最終更新: text_filing 2010年01月20日(水) 21:35:50履歴
175 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/01/18(月) 18:17:18 ID:q++ZHMUr
「きゃん」
足先に何かが引っかかった感触で目を覚ました。
間を置かずにまだ寝ぼけた頭に降ってきた泰子の、歳に似合わなすぎるのに似合ってしまっている小さな悲鳴。
それと、胴体目掛けて降ってきた泰子本人。
寝起きには中々ヘビーだ。
文字通りの意味で。
「ひっく・・・はれぇ〜、りゅうちゃんだ〜」
眼前に迫る泰子は相当に酔いが回っているようで、香りがキツい安物の香水を掻き消すくらいに酒の臭いをプンプンさせている。
呂律もかなり怪しい。
目元も、眠気も手伝ってるんだろうが潤みを増していて、なにが面白いのかケタケタころころ笑っている。
また飲みすぎたらしいな、この様子だと。
「んふふふ〜りゅ〜う〜ちゃ〜ん」
悪酔いはしていないみたいで、また、昨日晩飯を用意できなかったのを忘れてる模様。
随分とご機嫌だ。
寝転ぶ俺の頭をわしわしぐしゃぐしゃ撫でたりもみくちゃにし、しまいには両手でかき抱いて頬ずりまで。
覚めきってなかった頭が本格的に動き出す。
「そろそろ降りろ、重てぇんだから」
「ん〜ん、やぁだぁ。ていうかやっちゃん重くないもん」
子供か。
いや、子供だったら体重のことをとやかく言われてもなんともないだろうし、こんなデカイ物だって二つもくっ付けてる訳ないから、
やっぱり子供じゃないんだが。
子供がそのまま成長したようなもんだろう、これは。
「分かった、分かったから、とりあえず降りてくれ」
「むり、もう寝ゆ」
時間は───六時を回ったところか。
眠いのも頷ける。
いつもならもう帰ってきて、寝ててもいい頃だ。
多分帰るのを渋ってこんな時間になるまで居座る客でもいたんだろう。
たまにそういうことがあるし、自室までたどり着く前に泰子が力尽きて、居間でいびきを掻いているのもザラだ。
今みたいに気温が低い時期はあんまりしてほしくないが、しょうがない。
仕事で疲れてるんだ、小言は飯の時にでも言えばいい。
「ほら、今作ってくるから、朝飯できるまでこれ使ってろよ」
「あん・・・むぅ〜・・・」
今まで被るようにして掛けていた毛布は、寝てる間に移った体温がまだ篭っていてそれなりに暖かい。
それを、コロンと横へ倒した泰子に掛けてやる。
「え〜いっ」
「うおっ!?」
つもりだったが、毛布を掛けようとしたところで仰向けに寝ていた泰子はいきなり飛び上がり、俺はまた泰子を乗っけて床へと寝転んだ。
ドシン、なんていう派手な音と共に。
朝っぱらから近所迷惑なことをしておいて、当の本人は謝りもせず、それどころか俺が手にしていた毛布を手探り寄せるとそれを広げ、
そのまま自分に掛ける。
俺を敷布団にしたまま。
普段はとろくて、しかも酔っ払いのくせに、流れるような機敏な動きだった。
「あ〜これいい〜・・・ぬっくぬくでぇ、ちょっと硬い気もするけど寝心地いいなぁ」
「お前、いい加減に」
本気で押しどけようとした時、近くで何かが軋む音がした。
思わず泰子の脇に回した手が止まる。
じんわり手の平に広がっていく泰子の体温を感じてハッとした。
なんかこれヤベェ。
そう思い、慌てて飛びのこうとした刹那。
「おはようございます・・・? 高須くん、どうかし」
襖が開いた。俺の部屋のだ。
中から誰かが出てくる。
昨晩、ほぼ文無しのガチ宿無しになったところに出くわし、なし崩し的に昨日一晩泊めた先生。
今ので目を覚ましたんだろう。
しかし、様子を見にきたところで固まる。
視線も固定している。
その先にいるのは俺。
対し、俺が見ているのは先生の手元。
添えられた襖の取っ手。それが付いている襖全体が、よくよく目を凝らすと微かに震えている。
地震だ。
震源地は、襖に手を掛けてこちらを凝視している。
「ねぇ竜ちゃん」
「あの、高須くん」
泰子と先生が口を開いたのはピッタリ同時だった。
「だれ?」
「どなた?」
今俺の上に乗っかってる酔っ払いは母親で、俺の部屋から出てきたのは担任の先生だ。
そう説明してすんなり信じてもらえるような感じじゃなかった。
泰子も、先生も心なしか目が据わっている。
「えっと・・・」
そんな二人から視線を逸らしたのがマズかったのかもしれない。
そんな気全然ないが、やましいモノだと勘違いさせるには十分だったんだろう。
泰子がしゃくりあげる。
「りゅうちゃんが知らない女の子連れ込んだぁぁぁぁぁ・・・」
「なんですってええええええええええええええぇぇぇ!?!?」
そんな絶叫が隣のマンションから木霊した。
耳にした時には既に行動を開始していた俺は、泰子を無理やり床に降ろすと玄関へと一直線に駆けていく。
外からは一足飛びに階段を駆け上がるけたたましい音が。
クソ、速え。
こんな短時間でどうやってここまで来たんだ。
間一髪どうにか鍵と、もしもの用心にとチェーンを掛けた瞬間。
ガチャン!! ガチャガチャガチャガチャンガチャガチャガチャガチャガチャッ!!
備え付けてある覗き窓の外には耳障りな金属音に合わせて猛烈に揺れ動く、フワフワとした見慣れた長髪があった。
角度の関係もあってその下は窺い知れない。
知れないが、その下を見たら忘れられそうにないだろうから知りたくない。
ガチャガチャガチャガチャン! バンッ!
もうダメかもしれない。
心が折れかけ、諦める寸前まで、ノブどころか錠前をドアごと破壊する気だとしか思えないくらい力任せに抉じ開けようとしていた
薄っぺらいドアの向こうにいたそいつは、しばらくすると最後に蹴りを一発入れて、来た時とは逆に静かに階段を下りていった。
「な、なに、どうしたの高須くん? ていうか、今のって逢さ」
「泰子」
話をぶった切ってしまって先生には悪いが、今はこっちが先決だ。
玄関の施錠はそのままに、俺は居間へと戻る。
「・・・なぁに」
ふて腐れてますって態度全開に毛布に包まり寝転ぶ泰子。
肩を揺すっても顔を向けず、イジケた声を出す。
正しく手のかかる子供そのものだ。
「いいか、ちゃんと聞けよ。この人な、先生だぞ、先生」
「ふーん、へぇ〜、そうなんだ、先生なんだぁ、せんせい。そういうアレなの?」
何のことだ、アレって。
「やっちゃんあんまりこゆこと言いたくないんだけどぉ、ふぇちっていうんだっけ? うん、そうふぇち。
それでね、あんまりそういうのにこだわってるとね、どうなのかなぁって」
「俺はお前の頭の方がどうかと思うけどな。それと俺にそんな趣味だのフェチだのはねぇ」
気のせいか背後から「ないの!?」って聞こえたような。
「ううん、隠すことじゃないよ? 悪いことでもないし、ただぁ・・・なにか言うことあるんじゃないかなぁ」
ごめんなさいっていうのは悪いことをした時に使うんじゃないのか。
たしかまだガキの頃にそう口を酸っぱくして教えられた覚えがあるんだが、教えたのは誰だったか。
「なんで謝んなきゃいけないんだ」
「だってそうだもん、竜ちゃんがいけないんだもん。やっちゃんも大河ちゃんもいるのに勝手に女の子連れ込んで、うそまで言って」
「俺がいつウソなんて言った」
「言ってたもん、今そのひとのことせんせいって」
その説明をしようにも、泰子は矢継ぎ早にぶーぶー文句を垂れているばかりでちっとも耳を貸そうとしない。
泰子の中では完全にそういうことになってしまっているらしく、俺は隠れて女を家に上げて、
しかも現場を押さえられたというの、この期に及んで先生だなんて偽って言い逃れをしようとしている風に捉えられている。
ついでになにやら変な趣味にまで手を染めているという疑惑まで。
誤解も誤解、現実からかけ離れた勘違いだ。
突飛すぎて頭痛がしてくる。
「そんな見え透いたうそなんか言って・・・竜ちゃん・・・うそ・・・」
声色に翳りが見え隠れしてきた。
毛布の中でモゾモゾ身じろぎをしていると、不意にすっぽりと頭まで覆う。
蓑虫よろしく、そのまま泰子は黙りこくってしまった。
「おい」
とりあえず揺さぶってみるものの反応なし。
「おいって」
強引に毛布を引っぺがしにかかるもビクともしない。
頑なに拒否される。
「そうだ、昨日食いたがってたプリンが冷蔵庫にあるぞ」
本当はそんなものすっかり頭から抜けてて買っていないが、この際顔を出してくれそうならなんでもいい、ものは試しと嘯いてみる。
しかし、結果はいやいやと身を捩じらせ、床を擦り這って距離をとられただけだった。
いや、最後に右手だけ毛布から出すとピッと放り出されていたバッグを指す。
その下には押しつぶされたコンビニの袋。
中身はよりにもよってプリンだった。
「なぁ、ちゃんと聞いてくれないか、話」
困り果て、できるだけ落ち着いた声をかけてみても無視。
泰子は一向に被った蓑ならぬ毛布から出てこない。
しばし待ってみるが、それで何かが変わることはなく。
「勝手にしろ」
時間も時間だ。
さしあたって朝食の支度をしなければならないため、これ以上は付き合いきれない。
垂直に立てれば天井に届きそうな深い溜息を残し、立ち上がろうと床に手を着き腰を上げる。
「・・・なんで・・・」
するとようやく泰子がこちらに顔を向ける。
半分だけ頭を出しているのでどんな表情なのかまでは判別できない。
「なんで竜ちゃんが怒るのぉ・・・竜ちゃんがわるいのに・・・」
目尻から珠になった雫がこぼれる。
両の指先で軽く摘まれていた裾をぎゅっと、固く握り締める。
「や、泰子?」
「うそまでつく竜ちゃんがぜんぶわるいのに、なんでやっちゃんのこと怒るのぉ・・・なんで・・・?」
「いや、そんなんじゃ」
顔をくしゃくしゃに歪めた泰子に見上げられ、途方にくれる。
焦り、落ち着けようとするも、「ぐず」だの「ふぐ」だのと嗚咽を漏らす泰子は、
「ねぇ、なんでぇ・・・?」
そう繰り返すのみで、何度もそうじゃないと俺が言おうとしても、
「竜ちゃんのはなしなんてききたくない・・・どうせまたうそんこだもん・・・」
というように聞いてもくれず、取り付く島もない。
どうしたものかと思案していると、ふと視界の隅でなにか、動く影のようなものを捕らえた。
具体的にどこら辺かというと、窓の外。
普段なら気のせいか、スズメかなんかだろうとそれ以上気に留めたりはしないだろう。
しかし、だ。
何故だかこの時、俺は自然と玄関に目をやっていた。
距離にしたらおよそ5〜6歩といったところか。
鍵はかかったままだ、さっき俺がかけてそのままにしてある。
その向こう、外からは人の気配はしない。
ぶっ壊しそうな、いやもうぶっ壊すぐらいの勢いで抉じ開けられようとしていたドアは静かにそこに佇んでいる。
勝手に誰かが入ってくるという事態にはならないだろう、チェーンまでしてあるんだから。
安心していいはずだ。
なのに、この胸騒ぎは一体───
コン、コン
背後から二回、窓ガラスをノックする音が。
この家はアパートの二階部分にあって、隣は日光すら遮るほどのバカみたいにデカいマンションが建っている。
ノックされたのは、そのマンション側に面した窓ガラス。
ベランダ越しにやりとりしたことは何度もあったが、まさか、自宅の窓から直接うちのベランダに降りてきやがったのか。
施錠が裏目にでた。
あっちからはこっちが何をするのか丸見えで、俺が玄関まで行って鍵を外してるところを見ようものなら即飛んでくるだろう。
「なぁ、インコちゃん」
「う?」
窓ガラスを叩いたのは多分、というよりもほぼ確定だろう、あいつだ。
だけど、もしかしたら表の通りを歩いていた誰かが蹴飛ばした石なんかが、何かのはずみで二階にあるそこの窓に当たった、
ということもあるかもしれない。
まだ俺は確認してないんだ、可能性は捨てきれない。
一縷の望みを託し、ぐずる泰子のかける声を無視して俺はインコちゃんにこう尋ねた。
「ベランダに誰かいるのかな」
一瞬の沈黙。
「に」
そしてただ一言、『に』。
『に』とは一体なんだろうか。
数字か?
ひょっとしてニワトリでもいるのだろうか。
だったら良いんだが。
雌鳥だったらなお良い、卵代が少しは浮く。
「に、にに、にげげっにげ」
当然だが違った。
『に』と『げ』を連呼するインコちゃんはつたなくも必死に何かを伝えようとしている。
切迫したその様子が俺からどんどん希望を削いでいく。
コン、コン、コン
再度鳴り響くノック。
規則正しく一定の間隔を保ってのそれは、むしろ嵐の前の静けさを思わせる。
「にーにに、にげ・・・にげ「竜児」て」
声を震わせるインコちゃんが全てを伝えきる前に、割り込んだそいつは俺を名指しで呼びつける。
「ここを開けてちょうだい」
思いの外落ち着き払った口調でだが、その実とんでもない圧力を込めた命令に、知らず鳥肌が立つ。
開けたらどなるかなんて決まってる。
「聞こえなかったのかしらね、じゃあもう一回言うわね。ねぇ竜児? ここ開けて、おねがい」
今度はちょっと高めの声、明るい口調。
命令っぽさはなりを潜め、お願いというように表面上は下手に出てる。
まるで猫でも被ったようだ。
どこで仕留めてきたのか、床に広げたらインテリアとして飾れそうな立派な猫科の猛獣の毛皮を。
だけど俺は知ってる。
「あれ、変ね、また聞こえなかったのかな」
そんなもん、安物のメッキ加工よりも容易く剥げちまうことを。
そして、その下から現れるものがどれほど凶暴かってことを。
「困ったわね、もう。竜児、聞こえてる?」
届くか届かないか、ギリギリの声。
唇が触れる寸前まで近づき、吐息でガラスが曇る絵が浮かぶようだ。
「・・・ここを開けなさいってぇ、言ぃってんでしょうがぁ!! あんたなに聞こえないフリしてんのよ、ホントは聞こえてんでしょ!?
いい加減にしとかないと私本気で怒るわよ!? この窓叩き割られたくなかったら今すぐ開けなさいよ、いいわね、竜児ぃぃぃいい!!」
早朝の澄んだ空気を絶叫が掻き消し、伝わる振動だけで窓ガラスが割られそうだ。
もうこの調子ではガラスの一枚や二枚、躊躇なく破って侵入してくるだろうことは想像に難くない。
俺には観念して大河を迎え入れるしか術が残っていなかった。
「よ、よう、大河。早いな」
刺激せぬよう平静さを───そんなことを必死になって自分に言い聞かせている時点で平静さを欠いているのはしょうがないが、
それでもできるだけ装い、ずっと背中を向けていた大河へと向き直る。
勝手に下がっていた目線を徐々に上げていくと、そこには制服に身を包んだ大河。
コートは羽織っておらず、手や首など、外気に晒されている地肌の部分が血管が浮き出て見えるくらい白く透き通っている。
先ほどドアを叩きまくった後、一旦帰ってから今までの間に身支度を済ませていたようだ。
寝癖でところどころ髪の毛が跳ねているのはまぁ、ご愛嬌というか。
額にいくつも張り付いた青筋と激昂して真っ赤になった顔が愛嬌なんてもんを台無しにしてるけどな。
と、ギロリと俺を一睨みした大河が手で顔を覆い隠す。
赤ん坊にやるような、いないいないばぁみたいに。
「おはよっ竜児。ビックリしたでしょ、今朝はね、なんだかひとりでに目が覚めてね、ちょっと驚かしてあげようと思ったの」
ああ、ビックリだ。
起こしにいく前に起きてたことでも、言う前に身支度を終えていたことでもなくて、劇的なんて言葉じゃ生温いくらいのビフォーアフターぶりに。
遮る手を取り払うと、そこにははにかんだ笑顔。
血みたいに濃い赤色をしていた皮膚は頬を除いて嘘みたいに落ち着き、頬にしたって桜色といえるくらいになっている。
「そ・・・うか、一人で起きたのか。偉いな、大河」
「やめてよ、もう、子供あつかいして」
言葉とは裏腹にパァッと笑顔を輝かせる大河は、いっそ上機嫌なんじゃないかと俺に錯覚を起こさせる。
そんなはずねぇだろと分かっていながらも、警戒心が薄れていくのが分かる。
「それでね、あのね、竜児」
「お、おぅ、どうした」
両手を腰の後ろに回し、もじもじしながら見上げてくる大河。
少しばかりの恥じらいを含ませたその様子に、続きを促すと、
「あけて」
すぐには二の句が告げられなかった。
小さく小さく放たれたその言葉に金縛りに遭ったかのように動けなくなる。
「あ・・・ああ」
甘えたような大河の、その言うことを素直に聞くことに抵抗がないわけじゃない。
が、これで開けなかったら本気で窓を割りにくるだろう。
それに玄関の時といい今といい、もう十分すぎるほど怒りは買っている。
元より無い選択肢を探していても結果は同じだ、目に見えている。
錆付いたように固まる体を意志の力で動かし、微妙に震える手で窓にかかっていた鍵を外した。
カラカラとサッシが音を立ててスライドしていき、半分程度開いたところで大河が入ってくる。
「悪い、寒かったろ。今温まるもんでも淹れてやるよ」
「ありがと」
感謝の言葉はしっかり腰の入った右拳に乗せられ、俺の胸に突き刺さった。
毎度のことながら手乗りとまでに揶揄される小さな体、相応にしかないはずの体重からは到底信じられない衝撃に襲われ、気が遠のく。
脱力して倒れこみそうになった俺の胸倉を突き出した手で鷲掴み、軽々と持ち上げる大河。
余った方の手を使って後ろ手でピシャリと窓を閉め、それを合図に、
「出しなさい」
何を、と口にすると、大河は続ける。
「とぼけたってだめよ、まだここに居るんでしょう」
「だ、だから、何がだ」
「そう。あくまでシラ切るのね、竜児」
締め上げがキツくなる。
「じゃ、先に誰かだけでも聞いておこうかしら。みのりん?」
どうしてここで櫛枝の名前が。
疑問はしかし、それだけに留まらなかった。
「それともばかちーかしらね」
ギリギリと絞められた首の骨が軋む。
だんだんと酸素が行き渡らなくなってきたのか、末端である指先から痺れ始めて感覚が鈍い。
耳元では轟々と、暴風雨みたいな爆音が鳴りまくる。
それでも、
「ありえるわ、なんたって前科があるもの・・・あの時もばかちー、色目使ってたし・・・」
そんなことをブツブツ呟きながら、危うい印象を与えてくる大河は尋問を続ける。
「さっ、今なら怒らないであげるから隠してるのが誰か白状しなさい、駄犬」
「た、い・・・がはっ・・・」
「まぁ、どうせばかちーなんでしょうけど。ついでに当ててあげるわ、やめろって言っても無理やり上がり込んだんでしょ?
あんのお腹ダルメシアン、ヒトん家の迷惑も考えないで・・・まさか盛りでもついたのかしら・・・これだからイヤね、あにもーは」
厄介事ってのはどうしてこう連鎖反応でも起こすように立て続けにやって来るんだろう。
どうやら泰子の勘違いを真に受けて、俺が誰かを家の中へ連れ込んだと思い込んでいるらしい大河。
それでなんでここまで憤慨しているのか理解できないが、実際大河は烈火の如く怒りを燃やし、居もしない櫛枝と川嶋、というよりも、
完全に川嶋を居たことにしてしまい、掠れた声でどうにか喋りかける俺を無視。
あらん限りの誹謗中傷を、おそらくそこにいるんだと当たりをつけたのだろうか、俺の部屋へ放ちまくる。
仮にもしこの場に川嶋がいたら、何も言わずに身近にある物を手当たりしだいにぶん投げてきそうだ。
「・・・なによ、ずいぶん大人しいじゃない」
挑発に乗ってその身を顕にするだろうと思っていた川嶋が一向に出てこないことを大河が不信に思いはじめた。
当たり前だろ、そこはもぬけの殻だ。
と、急に呼吸が楽になってきた。
大河が俺の首から手を離す。
「ちょっと、ばかちーのやつどこにやったのよ」
四つんばいの姿勢という、犬そのものな格好。
それを気にする余裕もなく、バクバクと暴れる動悸をなだらかなものへと静めている俺の上から大河が言う。
「・・・お前が何でそこまで目の敵にしてんのか知らねぇけど、川嶋がうちに来るわきゃないだろ。櫛枝だってそうだ」
「そっ・・・それは、でも、そうなんだけど」
「だいたい大河、昨日かなり遅くまでここにいたじゃねぇか」
言外に、その後になってからこの家にやって来るような人間なんているのか、と込める。
昨晩、細かい時間までは覚えていないが、日付が変わって大分してから大河はやっと自宅に帰っていった。
余程切羽詰った用でもない限り、あんな夜更けに訪ねてくるような非常識なやつなんて普通はいない。
それこそ、肝心の中身を入れ忘れたことにも気付かないで、空の封筒を獲り返しにくるようなやつとかじゃなきゃあな。
しかもあの時は不法侵入までやってのけていた。
非常識の極みだ。
少なくとも櫛枝も川嶋も、その辺の分別は弁えてるだろ。
目の前で泡食ってる大河と違って。
「だだだ、だけど、だって! 竜児が変な女連れ込んで変なコトしてるってやっちゃんが! ね、そうなんでしょ?」
「大河ちゃん・・・ふぎゅ・・・」
知らない女から変な女へ。
また、連れ込んだだけでなく変なコトまで。
泰子の言葉をよりややこしく誤解している大河は、うつ伏せになってふて腐れていた泰子に詰め寄って同意を求める。
垂らした鼻をぐしゅぐしゅ啜り、泰子がコクコク頷く。
その程度は些細なことだとして気にするつもりはないようだ。
大河は大河で同意を得られたことにし、胸を張る。
「ほ、ほら! ごまかそうったってそうはいかないんだから、こっちには証人がいるのよ」
「誰か忘れてんじゃねぇのか」
「ハ?」なんて怪訝そうにしている大河に対し、立てた人差し指を矢印に、ある人物を指す。
「おはよう、逢坂さん。朝から元気ね」
そこには一部始終を一歩下がって眺めていた先生。
大河がますます渋面になる。
「独身がなんだってのよ」
「ふぇ・・・大河ちゃん、そのひと知ってるの」
疑問を上げたのは鳩が豆鉄砲くらったような顔をした泰子。
大河と先生とを交互に見やる。
そんな反応に今度は大河も訳が分からないと? を頭に乗っけている。
「あの、やっちゃん」
しばらくの間腕を組み、一から順序だてて事態を整理していた大河。
考えが纏まったのか泰子に問いかけ、
「やっちゃんが言ってたのって、もしかしてあれ?」
俺と同じく先生を指差す。
泰子はうんうんと、人形みたいに首をふりふり。
盛大なため息を吐いて大河が肩を落とす。
「あれ、あのおばさん。私と竜児の担任なんだけど」
「おばっ・・・」
紹介のされ方にショックを受けるも意義を唱えるのをグッと堪えて咳払いを一つ。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした、高須くんの・・・えぇっと、お姉さんでしょうか」
「いや、親です」
こんなのでもと付け加えそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
冗談が通じなかったら余計に面倒なことになりそうだ。
「そう・・・高須くんのお母さん・・・おかあさんっ!?」
「はひゅっ」
ぽけーっと成り行きを見てんだか見てないんだかの泰子が大声に硬直する。
血走った眼でグリン、なんて不気味に首を回した先生は、そんな泰子に
「はじめまして高須くんのお母さん。高須くんと、あと逢坂さんの担任をしております恋ヶ窪、恋ヶ窪ゆりと申します。
どうぞゆり、とかゆりちゃん、とかゆりゆりとか、親しげに呼んでください。あ、ちなみに担当している教科は英語です。
一応公務員ですのでそれなりに生活は安定していますし、私に散財癖はありませんし、貯金もそれなりだと思っています。
教職という仕事にはもちろん拘りはありますけど仕事が最優先〜とか生涯一教師とか、そういうのに固執する方ではありませんので、
家庭に入ってくれと言われればちゃんと考えますし、そうでなくても仕事との折り合いはしっかりとつけるつもりですからご心配にはおよびません」
「えっと、は、はぁ・・・そう、ですかぁ・・・あのぉ」
「ええ、仰らずともわかります。突然私のような者がお許しもなく、それどころかご相談もなしに上がりこんでいてさぞや驚かれたことでしょう。
ご不快に思われたのなら心から謝罪します。ですがこれには深い、深ぁ〜い事情がありまして、説明するとちょっと長くなるので要点だけを
簡潔に申し上げますと、不束者ですが、末永くよろしくお願いしますお義母様」
それはそれは丁寧かつそこまで教える必要があるのだろうかというくらい詳細な自己紹介を行った。
恭しく三つ指までつくというのは古風を通り越して、ちょっと気合が入りすぎていていろいろと外してる気もしないでもないが。
それにしてもこの淀みのなさといい、まるで入念な予行演習でもしてきたかのようだ。
ひょっとしたら半分くらいは使い回ししているテンプレかもしれないが、何をどうアピールしたいんだろうか。
「竜ちゃぁん、このひとなんなのぉ。なんかこわい」
案の定泰子はどう対処したらいいのか分からず、困り果ててしまっている。
助け舟を出したいのはやまやまなのだが、なんなのと言われても俺にはこうとしか答えられない。
「担任の先生だ、さっきも言っただろ。大河だって今そう言ってたじゃねぇか」
「・・・ホントだったの、それ・・・」
未だに疑う泰子に、俺は冗談半分に言った。
「俺が泰子に嘘なんか言ったことあるか」
思い起こせばいくらでも出てくるが、しかし泰子はまたも首をふるふる。
「ううん、ない」
はっきりきっぱり、即座に否定。
こそばゆさと一緒にこみ上げてくるこの罪悪感と、あとよく分からない疲労感はなんなんだろう。
今の今まで俺を疑い、信じようとしなかったのがそれこそ嘘のようだ。
「じゃ、このひとホントに竜ちゃんたちの先生さんだったんだ」
「お、おぅ」
なにはともあれようやく納得してくれたようだ。
これで目下のところ一番の問題は過ぎた。
「でもぉ、なんでその先生さんがうちにいるの?」
そう思っていたが、単に次の問題にすり替わっただけだった。
説明しなけらばならないことが山積みで、まだ一つしか終えてないというのに、多大な時間と労力を消費している気がしてならない。
「ねぇなんでなんでー? ひょっとして家庭訪問とか?
こんな時間にするなんて今のがっこうってやっちゃんの時よかけっこう変わってるんだねぇ」
なんて若干ボケたことを言っている泰子と、
「末永く? そう、そんなによろしくやりたいなら、こっちもよろしくてやるわよ。ええそれはもう す え な が く ね」
「い、いえ、あのあれべつに逢坂さんにじゃなくって、ちょっとキャッチーなつかみっていうかそもそもあなた関係ないじゃ」
「あ? 今なんかいった?」
まるで小姑のようにいびる大河といびられる先生を横目に、俺は無言で立ち上がり、朝飯の支度をするべく台所へと足を進めた。
先送りにしたともいう。
※ ※ ※
「大変だったんだねぇ、先生」
朝食をとっている間、泰子に昨日あったことのあらましを話した。
時間もあまりなく、かなり掻い摘んだおかげで大雑把な説明になってしまったが、とにかく困っているということは伝わったようだ。
相槌を打つこともせず、静かに耳を傾けていた泰子はそう言い、続けざまにこう告げた。
「こんなうちでよかったら、好きなだけいてくれていいよ」
胸を撫で下ろす。
本当のところ、泰子がこう言ってくれなかったらどうしたものかと、少なからず不安があった。
本人の前では口にできないが、どんなに繕っても結局はこの言葉が浮かび、付きまとう。
迷惑───それを一番被ってしまうのは泰子だ。
実際、俺の勝手でどうにかできることじゃない。
「んー? なぁにぃ、竜ちゃん。やっちゃんの顔ジロジロして。あ、おべんとついてる?」
「いや、なんでもねぇんだ」
だから、そんな心配が杞憂に終わってくれて内心ほっとしている。
それと同じくらい、他人に甘くて、お節介やきで、打算で動かない、損得なんて考えてもいない泰子が、俺は嬉しかった。
「へんな竜ちゃん」
「あの」
控えめに、小さく手を挙げたのは先生。
「本当にいいでしょうか、私・・・」
「へんなの、先生まで」
泰子はその手を下げさせ、両手でそっと包み込む。
「遠慮なんかしなくっていいんだよぉ〜、この家にいる間は家族なんだもん」
有無を言わさぬ、なんて堅い表現はしっくりこないが、それより先、先生が言わんとしていることをやんわり制す。
こういう時、普段は子供以上に子供っぽいと思う泰子が、歳相応かそれ以上の大人に見える。
曲がりなりにも一つの店を任されているというのが、少しだけ納得できる気がする。
「いいの、やっちゃん? そんな簡単で」
空気を読まないヤツが一人。
それが本気で、言葉通りの意味でならばだが。
「・・・イイ性格してるわよね、あなたって」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
感激してるところに水を差されて恨めしげな先生を一瞥し、やれやれ、ハンっといった感じの身振りを交えての大河。
そんな二人を、泰子がくすくす笑っている。
重苦しさが拭い去られ、場が明るいものになる。
憎まれ役を買ってでた大河のおかげで。
「いいのいいの〜。困ったときはおたがい様だしぃ、それに」
「それに?」
先生からの物言いたげな視線を素知らぬ顔して受け流す大河に、
「竜ちゃんたちの先生なら、きっと悪いひとじゃないもん」
だから、いいんだよ───そう、泰子は言った。
大河だけだと思ったら、ここにも空気を読めないヤツがいたとは。
しかも大河のそれとは違い、天然なもんだから自覚がない。
「・・・ま、やっちゃんがいいんならいいけど」
「うん、これでいいのだ〜」
恥ずかしげも、屈託もなくにこにこしている泰子とは対照的な、疲れたような大河が、ジト目で俺を見やる。
なんでだ。
「ホント、そっくりよね」
泰子とだろうか? そりゃ似ていて当然だ、親子だからな。
生憎見てくれは全然似なかったが。
「何だ、それがなんか不満なのか」
「べつに。そうじゃないけど」
ぷいっと顔を巡らせ、大河は心もち膨らました頬を隠す。
なんなんだ一体。
「もぉ、ケンカしないの〜。大河ちゃんもぉ、竜ちゃんもぉ」
「ひゃ」
「お、おい」
後ろから、泰子が大河と俺の首に広げた腕を回して引き寄せる。
コツンと、頭同士が軽い音を立ててぶつかった。
その上に顎を乗っける泰子。
「みぃ〜んなやっちゃんの大事な家族なんだから、ケンカしちゃぁメッ」
よしよしなんて、小さな子供にするように頭を撫でてくる泰子。
「・・・はぁい」
素直に返事する大河は、まるで叱られた子供まんまで。
でも、膨らましていたはずの頬には差した朱だけが残り、その口元も、俺には微笑の形に見えた。
「でっけぇ・・・でっけぇよ高須くんのお母さん・・・」
感じ入るものでもあったのだろうか。
先生は眩しいものを見るように目を細めていた。
と、チラリと壁と、掛かっている時計も視界に入ったようだ。
「やだ、もうこんな時間」
ごちそうさまでしたと早口に言い、皿や茶碗を重ね持って立ち上がる。
時刻は、確かにそろそろ登校しないと遅刻になってしまうというところを指している。
俺達も出るか。
が、そこでふとあることに気付く。
「先生、着るもんどうするんですか」
「え・・・あぁっ!?」
昨日身に着けていた物はまだ洗濯機の中だ、少しも乾いてない。
今着ているのは泰子のジャージ。
そんな格好で出歩けないだろう。
「そ、そうだったわ・・・どうしましょう、朝一で校長先生に呼ばれてるのに」
昨日の話だが、俺が大河によって無理やり夢の世界に送られていた時、先生は一応校長にだけは携帯から報告を行っていたそうだ。
だから玄関の外にいたらしく、浮かない様子だったのも、翌日のあれこれを考えると憂鬱だったらしい。
聞かれても突然のことだったとしか言いようがないのに根掘り葉掘り詮索され、しかも知り合いに会う度にそれが繰り返されるのは
なんとなく想像できるし、そんなのがしばらく続くというのは、それが自分でなくても御免願いたい。
「せーんせ、ちょっと・・・・・・で、こんくらいだったかなぁ、それで・・・なんだけど、どう?」
「は、はい、それなら多分・・・」
慌てふためく先生に泰子が耳打ちし、そしてそのままヒソヒソ内緒話。
大河は何やら訳知り顔で俺の耳を塞ぐ。
突っ込まれた指が奥の方まで刺さってきて痛みが走るが、大河は先生を伴った泰子が自室に消えるまで離してくれなかった。
理由を尋ねると
「うるさい、だまれ。そんなに気になるのかこの変態」
訳も分からず罵られた。
意味わかんねぇ。
───あの、さすがにこれは・・・ちょっと際どいかと・・・
───え〜、そうかなぁ、まだ地味だと思うけどなぁ。
───地味とかそういう問題じゃなくて、っていうかこれで地味なんですか。これ、屈んだら絶対に見えるんじゃ・・・
───うーん・・・そうだ、じゃ〜あ〜・・・
襖の向こうではどうなっているんだろう。
そんなやりとりが時たまこっちにまで届く。
その都度大河の機嫌を知らせるように舌打ちが漏れるのもどうしてなんだろう。
「・・・ねぇ」
「お、おぅ、どうした」
「あの・・・その・・・あああ、あれってもうちょっと大きく作れたりしない? あれ・・・パ、パッ」
「おまたせぇ〜」
「ッ・・・・・・」
言い終わらぬうち、閉じられていた襖が開けられ、泰子が出てくる。
大河はカッと顔を真っ赤にさせると物凄い速さで俯いてしまった。
「ほぉらぁ、先生もこっちこっち〜」
「い、いえ・・・本当に大丈夫ですかこれ?」
「だいぁいじょうぶ、かわいいってぇ」
中々姿を現さない先生を泰子が褒めちぎる。
遅まきながらそこでやっと分かった。
服を見繕っていたのか。
確かにこんな早くに開いてる店なんてないし、買っている時間も手持ちもない。
泰子の物を貸してやった方がよっぽど早いし金もかからない。
大河の物だとサイズの都合上ムリが生じるだろうし、着れたとしても、あんなフワフワのフリルだらけの服を着た先生は別の意味で無理が生まれる気がする。
なんか、思い描くだけでも憚られ、実際に目にしたわけでもないのに心が痛む。
なにより、大河も絶対に貸しそうにないし、結局これが一番妥当だろう。
泰子の見立てさえ変なものでなければ。
「ど、どうかしら・・・?」
「ケッ」
「ひゅーひゅー、やぁん、せんせぇかっわいぃ〜」
縮こまって出てきた先生。
つまらなさそうな、しかし悔しそうでもある大河。
できもしない指笛はポーズのみで、音色は口から出して盛り上げる泰子。
「高須くん?」
「・・・・・・・・・」
「・・・やっぱり、変?」
伏せがちだった不安げな眼差しに、スっと滲んだ何か。
「いや、そんなんじゃなくて」
「・・・そんなんじゃ、なくて?」
それを目にした途端、否定の言葉を口にしていた。
が、次の瞬間滲んでいたのはさっきとは明らかに違う、淡い期待。
「いいと思いますよ、俺は」
「そ、そう? ほんとう?」
変ということはない。
どちらかといえばかなりまともだろう、俺が予想していたのよりは。
黒地に白のストライプのジャケット、同系色のスカート。
インナーは首から胸元にかけてボタンを外してある、光沢のある白のブラウス。
泰子が仕事に行く際着ていくスーツの中では確かに比較的地味目なのかもしれないが、普通に着こなしていればそんなことはなく、
むしろ存在感を際立たせ、ぱっと見仕事のできる女性そのものだ。
教師という職業を鑑みればドラマか映画にいるような、けど現実には決していることのない美人女教師だろう。
メガネでもかければより雰囲気がそれっぽくなる。
微妙にスカート丈が短かったり、バストやヒップが強調されるような仕立てになってるのは、泰子の職業柄仕方のないことだと思うが。
だから、つい目がいってしまいそうになって、そんなにしっかり見ていられない。
「なら、今日はこれで行ってみようかしらね。高須くんもいいって言ってくれてるし」
一転してノリノリにる先生。
今更もう遅いが、発言には責任が伴うというのがよく分かった。
こんなことでもけっこう重大だったのかもしれない。
「ケッ・・・・・・ケッ」
あちらを立てればこちらが立たずとはよく言ったものだが、こんなことですら不機嫌さを顕にするというのはどうなのだろう。
俺はただ、率直な意見を言っただけなのに。
「大河・・・?」
「あによ。あぁ、同情? 悪いわね、そんなに気ぃ遣わせちゃうくらい哀れなもんくっ付けてて」
「な、なんのことだ。さっきからなんか変だぞお前」
「・・・どうせ私は人よかちょっっっとだけ胸が薄いわよ。それにどうせチビだし、どうせあんなの似合いっこないわよ・・・」
ボソボソ小声で呟く大河は、そりゃもう心底口惜しそうに着替えた先生を凝視する。
血走った目が一層危なっかしさを増させている。
どうも、ジャージ姿から変身と呼べるくらい様変わりした先生に羨望か、あるいは嫉妬しているらしく、どんよりとした暗い靄を纏う。
「そ、そんなことないだろ、大河だってその内ドンと背だって伸びるだろうし、胸だって泰子ぐらいになるかもしれないじゃねぇか」
「気休めなんてよしてよ」
チクショウ、その通りすぎて返す言葉もねぇ。
しかし、ここで止める訳にもいかない。
「お前なぁ、俺が何で気休めなんてしなきゃいけないんだ」
「だって・・・私じゃ、あんなのっ・・・」
ともすれば暗黒面に落ちていきそうな大河の肩に手を置き、止めさせる。
「そんなの、あれくらい俺が縫い直してやるよ。そうすりゃ着れんだろ」
「え・・・」
「なんだったら、採寸さえ取らせてくれんなら一から作ってやってもいい。バッチリ似合うのを誂えてやるさ」
それなら寸詰まりがあったり、逆にブカブカになるということにはならない。
適所を絞ったりもできるし、どんな要望だって即対応可能。
思うがままだ。
「だから気にすんなよ、大河」
「竜児・・・ほんと?」
「おぅ」
目を閉じた大河は一回大きく深呼吸。
そしてゆっくり吐き出すと、
「まっ、そこまでしてくれるっていうんなら今はいいわ。けどね、独身?」
「あら、なにかしら」
フフンっと鼻で笑う。
先生は余裕綽々に受け流すも、すぐさまその余裕に亀裂が走った。
「あんまり調子に乗ってはしゃいでるとぶっちゃけ惨めよ。あんた、もう若くないんだから」
ピシッ、だろうか。
それともビシィッ! だったか。
なんだっていいが、その時俺は確かに聞いた。
空間にも亀裂が入った音を。
「フ・・・フフ、フ・・・べ、べつに? わたっ、私、調子にノってなんかないしぃ。
ていうかそりゃあまぁ、確かに若くはないかもしれないかもだけど、私そこまで老けてるって歳でもないもの」
「そうかしらね、だったらなによその濃いぃメイク」
「ここここれは、これくらいした方が良いかもって高須くんのお母さんが、それにそんなに濃くだってないじゃない」
「・・・みっともないわね、そんな言い訳しなくちゃいけないあんたの、張りも潤いも失ったお肌が。
それと、それで濃くないとかまさかマジで言ってんの?」
グッサァッ!? とよろけた先生は一歩下がる。
すかさず大河は二歩も三歩も埋めて近づく。
ような、そんなイメージで応酬を繰り広げている二人。
「くうぅ・・・た、高須くんのおかあさん」
試合終了の鐘はあっけないくらいすぐに鳴った。
先生の情けない声によって。
勝者、大河。
もとより気の弱い先生が口喧嘩とはいえ大河に勝てる訳がない。
当然の結果に、それでも大河はガッツポーズまで決めてやがる。
ウサギを狩るのにも全力を尽くすのは、なにもライオンに限ったことではないのかもしれない。
獅子白兎ならぬ虎白兎なんて喩えは聞いたことないが、あながちそうなのかもと思えてしまう辺りが大河らしいというかなんというか。
「だいじょうぶ〜。先生かわいいんだから、自信もって」
「でも、逢坂さんが・・・やっぱり私みたいな三十路女には、行き過ぎた露出だったんでしょうか・・・」
「もうっ、大河ちゃんったら・・・それじゃあね、先生にはとっておきの魔法教えてあげる」
「とっておきの・・・まほう・・・?」
泰子は居間の隅にあったバッグを漁るとコンパクトを取り出した。
それを開き、先生の横に並ぶと、
「いーい? やっちゃんのあとについてきてね」
「は、はい」
真剣な目つきに変わった。
そんな泰子に、先生も真面目に、泰子が言うところの魔法に集中する。
「やっちゃんはぁ、永遠のにじゅうさんさぁい」
「やっちゃ・・・はぁ?」
こんな事だろうと薄々読めていた。
アホらしくって止める気さえ起きてこない。
大河も同様のようだ。
温くなったお茶を一息に流し込んで、急須から新しく注いだ熱いお茶を啜って、登校直前の最後の一時を味わっている。
「もぉ、それじゃあだめだめ、意味ないよぉ先生。そこはちゃあんとぉ、自分の名前じゃなくっちゃ」
「えっ・・・は、はい・・・わ、私は、ゆりは・・・永遠の、にに、に・・・にじゅう・・・にじゅう・・・っ!」
「そう、先生は永遠の?」
「・・・にじゅう・・・・・・さんだよこんちくしょ───!!」
「そうだぁ〜先生はにじゅうさんさいだぁ」
「そうよ、私にじゅうさんですよ! にじゅうさんなのよ!! にじゅうさんで悪いかー!?」
「悪くなぁーい」
「私がにじゅうさんで誰か困るかー!?」
「困んなぁーい、それでも世界は回ってるぅ〜」
「でしょ!? でしょっ!? そうでしょう!? 私は・・・私はぁ・・・私がっ! 永遠のにじゅうさんなのよおおおぉぉぉっっ!」
とうとう何かのタガが外れてしまったらしい。
もしくは超えてはならない一線を超えた。
吹っ切れた先生は一度言葉にすると、以降は何の躊躇いもなく自分は23歳だと、しかも永遠の23歳だと、
鏡の中の自分相手に声高に主張していた。
泰子も永遠の23になったばかりの頃はあんな感じだったのだろうか? ・・・なんかイヤだなそれ。
「うんうん、やっちゃんが教えることはもうなんにもないなぁ」
「最初からねぇし、いらねぇことを教えてんじゃねぇよ」
言いながら、俺はカバンを手探り寄せて立ち上がる。
学校に行かなければならない時間だ。
大河も湯飲みに半分ほど残っていた中身をふーふー冷まし、一気に飲み終えると腰を上げた。
するとコンパクトを・・・いや、コンパクトの向こうにあるどこかを見つめて「テクマク」とか「マヤコン」とか、
なんとも怪しげな呪文を唱えている先生の頭頂部にズビシッ! とチョップを炸裂させる。
痛みから批難の声を上げているのを完全にシカトし、先生の首根っこを掴んだ大河はズルズルとこちらに引きずってきた。
「昼飯は冷蔵庫ん中にあるからな、食う前に温めろよ」
「うん、ありがとう竜ちゃん」
玄関まで見送りについてきた泰子といつも通りのやりとりに加え、しっかり寝ておくようにと釘を刺す。
疲れているだろうに、いろいろとドタバタしてて帰ってきてからも全然休めなかったんだから、せめて昼間くらいはちゃんと体を休めてほしい。
体調でも崩されたら大変だ。
「それじゃ、行ってくる」
「はぁい。気をつけてね、竜ちゃん。大河ちゃんも」
「うん。じゃあね、やっちゃん。行ってきます」
俺と大河に言葉をかけながら、泰子は靴箱からヒールがついたパンプスを取り出すと、
「いってらっしゃい、先生」
「・・・重ね重ねありがとうございます・・・行ってきます」
───先生が階段を下りるのを待ってから、俺達は通学路を歩き出した。
193 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/01/18(月) 18:41:24 ID:q++ZHMUr
続く。
インコちゃんだってもちろん家族。
「きゃん」
足先に何かが引っかかった感触で目を覚ました。
間を置かずにまだ寝ぼけた頭に降ってきた泰子の、歳に似合わなすぎるのに似合ってしまっている小さな悲鳴。
それと、胴体目掛けて降ってきた泰子本人。
寝起きには中々ヘビーだ。
文字通りの意味で。
「ひっく・・・はれぇ〜、りゅうちゃんだ〜」
眼前に迫る泰子は相当に酔いが回っているようで、香りがキツい安物の香水を掻き消すくらいに酒の臭いをプンプンさせている。
呂律もかなり怪しい。
目元も、眠気も手伝ってるんだろうが潤みを増していて、なにが面白いのかケタケタころころ笑っている。
また飲みすぎたらしいな、この様子だと。
「んふふふ〜りゅ〜う〜ちゃ〜ん」
悪酔いはしていないみたいで、また、昨日晩飯を用意できなかったのを忘れてる模様。
随分とご機嫌だ。
寝転ぶ俺の頭をわしわしぐしゃぐしゃ撫でたりもみくちゃにし、しまいには両手でかき抱いて頬ずりまで。
覚めきってなかった頭が本格的に動き出す。
「そろそろ降りろ、重てぇんだから」
「ん〜ん、やぁだぁ。ていうかやっちゃん重くないもん」
子供か。
いや、子供だったら体重のことをとやかく言われてもなんともないだろうし、こんなデカイ物だって二つもくっ付けてる訳ないから、
やっぱり子供じゃないんだが。
子供がそのまま成長したようなもんだろう、これは。
「分かった、分かったから、とりあえず降りてくれ」
「むり、もう寝ゆ」
時間は───六時を回ったところか。
眠いのも頷ける。
いつもならもう帰ってきて、寝ててもいい頃だ。
多分帰るのを渋ってこんな時間になるまで居座る客でもいたんだろう。
たまにそういうことがあるし、自室までたどり着く前に泰子が力尽きて、居間でいびきを掻いているのもザラだ。
今みたいに気温が低い時期はあんまりしてほしくないが、しょうがない。
仕事で疲れてるんだ、小言は飯の時にでも言えばいい。
「ほら、今作ってくるから、朝飯できるまでこれ使ってろよ」
「あん・・・むぅ〜・・・」
今まで被るようにして掛けていた毛布は、寝てる間に移った体温がまだ篭っていてそれなりに暖かい。
それを、コロンと横へ倒した泰子に掛けてやる。
「え〜いっ」
「うおっ!?」
つもりだったが、毛布を掛けようとしたところで仰向けに寝ていた泰子はいきなり飛び上がり、俺はまた泰子を乗っけて床へと寝転んだ。
ドシン、なんていう派手な音と共に。
朝っぱらから近所迷惑なことをしておいて、当の本人は謝りもせず、それどころか俺が手にしていた毛布を手探り寄せるとそれを広げ、
そのまま自分に掛ける。
俺を敷布団にしたまま。
普段はとろくて、しかも酔っ払いのくせに、流れるような機敏な動きだった。
「あ〜これいい〜・・・ぬっくぬくでぇ、ちょっと硬い気もするけど寝心地いいなぁ」
「お前、いい加減に」
本気で押しどけようとした時、近くで何かが軋む音がした。
思わず泰子の脇に回した手が止まる。
じんわり手の平に広がっていく泰子の体温を感じてハッとした。
なんかこれヤベェ。
そう思い、慌てて飛びのこうとした刹那。
「おはようございます・・・? 高須くん、どうかし」
襖が開いた。俺の部屋のだ。
中から誰かが出てくる。
昨晩、ほぼ文無しのガチ宿無しになったところに出くわし、なし崩し的に昨日一晩泊めた先生。
今ので目を覚ましたんだろう。
しかし、様子を見にきたところで固まる。
視線も固定している。
その先にいるのは俺。
対し、俺が見ているのは先生の手元。
添えられた襖の取っ手。それが付いている襖全体が、よくよく目を凝らすと微かに震えている。
地震だ。
震源地は、襖に手を掛けてこちらを凝視している。
「ねぇ竜ちゃん」
「あの、高須くん」
泰子と先生が口を開いたのはピッタリ同時だった。
「だれ?」
「どなた?」
今俺の上に乗っかってる酔っ払いは母親で、俺の部屋から出てきたのは担任の先生だ。
そう説明してすんなり信じてもらえるような感じじゃなかった。
泰子も、先生も心なしか目が据わっている。
「えっと・・・」
そんな二人から視線を逸らしたのがマズかったのかもしれない。
そんな気全然ないが、やましいモノだと勘違いさせるには十分だったんだろう。
泰子がしゃくりあげる。
「りゅうちゃんが知らない女の子連れ込んだぁぁぁぁぁ・・・」
「なんですってええええええええええええええぇぇぇ!?!?」
そんな絶叫が隣のマンションから木霊した。
耳にした時には既に行動を開始していた俺は、泰子を無理やり床に降ろすと玄関へと一直線に駆けていく。
外からは一足飛びに階段を駆け上がるけたたましい音が。
クソ、速え。
こんな短時間でどうやってここまで来たんだ。
間一髪どうにか鍵と、もしもの用心にとチェーンを掛けた瞬間。
ガチャン!! ガチャガチャガチャガチャンガチャガチャガチャガチャガチャッ!!
備え付けてある覗き窓の外には耳障りな金属音に合わせて猛烈に揺れ動く、フワフワとした見慣れた長髪があった。
角度の関係もあってその下は窺い知れない。
知れないが、その下を見たら忘れられそうにないだろうから知りたくない。
ガチャガチャガチャガチャン! バンッ!
もうダメかもしれない。
心が折れかけ、諦める寸前まで、ノブどころか錠前をドアごと破壊する気だとしか思えないくらい力任せに抉じ開けようとしていた
薄っぺらいドアの向こうにいたそいつは、しばらくすると最後に蹴りを一発入れて、来た時とは逆に静かに階段を下りていった。
「な、なに、どうしたの高須くん? ていうか、今のって逢さ」
「泰子」
話をぶった切ってしまって先生には悪いが、今はこっちが先決だ。
玄関の施錠はそのままに、俺は居間へと戻る。
「・・・なぁに」
ふて腐れてますって態度全開に毛布に包まり寝転ぶ泰子。
肩を揺すっても顔を向けず、イジケた声を出す。
正しく手のかかる子供そのものだ。
「いいか、ちゃんと聞けよ。この人な、先生だぞ、先生」
「ふーん、へぇ〜、そうなんだ、先生なんだぁ、せんせい。そういうアレなの?」
何のことだ、アレって。
「やっちゃんあんまりこゆこと言いたくないんだけどぉ、ふぇちっていうんだっけ? うん、そうふぇち。
それでね、あんまりそういうのにこだわってるとね、どうなのかなぁって」
「俺はお前の頭の方がどうかと思うけどな。それと俺にそんな趣味だのフェチだのはねぇ」
気のせいか背後から「ないの!?」って聞こえたような。
「ううん、隠すことじゃないよ? 悪いことでもないし、ただぁ・・・なにか言うことあるんじゃないかなぁ」
ごめんなさいっていうのは悪いことをした時に使うんじゃないのか。
たしかまだガキの頃にそう口を酸っぱくして教えられた覚えがあるんだが、教えたのは誰だったか。
「なんで謝んなきゃいけないんだ」
「だってそうだもん、竜ちゃんがいけないんだもん。やっちゃんも大河ちゃんもいるのに勝手に女の子連れ込んで、うそまで言って」
「俺がいつウソなんて言った」
「言ってたもん、今そのひとのことせんせいって」
その説明をしようにも、泰子は矢継ぎ早にぶーぶー文句を垂れているばかりでちっとも耳を貸そうとしない。
泰子の中では完全にそういうことになってしまっているらしく、俺は隠れて女を家に上げて、
しかも現場を押さえられたというの、この期に及んで先生だなんて偽って言い逃れをしようとしている風に捉えられている。
ついでになにやら変な趣味にまで手を染めているという疑惑まで。
誤解も誤解、現実からかけ離れた勘違いだ。
突飛すぎて頭痛がしてくる。
「そんな見え透いたうそなんか言って・・・竜ちゃん・・・うそ・・・」
声色に翳りが見え隠れしてきた。
毛布の中でモゾモゾ身じろぎをしていると、不意にすっぽりと頭まで覆う。
蓑虫よろしく、そのまま泰子は黙りこくってしまった。
「おい」
とりあえず揺さぶってみるものの反応なし。
「おいって」
強引に毛布を引っぺがしにかかるもビクともしない。
頑なに拒否される。
「そうだ、昨日食いたがってたプリンが冷蔵庫にあるぞ」
本当はそんなものすっかり頭から抜けてて買っていないが、この際顔を出してくれそうならなんでもいい、ものは試しと嘯いてみる。
しかし、結果はいやいやと身を捩じらせ、床を擦り這って距離をとられただけだった。
いや、最後に右手だけ毛布から出すとピッと放り出されていたバッグを指す。
その下には押しつぶされたコンビニの袋。
中身はよりにもよってプリンだった。
「なぁ、ちゃんと聞いてくれないか、話」
困り果て、できるだけ落ち着いた声をかけてみても無視。
泰子は一向に被った蓑ならぬ毛布から出てこない。
しばし待ってみるが、それで何かが変わることはなく。
「勝手にしろ」
時間も時間だ。
さしあたって朝食の支度をしなければならないため、これ以上は付き合いきれない。
垂直に立てれば天井に届きそうな深い溜息を残し、立ち上がろうと床に手を着き腰を上げる。
「・・・なんで・・・」
するとようやく泰子がこちらに顔を向ける。
半分だけ頭を出しているのでどんな表情なのかまでは判別できない。
「なんで竜ちゃんが怒るのぉ・・・竜ちゃんがわるいのに・・・」
目尻から珠になった雫がこぼれる。
両の指先で軽く摘まれていた裾をぎゅっと、固く握り締める。
「や、泰子?」
「うそまでつく竜ちゃんがぜんぶわるいのに、なんでやっちゃんのこと怒るのぉ・・・なんで・・・?」
「いや、そんなんじゃ」
顔をくしゃくしゃに歪めた泰子に見上げられ、途方にくれる。
焦り、落ち着けようとするも、「ぐず」だの「ふぐ」だのと嗚咽を漏らす泰子は、
「ねぇ、なんでぇ・・・?」
そう繰り返すのみで、何度もそうじゃないと俺が言おうとしても、
「竜ちゃんのはなしなんてききたくない・・・どうせまたうそんこだもん・・・」
というように聞いてもくれず、取り付く島もない。
どうしたものかと思案していると、ふと視界の隅でなにか、動く影のようなものを捕らえた。
具体的にどこら辺かというと、窓の外。
普段なら気のせいか、スズメかなんかだろうとそれ以上気に留めたりはしないだろう。
しかし、だ。
何故だかこの時、俺は自然と玄関に目をやっていた。
距離にしたらおよそ5〜6歩といったところか。
鍵はかかったままだ、さっき俺がかけてそのままにしてある。
その向こう、外からは人の気配はしない。
ぶっ壊しそうな、いやもうぶっ壊すぐらいの勢いで抉じ開けられようとしていたドアは静かにそこに佇んでいる。
勝手に誰かが入ってくるという事態にはならないだろう、チェーンまでしてあるんだから。
安心していいはずだ。
なのに、この胸騒ぎは一体───
コン、コン
背後から二回、窓ガラスをノックする音が。
この家はアパートの二階部分にあって、隣は日光すら遮るほどのバカみたいにデカいマンションが建っている。
ノックされたのは、そのマンション側に面した窓ガラス。
ベランダ越しにやりとりしたことは何度もあったが、まさか、自宅の窓から直接うちのベランダに降りてきやがったのか。
施錠が裏目にでた。
あっちからはこっちが何をするのか丸見えで、俺が玄関まで行って鍵を外してるところを見ようものなら即飛んでくるだろう。
「なぁ、インコちゃん」
「う?」
窓ガラスを叩いたのは多分、というよりもほぼ確定だろう、あいつだ。
だけど、もしかしたら表の通りを歩いていた誰かが蹴飛ばした石なんかが、何かのはずみで二階にあるそこの窓に当たった、
ということもあるかもしれない。
まだ俺は確認してないんだ、可能性は捨てきれない。
一縷の望みを託し、ぐずる泰子のかける声を無視して俺はインコちゃんにこう尋ねた。
「ベランダに誰かいるのかな」
一瞬の沈黙。
「に」
そしてただ一言、『に』。
『に』とは一体なんだろうか。
数字か?
ひょっとしてニワトリでもいるのだろうか。
だったら良いんだが。
雌鳥だったらなお良い、卵代が少しは浮く。
「に、にに、にげげっにげ」
当然だが違った。
『に』と『げ』を連呼するインコちゃんはつたなくも必死に何かを伝えようとしている。
切迫したその様子が俺からどんどん希望を削いでいく。
コン、コン、コン
再度鳴り響くノック。
規則正しく一定の間隔を保ってのそれは、むしろ嵐の前の静けさを思わせる。
「にーにに、にげ・・・にげ「竜児」て」
声を震わせるインコちゃんが全てを伝えきる前に、割り込んだそいつは俺を名指しで呼びつける。
「ここを開けてちょうだい」
思いの外落ち着き払った口調でだが、その実とんでもない圧力を込めた命令に、知らず鳥肌が立つ。
開けたらどなるかなんて決まってる。
「聞こえなかったのかしらね、じゃあもう一回言うわね。ねぇ竜児? ここ開けて、おねがい」
今度はちょっと高めの声、明るい口調。
命令っぽさはなりを潜め、お願いというように表面上は下手に出てる。
まるで猫でも被ったようだ。
どこで仕留めてきたのか、床に広げたらインテリアとして飾れそうな立派な猫科の猛獣の毛皮を。
だけど俺は知ってる。
「あれ、変ね、また聞こえなかったのかな」
そんなもん、安物のメッキ加工よりも容易く剥げちまうことを。
そして、その下から現れるものがどれほど凶暴かってことを。
「困ったわね、もう。竜児、聞こえてる?」
届くか届かないか、ギリギリの声。
唇が触れる寸前まで近づき、吐息でガラスが曇る絵が浮かぶようだ。
「・・・ここを開けなさいってぇ、言ぃってんでしょうがぁ!! あんたなに聞こえないフリしてんのよ、ホントは聞こえてんでしょ!?
いい加減にしとかないと私本気で怒るわよ!? この窓叩き割られたくなかったら今すぐ開けなさいよ、いいわね、竜児ぃぃぃいい!!」
早朝の澄んだ空気を絶叫が掻き消し、伝わる振動だけで窓ガラスが割られそうだ。
もうこの調子ではガラスの一枚や二枚、躊躇なく破って侵入してくるだろうことは想像に難くない。
俺には観念して大河を迎え入れるしか術が残っていなかった。
「よ、よう、大河。早いな」
刺激せぬよう平静さを───そんなことを必死になって自分に言い聞かせている時点で平静さを欠いているのはしょうがないが、
それでもできるだけ装い、ずっと背中を向けていた大河へと向き直る。
勝手に下がっていた目線を徐々に上げていくと、そこには制服に身を包んだ大河。
コートは羽織っておらず、手や首など、外気に晒されている地肌の部分が血管が浮き出て見えるくらい白く透き通っている。
先ほどドアを叩きまくった後、一旦帰ってから今までの間に身支度を済ませていたようだ。
寝癖でところどころ髪の毛が跳ねているのはまぁ、ご愛嬌というか。
額にいくつも張り付いた青筋と激昂して真っ赤になった顔が愛嬌なんてもんを台無しにしてるけどな。
と、ギロリと俺を一睨みした大河が手で顔を覆い隠す。
赤ん坊にやるような、いないいないばぁみたいに。
「おはよっ竜児。ビックリしたでしょ、今朝はね、なんだかひとりでに目が覚めてね、ちょっと驚かしてあげようと思ったの」
ああ、ビックリだ。
起こしにいく前に起きてたことでも、言う前に身支度を終えていたことでもなくて、劇的なんて言葉じゃ生温いくらいのビフォーアフターぶりに。
遮る手を取り払うと、そこにははにかんだ笑顔。
血みたいに濃い赤色をしていた皮膚は頬を除いて嘘みたいに落ち着き、頬にしたって桜色といえるくらいになっている。
「そ・・・うか、一人で起きたのか。偉いな、大河」
「やめてよ、もう、子供あつかいして」
言葉とは裏腹にパァッと笑顔を輝かせる大河は、いっそ上機嫌なんじゃないかと俺に錯覚を起こさせる。
そんなはずねぇだろと分かっていながらも、警戒心が薄れていくのが分かる。
「それでね、あのね、竜児」
「お、おぅ、どうした」
両手を腰の後ろに回し、もじもじしながら見上げてくる大河。
少しばかりの恥じらいを含ませたその様子に、続きを促すと、
「あけて」
すぐには二の句が告げられなかった。
小さく小さく放たれたその言葉に金縛りに遭ったかのように動けなくなる。
「あ・・・ああ」
甘えたような大河の、その言うことを素直に聞くことに抵抗がないわけじゃない。
が、これで開けなかったら本気で窓を割りにくるだろう。
それに玄関の時といい今といい、もう十分すぎるほど怒りは買っている。
元より無い選択肢を探していても結果は同じだ、目に見えている。
錆付いたように固まる体を意志の力で動かし、微妙に震える手で窓にかかっていた鍵を外した。
カラカラとサッシが音を立ててスライドしていき、半分程度開いたところで大河が入ってくる。
「悪い、寒かったろ。今温まるもんでも淹れてやるよ」
「ありがと」
感謝の言葉はしっかり腰の入った右拳に乗せられ、俺の胸に突き刺さった。
毎度のことながら手乗りとまでに揶揄される小さな体、相応にしかないはずの体重からは到底信じられない衝撃に襲われ、気が遠のく。
脱力して倒れこみそうになった俺の胸倉を突き出した手で鷲掴み、軽々と持ち上げる大河。
余った方の手を使って後ろ手でピシャリと窓を閉め、それを合図に、
「出しなさい」
何を、と口にすると、大河は続ける。
「とぼけたってだめよ、まだここに居るんでしょう」
「だ、だから、何がだ」
「そう。あくまでシラ切るのね、竜児」
締め上げがキツくなる。
「じゃ、先に誰かだけでも聞いておこうかしら。みのりん?」
どうしてここで櫛枝の名前が。
疑問はしかし、それだけに留まらなかった。
「それともばかちーかしらね」
ギリギリと絞められた首の骨が軋む。
だんだんと酸素が行き渡らなくなってきたのか、末端である指先から痺れ始めて感覚が鈍い。
耳元では轟々と、暴風雨みたいな爆音が鳴りまくる。
それでも、
「ありえるわ、なんたって前科があるもの・・・あの時もばかちー、色目使ってたし・・・」
そんなことをブツブツ呟きながら、危うい印象を与えてくる大河は尋問を続ける。
「さっ、今なら怒らないであげるから隠してるのが誰か白状しなさい、駄犬」
「た、い・・・がはっ・・・」
「まぁ、どうせばかちーなんでしょうけど。ついでに当ててあげるわ、やめろって言っても無理やり上がり込んだんでしょ?
あんのお腹ダルメシアン、ヒトん家の迷惑も考えないで・・・まさか盛りでもついたのかしら・・・これだからイヤね、あにもーは」
厄介事ってのはどうしてこう連鎖反応でも起こすように立て続けにやって来るんだろう。
どうやら泰子の勘違いを真に受けて、俺が誰かを家の中へ連れ込んだと思い込んでいるらしい大河。
それでなんでここまで憤慨しているのか理解できないが、実際大河は烈火の如く怒りを燃やし、居もしない櫛枝と川嶋、というよりも、
完全に川嶋を居たことにしてしまい、掠れた声でどうにか喋りかける俺を無視。
あらん限りの誹謗中傷を、おそらくそこにいるんだと当たりをつけたのだろうか、俺の部屋へ放ちまくる。
仮にもしこの場に川嶋がいたら、何も言わずに身近にある物を手当たりしだいにぶん投げてきそうだ。
「・・・なによ、ずいぶん大人しいじゃない」
挑発に乗ってその身を顕にするだろうと思っていた川嶋が一向に出てこないことを大河が不信に思いはじめた。
当たり前だろ、そこはもぬけの殻だ。
と、急に呼吸が楽になってきた。
大河が俺の首から手を離す。
「ちょっと、ばかちーのやつどこにやったのよ」
四つんばいの姿勢という、犬そのものな格好。
それを気にする余裕もなく、バクバクと暴れる動悸をなだらかなものへと静めている俺の上から大河が言う。
「・・・お前が何でそこまで目の敵にしてんのか知らねぇけど、川嶋がうちに来るわきゃないだろ。櫛枝だってそうだ」
「そっ・・・それは、でも、そうなんだけど」
「だいたい大河、昨日かなり遅くまでここにいたじゃねぇか」
言外に、その後になってからこの家にやって来るような人間なんているのか、と込める。
昨晩、細かい時間までは覚えていないが、日付が変わって大分してから大河はやっと自宅に帰っていった。
余程切羽詰った用でもない限り、あんな夜更けに訪ねてくるような非常識なやつなんて普通はいない。
それこそ、肝心の中身を入れ忘れたことにも気付かないで、空の封筒を獲り返しにくるようなやつとかじゃなきゃあな。
しかもあの時は不法侵入までやってのけていた。
非常識の極みだ。
少なくとも櫛枝も川嶋も、その辺の分別は弁えてるだろ。
目の前で泡食ってる大河と違って。
「だだだ、だけど、だって! 竜児が変な女連れ込んで変なコトしてるってやっちゃんが! ね、そうなんでしょ?」
「大河ちゃん・・・ふぎゅ・・・」
知らない女から変な女へ。
また、連れ込んだだけでなく変なコトまで。
泰子の言葉をよりややこしく誤解している大河は、うつ伏せになってふて腐れていた泰子に詰め寄って同意を求める。
垂らした鼻をぐしゅぐしゅ啜り、泰子がコクコク頷く。
その程度は些細なことだとして気にするつもりはないようだ。
大河は大河で同意を得られたことにし、胸を張る。
「ほ、ほら! ごまかそうったってそうはいかないんだから、こっちには証人がいるのよ」
「誰か忘れてんじゃねぇのか」
「ハ?」なんて怪訝そうにしている大河に対し、立てた人差し指を矢印に、ある人物を指す。
「おはよう、逢坂さん。朝から元気ね」
そこには一部始終を一歩下がって眺めていた先生。
大河がますます渋面になる。
「独身がなんだってのよ」
「ふぇ・・・大河ちゃん、そのひと知ってるの」
疑問を上げたのは鳩が豆鉄砲くらったような顔をした泰子。
大河と先生とを交互に見やる。
そんな反応に今度は大河も訳が分からないと? を頭に乗っけている。
「あの、やっちゃん」
しばらくの間腕を組み、一から順序だてて事態を整理していた大河。
考えが纏まったのか泰子に問いかけ、
「やっちゃんが言ってたのって、もしかしてあれ?」
俺と同じく先生を指差す。
泰子はうんうんと、人形みたいに首をふりふり。
盛大なため息を吐いて大河が肩を落とす。
「あれ、あのおばさん。私と竜児の担任なんだけど」
「おばっ・・・」
紹介のされ方にショックを受けるも意義を唱えるのをグッと堪えて咳払いを一つ。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした、高須くんの・・・えぇっと、お姉さんでしょうか」
「いや、親です」
こんなのでもと付け加えそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
冗談が通じなかったら余計に面倒なことになりそうだ。
「そう・・・高須くんのお母さん・・・おかあさんっ!?」
「はひゅっ」
ぽけーっと成り行きを見てんだか見てないんだかの泰子が大声に硬直する。
血走った眼でグリン、なんて不気味に首を回した先生は、そんな泰子に
「はじめまして高須くんのお母さん。高須くんと、あと逢坂さんの担任をしております恋ヶ窪、恋ヶ窪ゆりと申します。
どうぞゆり、とかゆりちゃん、とかゆりゆりとか、親しげに呼んでください。あ、ちなみに担当している教科は英語です。
一応公務員ですのでそれなりに生活は安定していますし、私に散財癖はありませんし、貯金もそれなりだと思っています。
教職という仕事にはもちろん拘りはありますけど仕事が最優先〜とか生涯一教師とか、そういうのに固執する方ではありませんので、
家庭に入ってくれと言われればちゃんと考えますし、そうでなくても仕事との折り合いはしっかりとつけるつもりですからご心配にはおよびません」
「えっと、は、はぁ・・・そう、ですかぁ・・・あのぉ」
「ええ、仰らずともわかります。突然私のような者がお許しもなく、それどころかご相談もなしに上がりこんでいてさぞや驚かれたことでしょう。
ご不快に思われたのなら心から謝罪します。ですがこれには深い、深ぁ〜い事情がありまして、説明するとちょっと長くなるので要点だけを
簡潔に申し上げますと、不束者ですが、末永くよろしくお願いしますお義母様」
それはそれは丁寧かつそこまで教える必要があるのだろうかというくらい詳細な自己紹介を行った。
恭しく三つ指までつくというのは古風を通り越して、ちょっと気合が入りすぎていていろいろと外してる気もしないでもないが。
それにしてもこの淀みのなさといい、まるで入念な予行演習でもしてきたかのようだ。
ひょっとしたら半分くらいは使い回ししているテンプレかもしれないが、何をどうアピールしたいんだろうか。
「竜ちゃぁん、このひとなんなのぉ。なんかこわい」
案の定泰子はどう対処したらいいのか分からず、困り果ててしまっている。
助け舟を出したいのはやまやまなのだが、なんなのと言われても俺にはこうとしか答えられない。
「担任の先生だ、さっきも言っただろ。大河だって今そう言ってたじゃねぇか」
「・・・ホントだったの、それ・・・」
未だに疑う泰子に、俺は冗談半分に言った。
「俺が泰子に嘘なんか言ったことあるか」
思い起こせばいくらでも出てくるが、しかし泰子はまたも首をふるふる。
「ううん、ない」
はっきりきっぱり、即座に否定。
こそばゆさと一緒にこみ上げてくるこの罪悪感と、あとよく分からない疲労感はなんなんだろう。
今の今まで俺を疑い、信じようとしなかったのがそれこそ嘘のようだ。
「じゃ、このひとホントに竜ちゃんたちの先生さんだったんだ」
「お、おぅ」
なにはともあれようやく納得してくれたようだ。
これで目下のところ一番の問題は過ぎた。
「でもぉ、なんでその先生さんがうちにいるの?」
そう思っていたが、単に次の問題にすり替わっただけだった。
説明しなけらばならないことが山積みで、まだ一つしか終えてないというのに、多大な時間と労力を消費している気がしてならない。
「ねぇなんでなんでー? ひょっとして家庭訪問とか?
こんな時間にするなんて今のがっこうってやっちゃんの時よかけっこう変わってるんだねぇ」
なんて若干ボケたことを言っている泰子と、
「末永く? そう、そんなによろしくやりたいなら、こっちもよろしくてやるわよ。ええそれはもう す え な が く ね」
「い、いえ、あのあれべつに逢坂さんにじゃなくって、ちょっとキャッチーなつかみっていうかそもそもあなた関係ないじゃ」
「あ? 今なんかいった?」
まるで小姑のようにいびる大河といびられる先生を横目に、俺は無言で立ち上がり、朝飯の支度をするべく台所へと足を進めた。
先送りにしたともいう。
※ ※ ※
「大変だったんだねぇ、先生」
朝食をとっている間、泰子に昨日あったことのあらましを話した。
時間もあまりなく、かなり掻い摘んだおかげで大雑把な説明になってしまったが、とにかく困っているということは伝わったようだ。
相槌を打つこともせず、静かに耳を傾けていた泰子はそう言い、続けざまにこう告げた。
「こんなうちでよかったら、好きなだけいてくれていいよ」
胸を撫で下ろす。
本当のところ、泰子がこう言ってくれなかったらどうしたものかと、少なからず不安があった。
本人の前では口にできないが、どんなに繕っても結局はこの言葉が浮かび、付きまとう。
迷惑───それを一番被ってしまうのは泰子だ。
実際、俺の勝手でどうにかできることじゃない。
「んー? なぁにぃ、竜ちゃん。やっちゃんの顔ジロジロして。あ、おべんとついてる?」
「いや、なんでもねぇんだ」
だから、そんな心配が杞憂に終わってくれて内心ほっとしている。
それと同じくらい、他人に甘くて、お節介やきで、打算で動かない、損得なんて考えてもいない泰子が、俺は嬉しかった。
「へんな竜ちゃん」
「あの」
控えめに、小さく手を挙げたのは先生。
「本当にいいでしょうか、私・・・」
「へんなの、先生まで」
泰子はその手を下げさせ、両手でそっと包み込む。
「遠慮なんかしなくっていいんだよぉ〜、この家にいる間は家族なんだもん」
有無を言わさぬ、なんて堅い表現はしっくりこないが、それより先、先生が言わんとしていることをやんわり制す。
こういう時、普段は子供以上に子供っぽいと思う泰子が、歳相応かそれ以上の大人に見える。
曲がりなりにも一つの店を任されているというのが、少しだけ納得できる気がする。
「いいの、やっちゃん? そんな簡単で」
空気を読まないヤツが一人。
それが本気で、言葉通りの意味でならばだが。
「・・・イイ性格してるわよね、あなたって」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
感激してるところに水を差されて恨めしげな先生を一瞥し、やれやれ、ハンっといった感じの身振りを交えての大河。
そんな二人を、泰子がくすくす笑っている。
重苦しさが拭い去られ、場が明るいものになる。
憎まれ役を買ってでた大河のおかげで。
「いいのいいの〜。困ったときはおたがい様だしぃ、それに」
「それに?」
先生からの物言いたげな視線を素知らぬ顔して受け流す大河に、
「竜ちゃんたちの先生なら、きっと悪いひとじゃないもん」
だから、いいんだよ───そう、泰子は言った。
大河だけだと思ったら、ここにも空気を読めないヤツがいたとは。
しかも大河のそれとは違い、天然なもんだから自覚がない。
「・・・ま、やっちゃんがいいんならいいけど」
「うん、これでいいのだ〜」
恥ずかしげも、屈託もなくにこにこしている泰子とは対照的な、疲れたような大河が、ジト目で俺を見やる。
なんでだ。
「ホント、そっくりよね」
泰子とだろうか? そりゃ似ていて当然だ、親子だからな。
生憎見てくれは全然似なかったが。
「何だ、それがなんか不満なのか」
「べつに。そうじゃないけど」
ぷいっと顔を巡らせ、大河は心もち膨らました頬を隠す。
なんなんだ一体。
「もぉ、ケンカしないの〜。大河ちゃんもぉ、竜ちゃんもぉ」
「ひゃ」
「お、おい」
後ろから、泰子が大河と俺の首に広げた腕を回して引き寄せる。
コツンと、頭同士が軽い音を立ててぶつかった。
その上に顎を乗っける泰子。
「みぃ〜んなやっちゃんの大事な家族なんだから、ケンカしちゃぁメッ」
よしよしなんて、小さな子供にするように頭を撫でてくる泰子。
「・・・はぁい」
素直に返事する大河は、まるで叱られた子供まんまで。
でも、膨らましていたはずの頬には差した朱だけが残り、その口元も、俺には微笑の形に見えた。
「でっけぇ・・・でっけぇよ高須くんのお母さん・・・」
感じ入るものでもあったのだろうか。
先生は眩しいものを見るように目を細めていた。
と、チラリと壁と、掛かっている時計も視界に入ったようだ。
「やだ、もうこんな時間」
ごちそうさまでしたと早口に言い、皿や茶碗を重ね持って立ち上がる。
時刻は、確かにそろそろ登校しないと遅刻になってしまうというところを指している。
俺達も出るか。
が、そこでふとあることに気付く。
「先生、着るもんどうするんですか」
「え・・・あぁっ!?」
昨日身に着けていた物はまだ洗濯機の中だ、少しも乾いてない。
今着ているのは泰子のジャージ。
そんな格好で出歩けないだろう。
「そ、そうだったわ・・・どうしましょう、朝一で校長先生に呼ばれてるのに」
昨日の話だが、俺が大河によって無理やり夢の世界に送られていた時、先生は一応校長にだけは携帯から報告を行っていたそうだ。
だから玄関の外にいたらしく、浮かない様子だったのも、翌日のあれこれを考えると憂鬱だったらしい。
聞かれても突然のことだったとしか言いようがないのに根掘り葉掘り詮索され、しかも知り合いに会う度にそれが繰り返されるのは
なんとなく想像できるし、そんなのがしばらく続くというのは、それが自分でなくても御免願いたい。
「せーんせ、ちょっと・・・・・・で、こんくらいだったかなぁ、それで・・・なんだけど、どう?」
「は、はい、それなら多分・・・」
慌てふためく先生に泰子が耳打ちし、そしてそのままヒソヒソ内緒話。
大河は何やら訳知り顔で俺の耳を塞ぐ。
突っ込まれた指が奥の方まで刺さってきて痛みが走るが、大河は先生を伴った泰子が自室に消えるまで離してくれなかった。
理由を尋ねると
「うるさい、だまれ。そんなに気になるのかこの変態」
訳も分からず罵られた。
意味わかんねぇ。
───あの、さすがにこれは・・・ちょっと際どいかと・・・
───え〜、そうかなぁ、まだ地味だと思うけどなぁ。
───地味とかそういう問題じゃなくて、っていうかこれで地味なんですか。これ、屈んだら絶対に見えるんじゃ・・・
───うーん・・・そうだ、じゃ〜あ〜・・・
襖の向こうではどうなっているんだろう。
そんなやりとりが時たまこっちにまで届く。
その都度大河の機嫌を知らせるように舌打ちが漏れるのもどうしてなんだろう。
「・・・ねぇ」
「お、おぅ、どうした」
「あの・・・その・・・あああ、あれってもうちょっと大きく作れたりしない? あれ・・・パ、パッ」
「おまたせぇ〜」
「ッ・・・・・・」
言い終わらぬうち、閉じられていた襖が開けられ、泰子が出てくる。
大河はカッと顔を真っ赤にさせると物凄い速さで俯いてしまった。
「ほぉらぁ、先生もこっちこっち〜」
「い、いえ・・・本当に大丈夫ですかこれ?」
「だいぁいじょうぶ、かわいいってぇ」
中々姿を現さない先生を泰子が褒めちぎる。
遅まきながらそこでやっと分かった。
服を見繕っていたのか。
確かにこんな早くに開いてる店なんてないし、買っている時間も手持ちもない。
泰子の物を貸してやった方がよっぽど早いし金もかからない。
大河の物だとサイズの都合上ムリが生じるだろうし、着れたとしても、あんなフワフワのフリルだらけの服を着た先生は別の意味で無理が生まれる気がする。
なんか、思い描くだけでも憚られ、実際に目にしたわけでもないのに心が痛む。
なにより、大河も絶対に貸しそうにないし、結局これが一番妥当だろう。
泰子の見立てさえ変なものでなければ。
「ど、どうかしら・・・?」
「ケッ」
「ひゅーひゅー、やぁん、せんせぇかっわいぃ〜」
縮こまって出てきた先生。
つまらなさそうな、しかし悔しそうでもある大河。
できもしない指笛はポーズのみで、音色は口から出して盛り上げる泰子。
「高須くん?」
「・・・・・・・・・」
「・・・やっぱり、変?」
伏せがちだった不安げな眼差しに、スっと滲んだ何か。
「いや、そんなんじゃなくて」
「・・・そんなんじゃ、なくて?」
それを目にした途端、否定の言葉を口にしていた。
が、次の瞬間滲んでいたのはさっきとは明らかに違う、淡い期待。
「いいと思いますよ、俺は」
「そ、そう? ほんとう?」
変ということはない。
どちらかといえばかなりまともだろう、俺が予想していたのよりは。
黒地に白のストライプのジャケット、同系色のスカート。
インナーは首から胸元にかけてボタンを外してある、光沢のある白のブラウス。
泰子が仕事に行く際着ていくスーツの中では確かに比較的地味目なのかもしれないが、普通に着こなしていればそんなことはなく、
むしろ存在感を際立たせ、ぱっと見仕事のできる女性そのものだ。
教師という職業を鑑みればドラマか映画にいるような、けど現実には決していることのない美人女教師だろう。
メガネでもかければより雰囲気がそれっぽくなる。
微妙にスカート丈が短かったり、バストやヒップが強調されるような仕立てになってるのは、泰子の職業柄仕方のないことだと思うが。
だから、つい目がいってしまいそうになって、そんなにしっかり見ていられない。
「なら、今日はこれで行ってみようかしらね。高須くんもいいって言ってくれてるし」
一転してノリノリにる先生。
今更もう遅いが、発言には責任が伴うというのがよく分かった。
こんなことでもけっこう重大だったのかもしれない。
「ケッ・・・・・・ケッ」
あちらを立てればこちらが立たずとはよく言ったものだが、こんなことですら不機嫌さを顕にするというのはどうなのだろう。
俺はただ、率直な意見を言っただけなのに。
「大河・・・?」
「あによ。あぁ、同情? 悪いわね、そんなに気ぃ遣わせちゃうくらい哀れなもんくっ付けてて」
「な、なんのことだ。さっきからなんか変だぞお前」
「・・・どうせ私は人よかちょっっっとだけ胸が薄いわよ。それにどうせチビだし、どうせあんなの似合いっこないわよ・・・」
ボソボソ小声で呟く大河は、そりゃもう心底口惜しそうに着替えた先生を凝視する。
血走った目が一層危なっかしさを増させている。
どうも、ジャージ姿から変身と呼べるくらい様変わりした先生に羨望か、あるいは嫉妬しているらしく、どんよりとした暗い靄を纏う。
「そ、そんなことないだろ、大河だってその内ドンと背だって伸びるだろうし、胸だって泰子ぐらいになるかもしれないじゃねぇか」
「気休めなんてよしてよ」
チクショウ、その通りすぎて返す言葉もねぇ。
しかし、ここで止める訳にもいかない。
「お前なぁ、俺が何で気休めなんてしなきゃいけないんだ」
「だって・・・私じゃ、あんなのっ・・・」
ともすれば暗黒面に落ちていきそうな大河の肩に手を置き、止めさせる。
「そんなの、あれくらい俺が縫い直してやるよ。そうすりゃ着れんだろ」
「え・・・」
「なんだったら、採寸さえ取らせてくれんなら一から作ってやってもいい。バッチリ似合うのを誂えてやるさ」
それなら寸詰まりがあったり、逆にブカブカになるということにはならない。
適所を絞ったりもできるし、どんな要望だって即対応可能。
思うがままだ。
「だから気にすんなよ、大河」
「竜児・・・ほんと?」
「おぅ」
目を閉じた大河は一回大きく深呼吸。
そしてゆっくり吐き出すと、
「まっ、そこまでしてくれるっていうんなら今はいいわ。けどね、独身?」
「あら、なにかしら」
フフンっと鼻で笑う。
先生は余裕綽々に受け流すも、すぐさまその余裕に亀裂が走った。
「あんまり調子に乗ってはしゃいでるとぶっちゃけ惨めよ。あんた、もう若くないんだから」
ピシッ、だろうか。
それともビシィッ! だったか。
なんだっていいが、その時俺は確かに聞いた。
空間にも亀裂が入った音を。
「フ・・・フフ、フ・・・べ、べつに? わたっ、私、調子にノってなんかないしぃ。
ていうかそりゃあまぁ、確かに若くはないかもしれないかもだけど、私そこまで老けてるって歳でもないもの」
「そうかしらね、だったらなによその濃いぃメイク」
「ここここれは、これくらいした方が良いかもって高須くんのお母さんが、それにそんなに濃くだってないじゃない」
「・・・みっともないわね、そんな言い訳しなくちゃいけないあんたの、張りも潤いも失ったお肌が。
それと、それで濃くないとかまさかマジで言ってんの?」
グッサァッ!? とよろけた先生は一歩下がる。
すかさず大河は二歩も三歩も埋めて近づく。
ような、そんなイメージで応酬を繰り広げている二人。
「くうぅ・・・た、高須くんのおかあさん」
試合終了の鐘はあっけないくらいすぐに鳴った。
先生の情けない声によって。
勝者、大河。
もとより気の弱い先生が口喧嘩とはいえ大河に勝てる訳がない。
当然の結果に、それでも大河はガッツポーズまで決めてやがる。
ウサギを狩るのにも全力を尽くすのは、なにもライオンに限ったことではないのかもしれない。
獅子白兎ならぬ虎白兎なんて喩えは聞いたことないが、あながちそうなのかもと思えてしまう辺りが大河らしいというかなんというか。
「だいじょうぶ〜。先生かわいいんだから、自信もって」
「でも、逢坂さんが・・・やっぱり私みたいな三十路女には、行き過ぎた露出だったんでしょうか・・・」
「もうっ、大河ちゃんったら・・・それじゃあね、先生にはとっておきの魔法教えてあげる」
「とっておきの・・・まほう・・・?」
泰子は居間の隅にあったバッグを漁るとコンパクトを取り出した。
それを開き、先生の横に並ぶと、
「いーい? やっちゃんのあとについてきてね」
「は、はい」
真剣な目つきに変わった。
そんな泰子に、先生も真面目に、泰子が言うところの魔法に集中する。
「やっちゃんはぁ、永遠のにじゅうさんさぁい」
「やっちゃ・・・はぁ?」
こんな事だろうと薄々読めていた。
アホらしくって止める気さえ起きてこない。
大河も同様のようだ。
温くなったお茶を一息に流し込んで、急須から新しく注いだ熱いお茶を啜って、登校直前の最後の一時を味わっている。
「もぉ、それじゃあだめだめ、意味ないよぉ先生。そこはちゃあんとぉ、自分の名前じゃなくっちゃ」
「えっ・・・は、はい・・・わ、私は、ゆりは・・・永遠の、にに、に・・・にじゅう・・・にじゅう・・・っ!」
「そう、先生は永遠の?」
「・・・にじゅう・・・・・・さんだよこんちくしょ───!!」
「そうだぁ〜先生はにじゅうさんさいだぁ」
「そうよ、私にじゅうさんですよ! にじゅうさんなのよ!! にじゅうさんで悪いかー!?」
「悪くなぁーい」
「私がにじゅうさんで誰か困るかー!?」
「困んなぁーい、それでも世界は回ってるぅ〜」
「でしょ!? でしょっ!? そうでしょう!? 私は・・・私はぁ・・・私がっ! 永遠のにじゅうさんなのよおおおぉぉぉっっ!」
とうとう何かのタガが外れてしまったらしい。
もしくは超えてはならない一線を超えた。
吹っ切れた先生は一度言葉にすると、以降は何の躊躇いもなく自分は23歳だと、しかも永遠の23歳だと、
鏡の中の自分相手に声高に主張していた。
泰子も永遠の23になったばかりの頃はあんな感じだったのだろうか? ・・・なんかイヤだなそれ。
「うんうん、やっちゃんが教えることはもうなんにもないなぁ」
「最初からねぇし、いらねぇことを教えてんじゃねぇよ」
言いながら、俺はカバンを手探り寄せて立ち上がる。
学校に行かなければならない時間だ。
大河も湯飲みに半分ほど残っていた中身をふーふー冷まし、一気に飲み終えると腰を上げた。
するとコンパクトを・・・いや、コンパクトの向こうにあるどこかを見つめて「テクマク」とか「マヤコン」とか、
なんとも怪しげな呪文を唱えている先生の頭頂部にズビシッ! とチョップを炸裂させる。
痛みから批難の声を上げているのを完全にシカトし、先生の首根っこを掴んだ大河はズルズルとこちらに引きずってきた。
「昼飯は冷蔵庫ん中にあるからな、食う前に温めろよ」
「うん、ありがとう竜ちゃん」
玄関まで見送りについてきた泰子といつも通りのやりとりに加え、しっかり寝ておくようにと釘を刺す。
疲れているだろうに、いろいろとドタバタしてて帰ってきてからも全然休めなかったんだから、せめて昼間くらいはちゃんと体を休めてほしい。
体調でも崩されたら大変だ。
「それじゃ、行ってくる」
「はぁい。気をつけてね、竜ちゃん。大河ちゃんも」
「うん。じゃあね、やっちゃん。行ってきます」
俺と大河に言葉をかけながら、泰子は靴箱からヒールがついたパンプスを取り出すと、
「いってらっしゃい、先生」
「・・・重ね重ねありがとうございます・・・行ってきます」
───先生が階段を下りるのを待ってから、俺達は通学路を歩き出した。
193 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/01/18(月) 18:41:24 ID:q++ZHMUr
続く。
インコちゃんだってもちろん家族。
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