web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki


黒染めが施された鉄の地肌を指先で撫で回す。
その指先には、ざらざらした、ささくれたような感触と、鉄板の厚みにムラがあることを示す細かな凹凸が伝わってくる。
モスグリーンのポロに細身のベージュのチノを着た長身の男は、溶接工が着用するような丸いミラーレンズの
サングラスをデコに押しやり、指先で触診していた物体に、三白眼の鋭い眼光を浴びせ、文字通り、じろじろと、
観察する。

「どんな具合?」

三白眼の男に比べて、ちょっとだけ背が低い連れの女が、腰の後ろに両手を組み、背伸びするようにして男の顔を
覗き込む。しかし、その口調は、痺れを切らしたかのように、退屈そうで平板だ。女は、長い髪を三つ編みにして、
贅肉がなさそうなスレンダーな体型にボートネックで横ストライプのシャツと、白に近い薄いグレーのコットンパンツを
着こなし、これまた男と同様、丸いミラーレンズのサングラスで顔面をプロテクトしている。

男は、「はぁ〜っ…」と、嘆息して、先ほどまで触覚と視覚でチェックしていた物体を、棚のフックに元通りに掛けた。
鉄板をパラボラアンテナのように丸く成形し、そこに鉄パイプの柄を電気溶接したそれは、片手持ちの中華鍋。
鉄パイプの一端には、お世辞にも精度が良いとは言えない穴が開いていて、この穴にフック等を通して吊り下げる
ようになっている。その柄には「MadeinChina」の所々がかすれた不明瞭な刻印。

「いや、ダメだ…」

「そう…」

男の言葉に、連れの女は、一瞬、眉間をひそませて、サングラス越しに困惑とも落胆ともつかない感情を垣間見せた。

開け放たれた店の出入り口からは、梅雨を思わせる湿っぽい空気と、路地の喧騒と、日本人には嗅ぎ慣れない
香辛料とも調味料ともつかない奇妙な匂いが無遠慮に流れ込んでくる。
日曜日であるせいか、大きな通りにも路地にも観光客が溢れ、昼下がりをとうに過ぎたにもかかわらず、あちらこちら
の飲食店の前には、行列ができていた。
横浜中華街、その一角にある調理器具等を売る雑貨店で、高須竜児は川嶋亜美を伴って、中華鍋をあれこれ吟味し
ていた。

竜児は、もう一度、深く嘆息し、

「使って使えねぇことはないが、品質に値段が折り合わねぇ。どの鍋も鍋本体の鉄板の厚みにムラがありすぎるし、
柄の溶接も雑だ。俺の美意識とも相容れねぇな…」

さらには、三白眼をギラつかせて不満を顕わにする。雑貨店に居合わせた何人かの客が、気の毒にも、その破壊力の
ある眼光に曝され、ある者は手にしていたバッグを取り落とし、ある者は目を丸くしてその場に立ちすくんで恐怖した。

「高須くん、眼鏡! 眼鏡!」

亜美が、竜児の袖を引っ張ってたしなめると、竜児は、「お、おう…」と応じて、デコに押しやっていたサングラスを掛け
直した。

「あんたは、ただでさえ一般人にとって極悪なツラをしてるんだから、それが怒ったりしたら、目も当てられない。
それをもっと自覚しなきゃダメじゃん!」

竜児が、「極悪とは、ずいぶんな…」、と言い返すいとまも与えずに、
亜美は、「そのために今日はサングラスを渡したんだからね!」と、舌打ちしながら竜児を一喝して、

その頬をつねるように左手の指先で引っ張った。

「いてて、川嶋、分かった、分かったから…」

「取り敢えず、ここから出ましょ」

その言葉を受けて、竜児が店の外に向かおうとすると、先ほど、竜児の眼光に曝された者たちが、後ずさりをするように
道をあける。竜児と亜美は、ちょっとバツが悪そうに、そのあけられたスペースを進んで、店の外に出る。
薄暗かった雑貨店内から路地に出ると、その路地にも観光客があふれ、往来もままならない。
視線を上に移すと、赤や金を多用した中国語のケバケバしい看板や広告が無秩序に林立し、さらに視線を上に移すと、
どんよりとした曇り空が広がっていた。

「さっきまで、薄日が射していたのに…」

亜美が、サングラスの弦の付け根を持ち、顔面に押し付けるようにして、その位置を正しながら、灰色の空を見上げて
不平を漏らす。
湿気を帯びているのに、埃臭くて、いがらっぽい、雑踏特有の空気も、亜美と竜児の気持ちを萎えさせる。

「ここまではまずまず順調だったが、肝心の鍋の買い物でケチが付いちまった。天気まで、俺たちに難癖をつけている
ような気がするな」

「ここに来たのは間違いだった、とでも言うの?」

亜美はサングラス越しに、一瞬、竜児に咎めるような目線を送ったが、すぐにその目線を和らげ、
「でも、あたしも同感だわ…」と、呟いて、竜児の左手に自らの右手を絡ませた。


***
発端は、麻耶と北村のデート作戦での弁当作りだった。
その弁当を重箱に詰めているときに、竜児は、中華鍋を浅草の近くにあるプロの調理人御用達の什器、調理器具の
専門店街の合羽橋で購入するつもりであることを亜美に告げ、『よかったら一緒に行くか?』と、誘ったのだ。

その時、亜美は、わざと眉をしかめて、『それ、デートのお誘い?』と言い、
竜児は、『まぁな…』と、照れたように少し笑ってみせた。

対する亜美は、『え〜っ、どうせなら横浜の中華街で買おうよ。そっちの方がデートらしいって』と、竜児の提案を一蹴。
竜児は、竜児で、
『中華街なんてのは、観光地だから、多分、ロクな商品がないんじゃないか? やっぱ、行くなら合羽橋なんだが…』と、
一応の抵抗は試みたが、結局、亜美に押し切られる形で、横浜中華街で購入することになってしまった。

『浅草も悪くはないけどぉ、ちょっと地味っていうかぁ、若者の嗜好に合わないっていうかぁ、それに大学からそんなに
離れていないから、行こうと思えばいつだって、ほら、土曜日に高須くんが線形代数学の聴講を終えた後でもいいんだ
からぁ、ぜ〜ん、ぜ〜ん、ありがたみがないっていうかぁ、…、とにかくぅ、亜美ちゃんの趣味に合わないから、却下!!』

ぐだぐだと、身勝手な理由を竜児に聞かせた挙句、亜美は、きっぱりと『却下』。
たしかに、地味でジジババ好みの浅草なんかよりも、エキゾチックな雰囲気がありそうな横浜の方が、デートには向い
ているわけで、ましてや、亜美にとって、竜児との初のデートともなれば、なおさらではあるのだが。

そう、竜児と亜美にとっては、今回のこの横浜行きが初のデートなのだ。

過去においては、亜美の別荘へ行ったりもしたが、竜児と亜美との二人きりで、どこかに出かけたという経験は
皆無だった。

しかも、竜児にとって、亜美とのデートは、中華鍋購入のついでといったものであったが、亜美にとっては、デートこそが
唯一無二の目的であった。
そのロケーション、シチュエーションに固執するのは、むべなるかな、である。

そして、デートの当日。
大橋駅の改札口に、前述のような姿で現れた竜児を、亜美は、頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと、吟味するよう
に観察し、「祐作よりは、多少は、マシな感じかしら…」と、にべもない。
そりゃあ、川嶋亜美は元モデル。服飾に関するセンスは、一般人とはかけ離れている。
さらには、亜美の両親は、長者番付に載るような、いわゆるセレブだ。ブランド品以外の物は身に着けない、と言っても
過言ではない。この日、亜美が着こなしているボートネックのシャッツも、細身のコットンパンツも、おそらくは、一般人が
思う以上に値の張る代物であるに違いなかった。
そんな奴に褒められるような服装なぞ、一般人の、それも母子家庭の竜児にできるわけがない。
したがって、竜児は、自分の服装にあれこれケチをつけてくる亜美に対しては、賛意も反感も示さずに、生暖かく見守る
ことを常にしている。
これが、足掛け三年になろうとする亜美との付き合い方の定番となっていた。

亜美は、「まぁこんなものかな?」といった意思表示のつもりのため息を漏らすと、あらためて竜児に向き直り、
サングラスを手渡した。サングラスは、真ん丸のレンズが黒ぶちのフレームにはめ込まれており、レンズは黒っぽい
ミラーになっている。これなら着用者の目元を完全に隠蔽することができるだろう。

「これを掛けてちょうだい。もう、言うまでもないかもしれないけれど、このサングラスは、あんたの攻撃的な眼力を封印
しておくためのもの。デート中、周囲の人にあたしたちが避けられたら、気分悪いじゃない? だから、今日は、基本的
にこのサングラスを外さないこと」

−目がマジだ。ということに竜児は気づく。口調も、本人が未だにチャームポイントだと思い込んでいるぶりっこのそれで
はなく、『とにかく掛けて』といった、何がしかの強制力とも拘束力ともつかない圧迫感があった。
−こいつにしては、珍しいな。と、竜児は思う。

亜美は、竜児に手渡したものと同様のサングラスを掛けた。整った面相の一部分が、いわゆる丸眼鏡で隠蔽される。
その丸いレンズ部分の形状故か、着用すると亜美の美貌が若干は損なわれるようだが、それと引きかえに、ある種の
ミステリアスで知性的な印象が付加される。

竜児は、亜美から手渡されたサングラスをじっと見る。弦の部分には『OAKLEY』というブランド名が記されていた。
たしか、スポーツの分野で評価が高いブランドだが、このブランドに丸眼鏡のようなモデルが存在していることを竜児
は知らなかった。黒いフレームもレンズも加工精度がすこぶるよさそうで、おそらくは高価な代物なのであろう。
どのくらいしたんだろうか、という疑問を亜美にぶつけても、それはほとんどの場合、意味をなさない。
そのような時、亜美は、『たいしたものじゃないのよ』と言って意味もなく微笑するか、不機嫌そうに沈黙するか、
のいずれかでしかないからだ。

「う〜わぁ、真っ黒なミラーで、外からは目元が全然わかんね〜だろうな」

値段のことを訊くかわりに、手にしたサングラスの第一印象をコメントした。

「だからいいのよ、さっさと掛けてみてよ」

亜美に促されるように、竜児は、そのサングラスを着用した。

亜美が、その竜児を見て、「結構、似合うじゃない」と言う。その言葉を疑うわけではなかったが、気になった竜児は、
駅に備え付けの鏡で自分の顔を確認した。
たしかに、サングラスを着用した方が、ギラつく魔眼が隠蔽され、柔和な印象を第三者に与えるような感じだ。
正直なところ、「悪くないかも」と、竜児も思う。

亜美は、鏡を見ていた竜児に背後から近づき、その左肩にすり寄って、竜児の耳元に吐息を吹きかけるように囁く。

「ほ〜ら、高須くん、目元隠すと結構イケメンなんだよね。自分でも見とれちゃった?」

さらに、亜美は、「でも…」と前置きしてから、

「あたしは、高須くんの鋭い目付きは悪くないと思うんだけれどぉ、愚民どもは、その魅力がわっかんないからね〜ぇ。
だからあたしとお揃いのサングラスで隠しておいて、あたしだけが独占させてもらおうと思ってるの〜ぉ」

と、笑う。

「うふふ、高須くんと、お・そ・ろ・い〜」

サングラスの弦の部分に右手を添えて、亜美はいつものぶりっこ口調を復活させた。その悪ふざけとも、のろけともつ
かないアクションは、いつも以上にハイテンション。竜児も、川嶋は今回のデートを徹底的に楽しむつもりでいるんだな、
と、思ってみたりもする。ま、油断はできないのだが…。


電車に乗って、桜木町駅下車。まずは横浜ランドマークタワーを目指し、その69階にある、日本一高いとされる展望台
フロア「スカイガーデン」に高速エレベーターで上る。
その際の急激な気圧変化に、「亜美ちゃん、耳が痛ぁ〜い」と、亜美は竜児に不快感を訴える。

「耳抜きをするんだよ。ほらこうやって…」

竜児は、自分の鼻をつまんで、顎を左右に動かしながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
その姿が、亜美にとっては滑稽だったのか、「た、高須くん、ちょ、ちょ〜変な顔ぉ!」とか言って、竜児の顔を指さして
笑う。

「うるせぇよ…」

顔のことで笑われるのは毎度のことだが、それにしても慣れないものだ。竜児は、黒眼鏡の下で目元を引きつらせて
亜美の理不尽な嘲笑に耐えていた。それにしても、この女、素なのか演技なのか、本当に、ころころと笑い転げる。

「ほらぁ、高須くん、す・ね・な・い」

笑ったことが結果的に耳抜きになったのか、亜美は、もう不快感は訴えずに、竜児の手を引いて、展望台の窓際に向
かう。その窓から広がるのは、地上272mからの圧倒的な景観。その迫力に竜児も亜美も、思わず歓声をあげる。

「すっごいねぇ〜、クルマも船もあんなに小っちゃく見える。遠くには…、う〜ん、ちょっと湿気ってて、遠くの山が
見えないのがナニだけど、これはこれで、いいや」

晴天ではあるのだが、梅雨時を控えた季節だったため、視程はイマイチすぐれない。
本来ならば、空気が澄む真冬あたりに訪れるといいのかもしれない。しかし、高度272mは伊達ではなかった。


「地上が、精密なジオラマみたいだよな」

眼下に広がる、規則正しい街並みは、模型雑誌に出てくる超精密なジオラマを彷彿とさせる。
竜児はプラモデルのような模型は作らないが、立ち読み等で模型雑誌を眺めるのは、嫌いではなかった。
仮に家事をする必要がなかったならば、案外、模型作りにはまっていたのかもしれない。
ただ、亜美の嗜好とは相容れなかったようなのだが…。

「ジオラマ? 何、それ」

「縮尺模型展示のことだよ。ほら、ガンダムとかのプラモデルを、その背景と一緒に精巧に作った奴なんかが
そうだって」

「いわゆるガンプラぁ? 高須くん、くっら〜い。それにこれは模型なんかじゃなくて、本物なんだしぃ」

竜児の鼻の頭を、「お・ば・か・さ・ん」の発声に合わせて、指先でちょんちょんと突つき、クリアなグロスを塗った唇を、
「ニッ」と、微笑するように歪めるのだ。
その媚態とも悪戯ともつかない亜美の言動に、竜児は気勢を削がれ、「お、おう」という気抜けした生返事で応じるの
が精一杯。
−ジオラマには、建築模型やドールハウスだって含まれるんだぞ。
という反論は飲み込むことにした。言えば、もっと「暗い奴」と笑われるのがオチだろう。
最初のデートに、ヲタっぽい暗い話はNG! センスのなさそうな話題もNG! 亜美の媚態とも悪戯ともつかない言動
には、そうした遮断効がビシビシと効いていた。

「ねぇ、今度は、あれに乗ろうよ」

亜美の指さす先には、巨大な、と言っても、地上272mの展望台からでは眼下に存在している観覧車があった。観覧
車部分の外周直径が100mに達する「コスモクロック21」だ。

「観覧車ってのは、デートの締めに乗るようなもんじゃねぇのか? つか、まだ序盤だろうが」

竜児はサングラスの位置を正しながら、困惑したように眼下の観覧車を見た。
亜美は、くっくっくっ…、と小鳩が鳴くように笑いながら、竜児の頬を人差し指で軽く突く。

「高須くぅ〜ん、亜美ちゃんは、楽しみを後回しにしたくなんかないのぉ〜。観覧車を後回しにしたら、中華鍋とか、
いろんなものを買い込んだ後の話でしょう? 荷物をいっぱい抱えたまま観覧車に乗るなんてぇ〜、亜美ちゃん、
格好悪くて、いやぁ〜ん」

「でも、締めの方が、感動するんじゃねぇのか? 後回しでもいいじゃねぇか。荷物はコインロッカーとかに預けておけば
いいんだしさ。どうでもいいけど、俺をおもちゃにするのは止め…」

その応答に、亜美は、竜児の頬を、ぐいっ! と強く突つくことで、却下の意思を明示した。

「高須くんの魂胆なんて、亜美ちゃんはお見通し。どうせ、後半の中華街や元町でのショッピングで、荷物がたくさんに
なったから、このまま石川町の駅から帰ろうとか言い出すに決まってるんだから。そうして観覧車は、結局、おあずけっ
ていうことにするつもり。そうか、高須くんは、この亜美ちゃんと閉鎖された空間に閉じ込められるのがイヤなんでしょ?
ねぇ、閉所と暗所を死ぬほど怖がる高須くん」

語尾も伸ばさず不機嫌そうに言い切ると、竜児の頬から指を離し、「高須くん、本当に冷たい奴なんだ…」
と吐き捨てて、ぷいっとばかりにそっぽを向く。


「お、おい、川嶋…」

竜児は、軽い痛みを感じる頬を押さえながら、ちょっと狼狽して、三つ編みにした髪から覗く亜美の白いうなじを
注視する。
気まずい沈黙が3秒、5秒、10秒、20秒…。
そのうなじが、急に小刻みに揺れ、聞こえてくるのは亜美の鈴を転がすような笑い声。

「あはは、高須くんって、結構、しょ〜もない奴だよね。口では硬派ぶっているけれど、女の子が不機嫌だったり、
泣きそうになったりすると、それだけでオロオロしちゃってぇ。かわいい奴だよ、あんたはぁ」

しかも、亜美は「ぺっ」と、舌を出し、

「まぁ、あたしにとってはコントロールしやすいからぁ、ありがたいけどねぇ」

と、小馬鹿にしたように言うのだ。
サングラスで分からないが、おそらくは琥珀色の瞳を、ちょっと邪険そうに眇めているに違いない。

−こいつは、こうした悪ふざけが過ぎるから、俺への好意がうまく伝わらなかったのに、懲りねぇ奴だ。
と、竜児は嘆息する。
もう分かっているし、慣れているつもりなのだが、亜美の素直じゃない反応にはいつもながら振り回される。
もう、怒る気力も湧いてこない。デートの序盤戦で、竜児は早くも何とも言えない疲労感を覚えてきた。
亜美は、そんな竜児の気持ちを知ってか知らずか、「ほら〜、高須くん、観覧車行くよぉ〜」などとはしゃいでいる。
相手、特に竜児を翻弄することが、無上の楽しみなんじゃないかと勘ぐりたくなる女、それが川嶋亜美だ。


観覧車「コスモクロック21」でも、亜美は積極的だった。「ほらぁ、高須くん、早く、早く」と、竜児を急かして、順番待ちの
列に並び、ゴンドラに乗り込む際も、竜児の手を引っ張って先導した。
「コスモクロック21」は、人気のデートスポットということもあってか、いつもは長い行列ができるのだが、午前中の早い
時間だったことが幸いし、ほんの数分間待っただけで乗ることができた。
ゴンドラに乗り込んだ亜美は、

「やっぱ、後回しにしなくて正解だったじゃん」

得意そうに胸を反らして、サングラスを外した。スレンダーなボディには不釣り合いにも思える豊かな乳房が、「ぷるん」
と揺れたように感じ、竜児はちょっと動揺する。
そんな竜児の態度を極悪チワワは見逃さない。
両腕を後頭部の辺りで組んで、さらに胸のラインを強調。
そのポーズのまま、上体を左右に振って、意外に量感がある乳房を、ゆさゆさと揺らす。

「お前、恥ずかしくないのかよ…」

竜児が呆れたように言っても、亜美のセクシーポーズは止まらない。「別にぃ〜」と、物憂げに語尾を伸ばした返事を、
企みごとがありそうに瞳を眇めて、寄こしてくる。

「第一、このゴンドラに居るのは、あたしと高須くんだけじゃない。高須くんには、水着を含めて、あたしのきわどい格好
を散々見せてきているからぁ、あたしは、別に恥ずかしくもなんともないんだけどぉ〜」

薄着で、さらにはボディラインにフィットした服のせいで、いつにも増して亜美の肢体がなまめかしい。密閉された狭い
空間で香る亜美が常用しているトワレも、いつもよりも竜児の理性を翻弄する。もしかしたら、トワレに隠れた亜美自身
の体臭が竜児を惑わしているのかも知れなかった。やはり、観覧車のゴンドラは男女にとって魔空間だ。

「お前の姿を見慣れている俺一人に、そんなことしたって意味がねぇだろ。いい加減、落ち着いて、
大人しく座っていたらどうなんだ」

口ではそうだが、亜美のいつになく妖艶な肢体が気になってしかたがない。そんな竜児の気持ちを見抜いているのか、
亜美は、セクシーな流し目とも、底意地の悪さを含んだ眇ともつかない目線で竜児を見据えたまま、バストラインを
強調するポーズを一向にやめない。

「高須くんて、バカ? 完璧プロポーションの亜美ちゃんが、高須くんのためだけに、こうしてセクシーポーズをきめて
あげてるのぉ、ちょっとは、ありがたく思いなさいよぉ〜」

そうして、竜児に対して、うふふ、という淡い笑みで挑発する。
その笑みには、万事が紳士的な竜児では、指をくわえて亜美の肢体を眺めるのが精々であって、決して手を出して
こないという確信と、とかく恋愛や性愛に関して奥手な竜児に対する侮蔑のサインが見え隠れしていた。
それにしても、亜美の『完璧プロポーション』の文言は伊達ではなかった。竜児は、高二の時に、亜美が水着を購入
するのに立ち会ったことを思い出した。贅肉がないくせに、出るべきところが明白に主張しているプロポーション。
目の前の今の亜美は、当時の姿そのままであると言ってよい。
おそらくは、モデルをやめても、なおシェイプアップの努力を怠っていないのであろう。
その点は、竜児も素直に敬服せざるを得ない。

後頭部に組んでいる腕を時折上下させながら、竜児にバストラインを晒している亜美の表情が陶然としてきた。
元モデルということもあってか、『見られる』ということ自体にも快感を覚えているのかも知れない。

「ねぇ、高須く〜ん、見ているだけじゃつまんないでしょう? ねぇ、どう、触ってみない? 今なら、特別大サービスぅ!
でも、ざぁ〜んねん、ヤンキー顔なのに紳士的な高須くんは、亜美ちゃんには手を出せないのでしたぁ。
あ〜ん、亜美ちゃん、欲求不満で、かわいそう」

好き放題なことを言いながら、くねくねと、なまめかしく身をよじる。
ちらり、と送ってくる嫌みたっぷりな流し目には、『ほれほれ、どうだ? 覚悟して拝めよ、この朴念仁。手を出したくとも、
根性なしの、あんたではどうしようもあるまい、あはははは…』という、毒のあるメッセージが盛り込まれているか
のようだ。

−川嶋め、調子に乗りやがって…。
先ほどの横浜ランドマークタワー展望台での、ぺろっ、と舌を出して、『まぁ、あたしにとってはコントロールしやすい
からぁ、ありがたいけどねぇ』と、竜児を舐めきった亜美の態度が脳裏によぎる。
しかも、今なお、亜美は、乳房を突き出すようなポーズで、竜児を小馬鹿にしているのだ。

「ねぇ〜ん、た・か・す・く・ん、亜美ちゃん、おっぱい触ってほしいのぉ〜、でも、だめぇ? 亜美ちゃん、つまんな〜い」

口ではそうでも、竜児に乳房を揉まれることを本当に望んでいるわけではないだろう。
ただ、竜児を翻弄し、このデートでの主導権を握り続けるためのものなのだ。それも、竜児が絶対に手を出してこない、
という確信めいたものが亜美にあるからに相違ない。

その竜児をあまりに舐めた態度が、竜児に亜美への逆襲を決意させた。
−そうか、そうか、触ってほしいのか。そうか、そうか、揉んでほしいのか…。
相手を見くびった輩は、己れの行為が、いかなる結果を招くかを身をもって知るべきなのだ。
それは、亜美とて例外ではない。


「ごくり」と、生唾飲み込んで、覚悟を決めた竜児は、亜美が目をつぶりポーズを変えようとしている隙を狙って、
その乳房を正面から鷲掴みにした。
マシュマロのような、餅のような、弾力性と柔軟性に富んだ感触が、まずは竜児の左右の掌に感じられた。
そして、てっぺんには、薄手のブラジャー越しに感じられた、固く突き出た一対の乳首。

「え?」

想定外の竜児の反撃に、亜美は一瞬言葉を失って、口をぽかんと開けたまま。自身の乳房を揉みしだく竜児を、
大きな瞳を見開いて呆然と見つめている。

「ほれ、ほれ、ほれ…、どうだぁ、川嶋ぁ!」

一方で、一線を越えてしまった竜児には、もはや遠慮も躊躇もない。華奢な体に不似合いな量感あふれる乳房を、
寄せて、上げて、下げて、突いて、とばかりに揉みまくる。

「きゃあああああ!! 高須くん、何するのよぉ!!!」

ようやく我に返った亜美は悲鳴を上げ、迫る竜児の顔や胸を、両の拳で、どかどか叩いて抵抗する。しかし、勢いづいた
竜児の攻撃は止まらない。

「どうだぁ、川嶋ぁ、念願かなって胸を揉まれる気分は? 気持ちいいかぁ!」

「い、いいわけないでしょう、この変態ぃ! もう、高須くんのバカァ〜〜!!」

「じゃ、気持ちよくなるようにしてやるよ!」

「痛い、いたぁ〜いよぅ、気持ちよくなんかない、気持ちよくなんかならないよぅ…」

ぐにぐに、と乳房を揉む竜児の手荒い愛撫が堪えたのか、いつしか亜美は殴打による抵抗を止め、はぁ、はぁ、と苦しく
も悩ましげな吐息をついて、脱力する。

竜児は、トドメとばかりに、ブラの上から両の乳首の辺りを親指と人差し指と中指できっちり摘み、ぐい、とばかりに軽く
引っ張って、亜美への初の逆襲を完了した。
してやったりの竜児は、亜美に殴られて顔面からずれたサングラスを外し、眼鏡拭きと同じ素材でできた専用の袋に
しまい込む。さすがは一流のスポーツグラス。亜美の殴打程度ではびくともしない。
−でも、なんか川嶋のパンチはいまいち威力がなかったような…。
という疑念はあるにはあるのだが…。

「あ、あ、あぁ…」

亜美はというと、吐息のようなか細い一声を発するも、あまりのことに茫然自失。糸の切れたマリオネットのように、
力なく竜児と対面のシートに座り込む。「これでもか」とばかりに大きく真ん丸に見開かれた双眸からは、一筋の涙。

「ふ、ふぇえええ〜ん!!」

次の瞬間、左手で竜児に揉まれた乳房を、右手で顔面を覆って、大きな声で泣き崩れる。
さすがに竜児もやりすぎたと思ったが、ここは、心を鬼にして、亜美に対して締めの台詞を突きつける。


「お、おい川嶋。お前から迫って来たんじゃねぇか。それを本当に乳揉まれただけでパニックになるのは、お前、覚悟が足りねえんじゃねぇか?」

「うるさい!! この、鬼畜、ど変態、レイプ魔!! 誰が、あんな乱暴に揉めっつーた!! 痛かったんだよ、バカ!!」

亜美は、泣き伏しならも、本性丸出し、やさぐれ全開で竜児に悪態を吐く。

「な、なぁ、じゃあ、乱暴でなきゃ、乳揉んでもいいんだよな?」

「ばかぁ!! このドスケベ!! 今は、そんな雰囲気じゃねーだろ、空気読めよ!!」

亜美は、それだけ泣き叫ぶと、うつむいて肩を震わせた。
さしもの竜児も、バツが悪い。泣いている女の子をどうやってケアしたらいいか、皆目見当がつかず、所在なくゴンドラ
の外に視線を移す。
それでも、一応の気遣いはしてみることにした。

「な、なぁ、川嶋…。その何だ、まぁ、お前が目をつぶっている隙を狙って、乳を揉んだのは、たしかにフェアじゃねぇよな。
う、う〜んと、まぁ、とにかく俺が悪かった。この通り謝るから、機嫌を直してくれねぇか…。たのむよ…」

しかし、亜美は、うつむいて肩を震わせるのみで、竜児の問いかけにも謝罪にも反応がない。
展望台の時とは比べものにならないくらい気まずい時間が流れる。ゴトゴトという観覧車のメカニカルなノイズが、
今はかえってありがたい。

−もうこれで、今日のデートは終わりだな。それにしても川嶋との関係をどうやって修復するか…。くそ、やりすぎたんだ。
それにしても後味が悪い…。
と、竜児が思っていた矢先、

「ねぇ…」

唐突に亜美が、うつむいたままの姿勢で、低い声で呟くように言った。

「どうした? 川嶋」

「あんたの揉み方が乱暴だったのは確かだけど、あたしの方にも覚悟が足りなかったのも事実…」

ぶりっこの明るい口調はどこへやら、本性丸出しのときのドスの利いた声でもなく、その口調はか細くて弱々しく、
聞く者を鬱にさせる。

「だから、あたしも覚悟を決めた」

「お、おう…。だがなぁ、お前の言う覚悟って、何なんだ?」

「……」

その囁くようなメッセージは、あまりにささやかで、竜児には聞き取れなかった。

「すまねぇ、川嶋。よく聞き取れなかった。もう一度、頼む」

「…しよう…」


−『しよう』? 『しよう』って何だ?
竜児は、そこに淫靡なニュアンスを連想し、動揺する。

「もう、キスだけじゃイヤ。…しよう…」

−うわぁー、いきなりそれか? 『しよう』ってのは、やっぱアレなのか?

「ねぇ、したくないの…? 高須くんが、いまさらしたくないって言っても、あたしは、したくて、したくて、どうしようも
ないの…」

再び、低く呟いて、亜美は、うつむいていた顔を上げ、能面のように生気のない表情を竜児に向けてくる。

−言ってることはエロスだが、この状況じゃ、ほとんどホラーだな。
その冷たい作り物のような面立ちに、竜児は一瞬、ぞくっとした。美しいと表現できなくもないが、それ以前に、見る者
の心胆を寒からしめる、虚無の圧迫感と言うべきか。
−雪女とやるってのは、こんな心境かもしれねぇな…。
何よりもここで拒めば、亜美との関係がどうかなるかということよりも、竜児が末代まで祟られそうな雰囲気がする。
−それに、これまでの成り行きを考えれば、いずれ川嶋とは、やることになるんだろうな…。
亜美との関係を竜児が期待していないと言うと、それは嘘になる。それどころか、竜児自身も、時々は亜美の裸身を
夢想することがある。根は真面目でも、性欲は人並み程度には備えているのだ。

「わ、分かった、川嶋。お前の言う通りにする。か、川嶋がしたいって言うのならつき合うぞ。で、どこでやる?
ホテルなのか? それとも、今でなかったら川嶋の別荘とか、なのか?」

亜美の尋常でない雰囲気に気圧されたこともあって、竜児は、亜美に承諾の旨を伝えた。一方の亜美はというと、
その反応は醒めたものだった。

「そう…、高須くんもしてくれるの…。でも、本当にホテルとか別荘とかで、してくれるの? 本当にホテルとか別荘とか
でいいの? ホテルとか別荘とか…で、いいんだよね?」

『ホテル』『別荘』のフレーズに異常に固執する亜美を見て、なんだか風向きがおかしい、と竜児は感じた。
だが、『分かった、川嶋。お前の言う通りにする』と言っていた手前、引っ込みがつかなくなり、

「お、おう」

と、だけ消極的に応答した。
亜美は、竜児の応答を聞き届けると、再びうつむいて両肩を小刻みに震わせた。

「そう、してくれるの。高須くんも…」

そう前置きして、面を上げる。そこにあるのは、能面のように生気のない表情ではなく、大きな瞳を悪意で眇め、
底意地悪そうに唇の端をひきつらせた、亜美の本性丸出しの顔だった。
そして、嫌味にもぶりっこ丸出しの口調で、

「あ〜ん、亜美ちゃん、超、超、超うれし〜い。高須くんも、亜美ちゃんと一緒にしてくれるなんてぇ。でもぉ〜、ホテルとか、
別荘とかってのは、ちょ〜っと場所的に違うんじゃないかしらぁ。何せ、あたしが『しよう』っていうのはぁ〜、
弁理士試験の受験勉強なんだからぁ〜」


そう言い放って、間髪入れず、「きゃはははははは」という甲高い哄笑。

「やーだもう、高須くん、何を期待していたのかしら。ホテル? 別荘? やっだぁ〜、もう下心見え見え。
もう、本当にいやらしいんだからぁ〜」

あまりの急展開に竜児は思考が追いつかず、

「な、な、な、何なんだ!?」

という間抜けな一言の後、

「う、うるせぇ。お前が、紛らわしいこと言うからだ!!」

と、辛うじて言い返したのみ。
こんな竜児の精一杯のコメントも、亜美には当然のように効力がなく、亜美は腹を抱え、身をよじりながら、
「ひ〜、ひ〜」と、笑い続けている。

「あははは、高須くんがあたしを手玉に取ろうなんて十年早いってぇ! でも、高須くんって、こういったエッチなことって
興味ないかもぉ〜、って亜美ちゃん実は心配だったんだよぉ〜。でも、高須くんも、人並みに健全でエッチな男の子だっ
たってわけだねぇ。それが立証できただけでも、まぁ、よかったんじゃなぁい?」

亜美は目尻に溜まっていた涙をハンカチで拭いながら、なおも「あははは」と笑う。

「お前、人をおちょくるのも大概にしろ。温厚な俺だから何ともないが、普通の奴ならキレていたぞ」

亜美の悪戯に引っかかったのは、これで今日は二度め。
その怒りよりも、自身が、からかわれやすい、騙されやすい存在であることに、竜児は自身に軽い失望感を覚える。
それにしても、感情を完璧に封じ込めた能面のような無表情。つくづく、この女は一筋縄ではいかないな、と思う。

「ごめん、ごめん、あたしも高須くんをからかい過ぎたってのは認めるわ。高須くんがあたしの胸を揉んだのは想定外
だったから、ちょっとすねてみせただけ。でもぉ…」

「でも? 何だ?」

「高須くんが、おっぱい鷲掴みにしたとき、ものすごくびっくりしたけれど、同時に、ものすごく興奮したのも事実。
『ああ、男の人に抱かれるのって、こういうことなのかなぁ』って思っちゃった」

亜美は、頬をわずかに赤らめて、心持ちうっとりとした表情をしている。『興奮した』というのは、本心なのかもしれない。
同時に、竜児は、胸を揉まれている最中の亜美の殴打が、意外に大したことなかったことを思い出して、はっとする。

「お前まさか…」

「まさかって?」

「俺に一方的にやられているように見せかけていたのか?」

亜美は、「うっ」と、一瞬つまった後、笑ったような、困ったような表情で、「う〜〜ん」と、しばらく呻吟した。
そのことまでは竜児には知られたくなかったらしい。


「そ、そういうことになるかしらぁ…」

「あの号泣も、真っ赤な嘘か?」

「う、うん、嘘泣き…。亜美ちゃんの迫真の演技…」

「じゃ、乳揉まれた後の、やさぐれた黒本性丸出しも、あれも演技か?」

「う、う…ん、あれも、ちょ、ちょっとしたお芝居ぃ…」

竜児をコケにしすぎたことを反省しているのか、ちょっと語尾が震えている。

「お前、やりすぎだよ。そういうの傷つくんだぞ…。特に俺みたいな単純な奴は」

竜児は、「やられた…」と、呟き、がっくりと両肩を落として嘆息する。
何もかも、亜美の掌の中でのこと。腹黒で狡猾な亜美には、こうした駆け引きでは勝てそうもないことを
竜児は思い知る。
−それにしても、なんて女だ。

「ごめん。やっぱりあたしって、腹の中真っ黒な子。どうしてだろう、高須くんのことが好きなのに、ついつい、
いたずらしたくなっちゃう。高須くんに嫌われるかもしれないって、思っていながら、意地悪しちゃう。
これって、もう、病気かな?」

「病気じゃない…。先天的なもんじゃねぇのか? 素で黒いんだよ、お前は…」

亜美にやられっぱなしで、気持ちがささくれている竜児は、柄にもなく、舌打ちを交えて、苦々しく亜美を詰った。

「そうね、高須くんにそう言われてもしかたがない…。本当にあたしって、先天的に真っ黒なんだろうね…。
でも、どうなの? 高須くんは、こんなあたしは嫌いになった? それとも好きでいてくれる?」

亜美は、そんな竜児に気遣うつもりなのか、潤んだ瞳を竜児向け、今度は両腕で竜児の首筋をやさしく絡め取る。

「お前、この状況で、『好きだ』っていう答えを期待するのは、普通、無理があるぞ」

「そうだね、そうだよね。ごめん…、ちょっと初デートってことで、テンパってたんだ…。本当にあたしって、ダメだ…」

竜児は、首筋に両腕をからめ、あたかもぶら下がるようにして竜児の体にすがっている亜美を見た。あの瞳を眇め、
口元を歪めた、邪険な雰囲気は、今の亜美の表情からは見出せない。その代わり、目を伏せて、不安からか血色を
失って蝋石のように生気のない亜美の面相があった。
さすがに、竜児に対する悪戯が過ぎたことを後悔しているのだろう。

「普通なら、これで二人の関係は、お終いになっちまっても不思議じゃないぜ」

『お終い』というフレーズで、亜美の体がビクッと震えたように、竜児には感じられた。

「だがな、川嶋の本性なんか、この足掛け三年の付き合いで、とうに承知さ。それに対する覚悟もできているつもりだ。
それに人間関係では、相手を赦すことが必要なんだと俺は思っている…」

「赦す?」


「比喩が適切かどうか分からねぇが、人間関係、特に男女の間柄は、そう単純なもんじゃねぇよな? 互いの経験とか
の要素が組合わさった複雑なシステムなんじゃねぇかと思う。複雑なシステムほど、いずれ必ずエラーが生じる。エラー
を防止するよりも、そのエラーをどうやって解消するかがシステムの維持では重要なんだと思う。今回は、俺もお前も、
ちょっとハメを外しすぎて互いの関係に軋轢というエラーが生じかけた。だが、未だ、互いを赦すことでそのエラーを
解消できる段階なんじゃねぇか?」

「高須くんは、あたしを赦せるの?」

竜児は、無言で頷いた。

「今、ここで川嶋を赦せなかったら、俺は、一時の感情で、取り返しのつかねぇものを失うような気がする」

竜児は、うつむいている亜美の頬を、右掌でなでた。相変わらずきめの細かい肌は、竜児の掌の皮膚と融合して
しまいそうなほど、艶やかでなめらかだ。

「なぁに、お前の素で黒いところなんてのは、これまでの付き合いで、いやって言うほど味わってきている。
だから、俺は、その素で黒い本性も含めて、お前のことが好きだ」

「高須くん…」

亜美は、竜児の首筋に絡めていた腕を手繰り寄せるように、竜児の顔に自身の顔を近づける。
その素直で単純な反応に、竜児は、ようやく亜美の地の感情が表出したのではないか、と思った。
一見愛想のよい外面はもちろん、その下に潜む亜美が言うところのどす黒い『本性』も、亜美が本来持ち合わせている
先天的なものではなく、本来の性格ではないのかもしれない。
ファイアウォールのように二重にも、三重にも、施されていた亜美の偽りの性格が全て剥げ落ち、今、本当の姿を晒して
いるのかも知れなかった。

亜美は目を閉じて、その唇を竜児の口唇に、そっと合わせる。竜児も目を閉じて、亜美の接吻を受け入れた。
亜美の舌が、竜児の口唇をくぐり抜けてくる。
亜美の大胆な行為に竜児は一瞬たじろいだが、その竜児も、亜美の舌に誘われるように、自身の舌を亜美の口腔に
さし入れる。

二人の舌が、別個の生命を持った生き物のように絡み合う。竜児にとって初めてのディープキス。
互いに呼吸がままならず、息苦しくなる寸前、竜児と亜美は口唇を引き離した。きらり、と一筋の唾液が、
二人の口唇をつないでいる。

亜美は、満足したのか、ちょっと呆けたような上気した表情で、はぁはぁ、と喘いでいる。

「初めてのディープキスなんだよ…」

トロンとした目つきのまま、亜美は、ちょっと呂律怪しく、呟いた。
竜児は、亜美の言う『初めて』は、正直信用ならなかったが、耳まで赤く上気したまま、竜児に力なくもたれている姿を
見て、『そうかもしれない…』とも思った。だが、それ以上は、邪推と心得、竜児は亜美に対する詮索を中断した。

ゴンドラは、四分の三ほどの回転を終え、なおゆっくりと下降しつつあった。

「ねぇ…」


紅潮していた頬の赤みが引いてきた亜美が、竜児の肩にもたれたまま、出し抜けに訊いてきた。

「高須くんが、あたしとエッチしたい、ってのは、高須くんのその場の方便だったとしても、あたし的にはすごく
うれしかった、でも…」

「でも?」

蒸し返されたきわどい話題に、竜児はちょっと警戒する。

「でもね、あたしには高須くんと一つになることに何の迷いもないけれど、高須くんには、未だ何か迷いがあるような
気がするの。確証はないけれど、そんな気がする。だから、今、あたしが高須くんを誘惑しても、それは高須くんに
とっても、あたしにとっても不本意なこと。だから、高須くんの心の迷いが全て解消したら、あたしたち、一つになりましょ」

「お、おう」

竜児は、亜美のあまりに大胆な発言に、気抜けした生返事をするのがやっとだった。
だが、亜美の言う『迷い』とは何だろうか、と竜児は自問自答する。
性愛について万事が奥手な竜児のことを揶揄しているのか、肝心なところで優柔不断な竜児のことを婉曲に非難して
いるのか、それとも未だ櫛枝実乃梨に未練があるように思われているのか、竜児には判然としなかった。

「それと…、弁理士試験の受験勉強のことだけど…」

亜美は、話題を、きわどい話から弁理士試験に切り替えた。

「この前ちょっとだけ話題になった弁理士試験の受験対策のサークルなんだけど、今度の金曜日に勉強会があるから、
一緒に出てみない? メンバーの多くは法学部生だけど、他学部の学生でもOKだって
サークルの主宰者が言ってた…」

「驚いたな、もう、そこまで手を回していたのか」

そうだった、ぶりっこの極悪チワワを装った川嶋亜美は、その実、かなり段取りがよい。
竜児は、高校二年の時の文化祭での亜美のミスコン司会等の有能な働きぶりを思い出した。

「なんでも出来ちゃう高須竜児の相方を努めるには、せめてこの程度でなくっちゃね。あんたに比べたら、ぜ〜ん、ぜん
足りないくらいだよ」

半開きの口元を軽く引き結ぶようにした亜美の面相が、淡い笑みを形成する。

「そういえば、川嶋、お前は何で弁理士試験を受ける気になったんだよ」

亜美は、「それは、高須くんが受験するから、あたしも受けることにしたんだよ」と、うふふ、と笑う。

「そうかな? 何となくだが、別の理由があるような気がするんだが…」

亜美は、竜児の追求を、「どうだろうねぇ…」と、軽くはぐらかした。竜児は、積極的に否定しない亜美の態度から、
何かを推し量ろうと試みたが、結局は具体的なものは何も得られそうもないことに気づき、断念した。

「そう言う高須くんの受験の動機も、あたし的には、すごく気になるんだ…」


「どうして気になる?」

亜美は、もたれかかっている竜児に甘えるように擦り寄って、囁いた。

「直接の動機は、泰子さんに楽をさせてあげたいっていうのだと思うけど、もう一つ、別の理由があるんじゃない?
あたしと同じように」

「そんなこたぁねぇよ…」

亜美は、うふ、と鼻先で笑うように呟いた。

「高須くんは、嘘が下手だから、日頃の言動に本音が透けて見えちゃうの。だから、亜美ちゃんは、高須くんの受験の
動機を大体はお見通し…」

「お前…」と、竜児は言いかけたが、口をつぐんだ。勘が人一倍鋭い亜美のことだ。おそらくは正鵠を射ているのだろう。

「あたしが考えている通りの理由で高須くんが弁理士になろうとしているんだったら、あたしとしてはすごくうれしい。
でも、なんて、古くさくて馬鹿馬鹿しい考えに囚われているんだろう、って気もするの」

ゴンドラが地上に近づいてきた。係員が、竜児と亜美の乗ったゴンドラのドアを開けようと待機している。

「あっと、もう、地上に着いちゃった。高須くんの受験動機を追求するのは、また今度にしましょうか」

そう言って、にっこり笑うと、亜美はサングラスを掛けた。
竜児も、亜美に促されるようにしてサングラスを掛けた。


観覧車を降りた後、竜児と亜美は、横浜赤レンガ倉庫に立ち寄った。
以前、ファッション雑誌の撮影で訪れたことがある亜美は、「ここで、ポーズとって、写真撮ってもらったんだ、たしか…」
と、その時を懐かしむかのように言った。
モデルをやめたときから、モデル業について否定的なコメントを聞かされることが多かっただけに、明るい表情でその
時のことを語る亜美が眩しかった。いろいろあったにせよ、モデルだったということは、亜美にとって、輝かしい人生の
一コマなのだろう。
二人はさらに、重厚な緑青色のドームが特徴の『クイーンの塔』が有名な横浜税関の前を通り、レンガ造りの時計塔
である『ジャックの塔』として名高い横浜開港記念会館、それに『キングの塔』である神奈川県庁本庁舎を見て回った。

「ねぇ、高須くん、この『キング』『クィーン』『ジャック』の三つを『横浜三塔』って言うらしいよ。それで、聞いた話だと、
この三塔を同時に見ることが出来るスポットを全てまわると願いが叶うらしいんだ。そのスポットっていうのは、
今あたしたちが居る神奈川県庁の正面、それとさっき立ち寄った横浜赤レンガ倉庫、もう一つは大さん橋国際客船
ターミナルなんだってさ。ねぇ、せっかくここまで来たんだから、大さん橋にも行ってみようよ」

亜美は、「そんなの単なる都市伝説だろう?」と、懐疑的な竜児の手を引いて、有無をも言わせぬ勢いで、大さん橋へ
と向かう。都市伝説であろうが迷信であろうが、神秘的なものへの欲求は、女の方が男よりも強いようだ。
それが、願い事に関わるものであれば、なおさらである。
竜児は、大さん橋国際客船ターミナルから『横浜三塔』が見える方角へ向いて、何かを願うように瞑目している亜美を
見た。眉間に小じわを寄せて何かを願う姿は真剣そのものではあったが、何を願っているのかは、竜児には皆目
分からない。亜美以外は、まさに神のみぞ知る、であろう。
竜児も、亜美につき合うように、瞑目して願い事をする。この願い事も、竜児以外は、神のみぞ知るである。


その後は、山下公園の木陰で、初夏の日差しを避けながら、ソフトクリームを食べて小休止。
ちょっと元気になったところで、名優チャップリンも乗船した往年の名客船である『日本郵船氷川丸』を見学した。
氷川丸は昭和一桁に建造されただけに、その外観やメカニズムは、昨今の豪華客船に比べれば武骨その物だが、
インテリアは見事という他はない。

「本物のアール・デコ様式のインテリアだな…」

単に美しいというのみならず、文化財としての価値も相当なものだろう。

「高須くんは、インテリア関係も造詣が深いよね。あたしもそっち方面は好きだから、将来、弁理士になれたら、
特許だけじゃなくて、意匠や商標の業務も一緒に頑張ろうよ」

意匠とは、工業デザインであり、商標とは、ブランドを表示するロゴ等である。これらに係る権利の登録等の手続きも
弁理士の守備範囲だ。
例えば、意匠は意匠権として、商標は商標権として、それぞれ弁理士の手によって特許庁に権利を登録するための
手続きがなされる。登録後、その意匠の権利者である意匠権者は、意匠権に基づいて登録意匠を独占排他的に実施
をすることができ、その商標の権利者である商標権者は、商標権に基づいて登録商標を独占排他的に使用をすること
ができるようになる。さらには、勝手に模倣する者に対しては、差止請求や損害賠償請求等の権利行使が可能となる。
その権利行使が可能か否かの法的な判断も弁理士が行う。
この様に、特許以外にも意匠、商標を含めたいわゆる知的所有権全般を扱う士業が弁理士というわけである。

しかしながら、知的所有権の分野における弁理士の社会的なステータスに比例するがごとく、弁理士になるための
試験である弁理士試験のハードルは相当に高い。
雑に言うと、司法試験に次ぐ難しさを有しているのが弁理士試験である。試験は、マークシート方式の『短答式試験』
と呼ばれる一次試験から、法律論文の良否を競わせる『論文試験』と呼ばれる二次試験、さらには口頭試問である
『口述試験』と呼ばれる三次試験まであり、三次試験までクリアしないと合格とは認められない。合格率はわずか5%
である。それどころか、何年たっても一次試験すらクリアできずに受験を断念する者が、山ほどいる。
竜児は、未だ本格的に受験勉強すら始めていないにもかかわらず、夢を語りながら無邪気にはしゃぐ亜美を見て、
『そう簡単に合格する試験じゃねぇんだが…』と言いかけたが、その言葉は、ぐっとこらえて飲み込んだ。
夢を語る者に、厳しい現実を突きつけて、その夢を壊すのは無粋の極みであろうからだ。

さらに竜児と亜美は、公園の近くにある『横浜人形の家』を訪れる。そこで亜美は、

「フランス人形って、頭でっかち、ちんちくりん。だぁ〜れかさんを思い出しちゃう」

と、意地悪く笑うのだ。『だぁ〜れかさん』が誰であるかは、言うまでもない。

そうして、竜児にとって、大本命の横浜中華街へ向かう。ここまでは、ちょっとエッチなトラブルもあったが、結果オーライ、
万事順調、亜美の機嫌も絶好調、なのだったが…。


***
気分を削ぐには十分に陰鬱な曇り空を見上げながら、竜児と亜美は中華街の雑踏の中にあった。
中華鍋を扱う雑貨店で鍋を物色したものの、いずれもが低品質で竜児の要求を満たすものではなかった。何よりも、
日本製ではまずありえないほどに雑な工作が、竜児にとっては、自身の美意識にかけて許せなかった。

「ねぇ、別のお店はどうなの?」

と言う亜美の提案に、竜児は頭を振って応えた。


「よその店に置いてあるのも、さっきの店と似たような粗悪な中国製だろう。行くだけ無駄だろうな…」

「じゃあ、せっかくだから食事だけしていきましょう…」と、言いかけた亜美は、靴底を介して伝わってきた、べったりと
粘つく感触で、「うぇ!」という短い悲鳴を漏らした。
恐る恐る足を上げると、靴底には、何かの汁が干からびて粘液状になったものが、にっちゃり、とこびりついていた。

「やだぁ〜、なにこれぇ〜」

「あれじゃねぇか?」

竜児が指さしたところには、ボールのように丸くて、表面が荒縄のようにぼそぼそした繊維質で覆われた物体が、
小山のように積み重なっていた。中には、ストローが突っ込まれたままのものまである。
果汁を吸われた後のココナッツの殻、それがボールのように丸い物体の正体だった。そのココナッツの殻からにじみ
出た果汁が路地の路面を濡らし、それが初夏の日差しで粘液状になるまで濃縮されていた。

「捨てる奴が悪いが、それを大事になる前に片付けない奴にも問題があるな…」

「そうよね…、ちょっと食欲減退しちゃうかも」

まれに見る潔癖症の竜児はもちろん、竜児と行動を共にすることが多くなった亜美にとっても、その有様は、
許容できるレベルを逸脱していた。

「こうしたことは、たまたまなんだろうけど、あんまり気分がいいもんじゃねぇな。どうする? 川嶋がどうしてもって言う
のなら、ここで飯を食ってくが、お前だって、こんな有様を知ったら、ちょっと無理じゃねぇか」

「うん、もう中止、止め! 高須くんに出会う前のあたしだったら、多分、何も気にしないでここで食事したと思う。
でも、今はもうダメ。いきなりでびっくりしたこともあるけど、ちょっと気分が削がれちゃった」

亜美は、「本当にサンダルで来なくてよかった」と、ぶつくさ言いながら、ウレタン樹脂でできたウォーキングシューズの
底を、例の粘液がこびりついていない路面に、ぐりぐり、とこすりつけ、靴底に残っているあの忌々しい粘液をこそげ落と
そうとしていた。
今日は、ひたすら歩き回ることを念頭において、薄茶色のウォーキングシューズを履いてきたことが幸いしたようだ。

「でも、これからどうしようか?」

「取り敢えず、中華街から出て、元町方面へ行ってみよう。あっちの方なら、ここよりも多少はましなんじゃねぇか」

「そうね、そうした方が無難かも。でも…」

亜美と竜児は目の前の人ごみを見て、うんざりした。休日ということもあって、路地も大通りも、人、人、人の群れ。
足の踏み場もないほどの混雑ぶりだ。6月は横浜港の開港記念日が控えているせいなのかもしれなかった。

「こりゃ、中華街を出るだけでも一苦労だな。さっきの一件がなくても、ここで飯を食うのは控えた方が無難か…。
この混雑ぶりじゃ、めぼしい店は、どこも満杯だろう」

亜美が、「そうねぇ〜」と、言いかけたとき、人目のつかない細い路地があることに気がついた。おそらくは、それぞれの
店の勝手口をつないで、大通りに延びているのかもしれなかった。


「ねぇ、あの路地って、通れないかな?」

亜美が指さす方向には、大人一人が、やっと通れそうな細い路地の入り口が、ぽっかりとトンネルのように口を開けて
いた。中は薄暗く、いわくありげな雰囲気がプンプンする。

「おい、おい、大丈夫か? 何だかヤバそうな感じがするぞ。地面だって、さっきのココナッツの汁よりももっとタチの
悪そうなもんが染み込んでいそうだ…」

「さっきのココナッツの汁は、いきなりだったから覚悟ができていなかったの。でも、今度は、何かあるっていう覚悟が
あるから、さっきみたいに取り乱したりはしないわよ」

「生半可な覚悟で何とかなるような場所じゃなさそうだけどな…」

「それでも、あたしは近道できればいいけどなぁ。それに、もうここには長居は無用なんでしょ? だったら、ちょっと気味
は悪いけど、あそこを通って行ってもいいんじゃない?」

竜児は、「いや、俺は…」と、言いかけて口ごもる。
顔に似合わず暗い所や狭い所は大の苦手。それが竜児の数少ない弱点の一つだった。
そして、その弱点は、当然に亜美も知っていて、

「あ〜、高須くん、暗い所とかすっごく怖がるもんねぇ。そっかぁ、臆病な高須くんのために、ここは、無理せずにあそこは
通らないでおいてあげるよぅ〜」

と、いひひ、と笑って、嫌味ったらしく挑発する。
そこまで言われては、男としては立つ瀬がない。

「川嶋ぁ、お前の嫌味なお情けは結構だ。よし、上等だ。行ってみようじゃねぇか」

「ほんじゃ、あたしが先導するね」

「お、おう…」

間抜けな返事とともに、竜児は、颯爽と前を行く亜美の後ろを、へっぴり腰でついていく。
路地は暗くて、ジメジメしており、予想以上に不衛生だった。

「何か、変な臭いがするよ」

亜美は自分の鼻をつまんでしかめっ面をする。おそらくは、残飯の腐敗臭と、下水から発生した硫化水素と、
得体の知れない食材の臭いとが渾然一体となったものだろう。
路地の両脇は、やはり飲食店の勝手口らしく、厨房であろう場所からは中国語らしい罵声が聞こえてくる。

「下積みの料理人がイビられている感じだな…」

「うぇ〜、超陰湿な世界だね。まぁ、徒弟制度なんてのは、どこでもそうだろうけどさ」

二人は、暗い路地を慎重に進んで行ったが、やがて先導していた亜美の足が止まった。
路地は、建物に囲まれた三坪ほどの空き地で行き止まりになっていた。しかし、その空き地には…。
亜美は、その空き地に存在するものを見て、声も出せずに凍りついた。


「どうした?」

「た・か・す・く〜ん、あ、あれ…」

亜美の目線を追ってみれば、そこには、目つきの険しい五人の男。その男たちが、ある者は煙草を吹かし、
ある者は所在無く座り、ある者は何だか見たこともない銘柄の缶入り飲料に口を付けている。
五人の風体は、労務者のようだったが、一様に日本人ではあり得ないほどに赤銅色に焼けた肌をしており、
潰れた鷲鼻と、赤く濁った目をしている。
彼らの前には、見知らぬ文字がステンシルで記された林檎箱ほどの大きさの木箱がいくつか置いてあった。
木箱の傍にはバールのような物まである。おそらく、これから、それらの木箱を開封するつもりだったのだろう。
彼らに共通しているのは、自分たちだけが占有してきた空間に、突如として割り込んできた日本人の若者二人に
対する明らさまな警戒心と敵意だった。
五人の中で、最も年嵩と見られる男が、傍らのバールのような物を手にして、竜児と亜美に向いて、叫び声をあげた。

「何て言ってるの?」

「俺が知るか! そもそも中国語かどうかすら怪しい」

年嵩の男は、手にしていたバールのような物を振り上げた。それが他の者への指令となったのか、
残りの4人も立ち上がって、竜児と亜美に迫ってくる。
五人の目付きは、素でヤバイ。本物の犯罪者の目付きといったらこんな感じなのだろう。竜児の眼光なぞ、
彼らに比べたら、まるで子供だましだ。

「川嶋、回れ右して、全速力だ!!」

竜児は、亜美の背中をどやしつけた。

「了解、逃げるが勝ちだわ!!」

竜児と亜美は、「うわぁ〜」「ひええぇ〜」と訳の分からない悲鳴をあげながら、必死で元来た道を走って逃げた。
背後からは、件の五人組からの意味はもちろん何語であるかも不明な罵声が後を追ってくる。

「川嶋、つかまったら、何されるか分かんねぇぞ! とにかく逃げろ!!」

「う、うん!!」

必死の思いで、元の路地に出た。竜児はサングラスをむしり取り、破壊力のある眼光を放射して、居並ぶ群集をなぎ払う。

「どけ、どいてくれ!!」

まるで、モーゼの十戒で大海原が左右に分かれて退くように、路地を埋め尽くしていた群集が、危ない目付きの若者を
避けていく。開けた道を竜児が突進し、そのすぐ後を亜美が追う。
中華街の南門を抜け、折よく信号が青で点滅している横断歩道で広い車道を渡り、運河を越えれば、そこは元町。
ここまで来れば一安心とばかりに、竜児と亜美は立ち止まり、息切れしていた呼吸を整える。

「な、何だったんだ、今の連中は…。言葉がまるで通じないってぇのもあるが、恐ろしく凶悪そうで、排他的だったな…」

竜児はサングラスを掛け直しながら、先ほどまでの理不尽と言ってよい出来事を総括するかのように呟いた。


「ねぇ、勝手な想像なんだけど、あれって、ビザなしで、どっかの国から日本に不法入国してきた奴らなんじゃないかしら」

亜美は、息切れからか、おぞましさからか、身をすくめて、竜児に問いかけた。

「ああ、そうかもしれねぇな。見ず知らずの日本人に出くわしただけで、あのナーバスな反応。不法入国がバレることを
極端に恐れているっていうのなら、説明がつきそうだ。しかし、何であんなのが居るんだ?」

「ここは港町っていうのに、やっぱ関係があるのかも…。それに、中華街って、結局は移民の街みたいなもんでしょ?
日本人とは異質な者たちの街には、別種の異質な者が紛れ込んでも違和感が少ないんじゃないかしら。
もっとも、これは新宿やなんかの他の繁華街にも言えることだろうけど…」

「なるほど、木は森に隠せってことだな…」

「それに不法入国者って…、表立って仕事はできないだろうから、元からまっとうな連中じゃないだろうね。連中の傍に
あった木箱だって、一体、何が入っていたんだか…。ごめん、あたしが近道しようなんて言い出したばっかりに…」

亜美は、もしつかまっていたら、という恐怖からか、その顔面は蒼白だ。

「川嶋、結果オーライでいくしかねぇだろう。幸いなことに、俺たちは何とか無事だ。もう、とやかく考えるな」

亜美は、「そうだね…、ごめん」と、竜児に詫び、

「でも、あたしらが、連中の縄張りに勝手に割り込んで行ったのは事実だよね。連中にとっては、あたしたちは異分子
だったわけで、排除したくなるのも当然なのかもしれない…」

亜美は、『異分子』という文言に、ことさらアクセントを付けて言った。それには、嫌悪と、さらには嫌悪とも異なる感情
が滲んでいるように竜児には思えた。
その感情が何であるかは分からないが、ある種のネガティブな思考であることは確かなようだ。

「たしかにそうかも知れねぇが、連中が日本の法を遵守せずに、勝手に日本にやって来たとしたら、連中こそが異分子
なんじゃねぇか? それなのに、なんで俺たちが異分子になるんだよ」

亜美は、「それは…」と、言いかけて口ごもる。
竜児が、「どうした? 川嶋…」と、尋ねると、亜美は、

「異分子、そう、やっぱ異分子はダメなんだよね…」

と、相変わらず蒼白な顔で、竜児には独り言めいた意味深な言葉を投げかけるのだった。

休日の午後ということもあってか、元町も中華街と同様に、人、人、人の群れだった。
本来なら、ここでショッピングを満喫するはずだったのだが、先ほどの危機一髪とも言うべき立ち回りで、
亜美はもちろん、竜児もそんな気分にはなれそうもない。
二人は血の気が失せた表情のまま、自然、自然と、休日の喧騒を避けながら黙々と歩いた。
半ば無意識に人混みを避けていたら、元町通りを元町プラザの手前で右折し、山手へ続く上り坂の小径を選んでいた。
その小径を進み、その傾斜が一旦緩くなったところで、鉄の柵越しに十字をした白亜のような墓標の群れが見えてきた。


「外人墓地だな…」

白い墓標群は、山手の北側斜面の一角を占拠するかのように、屹立している。

「いわゆる『お雇い外国人』として、明治時代の日本で活躍した人たちのお墓があるところだわ。
その時代で活躍はしたけれど、結局、故国には帰ることができず客死したのね…」

そう言ってから、亜美は、傍らの竜児にも聞き取れないほどの小声で「悲しいね…」と呟いた。
二人が行く小径は、再び傾斜を増して息が切れるような急坂となった後、山手の尾根筋を通る山手本通りに合流した。
その山手本通りから横浜港の方角を望む。手前に白い十字架が林立する外人墓地があって、少し離れて紅白に
彩られた横浜マリンタワーが見え、遥か彼方には横浜ランドマークタワーをはじめとする横浜みなとみらい21地区が
遠望できた。
それは、横浜を紹介するガイドブック等ではお馴染みのアングルでの光景ではあったが、折悪しく低く垂れ込めてきた
雨雲のせいで、手前に林立する白い墓標ばかりが目立つ荒涼とした殺風景なものであった。

「旅行雑誌とかで見たのとは大違い。寂しい感じだね…」

中華街での一件以来、すっかり意気消沈してしまった亜美が、外人墓地と山手大通りを隔てているフェンスに両手を
突いて上体を預けながら、物憂げに言った。

「天気のせいもあるけどな…、何よりも俺たちの目の前に広がっているのは、人様の墓じゃねぇか。
墓を見て気分が晴れるわけがねぇ」

外人墓地は、横浜の名所の一つに数えられる。名所になれば、それなりに浄財も集まりやすくなるのかもしれない。
その浄財で、墓地の整備もできるだろう。しかしながら、それと引換えに、死者の安らぎが脅かされはしないだろうか、
と竜児は思った。本来なら、異郷で客死した者は納骨堂等に安置され、聖職者以外には人知れずに置かれるべきもの
なのではないだろうか。もっとも、これは一観光客の私的な感傷に過ぎないのではあるが…。

「ここに眠る人たちは、どんな気持ちで日本で生活し、死ぬ間際には、どういった心境だったんだろうね…」

からから、という遠雷が聞こえる。

「そんなもんは、人それぞれだろう。でも、お雇い外国人として、それなりの評価と待遇を受けていたんだったら、
そう悪いもんじゃなかったんじゃねぇのか?」

竜児は、亜美の問い掛けに少々剣呑な雰囲気を感じ、当たり障りのない応答で切り返した。だが、本心では、竜児も、
亜美と似たようなことを考えていたのかもしれない。

「う…ん、そうだよね。一般的には、そうなんだろうね。でも、あたしには、何だか分かるんだ。多分、本当はものすごく寂
しかったんだと思う。見知らぬ土地で、言葉が通じない異人種に囲まれて生活していたんだよ。当時、最先端の知恵や
技術や学問を備えていて、この国で厚遇されていたとしても、やっぱり、『異分子』であることは、拭い去ることができ
ない事実だったんじゃないかしら」

亜美は、所在なく遠方を見据えていた目を、伏せて自嘲するように呟いた。

「そう、大橋高校での、あたしみたいに…」

「川嶋…、お前、未だそんなことを引きずっていたのかよ。てか、意味不明だぞ。
特に、お前が言ってる『大橋高校での、あたしみたい』ってのは…」


亜美は、「ふぅっ〜」と、力なく嘆息し、

「うん、自分でも踏ん切りがつかないっていうか、我ながら情けないっていうか…。それは分かっているつもり。
でも、さっきのトラブルで、イヤなことが連鎖的に吹き出てきちゃった。さっきの連中の縄張りに入り込んだあたしは、
連中にとって『異分子』。そして、連中もまた、この日本では、不法入国者という『異分子』…」

傍らの竜児にも聞き取りにくいほどの小声で、ぼそぼそと愚痴るのだ。

「な、なぁ、川嶋が言う『異分子』ってのが、俺にはいまいちよく分からねぇんだが、よかったら、もうちょっと具体的に、
俺でも分かるように言ってくれねぇか?」

亜美は、フェンスに突いている両腕の間に力なく頭を垂れていた。うつむいている亜美は、双眸をぼんやりと開き、
視線を歩道の路面に所在なく向けている。

「そうね…、勝手にモノローグみたいで、あたし以外の第三者には、訳が分からないのが当然でしょうね…。高須くん…」

そう言いかけてから、亜美は、竜児の反応を伺うかのように、ちょっと沈黙した。

「何だ、川嶋…」

その一言を、竜児の許しと解釈したのか、亜美は、再び口を開いた。

「これから、あたしが言うことは、多分、愚にもつかない、あたしの愚痴になっちゃうと思う。
それでもよければ、そのあたしの愚痴に耳を傾けてくれたら、うれしい…」

竜児は、先日のピクニックで、亜美の膝枕で、つい、泰子のこと、自己を過剰に卑下することについて内心を吐露した
ことを思い出した。

「愚痴とか、どうとかは気にするな。この前は、俺が川嶋に励まされたんだ。今度は、俺が川嶋の話を聞く番だろう…」

−そうとも、川嶋に愚痴と弱音を吐き出したからこそ、俺は救われたんだ。
でれば、亜美の愚痴にも耳を傾けてやるべきなのだ。

「うん、ありがとう。でも、話がちょっと長くなるけど、いいかしら? よかったら、ここではなくて、どっかで座って、
お話ししたい…」

ポツポツと、路面に黒い染みが現れた。

「ああ、そうしよう…。どうやら、天気の方も怪しくなってきた」

ゴロゴロと言う雷鳴も、さっきより間近に聞こえてくる。

「雨宿りも兼ねて、どっか適当なところに逃げ込みましょう」

不意に、ざあっ! と、一陣の突風が木々の梢を揺らせた。それが号令だったかのように、大粒の雨が、ぼたぼた、
と降り始めた。

「大変!!」

「川嶋、ひとまず、あの博物館はどうだ?」

「そうね、とにかく、ずぶ濡れになるのは避けないと」

煉瓦造りの重厚な建物の表札には、「岩崎博物館」と、あった。


to be continued...

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