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30 プリマヴェーラ   ◆/8XdRnPcqA sage New! 2010/02/15(月) 22:37:50 ID:DZ+6bOx4





「ん… そこ… あぅん…  もっと… ひぅっ …あっ あん。」
「………」
「もっと、右 …あっ。 あああっ。」
「………」
「………?」 
「どうしたの? 竜児、手が止まってるよ?」
「……お前なぁ…。」
「な〜にぃ?」
「朝っぱらから、なんて声出してんだよ……。」
「えっ? だってぇ、竜児、上手なんだもん。」
「……あのな。」
「ん?」
「日焼け止めクリーム塗るのに上手いも下手もあるか!」
「だぁ〜ってぇ〜、亜美ちゃん、肌弱いからぁ、全身にくまなく塗らないとダメなんだもん。」
「そうは言っても、裸になるわけじゃねーだろ? そんなキワドイところまで塗らせるな。」
「亜美ちゃん、手届かないところあるからぁ、塗ってちょーだいって言ったら、竜児、『おう』って言ったよね?」
「だから、そこは手が届くだろ、どう考えても! っていうか、なんでそんな所まで塗る必要があるんだよ。」
「竜児、温泉あるって言った。」
「確かに言ったが……」
「亜美ちゃん、知ってるもん。 ヨーロッパの温泉は水着で混浴でしょ?」
「………まさか、お前、んな過激な水着着るつもりなのかよ………。」
「昨日一緒に買ったじゃん。 ちょーハイレグだよ、バブル期のレースクイーンみたいな。 今時珍しいよ?」
「俺には『見てのお楽しみ〜』とか言って見せなかっただろうが。」
「そうだっけ?」
まったく、三度の飯より、俺をからかうのが好きなんだな、こいつは…。
「ねぇ、竜児ぃ〜。 早く塗ってよ〜。 ……なんなら、手、滑らせてもいいんだよ?」
いつものように意地悪な笑顔で見据えられ、もう、どうにでもしてくれと、頭を垂れるしかない俺だった。



   プリマヴェーラ          
  • Primavera di Firenze -          ( ローマの平日 cinque )
                              


半月ほど前、親方は、俺が此処に来て初めてボーナスをくれた。 
それは、亜美がイタリアに避難して来ると教えた数時間後の事だった。 
敢えて確かめるまでも無い。 その金は亜美の為に使えと、まぁ、そういう事なんだろう。
俺の給料三か月分にも匹敵する3千ユーロのボーナス。
親方の親切を無駄にしないためには、俺の倹約マインドがいかに邪魔しようとも、全額亜美の為に使いきらねばなるまい。
俺はその為に無い知恵を振り絞った。
そして思いついたのは、――――旅行。
流石に、11日間も滞在するとなれば、ずっとローマに居るのはMOTTAINAIというものだ。
おりしもイタリアは弥生、春の花々が競って咲き始める、美しい季節。
だが、旅行といっても、俺自身イタリアに来てから、旅行らしい旅行なんてしてなかった。
唯一、観光旅行と言えるのは、イタリアに来て1年ほど経った頃に親方の長男、俺の兄弟子にあたる彼に、フィレンツェまで
連れて行ってもらった時の事くらいだ。
しかし、その唯一の体験は素晴らしいもので、行く先々で『川嶋がここにいたら…』なんて当時の俺は考えていたものだ。
……ああ、名案だ。
その時の俺の想像が当たっていたか、確かめてみることにしようじゃないか……。
 
そんな訳で、俺は奮発して、フィレンツェへの3泊4日の旅に行くことを決意した。


その企みを亜美に白状したのは、サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ教会を出て、少し遅い昼食にした時だった。
既に宿の予約も完了し、準備は万端。 
亜美を驚かせたくて内緒にしていたが、いざあいつの顔を見てしまうと、俺の期待感は増すばかり。
おかげで、腹芸の苦手な俺がぎりぎりまで内緒にしておくのはなかなかに骨がおれたが、文字通り、飛び上がるようにして
喜ぶ亜美を見れば、苦労の甲斐があったというものだろう。
それから、その日の午後は旅行のための買出しになった。 
日が暮れるまで買い物に勤しんで…明けて今日はいよいよ出発だというのに、早朝から亜美はこの調子なわけだ。
嬉しくてはしゃいでいるのだろうが、相変わらずの色気過剰っぷり。
放っておいたら、予定の時間に出発できなくなっちまう。
「いいかげんにしねぇと、コースを変更しなくちゃいけなくなるぞ。」
「はぁ〜い。」
亜美が返事をするのと同時に、やや軽薄なクラクションの音が響いた。
「ほら見ろ、きちまったじゃねーか。」
「え? なに、タクシー呼んだの?」
しめしめ、亜美はすっかり電車と思い込んでいるようだ。
「いや、カルロ兄貴に車を借りる手筈になってる。 今回の旅行は、オープンカーでドライブだ。」
「……まじ? 竜児、イタリアの免許持ってるの? …さては、亜美ちゃんの事、騙そうとしてるでしょ?」
こいつ……。 昔っから、なにげに俺を馬鹿にしてる節があるよな…。
「ああ、そうだ。 ばれちまったか。」 だから、敢えてこう答えた。 たまには俺が騙す側になってもいいだろう。
「ふん。 やっぱり〜。 あたしを騙そうなんて十年早いっつーの。」
「はははは。 まぁ、なんにせよ、早く着替えていこうぜ。」
「うん。 わかった。」

今日の亜美のスタイルは、デニムのキュロットサロペットにオフショルダーの白のロングT、スカイブルーのフリンジサンダル。
髪は、ポニーテールに結わえている。
フリンジサンダルはヒールも殆ど無く、見た目よりも足首がしっかり固定されて、動きやすそうだ。
狭い街路に待ち構えていたカルロ兄貴は、親方の長男で、面倒見がいい兄貴肌。 料理の腕も尊敬に値する。
しかし、なにかと俺を女遊びに連れ出そうとする、困った人でもあった。
「ヒュ〜。」
だから、そんな彼が今の亜美を見て、口笛を鳴らさない筈が無い。
さっきまでの痴態はどこへやら、モデル然と現れたその姿は、うなじと、露出した肩、長い素足が目の毒だ。 
カルロ兄貴は、当然のように亜美にかしずくと、巧みに口説き文句を囁く。
亜美も、その手の言葉は聞く機会が多いせいか、ほぼ聞き取れるようになっていた。
目を細めて、女王様モードで「グラーツェミッレ」と返す。 そんな姿がまた様になっているのだから、さすがに女優である。
そしてカルロ兄貴は、車好きの彼自身が徹底的に手を入れた、アルファスパイダー・ヴェローチェ Sr4 92年型のキーを
亜美の手の平に落とした。
「?」
わけがわからず、きょとんとする亜美。
すると彼は、わざとらしいジェスチャーを交えつつ、亜美の手の平からキーを拾って、俺に放り投げた。
「え? え? ま、まさか……。」
「どうした、亜美?」 ああ、気分がいい。 亜美を出し抜くのは最高に気分がいいぞ。
「う、うそ。 本当に、これ? 竜児……。」
「さぁ、亜美、後ろのトランクに荷物を積むんだ。 出発しよう。」
赤くなった亜美の表情は、さっき俺がついた嘘に怒っているのか、はたまた予想外の事態を喜んでいるのか判らない。
ピカピカに磨かれたダークグリーンの車体は鏡のように亜美の百面相を映す。
その手にぶら下げた荷物を奪い取り、車のトランクに丁寧に格納する。
それで亜美は、やっと正気を取り戻したようだ。
「り、竜児、本当にイタリアの免許持ってるの!?」
「もちろん、Siだ。」 「うそ。 ……すごいじゃん。」
「いや、実は日本とイタリアは協定を結んでいて、簡単な書類だけで、互いの運転免許証を切り替えできるんだ。」
「へ? そうなの?」
「ああ。 仕入れとかで使うかもしれないから切り替えたんだが、こんな風に役立つ時が来るとは思ってなかったな。」
「そりゃぁ、まぁ、あたしだって、イタリアで竜児とドライブなんて、夢にも思って無かったよ…。」
「俺の運転はイタリア男性ほど上手くはないが、ゆっくり景色を楽しみながら行こう。」


カルロ兄貴にお礼を言った後、亜美の為に助手席側のドアを開く。
「あ、ありがと。」 …亜美は少しだけ照れている。 日本じゃ恋人同士でこんな事は滅多にしない。 せいぜい会社の上司に
やる位だろう。 そんな姿を確認して、『やっとわかってきたじゃないか』という風に、カルロ兄貴が親指を立てたのが見えた。
そんな兄弟子の態度に苦笑を浮かべつつ革張りのコクピットに収まると、換装済みのダイレクトイグニッションに火を入れる。
一瞬の間をおいて、水冷直列4気筒、1962ccのDOHCエンジンが重々しく咆哮を放ち、亜美の肉体にも似た、流麗極まりない
車体が震える。
5速MTのギアを入れると、電装系のフルチェンジを手伝わされたお陰で、ひとかどならぬ愛着を抱いてしまった車が滑り出す。
さあ、いよいよ記念すべき二人の初旅行の幕開けだ。
「ラリングラーツィオモルト、セニョール、カルロ。 アリヴェデールラ!」
身をよじりながら、重低音のアルファサウンドに負けじと、亜美が声を張り上げる。
ルームミラーには、その声を受けて、胸を矢で射抜かれたような大袈裟なジェスチャーで石畳に倒れこむカルロ兄貴の姿。
「あっ…、あははははは。」
続くは、亜美の楽しそうな笑い声。
「やっぱ、ラテンの血って、女の子口説くには最高に向いてるみたいだね!」
「まったくだ。 ありゃ、日本人にゃ、絶対まねできねぇ……。」
「ふふふ。 よっ、がんばりなよ、日本代表!」
「なんだそりゃ…。」
亜美はめちゃくちゃご機嫌だ。 
まだ7時前のローマはそれほど交通量も多くない。
テカテカに磨かれた石畳の道路をゆっくりと進めば、風切り音も会話を妨げはしない。
「今日も天気はいいけど、昨日みたいに急に雨になったりしない?」
「可能性はあるにはあるが、天気図を見る限り心配はなさそうだ。」
「……そういえば、この車、雨の時はどうするの?」
「ちゃんと布製のルーフが着いてる。 車内はすこし窮屈になるが、雨には濡れない。」
「へぇ。 ちょっと見てみたいけど、雨に降られちゃ困るね。」
「そうだな。 雨の景色もなかなかだが、やはり最初は晴れの日がいいよな。」
俺と話しながらも、亜美はキョロキョロとローマの街並みを見回している。 いわゆるおのぼりさん状態だ。
車から見る景色が新鮮なのだろう。 ローマを北に向かうこの方向はあまり観光名所のない地域だ。
「なんか、どこにいっても壁の落書きと路駐ばっかだね。」
道路がアスファルトになってくる辺りで、残念そうな口調で言う亜美。
「そうだな。 特に落書きはな…せっかくの歴史的建造物がもったいない。」
こればっかりは、俺がローマに来て、どうしても馴染めない点だった。 ……掃除してぇ…。
「掃除したい、とか思ってるんでしょ?」 「う…」 「竜児ってさ、ほーんと、おばさん男なんだから。」
どんな意地悪顔をしているのかと、ちらりと右隣を見れば、なんとも優しげな視線の亜美がいた。
不意打ちをくらって、ドキッとする。
こうなると、返す台詞が無い。 亜美がなにか話してくれないかと期待したが、感じるのは変わらぬ視線だけ。
結局、この気恥ずかしい沈黙から救ってくれたのは、ローマ街道だった。
「今、合流したこの道路は国道2号線、かつてのローマ街道の一つ、カッシア街道だ。」
「へぇ… 亜美ちゃん、ローマ街道って、アッピア街道しか知らない。 沢山あったんだ…。」
「ああ。 イタリアばかりか、スペインやフランス国内にも作られたんだ。」
「すごいよね。 二千年以上前なのに……。」
「当時のローマの土木建築技術の一部は現在と遜色ないほど進んでいたらしいからな。」
「それで、そのありがたーーーい、街道を通ってどこにいくわけ?」
「おう。 そうか、まだフィレンツェ旅行ってしか言ってなかったよな。」
「うん。 ねぇ、竜児、そろそろ教えてくれてもいいでしょ? 今日の目的地。 まっすぐフィレンツェ?」
「いや、それじゃつまらないだろ? だからあちこち寄っていく。 とりあえず最初の目的地は…」
「どこ?」
「ヴィテルボのテルメ・ディ・パピだ。」


国道2号線に入ると次第に景色が変わってくる。
広々とした丘陵地に、ぽつぽつと集落が並ぶ。
ローマから離れるにしたがって、その集落の規模も小さくなって、緩やかな丘と、帯状に広がる林が風景の主役になる。
春ののどかな空気は朝だというのに、眠気を誘いかねない穏やかさで、所々にオリーブやアーモンドの花が咲く。
野の草花も花を咲かせ始め、街路の植え込みのセイヨウシャクナゲですら、気の早いものは綻び始めていた。
丘陵は時に視線を遮り、またあるときは遥か彼方まで折り重なって見える。
そして、その丘陵を彩る、薄いピンクや白の木々の花と、青や黄色の草花が主役をめぐって対決しているかのように咲き誇る。
「なんか、すごい癒される感じ……。 空気を肌で感じながら車に乗るのって、いいね。」
「おう。 折角だし、存分に癒されてくれ。」
そんななんでもない会話を交わしながら、車は北を目指す。やがて、カッシア街道のY字路を国道311号線に折れた。 
比較的道路幅の広い一級国道から逸れると、景色もいかにもな田舎の国道っていう感じに変わる。
数分走った所で、ロンチリオーネに向かうY字路を左に入ると、更に景色は田舎じみてきた。
「畑がいっぱいある。 ローマから一時間も走ってないのに。 ヨーロッパって、都市部と田舎がすごく近いのね。」
「おう。 少なくともイタリアはそんな感じだな。」
「イギリスもそうだったよ。 ソールズベリーの方とか、市街地と草原が合体してる感じだった。」
そうか、こいつ撮影とかで、けっこう色々な国にいってるのか…。
こんな時は、少しだけ、チクリとする。 
俺の前では高校時代と変わらぬ、いや、少し素直にはなったが、間違いなく俺の知っている川嶋亜美だ…
しかし、一方で『女優・川嶋亜美』も確実にいるのだ。
そんな思いを振り払うように、俺は告げる。
「8時も回ったことだし、ロンチリオーネの町を抜けたら、朝飯にしよう。」
やがて現れたロンチリオーネの古い町並みを抜けると、周囲の畑が淡く桃色に染まっていた。
「ねぇ、あのピンクの花なに?」
「ああ、西洋ハシバミ、いわゆるヘーゼルナッツだ。」
「ええ〜っ! ヘーゼルナッツ〜? あんな綺麗な花が咲くの? マジ?」
「ここでお前に嘘ついてもしかたねーだろ。 っと、もうすぐ湖が見える。 そしたらその辺に車を止めて飯にしよう。」
「湖? どっち?」 「左側だ。」 「竜児、邪魔。」 「……お前なぁ……。」
「あっ、見えてきた…って、何、コレ………」
亜美が絶句したのも無理はない。 俺も驚いた。 
湖は朝霧に包まれていたのか、水面近くだけが白い霧で覆われて、所々に覗く水面がサファイアのような青に輝いている。
カルデラ湖特有の湖の周囲を囲む急傾斜の斜面を覆うナラやブナの緑と、霧の白、水面の青。
僅か13k屬靴ない小さな湖は神秘的な美しさで俺達を魅了した。
道路からすこし外れ、農場の空き地に車を止める。 車が静止するのが待ちきれない様子で、亜美は飛び降りる。
「凄い。 これって、ラッキーなんだよね? こんな景色…」
「そうなんだろうな。 いつでも見れるわけじゃ無いと思う。」
「なんていうの、ここ。」 「ヴィーコ湖だ。 ……残念だが、あんまりゆっくりもしてられない、飯にするか。」 「…うん。」
俺は何枚かデジカメにその風景を納めたが…自然の風景は、分刻みで姿を変えていく。 
俺達が、朝食のサンドイッチを平らげる頃には、湖の霧の大半が消えてしまっていた。
「なんか、儚いね………。」 「そんな事は無い。」 「え?」 
「確かに今日の景色は二度とないかもしれないが、この湖が美しいってのは変わらない。 この光が当たったから美しいって
訳じゃない、湖自体が美しさを内包しているから、どんな光が当たってもいいんだ。」
亜美が何を考えているか、なんとなく解った。 ……美しいという事の儚さ。
こいつは昔から、自信過剰なくらいのナルシストの癖に、変に自虐的になることがある。
だが、俺だって少しは大人になった。 そんなこいつを支えてやりたいと思えるくらいには。

「…あんた、イタリアに来て口が上手くなったんじゃない? やっぱ、郷に入りては、ってやつ?」
「なに言ってんだよ。 お前に鍛えられてるからだろ。 イタリアは関係ねーよ。」
「なに、それ? どういう事?」
「お前は自分で自分を褒めちまうから、俺は余程いい台詞を考えないとな。 単に綺麗だ、なんて言っても陳腐だろ?」
「っく。 馬鹿! これみよがしにそういうこと言わないでよ。 嘘っぽく聞こえるじゃん!」
「な、なんだよ、俺は別におかしなことは言って…。」 「…馬鹿! もう、次いこ、次!」 
「……へいへい。」 …相変わらず難しい奴だ…。

朝食を終え、また田舎道のドライブに戻る。
カルロ兄貴自慢のアルファスパイダーは亜美にも気に入ってもらえた故か、至ってご機嫌にラツィオの緑野を駆け抜ける。
「此処からヴィテルボは目と鼻の先だ。 9時にはテルメ・ディ・パピに着けるだろう。」
「で、日本の温泉とは違うんでしょ? なんか、プールみたいな所?」
「ああ。 まさにプールって感じだったな。 でも、ちゃんとした温泉で源泉100%だった筈だ。」
「へぇ〜」
「温泉、好きか?」
「うん。 っていうか、お風呂が好きかな。 水着着て入るとお風呂って感じしないから、ちょっと残念だよね。」
「だよなぁ。 やっぱ日本人には西洋の温泉のスタイルってのはどうかと思うよな……。」
「海ならトップレスでもよくって、温泉はダメって、変よね。」
「まったくだ…。」
そんな事を話しているうちに、丘の上に城塞都市が見えてくる。
「あ。 あれがもしかしてヴィテルボ?」
「おう。 正解だ。 あそこも古い町でいろいろ見る所があるらしいが、俺も案内してもらわなかったから詳しくない。」
「へぇ、なんでも薀蓄たれる竜児にしては珍しいじゃん?」
「いや、歴史とかは知ってる。 聞きたいのか?」 「……遠慮する。」
「ははは。 目的地は町外れだ。 9時オープンだが、着くと丁度9時くらいになりそうだな。」

ヴィテルボの古い町並みを無視して、町外れの温泉施設に向かった。
町を抜け、田園地帯に入って1kmほどで湯気が見える。 ブリカーメと呼ばれる露天風呂だ。
俺だけならなんとかなるが、流石に亜美を伴って此処に入るのは無理だ。 何故なら、着替える場所がないのだ。
「すっごいワイルド。 なんか、おじさんが何人か入ってるよ。」
「あんまり見るなよ。」 「平気だよ。 こんだけ遠ければわかんないって。」
あまりに亜美が興味津々なので、速度を緩めず走りすぎる。
「…………あーあ、通り過ぎちゃった… もっとみたかったなぁ。」 「そう言うなよ、すぐ温泉施設だから。」
露天風呂からすぐの交差点を曲がると、そこはテルメ・ストラーダ、そのまんま、温泉通り。
その突き当りが『テルメ・ディ・パピ』だった。
「さあ、ついたぞ。 ちょうど9時だ。」 
うむ、我ながら完璧なスケジュールだ!
「楽しみ〜。 着替えたら、ちゃんと待っててね。」 「おう。 なにはともあれ入ろう。」
一人12ユーロを支払って、施設に入る。
そこはホテルが併設されていて、さらには各種エステ、セラピー施設も完備、かなり立派な施設だ。
一足先に、その巨大な浴槽、いや、文字通りのプールサイドに出る。 硫黄泉独特の匂いが実に温泉らしいが、見た目は
完璧にプールだ。 ご丁寧にパラソルやデッキチェアまで揃っている。
オープンとほぼ同時に入場したにも関わらず、亜美の着替えを待つうちに、結構な数の客が入ってきた。
とはいっても、プール自体が横40m、縦50mとやたら大きいから、気にはならなそうだが。
きょろきょろと辺りの設備をチェックしていると、俺の前を通りかかったカップルの男がなにかに見とれ、彼女に小突かれた。
男の視線は……。


………思わず吹いた。
ストレートラインのベアトップ、サイドがすこしだけトップとつながったボトムは腰骨のずっと上まで切れ込んだ超ハイレグ。
最近流行のフロントでつながったモノキニとは違う、ヘソを露出したデザインのモノキニタイプは、一歩間違えば下品に見え
るほどの刺激的なラインだった。
言うまでもないが、ぴっちりとしたベアトップは、それなりに胸のボリュームが無ければ着れない代物だ。
生地もパールホワイトだが、光の具合で微妙に色が変化する絹のような光沢で、その扇情的な曲線を見事に強調していた。
こ、こいつは…早々に風呂の中に避難する必要がありそうだぜ……。
幸い白濁した硫黄泉は、俺の下半身がのっぴきならない事態になっても見えないだろう。
っていうか、既に前かがみになってしまいそうなんだが…。
その人間凶器は、俺を認めると、小走りになった。
すいません、亜美さん。 そのぷるんぷるん揺れるものはせめてカップで覆って欲しかった…。
裸をいつも見てるのに、青空の下で見る水着姿が、なぜコレほどまでにエロイのか?
「竜児っ。」
「すまん、亜美、一身上の都合で入浴しながら話すぞ。」 俺は返事も聞かずに速攻でお湯の中に避難した。
「な、なによ、もう。 なんか言う事ないのぉ〜?」 すこし膨れながら、プールサイド(この際プールでいいだろう。)に立って
仁王立ちで見下ろす亜美。
それを見上げる俺の角度からは、亜美の股間の微妙な曲線と胸の膨らみが強調される構図になって、色々とヤバイ。
「いや、似合ってる、可愛い、綺麗だ。 だから、お前もこっちに来ないか?」
とりあえず、俺の分身が落ち着くまで、その水着姿を水中に封印して欲しい。
「なーに、それ。 なんか、ぜんぜん心がこもってない。」 「いや、気持ちいいぞ、早く来いって。」
「ふん…。」
膨れながら、やっと入浴してくれる亜美。
それでも深さは1.2mくらいなので、長身な亜美の凶器は完全には隠れない。
「なんなの? もう。」 「いや、お前、ちょっとその水着、過激すぎないか?」
「そんなことないでしょ? ビキニよりは布地多いって。」 「いや、なんていうか、その形とかが寧ろなんというか、だな。」
亜美の目がすこし細まり、笑う。 いかん、なんか悪戯を思いついた顔だ。
「ははーん。 亜美ちゃん、わかっちゃったぁ。 竜児ってば、………えっち。」
お湯の中、腰の深さあたりはもう白濁して見えないが、亜美の手は正確に元気になった俺の息子を捉える。
「うおっ」
続いて、間髪いれずに亜美は自分の体を寄せてきて、その下腹部を俺の息子に摺り寄せやがった。
悲しいことだが、身長差はそこそこあるのに、股間の高さはほぼ同じくらい。
「亜美、ちょ、待てっ。」 「いーや、ちゃんと心を込めて、感想言ってくれるまでやめない。」
「わかった、わかったから!」 ふにょりと亜美の大事な部分に俺の体の一部が食い込む。
「どお? この水着。」
「一言で言って……。」 「うん…。」 「エロイ。」 
「うおっ! いっ…」 亜美の手に力が入る。
「いや、まじで勘弁してくれ。 そんな格好されたら、男なら誰だって興奮する。 そ、そうだ、セクシーだ! セクシー!」
口をすこし尖らせて、じっと俺を見つめていた亜美だったが、ふっと顔を緩めると、ようやく許してくれた。
「ま、仕方ないか。 亜美ちゃんのナイスバディ見せられちゃ、我慢できないってのも男の本能よね…。」
「ふう…。 お前なぁ、その水着は反則だぞ。 それに、カップ付いてないのかよ。」
「最初っから付いてなかったんだもーん。 こっちじゃ、無いのがデフォなんじゃね?」
「……かもしれんが。」 たしかに、周囲の女性の胸元は大多数がそのようだった。
「でも、ダメだ。」 「なんで?」 「いや、なんでって……。 普通ダメだろう?」 「だからぁ、なんで?」
「…だから……他の奴には…見せたくない…。」
「ぷっ。 くふふふ。」
畜生…なんか負けた気がするぜ…。
「亜美ちゃん、ちょっとカップ着けて来るね。」 「へ?」 「着脱可能なんだよ? 知らなかったの? あはははは。」
確信犯め。 まったくもって性質が悪いぞ…。



5分ほどして戻ってきた亜美は、薄手のロングパレオも纏って、一転してエレガントな雰囲気に変わっていた。
周囲の男達の視線を集めながら、ゆっくりと俺の待つデッキチェアに近づいてきて…
「どう? これならいいでしょ?」
「おう。 エレガントだ。」 「ふふ。 ありがと。」
なるほど、カップをつけないほうが、胸の曲線は美しく見えるのか。 哀れ乳じゃ絶対に無理だが、亜美の場合はカップ
無しのほうが、断然胸の曲線が自然で美しい。
それに、下腹部から股間にかけての微妙な曲線は、このような光沢のある水着のほうが全裸よりも寧ろエロティックに
見えるのも理解した。 パレオを巻いてきてくれたのは、実に有難い。
普通、ヨーロッパでは温泉というと病気や怪我の療養目的で、若い人の利用は少ないのだが、ここはエステ施設も併設
されているため、若い女性の利用も多い。
だが、それにしても亜美は抜群に目立っていて、『日本人離れしたスタイル』という形容は亜美に対しては陳腐極まりな
い言葉であると思い知らされる。 日本人とか、そういうレベルではないのだ。
そういえば、二十数年前、亜美の母親である川嶋安奈は『外国人離れしたスーパーボディ』なんて意味不明なウリ文句
が付けられていたのをこの間知った。 なるほど、こうして亜美を見ていると、その形容も合点がいく。
「なんか、ちょっと浸かっただけなのに、お肌がスベスベしたきたよ。」
ところが、当の亜美は、外野の視線などちっとも気にした風もなく、嬉しそうに言う。
「酸性の硫黄泉は大抵がそうなんだが、体の表面の不要な角質層が溶けてすべすべになる。 美肌の湯と呼ばれる温
泉に硫黄泉が多いのはそういう訳なんだよ。 更に、硫黄は人体に必要不可欠な成分だが、硫黄は皮膚から浸透して
直接血中に入るので、食物を介して取るのと同様の効果が期待できる。 つまり、硫黄泉は科学的にも人体に良いこと
が証明されているんだ。」 
「……竜児の薀蓄は油断ならないね…。 なにがきっかけで出てくるかわかんない。」
「お。おぅ… すまん。」
「あははっ。 いいよ、物知りになるのは悪いことじゃないし、ウザかったら、亜美ちゃん容赦なく言うし。」
「…確かに。 昔っから容赦ないよな、お前。」
「そのほうがいいでしょ?」 「いや、結構きついんだぜ、あれ。 まぁ、もう慣れちまったけどな。」
「ふふふ。 ね、竜児、もう一回入ろ? 今度はあそこのお湯が出てる方に行ってみようよ。」
「おお。 そうだな、この辺りはちょっとぬるいが、湯の出口はもっと適温かもな。」
三箇所ある出湯口からは50℃くらいのお湯がドバドバと流されている。 だが、すこし浅すぎた。
30cmほどしかなくて、半身浴にもちょっと浅い。
プールは徐々に深くなっていくようで、俺達は座って入ってちょうどいい深さの所を探し当て、そこで湯浴みと相成った。
出湯口の反対側の方はかなり深いようで、みんな泳いでいる。
「なーんかさ、やっぱりこれって、プール扱いだよね?」
そんな亜美の台詞も頷ける。
俺達のいる辺りはそこそこ温度があるが、長湯するにはぬるめの深い方がいいので、そっちに人が集まっているようだ。
お陰で俺達二人は、割合のんびりと、出たり入ったりしながら温泉を楽しむことができた。

「竜児…なんか、お肌がすべすべって言うよりカサカサになってきた…。」
「そうだな… そろそろ出るか。」 「クリーム塗るから待って。」 「おう。」
デッキチェアに腰掛けて体にクリームを塗りこむ亜美だが、流石に今朝のような悪ふざけはせず、手の届かない所だけ
塗るのを手伝わされた。
「はぁ〜気持ちいい〜。 折角だから、亜美ちゃんエステもやってみたいけど… 時間無いんでしょ?」
「ああ。 まだローマからたいして離れてないからな。」
「フィレンツェってローマからどのくらい離れてるの?」 「道のりで概ね300kmだ。」
「ふーん。 なんか微妙な距離だね。 遠いって程でもないし、近いって程でもないし……。」
「実は今日はフィレンツェまで行かない予定なんだ。」
「へ? そうなの?」
「ああ。 ラツィオ州からトスカーナ州にかけての景観は素晴らしいからな。 ゆっくり景観を楽しみながらフィレンツェに
向う予定だ。 もしかして、早くフィレンツェに行きたいのか?」
「ううん。 あたしは別に何処かに行きたいって事はないよ。 竜児に任せる。」 「…そうか。 ありがとな。」

「さて、そろそろ移動するか。 もう11時だ。」
「お昼はどうするの? ここにもリストランテあるみたいだけど。」
「食事はこの北にあるモンテフィアスコーネに心当たりがある。 そこで食事をとった後、次の目的地に向かおう。」
「さっすが、抜かり無しってとこ? んふふふ。 ツアコン、よろしくぅ〜。」
「おう。 任せとけ、次の所も凄い所だからな。 期待していいぞ。」
「どこ?」
「チヴィタ・ディ・バニョレージョだ。」

それから15分後、俺達は再度アルファスパイダーで田舎道を走っていた。
ヴィテルボの北の郊外には小さな工業団地があるが、それを過ぎればすぐにまた田園地帯だ。
緩やかな丘陵に菜の花や野生のデイジー、ローズマリーなどの花々が咲いている。
点々と見える目の醒めるような赤は気の早いポピーか。
例年ならまだこの辺りは雨の多い少し肌寒い時節だが、今年は暖かくなるのが早かったせいか、花々が一斉に綻んでいた。
緑の丘のてっぺんにあるオレンジの屋根の農家へ、糸杉の並木が続いている。
糸杉には、薄紫の花が一面にぶら下がっているものもある。 藤の花だ。 日本よりも二ヶ月近くも早く咲き始めている。 
蔓性の藤が糸杉に絡まって、まるで糸杉の花のように見える。 
亜美は綺麗な景色を見つけるたびに、俺にそっちを見ろの、やれ、こっちが綺麗だのと、甚だ忙しい。
そうかと思えば、ブドウ畑を見つけて、美味しいワインはあるのか、とか普段の亜美にさらに輪をかけてよく喋る。
特に美しい場所では、亜美をモデルに写真を撮ったりしながら、ゆっくりとドライブを楽しんだ。
そんなこんなで30分も走っただろうか? 
やがて、街道沿いに家が増えてきて、ついには丘の上に広がる町を視界に捉える。
町の規模からすると、妙にでかいクーポラがやたらと目立っているそこが、モンテフィアスコーネだ。
「ね、竜児、モンテフィアスコーネってさ、エスト!エスト!!エスト!!!ってワインで有名なところじゃない?」
「おう。 その通りだ。 よく知ってたな、亜美。」
「やっぱり〜。 亜美ちゃん、そのワイン飲んでみたいなー、ちょっとだけ。 駄目?」
「いや、グラスワインぐらいならいいだろうが、それよりもその辺の農家のワインの方が美味いぞ。」
「え? そうなの? その辺の農家のワインって自家用なんじゃないの? そんなの売ってる?」
「これから行くトラットリアにはあるはずだ。 少なくとも以前来た時はあった。」
「へー! じゃ、亜美ちゃん、それ飲む。 きーめたっと。」 
「へいへい。 お姫様の仰せのままに。」
「うん。 大儀じゃ。」

俺が目星をつけていた店は、モンテフィアスコーネの西の端、ボルセーナ湖を一望する場所にある。
丁度昼頃だったが、幸い団体の観光客は来ておらず、テーブルは一番見晴らしのいい辺りでも空いていた。
青々としたボルセーナ湖はヨーロッパで最も澄んだ湖とも言われるカルデラ湖で、火口の外輪山の部分にできた町が、ここ
モンテフィアスコーネ、すなわち、この町と湖は急傾斜によって隔てられている。
そして、このトラットリアも、その急傾斜の上にせり出すようにして建っていた。
見晴らしのいいテラスに座れば、上昇気流に乗ったツバメが凄い速さで飛んできて、有り得ない様な角度でターンし、軒下に飛び込む。
「ねぇ、竜児、雛がいるんじゃない?」 
「いや、まだ卵だろう。 巣にちらちら見えるのも親鳥だ。」 
「そっか。」
「ツバメが高く飛んでいるな…。 このぶんだとこの辺りは明日も晴れそうだ。」
「ツバメで天気がわかるの?」 
「おう。 正確にはツバメの餌になる虫の習性だがな。」 「パス。」
「はぁ? なにがパスなんだ?」 
「今、薀蓄モードに入りかけたでしょ? 今は聞きたくないからパス。」 
「………。」
「だぁーって、こんなに気持ちいいんだもん、難しい話は無し。 ね?」
「…おう。 そうだな。」

「じゃあ、料理の話だ。 ここの貝のパスタは絶品でな、それと、ボルセーナ湖で捕った魚の炭火焼き、そして最後は水牛の
ブッラータだ。 これは当然、作って2時間もたっていない代物が出てくる。 美味いぞ。」
「竜児が絶品って言うくらいだから、きっと凄く美味しいんだろうね、超楽しみ。」
程なく、白ワインがグラスで置かれる。 琥珀色のそれは、一見貴腐ワインにも見えるが、この辺りの農家の自家用ワインだから、
値段はやたら安い。
「ごめんね竜児、私だけ。 …いただきまーす。」 
「お前なぁ…、全然悪いと思ってねぇだろ。」 
「わぉ、なにこれ、おいしーーー! なんか、ドイツの貴腐ワインみたいだよ、コレ。 フルーティーで甘い!」
「気をつけろよ、アルコール度もかなり高いのが自家用ワインの特徴だからな。」 
「うん、これききそー。」
続いて、パスタが届く。 1人前の筈なんだが、予想どおり、二人で丁度いいくらいの量だ。
「さぁ、食ってみてくれ。」 
「おいしーーー!」 
「だろ。」 
「こりゃ、竜児の修行はまだまだ終わらないね。」 
「おぅ。 まだまだだ。」
パスタがようやく半分になった頃、魚の炭火焼きも出てきた。
「またまた美味しそうなのが出てきたね…。 あたし、こんなに食べて太っちゃいそう……。」
「そう言うな、食わなきゃ損だぞ。 それに、後で歩くから、安心して食ってくれ。」
…そうしてボルセーナ湖の青く輝く湖面を遠くに見下ろしながらの昼食が進む。 そして最後に控えるのが、ブッラータ。
「ふっふっふっふ。 コイツが凄いんだ。 ここのブッラータは中のクリームも当然水牛でな、牛乳で作っているものとは濃厚さ
がまるで違う。 しかも、近くの農場で昼ごろ作った出来立てだ。 数量限定の逸品だぞ。」
「どうやって食べるの?」 
「普通に切っていい。 中からチーズ入りクリームが出てくるから、それと包んでいるモッツァレラチーズを併せて食うんだ。」
「よっと… うわ、なんかどろっと出て来た!」 「食ってみろ。」 
「…………!!!」
ふっ。 驚いたようだな。 当然だ。 このブッラータばっかりは日本じゃ食えない。 
作りたてじゃないと、この美味さは出せないからな。 輸入品じゃ、クリームが固まっちまって全然別物になる。
「胃がもたれるから、食いすぎるなよ。」 
「え、う、うん。 でも、これ、美味しすぎ! 世界は広いよ!」
「はっはっはっは。」
「俺も、カルロ兄貴に食わされた時は絶句した。 すげーよな。 世界は広い、か。 いいこと言うな、お前。」
湖から吹き上げる爽やかな風に抱かれて、楽しい会話と食事を楽しむ。
そんなささやかな幸せが、俺達二人には何より大切に思えた。


そして、時間をたっぷりかけた昼食が終わったのは、午後1時を30分ほど過ぎてのことだった。
「あ〜 ほんっと、美味しかったぁ〜。 ちょー幸せな気分。」
「喜んでもらえて何よりだ。」
「でも、ちょっと苦しいかも… 食べ過ぎちゃったかな。」
「次は少し歩くから、腹ごなしが出来ると思う。」
「そうなんだ…。 ここから遠いの?」
「いや、車で30分ほどだな。」
「じゃ、早速いってみよー。」 「おう。」

モンテフィアスコーネの街中に、カッシア街道と、国道71号線の交差点がある。
俺達の目的地は、国道71号線を若干北へ辿り、さらに途中から脇道に逸れた先だ。 一言で言って田舎町。
だが、この辺りの田舎町は例外なく美しい佇まいを誇る。
牧草地や、小麦畑、葡萄畑、オリーブ畑を縫って車を走らせれば、20分ほどでバニョレージョの町は見えてきた。
「あ、町だ。 あそこが、チビトラ・ト・バカリュウジ?」
「………チビとバしか合ってねー。」
「え〜、亜美ちゃん、間違えちゃったぁ?」
「あのな……チヴィタ・ディ・バニョレージョだ。 間違ってもチビトラでも、バカリュウジでもない。」
「ほーい。 ね〜竜児、そういえばさぁ竜児のデジカメで撮った写真、後であたしにも頂戴。 ファイルで。」
「おう。 でも、お前も携帯で撮ってなかったか?」
「なんか、景色綺麗すぎて、携帯のカメラじゃもったいない気がしてさ。」
「まぁ、そりゃそうだな。 それにあんまり撮りまくってると、メモリーがなくなっちまうしな。」
「うん、実はもう半分くらいSD埋まっちゃった…。」
「ははははは。 俺は予備のメモリーをたんまり用意しておいた。 だから、いくら撮りまくっても平気だ。」
「っと、そろそろバニョレージョだな。 チヴィタもちらちら見えてくるぞ。」
「別な所なの?」
「おう。 バニョレージョの町に隣接するのがチヴィタ、別名『死にゆく町』」
「げ、何その不吉な名前………。 もしかして、怖いところ?」
「いや、そうじゃない。 そうだな……、まずは実際に見てから話そう。」
町の外れに車を停めて、展望台へと向かう。 チヴィタに入るには展望台の下の道を行かねばならないのだが、
展望台からの眺めは最高なので、先ずはそっちに向かうのが、チヴィタ観光のセオリーだ。
今日は天気もよく、よく晴れた青空に、形のいい白い雲がほんわかとあちこちに浮かんでいる。
今年の陽気ならば、チヴィタの周囲は菜の花が咲き乱れている筈だ。

車を停めた場所から500mほど歩くと展望台に着いた。
正直、俺はワクワクしていた。 亜美は一体どんな反応を示してくれるかと。
そしてそれは、俺の予想とは大幅に違ったものであった。

「……すごいや。 ……ラピュタは本当にあったんだ…。」

「……………そうきたか。」
いや、確かにそんな感じではあるが、亜美の口からそういう台詞が出てくるとは思いもよらなかった。
「確かに、この町をモデルにしたって説もある。 宮崎監督はイタリア好きで知られてるしな。」
「ってゆーか、小さくて可愛い。 あそこ、人が住んでるの?」
そんな疑問も当たり前だろう。 町の周囲は全て崖。 最大で落差は100mを越す。
町に至る道は一本の陸橋だけで、もちろん、車は通れない。
その地上の浮島のような、幅120m奥行き200mくらいの台地に石作りの建物がいっぱいいっぱいに建っている。
そして、町の中央にあるサン・ドナート教会の鐘楼が、町の景観のバランスを整えるのに役立っていた。
まるで映画のセットのような光景。 それが、『死にゆく町』チヴィタだった。


「…このラツィオ州、ウンブリア州西部、トスカーナ州は凝灰岩の地層が多くて比較的地盤がゆるい。 このバニョレージョと
チヴィタも凝灰岩の上に出来ている。 これが、時間が経つにつれ、崩落したり、風に侵食されたりで小さくなって今の姿に
なったというわけだ。  ……どうだ? かなり圧縮かけたんだが。 薀蓄。」
「良く出来ました、かな。」
展望台から陸橋の袂に向かいつつ、概ねの薀蓄を語り終えた。
「それにしても、エトルリア人? って凄かったんだねぇ。」
「かなり高度な建築、土木技術を持っていたのは間違いないな。」
「でも… 竜児がなんで歩きやすい靴にこだわったか、判った…。」
「おう。 見た目より厳しいぞ、この陸橋は。」
「上から見るとたいしたとこなさそうだったけど、最後の方、結構急なんじゃね?」
「足元、大丈夫か?」
「ん〜、ま、平気っしょ。 舗装はされてるしね。 よーし、じゃ、いくよ、竜児!」
「おう。」
平日で、バスの時間とかち合わなかったお陰で、観光客はほとんどいない。
青い空に浮かぶようなチヴィタ。 その崖の麓や、中腹には菜の花の黄色が輝いている。 これぞまさしく、絶景。
そこに俺達を導く、300mほどの陸橋は幅が狭く、結構な高さがある。
「これって、高所恐怖症の人は住めない町だね。 この橋渡れねーって…。 しかも風、超強ぇーし。」
「それ以前に、町自体がダメだろう。」
「あ、そうか。 あそこから見たら、どんな景色かな。 竜児、早くいこ。」
「おい、危ないから、そんなに早く歩くなよ。」
「だーいじょうぶだって、チビトラじゃあるまいし。」 「大河だったら、放しておけねぇ…。」
「うんうん、なんか、ドジしてその辺にぶら下がりそう! あはははは。」
「いや、けっこう上の方は傾斜が急で滑りやすいから、お前も気をつけてくれよ。」
「はいはい。」

数分後、ようやくチヴィタの町の門に辿り着く。 石造りのアーチは狭く、御伽噺の世界に入る秘密の入り口のようだ。
「ここは現在進行形で侵食が進んでる。 すこしづつ崩れていってるんだ。 いつか、この町は無くなる。」
「…え?… そう、なんだ……。 それで…」 「……『死にゆく町』って訳だ。」
「こんなに、綺麗な町なのに…。 悲しいね。」
「おう。 でも何百年も先の話だろう。 目で見えるほど狭くなっていってる訳じゃない。」
「……そっか。 よかった…。」
「さぁ、そんな先の事を心配しても仕方ねぇ。 ここは楽しく見物させてもらおう。」
「ん。 そうだね。」
門をくぐると、こぢんまりした石積みの家が並び、中央の教会前の広場に通りが続いている。
淡い褐色の石積みに緑の蔦が美しい。 門を出てすぐ右にお土産屋さんがあった。
「竜児、ここお店? ね、入ってみようよ!」 
流石に亜美の反応は早い。 ショッピング用のレーダー完備らしい。
「ほう。 こいつは…」 
良質そうなオリーブオイル、手作りジャム等が目に飛び込む。 
小さい店だが、写真や絵葉書に加え、地元の食材もいくつかあった。
「ねぇ、竜児、この絵葉書凄くね? 雲の上にあるみたい。 まるっきりラピュタじゃん!」
店の女主人はとても親切で、亜美は大満足の様子。
俺達が店を出ると、女主人は外まで来て手を振ってくれた。 結局、亜美は絵葉書を何枚か購入したようだ。
「んふふ。 いいお土産できちゃった。 ここはまだ来たこと無いって人多そう。」
「そうだなぁ。 実際、前に来たときも日本人観光客には会わなかったしな。」
「でも、なんか中世にタイムスリップしたみたいな感じじゃない? 観光客もいないし……あっ、ネコ!」
「日向ぼっこ中みたいだな。」
「かっわい〜。」
そのネコは尻尾を振りながら教会前の広場に悠々と歩み去った。


随分と人なれしたネコに続いて、すぐに俺達は中央の教会前広場に辿り着く。
「プランターの花も綺麗だし、すっごい雰囲気いいね。 なにより人が少ないのが最高。」
「ああ。 時間帯的なものだな。 バスの本数が少ないせいで、ツアーの観光客は来る時間が集中するんだ。」
「そっか。 じゃ、今のうちに周っちゃおうよ。」
「いや、慌てなくてもこの教会から100mも進めばもう、崖だ。 そして、メインストリート以外はツアー客は殆ど歩かない。」
「そうなの? じゃ、二人でゆっくり歩けるね。」
そう言って、腕に絡み付いてくる。 
反射的に逃げちまいそうになったが、人がまばらに居るだけの此処なら、気恥ずかしさに耐えられる。
こいつが人の多い所を嫌うのは、そういう所でこういう風にくっつくと、俺が照れて逃げるからなのかもしれねぇな…。
だが、外から見る分には、こんな凶悪面の俺とこいつじゃ、どう考えても釣り合いがとれねぇのも事実だ。
なんだ、アイツは? って目で見られるのは、どうにも居心地が悪かった。
そういう意味では、俺もこうして人目を気にせずに亜美と腕を組めるのは、まぁ、まんざらでもない。
実際、日本じゃこんな事は絶対に出来ない。
間違いなく、亜美に迷惑かけちまう。 ここがイタリアだからこそ、俺達はこうして居られるんだろう。

そうして二人でそぞろ歩くチヴィタの町はこの上なく美しかった。
メインストリートから外れた石畳の小道は、突き当りが遠く霞む下界の景色で、まるで空中に向かっているようだ。
その小道を進み、突き当りで通りを折れると、蔦の絡まる石造りのアーチが素晴らしい風景画の額縁と化している。
「あ、ここは壊れてる…。 ますますラピュタっぽい。」
「足元気をつけろよ。 すこし下る。」
「うん。」
その小道を下った先にあったのは共同墓地だった。 おそらく、エトルリア時代の洞窟を利用したものだろう。
そこから振り返ると、崖の上に家が建っているのが良くわかる。
「なんか、こうして見ると人間って凄いよな…。 こんな所にまでこうして住んでいる。」
「ここで生まれて育った人にとっては、やっぱり離れられない場所なのかな。」
「なんだろうな。 そう考えると、観光なんて言ってうろちょろすんのも、なんか申し訳ない気がするな……」
「ふふふふ。 なんか、すごく竜児らしい発想だね、それって。」
「…そうか?」 
「うん。 ……名残惜しいけど、もどろっか?」
こうして、いつも相手の気持ちを敏感に感じ取って思い遣れるのは亜美の一番の美徳だと思う。
それを優しいと呼ぶのなら、亜美は間違いなく優しい女の子だろう。 
そんな事を言ったなら、調子に乗って当然だと胸を張るだろうか。
それとも、照れて頑なに否定するのだろうか。
ふと笑いが漏れてしまった俺に気付いて、亜美は怪訝な顔になる。
「なーに? なんか失礼なこと考えてなかった? あんたって、時々そういう事あるよね。 なんかいやらしい〜。」
「いやらしいって… お前なぁ…。」
「でもぉ、亜美ちゃん、今日はすっごく機嫌がいいからぁ、許してあ、げ、る。 …うふふふ。 さぁ、いこっ。」
くいと手を引っ張られ、俺達はもと来た道を戻ることにした。


帰り道、さっきは通り過ぎたオリーブオイルの店でお土産用のオリーブオイルを買ってから、入り口の門をくぐった。
時計を見れば、既に4時まであと15分。 なんだかんだで、結構長居してしまったようだ。
「あ、そういえばこの辺りから写真撮ってなかった。 ねー、竜児。 記念撮影しようよ。」
陸橋の途中で、亜美は思い出したように言う。
「おう。 そうだな。 この角度だと、迫力あるし、丁度いいかもしれない。」
「じゃ、先ず亜美ちゃんが先ね。」
「おう。」
そうして、ふたりで写真を撮り合っていたら、登ってきた俺達と同じ位の年頃の二人組みの女性が英語で話しかけてきた。
俺はイタリア語は話せるが、英語はあまり話せない。 
一瞬焦っていると、なんと、亜美が話し出した。 
しかも、ちゃんと会話が成り立ったようだ。 高校時代の成績を考えたら有り得ない光景だと思ったのは、絶対に内緒だ。 
だが、考えてみれば亜美はついこの間までアメリカで映画を撮ってたんだから、多少は話せて当然である。
亜美の通訳によると、彼女らは英国人で、どうやら、俺達二人を撮るかわり、彼女らも撮って欲しいという事だそうだ。
当然、了承。 無事にお互いカメラに収まって、彼女らのカメラを返したのだが……。
二人は、なにやら、俺達を見ながら、小さな声で早口に相談事を始めた。
「なんだ? 何話してるんだ、あの二人。」 
「ん〜、 ……早口でわかんない。」
すると、ブルネットの子がおずおずとよって来て、亜美に向かって俺にも判る言葉をかけて来た。
「Excuse me, is it Ami?」
亜美は一瞬複雑な表情を浮かべたが、すぐに営業スマイルになって、その質問が正解であることを告げた。
大げさなリアクションで喜ぶ二人。
例の映画での亜美の演技は、どの国でも評判が良かったと聞いている。
だが、たまたまローマではこういった光景に出くわすことはなかった。 
だから、俺は良く判っていなかったのかも知れない。
俺以外の人間にとって、亜美はやっぱり、『女優』なんだって事が。

二人の英国人女性に挟まれて営業スマイルを浮かべる亜美。
デジタルカメラの液晶ディスプレイに映る亜美は丁度テレビの向こうに居るかのような錯覚を与えた。
急に、亜美が遠くなった気がした。
冷静に考えてみれば、俺が亜美と恋人同士になったのはとんでもない幸運があってこそだ。
亜美がストーカー騒ぎで俺の高校に転校してきたのも偶然。
その幼馴染が俺の親友だったのも偶然。
そして俺が記憶喪失になったのも偶然。
肝試しでペアになったのも… 
そして、ローマで再会したのは、最早奇跡と言って良いかも知れない。
そうだ。 普通に考えたら、到底俺の手が届く筈もない高嶺の花、それが川嶋亜美だ。
「撮影、ご苦労! さ、車にもどろ。」
「………」
「……どうしたの?」
「おっ、おう。 そうだな、戻るか。」
「うん。」
亜美はきゅっと腕を絡めてくる。
少しだけ体を預けるように寄り添う亜美のポニーテールが強風にあおられて、俺の背中をなでる。
さっきの液晶ディスプレイに収まった姿がいけなかった。
女優の顔をした亜美を見てしまったのが……。
不思議な非現実感。 
俺が亜美よりいい女を見つけるのは不可能と言っていい。
だが、亜美が俺よりいい男を見つけるのは、ごく簡単な気がする。
どう考えても天秤が釣りあわない。
「日が傾いてきたね。」
「おう。 次に行くところが今日の宿泊地だ。 ここから30分くらいだから安心してくれ。」
「あ、そうなんだ。 うふっ、なんか楽しみ〜。」
「おう。 すげぇ綺麗な街だぞ。」
「どこ?」
「オルヴィエートだ。」


風に銀色の葉裏を覗かせるオリーブ畑を縫っておよそ20分。 丘陵地から谷を挟むような感じでその街は姿を現した。
まるで石のテーブルに乗った街。
街の周囲は凝灰岩の崖に囲まれている。 ここもまた、『天空の町』だった。
「すごーい。 なんで、わざわざあんな崖の上に街作るの〜?」
「ここも、2700年前のエトルリア人の城塞都市なんだ。」
「まじ? エトルリア人えらーい。 亜美ちゃん、エトルリア人覚えちゃったよ。」
「この街の地下にもエトルリア人が作った広大な洞窟があるんだが、今回は割愛する。」
「え〜。 ざんね〜ん。」
「まぁ、ぶっちゃけ一日やそこらで見れる所じゃないんだ。 今回はダイジェスト版ってことで我慢してくれ。」
「はーい。」
「すまねぇ。 で、最初はサン・パトリツィオの井戸に行ってみよう。」

サン・パトリツィオの井戸は街の東端にある。 予約した宿は町の南西の崖っぷちだったから、ここだけは先に回っておく
つもりだった。 あとは宿に車を置いて歩きだ。
緑に囲まれて落ち着いた雰囲気の場所に円形のレンガ積みの入り口がある。
「ここがサン・パトリツィオの井戸なんだが…」
「どうしたの?」
「いや、井戸の底はそれなりに幻想的な空間なんだが、あとは二重螺旋構造が珍しいってだけで、248段の階段を昇降
しなくてはいけないんだが… いくか?」
「………せっかく来たんだし、いってみようか、って言いたい所だけど、竜児が尻ごみしてる段階で既にアウトじゃね?」
「だよなぁ… ここは途中まで行って帰ってくるって訳には行かないんだよな。 正直、亜美には微妙だと思う。」
「じゃ、ここにそういうのがあるってわかっただけで良しとしましょ。」
「おう。 なんか、つれて来ておいてすまねぇな。」
「ううん。 いいよ。 それに、ここ見晴らしいいしね。 あれ、駅だよね?」
「おう。 そうだ。 駅からだとここまでケーブルカーで上がってくることになる。」 「おもしろーい。」
「さぁ、それじゃ、今日の宿に行くとするか。」
「うん。 楽しみ。 竜児のセンスはどんなかな?」
「…お前がいつも泊まってるようなセレブ御用達の高級スイートと比べてくれるなよ…。」
「そんなの期待してないって。」

街の南西、古い石作りの街並み、その崖沿いにそのB&Bはあった。
B&Bというのは、ベッド&ブレックファーストで、日本で言うところの民宿またはペンションである。
だが、俺が選んだその宿はミニホテルといった趣で、部屋は2つだけだがバスルームつきで設備も充実していた。
もちろん、亜美と一緒に泊まるなら、あまり酷い部屋は選べない。 B&Bにはバスルームは共用という所も多いのだ。 
その点、ここは設備はホテル並みだったが、ルームチャージで85ユーロ。 十分に安い。
だが…… 通された部屋は予想を遥かに上回っていた。
「………最高……。 竜児、やっぱあんた、センスいい!」
亜美はベッドに荷物を放り込むと、窓際に走る。
小さなリビングにダイニング、そしてベッドルームには天蓋つきのふかふかのダブルベッド。
そして、小さなテーブルが添えられた窓からは、糸杉の並木が続く農村風景が一望できた。
「すっごい、素敵ーー。 なんか、ささやかな新婚家庭って感じじゃね?」
たしかに小さなキッチンもあって、普通に暮らせそうな感じだった。
だが、俺には『新婚』という単語がいささか刺激的で、すぐに同意の声を返すことは出来なかった。
その単語は、俺に妙な独占欲と、漠然とした不安を与えた。
それは亜美を放したくないという気持ちと、本当に亜美は俺で満足なのか、という気持ちのせめぎあい。
そんな俺の様子に気付かないほど亜美は喜んでいる。
くだらない。 何を心配してるんだ、俺は。 亜美はこんなに幸せそうじゃないか…。
そう言い聞かせながらも、俺の心の影は消えてはくれなかった。


それから暫くの間、部屋で俺の撮ったデジカメの写真を覗いたり、コーヒーを飲んだりしながら寛いだ後、俺達は夕食兼、
オルヴィエート市内観光の為に宿を出た。
最初に向かうのは宿から少し北にいった『共和国広場』。
そこはサン・アンドレア教会の塔と、柱廊が特徴的な広場だが、ローマの広場を見慣れてしまうとかなり小さく可愛らしい。
ふと見上げれば、東の空は既に青紫に変わりつつあった。
だが、空を見るためでは無い。 見上げたのは、時計の付いた塔が近くに見えるから。
『モーロの塔』だ。
時計はもう5時をまわっている。 
俺の計画としては、この塔の頂上で日の入りを迎えたかった。
共和国広場を出て、オルヴィエートの中心部を東西に伸びるカブール通りを少し東に向かえば、御土産屋がある。
その御土産屋がモーロの塔の一階部分だった。
相変わらず亜美はいつもより幾分口数が多く、機嫌がいいのは一目でわかる。
それでも、この塔の内部を見たら文句を言うに決まってる。
この地上47mの塔は2階部分から上はひたすら螺旋階段を上るしかない。
しかもその螺旋階段は狭いため下から見上げると、とんでもなく長く見えるのだ。
「うげっ ここ昇るの?」
「そうだ。 それもあって、さっきの井戸は自重した。」
「…なるほどね。」
亜美を先頭に、えっちらおっちらと階段を昇る。
下の御土産屋や広場の露店に亜美が引っ掛ったお陰で、けっこう微妙な時間になってしまっていた。
時計の文字盤の裏側もゆっくり見ないで一生懸命に昇り、ようやく頂上に辿り着きそうになった頃、亜美が愚痴を言い出す。
「ふ〜〜。 これで頂上が大したことなかったら、マジでわ…」

カーーーーーーーーーーーーーーン!

「わっひゃぁ!」 「ぅお!」
奇妙な叫び声とともに足を踏み外しそうになる亜美。 咄嗟に後ろから支えた。
突然の大音響に、亜美は目を白黒させる。
「な、なんなのっ。 ちょービックリしたんですけど!」
「六時の鐘だ。 急ごう。」
「え、ええ? ちょ、そんな引っ張んなって、このヤンキー面!」
台詞からすると、イイ感じに不機嫌になったらしい亜美を連れて残りの二十段あまりを一気に昇る。
頂上には鐘突きの人形以外、誰も居ない。
「もう! ちょっと強引す…ぎ…」
突然一気に開ける視界。 
そこからはオルヴィエートの街全てと、その周囲の田園風景が全て見通せる。
つい今しがた毒を吐いていた亜美の口が閉ざされた。
「日没だ。」
西の空は今まさに太陽が丘陵の背に足をかけた所。
折り重なる丘はそれぞれの尾根をオレンジ色に輝かせ、樫や糸杉が長く、長く、影を伸ばす。
見る見るうちに沈んでいく太陽は低く浮かぶ雲を真紅に染め、上空に横たわる薄雲はピンクに色づかせる。
手前に見えるオルヴィエートの街のテラコッタの屋根瓦はキラキラと黄金色を反射させ、オレンジ色の凝灰岩で出来た家々は
更に鮮やかな色に変わっていく。
この光景を一体どんな言葉で表すべきなのか? 
足早に太陽が沈んでいくなか、身じろぎ一つできないまま、ただその光景に打ちのめされる。
西の地平が更にその赤を深める頃、ようやく隣に佇む影に目を向けた。
――――嗚呼。
そこにはもう一つ、言葉に出来ないほどの美。
まるで絹糸のような黒髪を風になびかせ、うっすらと涙を浮かばせて地平の彼方を見つめる姿を、なんと讃えよう。
この狭い塔の頂上。
俺を取り巻く小さな世界はあまりにも美しく、満たされていたのだった。


それは、息が詰まるような数分間。
彼女が、ただ無粋に見つめるしかできない俺に気付く前に、なんとか視線を外すことに成功した。
ほっと息をつき見上げる空には、遥か上空をゆく金色の飛行機雲。
天頂は赤紫に染まっている。
「なんか、月並みな言葉しか思いつかないけど、あたしのこと馬鹿だって思わないでね… ここから見た景色、凄く…綺麗。」
「はははは。 俺もなんも思いつかねぇ。 ここは素直に綺麗でいいと思う。」
「なんか、感動して涙出ちゃったよ…。」
「おう。 だが、まだ半分だ。 反対側も見てみろ。」
東側の景色も決して西側に負けてはいなかった。
すでに夜の帳が下りてきている東の空は深い青に侵食されている。
遠くに浮かぶ高い雲が、僅かに日の名残の赤を滲ませるばかり。
西の地平に太陽が沈みきると、夜の領域はたちまちに広がっていく。
そして、街の東側の暗闇に対する抵抗勢力は、通りに点々と灯ったランプの光に変わっていた。
カブール通り沿いに続くランプのオレンジの光が、薄暗くなったオルヴィエートの街並みをライトアップする。
徐々に暗くなってくるにしたがって、その温かみのある光は見事に通りを浮かび上がらせた。
右側には300年以上かかって作られた、この街の象徴とも言える壮麗なドゥオーモが、オレンジ色にライトアップされている。
薄暮のオルヴィエートは『世界一美しい丘の上の町』の名に恥じない佇まいを見せていた。
「凄いね…。」
「おぅ。 俺もこの街は仕事で何度か来てるんだが、こうして塔の上から眺めたのは始めてだ…。 本当に凄い景色だよ。」 
「うふふふ。 …なんだか、あたし、一日中同じ感想言ってる気がしてきた…。」
「はははっ。 俺もだ。 お互い、語彙がねぇな。」
「でもさ、素直な感想だよ、これって。」
確かに、ローマで再会してからの亜美は随分と素直な感じになっていた。
そして、こういう時は素直に感じたままを表現するのが一番だ。
「いいんじゃないか? 別に気取ることはないよな。」
「ん。」
小さく頷いて、俺の肩に頭をもたげてくる亜美。
ごく自然にその肩を抱こうと手を伸ばし……止まった。
人の声が聞こえてきたからだ。 おそらくイタリア人旅行者のカップルだろう。 いちゃつく声が大きい。
その露骨な愛の台詞に、思わず亜美と顔を見合わせて吹きだしそうになる。
「降りるか。」 「そうだね。 折角だから、二人っきりにしてあげよ。」
そうして、イタリア人カップルと入れ替えに、俺達は長い長い螺旋階段を降りていった。

カブール通りに出ると、意外なくらいに人通りが多かった。
どうやら、夜のオルヴィエートを楽しむツアーの観光客のようだ。
数人づつ固まりになってキョロキョロしている。
そしてそれは最悪な事に日本人のようだった。 どうやら最近は日本でもオルヴィエートをメインにしたツアーもあるらしい。
「拙いな…。」 思わず呟いてしまう。 亜美は今、もろに素顔を晒している。 変装に使えそうな物も、どこにもない。
「どうしよう…。」
「とりあえず、ドゥオーモの方が人が少ないようだ。 こっちに行こう。」 「わかった。」
亜美は俯き加減にそそくさと歩く。 気持ちは分からないでもないが、それではかえって目立つ。
「あんまり急ぐな、堂々と行こう。」 「う、うん。 ごめん。」
スーパーのある通りで曲がろうと思ったら、スーパーから不意に3,4人の日本人の若い女性が出てきた。
思わず回れ右。
ドゥオーモの前は危険だが、周りを見ると、それ以外の方向は数人の日本人らしき姿がある。
「なんだ、こりゃ。 まるで追い込まれてるような気がするぜ…。」 「まさか… んなわけねーって。」
地理に疎い亜美は迷わず観光客の見えない方へ歩き出した。 すなわち、この街一番の観光スポットである、ドゥオーモへ。


こうなっては仕方がない。 
意を決して亜美の後を追ったが、幸運なことに、大聖堂前広場には地元の人間が居るだけだった。
しかし…。 俺達が大聖堂前広場に来た時は確かに日本人観光客はいなかったのだが…
時間は丁度ドゥオーモの閉まる刻限。 案の定、見計らったかのようにドゥオーモの扉が開くと、大量の日本人を吐き出した。
マンガチックにビクッと背筋を伸ばして驚く亜美。
咄嗟のことに、俺も思いっきり判断ミスをしてしまった。
亜美の手を引いて俺が逃げ込んだのはマウリツィオ通り。 
オルヴィエート土産はここで買え!という見出しが載ったガイドブックが幻視できるぜ…。
もうこうなったら強行突破しかない。
何食わぬ顔で通りを闊歩する。 が、目の前の店の扉が開き、年頃の日本人の女の子の3人組みが顔を出す。
これには流石に対処不能。 威風堂々、目前僅か1mを通り過ぎた。
「あれ? 今の川嶋亜美じゃない?」
「うん。 なんか、すごい似てた…。」
「うそぉ〜 私みてなかったぁ〜。」
3人集まれば一人くらいはトロいのが居るのは、不文律らしい。
「でも、なんでこんな所に?」
「え〜 あのひとぉ〜? ほんとだぁ〜。 後ろ姿からして美人っぽいねぇ。」
「ちょっと、なんで後つけてんのよ。」
まったくだぜ。 なんで付いて来るんだよ…。
「ちっ… なんで付いてくんだっつーの…」
隣の黒い人は声にでてるし。
「聞こえてた…よね? 私達の会話。」
「たぶん…でも、反応なしだよ、やっぱ見間違いじゃない?」
「なーんだぁ〜。」
「大体、こんな所歩いてる訳無いよ。」
「でもさ、例の彼氏ってイタリアに居るんじゃなかったっけ?」
「じゃ、声掛けてみればいいじゃん……」
「えー、でも、間違…て…ら……」
「だ…ねぇ……」
「………」

ふぅ。 なんとか追求には至らなかったか……肝が冷えたぜ…。
ドゥオーモ裏手の広場を過ぎ、人通りの少ない裏路地に逃げ込んで、やっと一息つく。
「ぷっ、くっくっくっく。 あはっ。 あはははははは。」
緊張が解けたのか、急に亜美が大声で笑い出した。
「あはははっ。 な、なんか、ふふふ。 超ドキドキして、面白かった。」
「おいおい、油断するなよ、あんまり大きい声だすなってっ。」
思わずあたりを見回す俺を見て、亜美はますます楽しげになった。
「きゃははははは。 あんたって、相変わらず小心なんだからぁ。 マジ顔に似合わねぇー。 ひゃひゃひゃひゃっ。」
「お前なぁ……。 笑いすぎだ!」
日本じゃテレビや雑誌で連日大騒ぎで、気の休まらない日々を過ごしているであろう亜美を思ってのことなのに。
まったく、こいつときたら、俺が困ったり、焦ったりしてる顔を見るのが余程好きらしい。
「お前がそうなら、もう気にしねぇ。 さあ、晩飯にするぞ。」
そう言い放ち、観光のメインであるカブール通りを迂回するべく歩き出した。
「あ、待って、竜児。」
やっと笑い止んで俺を追いかける亜美。 とはいえ、未だ顔はすぐにでも笑い出しそうな塩梅だった。
「ごめーん、怒ったぁ?」 わざとらしい猫なで声。 こういう時は素直に答えるのは危険だ。
「観光客に人気のトラットリアがこの近くにある。 なかなか美味いらしい。」
「あ……」
亜美の雰囲気が瞬時に変わった。 
「…ごめん…。」 
拙い、薬が効きすぎたか。
「だが、地元の人がよく通うトラットリアで美味い店を知っている。 今夜はそこに行こう。」
下手に蒸し返すよりは、気にしてないってのをアピールする方が得策だ。
「う、うん。 わかった。」 


やはり、少しばかり高校の時とは勝手が違う。
付き合いだしてもう半年以上経つが、その『違い』が、徐々に顕著になってきている気がしていた。
最初は良くわからなかった。 だが、今ははっきりしている。
高校時代の亜美なら、さっきのような事を言ったら怒っていただろう。
不安げに俯いてしまうことなどなかった筈だ。
自惚屋で謙虚さの欠片も無いが、それに見合うだけの努力家でもある亜美はいつも堂々としているイメージだった。
ところが、ある事に対してだけはまるで自信が無くなるようなのだ。
鈍感な俺でも流石に気が付いた。
高校の時とは違うのは当たり前だ。 それは、高校の時には、終ぞ亜美に向けられることの無かったものだったから。
それは俺にとっても、亜美にとっても凄くデリケートな問題で、簡単には触れられない。
だから俺は、日本人観光客に対するのと同様、それを避けて通ることにした。

「すこしばかり遠回りになっちまったが、もうすぐだ。」
「もしかして、宿のすぐ近くなの?」
「おう。 実はな。 だから、本当に外国の観光客は少ない地域だ。 そのほうがお前も落ち着けるだろ?」
「…うん。 ありがと。 やっぱり、優しいね、竜児は。」
「べ、別に、このくらい普通だろ……。」
素直に言葉を吐き出す亜美は破壊力満点だ。 何処か弱々しさを感じさせる美女というものに、大概の男は弱い。
照れくささを隠すため、ようやく見えてきたばかりの目的地を指さし、不必要な大声を出す。
「お、おう、あれだ。」
そこは、カルロ兄貴から『地元の穴場』と教わったトラットリアで、目立たない路地にひっそりと門を構えていた。

店内は外から見るよりは広く、しかし、雑然としていた。
やはり観光客向けというよりは地元の食堂のノリである。
幸運にも、いくつか席は空いていて、俺達は通りに面した角に案内された。
いつの間にか亜美はまたご機嫌になっていて、すこしほっとする。
まだメニューが読めない亜美に代わってオーダーを入れた。
亜美は、イタリア料理に関しては俺に全幅の信頼を寄せているらしく、口を挟んでくることは少ない。
「ポルチーニ茸のラヴィオリ、牛フィレ肉の赤ワインソース、パンナコッタはベリーソースでいいか?」
「うん。 それでいい。」
「おう。 じゃ、ワインは赤だな………、うん、ガウディオがあるな。 食事にはこれを合わせよう。」
「それって、どんなの?」 
「結構渋みも強いが、ブドウらしい味わいと、香りがいい。 肉料理には合うと思う。 渋いの大丈夫か?」
「…亜美ちゃん、子供舌じゃないし…。」
睨まれた。 亜美は、かつてコンビニ舌と馬鹿にされた事を根に持ってか、味覚の話題に関してはけっこう敏感だ。
「お、おう。 それと、珍しいのがある。 食後にコイツを頼もう。 オルヴィエート・クラッシコ・スペリオーレ・カルカイア。」
「それは?」
「白、デザートワインだ。 芳醇な香りと、適度な酸味に苦味、それでいてハチミツのような口当たりでキレのいい甘さ……
何言ってるかわからないな……と、とにかく甘口なんだが、上品な味わいのワインだ。」
「要するに、ドイツワインで言うと、トロッケンベーレンアウスレーゼみたいな感じ?」
「あそこまでの高級感はないが、まぁ、似た感じだな。」
「ふーん。 美味しそうじゃん、亜美ちゃんもそれでいい。」
このトラットリアは地元向けなので、少々日本人には量が多すぎる。 だから、オーダーはそれぞれ1人前ずつにした。
こういう店なら、シェアして食べても、マナー違反にはならない。
そして、注文するとすぐに前菜の盛り合わせが届けられ、本日最後の楽しい食事の時間が始まったのだった。


「あたし、普段はあんまり肉って食べないんだけど… これはいけるわ。 マジ美味しい。」
そう言って、最後の一切れを口に運ぶと、見事な『美味しい顔』を見せてくれる亜美。
しかし、そのすぐ後にはその笑顔を曇らせる事件が待っていた。
「あーっ! 川嶋亜美だ!!」
迂闊と言えば迂闊。 地元の人がほとんどで回転が速いこの店。 隣の席が空いた後、そこにやってきたのは見るからに
軽薄そうな大学生とおぼしき日本人のグループだった。
地元の人は席が埋まっていれば帰っていく。 だが、日本人は待つ習性がある。 椅子盗りゲームは得意中の得意だ。
「おお、本当だ、川嶋亜美じゃん、すげーカワイイ!」
「マジ!超ラッキーじゃん! 本当にイタリアに来てたんだ!!」
「ねー、アユミ、こっち、こっち! 川嶋亜美だよ、生亜美!!」
……こいつら… なんて無礼なんだ。 初対面の相手を友達みたいに呼び捨てにしやがって。
『ごすっ』
「ぅおっ!」
すねを思いっきり蹴られた。 見れば亜美が一生懸命サインを出している。
はっと気が付く。
恐らく、今俺は、テーブルにあるナイフとフォークでこの無礼な観光客を何等分に刻んでやろうか、とか考えてるように見えた
のだろう。
事実、亜美をカワイイとほざいた野朗が、俺の方をチラ見して、びくっと後ずさった。
いけねぇ… ここは亜美に任せて、俺は話を合わせよう…。

亜美は見事な余所行きの顔で相対する。 それは今まで生では見た事が無い、本物の『女優』の顔だった。
そこに居るのは、文字通り『全く別な人間』で、俺からしてみれば、川嶋亜美らしさなど欠片もない。
そして、旅行者の勝手な憶測と、とってつけた亜美の説明で、俺はいつの間にかボディガードになったらしい。
俺達よりも、おそらく2つ3つ年若い彼らは亜美の親切な対応に有頂天になったのか、己の不躾に気が付かない。
しつこく亜美に話しかける。
店の中でも、俺達の一角は少しばかり煩い場所になってしまっていた。
俺はイライラを紛らわせるために、ガウディオをもう一本追加して、がぶがぶと飲んだ。
いいかげん亜美も少しイラついて来ているのが分かるが、やんわりと会話を切ろうとしても、彼らには通じない。
お陰で、最後に運ばれてきたカルカイアも、亜美はグラスで一つ飲んだだけで、結局俺が残り全部を飲んでしまった。
延々と亜美の出演作の批評を聞かされる。 そしてその多くは的外れなのだ。
明らかに、今回の映画のヒットを見てのにわかファンなのだろう。
だが、それでも職業柄、邪険にすることは出来ないらしい。
そして、この不躾な旅行者から逃れる為の手段を探していた俺達に、救いの手を差し伸べたのは店のおばちゃんだった。
食べ終わったのなら、そろそろ出て行ってくれと促される。
有り難い。 即座にその言葉に従うことにしよう。
勘定をすませ、席を立つ。 ああ、そうだ。 俺はボディガードだったんだよな。 忘れる所だった。
酔っているのか、皮肉な考えが浮かぶ。 少しばかり、足元も怪しいようだ。
わざとらしく亜美を守るような仕草で通りに出た。
思考ははっきりしている。
「おぅ… さて、それじゃぁやどにもろるとするかぁ〜」
「ちょっと!」
歩き出そうとして、亜美に支えられた。
頭は正常に回転している、と思う。 だが、どうやら呂律と足元は完璧に怪しいようだ。
「竜児……どうしちゃったの? 飲み過ぎだよ。」
短時間のうちにワインを一升近くも飲めば、そりゃ多少は酔っ払うってもんだ。 折角の夜になにやってるんだ、俺は…。
「おぅ… すまねぇ。 確かに飲み過ぎたようだ…。」
「大丈夫? とりあえず、宿に帰ろう?」


亜美は俺を介添えするようにして宿に向かったようだったが、オルヴィエートの古い町並みは、夜になると殊更似たり寄ったり
に見えてくる。
何度か道を間違え、そして何倍も遠回りしてようやく宿に着いた。
―――とにかく、気分が悪かった。
酒に酔っているからではない。 自分自身の暗い感情に気が付いてしまったからだ。
それこそが、俺を酒に向かわせた原因。
すなわち、独占欲、嫉妬と呼ばれる感情だった。
『女優』という亜美のもう一つの貌。 俺の知らない川嶋亜美を見せつけられるのが嫌だったのだ。
部屋に戻るまでの間、何度も俺を気遣って声を掛けてくれる亜美に、ただ、「大丈夫だ。」と答え続けた。
それがまるで亜美を拒絶するかのように聞こえたであろう事に気付いたのは、リビングのソファーに身を沈めて、どれくらいか
時間が経った後だ。
後悔でさらに気分が悪くなり、テーブルに置かれたミネラルウォーターで喉を潤す。

……………はて、この水はいつから此処にあった?

駄目だ。 今の俺は最悪だ。 亜美が用意してくれたに決まってるだろうが…。
「大丈夫? 少しは気分良くなった? ってか、せっかくの夜に酔いつぶれるって、ありえねーし。」
毒づいてくれて助かった。 少しだけ、心が軽くなる。
「おぅ。 悪かった、もう大丈夫だ。」
「ったく、ヘタレなんだから…。」
「今、何時だ?」
「10時47分。 2時間近く眠ってたよ。」
「そう…か。」
曖昧な記憶。 成程、俺は眠っていたらしい。
「シャワー浴びてきなよ。 少しはすっきりするんじゃない?」
「ああ。 そうさせてもらうか。」
俺は亜美の言葉に従って、ふらふらとバスルームに向かった。

シャワーに叩かれて、少しだけ覚醒する。
亜美の口調は少し怒っているようだった。 まぁ、当然だろう。
折角のロマンティックなシチュエーションなのに、男が酔いつぶれているなど、論外もいいところだ。
しかも、その原因が醜い男の嫉妬心では、開いた口も塞がるまい。
スペイン広場であれほどの啖呵を切っておきながら、このていたらく。
「なさけねぇ……」
ぽつりと口をついて出た言葉が、今の俺の思いの全てだった。
ただ、ただ、―――情けない。
初対面の相手に、俺が見たことが無いような笑顔で笑いかける亜美。
だが、それは彼女の『仕事』なんだ。 俺が料理を作るのと同じように。 それが分っていながら、イライラを抑えられなかった。
これじゃ、亜美を不安にさせるだけだ。 
亜美は言っていた。
『一緒にいたら、必ず不幸になる』と。 
今はそんな事を口にすることは無くなったが、その考えが消えたわけではないだろう。
こんな俺の姿を見たら、あいつは絶対余計な心配をするに決まってる。 
そういう女なのだ。
だから、きちんと態度で表さないと……。 
―――シャワーを止めて、拳を握る。



温かいお湯に筋肉が弛緩したせいか、軽い眠気が襲ってきた。
足元も相変わらずふらふらする。 
もっとも、泥酔してもおかしくない様な無茶な飲み方をしたのだから、酒に弱い体質でなくてよかったと思うべきだろう。
ベッドルームには、月影の中、所在無げに足を揺り動かす亜美の姿。
満月を少しばかり通り過ぎた月は、いつの間にか中天にさしかかっていた。
亜美はバスルームから戻った俺を見て、意地悪な笑顔を浮かべる。
俺の考えすぎだったのだろうか?
「なーにぃ? まーだ、千鳥足なのぉ? マジ情ねーの。」
毒を吐く。
そして、ベッドからぴょん、と飛び降りると素早く俺にまとわりついた。
ふらつく足が、勢いを支えきれずにバランスを崩し、踏ん張りが効かなくなった俺は容易にべッドまで引きずり込まれてしまう。
眼下に横たわる亜美。 大胆にもはだけたバスローブの中に下着は見当たらない。
俺が寝ている隙にシャワーを浴びたのか、髪はしっとりとして、シャンプーの芳香を纏っている。
覆いかぶさる体勢になった俺は、珍しく積極的にその艶やかな唇を奪った。
「くすっ。 ブドウの匂いがする、…よ。」
首に絡みついた腕に引き寄せられ、キスが返ってくる。
短い接吻の後、離れていく亜美の顔は心底ほっとしたような表情。
どうやら、決して俺の考えすぎではなかったようだ。
俺の様子がおかしくなったのは自分のせいじゃないか、とか余計な事を考えていたに違いない。
「まだ言ってなかったね。 今日はお疲れ様。 ツアコン大変だったでしょ?」
「いや、スケジュールを考えたりするのは好きだから、大変ってほどでもない。」
「そうなんだ。」 二度目のキスは俺の胸へ…。 三度目のキスはまた、唇へ。
亜美はいつもの様に静かに、しかし情熱的に俺を求めてくる。
「やっぱり竜児って、そういう裏方っぽいのが好きなんだね。」
「おう。 性に合ってる、と思う。」
はだけたバスローブから覗く乳房に指を這わせながら答える。
「あっ」
少しばかり、力の加減が上手くいかなかった。 頭はしっかりしているが、やはり泥酔に近い状態なのか。
亜美の声は嬌声というよりは、痛みにあげた悲鳴。
「す、すまねぇ…。」
「ううん、平気。 ちょっとびっくりしただけだよ。」
そうは言ってくれたが…
尖った乳首に最後まで引っ掛っていたバスローブを剥がすのにも、やはり、少しばかり乱暴になった。
乳房がふるんと揺れる。 
たまらず、その柔肉を掌で覆うが、それも力が入り過ぎた。
「あ、んっ。」
しかし、亜美はのけぞるようにビクリと震える。
その姿があまりにも艶かし過ぎて、思わず両の乳房を激しく鷲掴みに揉みしだいた。
いつもは軽く会話を交わしながら、ゆっくり前戯を楽しむのが亜美の好みだ。
だが、今は激しい責めに獣性を呼び起こされたかように、俺の下で身悶えしている。
その乱れた姿を征服したくなり……
―――しかし、言い知れぬ罪悪感に引き戻される。
そして、また亜美の嬌声と美しい体に酔いそうになり……
―――また、引き戻される。
何度か繰り返して、その原因に気が付いた。
亜美を独占すること、それがなにやら悪事を働いているかのように思える。
こんなに美しい女を、みんなに愛されている女を、俺のような凶眼持ちが……。
まるで、陵辱しているみてぇじゃねーか………。

「ど…。 どう、したの?」
そして、亜美が異変に気が付いた。

「はぁ…、はぁ…、はぁ…。」
「……竜児?」
「おぅ。 な、なんでもねぇ。」
「で、でも。」
俺は十分興奮していた。 亜美は美しく、妖艶で、性的な魅力に溢れている。
だが。

俺の大事な息子は萎れたままだった。

酒のせいなのか、精神的なものなのか。
どちらにしても、今宵、俺は性的に役立たずな状態に置かれたという事だ。
女性経験が少ない、というか、亜美としかしたことが無い俺には、こんな状態は未知の状態で正直どうして良いか判らない。
焦る。 とにかく焦る。
亜美も困惑しているのが手に取るように判り、俺の焦りに更に拍車を掛ける。
「ちょ、ちょっと貸して!」
そう言うと、亜美はたどたどしい手つきで俺のペニスをしごき始めた。
亜美の白魚のような指が絡みつく。 が、正直言って、自家発電より下手くそである。
成果が上がらないのにイラついたか、続いて亜美は俺の股間に顔を埋める。
亜美の白い顔が俺の股間に吸い付くのは十分に興奮する光景なのだが、やはり、息子はうなだれたまま。
「もぉ〜! なんなの! 信じらんない!」
しまいに亜美はイラつきを発露して、作業を投げ出した。
俺はもう、どうしようもなく情けない気持ちで一杯だ。 正直、泣きそう。
意識して、焦れば焦るほど萎えていく……。

「竜児……。 そ、その…。 ほら、調子が悪いってか、スランプってか、ね、そういう事もあるよ。」
余程俺は落ち込んだ顔をしていたのだろうか? 亜美が急に取り繕う。
「お、おう。 俺は…平気だ。 ってか、すまねぇ…。」
「あ、あたしは、いいよ。 だって、竜児と抱き合ってるだけで、嬉しいし、気持ちイイもん……。 でもっ、あんたは…。」
「いや、俺だって、お前を抱いてるだけでも十分気持ちいい。」
「嘘つき…。」
「…嘘じゃねーよ。」

そうして、俺達は抱き合った。
他愛の無い会話をしながら、月影に浮かぶ起伏に富んだ芸術品を愛でる。
高くそびえる山脈。
なだらかな平原。
小高い丘に茂み。
そして秘められた谷。
きっと、ルネサンスの巨匠達が見たならば、この美しい風景を、こぞってカンバスに写し込もうと試みただろう。
そして改めて思うのだ。
俺にこの美しい女を手にする資格は有るのか、と。

そうして、どれくらい抱き合っていたのか。
やがて、日中の運転の疲れもあってか、意識が途切れ途切れになってきた。
ぼやける視界に、亜美の優しげな表情が写る。
目を閉じかけた時、ふとその表情が曇った。
「あたしが……いけないのかな………。」
微かな呟きが幻のように届いて…

亜美の頬を… 月の欠片が滑り落ちた ……気がした。





53 98VM ◆/8XdRnPcqA sage New! 2010/02/15(月) 23:13:24 ID:DZ+6bOx4
本日はここまで。
ご支援、有難うございました。
続きます。 また明日〜♪


29 98VM ◆/8XdRnPcqA sage New! 2010/02/15(月) 22:36:11 ID:DZ+6bOx4
感想あまり出てないようですが、予告しちゃった手前、投下しときます。
こんばんは、こんにちは。 98VMです。

先ずは一日目いきます。
今回は、全編通して淡々とした紀行文風味ですが、本日分は特にその傾向が 
強くなってます。 亜美ちゃんとデートしてる気分になれ…るかなぁ?

なお、本シリーズでは実在の名称が多々出てきますが、あくまでこの物語はフィクションですw
イタリア政府観光局から賄賂なんてもらってないですよーw

前提: とらドラ!P 亜美ルート90%エンド、ローマの祝日シリーズ
題名: プリマヴェーラ (ローマの平日5)
エロ: 未遂。
登場人物: 竜児、亜美
ジャンル: 世界の○窓から。
分量: 22レス
>28 こちらこそ、いつも高校生らしい正統派の亜美ちゃん、悶えさせて頂いておりますw



13 98VM ◆/8XdRnPcqA sage 2010/02/15(月) 02:14:40 ID:DZ+6bOx4
>12
乙です。 今回は正直、急いで書いた感が出ちゃった感じですね。
個人的には、亜美の「格好の悪いことは出来ない見栄っ張りな所」萌えポイントですw


こんばんは、こんにちは。 98VMです。

極一部のあーみんファンの皆さん。ローマシリーズ後半戦。
ようやくお届けすることが出来そうです。
全体の進捗状況ですが… 
前回告知から2話増えそうです。今回詰め込みすぎてるので、その反省から息抜き話を挿入しました。

ローマの平日5 (特別編)    ← いまここ
ローマの平日6〜11          プロット完了(一部のシーンは執筆済)
ローマの祭日(事実上の最終回)   プロット完了(ラストシーンは執筆済)
ローマの祭日お・ま・け♪(最終回)  とっくに完成w

今回は総レス数が60を超えておりますので、3日に分けての分割投下を試みてみることにします。
まぁ、長いから面白いというわけでもないので、過剰な期待は禁物ですよーw
なお、98VMとしては極力わかりやすく書いているつもりです。
ですが、一応一つだけご注意を。
本作は完全に竜児視点ですので、本文中にある亜美の心情描写は不十分になってます。
というか、そういうふうに書いてますw
この点は踏まえて、自分なりに亜美の気持ちを想像しながら読んでいただきたいのです。 
正解なんてありませんから、自由に自分好みに。

では、明日の夜あたりから投下したいと思います。 宜しくお願いします。


【田村くん】竹宮ゆゆこ 29皿目【とらドラ!】
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