web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki


281 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2009/12/31(木) 00:11:05 ID:Wg52VKI0




「さぶっ・・・・・・」

吹きつける風のあまりの冷たさに辟易しながら、すっかり暗くなった外を歩く。
街灯が点々と照らす路地には馴染みがない。
いつの間にか家から大分離れた所まで来ていたらしい。
早く帰りてぇってのに。

「ったく・・・」

───放課後、一通りの買い物を済ませて帰ってきた後、晩飯の下準備を粗方終えた時だった。
ボトルの中の油が切れかけていることに気が付いたのは。
買い置きも詰め替え用のパックも見当たらない。
今日のおかずのメインであるトンカツを揚げるには残った油じゃ絶対的に量が足りない。
既に小麦粉も、卵も、パン粉さえも塗した豚ロースは、別の方法で火を通すにはなんだかもったいなくて。
買ってきてくれるよう頼もうにも、泰子は途端に出勤準備に勤しみ始め、大河はめんどくさいの一点張り。
インコちゃんなんてわざとらしく狸寝入りまでかます始末。ある意味すごい。自分もお使いを頼まれるって勘定に入れてる辺りが特に。
そうして結局。

『早くしなさいよ、私お腹減ってるんだから』

『あっ、じゃあね、じゃあね、やっちゃん一緒にプリンもー』

『ぐえっえ』

数の力というよりは女性の力が如実に反映される我が家の、言うなれば高須家ヒエラルキーとでもいったところか。
その末端には自分が位置しているのだと思い知らされる。
頂点が泰子なのは間違いないだろう、これは揺るがない。
その下に食い込む大河と、更に下には我が家のプリンセス、インコちゃん。
一番下にいる俺は、さながら女王様のためにせっせと餌を運ぶ蟻んこみたいだ。
想像すると背筋をイヤな物が駆けて行ったのは寒さのせいだろうか。
それとも現状を抉るくらい正確に指す例えと、覆せない現実にだろうか。

「・・・はぁ・・・」

吐息は嫌になるぐらい白かった。
いいか、もう。
晩飯はトンカツがいいとかいきなり言い出したのは大河じゃねぇかとか、少しくらい手伝ってくれてもバチは当たらねぇだろとか、
言いたいことは山ほどあるが、ここでぶちぶち愚痴っててもしょうがない。
買うもんだけ買ってとっとと帰ろう。
俺は暗い方向へと沈みそうになる頭を切り替えようと、悴んだ手をポケットに突っ込んで折りたたまれたチラシを取り出した。
出掛けに泰子に渡されたこれは、いつも、今日だって買い物してった商店街とは反対の方角にあるあんまり利用したことのないスーパーの広告。
端っこには店名と、デカデカと目立つようこう書いてある。
『年末恒例! 歳末大感謝祭!! 今年最後の閉店セール!!!』───誤魔化そうとしてるのか? ていうか誤魔化せてるのかこれ?
今年もなにも今年で最後になる特売の告知を明るさとビックリマークの多さで隠そうとして、悲壮さを余計に煽っているこのチラシは昼間、
階下の大家から貰ったそうだ。
たかが油とはいえ安く買えるに越したことはないし、距離も家からそう離れていないから、
たまにはとその潰れかけのスーパーで買おうと思っていたんだが。
チラシに載っている簡素な地図と歩いた感覚からしてもこんなに離れてるはずがない。
どうやらどっかで曲がるところを間違えてしまったらしい。
仕方がない、引き返すしかないか。

「あーめんどく・・・くせぇ、な、なんだ?」


踵を返そうとした瞬間、強烈な異臭が鼻をついた。
道路ではありえない、物でも焦がしたような臭いが冬独特の乾燥した空気に混ざっている。
なんなんだ一体。
歩を進めていくと、曲がり角の向こうに人だかりができているのを発見した。
みんな一様に首を上に向けている。
視線をそれに合わせると、異臭の正体も人だかりの訳も分かった。
大河ん家ではないにしろそこそこ大きなマンションからもうもうと黒煙が立ち上っている。
煙のその先には夜だっていうのにハッキリと見える橙色の光。
火事だ。
耳を澄ませば遠くから消防車のサイレンが聞こえる。
多分ここに向かってるんだろう。
テレビや新聞なんかでそういうニュースは見るけど、実際に目の当たりにしたのは初めてかもしれない。
どうなってるんだろう、こっからでも小火騒ぎじゃなさそうなのはなんとなく分かるが。

───なにやってんだ、やめろー!?
───死にたいのかあんた!
───消防車はまだか!?

「離してっ! お願いだから離してぇ! 全部燃え・・・いやあああああぁぁぁぁぁあ!! やめてぇぇ・・・・・・」

野次馬の最後尾につくと、火の手の進行具合がよく分かる。
マンションは中ほどの階から出火したらしく、上階は燃え盛る炎と環境に悪影響しか残しそうにない真っ黒な煙に覆われている。
この分じゃ、下の階もタダでは済まないだろう。
そう考えていた時、人垣の中から数人の叫びと、まるでこの世の終わりでも来たような断末魔じみた金切り声が鼓膜を叩いた。
このマンションの住人だろうか。
・・・やめときゃよかった。
軽い気持ちで野次馬に混じったのを後悔した。
早く帰ろう、消防車も近いし、俺に出来る事は何もない。
むしろこんなところで突っ立ってる方が消化の邪魔だ。

───ちょっとそこ空けてくれ。
───ほら、しっかり歩いて。

その場を後にしようとする俺の前を、人の波を掻き分けて男が二人歩いていく。
だが、何故か動きが妙に遅い。
何かを引きずっているみたいだ。
一瞬まさか・・・と、脳裏を過ぎった予感に慌てて目を逸らすが、間に合わなかった。
そんなことする必要もなかったんだが。

「・・・ひっ・・・・・・ひっ・・・ぐす・・・」

手を引かれ、寄り添われて歩いてきたのはコートを頭から引っ被った、おそらく女性。
裾から下はスカートに、伝線したストッキングと女物だと思わしきスリッパ。
多分さっきの人だ。
今なおキャンプファイヤーよろしく燃えているマンションの真向かいにある塀まで連れてかれると、背中を預けて力なく座り込んだ。
膝を抱えて顔を埋め、そして、

「・・・どうして・・・っんな・・・っく・・・わたし・・・なんで・・・」

やめてくれ。
こんな所でそんな生々しいこと吐き出さないでくれ。
言う方も地獄、聞く方も地獄だ。
俺の周りにいる数人も後ろからする啜り泣きが聞こえているのか、苦い顔を浮かべ俯き気味になっている。
居心地が悪いなんてもんじゃない。
なのに、今ここから立ち去るのがなんか、直接してる訳でもないのにあからさまに酷いことをしているような。
とにかく後ろめたくって動くに動けない。
いろんな意味でもう帰りたいのに。


「ぅおぅ」

変な声だって自分でも思った。
急に振動したケータイ。
べつにそれにそんなに驚かされたんじゃない。
嫌な予感がする。
むしろ嫌な予感しかしない。
ほら、だってディスプレイには着信と一緒に「大河」って文字が浮かんでいる。
左端に表示されている時刻も、俺が家を出てからけっこう進んでいる。
出たくねぇ・・・いや、出ないなら出ないでいいんだ。
二度と帰らないつもりでいるなら、それで。
そういう訳にもいかない。

「もしも『いぃったいどこほっつき歩いてんのよこの駄犬! あと30秒で帰ってこなかったらエサ抜きよ、いい!?』・・・すまん」

通話ボタンを押した途端に鼓膜を破らんばかりの怒声で大河が捲くし立てる。
大体の反応は予測してはいたが、酷ぇ、酷すぎる。
あんまりじゃねぇのか、いくらなんでも。
お前が言うところのそのエサは誰が丹精込めて毎日用意してると思ってやがんだ。
そんなやるせなさを胸の奥の奥へと追いやり、即座に一言謝罪を述べた。
不機嫌な大河を余計にイラつかせたらそれこそ帰れなくなる。
ひよった考えと染み付いた奴隷根性に気付きつつ、敢えてそれらを無視した。
俺が宥め賺せばそれで済む話だ、それは間違ってないんだから。

『もお・・・遅くなるならなるって言いなさいよ、やっちゃん心配してたわよ・・・わ、私だって、そにょ・・・』

「なんだって? 大河、よく聞こえなくって」

スピーカーを壊すんじゃないかってくらい喚き散らしたのが一転、トーンが低くなっていき、最後は尻すぼみになっていて聞き取れなかった。
耳の中ががまだキンキン鳴ってやがる。
何て言ったんだろう。

『・・・っ! な、なんでもないわよ! 竜児のばか! いいから早く帰ってきなさい!!』

今度こそ本当に鼓膜が破られたかと思った。
これからはいくら聞き取り辛いからってスピーカーを耳に押し当てるのはやめよう。
少なくとも大河相手には絶対に。
言いたいことだけ言うと返事もさせずに切られたケータイを溜め息と一緒にポケットに突っ込む。
人の目が痛い。
設定してある音量をはるかに上回る大河の怒声は俺だけではなく他人の耳にも簡単に届いたらしい。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

背後で座り込んでいた人にも、バッチリと。
大河から電話がかかる前は涙声で愚痴を吐き出していたのに、今はそれもない。
気まずいことこの上ない。
・・・また電話がかかってきたことにして、そのままここから離れようか。

「え・・・?」

そうしようかと迷っている時だった。
突然誰かに腕を掴まれた。
まさかと、目だけを動かし、そーっと掴まれた方の腕を確認してみる。
灰で煤けた細い指とよく手入れされたんだろうネイルがそこにあった。
総毛立つ、なんて感覚を生まれて初めて味わった。
腰まで抜けそうだ。
これってひょっとして・・・ゆ、ゆうれ・・・


「・・・・・・やっぱり」

やっぱりってなんだよ。
なにがやっぱりなんだ。
ていうかやっぱりそうなのか、本当にアレなのか。
俺が何かしたわけじゃないだろ、ただ通りがかっただけだろ。

「たか、ぐず・・・たかすくん・・・」

笑っていた膝がピタリと止んだ。
突然誰かに背中から抱きすくめられて、その誰かの体重を支えるために自然、力がこもる。

「うぇ・・・高須くん! 高須くぅぅ──────ん! うわぁぁぁん・・・・・・」

幽霊にも体重があったりするんだろうか。
なんていうくだらない疑問は、周りを見ればあっさりと解けた。
明らかに俺を中心にして人の輪ができている。
目と鼻の先で未だ燃えているマンションに目もくれず、俺と、俺の背中にしがみついている誰かに注目している。
俺と目が合うと反射で逸らすのはいつものことだけど。
他の人間にも見えてるのなら、この誰かは幽霊やそういった類じゃないのだろう。
『やっぱり』という発言や何故だか俺の名前を知っていることからも。

「わた、し、私・・・もうどうしたらいのぉぉぉ・・・だがずぐーん・・・」

背中は背中でえらいことになっている。
感極まって泣きじゃくっているという感じで手がつけられない。
俺はカカシみたいに突っ立ってるしかない。
誰なんだ、今背中で俺の名前を連呼してるのは。
顔を見れば分かるのは間違いないんだが。

「・・・あの、ちょっと」

とりあえず、話はそれからじゃないと始められない。
なるべく刺激しないよう、キツく掴んで離さない手をどうにかしてもらおうと、俺は空いた方の手を煤まみれのそれに翳した。
何かしらの意図は伝わったらしい。
背中に押し付けられていた顔が持ち上がる。

「たかすくん・・・」

振り返ると、そこには見知った顔が間近に迫っていた。
少し崩れてはいるが髪形も、着ている服にもよく覚えがある。
嗚咽交じりだが、今思えば声だって。

「せ・・・んせい・・・?」

消防車が到着するまでの間、リアルタイムで住所不定になった担任が泣き止む事はなかった。
俺が開放される事も、向こうの機嫌の悪さを表すように振動を強くするケータイが鳴り止む事も。


                    ※ ※ ※

「なによそれ」

開口一番、ぶすっとむくれた大河が言った。
言いたい事は重々分かる。
ちょっとそこまで、遅くともせいぜい二十分もあれば帰ってこれるような買い物が、まさか三時間以上かかるとは俺だって思ってもみなかった。
空きっ腹を抱えてずっと待っていた大河の気持ちも分かる。
待ちきれず、やむなく仕事に出かけた泰子にも悪いことをしたと思ってる。
けど、他にもっとあるだろう。
おかえりとかお疲れとか。

「ええそうね、おかえりなさい、竜児。お疲れさま、ずいぶん遠くまで行ってたみたいね、ドバイ辺りかしら。
 で、なによそれ。ドバイ土産とか言ったら殴るわよ」

棘をこれでもかと含めて俺の後ろ、縮こまっている人影を指で差す大河。
どうでもいいが、なんだドバイって。
どっからそんなのが出てくる。

「こ、こんばんわ逢坂さん。ごめんなさいね、夜分遅くに」

「竜児、もう一度だけ聞くわ・・・それはなにかしら」

おずおず顔だけ覗かせて、ぎこちなく固い笑顔の先生を無視。
吐きなさい、吐かなきゃ吐かすわよ───そんな意思が伝わってきそうな眼光を放ち、俺を睨む。
ていうか聞いといて本人からの挨拶は無視かよ。
しかもそれ扱いか。

「話すと長いから先に飯だけ作らせてくれよ」

結局コンビニで買った値段の割りに量の大したことのない油の入った袋を流しに置いて、
大河がそれ以上追求してくる前にエプロンに手をかけた。
納得のいく説明を求める大河は、なおも、

「むー・・・」

なんて唸りながら居間からこっちを睨みつけている。
ただ、食欲には勝てないのか、それ以上何もしてこないのが幸いか。

「あの、高須くん」

と、所在無く玄関に棒立ちしていた先生。
俺は少し待っててくれるよう言うと、一旦流しから離れて風呂場へと足を動かした。
脱衣所にあった洗濯カゴの中には泰子の下着や衣類が放り込まれている。
とりあえずその上からバスタオルを敷いて、更に中が空のカゴを乗っけた。
次に浴室。
大河が風呂に入った様子はなかったから、タイルが水で濡れているのは、泰子が入ったんだろう。
一応今日も洗っておいたし、浴槽に張られたお湯も、この程度なら気にするほどでもない。
少しばかり温く感じたんで、沸き直しだけしておく。
あとは勝手にやってくれるだろ。

「・・・なにしてるんですか?」

「あ、た、高須くん、よかった・・・」

呼びに行くと、先生は直立の姿勢で首だけ真下に曲げているという奇妙な格好をしていた。
声をかけると弾かれたように寄ってくる。
心底安堵したという風に。
まるでなにかに怯えているような。

「ふんっ」

「ヒッ」

ああ、まるでじゃなくて事実怯えてる。
大河に。

「あー・・・ちょっとこっち来てもらっていいですか」

「え、ええ・・・でも・・・」

案内する必要なんてないが、先生は虎に睨まれたガゼルかなんかの草食動物みたいにチラチラ大河を気にして動こうとしない。
仕方なく手を引いて連れて行く。

「あ、ありがとう高須くん。あのままだったらもうどうしよかと」

この人は本当に教師で、俺と大河の担任なんだろうか。
四月、最初こそ大河と俺に恐れをなしていた他のクラスメートもそこそこ付き合いができるとあまりこういった反応をしなくなったんだが。
それとも、大河の方から何かしらしたのかもしれない。

「いや、そんなに感謝されることじゃ・・・なんかあったんですか? 大河と」

「いいえ、先生ずっと立ってただけで、逢坂さんの気に障ることなんてなにも」

違うらしい。
まあ、今考えても仕方ないか。
単に腹が減って機嫌が悪いってのもなきにしもあらずだろうし。

「それであの、高須くん? 先生になにか・・・」

「ああ、そうだ。うちのヤツが入った後で申し訳ないんですけど、よければ風呂入ってってください」

「おふろ・・・」

俺も多少灰を被っているが、先生ほどじゃあない。
湯につかって洗い流した方がいい、疲れも少しは取れるだろう。

「タオルと着れるもんは後で持ってくるんで、それと今着てるのもすぐ洗濯すれば明日には・・・先生?」

「え・・・あ、ご、ごめんなさい・・・お風呂、もらってもいいのかしら」

「いや、それはぜんぜん」

ぼうっと呆けていたのは何だったんだろうか。
わざわざ尋ねるのもなんだし、ここに立ってると落ち着いて風呂に入れないだろう。
飯の支度もある。
ある物は何でも使ってくれてかまわないと言い残し、俺は台所へと引っ込んだ。


「なにしてんだお前」

「べつに」

居間ではどっから持ち込んだのか、大河がアニメ調にデフォルメされたトラの抱き枕相手にマウントを取り、何度も腹部を殴打していた。
インコちゃんがカゴの中でガタガタ震えているのを意にも介さず、ひたすらに。
トラウマにでもならなきゃいいが。

                    ※ ※ ※

鍋の中で十分に揚げられた豚ロースに包丁を入れると、サックリと音がなり、見た目と匂いだけでなく耳からも食欲をそそられる。
火の通りも申し分ない。
絶妙の一言に尽きる。
付け合せのキャベツを添えた皿に盛れば、会心の一皿の完成だ。
米だって十分過ぎるほど炊いてある。
これなら、

「わあ、おいしそう」

「だろ。待たして悪かったな」

しきりに『まだ?』『ねぇまだなの?』と、口じゃなくてぐ〜ぐ〜鳴って聞いてきた大河の腹も満足させられるだろう。
我ながら良い出来だ。

「いいのよそんなの。それより早く食べましょ」

「おぅ」

グングン下がっていた機嫌が上昇補正されてなによりだ。
こうまで喜んで貰えるとこっちも作り甲斐がある。

「あれ?」

ふとした拍子に、大河が首をかしげた。
俺がテーブルに順番に皿だの茶碗だのを並べていると、不思議そうに、

「なんでやっちゃんの分も今出してるのよ、ラップもしないで」

俺からすればえらく頓珍漢な、けど大河からしたら大真面目な疑問なんだろう。
ちょうどそこへ、答えの方がやってくる。

「はぁ・・・ありがとう高須くん、いいお湯でした」

泰子のジャージを着て、頭にターバンのようにタオルを巻いて出てきた先生。
湯上りの肌が心持ち染まっている。
座るよう促すと、先生は自分の分も食事を用意されていることに驚いていた。
ひょっとして済ませていたのかもしれない、そこまで考えが回らなかった。
が、どうも様子がおかしい。
頭に被せていたタオルを取り払うと顔に押し当て、肩を震わせ、声を殺してさめざめと泣き始めた。

(なんで泣いてんのよ、独身)

(さ、さぁ)

聞かれたって、そんなの俺が知りたい。


「・・・うれしい・・・」

「は?」

呟き、そして涙で滲んだ双眸を向けられる。
両手で手まで握られた。

「先生・・・先生今までね、それはもういろんな人とお付き合いしてきたわ・・・けど!」

「け、けど・・・?」

「こんな暖かなご飯を作ってくれる男なんて一人もいなかったの! 気を利かせてお風呂まで用意してくれる男なんていなかったのよ!」

風呂は元々入れておいたものだし、飯も作ってる最中だったし、正直先生の分に回したのは泰子のなんだけど。
この際それは黙っておこう。
感激してるとこに水を差すこともない。

「ううん、それだけじゃないわ・・・あの人もあの人も、甘い言葉だけ囁いておいて結局は私を捨てて・・・他の女に乗り換えて・・・」

というよりか、大層熱が篭ってて耳を貸してくれない気がする。
微妙に暗い他人の失恋話なんて聞いていたくもないが、止められそうにもないというのがまた性質が悪い。
とりあえず固く握られたこの手を解いてくれれば話を聞くフリだけして聞き流せるんだが。

「でも、でも・・・高須くんだけは違ったわ」

「ハァ? なんですって?」

「いイぃ?」

文脈がおかしいだろ。
それ、前のセリフから続けられると絶対誤解されるような言い回しじゃねぇか。
大河だってそれくらい分かんだろ、何で俺を睨むんだよ。
インコちゃんも、そんなに首をかしげ・・・きゅ、九十度も曲がるのか。
凄いなぁ、さすがインコちゃんだ。
水平になるまで首を曲げられるなんて中々できることじゃない。
インコちゃんの凄さはよく分かったからそれ以上はやめとこう、な? ポロっともげでもしたらどうするんだ。

「高須くんは、火事で何一つ失くした私にずっとついててくれて・・・傍にいてくれて・・・」

「か、かじぃ?」

あっ気に取られた大河に頷き一つ、返事としておく。
首を横に振り、にわかには信じられないといった感じだが、マジだ。
まさかあれが先生の住んでるマンションとは知らなかったが、火事に見舞われたのは俺がこの目で見ている。
ずっとついててだの傍にだのもあながち間違ってもいない。

あの後はいろいろと大変だった。
消防車が来ると同時にパトカーも駆けつけ、とりあえずの事情をマンションの住人や野次馬に聞いて回っていた。
当然俺にも。
目つきだけで怪しまれるのは容易に予想がついて、しかもその通りになって、先生が取り持ってくれなかったらけっこうヤバかったかもしれない。
住人の火の不始末が原因で起きた火事だって後で教えにきた時の警官のあのいぶかしんだ目はまだ俺を疑っていたようだから、そこは本当に感謝している。
通りがかっただけで放火犯に仕立て上げられたらたまったもんじゃねぇ。
ただ、それ以上に大変だったのが、先生の取り乱し様だった。
なんせ消化活動が始まった途端に、まだ煙を吐き続けるマンションに突っ込もうとしたくらいだ。
取り押さえるこっちが本気になって止めないと、それこそ、文字通り這ってでも。
別の容疑で警察に不審がられたのは言うまでもない。
何かを取りに行きたいようだったが、一体なんでそこまで必死になっていたのか。


『残りの人生死ぬまで独りで過ごすくらいだったら今死んだっておんなじでしょう!?』

悲痛な叫びだった。
心の芯にまでズシンと響くような、とてもいたたまれない本音だった。
寸での体でどうにかケータイと財布等が入っていたバッグだけは持ち出せたそうだが、
さすがにそれ以上となると持ち出しようがなく、置いてくるしかなかったそうだ。
だから、溜まったハウトゥー本や優良物件の見合い写真という各種婚活のための資料、合わせて購入した勝負系のブランド品。
他にも北村の母親から今のと転換してみないかと薦められた新たな生命保険『独りで生きる貴女の保険NEXT+』の契約書なんかもだ。
独りで生きていくことに耐えられないとのたまいながらも独りで生きていく場合の展望をしっかりと押さえているあたりがリアルだ。
それらが燃えて失くなる前に何とかするべく、形振りかまわず命がけで火の中に飛び込んでいくのを分かってて一人にさせておけないだろ。
目を離した隙にいなくなっていた、なんて本気で笑えない。
家にたどり着くまでの間、勝手にどこかに行きやしないかと手を繋いでいても気が気じゃなかった。

「はじめはビックリしたわ、人が不幸のどんっ底に叩き込まれた真ん前で平気でペチャクチャお気楽に電話してる能天気がいると思ったら、
 なんだか聞いたことのある声してて、知ってる名前まで出てくるんだもの」

それで『やっぱり』か。
驚いたのはよっぽどこっちだ。
あんな死人が出てもおかしくないような場所でいきなり腕なんか掴まれたら、誰だってビビるだろ。

「それで、先生思わず高須くんに抱きついちゃって」

「へぇ」

確実に室内の温度が下がった。
それか、もしくは俺の体温が。
暖房を強くした方がいいかもしれない。

「高須くんも、先生の手を握り返してくれて」

「ふぅん」

おかしい。
このストーブ、とうとう寿命が来たのかもしれない。
設定温度を上げたはずなのに全然温まらない。
冷えていく一方だ。
変え時かもな、大分くたびれてきてたし。

「・・・抱きしめてくれて・・・」

「そぉ」

今度はけっこう端折ったな。
そこへ行くまでにはそれなりに警官とのやりとりとかもあったんだけどな。
それにあれは抱きしめたって言うのか? 俺は羽交い絞めにしたって言う方がまだしっくりくるんだが。
他の野次馬連中はどう捉えてたんだろう、やっぱりあれは世間では抱きしめる部類に入って、俺の認識がズレてるのか。

「高須くんには本当に感謝してます。行く当てのない私に、こんな・・・感謝してもしきれないわ」

そんなに感謝されるとなんだかむず痒い。
と、珠のように目尻に溜まっていた雫がポロポロこぼれ、拭おうと俺の手を握っていた先生の手が離れる。
よし、今の内になにか暖をとれるものでも買いに行こう。


「大変だったのね、独身も。ねぇ竜児、竜児もそう思うでしょ」

爪までガッチリ食い込んだ大河の手が、この場から脱出しようとした俺の首を捕らえて力ずくで座らせた。

「待て、俺の話も少しは聞いてくれ、大河」

「いいわ、五文字以上十文字以内で答えなさい。あんたは今なにをしようとしてたのかしら」

だから俺の話を聞けよ。
あとそれ疑問じゃなくて命令だろ、絶対。
いや、今はそんなことより、ええと五文字以上・・・ムリだ、足りねぇ。

「ちょ、ちょっと暖ぼ」

「はい、あんたの話は聞いてあげたわ。じゃあ次、私の番ね」

どもりも句読点も込みだなんてどれだけ神経質なんだ。
その十分の一でも自室の整理やら、身の回りのことに向けられないのか、こいつは。

「話聞いてると竜児、ただ居合わせただけっぽいけど、それでなんで独身連れて帰ってくんのよ」

成り行きというか、離れてくれなかったというか。
目の届かないところに行かれると何をしでかすか分からないという、一種の強迫観念みたいなヤツのせいもある。

「・・・ほっとけねぇだろ」

ただ、そう思ったのも本当だ。
しかし大河は無常にも、

「ダメよ、返してらっしゃい」

犬猫じゃあるまいしできるか、そんなこと。
返そうにも、その帰る家が失くなっちまったんだよ、きれいさっぱり。
それに本人を前にしてそういうことを言うな。

「・・・やっぱり、迷惑よね」

見ろよ、気を遣いはじめたじゃないか。

「う・・・だ、誰もそんなこと言ってないじゃない」

そんなギクッ、とかしまった、みたいな顔したってもう遅い。
それに今の今返してこいって言ってたのはどこの誰だ。
けっこうあんまりな事言ってたと思うぞ。

「いいのよ逢坂さん、気を遣ってくれなくても。先生は大丈夫ですから」

言って、佇まいを正すと深々とお辞儀。

「ありがとうございました、高須くん」

こういうところは、やはり歳の・・・じ、人生経験の差だろうか。
生徒相手とはいえ、締める時はキッチリと締めた礼儀と所作。

「ちょ、ちょっと・・・竜児、ねえ」

いつもの押しの強さが発揮できないのは、自分でも言い過ぎたという自覚と負い目があるんだろうな。
しょうがない、後で文句を垂れられても困る。
それに、このままじゃ俺も後味が悪い。

「先生」

「はい」

身支度に取りかかっている背に話しかけた。
肩が僅かに揺れる。

「さっき言ってたじゃないですか、行く当てがないって」

「幸い現金の持ち合わせはありますし、今時ネットカフェで寝泊りしている女性も多いそうですし、いきつけのファミレスだってありますから。
 これ以上生徒の厄介にはなれません」

大河に怯えていた時とは打って変わって毅然とした態度だ。
微妙に発言が虚しいが。
いや、意固地になっているのかもしれないな。

「ずっとそうやって生活するんですか」

「・・・こだわらなければアパートくらいすぐに見つかるわよ」

こだわらなければ、か。
確かに消し炭同然になってしまったあのマンションと比べたら、その辺の賃貸アパートは大概は見劣りすると思う。
独りで暮らすには贅沢な方に入るだろう。
それに逡巡している様からしても、アパートでもけっこう妥協していそうだ。

「だったら、それまでここに居たらいいじゃないですか」

「それは・・・でも」

揺れてきた。
あともう少しか。

「これ以上迷惑をかけるわけには」

「うちの泰子はそういうのを迷惑がるようなヤツじゃないです」

北村の時も、最後はああなったが、困ってるヤツを見捨てるようなマネはしない。
大河にだってそうだった。
いつしか入り浸るようになっていたのを当たり前みたいにすんなり受け入れていた。
事情さえしっかり説明すれば大丈夫だろう。

「大河だって。な、おい」

「・・・ここは私ん家じゃないんだからどうこう言えないわよ」

そっぽを向いた大河。
だから気にするな、ってことだろう。
素直じゃねぇな、ホント。

それと一つ間違いがあるぞ、ここはお前の家だろ。

「インコちゃんはどうかな?」

「いぃ、イいぃいいぃっ・・・イィ───ッ!」

「いいらしいです」

ナイスだインコちゃん。
スーザン・ボイルに負けない美声といい、そのハツラツさといい。
それでこそ我が家の優しくて可愛らしい癒し系エンジェル。
へそ曲がりでワガママばかりの大飯食らいとは大違いだ。

「ほら、誰も迷惑だなんて思ってないですよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

返事が返ってこない。
インコちゃんはやりすぎただろうか。

「高須くんは・・・」

しばらく待つと、今まで背中を向けていた先生がこちらに向き直った。
口を開くものの、そこで詰まる。
言葉を選んでいるように言い淀み、顔を上げては俯けてを繰り返した後。

「迷惑じゃ・・・ない?」

目線は合わせずに、小さな声でそう言った。
迷惑じゃないと言えば嘘になる。
ただでさえ家計がプチ火の車なうちに、更に食費を圧迫してくる大河と、それだけでも断る理由にはなるかもしれない。
なにより俺と泰子で足りちまう狭い家だ。
泰子曰く小っちゃくて省スペースな大河だが、それでも三人でいれば手狭に感じてしまう。
これ以上人を増やせる余裕はない。

「ないですよ、ぜんぜん」

知ったことかと、打算やその他諸々からくる言い訳を頭から追い出す。
今更過ぎだろ、そんなの。
第一それを面と向かって言えるんだったら、ここまで面倒見る前にはお帰り願ってる。
それに───

「・・・冷めちまうし、もう飯にしませんか。今日のはけっこう自信あるんですよ」

なんとかしようともしないで放り出すのだけは、それだけは、何故だか無性に嫌だった。
身近に二人、そういう人間を知っている。
したんじゃない、されたんだ。
勝手な都合で振り回されて、それで・・・それは、この場合とは事情だって何だって違うのも分かってる。

「先生・・・?」

自己満足でもいい。
負い目や引け目を引きずるくらいなら、よっぽどそっちの方がいい。

「どうかしっぶ」


次の瞬間、気が付くと目の前が真っ暗だった。
口まで何かに覆われて息苦しい。
なのになんだか暖かくて柔らかくて、それでいていい匂いが鼻腔をくすぐる。
これ、どっかで・・・石鹸?
それにしては、ほのかに甘い匂いが混じっているような。
って、そんなこと考えてる場合じゃない。
本気で苦しくなってきた。

「ぶはっ」

「ふぐ・・・たかすくん! たかすくぅん!」

「ちょ、ま」

どうにか隙間を見つけて無理やりに頭を出すと、今度は天井が映る。
押し倒された。
それが分かったのは、畳の感触を感じてからだった。

「あり、と・・・ありがとおぉ・・・」

覆い被さっている先生を、俺は自分からどうにかしようとしなかった。
どうすればいいのか分からなかった、というのもあるが。
それよりも、俺の注意はこっちからそっちに行っていた。

「で、できればお手柔らかに・・・」

そいつはニッコリ、満面の笑顔を作って立ち上がった。
顔面の筋肉も皮膚もバシバシに引き攣ってるが、笑顔だった。
目がマジだった以外は。

「ざんねん、そのお願いは聞いてあげられないわね」

だろうな。
大河が俺の頼みを聞いてくれた事も、すんなり聞くなんて事も滅多にない。

「その代わり、歯は食いしばっておきなさい」

代わり?
何だ、耐え切れるくらいには加減してくれるってんだろうか。

「思いっきり痛くしてあげるから」

逃げ出そうにも、仰向けに寝転ぶ俺にしがみ付いている先生を跳ね除ける事もできず。
できたとしても玄関との間に隔たる、鬼みたい形相で仁王立ちしている大河をすり抜ける考えも思いつかず。
そもそも、その前には俺はとっ捕まるだろうし、この状態では既に捕まったも同然。
どの道俺が地獄を見るのは必至だ。
いっそこのままでも窓から塀伝いに外に出て体力の続く限り逃げてみるか。

「やめときなさい。そんなことしたら後がヒドいわよ」

おい、ちょっと待て。
なんで俺の考えてることが分かる。
口に出してないだろ、今。

「バカね、竜児のことならなんでもわかるわよ」

それって普通はそんな意味じゃないだろ。
もっとこう、ツーカーとか、そういう言葉にしなくても伝わる物や仕草でってことなんじゃないのか。
正直頬なんて染められても、言葉通りダイレクトに考えがお見通しなんて言われた日には血の気の引く思いしかしない。

───え・・・そ、そう? ・・・素敵だったりしない?

いやしねぇって、どっちかっつーと不気味・・・・・・
大河?

───なぁに?

「大河?」

「だから、なぁに?」

かつて味わったことのない、言い様のない感情が全身を駆け回る。
腰の辺りで落ち着いたそれは虫みたいにぞわぞわ這っていて、かと思いきや背骨を通って脳天まで一気に突き抜けた。
ついでに腰も抜けた。

「あ・・・高須くん・・・」

ギュウっとされた。
最後に俺が聞いたのは、本能的に傍にいた誰かに助けを求めてした行為を抱きしめてきたもんだと思って殊更に艶っぽい声を出した先生と。

───なによ・・・なによそれ・・・なにやってんのよそれ・・・竜児のぉ、バカああああああああああああああっ!!!

同じく勘違いし、空気も声帯も、俺の鼓膜さえも震わさずに絶叫した大河だった。

                    ※ ※ ※

───だいじょうぶ?

ああ、別にこのくらいいつものことだから。
ちょっと鼻が曲がった気もしなくもないけど、まあ平気だろ。
骨折も、陥没してる訳でもなさそうだし。
それで、あの・・・誰?

───ぐええぇ

「いつまで寝てんのよ」

「どぅおふ!?」

鳩尾にカカト落としでもされたような鋭い衝撃で飛び起きた。
のだが、上半身が持ち上がらない。
盛大に咽こむ俺を踏んづける足が邪魔をする。

「いい加減起きなさい竜児、ご飯食べらんないじゃない」

「・・・分かったからまずこの足をどけろ」

ふんっと鼻を鳴らすと、最後に一際重く圧しかかった大河は俺の上から足をどけた。
息を整えながら起き上がり、まず時間を確認する。
時計の針は最後に見た時から軽く十分は飛んでいた。
その程度で済んでよかったと思おう、嘆いても時間は巻き戻らない、するだけ時間のムダだ。
次に居間の隅へと目をやる。

「・・・・・・ん? んん?」

自分を見つめる俺にインコちゃんが気付いたらしい。
小首をかしげて不思議そうにしている。
夢だとは思うが、さっきのは一体何だったんだろう。

「なによ、ブサコがどうかしたの」

「なんでもねぇ」

俺の胸中の疑問に答えられる訳もなく、インコちゃんはつぶらなおめめをぱちくり瞬かせていた。

「そっ。ところで、私本ッッ当にお腹空いてるんだけど」

「おぅ。ところで大河」

「なによ」

「先生はどうしたんだ」

大河の目つきが変わった。
ギンって感じに。
不機嫌さを隠そうともせず、ピシっと親指で玄関を差す。
外にいるのか。
なんでまた。

「・・・まさか、お前」

「ち、違うわよ! 私じゃないもん!」

俺が夢の世界に片足突っ込んでいる間に───そう早合点しかけたが、どうも違うようだ。
疑われて憤慨した大河が即座に疑惑を否定した。
それと同時、玄関のドアが開く。

「はぁー・・・あっ高須くん!? もういいの、大丈夫?」

「ちょっ、なにすんのよ!」

靴を脱ぐのももどかしそうに、大わらわで駆け寄ってきた先生は、俺の横にいた大河を勢いに任せて押し退ける。
立ち上がり、声を荒げる大河をなおもシカトして、俺をベタベタ触ってくる。

「いや、大丈夫っていうか」

「やっぱりどこか痛むのね!? 待っててね、今救急車を」

「だ・か・らっ、なんべん言ったらわかんのよ!? そんなの呼ばなくたって竜児は平気なの!
 なんっっっにもわかってないんだから口挟まないで!」

救急車ってのは大げさだろ。
現にこうしてなんともないんだから。
しかし、なんべん?

「でもね、逢坂さん? あなたが殴ったのって頭なのよ、頭。後からなにか起こることだってあるかもしれないのよ」

「ないわよ! いつものことだし、竜児、ピンピンしてるじゃない! さっきっからなんなのよ、そんなことばっかり!」

どうやら気絶している間中ずっとこんなやりとりをしていたらしい。
大河がうんざりした様子でがなり立てている。
相当フラストレーションが溜まっているのか語気がひたすらに荒い。
よく今まで手を出さなかったもんだ、いつもならとっくにってさっきの蹴りか、あれか。
完全に八つ当たりじゃないか。
いやまあいつものことだし別にいいんだけども。

「私は高須くんが心配で、それで」

先生は先生で怯みもせずに大河に突っかかってる。
年齢と婚期の話を抜けば、こうまで我を通す姿も珍しい。

「あぁもうっ、竜児!」

「お、おぅ、なんだ」

いきなり振られて固まる俺。
大河はズンズン寄ってくると隣に腰を下ろし、おもむろに、

「・・・だいじょうぶよね? なんともないわよね?」

吊りに吊り上った目尻を泣きそうなくらい下げて覗き込んできた。
じんわりと瞳全体が波打つように揺らぎ、さっきまでのがギラギラって感じなら今度はうるうるというように光を放つ。

「あ、ああ」

不覚にも見とれていた俺はそんな曖昧な相槌を打っていた。
水面みたいに目の前の光景を映す大河の瞳の中の俺は、アホみたいに口を開けた間抜け面に点になった目玉をくっ付けて、
そこに川嶋でもいようものなら腹を抱えて爆笑していただろう。
と、不意に間抜け面が消える。
絞り込まれていた焦点が徐々に徐々に広がっていくと、目を瞑った大河が。

「よかった」

そう言い、微笑む。
こぼれて伝い落ちるものが頬で光った気がした。

「ほら見なさいよこの独身、竜児がなんともないって言ってんだからもういいでしょ」

気のせいだな。
胸に広がってくこの虚しさやいたたまれなさも、きっと気のせいだ。

「高須くん」

胸を張る大河には何も言わず、先生もまた覗き込んでくる。
探るような、確かめるような。
ただ、その目の奥では案じるような色が光っていた。

「ムリ、してない」

無表情といってもいいぐらいだった。
けど、なんだろう。
叱られている気がした。

「もしそうなら・・・」

いや、それともちょっと違うか。
叱られていると思ったのは、俺がそう感じているだけだ。
先生から伝わる空気は、一貫して心配しているそれだ。

「そう」

首を横に振ると先生は顔を綻ばせた。
肩に入っていた力も抜ける。

「ならいいんです」

しかし、でも、と一息置くと、注意するみたいにこう言った。

「なにかあったらまず先生に言ってください。約束ですよ、高須くん」

無表情から一変、ほんわかと笑顔。
だけどしっかり釘を刺す。
嫌とは言えない迫力に押されて今度は縦に首を振ると、先生も満足気に頷いた。

「それにしてもヒドいのね、逢坂さんって。いつも高須くんにこんなことしてるなんて」

「してないもん。人聞きの悪いこと言わないでよ」

「さっき自分で言ってたじゃない、いつものことって」

「そうだったかしら。それにしてもしつっこいわね、そういう性格してるから行き遅れたんじゃないの」

俺を蚊帳の外へと放り出した二人は、一気に険悪な雰囲気へと突入した。
女子同士のケンカにありがちな関係のないことや飛躍した展開、チクチクドロドロと耳を塞ぎたくなるような口論は白熱の一途を辿り、
次第に張り詰めた空気が室内に充満しだす。
そろそろ身を引いてほしい先生はむしろ大河を煽りに煽り、負けじと大河は禁じられた単語をズバズバ浴びせかける。
ここらで収集をつけないとヤバイ。
何がヤバイって俺の胃とかあってないような女性に対する理想とか、あとインコちゃんもそうだ。
優しいインコちゃんは身の回りでいざこざがあると心を痛めてついでに何らかの神経も痛めてしまうのか羽毛が散る散る。
早くなんとかしよう。
俺は一触即発という崖の一歩手前で互いを突き落とそうと押し合っている二人を宥めるべく、ずっと待機させていた炊飯器のフタを開けた。
ピクっと大河が動きを止める。
くりくりとした目で俺の手元、湯気をくゆらせる炊き立ての白米を見る。
つられて先生も大河の視線を追う。
いいぞ、こっちに興味を示した。

「腹減ってたんだろ、大河」

「ううん、すっごくよ。すっごくお腹減ってるの」

「分かったって。ほら」

飯をよそってる内にもう大河は席についていた。
箸まで持ってやがる。
行儀が悪いから両手で持つのはやめろ。

「先生も、どうぞ」

「へ? え、ええ」

大河のあまりの変わり身の早さに目を丸くしている先生もテーブルへ促す。
これで準備完了。

「んじゃ、いただきます」

「いただきます」

「・・・いただきます・・・っ、おいしい」

「おかわりっ!」

「おぅ、たくさん食えよ」

ようやくありつけた晩飯は少しばかり冷めてはいたが、二人には好評のようで、
特に大河はずっと待っていたためか普段と比べても食いまくってる。
この分なら炊飯器の中身をキレイに平らげるだろう。

「すごいわ高須くん、これ本当においしい」

流されたようで釈然としていなかった先生も箸を持つ手を置かず、舌鼓を打っている。
口に合ってよかった。
それ以上に上手くいってよかった。
これで無視されてたら二人を止められそうな手立てが他に思いつかない。
本当によかった、これで心置きなく───

「結婚するならこういう家庭的な旦那様の方がいいわね」

「・・・あ?」

───遅めの晩飯はつつがなく過ぎていった。


300 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2009/12/31(木) 00:30:57 ID:Wg52VKI0
タイトル
「ゆりドラっ」

続けたい、その前にずっと終わらせたい方を先に終わらせたい。
とにかく、よいお年を。

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