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70 プリマヴェーラ   ◆/8XdRnPcqA sage 2010/02/16(火) 22:54:31 ID:jJS6+Q48



* * * * *




突然の衝撃に、状況が全く掴めず、辺りをぼんやりと見回す。
が、その行為は強引に中断させられた。
「ほらっ! 竜児、さっさと起きてってば!」
なんだかさっぱり判らんが、とりあえず声の主に従おうと、ベッドから転げ落ちる。
「おぅ…。 なんだ、どうしたんだ、亜美…。」
「いいから、こっち来なって!」
亜美は窓の外を見て、盛んに俺を手招いていた。
はっきりしない頭を抱えつつ、窓辺に移動する。
「ほらっ。 すげーよ、この景色!」
この辺りの3月の陽気は日中は25度にも達するが、夜は10度にも届かない。
その気温の差が、霧を生む。
晩秋と早春、オルヴィエートはしばしば霧の海に沈むのだ。
まだ地平線から顔を出したばかりの太陽は、オレンジ色の光を投げかけ、窓の外はまるで黄金の海原だった。
凝灰岩でできた100mあまりの高低差は、オルヴィエートの街をその黄金の海に浮かばせる。
見渡せば、所々霧から幻のように糸杉が頭を覗かせていた。
霧はゆっくりと流れ、糸杉に絡まって、湯気のように虚空に立ち上っては溶けていく。
その幽玄な景色は、俺の膿んだ脳みそを蹴り飛ばすのに十分な力を持っていた。
「こいつは……。」
「どうよ。」
ふふふん、とばかりに胸を張る亜美。 第一発見者としての優越感なのか、無駄に得意げだ。
「どうよって、お前なぁ… なんでお前が威張るんだよ。」
「あたしが起さなかったら、あんたはアホ面で眠りこけてたでしょ、感謝しろってーの。」
「へいへい。 ありがとな。」
「あ。 忘れてた…。 おはよっ、りゅーじ。」
「お、おぅ。 おはよう。」
「今日もツアコンよろしくね〜。」
「おう。 まかせとけ!」
「ところでさ、二日酔いとか大丈夫?」
「ああ。 ……大丈夫みたいだな。 特に違和感はねぇ。」
「そか。 ……よかった。 …あっ、コーヒー入れるね。」
「え? あ、ああ。 いや、俺が…」
「たまにはあたしにやらせてよ。 竜児はそこに座ってて。」

数分後、窓の外の美しい景色に見とれる俺の前に、香ばしい香りのカプチーノが届けられた。
「起きてすぐお湯沸かしたんだ。 多分飲みたくなるんじゃないかと思ってさ。」
そう言って俺の向かいに座る亜美の手には紅茶が入ったカップがあった。
「サンキュー。 気が利くな。 …で、お前はやっぱり紅茶か。」
「うん。 コーヒー嫌いって訳じゃないけど、両方あるんなら紅茶だね。」
窓の外は霧が少し上がり、微かに農家の屋根や、垣根が透けて見え出した。
渦巻くように流れていく霧が障害物に当たって散らされていく。
昨日より少し風があるようだ。 北に向かえば、あるいは今夜は雨かもしれない。
亜美は頬杖をついて、窓の外を眺めている。
まったく、どんな仕草をしても絵になる女だ。
穏やかな表情を浮かべる亜美を見ていると、昨晩、眠りに落ちる直前に見たものは、やはり幻だったのかと思えてくる。
そうして、そのまま一言も言葉を交わさず、時計の長針が半周した。

「ねぇ、今日はどこに連れてってくれるの?」 沈黙に飽いたか、期待感を隠さずに亜美が切り出す。
「そうだな。 先ず朝食前にドゥオーモを見てこよう。 昨日はもう閉まっちまってたからな。」
「あの、でっかい大聖堂ね。 うん、昨日ゆっくり見れなかったもんね。」
「そうだ、今日は変装道具を…」
「いらない。 はっきり断る。」
「お、おい、いいのかよ、そんな事言って。」
「うん。 決めたの。 …そんな事より、その後は? ねぇ、またスッゴイ所、連れてってくれるんでしょ?」
「お、おぅ。 まぁ、凄い所っていうか、一応世界遺産になってる。」
「どこ?」
「モンタルチーノとオルチャ渓谷だ。」


それから俺達は着替えて、ドゥオーモ見学に出掛けることにした。
時計はまだ7時に届かず、朝の冷え込みは結構厳しい。
ここから北はローマよりは厚着が必要だ。
そして、今日の亜美のいでたちは…
ダークグレーのTシャツに黒のチュニックブラウスをレイヤード、その上に純白の七分袖リンネルハーフコートを羽織る。
黒のワイドクロップドパンツは8分丈の筈が、亜美の足の長さのせいで7分丈。足元はやはり黒のストラップサンダルだ。
シックなモノトーンのコーディネイトながら、全体的にゆったり膨らんだイメージ。 ところが、亜美が着るとスレンダーさが
かえって強調され、結局シャープな印象を与えるのは実に不思議だ。
おそらく、そのどれもが高級ブランド品なんだろう。 見るからにいい生地を使っているのが分る。
それに、昨日の太もも丸出しの格好よりは確かに暖かそうだ。
それにしても女は大変だ。
亜美がローマに来るようになってから、俺の部屋には衣装箱が増殖中だった。
もちろん、全部亜美の持ち物。 ローマで買い込んでは俺の部屋に置いていく。
そろそろ領有権の問題を議題に出すべきかもしれない、などと考えながら、宿を出発した。

昨夜は日本人観光客に怯えながらの散策だったが、今朝は堂々と通りを闊歩する。
ここオルヴィエートは、その地理的条件からか極めて治安がよく、人気の無い裏路地も不安は無い。
すこし路地を進んだだけで、ドゥオーモの巨大なファサードが街並みの隙間から見えてきた。
「うわ〜 改めて見るとおっきいー。」
「大きさだけなら他にも大きいところはあるが、このファサードの豪華さはイタリア一かもしれないな。」
「あ、竜児、もうすぐ7時。 7時から入れるんでしょ? ほら、走るよ!」
「ちょ、ま、まて亜美!」
亜美は朝から元気一杯で、昨夜の事はもう気にしていないかのように見える。
そして、何気に運動神経の良い亜美はサンダルでも走るのが速かった。
結構本気で走って、やっと大聖堂前広場の直前で追いつく。
「うっわー 近くで見ると、ますますチョーでけぇ…。 それに、なんつーごてごてしたファサードよ、これ。」
「なんだ、お気に召さないか?」
「ううん、綺麗だけど、なんつーか、やりすぎってか…。 これって、マリア様の生涯とか、そういう感じ?」
「おう。 その通りだ。 中央一番上がマリア戴冠、その右下がマリア奉献、左下がマリア「結婚式だ!」
「…そういうのは反応が早いな。」 「んふふふ。」
「まぁ、いい。 それで……」
………

一通りファサードの説明をして、いよいよ建物の中に入ることにした。
まだ観光客は訪れていないようだ。
「うわ。 なにこの縞々。 なんか目が痛い。」
ドゥオーモは白と黒の玄武岩が交互に積まれた横縞模様で、たしかに目がチカチカする感じだ。
だが、内部には美しい壁画もあり、その壮麗さは目を見張るものがある。
左翼廊にはイタリア最大と言われる、巨大なパイプオルガン。 
祭壇前左翼のコルポラーレ礼拝堂には、この大聖堂の起源ともいえる聖体布が祭られている。
そして、その対面にあたる祭壇前右翼、サン・ブリーツィオ礼拝堂が、ここのメインイベントだった。
「昨日用意してたチケットって、ここのだったんだ…。」
「ああ。 流石にここは飛ばすわけにはいかねぇからな。」
「そんなに凄いの?」
「ああ。 とびっきりだ。」


おもむろに礼拝堂内部に侵入する。
そこは異教徒である俺にとって、まさに侵入すると感じてしまう空間なのだ。
「ルカ・シニョレッリ。 ここのフレスコ画の作者だ。 かのミケランジェロが手本にしたとされる画家だ。」
「へぇー。 ……わあっ」
礼拝堂に入ると、亜美は驚きの声と供に固まった。 小さな礼拝堂は周囲の壁から天井に至るまで、驚異的な密度で描か
れたフレスコ画に埋め尽くされているからだ。
「ここには聖書の黙示録から題材がとられている。 天井画は『最後の審判』だ。」
「システィーナ礼拝堂のと似てる。」
「おう。 同じ題材だからな。 だが、実際にミケランジェロはこの絵を参考にしてシスティーナ礼拝堂の絵を描いたらしい。」
「そうなんだ。」
「こっちは『偽キリスト』。 あまり描かれた例がない主題で貴重なものだ。 で、そっちは『地獄』。」
亜美と俺は暫く黙って四方を埋め尽くすフレスコ画に見入っていた。
やがて、ぽつりと亜美が呟く。
「なんだか、怖い。」
「そりゃ、まぁ、黙示録だしな。」
「ううん、絵柄とかそういうんじゃなくて、なんだか裁かれてるみたいな気になるよ。」
少し青ざめた顔で肩をぶるっと震わせたのは演技では無さそうだ。
「ねぇ、竜児、出よう?」
「おう。 今日は独占でじっくり見れてよかった。 前に来た時は人が多くてな。 じっくり見れなかったんだ。」
怯えた様子でサン・ブリーツィオ礼拝堂から出る亜美に既視感を感じる。
「あー、おなかすいたー。 ねぇ、竜児、そろそろ宿に戻らない?」
だが、すぐにその思考は中断させられた。
「お、おう。」
「朝食は宿のおばさんが作る手料理なんでしょ? 竜児の料理とどっちが美味しいか、楽しみだなぁ〜。」
一瞬で立ち直ったようだ。 相変わらず、表情がくるくる変わる女だ。
「俺も楽しみだ。 家庭料理には学ぶべきところが多いからな。」
「あららぁ? もー負惜しみ準備しちゃったぁ? さっすが竜児、小心〜。」
「おいおい。 こういうのはな、小心じゃなくって、謙虚って言うんだ。 お前もちょっとは俺を見習って謙虚にだな…」
「謙虚なんて、一番あたしに似合わない言葉だっての。」
「………おみそれしました。」
ドゥオーモを出るや否や、既に亜美の毒舌は絶好調のようだった。

大聖堂前広場から、町の南側を通って宿に帰る。
特に古い家々からなるその付近は観光客の足も遠く、ひっそりとした朝の静けさに包まれていた。
人通りのない石畳は、ようやくランプが消え、朝の営みを迎えようとしている。
仄かに薪が燃える匂いを漂わせる路地を二人寄り添い歩く帰り道。
微かに触れた指先を、そのまま絡めあうのも、成り行きで。
軽く触れた肩に、頭をもたげるのも、ふとした弾みで。
それが俺達のいつものディスタンス。
それは、今日一日が祝福された一日である事を予感させてくれるような、そんな朝の一コマだった。

十数分後。
B&Bのダイニングルーム。
大きく開かれた鎧戸の向こうにはオルヴィエートを取り囲む丘陵地と、糸杉の並木の奥に見える古い城跡のような屋敷。
小奇麗に整えられた食卓には、見た目にも楽しげな食事が並んでいる。
クロスタータ、ヨーグルトケーキ、フルーツジュースに、自家製パンとジャム。 それに馬鹿でかいカップに入ったカプチーノ。
「………ねぇ、竜児。 あたし、初めて気が付いたんだけど、一般のイタリアの朝食ってさ、お菓子なわけ?」
「………遺憾ながら、そうだ。」
「ホテルとかでも、やたらとスイーツばっかりあるから、変だとは思ってたんだけど。 やっぱそうだったんだ…。」
「だが、食材を生かす工夫が凝らされていて学ぶべき事は多いんだよ、実際。」
「例えば、このクロスタータだが、アーモンドクリームとこれは…」
「杏ジャム? うわ、やば。 これ美味しい!」
……
「それにこっちのパンには… これは、クルミか。」
「え、どれどれ? あ、本当だ。」
……
「このヨーグルトケーキもワイルドベリーが入っているようだし、やはり一味違うな。」
「なんていうか、悪魔的だわ…。 美味しいけど…食べられない!!」
「いや、食えよ。 普通に。 お前、最近ちょっと痩せたんじゃないか? 忙しくてバランスのいい食事摂ってないだろ?」
「ローマに来るたび、あんたに餌付けされてるから、普段は節制してんの。」
「おいおい、俺が悪人かよ。」
「決まってんじゃん。 顔的に。」 「………お前なぁ…。」

そんなこんなで、宿のおばさんの心づくしを頂いた後、すこし名残惜しさを感じつつ、俺達はオルヴィエートを出発した。
昨日通った道とは別の経路で、もう一度カッシア街道に戻る。
芽をだしてあまり経っていない小麦畑は、瑞々しい緑で緩やかな斜面を覆い尽くしている。
昨日よりも幾分か雲が増えた空は、寧ろその青さを際立たせていた。
一時間弱ほど走ると、サン・ロレンツォ・ヌオーヴォでカッシア街道に突き当たる。
亜美は、女優だと気付いた宿のおばさんがサービスしてくれたビスケットを齧りつつ、上機嫌に助手席でふんぞり返っていた。
そこから更に40分ほど北上したカッシア街道沿い、右手に見える景色に、突然、亜美が声を上げた。
「あーーーーー。 ここ見たことある!」
それは真っ直ぐに伸びた糸杉の並木とその先の屋敷。
「なんだっけ……なんだっけ……、あっ! そうだ、グラディエーターのラッセル・クロウがやってた将軍の実家!」
なんつー表現だ。 が、よく見るとたしかに似てる。 あるいは本当にそうかもしれない。
「絶対、そうだって。 スペインじゃなくて、イタリアで撮ってたんだ。」
亜美の盛り上がりっぷりは別にしても、殊更絵になる景色なのは間違いない。
そこで、俺達は車を停めて写真を撮ることにした。 
丁度背景の空には巻積雲が複雑なパターンを描いて、蒼と白の壮大な広がりを見せている。
さらに、周囲の小麦畑は萌芽の黄緑で彩を添えていた。
「綺麗な所だね。 なんか丘の連なりがパッチワークみたい。 緑だったり、茶色だったり、黄色だったり。」
「作物の違いが、すなわち色の違いってやつだな。 実はもうこの辺りは『世界遺産、オルチャ渓谷』の一部だ。」
「ええーっ。 そういう事は早く言えっつーの。 世界遺産だと知ってたら、見方も変わるってもんでしょ。」
「い、いや、それもどうかと思うが…。」
「そういうものなの!」
「…んじゃ、あらかじめ教えとくぞ。 この後見えてくる村も世界遺産に登録されてる。」


ピエンツァ。 それがその村の名前。 最近は日本でも有名になりつつあるらしい。
サン・クイリーコ・ドルチャの少し手前、右手の谷間に向かって降りる砂利道に入る。
若葉が芽吹いたばかりのブドウ畑を左手に下ると、道は急に右に折れてそこからは緩い丘陵の尾根を走る。
見事に整備された圃場は連なる丘を覆い、果てしなく続く緑の絨毯のようだ。
そして、丘の上には数本の糸杉に囲まれた、石造りの農家。
これこそがオルチャ渓谷の典型的な風景だった。 世界遺産に指定されるのも納得の絶景である。
やがて、丘の上に可愛らしくまとまった村が見えてくる。
「あ、見えてきた。 またしても丘の上!」
「おう。 どうだ、絵になるだろ?」
「うんうん。 今日も最初っから飛ばすじゃない。 あれがピエンツァか〜。 凄い可愛い感じの村だね!」
道路の路肩に車を停めて記念写真。
「ここで残念な発表だ。 ピエンツァは遠くから眺めるだけにする。」
「え〜。 どうして?」
「すまん、時間の関係ってやつだ。」
「ん〜、ま、スケジュールは竜児にお任せだから、仕方ないね。」
「じゃ、さっそく次の町に向かおうか。」
「いよいよモンタルチーノ?」
「おう。 そうだ。」

同じ道を通るのは勿体無いので、来た道は使わずにサン・クイリーコ・ドルチャへ向かう。
その町も中世の石造りの街並みがそのまま残っていて、美しい。
「もう、とにかくどこを見ても綺麗。 なんか、あたし口元弛みっぱなしで、変な顔になったらどうしよう。」
「変な心配するな。 第一、お前、変な顔なんかしてねーぞ。」
「…にやけ顔になってない?」
「いや、さっきから、その、なんだ。 あれだな…。」
「…なによ。」
可愛い、なんてあらたまって言うのは流石に恥ずかしい。
「よくわからん。」 「はぁぁぁ? なに、その落ち。」
ぷいとそっぽを向くが、向いたその方向に美しい農家と糸杉の並木。
「あっ、ねーねー、竜児、あそこ素敵!」
1秒で機嫌が直るとは、オルチャ渓谷さまさまってやつだ。
そんな感じで、亜美は昨日以上にはしゃいで、元気いっぱいだった。
カッシア街道を挟んで、ピエンツァと丁度反対側にあるのが、モンタルチーノの村である。
この村は人口5000人ほどの小さな村だが、世界的にその名を轟かせている。
その理由は言うまでもない。
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ。 かの有名な赤ワインの産地だからだ。
当然、亜美も知っていた。
亜美の高校時代の成績は悪かったが、流石にセレブ、こういった有名ブランドや高級品の知識は服飾品に限らず豊富だ。
「もう11時か〜。 もしかして、モンタルチーノで食事の予定なの?」
「おう。 そのつもりだが……どうした?」
大体予想はつくが、一応聞いてみた。
「亜美ちゃん、ワインのみた〜〜い。」
「一応言っておくが、あまりいいワインは期待するなよ。 バカ高いからな。」
一面のブドウ畑を走り抜けると、丘の上にモンタルチーノの町が見えてくる。
「ここも丘の上なんだね。」 いよいよ町に入ると、亜美がすこし不思議そうに感想を漏らす。
「軍事的な理由だろうな。 この辺りの村や町はみな古いから、中世から何度と無く戦乱に晒されてきたんだろう。」
「そっか…。 そうだよね。 それぞれの町に色んな歴史があって、その上で今があるんだね。」
「ああ。 だからこそ美しいんじゃないのか? っと、それはそうと、駐車場が空いてないな。」
「うわ。 本当だ。 なんでこんなに車あるのよ。」
「地元でも人気の観光スポットだからなぁ。 エノテカ巡りがかなり人気があるらしい。」
「おっ、車が出そうだ。」 「らっきー。」 「おう。 ついてるな。 ここからなら城塞も近い。」


駐車していた車が出るや否や、その空いたスペースに勢い良く鼻先を突っ込む。
そうしないと他の車に場所を取られてしまう。
イタリアで公共の駐車場に車を停めるのは、まさしくサバイバルレースなのだ。
車を無事駐車場に叩き込むと、先ずは城塞を目指すことにした。
「町に入るときにあった大きな石の建物がそうなんだが、内部の一部がエノテカ、つまりワイン蔵になってるんだ。」
「おおー。 早速来たね。 ブルネッロ!」
「おう。 土産に発送も受けてくれるからな、日本に送ったらどうだ?」
「そうなんだ。 じゃ、そうしようかな。 パパもママもワインは好きだから、喜んでくれそう。」
亜美の足取りはいたって軽い。 その明るい笑顔は見慣れた俺でさえ、直視するのを躊躇うほどに美しい。
すれ違う人は男女を問わず、十人が十人とも振り返る。
例え話ですることはあっても、本当に一人残らず振り返る状況ってのは、よっぽど変な格好でもしない限り、普通の人には
縁のない話だ。
実際、亜美は高校時代よりも数段綺麗になっていると思う。
これで、ほとんど化粧らしい化粧はしていないのだから、まさに神が与えた芸術品だ。
だが、亜美が言うにはハリウッドにはそんな女がゴロゴロしてるんだそうだ。
それが本当ならば、そんな所に行ったら俺はショック死してしまうに違いない。

車で来た道を軽くスキップ気味に歩く亜美。
くるくる表情が変わって気紛れといえば、ネコを連想する所だが、少し先に行って立ち止まっては俺を急かす姿は、どちらか
と言えば犬の散歩に似てなくも無い。
大河がチワワに例えたのは、成程、今になって思えば当たっていたのかもしれない。
ほどなく城塞の中庭に入れば、砂利を踏みしめる音も軽快で、やはり亜美の機嫌の良さが窺い知れる。
俺が想定していたのよりも30分ほど早く着いたが、予定通り、城塞の5つの塔に登る前にエノテカ見物を楽しむことにした。
「ここは試飲もできるからな。」
「え、そうなの! …あっ、本当だ。 って、あのオッサン顔真っ赤。 しかもピヨってるし。」 
「あっ、ぶつかった。 あはははは。 マジうける〜。」
「あんなに酔っ払う程試飲するって… とんだオヤジだな。」
「あたしも見習おう〜っと。」 「お願いだから、自重してくれ……。」
亜美の美貌は男でも女でも虜にする。 ―――イタリアでは美しいという事は正義だ。
お陰様で亜美は、ほろ酔い気分になるくらいではあるが、普通じゃ飲めないような高級ワインばかり試飲させてもらっていた。
そして、どうやらピアン・デッロリーノのブルネッロが気に入ったらしく、1ケース日本に発送した。
こういう買い物をする時に、亜美は値段を見ない。
俺にとってはバカ高いワインを実にあっさりと買ってしまうのだ。
値段を聞いても、その顔に表情の変化が全く現れないのは本物のセレブの証だろう。
金銭感覚が無いわけじゃない。 良いと思った物にはそれなりのお金を払う。 ただ、その払う金の上限がやたら高いだけ。
勿論、亜美だって品質が同じなら、安いほうを買うし、値下げ交渉の技術は、むしろ俺より上だ。
今日も片言のイタリア語と身振り手振りでまんまと値引きを成功させてしまった。
とは言っても、店番の青年の気持ちは良くわかる。 あの潤んだ瞳で見つめられては、値引きせざるを得ない。
たとえ何を言っているのか分らなくても、とりあえず頷いちまうだろう。
まぁ、俺が見つめても大抵の人はとりあえず頷いちゃうんだが。
こうして見ると、なんか俺達、とんでもねぇ迷惑なカップルなのかもしれねぇ…。


「ねー、竜児、なんかぁ、この上に登れるんだってぇ。 凄い景色良いってさ。 いこうよー」
もの思いしていた俺の腕を、少し酔いを感じさせる不確かな所作で引っ張る。
若干赤みを差した頬と、僅かに蕩けた目線が妙に色っぽい。
最初から城塞の塔には登るつもりだったから異存は無いのだが、今の亜美に接近するのは危険な感じだ。
この表情でいつもの様に誘惑されたら、逃げ切る自信は無い。
「おう。 わかったから引っ張るなよ。」
「もー、早く、はやく〜。」
意外にもお色気モードには入らなかった。
村の一番端に位置するこの城塞は村の様子を一望するには最適な場所だ。
加えてオルチャ渓谷を遠望するにも最適だった。
その城壁からあちこち眺めて歓声を上げる亜美は、いつものように迫って来る事も無く、やたら元気だ。
ワイン壷を細い棒で高く掲げたシュールなオブジェも亜美の笑いを誘う。
その後も、細く背の高いシルエットが特徴的な市庁舎や、いくつかの教会を巡ったが、亜美のテンションは高いまま。
ほろ酔い程度かと思ったが、その実、結構しっかりと酔っ払っているのかもしれなかった。

12時30分を過ぎて、ようやく予約しておいたトラットリアに転がり込んだ。
モンタルチーノの町は坂道が多く、くまなく歩くと結構疲れる。
流石のハイテンション亜美も疲れたようだった。
「ふぁ〜 つっかれたー。 それにおなか空いた〜〜。」
ぐったりとテーブルに突っ伏す姿に、『ヘタレチワワ』という言葉が頭に浮かぶ。
ある意味、美人だからこそ許されるぐだぐだな様子。 俺が同じポーズをとったら見苦しいだけだろう。
「とりあえず、ミネラルウォーターを頼もう。 いいよな?」
「うん。 喉もかわいたぁ〜。」

やがて届けられたグラスを両手で抱えて、ごっきゅごっきゅと飲み干す姿もまた可愛らしい。
「ふぃ〜 生き返ったぁ。 で、何頼んだの?」
「前菜はプロシュット・コット、野菜のフライ。 
パスタはリコッタチーズとほうれん草のラビオリ、ピチパスタのキアナ牛ラグーソース。
そしてセコンドはパッパ・アル・ポモドーロだ。 デザートはピスタチオのジェラートにパンナを乗せる。」
「…なんか、よくわかんないけどぉ、美味しそうってのは伝わったよ。」
すこしおどけて微笑む。 こういう何気ない仕草がやはり一番魅力的。
「でも、そんなに沢山たのんで食べきれる? これまでのパターンだと、大盛りドーンって感じじゃん?」
「いや、此処は珍しく、量は少なめで色んなメニューを頼んでくれって趣旨の店なんだよ。」
「へぇ! それ嬉しいね。 できれば美味しいの、色々食べてみたいよね。」
「観光客としちゃ、そうだよな。 そう度々来れるわけじゃないし。」
そんな会話をしているうちに、前菜が届けられ、二日目の昼食と相成った。

「ねぇ… そういえば、竜児はどんな店を出したいの? やっぱり自分の店持ちたいんでしょ?」
ピチパスタを食べ終えたところで、亜美が急にそんな質問を投げかけてきた。
「そりゃーな。 最終的には自分の店を持ちたい。 だが最初はコツコツと働くしか無いだろう。 先ずは腕を磨くのが先決だ。」
「でもさ、レストランとかって、美味しいだけじゃ駄目だよね。 立地とか、店の雰囲気とかさ。」
「だが、美味しくなければ論外だろ?」
「まぁ、……そうなんだけどね。」
なんだ? 珍しく歯切れが悪い。
「どうか、したのか?」 「ううん、なんでもない。 聞いてみただけ。」 「…そうか。」
その時、会話が途切れるのを見計らったかのようにパッパ・アル・ポモドーロが運ばれてきた。
「うわぁ。 これがパッパラパーなドーモ君ってヤツ?」
「…パッパ・アル・ポモドーロな…。」
それで、この歯切れの悪さの訳は迷宮入りすることになったのだった。


そろそろトラットリアに来る客も減りだす頃、俺達は駐車場に戻った。
パンナを乗せたピスタチオのジェラートは亜美にクリーンヒットしたらしく、彼女は俺の分まで平らげてことのほか満足な様子だ。
「なーんか、ぷにぷにしてきたかも…」
「そんなにすぐに太るわけねぇーだろ。 まったく、気にしすぎだぞ?」
「あんた、油断大敵って言葉知ってる? 普段の弛まぬ努力が、この亜美ちゃんをして究極美女たらしめてるの!」
「究極美女ってなぁ……自分で言うかよ……。」
俺にとっては実際、究極美女なんだが、だからといって自分で言う奴は普通居ないって事実も変わらない。
「んじゃ、次の目的地まで走るか? 俺は車で着いて行くから。」
「あはははははは。 笑えない冗談ね。」
急にドスの効いた声になる。 だが、これは演技。 今や、こんな会話も俺達の楽しみの一つだった。
「じゃぁ、さっさと車に乗って、行くとするか。 損した所と、飯を食った所に長居は無用ってな。」

北に向かうにしたがって、雲の割合が増えてきていた。
日が沈むまではもちそうだが、フィレンツェで星は拝めそうに無い。
「あのさぁ、竜児。」
「ん? なんだ?」
「オルチャ渓谷とかっていうんだよね? ここ。 でも、全然渓谷なんか無いじゃん。 一番の見所すっとばして来たんじゃ…」
「いや、これが『渓谷』なんだよ。 日本でいう渓谷のイメージとはかけ離れてるがな。」
「ほんと?」
「誓って本当だ。 …似たような景色で飽きてきたか?」
「ううん。 いくら見てても飽きない景色だけど。 ただの素朴な疑問ってヤツ?」
「長い間の侵食と、人間の農耕でこういったなだらかな丘が続く光景が出来たんだな。」
「並木とかは人工だもんね。」
「ああ。 そういう意味でここは自然遺産ではなくて、文化遺産として登録されてるんだろう。」
緑のベルベットのような微妙な濃淡を見せる丘の斜面を雲の影が足早に流れていく。 上空の風が強くなってきたのだ。
心なしか、風もすこし冷たい。

「ねぇ、この後はどこに寄るの? まだ経由地聞いてない。」
数分の沈黙の後、亜美が今までより大きな声で問いかけてくる。
風が強くなり、風きり音が少しばかりうるさくなっていた。
「おう。 そうだった。 シエナの街を市街観光した後、いよいよフィレンツェだ。」
「3泊の予定だったから、フィレンツェで2泊なんだね。」
「おう。 まぁ、実際2泊じゃ、全然周りきれないんだが、そこは勘弁してくれ。」
「うん。 ……あ。」
厚い雲が太陽を遮る。 いつの間に広がったのか、今や全天の三分の二が厚い雲で覆われていた。
いよいよもって、天気は下り坂となってきたようだ。
「フィレンツェまでもってくれるといいんだが…。 まぁ、どんな天気でもそれぞれに良さがあるけどな。」
俺の言葉に亜美は反応を返さなかった。
雲の僅かな隙間から、幾つかの光条が輝く金色のカーテンとなってオルチャの丘陵地にふりそそいでいる。
それはまるで、宗教画のように神秘的で荘厳な光景。
その光景が亜美から言葉を奪ったのだ。
中世の人々が、この風景に神の存在を感じ取っても、確かになんの不思議もないだろう。
「本当。 晴れてなくても綺麗なんだね。 たぶん…、きっと、雨でも別な美しさがあるんだ…。」
暫く無言で揺れる光の束を見つめていた亜美だったが、ようやく言葉を思い出したようだ。
思わず口元が弛む。 同じものに、同じように感動できる、そのなんと嬉しいことか。
そして、亜美も俺と感動を共有できていると感じていてくれることを願ってしまう。
「あっ、おおきな街が見えてきた。 あそこ?」
そして、シエナの街が俺の思考を中断させる。
「おう。 そうだ。 あれがシエナ。 フィレンツェの宿敵だった街だ。」


シエナ観光はあまり時間が無いため、ドゥオーモとカンポ広場に絞ることにしていた。
シエナの街も丘の上に発展した街であるため、市街地もアップダウンが多い。
先ずは一番高い丘の上にあるドゥオーモを見物した後、カンポ広場に向かう。

薄暗く細い路地、急な下り坂を降りて進むと、突然視界が開け大きな広場に出る。
丁度、雲の切れ間から太陽が降り注いでいて、一瞬まぶしさに顔をしかめるほどだった。
「わぁ… ここが、『イタリア一綺麗な広場』なの?」
「おう。 そうだ。 ここがカンポ広場、世界一綺麗な広場って言う場合もあるらしい。」
「扇型の坂になってるんだ! おもしろーい!」
「正面にある高い塔がマンジャの塔で、その脇の大きな建物が市庁舎だ。」
「広場の地面の煉瓦の組み方、変わってるね。 それに、この形、なんだかホタテ貝みたい。」
「あっちの端に立ったら、亜美ちゃんヴィーナス誕生?」
どうやら、亜美はドゥオーモより、こっちのほうが気に入ったようだ。
「この周りのお店見物してもいい? 時間大丈夫?」
そわそわしている。 
「ああ。 けっこう時間はある。 空模様だけ注意してれば大丈夫だ。」
「よぉーし、じゃ、気合入れてウィンドウショッピングよ。 竜児は荷物持ちに任命す。」
「荷物持ちってなぁ…ウィンドウショッピングじゃねーのかよ。……車には荷物殆ど乗らないからな、あまり買い込むなよ。」
「わかってる。 雰囲気だけでも楽しませてよ。」
やっぱり、亜美には買い物とかの方が楽しいのだろう。 また足取りが軽くなった。 風に踊るロングヘアーも楽しげに見える。
太陽が隠れると急激に暗くなるカンポ広場は、雨の予感に人々の足も速まっていた。
いつもなら広場には寝転んで寛ぐ人々の姿もあるが、今日はまばらで、広場の全貌を見るには好都合だ。
広場の周囲にはバールや観光客向けのお土産屋さんが並ぶ。
まるでハチドリのように店から店へと忙しく飛び移る亜美は、いつもよりずっと子供っぽく見えた。
しかし、そんな見た目とは裏腹に、その嗅覚の鋭さに驚かされる。
店と店の隙間のような小さな入り口をくぐった先に、ろうそくの専門店を嗅ぎ付けたのだ。
まさしく、繊細な蝋細工と呼ぶべきキャンドルの数々。 もったいなくて、とても火など点けられそうにない。
「凄い… これ、見て。」
亜美が指し示したのは花に包まれた15cmほどの女性の立像。
「フローラだな… これは、凄いな…。」 「フローラ?」 「おう。 花の女神だ。」
「…あたし、これ欲しい。 買っていいかな?」 「いや、これだけ繊細だと、ちょっと怖いな。 それに値札がついてないぞ?」
店主に聞いてみたところ、これは改心の作だという。 それなりの金額になるが、買うなら厳重に包装してくれるとの事だった。
「ほんと? だったら買う!」
店主は思い切った金額をつけたつもりだったようだが、亜美にすれば『安い』買い物だ。
亜美が出したプラチナカードを見て、店主は一瞬、しまった、という顔をする。 もっとふっかければ良かったと思っているのだ。
微妙な表情の店主とは対照的に、亜美はニコニコ、上機嫌。
広場に面したバールへ場所を移すと、俺にはお構い無しにワインを頼んだ。
「お前なぁ、昼真っからあんまり飲むんじゃねーぞ。」
「けちくさいこと言わないでよね。 折角気分いいのにさ。」
市庁舎の方に向かってすり鉢状に窪んでいるカンポ広場の端っこで気分よく酒盛りを始める亜美だったが、15分ほど経つと
そのテーブルにポツリと水滴が落ちてきた。
見上げた空は、まだ所々に青空が覗いているが、風で飛ばされた雨粒が届く程度の距離で雨が降っている所があるのかも
しれない。 そうなれば、ここもじきに雨がやってくるだろう。
そこで俺は勇気を出して提案してみることにした。
「お楽しみ中すまんが、空模様が怪しい。 そろそろ車に戻ろう。」   
「え〜。 ざんね〜ん。 もっとゆっくりしたかったなぁ〜。」
「ここまでくればフィレンツェはすぐだから、もう少し時間はあるんだが… 折りたたみ傘なら一つある。 マンジャの塔にでも
登ってみるか? 雨がふればけっこうガラガラだろうしな。」
「マンジャの塔って、アレだよね? もしかしてまた階段なの? だったらパスしたいかも…」
亜美が怖気づくのも仕方ない。 マンジャの塔は実に102mもある。
「フィレンツェ、いっちゃおうか?」
「まぁ、それが無難だと思う。」


「シエナにしても、オルヴィエートにしても、こんな風に通り過ぎちゃうのがもったいないね。」
車の幌を出し終えた頃、亜美が呟く。
「そうだな。 …高速を使えばシエナもオルヴィエートもローマから一泊でなんとかなる。 そのうち来てみるか。」
「うん。 まとまった休みさえとれればなぁ……。」
そういえば、今回の休みは亜美にとっては特別休暇のようなものだった。
「仕事のほうは、どうなんだ? やっぱり、忙しいのか?」
「うん。 実はさ、この休みが明けたら、多分2日以上連続で休めるのは早くて2〜3ヶ月後になる…。」
「………そうか。」
付き合い始めてから、2ヶ月以上会わなかったことはまだ無かった。
考えてみれば、いまや有名女優となった亜美が、そうそう長い休みを取れる筈はない。
亜美は何も言わないが、これまでだって、相当無理してスケジュールを遣り繰りしていたのかもしれなかった。 
「会えないのは寂しいが、しかたないな…。 ま、それはそうと、そろそろ行くか。」
いやな話だった。 寂しいなんてもんじゃない。 2ヶ月以上、亜美の顔を見れないと思ったら、その事は考えたくなくなった。
そして、そんな俺の顔を亜美は何も言わずに、じっと見つめているのに気付く。
その亜美の表情に、上手く言葉が出てこなかった。
なんとか『どうかしたか?』という表情を作りつつ、助手席のドアを開け、亜美に車に乗るように促す。
すると、助手席に体を半分納めたところで亜美は動きを止め、俺のほうに向き直った。
「ねぇ、あたし… あたし、女優の………」
「おう?」 
「…ううん、ごめん、なんでもない。」
亜美が席に収まったのを確認してから助手席のドアをしめ、車の反対側に移動する。
亜美からは死角になる位置で、空を見上げた。 丁度雲の切れ間が無くなって、厚い雲が覆いかぶさってくる。
この空のせいだろうか。
つい数分前まではあんなに楽しい一時だったのに、俺達二人の間の『現実』がいかに困難と憂いを秘めているかを思い出した。
だが、それに負けるつもりは毛頭無い。
雨が降るなら傘を差せばいいのだ。
「よし、それじゃ、この休暇は思いっきり楽しむとするか。」
そう言って爽やかな笑顔を浮かべる。 
傍から見れば『しめしめ、上手いこと上玉を拉致ってやったぜ』という風にしか見えなくとも、亜美には伝わる筈だ。 たぶん。
「なーにぃ? その顔。 なーんか不気味なんですけど?」
……相変わらず、容赦のない奴。 だが、そのいつもの毒舌にすこしだけほっとした俺だった。

シエナからフィレンツェには高速道路が延びている。
かつてルネサンスの時代、覇権をあらそった二都市は今や一時間ちょっとの距離となっていた。
そして、シエナから高速道路に乗る頃、ついに幌を雨粒が激しく叩きだした。
「うっは、うるせー。 雨だとロマンもへったくれもないね、こりゃ。」
「スパイダーはそういう車だー。 晴れてりゃ最高だが、雨だとしょんぼりってな!」
「竜児、声でか過ぎ! 雨の音よりうるせって。 あはははは。」
急激に風が強くなり、寒冷前線が通りすぎたのだと分る。 
雨は、ここ数日、春にしては強い日差しで暖められていた大地から熱を奪い、巻き上げられた温かい空気が、上空の冷たい
空気と交じり合う。
突然、雨雲が激しい光を放つ。
天が放つフラッシュライトは、数瞬後、大音響をあたりに撒き散らした。
「きゃっ」
可愛らしい悲鳴。 さしもの亜美も雷は得意ではないのか。
次々と発生する、空全体が薄紫に染まる巨大な放電。 炸裂音が大気を引き裂く。
「もう〜、いくら亜美ちゃんが超絶美女だからって、歓迎しすぎだっての。」
軽口を叩ける程度には耐性があるようだ。
急激に悪化した天候に、しかしそれほど腹を立てている様子も無い。
慣れてくれば、稲光を楽しみに車窓を眺める亜美。
天は暗く、雨は激しく叩きつけ、時折踊るは紫の雷光。
結局、シエナからフィエンツェに至る一時間ちょっとの道行きは概ね雷がエスコートしてくれた。


今日のフィレンツェの空は、まるで昨夜から俺の心にあった漠然とした不安を形にしたかのような、そんな空だ。
所々薄日が差し込んではいるが、すっきりとした青空は見えず、真っ暗な南の空からは遠雷が耳に届く。
フィレンツェの街路はどれも狭く、中世風の街並みの隙間を縫うような石畳の道。
その石畳には所々水溜りが出来ていたが、通り雨だったのだろう。 今は雨は止んでいた。
狭い道にいっぱいになった路駐の車が、余計に道を通り難くしている。
先ずは車をホテルの傍に駐車するため、俺達は今夜の宿に向かっていた。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の目の前にある、その名も『ホテル・サンタ・マリア・ノヴェッラ』。
なんの芸も無い。 そのまんまだ。
だが、俺一人なら絶対に泊まる事のないであろう、老舗の高級ホテルである。
だが、連泊かつインターネット予約という条件でお値打ち価格のプランがあり、体よく格安でスイートルームを確保できた。
格安と言っても、B&B(一泊朝食付き)で399ユーロなのだが。
それでも、亜美が普段使っている宿と比べれば4分の1以下の値段なのだ。
しかし、その宿に辿り着くのが一苦労。
フィレンツェの街はあちらこちらが一方通行で、なかなか素直には辿り着けない。 さらに、アルノ川が街を南北に隔てる。
高速道路を下りて街の入り口にあたるローマ時代の古い市門、ポルタ・ロマーナから、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場はまっすぐ
北だが、車では大きく迂回しなければならなかった。
狭い街路をクネクネと曲がりながら進むと、流石に亜美もいぶかしむ。
「ねぇ、竜児、まさかとは思うけど、迷ってるんじゃないよね?」
「いや、そんなことはない。 安心して乗っててくれ。」 
嘘だ。 実は若干道を間違えた。 当然、亜美にはばれていると思うべきだが、幸いそれ以上は追求してこなかった。
そしてようやく、左角にジェラテリアが見え、そこから左側に広場が広がった。
内心ほっとする。
広場の中央を挟むように二本の小さなオベリスクが立っている。
そして左手奥には、ルネサンス様式の幾何学模様が特徴的なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会がそびえ立っていた。
「ようやく着いたぞ。 広場の向こう側、真ん中あたりの建物が、今日の宿だ。」
「へぇー。 教会が目の前なんだ。 なんか、お土産屋さんとか、トラットリアとか、バールがいっぱいあるじゃん。」
「ああ。 ここは観光拠点としては凄く便利な場所なんだ。 正直、予約が取れたのはラッキーだった。 いい宿だからな。」
「うふ。 自信ありげじゃん。 亜美ちゃん、楽しみ〜。 どんなホテルかな。」
ホテルすぐ傍の広場の端っこに車を停める。
このへんの駐車場のアバウトさがイタリアらしい所だ。
荷物を抱え込んで、ごく小さな看板に気がつかなければ見落としてしまいそうな程控えめなホテルの玄関をくぐった。
外見のそっけなさとは異なり、エントランスはエレガントな雰囲気で、調度品もセンスがいい。
ホテルのスタッフも良く教育されているらしく、亜美の顔を見て誰であるか気付いたようだが、微笑しただけだった。
イタリア人でも、亜美の顔が分る人は多少居る。
なんでも、ローマでの告白劇のことも有って、例の映画の登場人物のうち、イタリアでの一番人気は亜美の役らしい。
その亜美は、エントランスの雰囲気だけで、既にそわそわし始めている。
ホテルマンがテキパキとした動作で、狭く薄暗い通路を案内してくれるが、その薄暗さも、所々にあるインテリアのセンスの良さ
のお陰で、むしろ隠れ家的な期待感を煽った。
そして案内された部屋は、教会側と広場が見える角部屋で、最高のロケーション、さらにはオーク材で統一された重厚なインテ
リアと、溜息が漏れるほどの部屋だった。
「どうだ、いつもお前が泊まってる部屋ほどではないが、なかなかのモンだろう?」
「たしかに、いつもあたしが泊まってる部屋のほうが凄いけど…。 でも、あんた一人だったら、絶対こんな部屋なんか泊まんない
でしょ。 いくらあたしだって、竜児がこんなに頑張ってくれてるのに、文句言うほどバカじゃないよ…。」
僅かに潤んだ瞳で亜美が答えた。
「ごめん、あたし、気を遣わせちゃってるね……。」
「まったく、お前ってやつはよぉ…。 有名女優の癖に、台詞間違えんなよ。 そこは『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ?」
「あはっ。 そうだね…。 ありがとう… 竜児。」
僅かに紅潮した頬を涙が濡らさないうちに、その華奢な体を抱きしめ、唇を塞いだ。


………
「コホン」
咳払いの音に、ホテルのボーイがまだ居るのを思い出す。 カッと顔が熱くなる。 亜美も耳まで真っ赤になった。
ボーイは素敵な笑いを浮かべ、「そろそろ、私の仕事を続けさせて頂いてよろしいでしょうか?」とのたまう。
やれやれだ。
だが、お陰で場が和らいだ。 あるいは、あの絶妙な間のとり方が一流のホテルマンの証なのかもしれない。
そして、簡単なアメニティの説明の後、チップを渡すと、ボーイは次の仕事場へと向かっていった。

荷物を部屋に置いて一息ついた後、ホテルを出発する。
遠雷はまだ南の空から轟いている。
いつ泣き出してもおかしくない曇り空は、夕刻になって、徐々に桃色に染まってきていた。
空全体が薄いピンクに均一に塗りこまれるような空は、一見どちらが西でどちらが東なのか分らない。
色合いとしては美しいのに、酷く不気味な印象だった。
「なに…この空。 気持ち悪い…。」
「まぁ、雨でないだけましだろう。 それにこのぶんなら明日は晴れるかもしれないな。」
なんだか、モンタルチーノを出たあたりからなんとなく嫌な雰囲気が俺達を包んでいた。
どうにも理由がわからない。 
原因らしい原因も見当たらないのに、天気が悪化するのにしたがって、なんとなく、変な感じになっていくようだ。
天気のせい、という訳ではないのだろうが、明日の天気を占うことで、すこしでも気を紛らわせようとした。
「…だといいね。 折角来たんだから、明日は晴れるといいな。」

気を取り直して広場を横切る。
春先のフィレンツェは観光客も多い。
もちろん、ちらちらと日本人も見えるし、アメリカ人も多いだろう。
亜美は今朝の宣言通り、俺と二人、堂々とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へ向かう。
独特のルネサンス様式の幾何学模様で構成されたファサードは見事なものだ。
「なんだか、教会めぐりみたいになっちまって、すまん。」
「え? そんなの、別に気にしてないって。 竜児と一緒なら、別にどこでもいいよ。 さ、早くいこっ。」
強い風に、リンネルのハーフコートの裾がひろがって、亜美はまるで踊りを舞っているようだ。
その楽しげだが、どこか無理をしているような姿を見て、ようやく合点がいった。
不必要なくらいに元気に振舞うのは、やはり俺と同じ事を感じていたからに違いない。
そして俺は自分の鈍感さ加減に呆れる。
洞察力に秀でた亜美のことだ。 昨夜から既に俺の迷いに気がついていたのだろう。
それで、言い知れぬ不安に苛まれつつも、努めて元気に振舞った。
その健気な思いに気付くまで、俺は半日以上費やしたわけだ。
そして俺は、亜美のもう一つの決意を、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会内部で目の当たりにすることになった。

「うわぁ〜 毎度のことながら、凄い装飾。 こういうのばっかり見てると、なんか日本の禅寺が恋しくなっちゃうわ。」
「おう。 あれはあれで一つの美の形だし、これも一つの美の形なんだろうな。」
「確かに甲乙つけ難いっていうか、見る人の気持ち次第っていうか。」 
そうして教会内を見物していた所、突然、日本語で話しかけられた。
「あの、川嶋亜美さんですか?」


昨日のバカ学生とは違って、亜美より幾分か年嵩に見えるその旅行者は、礼儀をわきまえていた。
しかし、亜美の答えはつれないもので……。
「ごめんなさい、今大切なプライベートの時間なんです。 遠慮していただけないでしょうか?」
これだけ明確に拒絶されれば、旅行者は頷くしかない。
おそらく亜美だって、こんな事を言うのは気分が悪いだろう。 しかし、それでもその声に迷いは無かった。
そうして、次の目的地サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局に着くまでの間に、亜美は2回同じ台詞を吐いた。
「サンタ・マリア・ノヴェッラって言うからもしかしたらと思ったんだ。 本店がこんなに近くにあるんだ。」
「日本にも店を出してるんだよな。」
「うん。 あたしも時々いくよ。 銀座とか丸の内とかにあるけど、あたしはいつも銀座。 銀座はカフェもあるからね。」
「そーいや大河も同じようなこと言ってたな。 クリームチーズに蜂蜜を乗せたやつとか、薔薇風味のブリュレとかが…」
「げっ」
「……なんだよ、その『げっ』ってのは。」
「だぁ〜ってぇ、亜美ちゃんとタイガーの好みが一緒なんて有り得な〜い。」
「へぇ。 そうなのか、亜美も同じようなのが好きなんだな? なるほどなぁ。」
「何よ。」
「いや、前から思ってたんだが、お前と大河ってけっこう似てるところ多いよな。」
「何、それ。 冗談、あたしとあんなちんちくりんのどこが似てるってのよ。」
「いや、見た目とかじゃなくて。 いまでも大河とはしょっちゅう手紙のやり取りがあるが、その度に思ってたんだよ。 なんて
いうのかな、性格っていうか…、いや、もっと本質的な部分でなんか似てるんだよな…。」
「………ふーん…。  あ、あそこ? あの玄関、見覚えあるよ。」
「おう、そうだ、あそこがサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局本店。 世界一古い薬局だ。」

そして、その格調高い玄関をくぐって驚いた。
店内は殆どが東洋人、とりわけ日本人で埋め尽くされていた。
流石にこれには俺も顔が引きつった。 恐らく殺人鬼と間違われても仕方ない位に。
「なるほどね。 見覚えがあるわけだわ。 日本の店の玄関も本家を真似て作ってあるんだ…。」
「それに、店の中まで日本にいるみたい…。」
「本当だ… なんだこりゃ……日本人ばっかりじゃねーか。 どうする?出るか?」
「折角来たんだし、見てこうよ。 第一、もう手遅れみたいだし?」
言われれば確かに、数人の観光客がこっちを見て固まっていた。
そしてすぐに、ざわめきに変わっていく。
亜美は何事も無いかのように、店の中を進んでいく。 俺の腕を取って…。
俺は注目を浴びることに竦んで、最初は亜美に引き摺られるような格好になった。
亜美は全く周囲を意に介していないが、俺のほうはとても落ち着いてなど居られない。
なにせ、普段人目の多いところでは、こんな風に腕を組むことなど稀なのだ。
しかも、周りはほとんど日本人。 
ひそひそ話す声が聞こえてくる。
「…あれ、川嶋亜美よね。」 「うん。 間違いないよ。」 「じゃ、あの腕組んでるのが彼氏なの?」
驚いているのだろうが、聞こえてるって。 ちっとは気つかってくれよ…。
その後に続くのは、きまって否定的なコメント。
「うっそ、モロ893じゃん!」 「え〜 ショック〜。 あんなの、亜美ちゃんに似合わないって…。」
腹を立てるより先ず、亜美の顔色伺いだ。
「あ、でも、さすが本家だね。 天井にフレスコ画がある。 すごい…素敵。」
どうやら、今のところは警戒水位には達していないようだ。
というか、完璧に周囲を無視している。
周囲の連中も、こう大勢いると、互いに牽制しあうのか、亜美に話しかけてくる勇気の有る奴は居ない様だ。
間違っても、俺の顔が怖くて話しかけられない、なんてことは無い。 
などと油断していたら…


「あんなの彼氏にするなんて趣味わるーい。 あの顔で絶叫告白って、笑えない?」
「所詮、顔だけのアーパー女でしょ、彼氏のほうもあっちの方が上手とか、せいぜいそんな理由じゃないの?」
驚いた。 わざと聞こえるように言っているのか。
どうやら、アンチが混じっていたようだ。 ちらりと伺えば、なるほど自意識過剰の無駄な対抗心と判る。
それなりにお洒落な格好の、それなりの美人だった。
もっとも素材自体は木原や香椎にも完封負けといった程度だが。
「俺は気にしてねぇ、頼むからキレねぇでくれよ…。」
小さな声で釘を刺す。
「…うん。 でも、自分がバカにされるのは許せても、あんたがバカにされるのは、なんか、…メチャクチャ腹が立つ。」
拙い。 一気に決壊寸前だ…。
「で、出ようぜ。 どうせ宿の目の前だ、すぐにこれる。」
「……そうだね。 …ごめん、竜児。」
「気にすんな。」
「ううん、そうじゃなくて。 やっぱあたし、我慢できないわ。」
そう言うと亜美は、さっきの二人連れのなんちゃって美人とすれ違いざまに…
「そのグリモルディ・ボルゴノーヴォ、素敵ね。 ……男物だけど。」 
久々に見る、人を馬鹿にしきった性悪チワワ顔。 さっきの女の顔色が見る見るうちに変わる。
「イタリア語、わからなかったのかなぁ〜? そ・れ・と・も、手首の太さに合わせちゃったぁ?」
女は亜美を睨みつけたが、急に表情を消した亜美の迫力は段違い。 
彼女らはすぐに店の奥に逃げていった。
流石にいまのはイメージダウンなんじゃないかと周囲を見れば、みな逃げていった女達をクスクス笑っていた。
どうやら、彼女らの態度は周りの人間にとっても不快だったらしい。
「…行こう。 長居は無用だ。」
今度は俺が亜美の腕を取って、急いで店を後にした。

それにしても、嫉妬に狂った女は怖い。
初対面の相手、しかも男連れに喧嘩ふっかけるなんざ、正気の沙汰じゃない。
そして、それを買う亜美も亜美だ。
俺達は急ぎ足で広場から抜け出して、ドゥオーモへ向かう路地に滑り込んだ。
さっきまでの不気味なピンク色の空は既に藍色に変わって、路地を彩るのは街灯のオレンジ色だ。
ずらりと並んだバールやトラットリアからは、芳しい匂いが漂ってくる。
「まったく、冷や汗もんだったぞ。 お前よぉ、人気商売なんだろ? 俺のことなんか気にしてる場合じゃねーだろうが。」
「だって! メチャクチャ腹が立ったんだから、仕方ないじゃん……。」
「仕方なくない。 まったく、無茶しやがって…。」
「ちゃんと先に謝った。」 拗ねるように口を尖らせる姿はなかなかのレアものだ。 
「それでもダメだ。」
「……ふん。」
「………。」
「………。」


「…はは。 でも、あれだな。 やっぱ、お前ああいう意地悪なの似合うよな。」
「な、なによ、それ。」
「お前よぉ、ドラマとかでも、ああいう役、多いのな。」
「なんで知ってんのよ…。」
「いや、俺がお前に告白したの知ってな、大河が色々送ってくれたんだよ。」
「タイガーが?」
「おう。 なんでも、大学時代の友達にお前の熱狂的ファンが居たらしい。 それでお前がでてる映画のDVDや、ドラマを
録画したDVDを俺に送ってくれたんだよ。」
「へぇ…。」
「大河のやつは、間違ってもソイツの前では『ばかちー』とか言わないように物凄く気を使ってたらしいぞ。」
「ふーん。」
「ところがそいつは機械オンチで、DVD一枚焼くのも大騒ぎだったらしい。 大河が言うには、そいつが全部悪いことになって
るんだけどよ、大河もドジだから、余計に混乱させたんじゃねーかな。」
「へぇ…。」
「でもな、焼いたのはいいんだが、一度ケースだけ送ってきたことがあって、あれは流石に呆れたというか、納得というか…。
まぁ、実に大河らしいよな。 ははははは。」
「うん、そうだね。」
「それで、お前が出てるドラマとかはそこそこ見たんだが…」
「初耳なんだけど。」
「いや、お前嫌がるだろ? でも、俺としてはやっぱり見たいし。 その、特段内緒にしてたつもりはないんだが…。」
「…うん。 別に…いいよ。」
「? それでお前、案外ヒロイン役ってやってないんだな。 なんか、いつもライバル役とかなんだよな。」
「……。」
「? そ、それでよ、お前、はっきりいってヒロイン役より、その、綺麗なのに、なんでそんな配役なんだろーなーとか…」
「あと、お前いっつも振られるか、こっぴどく振る悪女役かどっちかなのな。 それも…」
「なに? あたしみたいな性格ブスは嫌われて当然だって言いたい訳?」
「あ? い、いやそんな… って、お前…何言ってんだ? …おう。 ドラマの役の話だろ? どうしたんだよ?」
亜美は酷く真剣な表情で唇を噛んでいた。
「え? あ、ああ。 なに、も〜う。 びびっちゃったぁ? 竜児ったら、相変わらずヘタレなんだからぁ〜。」
いかにも、今のは演技よーと言わんばかりの振る舞いだが、一瞬前の表情は…。
いや、蒸し返すのはやめよう。 本当に俺の勘違いで、いつものように俺をからかっただけかもしれないし…。
「それより、ドラマの亜美ちゃんも可愛かったでしょ? それを竜児は独り占め出来るんだよ? よっ、世界一の幸せモン!」
「あのなぁ…」
なんというか、反応が極端だ。 やっぱり少し様子が変だ。
ここはとっとと適当なトラットリアにでも入って風向きを変えるべきだろうか。
そこで俺は予定を変更し、近場で休めそうなところを探すことにした。


しばらく迷ったが、地元の人間が多いトラットリアを選んで入った。
フィレンツェの食堂事情はけっこう厳しくて、値段がかなり高めだが、地元の人向けのトラットリアなら、その限りではない。
もっとも、イタリア語に堪能なのが最低条件にはなるのだが。
俺達が入った店は、幸いにも素朴なトスカーナ料理を中心とした飾り気はないが、旨い料理を味わうには最適な店だった。
時間を掛けて、ゆっくりと食事を楽しむ。
素材の味わいを生かした素朴な野菜メインの料理と、良質の白ワインは中々のもので、期待以上の満足度だった。
そして今は酒の肴に頼んだ猪のサラミとプロシュートがテーブルにごそっと置いてあった。
ワインとなると、銘柄も定かでない安い赤ワインが、テーブルにどっかと2リットル単位で置いてある豪快さだ。
しかし、そのワインも早くも半分を切ろうとしていた。
とりわけ、亜美の飲むペースが速い気がする。
「おい、もっとゆっくり楽しもうぜ。」
「えー。 べっつになーんも急いでない。 亜美ちゃんはマイペーッス!」
猪の肉を酒の肴に亜美はぐいぐいいっていた。
そんな亜美の姿を見ながら、余計な事を考えてしまう。
今まで気がつかなかったが、亜美は少しばかり感情の高ぶる時と、落ち込む時のギャップがあるようだ。
なんとなく、いやな感じだった。
注意してみると、今までだってその傾向はあったのかもしれない。
そう。 例えば『真実の口』の時。
あの反応は、驚くというのとは少々違ったと思う。 そうだ、あの反応は……。
嫌な考えが沸いてくる。 どこかで見た、芸能人には精神疾患を持った人が多いというデータが頭に浮かぶ。
もしかしたら、俺と会っている時と、そうでない時。
俺には見ることが出来ない、『俺と会っていない時』の亜美の姿は一体…。
そういえば、ドラマでの彼女はどちらかと言えば陰鬱なイメージの役が多い。
というより、元気いっぱいはっちゃけた役は最近は全く無かった。 
たしか、デビューしたての頃は、その美貌から、ヒロイン的な役が定番だった筈だ。 少なくとも、俺が日本に居る時はそうだった。
それがいつの間にか、陰鬱な性格の役が増えている。
とはいえ、演技自体は格段に上手くなっていて、ちゃんと笑顔は輝くような美しさを見せてくれるのだが…。
考え過ぎかもしれない。
ただ単に女優として成熟してきて、難しい脇役をこなしているだけなのかもしれない。
事実、今目の前にいる亜美は今日一日の事を楽しげに振り返りながら、ワインをあおっている。
その姿には翳りなど見えはしない。
…のだが……少々、酒が進みすぎだ!
「お、おい、お前、こんなに飲んじまったのか!」
ぼーっと考え事をしている間に、ワインは残り少なくなっている。 僅かな時間に500ml以上流し込んだと言うのか?
他に白ワインも一本頼んで、殆ど亜美が飲んでしまっていたから、昨日の俺以上に飲んでいる。
亜美は決して酒に弱くはないが、人並み以上に強い訳でもない筈だ。
迂闊だった。 これは明らかに飲みすぎではないか?
「なーにぃ? 今更ぁ〜。 亜美ちゃんの話、きいてないでしょぅ〜〜。 いーっつもそう。 あたしの言う事なんか聞いてないんだよね、
『高須君』は。」
「なに言ってるんだよ。 いつもちゃんと聞いてるぞ。」
いつの間にか亜美は目が据わって、上半身がふらふら揺れ始めていた。


「ふん。 あんたさぁ… タイガーの事話す時、凄くいい顔するよね……。 そう…、あたしも見た事が無いような顔をさ…。」
「……そんな事はないだろ。」
「そうだよねぇ…。 やっぱそう思うよね…。 だってタイガー放っておけないもんねぇ…」
すでに会話が噛み合っていない。
亜美は手にしたグラスを一気にあおり、また注ぎ足す。
「おう。 もう止めとけよ。 飲みすぎだって。 昨日の俺の二の舞になるぞ!」
そう声を荒げて亜美のグラスを持った手を取ろうとして…
「やめてよ!!」
ヒステリックに叫ぶ亜美に、俺は大いに動揺した。

結局、亜美からグラスを奪って、トラットリアの支払いを済ませたのはそれから30分後。
明らかに亜美の飲み方は異常だった。
もはや確信した。
酔いが回って自制心のタガが外れると止まらなくなる。 それはアルコール依存症に似ている。
おそらく…
亜美は少しばかり心を、病んでいるのだ。

既に正体を無くした亜美は一人では立つことさえままならず、俺に体を支えられて、ようやく歩いていた。
仕事の愚痴なのか、ぶつぶつと誰かの名前を唱えては文句を言う。
なかには聞いたことのある俳優の名前も混じっている。
俺には想像がつかないが、やはり、仕事のストレスは相当なものなのだろう。
その上、プライベートですら、きっとさっきのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局のように、心が休まる暇が無いのだ。
こいつは一見、ふてぶてしくて、自信過剰なくらいのナルシストで、性悪女だが、実際はそんなにタフな奴じゃない。
過酷な環境は、亜美の心に許容量以上の負荷を掛けてしまったのか。
だったら、少し休むべきだ。 体以上に大切な仕事なんて無い筈なのだから。

そんな事を考えながら、昨日とはまるで正反対の体勢で、ホテルに辿り着いた。
「まったく、揃いもそろって、とはな。 とんだ似た者カップルだぜ。」
部屋に転がり込んで自嘲する。
昨夜は俺、今日は亜美。 二人揃って折角の夜を酒で台無しにするとは、馬鹿にも程があろうというものだ。
とりわけ、今日の亜美はひどい酔い様だ。
最早、ここが何処で、どういう状況なのかすらわからなくなってしまっているようで、俺の顔さえ判別できていないようだった。
仕事の愚痴は… 母親にでも話しているつもりなのだろうか?
いつ吐いてもいいように、亜美をバスルームに抱え込む。
こんな時にだが、高級ホテルにしておいてよかったと心底思った。
安ホテルのバスルームはあまり清潔とは言えないケースが多い。
だが、このホテルは白い大理石で出来たバスルームで、僅かな汚れがあっても目立つせいか、俺が手を下す余地が無いほど、
清掃も行き届いていた。
すぐに世話できるように、亜美を抱え込んで座る。
ぐったりと萎れた様子に少し不安になるが、急性アルコール中毒の心配はなさそうだった。
それは逆に言えば、こういう事態に陥ったのは初めてではなさそうだ、とも言える。
だらだらと愚痴を垂れ流す亜美を見て、亜美が正気を取り戻したら、暫く仕事を休むように強く進言しようと俺は決意していた。
だが…

やがて、死んだ魚のように澱んだ目で俺を見上げた亜美が紡いだ言葉は。

俺の馬鹿さ加減を嫌と言うほど思い知らせてくれるものだった……。


「………た、か、す、くん?」
まるで死に掛けたヒロインのように途切れ途切れに俺の名を呼ぶ亜美。
それも、最近聞きなれた名前ではなく、苗字で。
「おぅ。」
「あはっ。 よかった…… もう会えないと思ってた……。」
夢でも見ているのだろうか? あるいは、酒で混濁した意識が、亜美を過去の世界に連れ去ったのか?
「あのね、あたし、高須君に懺悔しなきゃいけないことがあるんだ…。」
「………」
「高須君が実乃梨ちゃんに振られたの、あたしのせいかもしれない…。」
「あたしが、嫌味言ったから… 実乃梨ちゃんのこと傷つけて、追い詰めて……だから、実乃梨ちゃんは…。」
「……そのせいで高須君、記憶喪失にまでなっちゃって…。」
「川嶋、お前……。」
知らず知らず、俺もあの頃の呼び方で答えていた。
もはや亜美の目は俺を見ていない。 誰に向かって話しかけるでもない、それはいわば『独白』だ。
「…異分子のあたしが、うろちょろしなければ…みんな上手くいってたのかもしれないのに… あたしが余計なことしたせいで
タイガーも、実乃梨ちゃんも、高須君まで傷つけて…」
「そのくせ、あたしだけ、全部忘れちゃってる高須君に自分の気持ち伝えちゃって……」
「あたしは知ってたんだ…。 実乃梨ちゃんの本当の気持ちも、タイガーの本当の気持ちも。 それなのにあたし、自分だけ…」
「そして、結局逃げ出したの… 実乃梨ちゃんの事酷いって思ってたくせに…あたしも無かったことにするしか… 無くて…」
「…あたしは嘘つきで… 臆病で… 卑怯者で… いつも逃げてばっかりで……」 
「みんなを… みんなを傷つけて…」
「もういい。 昔の事だ、もういいんだよ、川嶋!」
つい、腕に力がこもりそうになるのを、必死で我慢する。
そうだ。 こいつにとって、俺達との事は…

………5年前のあの日から、止まったままなんだ………

俺は何も理解出来ていなかった。 ただの一度も亜美の身になって考えたことなど、無かったのだ。
亜美の考えている事が少しわかるようになって、自惚れていた。
そして、こいつが血を流し続けていることに、気付いてやれなかった……。
亜美はおそらく、今までずっと一人だったのだ。
5年前、せっかく出来た友達に、こいつは背を向けて去っていった。 一度も振り返ることなく。
俺や、大河、櫛枝はもちろん、香椎や木原にすら一度も連絡は来なかったらしい。
生き馬の目を抜くような業界で、こいつは一人きり背伸びして…
…生きて来たのだろう。


やがて、腕の中の亜美は、少しだけ苦しげに顔をしかめると、大きく胸を上下させ、沈み込むように体の力を失った。
それがまるで、永遠に亜美を失ってしまったかのような錯覚を与え、俺を狼狽させる。
「か、わしま? おい、亜美! 亜美!」
涙で塗れた長い睫毛が微かに動いたが、その瞳はどこも見ていなかった。
そして、かすれるような声で、また『独白』を始める。
「あたし、ねぇ… 高須君に会ったよ… そう、会ったんだ……。」
「本当はわかってるんだ… あたしは高須君のそばに居ちゃいけないんだって……。 記憶喪失にならなければ… あたしが
高須君に選ばれる筈…ないんだもん…。」
「だって、高須君にはねぇ… あたしなんかより、もっと大切な人が居るんだよ…。 あたしじゃない。 …それに、あたしはもう…
…壊れちゃってるから……。 高須君には相応しくないの…。」
「お前、何言ってるんだよ…。 そんなことはねぇ、そんなことがあるわけねぇ…。」 
聞こえていないと判っていても、言葉が漏れる。
「でもねぇ…」
「でも…」
「高須君に、『アイシテル』って言われて………。」
「あたし、嬉しくて、うれしくて、うれ…しく…て…。」
ぼろぼろと大粒の涙が亜美の瞳から溢れ出る。
「離れられない…よ。 一緒に、一緒にいたいよぅ…。 うっ、うぅ、ぅあうう、あぁぁぁぁぅ…」

亜美はまるで、赤子のように俺の腕の中で背を丸め、震えている。
俺に出来ることは、その細い肩を抱いてやる事だけで。
そして、狭いバスルームに響く亜美の嗚咽は、俺の胸をえぐっていく。

―――こんなにボロボロに傷ついてまで、亜美、お前は一体何を守ろうとしたんだ……。

涙を堪えて天井を仰ぎ、答えの分っている問いを、俺は何度も何度も、繰り返していた。





92 98VM  ◆/8XdRnPcqA sage 2010/02/16(火) 23:21:51 ID:jJS6+Q48
本日はここまで。
ご支援、有難うございました。
途中、文字数が多すぎて書き込めなかったため、段落割を急遽変更しました。 その関係から1レス増えて19レスとなりました。
当然最終的なレス数も66になるかと思います。不手際申し訳ないです。
明日もふえちゃったりして…ムズカシイ。
続きます。 また明日〜♪


69 98VM ◆/8XdRnPcqA sage 2010/02/16(火) 22:53:07 ID:jJS6+Q48

こんばんは、こんにちは。 98VMです。

それでは二日目です。
忘れている方、ご存じ無い方もいるかもしれませんが、98VMは鬱作家です。
伏線は張っておいたものの、鬱展開があります。 
肌に合わない方も多いと思いますが、こうなっちゃいました。 申し訳ないです。

前提: とらドラ!P 亜美ルート90%エンド、ローマの祝日シリーズ
題名: プリマヴェーラ (ローマの平日5)
エロ: 実行不能。
登場人物: 竜児、亜美
ジャンル: 世界の車○から。
分量: 18レス



【田村くん】竹宮ゆゆこ 29皿目【とらドラ!】
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