web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki

「あ?、もう、フラ語って、本当にうざい」

「そう言うなって、国木田のフランス語は、お前の法学部でも、俺が居る理学部でも落とせない科目
なんだからさぁ。手抜きはできねぇ」

大橋駅の駅ビルの一角にあるハンバーガーショップの窓際の一角に、大学生と思しき男女が並んで座り、
フランス語の辞書を広げて呻吟している。
目つきの鋭い男は、

「第二外国語は、ヤバいよ。D(不可)がついたら、それまで。1年留年決定だからな」

と、諭すように言う。

「うん、わかってる。あいつは、国木田は、階段教室の学生を順繰りに指名して、朗読させて、
訳までさせる。答えられなければ、それまで。本当に嫌な奴だよね」

「だな…」

川嶋亜美は、この春、高須竜児、北村祐作と一緒に、国立大学に進学した。
川嶋亜美にとって、大橋高校からの知り合いは竜児と北村祐作の2人のみ。
幸いなことに、櫛枝美乃梨も、逢坂大河も、いない。
邪魔者のいない楽園。もう、自分を異分子と自嘲する必要もない。
あとは、竜児と学園生活を満喫できるはず、だった…。
しかし、実際は、講義の進度の速さは気違いじみていて、高校とは桁違い。
成績不良者は、容赦なく留年。
高須竜児との接点も、共通する科目の予習と、行き帰りの電車の中での会話程度。
これじゃぁ、何のために同じ大学に進学したのか分からなくなってくる。

不意に、赤ん坊の泣き声が聞こえる。視線を右に移せば、大橋高校の制服を着た男女が
抱き合っている。目障りな連中だ、とばかりに亜美は眉をひそめる。
何よりも、高須竜児は、この喧騒が気にならないのだろうか?
本当にもう、鈍感なんだから、いろんな意味で…。

「ねぇ、高須くん、ここじゃうるさくって、勉強するのは無理なんじゃない? あたし、できたら、
高須くんの家か、あたしの家でやりたいんだけど、場所、変えれば、いくらあたしでも、うん、
あたしだって…なんとかなるかも」

また、その話か、川嶋、と竜児は思う。

「いや、自宅とかだと、緊張感が足りないだろ、俺なんか、ついついテレビやインターネット
見ちまうし、それに…」

「それに…?」

「いや、何でもない」

また、俺を、からかうつもりなんだろう? という一言は飲み込んでおく。時と場合によるが、沈黙は金だ。

「高須くん…、なんかつまんない」

「そりゃ、勉強だからな、もともとがそんなに面白いもんじゃないだろ」

「だから、そうじゃなくて…」

「そうじゃなくて?」

「もう、いいよ…」

そんな亜美に、高須竜児は、またか、程度の一瞥をくれると、フランス語のテキストに視線を戻した。
亜美はイライラする、相変わらず鈍い男だ、そのくせ何でも無難にこなす。
悔しいけど、亜美にとって高須竜児はスーパーマンだ。

「ここをこう訳して、ほらできた。川嶋、ちょっと、読んでみておかしなところがないか確認してくれ」

「う、うん…」

二人の共同での予習と言っても、それは名ばかり。フランス語の翻訳は完全に竜児の独壇場。
高須竜児が差し出したノートには、細かい文字で、邦訳がびっしりと書かれていた。
係り結びも、文脈にもおかしなところがない。完璧だ。

「帰りに、コンビニで、こいつのコピーとれば、OKだな」

一仕事を終えた満足感が、高須竜児の表情には現れていた。
高校時代は、
『あたしは、川嶋亜美は、高須くんと同じ地平の、同じ道の上の、少し先を歩いて行くよ』
とか、はったりをかましたけれど、高須竜児には到底かなわない。
ルックスだけが取り柄の亜美ちゃんは、高須くんの心を引き止めておくことができるんだろうか。
今、この場に、櫛枝美乃梨が現れたら、あたしは、彼女に対抗できるのだろうか?

「ねぇ、高須くん…」

苛立ちは天使のような仮面に潜ませて、すぅーと、亜美は、右隣の竜児に寄り添った。
竜児は、左半身に亜美の体温を感じ、「またかよ」と、一瞬だが顔をしかめる。
高校時代から、こいつは、隙あらばこうだ。この大胆さには、今だに辟易させられる。
これがなければ、竜児の基準から見ても、亜美は、かなりまともな奴なのだが…。
なにより、腹黒さの毒が、以前に比べれば、だいぶ薄まってきたように思えるし。

「川嶋、人目があるぞ、ほどほどにしてくれよ」

悪ふざけも大概にして欲しい、とばかりに、竜児は、亜美をたしなめる。

「ほどほど?」

天使のような仮面の下で、苛立ちが膨らむ。

「お前には節操というものがねぇのか? お前だって、大学の受験勉強するまではモデルでちっとは
知られた存在だったろうが。無名の一般人じゃねぇんだぞ」

「モデルなんて、もうやめちゃったし。あたしなんか、もう、どこにでもいるタダの女子大生だよ」



さらりと、髪をかき上げ、

「それに、亜美ちゃんはつまんない子、腹黒で、嫉妬深くて、歪んじゃってる子。でも…」

「でも…?」

亜美は、竜児の背中越しに右手を伸ばし、竜児の体を抱きとめた。
亜美のバストが、竜児の左脇腹に押し付けられ、その胸元からは、甘い匂いが微かに香る。

「か、川嶋、密着しすぎだって。離れろ! そういう節操のないことは止めろと、あれほど…」

「高須くん、亜美ちゃんは、無節操な女じゃないよ。見てくれだけじゃなくて、あたしの真っ黒な
ところ、歪んじゃってるところとか、全部知ってて、それでもあたしを避けずに一緒にいてくれる。
高校時代の友達は、みんな亜美ちゃんからいなくなっちゃった。今では、高須くんと祐作を除けば、
麻耶と奈々子くらい。だから…」

さらに、ぎゅっと、竜児の脇腹にバストを押し付けて…、

「こんなことをしてあげるのは高須くんだけ、だから…、だから、あたしを大事にして」

やわらかな感触と、ほのかな香りに理性が吹っ飛びそうになる。
今日は、いつになく挑発的。
竜児は、そこをこらえて、擦り寄る亜美の上体を引き剥がす。

「た、高須くん」

「まぁ、まぁ、落ち着け、川嶋。俺達ゃ、大学に合格したばかりで、右も左も分かっちゃいない。
まぁ、俺も、正直、川嶋とこうして一緒に居られるのはうれしいさ。だがな、当面の敵、赤点で、
即留年決定の必修科目を何とかしなけりゃならん。お遊びは、こいつが何とかなる目処がついてから
でもいいんじゃねぇか?」

さらに、

「俺の場合は、奨学金がかかっているから、よけいに深刻なんだ、でも、多少は障害があった方が、
やりがいがあるぜ」

と、言って、「にやり」とする。

こうしているときの竜児の顔に、亜美は見覚えがあった。学校や別荘で、念入りに掃除をしていた
ときの顔と同じだ。
解決が困難な課題に集中しているときこそが、高須竜児にとっての生き甲斐なのだろう。
凡人には理解しがたいところであるが…。

「高須くん、亜美ちゃん、もう疲れちゃった」
高須くんは、相手の気持ちを考えずに、自分一人で頑張りすぎ。

もう一度、亜美は、竜児に抱きついて、

「高須くんは、冷たいよ」
うつむいて、鼻をすする。やべ、まじで涙が出てきちゃった…。



「はぁ…」
竜児は、軽く嘆息する。

「なぁ、川嶋…」と、前置きして、再び、亜美を引き剥がし、

「ガキみたいなこと言うなよ。お互い大学生にもなって、こんな露骨な……、過剰な、ダイレクトな
表現だけでしかコミュニケーションがとれないってのは、悲しくないか? 
川嶋がそんな大胆なことをしなくたって、気持ちは伝わるさ」

「言葉で伝わらないことがあるから、ダイレクトな表現があるんじゃないの?」

「い?や、川嶋、お前は、根本的に間違っている。過剰なものは有害無益なんだよ。
過ぎたるは及ばざるが如し、っていうじゃないか」

「でも、でも、みんながみんな、言葉だけで真意が伝わるなら、もめごとなんて起きないよ。
言葉には嘘があるから、本当の気持ちの表現が大切なんじゃないの?」

「嘘だったら、体を張った表現にだってあるだろうさ」

「どういうことよ?」

「例えば、ものすごい美人からだな、『好きです』とか言われて、いきなり抱きつかれても、
容姿が並以下の男だったら、それを素直に信じないと思うんだ。信じるに足る根拠がない。
もっと言うと、その美人にとって、不細工な男と付き合うメリットが客観的には見出せないからな」

「それはあくまでも客観でしょ、その美人とかの主観はどうなの? それが一番大事なんじゃない?」

あたし達のことを喩えているとしたら、悪趣味もいいところ。
あたしが、この亜美ちゃんが、あんたを偽っていると言いたいのか、と亜美は訝る。

「主観までは分からないな。でも、大方は、客観的な評価と大きくは違わないだろ? 
その美人だって、本当は、イケメンの野郎と付き合いたいに決まっているさ。
資産があれば更に言うことなし。これが、客観的な認識じゃないか?」

あんた、間違ってるよ、と心の中で亜美は毒づく。
あんたの言う客観は、ただの皮相だろ? 人の本音なんて、そう簡単に分かるものか。
亜美は、思いっきり嫌みな口調で皮肉を言った。

「すっごぉ?い、高須くん。そっか、客観的な評価から、そこまで何もかも分かっちゃうんだ。
じゃぁ、今、あたしが何を考えているかも、見当がつくよね?」

その言葉に、竜児は、

「おう! 取り敢えず、明日の分の予習が終わって、ほっとしているとか、
そんなところじゃないのか?」

胸を反らして、得意気に、言い放つ。

「それだけ?」

「おう! それだけ」

「じゃ、あたしが高須くんに抱きついたことは、どう説明がつくの?」

「そりゃ、いつものお前の悪ふざけ。そんだけだろ?」

亜美の表情が、一瞬、険しくなる。何だと? コラ!
辛うじて、平静を装って、最後通牒のつもりで、竜児に畳み掛ける。

「念のため訊くけど、本当にそんだけ?」

「おう! 本当にそんだけだろ?」

「はぁ??」

亜美は絶句する。本気で言ってるのか? しかも、自信満々に。
この根拠のない自信は、どっから湧いて出ているんだろう。
竜児はさらに、ダメ押しの一言。

「どうだ、図星だろう。何せ、俺は、『気遣いの高須』と呼ばれているくらいだからな」

だめだ、こりゃ、話通じねぇ…。
『気遣いの高須』だぁ? あんたが、本当にそうなら、亜美ちゃんこんなに苦労しねぇよ。
こいつはだめだ、救いようがないバカだ。むかついた、あたしゃ本気でむかついた!
表情を怒りで引き締め、スツールから立ち上がる。

「お、おい、川嶋…」

当惑する竜児に、キッ、とばかりに向き合い、

「あんたは、何にもわかっちゃいない! ああ、もういいわ。あんたには何言っても無駄。
あんたは本当にどうしようもないバカ。あたしの言うことなんか、聞いちゃいないんだ。
もう、いい!!」

亜美の手が、もがくように竜児の胸を強く突いた。その勢いに、竜児はスツールから転げそうになる。
亜美は自分のカバンをひっつかみ、

「あたしはもう疲れたから帰る。どいてよ、道開けて! やだ、もう混んでて…うざい」

そのまま、顔をおさえながら逃げるように走り出す。もう、いやだ、勉強も、高須竜児も、何もかも。

「川嶋…」

取り残された竜児には、周囲からの冷たい視線。
さらには、「極悪なツラした奴が、あんなかわいらしい娘を怒らせるなんて」「サイテー」
「女の敵よね」「ヤクザが堅気の女の子に手を出していたのかしら」「いやねぇ」、
無遠慮なヒソヒソ話が追い討ちをかける。
竜児は、それらを無視して辞書や教材を片付ける。
確かなことは、もう、ここでは勉強できないこと、それと川嶋はえらく怒っていたこと、
それと、ここは大橋高校の関係者がよく来る場所でもあった。噂に尾ひれが付いて、
広まっていくのは確実だろうということだ。




***
「あ?、ちくしょう、むかつく。あの鈍感バカ、死ね、死んじまえ!!」

物騒なことをぶつぶつ言いながら、川嶋亜美は商店街を大股で闊歩する。本当に腹が立って仕方が
なかった。高須竜児が鈍感なのは出会った直後から分かってはいたことだったが、これほど重症だと
は思いも寄らなかった。

「腹立つから、もう、亜美ちゃん酒のんじゃう。お酒は好きじゃないけど、なんか飲まないとやって
られない感じぃ!」

どこかの居酒屋にでも入ろうかと思ったが、最近は未成年者への飲酒にうるさいから、酒を買って、
自宅でやけ酒あおることにした。買うなら一升瓶の日本酒。やけ酒の定番だ。

亜美は、酒屋はどこだよ、ばかりに商店街に連なる看板に視線を泳がす。目に入ったのは「稲毛酒店」
の看板。店頭では、前掛けをした小太りの中年男がビールケースを運んでいた。
しかし、このおっさん、どっかで見たことがあるような…。

「らっしゃい。お、あんた、たしか魅羅乃ちゃんの息子さんの彼女だったっけ? 久しぶりだねぇ」

しまった、このおっさんが店主だったか。亜美は、唇を歪めて、舌打ちする。
前に、高須竜児と一緒のときにスドバで会ったことがあったっけ、なんつ?、間の悪さ。

「今日は、魅羅乃ちゃんの息子さんは一緒じゃないのかい?」

やなこと訊くなよ、おっさん、空気読めよ。この無遠慮なダボハゼがぁ、とばかりに、
亜美の表情が険しくなる。

「ねぇ、ねぇ、どうしたんだい?」

「も、もう、彼女じゃないかもしれませんから…」

眉間に深いシワをピクピクさせて、怒りをこらえる亜美の表情にさすがに気づいたのか、
稲毛酒店の店主は、「あう…」と嗚咽のような声を発して押し黙った。

「そんなことはどうでもいいんですけど、お酒ください、一升瓶で、あまり甘くないやつ」

やけ酒をあおろうというのに、できるだけ糖質が少ない酒を買おうとするのも、元モデルの性か。

「え、あんたが飲むの? でも、たしかあんたは竜児くんと同い年で未成年じゃなかったっけ?」

むかっ! うっるせーな、関係ねーだろとばかりに、亜美の表情がさらに険しくなる。

「おお、わかったわかった」

店主は、「剣呑剣呑」と唱えながら、

「これなんかどうだろう? 辛口で、すっきりしている。おすすめだよ」

と、半紙で包まれた一升瓶を持ち出してきた。亜美にはその意味がさっぱり分からないが、
『純米 山廃仕込み』という文字が、半紙の包越しに確認できた。



「じゃ、これでいいです…」

5千円札を店主に手渡し、釣りと包装された一升瓶を受け取る。酒がなみなみと満たされた一升瓶は、
ずっしりと重い。
それを肩に担いで、亜美は、ぶすっとした表情で、店主を睨みつけるように、一瞥する。
元々が整っている顔立ちだけに、不機嫌な時は、まるで般若だ。

しかし、一瞬、

「ありがとございます。これ、いただいて帰りますわ」

瓶を両手に持ち替えて、物腰もやわらかに、鬼女の面から、天使の面に早変わり。
ほ?ら、亜美ちゃん、本当はこ?んなに、かわいいのぉ?、心して拝めよ、この愚民?とばかりに。

その豹変ぶりに、店主は、「おお〜っ」と、呆けかけたが、それも束の間、
次の瞬間、元の般若顔へ戻った亜美に、腰を抜かさんばかりに仰天し、
「わは!」と、小さな悲鳴とともに、商品棚に背中をぶつけるまでのけぞった。

そんな店主の無様な姿へ、「ふん…」とばかりに、亜美は、侮蔑を込めた冷笑を浴びせて、立ち去る。

「何なんだありゃ…」

女はこわい、俺も離婚して正解だったかな、それにしても竜児くんは、あんなのを彼女にしていたのか、
う?、ぶるぶる。稲毛酒店の店主は、悪寒を感じて、首をすくめた。


***
自室にこもった亜美は、買ってきた日本酒を白いマグカップになみなみと注いだ。
うす黄色い液体からは、アルコールの刺激的な匂いのほかに、エステルのような華やかな香りが
漂っている。
日本酒は、というよりもお酒はあんまり飲んだことないけれど、第一印象は悪くない。
そのまま、ちょっとひと口。アルコールのピリッとする刺激と、華やかな香り、それと米に由来する
旨味なんだろうか、甘い、辛いといった単純な言葉では表現できない美味さを感じた。

「悪くないじゃない、これなら、ちょっといけるかも」

そのまま、一気にあおり、マグカップを空にする。

「ぷっはぁ?」

一杯目で、早くも酔いが回ってきた。でも、もう一杯。一升瓶からドクドクと注ぎ込む。
それを、さらに、ぐっと一気にあおる。
それにしても、ちくしょう、高須のバカ野郎、死ね、死んじまえ、鈍感、グズ、根性なし、と、
ぶつぶつ毒づきながら。

「あは、なんか余計に腹立ってきちゃったぁ」

アルコールは怒りを増幅させる。飲めば飲むほど、怒りが収まらなくなるのが普通だが、
亜美の場合は、どうやらその傾向が特に強いらしい。



さらに、もう一杯。血中アルコール濃度に比例して、高須竜児へのどす黒い怒りがふつふつと
たぎってくる。

「誰かに、愚痴でも垂れるか…」

亜美は、おもむろに携帯を取り出して、

「もしもし、麻耶ぁ?、ひっさしぶり、ほらあたし、亜美ちゃん、元気してたぁ??」

怪しい呂律で、高校時代の友人である木原麻耶に電話をかける。
電話からは、「うっわ?、ほんと久しぶり、元気してた?」という、麻耶の声が聞こえる。

「う?ん、亜美ちゃん、あんまし元気じゃないけど、なんとか生きてるよぉ?」

えらく酔ってるな、と、麻耶は思う。酔っぱらいの戯言ほど迷惑なものはない。
大体において、話題も、ロクなもんじゃないからだ。
麻耶は、適当に亜美をヨイショして話を終わらせることにした。

「でもさ、亜美はすごいよ、高校3年のクラス分けの時、私ら、私大文系だったじゃん。
それを北村くんと同じ国立に行っちゃうんだから、やっぱ並の人じゃなかったね」

「そんなことないよ、試験は水物だぁしぃ?、まぐれだよぉ?、まぐれ…」

「あたしなんか、私立の女子大じゃん。つまんね?って、毎日が。秋の学祭には、男どもがわんさか
来るんだろうけど、どうせ発情したヲタばっかだっていうし、ちょー最悪」

なにせ、北村祐作もいないし、本当につまんないんだよね、と、麻耶は本音を心の中で反芻する。

「それで、さぁ、まるお、つか、北村くんは元気?」

「祐作ぅう?、あんだか相変わらずだよう、優等生ヅラしてぇ?、相変わらずボケたことばっか。
正直うっぜぇ?」

「そこが北村くんの、いいところなんじゃん。
ま、亜美には、高須くんがいるから、そんなのどうでもいいんだろうけどさ」

『高須くん』の一言に、亜美は「うっ」と言葉をつまらせた。

「高須くんは、何だかんだっても勉強できるし、家事も何でもやっちゃうし、本当にすごいよね。
なんか理想のお嫁さんて感じ? あ、違った、お婿さんか、あはは」

「そ、そお?」

「そうだよ、顔はアレだけど、脚は長いし、結構いいじゃん」

「そうかぁ?」

「他人に対する思いやりもあるし」

「そんなことないって…」



「それに、気遣いの高須だし、洞察力があるっていうか、やっぱすごいよね」

「違うよ…」

「どうして? まぁ、高校の男子が、能登や春田みたいなバカばっかだったせいもあるけど、
高須くんとかは、今にして思えば特別な存在っていうか、ああいう男はなかなかいないねぇ」

「麻耶、あんたねぇ…」

「もしもし、どうしたの、ねぇ亜美」

「た、高須、高須って、うるさいよ、あ、あいつのせいで、どんだけあたしが苦労しているか、
ちくしょう、高須、高須のバカは…」

うわ、地雷踏んじまったか、やっべ、と麻耶は思った。

「ごっめ?ん、亜美、空気読めなくて。そ、そだね、高須くんだって、完璧じゃないから。
彼女でもない私がアレコレ言うのは失礼だったよね、ほんと、ごめん」

「い、いいんだよ、あいつの悪口なら何だって許す。あ、あたしも、あいつがあんなにバ、バカだっ
たとは思わなかった、ち、ちくしょう、死ね、高須竜児」

ひゃー、修羅場? 勘弁してよ、あんたらの痴話喧嘩に、私を巻き込むな、と麻耶は困惑する。
とにかく、ここは酔っ払いの機嫌を適当にうかがっておくしかない。
いきなり電話切ったら、後々までしこりが残りそうだし…。
それにしても、高須竜児と一体何があったのか?

「そうだね、高須くんは、粗暴そうな印象があるからね。何ていうか、いきなり女の子を襲いそうな、
ちょっとヤバそうなところがあるから。存在自体が危険物っていうかぁ?」

「お、襲ってくるような根性がありゃ、苦労しねぇ……」

「え、亜美なんか言った? ま、いっか、高須くんはやっぱり怖い人だよね、亜美も高須くんの
そんなところが嫌いになったんじゃないの?」

「そ、そういうとこが嫌いなんじゃねぇんだけど……」

「あ、そ、そうなんだ、そうだねぇ、高須くんみたいなワイルドな感じもいいよね。ちょっと、強引
なところとかあって、でも、そこが魅力みたいな…」

「ま、麻耶ぁ、あいつに強引なところなんてねぇ。ゆ、優柔不断な根性なしだぁ?」

「え?」

「ちくしょう、あの優柔不断な、鈍感野郎!」

「ど、どうしたの、亜美、落ち着いて」

「ま、麻耶ぁ、あいつは、あいつは、あいつはぁ?」

電話口では、亜美がわんわん泣いているようだ。

「あいつは、あいつは、この亜美ちゃんさまが、体を寄せても、む、胸を押し付けても、な、何にも
しない。エッチどころか、キスすらさせない、手だって、自分からは握ろうとしない。バカだよ、
本当にしょうもないバカ、バカ、バカ、バカぁ?、鈍感、グズ、甲斐性なし!!」

あっら?、亜美ちゃん、欲求不満みたい。んで、精神崩壊、まっしぐら? 
こいつはヤバくね?

「そ、そうだね、高須くんってさぁ、結構、冷たいところがあるじゃない。ほ、ほら、高2の時、
高須くんに、私と北村くんとの仲を取り持ってくれって、お願いしたのに、結局、役立たず。
ほんと、グズで、無責任な奴だよね」

「うん、あいつは冷たい。嫌な野郎だぁ?」

「乙女心を踏みにじったのだよ、高須竜児は。女の敵だね。本当に」

「そ、そうだぁ、女の敵だぁ?」

「なんつ?かさ、紳士ぶっているところがキモいよね。品行方正らしいけど、わりとつまんね?奴っ
ていうか、ヤンキー顔にあわね?だろ、品行方正は、とか?」

電話口の酔っ払いは、泣き止んだようだ。

「そうだぁ?、もっと言ってやれぇ?、うふ、うへへへへ…」

それどころか、今度は笑い上戸になったらしい。このまま機嫌がなおってくれればそれでいいのだが。
しかし、喜怒哀楽が激しい。これも、腹黒さを隠し、
笑顔の仮面で他人を欺いてきたことの反作用かな? と麻耶は思う。

「いずれ、痛い目に遭うと思うよ、今のままだと。無自覚に、女の子を傷つけているもん。
そのうち、バチが当たるんじゃないかな」

「うんうん…」

「なんつーかさ、高須くんには、天罰というか、天誅っていうか…」

「あ、天誅、それ最高ぉ?」

「もう、誰かに成敗された方がいいかもね。思いっきり痛い目に遭えば、目が覚めるかもしれないし」

「……」

「あれ、亜美、もしもし、もしもし…」

「麻耶ぁ?、いいこと言うなぁ、やっぱ持つべきは同性の友達だね。うん、そっか、天誅、成敗か、
いいねぇ?。お?し、決まったぁ?。これから、女の敵、高須竜児を、成敗しに行こう!!」

「え!?」

地雷爆発。それも核地雷だったりして。



「麻耶、あんたも、憎っくき高須を成敗すんだぁ?。あたしゃ、これから高須の家に殴りこむぅ?。あんたも、なんか武器持って、高須の家に集合だぁ?、武器はバットなんかいいんじゃないかなぁ?、
それも金属バットなら最高かもぉ?、ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ」

「ちょっと、ちょっと、亜美、大丈夫? 正気に戻ってよ!」

「亜美ちゃんは、いつだって正気だよぉ?。正気じゃないのは、あいつ、女の敵、高須竜児だぁ!!」

電話は切れた。

「どうしよう…」

時刻は、午前0時過ぎ。110番通報をすべきかどうか、麻耶はしばらく迷った。
安易に警察沙汰にはしたくなかったからだ。亜美のためにも、竜児のためにも。
電話口での亜美の様子だと、そうは暴れ回ることは出来ない感じだったが…、
「もしも」の場合も否定はできない。

「高須くん、もしもの時は、亜美を何とかしてやって」

もしものときは、高須竜児が適切なフォローをしてくれるか否かがカギだろう。
だが、竜児なら、いけるかもしれない。


***
一升瓶を握り締めたまま、亜美は、高須竜児の家を目指す。
酔いが回って、千鳥足だが、一歩、また一歩と、確実に竜児の家までの距離を詰めていく。
警官に出くわさなかったのは幸運だった。
もし、出くわしていたら、その警官は、亜美が振り下ろす一升瓶の餌食になっていたかも
しれないのだから。

「みぃつけたぁ?」

既に何度か訪れたことがある、見慣れた木造家屋。その2階に高須竜児は居る。
竜児の部屋には未だ明かりが灯っていた。
たしか、明日のフラ語の予習は済んでいるはず。こんな夜更けまで、一体、何をやっているんだろう。
まぁ、いいか、奴が何をしていようが関係ない。あの鈍感野郎の脳天に、こいつを一発お見舞いする
だけだ。起きているのなら、起こす手間が省けるというもんじゃないか。
よろめきながら階段を登り、呼び鈴を押す。1回、2回、3回…。

「は?い、どちらさんですかぁ?」

つい数時間前に聞いた声が、ドア越しに聞こえてくる。奴は、居る。
亜美は、半分ほど酒が残っている一升瓶を逆手に持ち替え、背後に隠した。
こいつを一発かませば…。
ガチャ、ドアが、ドアチェーンの長さ分だけ開いた。

「か、川嶋、こんな時間にどうしたんだ?」

うわ、と竜児はドン引きする。顔見知りとはいえ、真夜中の訪問者。血走った酔眼。
一目で尋常でないことは誰の目にも明らかだ。

「……」

亜美は、無言で血走った酔眼を竜児に向けてくる。ヤバイ、限りなくヤバイ雰囲気だ。

しかし、相手は婦女子、こんな夜中にむげに追い返すわけにもいくまい。ヤンキー顔でも
高須竜児は紳士なのだ。

「ま、何だ、そんなところに突っ立っていてもしょうがないだろう。ひ、ひとまず、中に入るか? 
何せ、こんな夜更けだしな」

亜美は、それには応えず、ずい、とばかりに高須家の玄関に踏み込み、

「でぇーい!」

と、気合一発、背後に隠し持っていた一升瓶で左右をなぎ払った。

「うわぁ! か、川嶋、なにすんだ!!」

空振り。高須竜児は、尻餅をついて、難を逃れていた。

「逃げんじゃねぇ! 高須竜児、この女の敵!!」

今度は、一升瓶を右から左にフルスイング。

「わああ!」

竜児は、首をすくめて、それを避ける。

「か、川嶋、何で、何でこんなことをする。女の敵って何だ? おれが一体何をした! 教えてくれ」

「うるさい、この根性なし!」

亜美は、一升瓶を構え直して、左から右になぎ払う。

「うわあ、わけが分からねぇ。川嶋ぁ! お前は俺を殺す気か」

「殺す? 亜美ちゃん、そんなことするわけないじゃない。高須くんてバカ? 
亜美ちゃん、高須くんが正気じゃないから、これで頭を叩いて正気にしてやろうとしてるだけだよぅ、
うふ、うふふふふ…」

ほとんど泥酔状態の亜美は、団扇のように自分の体がふらついている。

「正気じゃないのはお前だろ、酔っ払いやがって」

「あ?ら、亜美ちゃんは正気だよぅ。いっつもね。ただ、惚れてる男がなぁ?んにもしてくれない
から、亜美ちゃん、ちょっと心配なだけ。もしかしたら、脳の悪い病気かな? なんてね。
だから、亜美ちゃん、これでその人の頭をぶっ叩いて、正気に戻してあげようとしてるだけなんだよぉ?」

「お前のその考えが、そもそも正気じゃねぇよ」

「高須くんが、今のあたしを正気じゃないとか何とか、そんなのどうでもいいの。高須くんは、
個々の主観は不明だから、考慮しないんでしょ? だったら、高須くんが今のあたしを正気じゃない
と思っていても、そんなの、あたしには関係ないじゃない。それに…」

腰が抜けて座り込んでいる高須竜児に、亜美はさらに半歩詰め寄る。

「これから高須くんは、リセットされるの。
あたしのこと、この亜美ちゃんのことを、ちゃ?んとしてくれるようにね」

さらに半歩。

「だから、おとなしく、これで、ね…」

亜美は、一升瓶を大上段に振りかざす。これをへたり込んでいる竜児の脳天に見舞うつもりだ。
まともに食らえば、即死か? はたまた、脳挫傷で、一生廃人かもしれない。

「ま、待て、川嶋、落ち着け。は、話せば分かる」

「話せば分かるぅ?? 亜美ちゃん、嘘を含んだ言葉なんて信じられなぁ?い。だから亜美ちゃんは、
直截な行動に出るの。特に、言葉でいくら言っても分かってくれない高須くんにはねぇ?」

亜美は、一升瓶を上段に構えたまま、じりじりと竜児に迫る。一方の竜児は、へたり込んだまま、
ずるずると後退するものの、ついに背中が壁に当たって行き止まり。
万事休すだ。
だが、

「うっ」
酷薄な笑みを浮かべていた亜美が、突然、口元を押さえて、その場にしゃがみ込む。
さらには、

「う、ううう、うぇえええええーっ!」

と、ものすごい勢いで嘔吐した。

「川嶋!」

黄色い吐瀉物が、高須家の玄関の板の間に広がっていく。
亜美は、うずくまって、一升瓶にすがるようにして上体を保持し、吐瀉物まみれの口から、荒い呼吸
を繰り返す。過度の飲酒、その状態での運動。その結果の悪酔いだった。

「川嶋ぁ!」

竜児は、亜美の体を抱きとめ、その手から凶器の一升瓶を取り上げる。
こんなので、ドタマをかち割られたらたまったもんではない。
次いで、古新聞紙を、亜美が吐瀉した内容物の上に広げ、吐瀉物を吸着させる。1時間もすれば、
大方水分が吸着されるから、あとは、残りを雑巾で拭き取ればいいだろう。
それと洗面器。

「川嶋、大丈夫か?」

激しい嘔吐でテンションがぷっつり切れたのか、亜美はぐったりとしていて動けない。

竜児は、亜美を部屋に連れていく。そして、座布団を何枚も敷いた上に亜美の胸部を載せ、亜美を
うつぶせに寝かせる。亜美の頭部は別に積み重ねられた座布団で保持。さらには、亜美の顔の下には吐瀉物を受ける洗面器。
急性アルコール中毒では、吐瀉物が気道に詰まることがあり、これが命取りとなりかねない。
うつ伏せに寝かせて、吐瀉物を回収できるようにすれば、気道に吐瀉物が詰まる危険性はかなり低く
なる。

「高須くん…」

「川嶋、喋るんじゃない、お前は、飲みすぎて急性アルコール中毒になっていたんだよ」

亜美は、「あは…」と、笑いとも、嘆息ともつかない声をぽつりと漏らす。

「失敗しちゃった。高須くんを懲らしめようと思ったのに、亜美ちゃんは、本当にダメな子。
どうしようもなく嫉妬深くて、歪んじゃってる子。
これじゃぁ、高須くんに嫌われてもしようがないね、ほんと、ほんとにダメだ、あたし」

もはや、動く気力もないらしい。

「川嶋、もういい喋るな。それと、気持ちが悪くなったら、遠慮なく戻していいぞ。
そのままの体勢で、吐いても大丈夫なように、お前の顔の下には、洗面器が置いてある」

「う…ん、ありがとう高須くん」

そう言うと、嗚咽とともに亜美は肩を震わせた。

電話が鳴った、時刻は午前1時30分。こんな時間に誰だろうと、不審に思いながら竜児は受話器を
持ち上げた。

「もしもし、夜分にすいません。私、高須くんの高校時代のクラスメートで木原といいます。
高須くんですか?」

「おう、木原か、お前が電話とは珍しいな」

「高須くん、高須くんなのね? よかった、無事だったみたい」

電話での麻耶の声には、明らかな安堵の色があった。

「俺が無事だったとかなんとか、そりゃどういう意味だ?」

「う?ん、ちょと説明する前に、今、高須くんの家に、亜美が来ていない?」

「ああ、来ている。だが、ひどい泥酔状態だ。日本酒を5合も飲んだようだ。
これじゃ、悪酔いしても仕方がない。
しかし、わけがわからん。川嶋の奴、女の敵とか喚いて、一升瓶振り回して。何なんだろうね」

やっぱり実力行使にでたか、と、麻耶は思った。それにしても、

「怪我は? 高須くんも、亜美も大丈夫?」

「ああ、俺はどこも何ともない。川嶋もひどく酔って、嘔吐したが、怪我はない」

「よかったぁ、亜美の携帯に電話してもつながらないし、どうなっちゃたかと思っていたんだ」

おいおい、木原、お前は、どこまで知っているんだ、と、竜児は麻耶に不信の念を抱く。

「なぁ、木原、お前なら知っていそうなんで尋ねるが、いったい川嶋に何が起こったんだ?
いきなり一升瓶を振り回して襲いかかって来たんだぞ。わけがわからねーよ」

電話口の麻耶は、「う?ん…」と呟くように言った。

「お前は何かを知っているんだろ? 今回の川嶋の襲撃。これは、いったい何が原因だ?」

「高須くんは、思い当たる節がないの?」

「あれば、こんなこと、お前に訊かねぇ。本当に、俺にはさっぱりわかんねぇ」

麻耶は、ふぅ?、と軽く嘆息をつく。こりゃ、亜美が言う以上に、鈍感な野郎だわ…。

「あのねぇ、高須くん。今回の亜美の件だけど、その原因は、やっぱ高須くんにあると思うんだよな」

「なんで、俺が原因なんだ? わけがわからね?な」

「そう言うと思った。ちょっと長くなるけど、順を追って説明するね」

木原麻耶は、酔った川嶋亜美が電話を掛けてきて、高須竜児が、ぜんぜん自分を女として見てくれ
ないことに苛立ち、激昂したことをかいつまんで説明した。

「と、いうわけなのよ。亜美は、不安なんだと思う。どうやったら、高須くんの心を自分につなぎ止
めておくことができるのかが、わからずに、もがいているのかもしれない」

そうなのか? あいつの両親は芸能人で資産家で、あいつ自身もモデルをやっていたことがあって、
母子家庭の貧乏息子の俺なんかとは住む世界が違う奴なんだ、何をバカな、と、竜児は思う。

「木原、夜中にそんな冗談はウケないぜ。俺なんか、あいつにふさわしい奴なんかじゃない。
あいつには、もっと似合いの奴がいるはずだ」

高須くん、君は乙女心ってもんが、まるで分かってないねぇ、と、麻耶は舌打ちする。

「ねぇ、高須くん、亜美は高2の成績で、私大文系に振り分けられたのは知ってるよね?」

「ああ…」

「でも、実際は、頑張って、高須くんと同じ国立大学に合格した。これが何を意味するか分かる?」

正解が出てこないことを確信しつつ、麻耶は竜児に問いかける。

「そんなものは、単純に、より偏差値の高い大学に行きたいという、受験生の本能ともいうべきもんじゃないのか? 
ほら、うちの大学からは、局アナとかも出ているし、川嶋は、そっち方面狙いかと思っている」

「いや、そうじゃなくて…」

察しの悪さに麻耶も苛立ちを隠せない。

「そうじゃない?」

「受験勉強を始めたとき、亜美はモデルをすっぱりやめているんだよね。私は、この業界のことを、
よくは知らないけれど。おそらく、1年以上も休業していたら、ほとんど廃業するに等しいと思うの」

「ああ、川嶋も、そんようなことを言ってたな」

そこまで聞かされていながら、なぜ分からない? 麻耶は、亜美に同情する。
こいつの察しの悪さは天然記念物並だ。『気遣いの高須』は、完全に看板倒れじゃないか。

「そこまでの犠牲を払ってまで、どうして亜美は国立大学にこだわったんだと思う? 亜美みたいな
資産家の娘だったら、無理に受験勉強をしなくても、そこそこの私立に行けたかもしれないのに」

「し、知らねぇよ」

「じゃあ、誰のために亜美は国立を目指したんだと思う?」

「わからねぇよ」

麻耶は、「そう…」と、一瞬の間を置いて、

「高須くんのためなんだよ。高須くんと一緒に勉強したいから、亜美は本当に無理して受験勉強を
やって、高須くんと同じ大学に行ったんだよ。人気モデルの地位も何もかもを捨てて」

「信じられねぇ」

「これは、本当の話。高校時代、私と奈々子にだけ亜美が漏らした本音だよ。
『あたしは高須くんについていく。あたしは高須くんと同じ地平を歩いていくんだ。今は、高須くん
が、ずっと先の方を歩いているけど、いつかきっと追いついて、その時は、一緒に歩いていくんだ』
ってね」

竜児は、「そうなのか?」と、消え入るような呟きを漏らしただけ。続く言葉が浮かばない。

「そうだよ、亜美は本気。高須くんのことしか眼中にない。高須くんは、そんな亜美の気持ちに
気づかず、亜美の気持ちを踏みにじった。こりゃ、亜美でなくたって怒るよ」

竜児が、「そんなはずがない」と、抗弁したが、麻耶は無視して、さらに続ける。

「ここからは、私の推測なんだけど…、高須くんに亜美がベタベタしてくるのは、彼女の焦りみたい
なもののせいなんだろうね。
勉強でも、家事でも何でもできちゃう高須くんに、亜美は全然かなわないわけさ。このままだと、
自分は高須くんから疎外されちゃうって思っている。
だから、手段を問わず、高須くんを自分につなぎ止めておきたんいだよ」

竜児が、「いや、あいつは色気過剰だし、ルックスもすごくいい、だから、俺みたいな奴をからかっているとしか思えねぇんだが…」と、漏らすと、麻耶は、きつい口調で、高須竜児に説教した。



「高須くん! 高須くんは、亜美って子を全然分かってない。色気過剰とかっていうけど、その色気
を高須くん以外に振りまいているのを見たことがあるの? 彼女は、高須くんのことしか眼中にない
んだよ。それに、亜美は、自分の見てくれがいつまでも保てるとは思っちゃいない。知性に裏打ちさ
れた、っていうのかな? 内面の美しさこそ重要だと気がついているよ。高須くんのポテンシャルに
釣り合った、高須くんと対等の存在に、亜美はなりたいんだよ」

「……」

「あとは、高須くんの気持ちだね。まさかと思うけど、今でも櫛枝とか、手乗りタイガーに未練が
あるの?」

竜児にとってのつらい過去。
正直、なんで、木原なんかに、という気持ちがあったが、電話での麻耶の口調は厳しく、竜児に逃げ
る隙を与えてはくれない。観念して、竜児は、ぼそりと、言う。

「櫛枝とは完全に終わった、今は、未練は全くない。大河とは、最初から恋愛感情はなかったん
だろう、親子の関係みたいなものだったんだろうな。今にして思えば…」

麻耶の追求は、さらに容赦がない。

「なら、亜美のことは、どうなの? 彼女に対して、恋愛感情は、全くないの?」

認めたい自分と、それを認めたくない自分とが、せめぎ合っているような気が竜児はした。

「どうなの! 高須くんの本心を聞かせてよ」

消去法で選択したようで、それを認めたくなかったのかもしれない。だが、本心は本心だ。

「川嶋のことなら、憎からず思っている。今、言えるのはこれだけだ」

受話器からは、「そう…」という、ちょっと失望したような声が流れてきた。

「高須くん、亜美が元気になったら、亜美が望むとおりのことをしてあげて。もし、何もして
あげなかったら、私、高須くんのことを心底軽蔑するからね」

その言葉を最後に、麻耶からの電話は切れた。
竜児は、数秒間、手元にある受話器を眺めた後、受話器を置いた。

『ありがとうよ木原、俺も、自分の本心を明確に意識できたぜ。だが、俺にも意地はある。
俺の本心を、真っ先に伝えてやるべき相手は、あいつだ…。悪いが、お前じゃない』

部屋に戻ると、川嶋亜美が、洗面器に突っ伏すようにうつ伏せになっており、その洗面器には、
うす黄色い新たな吐瀉物が溜まっていた。

「ごめん、気持ち悪くなって、また吐いちゃった…」

その洗面器の取り上げ、

「いいんだよ、気にするな。ちょっと後始末だけしてくる」

中身を流すべく、トイレに向かった。その竜児の背中に向かって、亜美は、

「電話があったみたいだけれど、誰からだったの? なんだか、あたしの名前も出ていたから気になって…」

「木原からだった…」

竜児は、洗面器を洗いながら答える。

「そう…」

「木原に説教されたよ。お前が怒るのは無理もない。確かに俺はお前のことを何一つ理解
していなかったんだ。恥ずかしい話さ」

固く絞った濡れタオルを手に、竜児は部屋に戻り、

「気分はどうだ? これで口のまわりとか、拭くといい」

と、言って、その濡れタオルを、座布団の上に膝を抱えてうずくまっていた亜美に手渡す。
亜美は、「ありがとう」と言って、顔や、手をそのタオルで拭った。

「寝てなくて大丈夫か? もう、吐くような感じはしないか?」

「うん、多分大丈夫。もう、胃の中はからっぽみたい」

竜児は、ふぅ?、と嘆息をつく。

「吐瀉物を見たけど、固形物なんか、まるでなかった。お前、何も食べずに日本酒を飲んでたんだな。
無茶しやがって」

亜美は、自分の膝に顔を埋めたまま、

「だって、やけ酒でしょ。健康を気遣って飲むやけ酒なんて、この世にあるわけないじゃない」

と、鼻をすすりながら言った。
そうだな、とだけ、竜児は応じた。川嶋にはケアが必要なんだ、と思う。
そして、竜児にできる川嶋のケアといえば…。

「それよりも、川嶋、よかったら何か飲むか? ハチミツ入りのホットミルクなら
今すぐできるんだが」

その問いに、亜美は大きな瞳を眇めて、遠慮がちに応えた。

「う、うん…、飲む、そのホットミルク、あたしがここに初めて来たときに、高須くんが
ご馳走してくれたやつだよね」

「ああ…、よく覚えていてくれたな」

電子レンジで2分加熱、ハチミツを加えてかき混ぜ、亜美に差し出す。

「川嶋、甘さはどうだ? 足りなければハチミツを追加するぞ」

亜美は、首を左右に降って、

「ううん、ちょうどいい感じ。これでいい…」

そのまま舐めるようにミルクを飲みつづけ、空になったカップを卓袱台に置いた。
飲み終わって、ふぅ?っと一息。亜美は、また、膝を抱えて暗い表情になる。

「今日は、高須くんに亜美ちゃんの汚いところ、醜いところを、いっぱい、いっぱい見せちゃった…。
本当なら、こんな変な女、警察に突き出されて当然だよね。酔っていたとはいっても、高須くんに
危害を加えるために凶器を振り回したんだもの、立派な犯罪だよ」

そういって、きゅっと唇を引き締める。酔いが覚めれば、しでかしたことを冷静に振り返ることが
できるようになる。それは、恥ずかしくて、恐ろしくて、嫌なこと、思い出したくもない痛いこと。

「かわいさ余って、憎さ百倍、っていうか、そんな自己弁護はしたくないんだけれど、高須くんの
ことが、亜美ちゃんは好きで、好きで、大好きで、でも、高須くんは、亜美ちゃんに対しては、一見、
冷たくて、だから、亜美ちゃんは不安になって、高須くんを独占したくなって…」

最後の方は、亜美の嗚咽に混じって聞き取れない。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい…」

女が泣く姿というものを見て、何の感慨も抱かないという奴は、少なくとも男じゃない。
その点において、高須竜児も例外ではなかった。

「川嶋…、それはもう気にするな。さっき木原に説教されたように、俺が悪いのさ。お前の気持ちに、
ちゃんと応えてやれなかった、俺のいい加減なところが、ここまで、お前を追い詰めた
。責められるべきは、俺の方だ」

竜児の話を、亜美は鼻をぐずぐずいわせながら聞いている。竜児は、亜美にティッシュボックスを
差し出す。

「でもね、高須くん、バカで鈍感だったのは、あたしの方。
高須くんは、高須くんを傷つけようとした、こんなあたしにも、ホットミルクを差し出して、慰めて
くれる。こんなこと、高須くんは、誰にでもしてあげるわけがない。
今までだって、高須くんの、こうしたやさしさ、ってものを気づかなかった。あたしも本当にバカで、
傲慢だった、責められるべきは、あたしだよ…」

「川嶋、そんなに自分を責めるな」

だが、亜美は首を振り、

「あたしって、本当に、バカだった。高須くんに、お弁当作ってもらったり、一緒にフラ語の勉強し
たりとかで、高須くんを独占していたのに、こんなこと、高須くんは誰にでもやってあげている、
とか、思っちゃったんだよね。ごめん、『こんなこと』なんて表現する事自体が、あたしって、
どうしようもなく傲慢で鈍感だよね。だから、そうした、高須くんの気持ちに気づかなかった、
本当にバカだ、あたしって…」

痛々しい、というよりも自虐的。

「川嶋、もう、言うな」

竜児は、亜美の背後から、亜美のか細い体を抱き寄せる。

「もう言うな、もう…、自分を貶めるようなことは言うんじゃない。そのかわり…」

「そのかわり?」

背中に竜児の体温を感じる。

「俺は、本当は、お前が好きだ。不器用な俺は、これしか言えねぇ」

「それで十分だよ…」

亜美は顔を上げ、竜児の顔と向き合っう。その距離、5cm。亜美は竜児の顎を掴み、
竜児の唇を引き寄せる。
竜児も、亜美の唇に自分の唇を重ねた。
ほのかに香るホットミルク。初めてのキスは、ミルクとハチミツの味がした。
そのまま、時が止まったかのような、静寂。


***
「あれれ、竜ちゃ?ん」

素っ頓狂な、泰子の声で、静寂は破られた。

「竜ちゃ?ん、玄関にぃ、なんかびしょびしょの新聞紙が敷いてあるけどぉ?、どうしたのぉ??
なんか、匂いからすると、お酒、飲みすぎて、吐いちゃったみたいだけれど、竜ちゃ?ん、大丈夫?」

そのまま、ずかずかと、部屋に入り、抱き合っている竜児と亜美を、目撃する。

「やば…」
これから、いいところだったのに。

「あ?、亜美ちゃんだぁ、そっかぁ、竜ちゃんと、いつのまにか、そんなことになっていたんだねぇ。
うん、うん。やっちゃんは、このまま寝ちゃうから、後は、お二人さんで仲よく、頑張って、うふ、
うふふ」

そのまま、部屋で眠りこけそうになる泰子を、慌てて、寝室に連れていく。

「たぁく、メイクも落とさねぇで…」

そして、亜美に向き直り、

「すまねぇ、雰囲気が台無しになっちまった…」

と、頭を掻く。
亜美は、

「いいんだよ、あたしは満足。高須くんの本心と、やさしさが分かったんだから」

そして、「あ〜、頭痛い…」と言いながら、ふらつきながらも立ち上がり、

「今日のところは、帰るね。それにしても、すっげー、いろんなことがあった日、あたし、この日を、
一生忘れない」

それは、竜児も同じだった。

「あたしにとって、ファーストキスだったし…」

え? とばかりに竜児は、狼狽する。

「うふふ、信じた? 高須くんには、そう信じてもらいたいな。信じる者は救われるから…」

嘘か誠かを探らせない、謎めいた微笑を亜美は竜児に向ける。

「もうこれで、あたしは、川嶋亜美は、高須くんのもの。少なくとも、あたしは、そう思っている」

亜美は、右手の人差し指を、竜児の心臓辺りに突きつけ、

「そして…」

ばーん、と、拳銃を撃ったようなジェスチャー。

「か、川嶋…」

「これで、高須くんも、あたしのもの」

天使のようでありながら、悪意のエッセンスが効いた、笑みを覗かせる。
まいったな、こいつは、俺の負けかもしれねぇ、と竜児は思う。

「俺も、川嶋の本心が、少しは理解できたから、おあいこだよ」

亜美は、大きな瞳を、ほんのちょっと眇めて、笑う。

「ありがとう、本当に、今日のことは忘れない」

それから、思い出したように、

「いけない、あたしが吐いたゲロ、掃除しなくちゃ」

そんな亜美の肩を右手で押さえながら、竜児は言う。

「川嶋、いくらお前でも、俺の楽しみを奪うんじゃねぇ。掃除は俺の生きがいだ」

亜美は、ぷっ、と吹き出す。

「そうだったねぇ、スーパーマン高須竜児の必殺技は、お掃除だったっけ?」

「おう! たとえ、世間が許しても、お天道様と、この高須竜児は許さねぇ」

あはは、と、亜美は笑う。

「高須くんは、今日の講義、特に、午後の国木田のフラ語はどうするの?」

「俺は出席するつもりだ。そうだ、昨日のドサクサで、こいつを渡すのを忘れていた」

差し出されたのは、竜児のフランス語のノートのコピー。
大橋駅駅ビルのバーガーショップで、竜児が翻訳していたやつだ。

「あ、ありがとう。これもらっちゃったら、あたしも出席しなくちゃ」

「おう! 頑張ろうぜ、川嶋」

「うん…」

竜児と一緒に、亜美は外に出た。
5月とはいえ、早朝は冷気が肌にしみる。東の空は、茜色に染まってきた。
間もなく日の出なのだろう。

「タクシーがつかまるとこまで、一緒に行こうか」

という竜児の提案に、亜美は、わざと迷惑そうなそぶりで、応じた。

「え?っ、逆効果じゃないの? この時間帯に、高須くんみたいな面相の人がタクシー
呼び止めようとしたって、タクシー強盗と間違われるのがオチじゃん。だから、
亜美ちゃんは、ここまででいいよ」

「強い子だな、川嶋は」

「あはは、何度も言わせないでよ。亜美ちゃんは真っ黒で、歪んじゃった子。
でも、その全てを受け止めてくれそうな人がいるから、あたしは強くなれるんだ」

そう…、と亜美は前置きして、

「高須くん、あんたがいるから、あたしは強くなれるんだよ」

「そいつは光栄だな」

「それと…」

亜美は、小首を傾げて、

「あたしがいるからこそ高須くんが強くなれるように、あたしも頑張るから」

大きな瞳を、見開いたまま、口元を、ほんのちょっと左右に広げて、微笑むのだった。



end

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