悪いに決まってる」
急に体中に感じていた痛みが引いてきた。
目から溢れて止まらなかった涙も、指先から流れてた血も、一緒に漏れ出ていた黒い何かもいつの間にか止まってる。
スッキリしなかった頭も次第に冴えてきた。
やっちゃんが愛し合う竜児と私の邪魔なんかするから、だからこんなことになったのよ。
なんでこんな簡単なことで悩んで、悲観して、諦めていたんだろう。
邪魔なモノなんて、一々覚えてらんないくらいぶっ壊してきたじゃない。
獲られた物なんか獲り返せばいいだけの話でしょ。
そう。ぶっ壊して、獲り返すのよ。
なにを誓ったか、どんな誓いを立てたかなんか覚えてない。
それでも、あのとき私と竜児は誓ったんだから。
誓ったっていう事実と、私が竜児の物になって、竜児が私の物になったっていう事実だけあれば十分。
竜児さえ獲り戻せばいくらでも誓える。
何度だって何度だって何度だって何度だって何度だって何度だって何度だって何度だって。
好きだけ誓える。好きって気持ちを誓い合える。
誓い合うには竜児がいなきゃだめ、だから竜児を獲り戻す。
そのためにはやっちゃんが邪魔。
邪魔なものはどけたらいい、それだけじゃない。
それで私は幸せになれる。
竜児と一緒なら幸せになれる。
どうしてかわかんないけど、絶対なれるって自信がある。
でも、それは竜児がいなきゃ幸せになれないことと同じ。
そんなの嫌だ。
女の子は好きな人のお嫁さんになるのが一番幸せなのよって、子供の頃、ママがそう教えてくれた。
人間は幸せになるために生きているって、何かの本に書いてあった。
幸せになるために生きて、好きな人のお嫁さんになるのが幸せなら、竜児と一緒じゃなきゃ私は幸せになれない。
竜児だって私と一緒にいるのが幸せでしょ。それだけでいいでしょ。
そうに違いないのに、今までだって散々面倒を見させられてきた上に、私と引き離されて、監禁されて、無理やり……。
「フザケんじゃないわよ、ママみたいに思ってたのに」
私のことを大切にしてくれるのは竜児しかいないのに。
竜児のことが一番大切な私には竜児がいなきゃ生きていけないんだから。
誰にも、それがやっちゃんだろうと死んでも渡さない。
私から竜児を獲ろうとするなんて上等じゃない。
竜児を獲ってくやっちゃんなんてもうママじゃない。
ベッドから跳ね起きると、痛みを感じなくなった足でクローゼットまで歩いていって、開く。
奥の方に手を突っ込むと、危ないから竜児に捨てろって言われてたけど、今まで捨てずに隠しておいた木刀を取り出した。
使い込みすぎてデコボコになってる表面を一撫でして埃を拭ったら、渾身の力を込めて振り回し、具合を確かめる。
ピッと鋭い風切り音が奏でられる度、一瞬遅れてやかましい音を立てながら、室内の家具が粗大ゴミに変わっていく。
特に問題もなさそう。
馴染ませるように幾度か握っては開いてを繰り返すと、不意に、竜児の不安げな顔が頭を過ぎった。
「べつにこれでぶん殴るわけじゃないんだから心配しないで。せいぜい窓を吹き飛ばすだけ。それ以外には使わないから、安心して」
いつもの調子で、おそらくはそこに居るだろう竜児と、竜児の家を見据えて、固く握り締めた木刀の、その切っ先を虚空に突きつけ、誰に言うでもなくそう言った。
ひょっとしたら本気で殴りかねない自分に向けてかもしれない。
口に出さないままでいたら、何をするかわからない。
それで手加減や遠慮をするつもりなんか更々ありはしないけど。
「悪いのは全部、竜児と私の幸せを邪魔するやっちゃんだもん。待ってなさい竜児、今行くからね、もうちょっとだけ待っててね」
そうだ。竜児を迎えに行ったら、今日からはこっちの家で一緒に住むことにしよう。
こんなことがまた起こらないように、これからは今までよりももっと傍にいて、ずっと一緒にいて、私が竜児を護ってあげなくちゃ。
誰にも気を遣う必要なんてない、邪魔されない、この家で。
ここがダメなら、いっそ誰も知らない場所へ行ってもいい。
竜児が傍にいるんなら、どこだって怖くない。
二度と私を離さないでいてくれるのなら。
「私も竜児を離さないから」
まだ見ぬ明るい未来に弾む胸を押さえ、あらん限りの想いの丈を振り絞って目の前───私を呼んでる竜児の部屋目掛けて自室の窓から飛び降りた。

                              〜おわり〜


388 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/05/19(水) 09:05:02 ID:muPNFQMm
おしまい


379 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/05/19(水) 08:28:25 ID:muPNFQMm
>378
お疲れ様です。ありがとうございました。


埋めネタSS投下

「やんとら」

ヤンデレ風味なのでそういうのが苦手な方、近親の要素が苦手な方、大河とやっちゃんが好きな方は注意してください。


--
一入:ひとしお

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