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423 HappyEverAfter11 sage 2011/01/23(日) 21:42:47 ID:XJyDsPLH
Happy ever after 第11回
once upon a time
それはとある街での、とあるゴールデンウィークから始まるお話。
少年が少女に出会った理由は至極、平凡なもの。二人は共通の友人の紹介で出会った。
天然を装う女の子と強面の男の子。嘘つきの臆病ものと心優しい無粋もの。
その出会いはコメディ映画のように最悪で、
少女は田舎ヤンキーと陰で笑い、少年はそんな裏の顔を目の当たりにする。
ほどなくして、少女は危機回避の理由もあって友人と同じ学校に転校してきた。
当然、友人の近くには少年もいた。別に運命的な再会でもなく、偶然でもない。
少女は少年とクラスメイトという事もあり、同じ時間を過ごす事が多くなった。
その日々は毎日がイベントのような騒がしい日々だったが、別段、幸福な高校生の生活としては飛びぬけて珍しいものでもない。
ただ、普通の高校生とは違う点がいくつかあった。
少年は同年代の男の子よりも少しだけ思いやりがあって、世話焼きで、かなり目つきが悪くて、
その分、見た目で判断する事の残酷さを知っていて、表面と中身は別物である事を理解していた。
少女は他の女の子よりも、性悪で、意地悪で、嘘つきだと、自分とこの世界をそう思い込んでいて、
それゆえに、真実を見抜く事に必死だった。
だから、
出会ってすぐに、少女は少年の事を陰で笑うことをしなくなり、面と向かって馬鹿にする事をよしとした。
少年は初めから少女の裏の顔を認め、むしろ、彼女らしいと笑った。
いつのまにか少年と少女は仲良くなった。
そういうふうに、できていた。
「くそ……」
朝、七時三十分。天気快晴、ただし室内暗し。
木造二階建て、二階部分の借家。私鉄の駅から徒歩十分。南向き2DK。
「もうやめだ」
竜児は億劫を抱えながら、携帯を握り締める。
「いやだめだ。もう一回」
再度、かかるはずの無いナンバーをダイヤルする。
亜美の声が聞きたかった。
二学期が始って一週間、彼女が実家に帰ってから十日が立っていた。それは彼女と連絡が取れなくなった時間だ。
数日前の夏休みの終わり、竜児は亜美を送り出した。
亜美は親に話しをして来ると高須家を後にしていた。
僅か一ヵ月半程度の共同生活。それがあるから大丈夫だと彼女は言った。
その日々を大切にしたいからこそ、逃げ出すように家を出て、竜児の家にいた事を両親に詫びなければいけないと言った。
そうしたところで竜児との仲が祝福されるとは考えていなかった。
認めてはもらいたいが、解ってもらえる可能性は低いと考えている。
むしろ反対されるだろう、否定されるに決まっていると確信していた。
だからこそ、それは電話であってもいけないし、ましてや、メールや手紙でも駄目だ。
直接、会わなければいけない類のものだと思っていた。だから、家に戻ると彼女は言った。
亜美には心配事がある。竜児がどう思っているか。彼の事を気に掛けている。
彼の家庭環境。実家と縁を切った母一人子一人の家庭の起因は母親の駆け落ちだと聞いた。
別段、母子家庭と言う境遇を憂いた事もないと彼も言っていたし、実際、そうなんだろうと一緒に生活した彼女も確信している。
ただ時折、母親がどれだけ苦労したかを話す竜児。それに報いたいと言う竜児。、
例え、自分の親でなくても、竜児は亜美の両親の事を同じように考えるだろうと思った。
同じ事を繰り返してしまうような負の連鎖は彼を傷つけてしまう。そんな彼は見たくない。
少しでも上手くやって交渉まで持って行きたい。両親との妥協点は引き出したかった。
彼が悔いる道の先は彼女の幸せに繋がっていない。これは自分の為だ。
「二、三日ぐらいじゃ戻って来れないかもしれないけど、必ず帰ってくるから待っててね」
「安奈さん、解ってくれるといいな」
その竜児の言葉はやはり亜美の想定内で、けれど、そんな事はありえないと思っている。だから釘をさす。
自分たちの行動で損害を受けている人たちは存在するし、その人たちから非難を受けて当然なのだ。
善意のつもりでしている事の結果が別な人間には悪意になるという可能性などこの生まれながらの善人は思いもしないのかなと思った。
現実の不意打ちを受けて、苦しんでほしくない。準備はしておいて欲しい。自分たちは悪い事をしていると考えていれば痛みは減るだろう。
そう思って、皮肉交じりに言葉を返す。
「高須くんは甘いよね。現実は厳しいし、私たちがしてる事は、ママや事務所の人から見たら単なる我侭だよ」
竜児は苦虫を噛んだような表情をする。それでも亜美は続けようとした。
耳に痛い話だろう。いやみな奴だと思われるに違いない。けれど、それは自分の役目。
悪い未来、痛みを想定しておいた方が傷は浅くなる。竜児は頭をかきながら、
「迷惑は掛けちまってるな。けど、我は通す。自分がしたい事はする。その上で迷惑を掛けちまった人にはいつか其の分を返すように頑張ってみる」
「偽善者、卑怯者」
「まったく、その通りだな。我ながら勝手な奴だ」
と竜児は確信犯めいた笑いを浮かべてくれた。これなら大丈夫だと思った。
自分達の為に傷つく事も、迷惑を掛ける事も理解してくれてる。わかった上で愛してくれると言ってくれてる。
「ふ〜ん。高須くんも悪人だ」
安心した笑顔を亜美はうかべ、
「けど彼氏としては合格。私を幸せにしてくれそう」
その犯罪者顔にキスを一つした。
だから、「行ってきます」と一時的な別離を宣言し。
「言ってこい」との声を聞いて、戻る場所を確認した後、高須家を離れた。
それが十日前だった。
亜美は竜児に「待っててくれ」と言った、だから彼は待とうと思った。
彼女が実家に戻る事も亜美一人で決めたことではない、竜児も事前に話しを聞いている。
二人でしなくてはいけない事だと確認した。
彼女一人で背負い込んでいる訳でもない。竜児が背負うことも許してくれている。互いを対等と捉え、共に戦っている。
けれど、焦燥感はある。
三日が過ぎて、メールを送った。
五日目からは電話を掛けた。
しかし、返信は無く、呼び出し音はするも、繋がる事はない。それが彼の中の焦りを煽る。
二学期が始ってからは登校の際、亜美を探した。
学校に来るくらいなら、その前にメールくらい帰ってくるはずなのは解っている。
それでも亜美が来ているのではと首を振り、行きかう女生徒の中に亜美を探す。
その目つきで悲鳴を挙げられるが落ち込まず探す。落胆するのは彼女を見つけられない事が解ってからだ。
そして、教室に入り、席に座り、僅かな希望はあっさりと潰えた事を毎朝確認するのが日課となっていた。
休み時間には、木原麻耶、香椎奈々子が亜美の出席状況を教えてくれた。
彼女たちにしたって、いい知らせを伝えたいのだろう。それでも我慢強く、欠席という正しい情報を教えてくれる。
体は正直で胃の中は苦さで一杯になる。だか感謝しなければならないと強く思う。虚偽は敵でしかない。
今、欲しいのは残酷でも真実だけだ。
そんな日々が一週間。
そして、今、竜児は携帯を握り、別な手はないかと考える。
きっと、いい男と言うやつは
「信じてくれてるなら、あいつの行動を全て受け止める事しか出来ない」
なんて、相手を全肯定して、自分の思いを制せる奴の事をいうんだろうなと、亜美の癖が移ったような自嘲を浮かべる。
確かに、亜美を信じる事、待つしかないのが正解なのは解っている。
余計な事をすれば不必要なトラブルの種になる可能性が高い。足を引っ張るだけだ。
それでも何かをしたかった。好きだという気持ちが彼を急き立てた。
以前の彼から退化したのか、成長したのか、そんな事は自分でもまったく解らなかった。
行動する事、それは亜美を信じていないからか?。裏切り行為なのか?。
違うと竜児は思う。
彼は自分が幸せになる為に、自分の時間を使う事を大事な人に約束していた。
やれる事があるなら、行動してみたかった。ただ、亜美の為、なにより自分の為に何かしたかった。
以前のように、勉学に力を入れたり、学校行事に参加したりといった方法も戦いの手段だ。
つながらないと解っている電話を入れるのも、メールをするのも、その一つだと硬く信じる。
それが空高く飛ぶ爆撃機を地べたから竹で突付くような行為や厚い城壁を崩そうと壁を食むアリ程度の行為だとしても。
笑いたい奴は笑うがいいさと割り切る。出来る限りの事はしてみようと思う。手段は常に探している。
だから竜児は手の中の携帯電話を見る。亜美に繋がらないなら別な人間から繋がってみようと考えた。
「考えなしの行動だと怒られるかもしれないな」と、アドレス帳を開き、川嶋安奈の番号を探す。
やれる事があるなら、そのまま何もしないでいる事など出来ない。試してみる。
もちろん、安奈が陽気に電話に出てくれるなどとは思っていない。冷静に考えれば出てくれるはずもないだろう。
亜美へのコールと同じなはずだとは思っている。
けれど、まだ試していないのも事実。
可能性がある以上、電話してみる。落ち込むのはその後で十分だ。
数回の呼び出し音の後、あっさり電話は繋がった。
「…………」
安奈と繋がったことに驚きを隠せない。すぐに声が出ない。着信拒否をされて当然だと思っていた。
そうでなくても今の状況だ。着信名が出て、自分からのコールだと知ったなら、電話に出るはずが無いと思っていた。
もしかしたら登録すらされていなかったという事だろうか?と疑問を持つが、すぐにその回答がなされた。
「こんにちは、竜児くん」
感情の篭らない平坦な女の声が携帯から響く。
「お、おひさしぶりです。安奈さん」
「お久しぶり」
「なんで、出てくれたんですか?、電話」
竜児は気持ちそのままに疑問を口にした。
「出ないと思ってたのにかけたの?、竜児くんは」
「……は、はい」
正直に答える。
「根性無しのつまらない男」
声色に初めて感情が篭った。冷淡な、軽蔑の色がした。
急いで訂正しなければと言葉を捜す。
悪い未来を想定して、失望した場合の逃げ道を予め用意する余裕など自分にはない事に気づく。
「い、いえ。電話に出て頂いてありがとうございます」
「ふん、それで、何の用かしら?」
安奈が少しだけ興味を持ってくれたように感じた。
それを逃すまいと、気持ちをそのままにぶつける。
「か、川嶋…、亜美は今、そっちらにいるんですか?。連絡が付かなくって」
「いないと言ったら」
「夏休みの最後の日、安奈さんの所に帰ると言ってました。ご連絡しなくてすみません。
自宅の前に無事についたとメールが来たんです。だから亜美は戻ってます」
「そう。では訂正するわね。帰って来たけれど今はいないわ。
それと、亜美はあなたとはもう会いたくないって」
「嘘です」
「それで」
竜児は詰まる。何を安奈が言っているか解らないのだ。
彼女が嘘をついている確信はある。自信過剰だと言われようとも、亜美を信頼している。だから、安奈の嘘を指摘した。
けれど、安奈は微動だにしない。
「君が嘘だと思って、それを私に指摘して、それでどうなるの?。ぺらぺらと君に都合のいい話しでもすると思った?
それに私は本当の事を言っている。訂正する必要なんてないわね」
「は、はい」
安奈は容赦無く、切れ味鋭く言葉を返す。氷のようにつめたい。
「嘘だと断罪するのは、裏を取る努力をしたものが言っていい資格。解りなさい
それと、そう宣言した後、どう有利に話を持っていくかまで考えないと意味ないわ」
竜児を蹂躙する。厳格な教師が出来の悪い生徒を指導するように淡々と指摘を続ける。
「すみません」
彼女の言葉を聞き入るばかりだ、さきほどから安奈の迫力と言葉に打たれ続けるサンドバックを甘受する。
「それだけで言いたい事は終わり?」
言いたい事はある。胸のうちは亜美の事で一杯だ。が、声帯がいうことをきかず、声が出ない。
安奈に失望されたくないという気持ちも芽生えていた。叱責を受けないよう言葉を選ぼうとするが見つからない。
そもそも考えがまとまらない。
自分を不甲斐ないと思ってしまう。安奈はそんな沈黙を答えと受け取り。
「本当に、つまらない…」と言いかける。竜児が言葉を挟む。
上手く言葉を使えなくても、頭の良い言い方が出来なくても、亜美の事を安奈と話せる機会を失ってはいけない。
いくらでも言葉で殴れば良い。失望されるのは怖い。自分が絶望に向き合うのは恐ろしい。
けれど亜美はもっと大事だった。だから、
「安奈さん!」
「ん、どうしたの?」
「俺は亜美と付き事になりました」
竜児は亜美を思う気持ちと安奈に何かを言わなくてはいけないという焦りを同時に表現した。
「ふ〜ん、そうなんだ。それで、それを君を嫌っている亜美の母親に告げてどうるするつもり?」
その馬鹿みたいな発言にも、安奈は平然と受ける。
竜児も自分が愚かな事を言ってしまったと思った。それこそ、あいつに考えなしと怒られるだろうなと、
亜美の表情が心に浮かんだ。呆れたような、今にもため息をつきそうなそんな顔だ。
その顔に向かって「本当の事なんだ。隠すことないだろ。ましてお前のお母さんだ」と話しかけた。
すると、イメージの中の彼女は「しかたないな」と呆れ気味だが、優しい顔をしてくれた。
魔法のように、今までの緊張が解けていく事を竜児は感じた。現実に目を向け直す。安奈に向かって彼は
「亜美を俺に守らせてください」
安奈は、彼の声の響きに激昂するように声を大きくした。
「馬鹿おっしゃい。なに、都合のいい事言ってるの」
「都合のいい事言ってます。すみません。けど、俺と亜美は付き合う事を決めたんです。
付き合うって決めて、二人でいると、よくわからないんですが、そういう気持ち沸いてきて。
信念みたいなものにいつの間にかなっていて」
「訂正、つまらない以前に、心底、馬鹿な男のようね」
苛つきをもった声が返って来る。竜児はその通りだと、「はい」と肯定する。
「…あんた、周りに馬鹿ってよく言われるでしょ」
「はい。大…、妹みたいな奴と、それに亜美に」
「そうでしょうね。あの子、私と同じで馬鹿な男は嫌いだから」
「よく怒られます。竜児は馬鹿だから嫌いだって」
軽く見下すような笑い声がした。
「ねぇ、亜美が君の家にご厄介になる時、竜児くん、言ったわよね
責任をもって亜美を預かるって。その本人が手篭めにするなんて洒落になんないわね。嘘つきなんだ盛った雄犬くんは」
竜児は言われるままに、「すみません」とあやまる。
駆け引きなんて器用な真似は出る頭は無い。正直に話すのが自分の誠意だと思っていた。
「手出して偉そうな事言ってんじゃねぇんだよ、で、どこまでよ。まさか、中に出したりしてないでしょうね」
「キ、キスしました」
「それだけな訳あるかての。正直に答えなさい」
「すみません。一回だけじゃなく。何度か、いえ、付き合ってからは毎日、キス…」
「はぁ?」
その程度で済む訳がない。安奈は彼の家に亜美を預けた時からそんな事は信じていない。
高校生だ。そしてお互い好きあってると恥ずかしげも無く言い合うやつらなのだ。普通に考えてありえない。
彼女は竜児を確認しているだけ。どの程度嘘をつけるのか、高須竜児のふり幅を計っている。
川嶋安奈は亜美の上を行く嘘のスペシャルリスト。つく事も、見抜くことに対しても余人には負けないという自負を持っている。
「ふ、そう。最近の高校生は進んでるのね」
と小物を嘲笑するように言った。安奈は竜児の言葉を正確に捉えた。いい意味でも、悪い意味でも竜児の誠意は通じた。
「本当、すみません」
そんな野暮ったい言葉にさすがに呆れたと、駆け引きもせず、
「出鱈目言ってる訳じゃないみたいね。だったら中途半端な自白なんかしないか」
と思わずと言ったように、ケラケラと地で笑う。
竜児は意味が解らなかったが、自分が悪いとは思っていたので「すみません」を繰り返す。
「ねぇ、高須くん。スターの条件の話、覚えてる?」
「たしか、太陽みたいな子の話ですか?」
「覚えていなかったら電話切るきっかけになったのに残念。あれには続きがあるの。教えてあげる」
「それって何の話ですか。俺は亜美の話をしたくて」
「年上の話しは聞くものよ」
と強い声が返ってきた。竜児はまたもや「すみません」と謝罪をして、安奈の言葉を待つ。
「主役を張れるタイプ、私はもう一種類いると思ってる。
具体的に言うと。そうね。例えばサンタクロースをいつまでも信じていられるような人間」
「サンタクロースですか」
「そう、サンタじゃなくても言いのだけれど。自分が憧れる、夢をくれる存在が明確にあって、イメージをいつまでも持っていれる。
周りがどんなに存在を否定しても、自分では決して認めない。サンタが自分の家に来ない事に気づいても諦めない。
ならばと、自分がサンタのように夢を配る真似事をしながら、サンタを待ち続ける。そんな子。イメージ出来る?」
「純真な奴って事ですか?」
「それだけじゃないわね。意志が強くって、我も強くって。サンタの真似みたいな事も恥ずかしげ無くやれる子。
たぶん、そのサンタからプレゼントをもらった子供たちは、その存在を本物のサンタみたいだと思うでしょうね」
とクスリとした息遣いが携帯から聞こえてくる。
「つまり、そういう事。自分の考えを信じれて、行動出来ないと欲しいものは手に入らないわよ」
「は、はぁ」
「私が言いたい事は終わったわ、竜児くんが言いたい事がなければ、切るけどいい?」
会話を続けたいと竜児は思ったが、言葉が見つからない。
言いたいことは言った。亜美の事を確認したくてもただ質問するだけでは安奈が話す訳がないと理解した。ところで、サンタって何だ?
混乱している自分しか見つからない。ただ、時間だけがすぎる。
電話越しに安奈がこちらの言葉をいつまでも待っている気配がした。それに気づいた竜児は。
「ありません」
「そう。じゃあ、最後にもう一つ。私はつまらない男に割く時間は一秒たりとも持ってない。何も行動しない男もね。
そして、馬鹿な男は大嫌い。そういう奴はとことん苛めたくなるから、肝に銘じるように」
そう言って安奈は電話を切った。
******
亜美の実家は高級マンションだ。大物芸能人にして、資産家の彼女の親は都内に住まいをもっていた。
母の安奈の意向、馬鹿は嫌いだから高いところは嫌 という理由で、比較的低い層である三階に住まいを持つ。
その一室、亜美にあてがわれた部屋で、彼女は立てこもり引きこもる。所謂、引き篭もりと化して抵抗をしていた。
叔父の家を飛び出した理由は安奈に竜児へ近づこうとする事を否定されたから。
実家に戻ったのは、竜児の交際を少しでも認めて欲しいから。
誠意をもって、言葉を尽くして説明した。
彼女に甘い父親から説き伏せて、その協力を得て、事に当たるといった搦め手からも攻めてみた。
だが、安奈は折れなかった。
むしろ、力を尽くせば、尽くすほど、「小娘が騙されてる」といった格好を崩さなかった。
今は持久戦だ。譲歩してくれるまで、女優、川嶋亜美は仕事をしない。
彼女自身にとっても痛いが、おそらく、母親の方が痛手は大きい。
亜美のデビューに関して、安奈はその人脈、政治力、そして、資金力を駆使してバックアップしてくれていた。
事務所の役員としての立場もある。正直、恩には感じている。母にとっての仕事の重要さも知っている。
重要だからこそ、それは弱み。したたかに利用する。性悪、川嶋亜美の見せ所だ。
なので引き篭り。交渉の余地を残すため、安奈の目の前でストライキする事が重要なのだ。働いたら負けかなと思ってる。
食糧は父親からの補給線。トイレは隠れて行くか、最悪、緊急避難ですませる。
自分でも理不尽で、大人の対応ではない事は知っている。
喧嘩して家出、家出中は男の家に転がり込んで同棲みたいな事をして、帰ってきて、開口一番、その男と正式に交際するから認めろ。
親の立場から見れば、「いいかげんにしろ」だろう。その事は亜美もよく解っている。
それでも、本気なのだ。我ながら自分勝手だし、昔の自分ならもっと上手く、要領よくやれただろうにとは思う。
だがらこそ、今の自分だからこそ、正面から両親に話さなくてはいけないとも思ってる。きっと、あいつもそう言ってくれる。
「竜児色に染まっちゃったかな」なんて、ちょっと浮かれて、今日も今日とて部屋にいた。
台本を読み直したり、共演者が過去に出ているドラマの映像をチェックしたりして過ごしていた。
そんな時、何処かでコツコツといった音がした。ドアを見る。が違う。そちらからの音ではない。
たしかに考えてみれば、木製のドアを叩く音ではない。
もっと硬質で、衝撃を吸収する事なく跳ね返すような音、例えばガラスのような…
恐る恐ると窓を見る。あのストーカーの記憶が甦る。血の気が引く気がした。
去年の春、窓の外での物音を不審に思い、開けた窓。そこにはニタニタとげひた笑いを浮かべカメラを向けるあの気味の悪いストーカーの顔。
頭を左右に振って、浮かび上がったイメージを散らす。
竜児の前では、あの時のように、ストーカーのカメラを踏み潰すような強がれる彼女ではあったが、
実際の亜美は人一倍、臆病な女で、今だにあの嫌悪感を払拭出来ていなかった。
「まさか、気のせいだよね」と自分に言い聞かせるように、窓を凝視する。
なんの変化もないようだった。「やっぱり、大丈夫」と、ホッと胸をなでおろす。
すると目の前で窓が衝撃音と共に揺れた。ビクリと反射的に体をはねる。そんな弱虫な自分に怒り。
「ふん、負けるかっての」
と大またで窓まで歩み寄り、勢い良く開いて
「誰かいるの!」
と一括する。そして、実は閉じていた目をゆっくりと開くと、
「よう」
と木にしがみ付いて、木の実を片手にもち、こちらに投げようとしていたヤクザのような三白眼の男が挨拶してきた。
「高須くん?」
「悪い、川嶋。お邪魔していいか?」
******
「いや、まいった。大きな木の近くがお前の部屋だってのは解ってたんだが、いくつかあるのな。かなりあせったぞ」
竜児は窓から亜美の部屋にのり込むと、靴を脱いでやっと一息。たくと呆れ気味の亜美に促され、彼女のベットに腰を掛ける。
ベットに座るや否や、シーツや枕カバーが気になって、手触りをチェックしたり、洗濯時を確認したりするものだから、
余計、亜美を怒らせる。
「高須くんって本当、馬鹿。まさか運だのみの偶然だけでこの部屋見つけた?」
亜美は椅子の正面背面を逆にして座り、背もたれを両手で抱え込むようにしてもたれかかると不機嫌な表情のまま、呆れ顔で問う。
「そうでもないぞ。まえお前から聞いた話がヒントになったからな。木の近くに窓がある三階の部屋。
で、川嶋を尋ねてる訳で、お前がいないとしょうがないから明かりがついている所。
後はたしかに出たとこ勝負だったな。近くまで行って、カーテンとか、見えるものがお前の趣味ぽいかで見当つけた」
「そ、そう。私の好みで判断したんだ」
そうして、亜美は髪を掻き揚げ、時間を作った後、台詞を探し、馬鹿にするように話しかけ、やっとの事で抵抗する。
「やっぱり、高須くんストーカーの才能あるよね。何時の間に実家の場所調べたのよ」
「北村に聞いた」
「祐作のやつ。後でギタギタにしてやる」
幼馴染を悪役にすることでその動揺を抑える。
そんな彼女の内心に気づく事なく竜児は取り合えずと部屋を見渡す。
あるのはベットと机、それに椅子。テレビとかオーディオ機器。いくつかのペットボトル。それくらいだ。
後は大量の引越し業者のロゴ入りの箱。
「しかし、ダンボールだらけだな」
と何も考えずに質問する。と帰ってきた言葉は
「ママが叔父さん家から勝手に運び出しやがった。絶対これ、このまま送り返すから。だから開けたりなんかしない」
「負けん気の強いやつだ」と竜児は軽く笑う。同時に「じゃあ、あれはなんだろう」と思う。開けたダンボールが一つあったからだ。
「こいつは?」
「そ、それは、しょうがないじゃん。どうしても必要なものが、そう、生活必需品が入ってたんだもの」
と早口で亜美は言い返す。
「おう。そうなのか」素直に受け容れる竜児だが、
それなのに、亜美は勝手に盛り上がって、「疑ってる?」という風に尋ねてくる。
「いや、そんなことないが」
「そうだ。入ってた下着、付けてあげようか?。今、適当なやつしかつけてないから丁度いいし。
亜美ちゃんの生着替え、生亜美だよ」
なんて、首を傾けて、しなをつくって、竜児を見つめる。少し話しをずらしにかかる。
竜児もあっさりのって、
「馬鹿、そういう事しに来たんじゃねぇ」と真剣になって、否定する。
亜美はしめしめと心の中で笑った後、あえて「つまんないの」と不満の顔をして、
竜児が来るまで話し相手にしていたぬいぐるみを手に取ると、最近の癖でギュッと抱きしめた。
ヌイグルミのちびチワワが家に来てから、亜美はやな事があった時、不満を感じた時、こんな事で自分を慰めている、
けっこう寂しい娘だったりする。
今回はあくまで、演技だったので気分が落ちてる訳ではない。むしろ、ひさびさの軽口だ。テンションは上がってきている。
いろいろと面白くなってきて、亜美は自分自身、そらした話がなんだかすら忘れていく。
「たくさ、彼女の部屋に来て、やることとか他にあるんじゃない」
と、手に抱いたチワワのぬいぐるみを竜児にけしかけ、「ばう!」と鳴いた。
「おう、それって、俺が作った奴だろ。ちゃんと持っててくたのか」
竜児は嬉しそうにぬいぐるみの頭を撫でた後、「貸してみろよ」と亜美から受け取ろうとするが
「やだ」と亜美は素早く胸元に戻し、再びチワワを抱きしめる。
「いいじゃねぇか、減るもんじゃねぇし」
「へる!」
「プレゼントした時、お前、文句言ってたろ」
「それはそれ、これはこれ。この子はもう亜美ちゃん家の子。一度、自分のものにしたら、絶対、手離さないのが私の主義だもん」
とふざけてはいるものの、頑なに拒否する。
そんな態度に、「大事にしてくれてるんだろうな」と竜児も楽しくなる。しばらくぶりの会話だ。こういうおふざけも悪くない。
ならばとそのチワワは諦め、別なものはと見回し、ベットの隅の別なぬいぐるみを見つけた。
手を伸ばし、代わりにそれを手に取ろうとする。
「ぬいぐるみなんか自分のキャラじゃないとかいいながら他にあるじゃねぇか」
とその目つきの悪い、枕状のぬいぐるみを手を伸ばす。
「へなちょこ。お前に決めた」と、チワワとのバトルに挑もうとする。
手に取ったそいつは、ボロボロで、顔には噛まれた後が多数残る。体など何度もさば折されたかのように長い体にフニャとしたところも出来ている。
なにか人事じゃない気がして、バトルは取りやめようと思う。なんか、こいつではチワワに勝てそうに無い。
竜児がそのへなちょこを手に取る姿を見て、亜美は一瞬動きを止める。その後、目を大きくして叫ぶ。
「な、ちょ、ちょっと」
そして亜美は体ごとぶつけるようにして飛び掛る。竜児は不意打ちを受けて背中から後ろに倒れ込みんだ。
「なんだ、いきなり」
「これは駄目!」
竜児からドラゴンのヌイグルミを奪い取る。取り戻そうと右腕が伸びるが亜美はさせるものかとその手首を掴む。
その間に先ほどまで座っていた椅子の方向にヌイグルミを避難的に投げつけた。
ぱふと、椅子の下に転がったチワワにぶつかり、そこに落ちた。
すぐさま、空いた手で竜児の左手首を掴み、自由を奪う。
「乱暴だな」
「高須くんがデリカシー無いことをするから」
と言っても二人は怒っている訳でもなければ、不満を抱えている訳でもない。
ただ言葉を遊ばせ、感情を躍らせてみた結果に過ぎない。その結果のじゃれあいの末のレクリエーション。
気はつかっても、遠慮はしない。配慮はしても、自分が信じる行動は抑えない。行き着いた末の二人の距離だ。
言葉遊びをして、その場の流れに任せて気持ちを絡ませて、じゃれあっているだけ。
抑えている竜児の手首も、振りほどけないほどの強さでもない。甘つかみともいうべき程度。
押し倒されたといっても、そこはベットの上だ。衝撃などない。
亜美にしたって羞恥心はあったが、それは竜児を思ってこその恥ずかしさ。
実際、竜児の体に触れてしまえば、そんなものは吹き飛んでしまう。掴んだ指から体温を感じる。
気がつけば、息がかかるほどの距離に顔を近づけている。彼の体臭を鼻腔が捉える。そして、ここはベットの上だ。
「これから……乱暴…しちゃおうかな……」
彼氏、彼女の関係だ。少し位のスキンシップはいいのではないだろうか、自分への言い訳が立つ。
亜美は少しだけ舌を出して、唇を舐めた。
合理的な行動だと思った。
リップをしっかりつけていなかったせいか、カサカサになっている気がしたからだ。たぶん、このままじゃ痛い。
竜児もそんな感触なんかは楽しくないだろう。
そう思って、亜美は唾液を舌で運び、唇に塗った。
あえて、竜児の瞳を見つめながら顔を近づける。
「動揺したら可愛いのに」
そんな悪戯心をもって、ゆっくりと、出し惜しみをして近づけている。
のに、がっかりだと思った。
少しも慌てた様子がない、むしろ、竜児に瞳の底に劣情を感じた。竜児の了解の意思を感じ、それに亜美の女が反応する。
自分も欲情している事を知った。速度を上げて竜児の唇を奪う。
「ちゅ」と濡れた粘膜同士が重なる音がした。
最初は軽く唇を合わせる程度。二度、三度と笑顔をかわしながら繰り返す。ついで竜児の上唇を軽く噛む。
くわえた後、軽く吸いながらゆっくり引く。
彼の唇の厚みを確かめるように何度か繰り返す。そうする事で、竜児と自分に摩擦という刺激を与え続ける。
いつもまにか、キスの音は
「ちゅるちゅる」
という合わさる音と吸う音が重なりだす。
普段は外気に触れない唇の裏側がヒリヒリしてくる。当然だ。なるべく接触粋を多くしたいが為、二人はその奥まで使っている。
外気に触れない世間知らずなその皮膚は、苛烈な刺激にさらされていた。それが気持ちよく感じる。
後を引いて、もう一回、さらに一回とその皮膚が刺激を求めている。
そこだけではない、準備運動は終わっただろと、いつの間にか唇全体が快感を求めうずきだす。
少し口をあけて、彼の口自体を甘噛みするように口を合わせる。そして、ゆったりと閉じる。唇全体をこすり付けるようにあわせる。
しばらくしてから、また開く。なんどもお互いを重ね続けた。
亜美はキスというもの夢を持っていた。
ドラマや映画のラストシーンに相応しく、お互いの愛を誓うような、自分の恋心を愛をささげる様な行為であると思っていた。
情熱的なものや、淫微な激しいものにしたって、それは気持ちの表現なのだろう。
精神的な気持ちの共有みたいなものがその本質なのだろうと考えていた。
だが、それだけではなかった。想像するのと、経験するのとは大違いだ。この行為は性行為だ。
敏感な感触帯である唇を互いこすり合わせる行為。
快感を得たいが為、何度も何度も、こっけいに求め合う。
自分から、気持ちよくなりたいと唇を寄せる。男が自分に快感を求める事を実感して支配欲を満たす。
欲望に溢れるばかりの行動だ。
亜美は自分の行動をそう分析していた。
その実感を確かにした行為、
亜美は唇を開く時、竜児もそれに合わせてくれる事を確認して、ゆっくりと舌は伸ばす。
「高須、くん…」
「ん…川嶋…」
より敏感な器官をパートナーの口内に侵入させようとする。
果たして、愛を伝えるため舌を伸ばす必要があるのか、動物のようにぴらぴらと舌を揺らす必要があるのか。
否。それは気持ちを伝える為ではない、あなたと気持ちよくなりたいという合図だ。
高須竜児に川嶋亜美は快楽をせがんでいる。
その認識が彼女のひだをふるわせた。竜児の舌が欲しい。彼の舌で、自分の口を、舌を犯して欲しい。
少しだけ伸ばした舌を、彼の舌に会合させるため、もう少しだけ伸ばしてみる。
自分が男を求める女の一人にすぎないのは解っている。
それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。快楽に弱い女だとがっかりされたくないという少女じみた気持ちもある。
だから、隙あれば、「高須くんは女の子に幻想抱くタイプだよね」等と言って、予防線を張っているのだ。
けれど、もう唇だけのキスでは切ない。一度、知った感触と気持ちを忘れる事は出来ない。
舌をからませあった時の高ぶりを再び感じたい。あの熱を教えたのは目の前の男だ。
恥ずかしくても、高須竜児の熱を求めずにはいられない。
彼も同等の好意を持っていてくれると唇で確かめたい。特別なことをしたという事実を積み重ねたい。
亜美は舌を少しずつ伸ばしていく。
「あっ」
舌の先に、柔らかな感触を感じた。竜児が彼女を迎えるように自分の舌を伸ばしていたのだ。
快楽と共に安心感が後頭部辺りに電流のように走る。
ほんの数mm程度の表面積接触だというに体の芯から震えが来て、自分が濡れるのが解った。
その震えと安心感から、気を抜いてしまい、舌が内に引っ込んでしまう。
一瞬だけしか、あの気持ちは得られないのかと失望感が襲ってくる。
が、それは思い込みだった。
竜児の舌が彼女を追って口内に侵入して来る。
そして、逃げるなとばかり、絡めてつけてくる。亜美も追いかけてきたそれに報いようと精一杯、竜児の動きにあわせて舌を動かす。
男も、女も、ついこの前まで、軽めのキスしか知らなかった二人は、ぎこちなくも動かし、お互いを求める。
それは経験も技術もなかっただけに、乱暴で、原始的、そして本能的だった。
ぬめりと互い唾液を潤滑油にして、すべらせ、舌自身を舐めあう。
舌が一瞬はなれたかと思えば、歯の裏や、頬を、すべてを征服しようと舌を伸ばす。
けれど、もう一方がそれを許さない。追いかけ、求め、絡める。
捕まった方も、素直にそれを受け入れ、倍にして愛情を返した。
「ちゅ、ちゅっ…んんっ…高須くん…」
互いの唇と舌を貪る。飢えた獣のように貪欲に、鼠のようにねちっこく舌を絡ませる。
密着時間を少しでも延ばそうと 、息を止め、何十秒もお互いを求める。
「ふ…、は…はぁ、川嶋…」
粘着質の音と、息苦しい声だけが部屋の沈黙を埋める。
息継ぎをする為に唇を離し、互いの名を呼び合う。愛しさで胸をいっぱいいして、真っ直ぐに互いの瞳を見つめあう。
時間が惜しいと唇を吸いあう。
…んんん…ぢゅっ、んむ…ちゅ、ぱっ…はあ、あ、あは…
二人はただ、キスに没頭した。息遣いだけが部屋を満たす。
だが、ただのキスといっても疲労はする。
一日、部屋に篭城して、現在のしとねも、竜児に体を預け、上からキスを続ける亜美はまだしも、
竜児はただでさえ負荷の高い一日を過ごし、亜美の家まで駆けつけた。
現在もベットの上とはいえ、亜美の体を支え、重力に逆らって舌を伸ばし続けるのは相当な消耗だった。
竜児は舌を口内に納め、顔を離すと、新しい酸素を体に取り入れる為に深く息をすった。
だが、亜美は止めたくなかった。体力はある、それに川嶋安奈との孤独の戦いを強いられてきた彼女は、
表面上は強がっていても、温もりを求めていた。
そして、目の前には高須竜児。心の底から求める男の子。舌の動きを止めることが出来なくなっていた。
精一杯、自分の舌を伸ばした、竜児の舌を追う為に。
気づいた時には、そんな、発情した犬のように舌を伸ばす自分と、そんな大胆な行為をしている自分を驚きの目でみている竜児。
羞恥心が蘇り、急いで引っ込めようとするが、それも出来なかった。いつもの竜児の目、亜美にはおだやかに見える目をして、
亜美の舌を唇だけで噛むととゆっくり引く、まるで舌を愛撫するように何度もそれを繰り返す。
ちゅっ、ちゅっ…ちゅぶっ、るりゅ…
粘着質の音だけが部屋の沈黙を埋める。
亜美の舌が竜児の口の中で音を立てていた。それはやらしく、けれど、やさしく、亜美の脳髄をやいた。
いつまで、私は舌を出していられるのだろうか
一秒がもっとゆっくり流れてくれれば良いのに
あられもないと思いながらも、むしろ、舌を舐めてもらいやすいように真っ直ぐに伸ばして、
少しでも接触域を増やそうと精一杯伸ばす。
甘かった。純粋な味覚ではなく、空気が。熱かった。室温なんかじゃない。血液の温度が。
この一瞬に近い抱擁だけでも、登り詰めんばかりに酔いしれる事が出来た。
陶酔していく気分。反比例して力が入らなくなる肢体。力がはいらずとも動きを止めたくなくて舌を伸ばす。
頭がクラクラする。意識が飛んでしまうのではないかと思える。
それを察した竜児は、なんの予兆もなく行為をやめて唇を離す。
「止めないで欲しい」と強く思った。あと、もう少しで何かを越えられる気がしていた。だから言った。
「高須くん。私、すごく、喉が渇いてる」
舐め続けてくれた竜児の口内には沢山の唾液があるのは解っていた。
竜児が下で、亜美が上だったから自然な流れでそれが得られる事はなかった。
亜美は自分からねだった。もう少しで完全に染まる事が出来ると思った。
竜児は亜美の熱で朦朧となったような声に誘われるまま、体を抱きしめ、体制を逆にする。亜美が下で竜児が上。
上体をかぶせるようにして強いキスをする。彼の唇を彼女の唇にかぶせる様にして唾液を口移しする。彼女の口腔へと流し込んだ。
亜美の彼のつばをすする音が聞こえる。それが興奮を誘い、竜児の体の奥から、次から次へと唾液が沸いてくる。
フェロモン溢れた甘い唾液だ。
「飲んでくれ」
「んっ…。」
亜美は熱い吐息を鼻から漏らしながら、んく、んく…と小さく喉を鳴らして嚥下する。
彼の体から出た液体が意識を犯す。亜美を犯した。亜美の目はトロンとして色になり、媚びた光を浮かべる。
彼の色に少しでも染まれたような気がして、下半身の女が震える。
ゾクゾクと背中も揺れる。自然と身震いをしてしまう。下半身がむずむずとして太ももをすり合わせる。
目の前の男が欲しくなって彼の瞳を覗き込む。彼自身も求めてくれているように思えた。
このまま流れに身を任せてみたいとも思う。
けれど、ここで頭をもたげてしまうのが彼女の悪い癖。考えてしまった。
相手は…
問題無い。というよりも、これ以上何を望むのだろうか。
タイミングは…
それ程よくない。今は安奈との戦争中だ。そんな中、押しかけて来た竜児に言いたい事はたくさんある。
そんな最中だからこそ、来てくれた事も嬉しく思う。
そういう意味では悪いわけでもない。
場所は…
最悪だ。自分の部屋というのは悪くない。もっと掃除しとけばよかったとは思うが、それぐらいだ。
一流ホテルのスィートを用意しろと言うのではない。ふざけて言う事もあるが、けして真意ではない。
ただ清潔なベットがあって、身体を洗い流せるシャワーがあれば十分だ。
シャワーが欲しい。
体臭が気になる。立てこもりが五日間。その間、当然、お風呂はおろか、身体を拭くこともしていない。
コロンは部屋にあるが、この状態で、「ちょっと、待っててね」と言って、つけてから
「どうぞ」なんて言えるわけもない。「準備万端、いたしましょう」なんて恥ずかしい真似は出来ない。
でも、「意外と体臭きついな」なんて言われた日には。竜児を刺して、私も死ぬ!とさえ、突発的に思ってしまう可能性が高い。
特に下半身は蒸れた日だと自分でも解るくらい匂いが強くなる時がある事は確認すみだったりする。
こういう日を想定してのシュミレーションは欠かしていない。
自分からだと言うのも少しやだ。山の時とは状況が違う。なし崩し的にするよりは、出来れば男の意思で求められたいのが女心。
初めてなのだ。出し惜しみをする気はない。むしろ捧げたい。だがそれなりに誠意も示してもらいたい。
我ながら面倒臭い女だとも思う。
せっかくなのだ。最高のものにしたいという願望がある。
特に最初のキスがあまりにも大事な記憶になっているだけに、初めてのSEXで同じくらいのものを手に入れたいと願ってしまう。
最大の問題はドアの外、他の部屋に人がいるであろう事。彼女の説得ないし監視の為、見張りが常にいた。
行為の最中に入てこられたりしたら、竜児との仲を反対される強い論拠になってしまう。
冷静に考えれば、してはいけないと彼女の理性が判断していた。彼氏彼女の仲なのだ。機会などいくらでもあるだろう。
だが、それが解った上で、「どうしよう」と亜美は思い悩む。
体は火照っていて、本能は「どう」を放り投げて、「しよう!」と亜美の理性にささやき掛ける。
今なら、自然な流れな気がする。きっと、彼も「したい」と思ってくれている。
こいつが求めてくれるなら……
「高須くんがそうしたいなら」
だから、誘いの言葉を掛ける。
「いいよ」
「何がだ?」
帰ってきた言葉の意味を彼女は理解出来なかった。相手がもっと今の状況をよくわかってないという言葉だと気づいて、
「やぁー、もう!」
毛細血管が破裂しそうなほど怒りが沸く、恥ずかしさも吹き飛んでしまう。
「だから、この続き」
竜児は考える素振りを見せる。それだけで腹が立つ。忍耐で作れている彼女の心の我慢の袋が急激に膨らんでいく。
ここまで私がリードしてるてのに、普通は彼氏がやってくれる事だろう。
「今はやめとかないか」
「なんでよ!」
と「やりたい」と隠さずに言ってしまった事に気づいてと亜美は手のひらで口を押さえた。
竜児はそんな事が解っているのか、いないのか淡々と
「そりゃ、俺だって川嶋と先に進みたいとは思ってる。けど、それをしたくて来たわけじゃなかった」
「それなのにこんな事するんだ」
「ごめんな。突っ走ちまった」
竜児は後悔の念を顔に出して謝罪する。亜美はそんな顔を睨みつけていた。
腹が立っていた。
恥ずかしかった。
恥をかかされた…のとはちょっと違う。
こんなに自分は求めてるのに、こいつは同じくらい欲しいと思ってくれない。
そう感じて、腹が立って、恥ずかしくって、イライラした。
そんな亜美に気づかずに竜児は話続ける。
「俺はただ、お前の顔が見たかっただけなんだ」
「なに、たったそれだけの為に泥棒紛いな事までしたの?。いっそ、駆け落ちしようとか言うくらいの気概があってもいいんじゃない?」
亜美は気持ちを整理出来ずにいた。馬鹿だとは思った、大馬鹿だと思った、自分に会いたいが為だけにこれだけのリスクを侵す馬鹿。
嬉しかった。
自分でも訳が解らない。その勢いのまま暴言のような発言が口から出てしまっていた。
駆け落ち
亜美自身、駆け落ちといった手段が正しいとは思ってない。むしろ、そう竜児が言った時用に反論の用意をしていた。
「現実的じゃない」とか「無計画すぎる」とか。
それなのに竜児から不意打ちで混乱した気持ちのまま、自分からそんな事を言ってしまった。
高校生の駆け落ちなんて成功率が限りなく低い。
第一、反対する人間を切り捨てて、周りに迷惑を掛けて、二人は幸せになりました。それではあまりにも子供の振る舞いだ。
ただ、亜美が好きな竜児は、そういった情熱的な一面がある様に思えていた。
そして本気で竜児がそう言うなら、最後まで反対する自信は彼女にはなかった。
竜児はそんな亜美の言葉をいつもの冗談だと思って、軽く笑い。
「駆け落ちなんてお前が反対するだろ」
「当たり前じゃん」
「そんな大げさな事じゃないが、もう一つ目的があった。これこそ、お前をうんざりさせるかもしれない」
「これ以上、呆れることなんかないって、約束してあげるから言ってみて」
「その為に来たんだものな。えーとな。つまりだ。頑張ってくれてありがとうな。だ
俺が言うまでも無く、お前はしてくれてるだろうから礼だけでも。その上でお願いだ。
安奈さんに逆らうなんて大変だろうが、これからも頑張ってくれ。俺も頑張るから。
て既に頑張ってる人間に言う事じゃないな。悪い」
それを聞くと亜美は急に口をつぐむ。
「解ってくれている」
キュッと唇を強く結び、喉まで出掛かった言葉を外に漏れないようにする。
「その上で自分も頑張ってくれると言ってくれた」
瞳に力を入れて何かに耐えるようにする。しかし、体の芯から来る震えを今度は抑える事が出来ず、体を一度震わせて、
それでも、意地を張って
「バッカじゃないの。呆れて何にも言えない」
と一言だけ頑張ってみた。
「やっぱり怒るよな」と反省気味の竜児に、「大好きだよ」と言いたくて、言えなくて、亜美は別の言葉で彼に応える。
「あのさ、頑張ってくれるのはちょっとは嬉しいけど。でもね、あんまり無茶しないでよ。
泣いても、笑っても、後五日で決まるから」
「?、五日間でなにがあるんだ?」
「撮影が始まるの。夜十一時くらいのドラマだけど、それでも準主役。私にはすごく大きな仕事。
マネージメントに回ってるママにとってもね。つまり、それがリミット。その仕事をボイコットしたら引き返せない」
「引き返せないってどういう意味だ」
「つまり、それを超えたら女優、川嶋亜美は終了って事。これはママと私のブラフの掛け合い。
ママのカードは従わなければ芸能界から干すってカード。譲歩条件は高須くんと別れる事。有り得ないての。
私のカードはママが組み立てた仕事、ボイコットして、川嶋安奈の面目丸つぶれにするって札。譲歩条件は付き合うのを認める事」
竜児は顔色を変えて、
「だが、お前が俺の為に芸能界やめるてのは!」
亜美はにこやかに笑う。
「言ったでしょ。私は私の幸福の為に人生を生きて、自分の幸福の為に高須くんを愛してあげるって。
全ては自分の為にやってるの。高須くんの為じゃない」
「そうなんだろうが。けどな…」
亜美は今度は笑顔を辞め、真剣な表情で
「竜児。あんたは女優の亜美が好きなの?。それとも目の前の川嶋亜美が好きなの?」
その言葉に頭が下がり、
「すまん。お前を侮辱するような事言うところだった」
「大丈夫だって。心配してくれてありがとう。でも今回に限って言えば勝算十分。ママの方が分が悪い。
この仕事つぶしたら、ママが長年作った人脈と信用が大崩壊だもの。リスクが多すぎて、そんな賭けは出来ないはず。
私たちはこの簡単な勝負をクリアして、強い意志を示す。私達が譲歩する気がないって解らせれば目的達成、あとはママに従う」
「それならいいが」
亜美は竜児が安心するように言葉を掛けるが、考えている事は違った。
(どちらにしろ今回の仕事が終わったら、序序に手引いて、最終的に私は事務所から放逐なんだろうけど。
ママ、身内にも容赦ないし。どうせ、七光りだけじゃいつまでも仕事取れないし、そんなんじゃ芸能界じゃやっていけないもの)
なんて気持ちは竜児につげない。
「今日もけっこうヤバ目だったんだけどさ。キャストのクランクイン前の最後の顔あわせがあったんだ。サボってやった。
ママ、妥協案くらい出してくると思ったんだけど、何の反応も無し
昨日の昼までは、交渉ぐらいしたんだけど、夕方くらいからかな。急になにも言ってこなくなって。
さては何かあったか、て踏んでるんだけど」
「昨日の夕方?、俺、安奈さんに電話で怒らせちまった」
「え、ママ電話出たの?、私の前では高須くんに事、散々こきおろしておいて。言語道断。話す価値もないって言ってたのに」
「そんな風に言われてたのか」
「もう酷い言い方でさ。実際、聞いたら立ち直れないと思うよ。タイガーの悪口の比じゃないもの。
当然。私のかわいい憎まれ口なんか足元にもおよばない」
「川嶋の憎まれ口がかわいく聞こえるとしたら相当なものだな」
「なによ〜」
またじゃれ合いモードになりそうになるが、そんな自分に急ブレーキを踏む亜美。なにか引っかかる。
「ねぇ。高須くん。なんで私に会いに来てくれたの?」
「だから言ったろ。お前の顔見たくなって。なんの助けにもならないかもしれないが、何かしたくなった」
「そうじゃなくて、来てくれたのは嬉しいし、それだけで助けにはなるんだけど。どうして、そう思ったのかって」
「理由?、そう言われてもな…。急にお前に会って、礼言いたくなったとしか…」
「ごめん。ちょっと待ってて」
亜美はベットから立ち上がると、ゆっくりとドアを開いて外の様子を伺う。
少しして、竜児を部屋に残し外に出て行く。
「信じられない。誰もいない」
亜美は戻ってくると、驚きを竜児に伝える。
「留守なのか?。俺、いいタイミングだったな」
「あのさ、高須くんは最初から木登って、私の部屋に来ようとした?」
竜児は笑って
「さすがに最初は正面から入ろうとするさ。けど、マンションの玄関で駄目だった。
自動ドアは閉まってるし。インターホーンはあっても部屋番号は解らない。そもそも安奈さんに入れてくれなんて言えない。
一応、いろいろ入り口探したが解らくてな、最後の手段だって、木に登った。
俺、この目つきだろ。住んでる人にジロジロ視られて、通報されないか心配だった」
と冗談交じりでしゃべる。亜美は余計、真剣みをました顔をして
「ねぇ、竜児、今がチャンス。一緒にここ出よ」
「駄目だろ。それは」
「これはね千載一遇の機会なんだって。監視が誰もいないことなんて今まで無かった」
「いや、だが。安奈さんが心配するだろ。あの人は敵じゃないんだ」
「竜児は甘い。それに、私が竜児と別れなくてすんで、女優も続けられる絶妙なタイミングなんだって。
まだリミットまで五日間ある。三日ぐらい身をくらまして、ママに、私たちの本気とリスクを思い知らせる。
それで前日か、前々日に交渉するの。ママが考える時間。クランクインに準備する期間。両方ある」
竜児はその駆け引きがどういう効果を引き出すかよく解らなかった。
が、亜美が女優が続けられる見込みがあると聞いて、その案を受け容れる。
「わかった。お前のアイディアなら、俺が考えるより間違いない。いくぞ」
「うん」
と亜美は慈愛の女神の笑顔で応えた。
竜児は窓に片足を掛けると、亜美に手を伸ばす。
「俺がフォローしてやる。行くぞ」
だが、つがいの女の子は腕を組んで仁王立ち。
「亜美ちゃんがそんなとこから降りれる訳ないでしょ。第一、竜児のフォローなんて信用出来ない」
「外に行くんだろ?。それじゃどうするんだ?」
「正面から出ればいいじゃん」
「お、そうか」と間抜けな顔をする来た道でしか戻る発想のなかった竜児を尻目にコロンを入念に身体に纏うと、
「ちょっと待ってて」と家を歩きまわって準備をし、逆に竜児の手を引いてマンションを堂々と進む。
あまりの堂々さに竜児は不安になり、
「裏口からソロソロと出たほうがいいんじゃないか」とか「鉢合わせしないように急いだ方がいいんじゃないか」
等と言うが、まったく受け付けず、むしろ、誇示するように歩く。
「こういうのは、当たり前な顔して、堂々としてた方がいいんだって」との言葉に「そんなもんかと」と従う。
亜美はすれ違う住民たちには笑顔で軽く挨拶するくらいの余裕を見せる。
竜児はその度に、握った手を離そうとするが、それすら許さず。
「恋人同士なんだもん。それなりの態度とってよ」
と言い渡し、正面門から、威風堂々と勝者の歩みでマンションを亜美は後にした。
目指すはお気楽でゆったりとした憩いの我が家、高須家だ。
******
二人が高須家に辿り着きドアを開けると逢坂大河が立っていた。そして、誇らしげにこう言った。
「ね。だから言ったでしょ。竜児はばかちーを連れて帰って来るって」
居間に座っているやつらに声を掛ける。すると、そちらからも返事が来た。
「大河の言う通りだね。お帰り、高須くん」と櫛枝実乃梨。
「いや逢坂の方が高須たちを解ってるとは親友として不甲斐ない。すまんな高須」と北村祐作。
居間の二人は立ち上がると、出迎えに出る。
「あーみん。大変だったね」
「お疲れ様だな。高須」
と彼ら労う。亜美は「え、あ、うん」となんとか返答するが、竜児はまだ、状況が飲み込めず
「なんで、みんながいるんだ?」と問いかける。すると北村が頭を下げ、
「すまん。原因は俺なんだ。俺の電話で逢坂が気づいて、こんな感じだ。
高須に亜美の実家の場所の件で言い忘れた件があってな。亜美の家はセキュリティーが厳しい。普通に行っても入れない。
だから、その辺りの話をしておこうと思ってな。携帯が繋がらなくて、自宅に電話した」
「北村くんでも教えてくれなかったら、私、怒ってたから。それから竜児も」
と睨みつける。男共は同時に
「すみません」
と頭を下げた。それは女が強くなった時代の話。
大河の「さぁ作戦会議よ!」の気合の入った声が開催を告げる。
居間に五人がちゃぶ台を囲んで座る。狭いながらも楽しい我が家ではあるが、五人と一匹ともなれば密集感は際立つ。
「みんな、いろいろすまない」竜児が感謝の言葉を告げる。
北村がなにを水臭いと笑う。
「で、どうしようと思ってるんだ?。高須」
「取り合えず。この二、三日間は安奈さんの所にコイツを返す気はない。川嶋の話だと、それで安奈さんにプレッシャーを掛けられる」
「しかし、泊まる所はどうする?。高須の家は知られてるだろ。他の奴の所だって、筒抜けだ」
「取り合えずビジネスホテルとか、マンガ喫茶とか使ってみようかと思ってる」
「大丈夫?。あーみん、有名人じゃない。目立たないかな?」
竜児は返す言葉がなく唸る。意識してなかった。たしかに言われてみれば川嶋亜美は有名人なのかもしれない。こんな性格悪いのに。
そして、自分の行動が勢いだけの、行き当たりばったりの計画だという事を思い出す。
勢いを落として、一旦とまってみれば、お先は真っ暗。果たして何処に行けばいいかと途方に暮れる。
そんな竜児の隙間を埋めるように亜美が話しに加わる。
「まだそこまで露出してないから大丈夫だと思うけど。一応、これも持ち出したし」と亜美が鍵をポケットから取り出す。
「去年の夏、みんなと行った別荘の鍵。ママに場所知られてるけど、二,三日くらいならなんとかなると思う」
「お金は?。三日間て行ってもいろいろ物入りだよ。なんなら貸す?」
と実乃梨は首から下げたパスケースを取り出し、中にある通帳を出そうとするが、その通帳の重さを知る亜美は固辞する。
「大丈夫。そこそこのお金が入った通帳、高須くんに貸してある奴がある。とりあえず、そのお金でなんとかなると思う」
さらに北村が問題点の洗い出しを行う。
「他に心配な事といえば、学校だな。安奈さんがもし捜索願でも出して、学校中で噂にでもなったとしたら、下手したら退学だ」
「それは大丈夫だと思う。一番、噂、スキャンダルにしたくないと思ってるのはママだから。
逆に抑えてくれる方向に動いてくるれと思う」
竜児はテキパキと答える亜美に感心してしまっていた。
とっさの判断で自分を連れ出せと言ったと思ったのに、この用意周到さだ。
北村たちの質問も淀みなく答える。
覚悟だけで動いて、当初の予定を変更して、亜美の願いのまま亜美とマンションを出て。
無計画ゆえにとりあえずと、自宅に戻った自分とは大違いだと思い、少しの情けなさを感じてしまう。
「馬鹿犬ども、そこまで準備出来てるなら駆け落ちしちゃえば?。やっちゃんには私からちゃんと訳、話してあげる。
ほとぼりが冷めたら戻るって」
「いや、そこまでしなくてもいいだろ、大河」
「なによ、ここまで来て。竜児、あんた思い切りの悪い男ね。
私だったら、好きな人とだったらそれぐらい出来る。絶対ついて行く。覚悟の問題よ。
あんた、ばかちーの事好きなんでしょ。ついて来いって言えばいいのよ」
と怒ったような顔で大河は竜児と亜美に言葉をぶつける。
竜児も覚悟はあるつもりだ。だが、すぐに答えられない。
たしかに、安奈に電話をして、自分を不甲斐なく思い、亜美のマンションを訪ねた。
その勢い、感情のままならそんな事も出来たかもしれない。自分の気持ちに疑いはない。
だが、いったん、落ち着いて考えると、亜美を連れ出しただけでもなにか違う気がしていた。違和感がある。
なにか、戦い方を間違っている気がする。それが何かはよくわからなかったが
「ありがとう。ちびトラ」
返す言葉を持たない竜児の代わりに亜美が返事をした。
「私は自分が今とってる行動ですら正しいか自信ないんだ。高須くんの事は好きだよ。
でもね、それを理由に全てを切り捨てるのも何か違うと思う。
逃げて、逃げて、逃げ切って、ママも仕事もしがらみも捨てて、二人で幸せになりました。めでたしめでたし。
て、なにか違うと思う。大人になるって大見得きって、二人で生きていけるとか言って、今の大人を裏切るように切り捨てて、おしまい。
それこそガキのやり方だと思う。自分の都合さえ通れば勝ちみたいな」
「……ばかちー」
消沈する大河を見て、亜美は明るく笑う。
「あーもう、自分で何言ってるか、よくわからないや。偉そうに言ってるけど、何もまとまってなくて。
自分勝手してるのは紛れもなく私なんだけどね。なんだか中途半端。まだタイガーみたいに強くはないみたい」
と困ったように笑う。だから竜児はその思いを亜美だけ持たせまいと思った。
亜美だって考えていつも行動している訳でもないし、間違いだってする。転んだら誰だって痛い。
けど何とかしようと前に進む奴だ。たとえ転んでも、罪悪感でがんじがらめになっても。
なら、一緒に考えて、行動して、罪があるなら同じくらい苦しんで、どう償えばいいか考える立場でいよう。
同じ道を歩くとはそういう事だと思った。
「俺が考える。いや、一緒に考える。俺も自分がなにか間違ってるて違和感がある。別な手があってもいいはずなんだ」
北村は大きく頷くと
「考えろ。俺達は絶対、味方だ。全力で援護する」
と窓の外でなにやら騒動の匂いがした。
「なんだいあんた達は!。ここは私のうちだよ」
大家の婆さんが強盗に押しいられた様な声で叫んでいる。続いて、高須家玄関に通じる金属製の階段を駆け上る革靴の音。
「高須くん」「おう」と二人は目配せ。来るべきもの来た。けれど早すぎる。
竜児はどうすればいいかと思いつく事も出来なかった。だが、解ることもある。誰を守らないといけないかという事だ。
これから何が起きるか解らないが、どんな事があってもこの気持ちを貫くだけ。
駆け上がる足音が止まった。もうすぐだ。ドアのノブを回る音がした。もう少しで状況が変わる。
竜児は立ち上がると身体をいつでも動かせるように重心をとり、覚悟を決める。自分に問いかける。「どうする?」
そんな竜児を尻目に迷い無く、ぶれなく動いた存在がいた。大河だ。
「どりゃりゃああああああああ」
雄叫びを挙げ、右手にはどこからか取り出したか、木刀を握り、ドアに突進した。
竜児は大河に感嘆する。何時もこういう時、自分の損得を抜きに突き進むのは逢坂大河だ。
北村祐作の狩野すみれに対しての思いを知ってなお、いや、だからこそ、
私怨ではなく、義憤でもなく、ただ相手の為にそれが出来た女だと再認識する。
その姿は今も変わらない。やはり、手乗りタイガーはすごい。
大橋高校史上最大の女傑、狩野すみれをもってしても、あの惨状だ。
アニキのあの日の姿、微妙に彼の川嶋亜美に似た美貌がズタボロになっていた姿を思い出す。
そして、娘にそっくりな安奈。未来視のように、川嶋安奈のそんな姿が見えた気がして…
「て、ちょっと待て。大河!」
まずい、洒落にならない。大女優への暴行。警察沙汰確定だ。高校生同士の喧嘩程度、停学ですませられる問題じゃない。
いくら損得勘定抜きの善意でも、していい事と悪い事がある。と言っても狩野先輩の件も駄目だが。
いつものように大河を抑えようと竜児は走り出そうとするが、それより、先に反応したものがいた。
櫛枝実乃梨が既に走り出していた。
「助太刀するぜ。大河!」
違う!。逆だ、逆。そこは止めるんだ櫛枝。竜児は慌てる。続いて三つ目の矢が走り出そうとしていた。
川嶋亜美だった。
「馬鹿、お前まで加わってどうする」
竜児が素早く、手を伸ばす。今度は飛び出して行く前に掴む事に成功する。一秒でも惜しい亜美は口早に
「違うって。タイガーと実乃梨ちゃんを止めないと」
さすがに考えすぎの三番手は冷静だった。とそこで彼らに北村祐作が
「逢坂たちの事は俺がどうにかする。だからお前らは」
と首をふって、あご先で窓を示した。竜児は亜美と顔を見合わせる。
竜児は亜美の躊躇している表情を読み取り、ついで、大河がなぜ、走り出したか、その気持ちを考え直し、
「川嶋、行くぞ」と彼女の手を引く。
「でも」
「いいから、ついて来い」
「う、うん」
そう言って、亜美の手を引いて窓に向かう竜児を北村が呼び止めた。
「高須、こいつを使え」
と外に停めていた彼のバイクのキーを投げてよこす。竜児は亜美の手を離して、右手で受け取ると、
「サンキューな。大河たちの事、すまんが頼む」
「逢坂も、安奈さんも大事な人だ。下手に揉め事にはさせない、こっちは俺がやる」
そこでふと北村は笑い、
「だから、俺の幼馴染をまかせたぞ」
竜児は力強く、「おう」と言って、窓を開けた。
窓を開けた先は当然、中空で、地面まで四〜五メートルほど離れていた。
再び「お、おう」と心の中で弱々しく唸る。少し吃驚。勢いで窓に向かったものの、ここは二階だ。
けれど、惚れた女の前では男は格好を付ける権利を持つ。竜児はすぐさま飛び降りる。
初めて行った自宅からの外出方法は、彼の運動神経の良さ、骨格に対しての体重の軽さもあり、割とスムーズに成功する。
両足から地面につき、その後、右手を土につけて、衝撃を分散。着地時に曲げた膝を戻しながらそのまま前へ数歩、地面からの反動を逃がす。
そして、二階を振り仰ぎ、「来いよ」と彼女を誘う。
「て、ここ二階だよ」
「いいから」
「無理、絶対、無理」
そうだ。彼女は臆病者だった。使う言葉は汚く、悪態を付き、邪悪に笑い、悪人ぶる。けれど、中身は違う。
自分を隠して、本性を見せたがらない奴だ。けど、俺は彼氏だろと竜児は思う。だから
「俺が受け止めてやる」強く言う。
亜美は一瞬、困った顔をしたが、それでも窓縁に片足を乗せ、もう一度下を見る。そして、
目を閉じて、身を縮こまらせて、飛び降りた。
「目閉じるな、適当にジャンプするな!」竜児は懸命に位置取りをする。
予想外な亜美の降り方は、竜児の予想範囲外のエリアに彼女の体を運ぶ。それでも彼は追いつく。両手を広げ、亜美を抱きとめた。
けれど、位置を変えながら受け止めるには、人一人の落下エネルギーは大きかった。
その上、真っ正直から受け止めるだけではいけない。その場合、受ける人間への衝撃は元より、抱きとめられる少女への反動も大きい。
力を受け流す必要がある。上体で亜美の体を受け、その衝撃を下半身に、足を交互に後ろにもっていき、力を逃がす。
しかし、移動しながら受け止めた事で既に無理があった。足がついていかない。バランスを崩し、もつれ、倒れこんでしまう。
両手は亜美を抱きとめる事に使ってる。ろくに受身も取ることも出来ない。
だが優先順位は間違えない。亜美に衝撃を与えないように、自分の体に吸収させるようとする。
その為、彼自身は背中から地面に叩きつけられた。頭を打たないようにする事が精一杯。
亜美をしっかり抱いたまま、地面とのサンドイッチだ。
だが優先順位は間違えない。亜美に衝撃を与えないように、自分の体に吸収させる。
背筋をはってそこで衝撃を受ける。胸筋と、上腕の筋肉は出来るだけ弛緩させ衝撃を吸収させる。
内臓に重い振動が伝わる。口から肺の空気が一気に押し出され、息が止まる。
痛みの後は、窒息の苦しみ。なんとか息が出来た後も竜児はしばらくの間、咳き込む。
そこに追い討ちが入った。
「あんだけ大きな口しといて、竜児、格好悪」亜美がさっそくけなす。
言い返したい所だが、咳が止まるまで、呼吸が元に戻るまでは言い返せない。もどかしさを抱えながら、竜児は息を整える。
呼吸を元に戻るもう少しの所まで行くが、そこで胸が詰まった。
亜美が強く抱きしめてきたのだ。数秒だが、ギュとか細い腕に力を込めて、倒れたまま身を預け、耳元で小さく「ありがとう」と言ってくる。
数瞬の抱擁の後、亜美はすくりと立ち上がり、手を差し伸べて、竜児が立ち上がるのを促し、
先ほどの姿は嘘だったかのように、「亜美ちゃんの彼氏〜、なっさけな〜い」と小悪魔ぽく笑いかけた。
「うるせい」と言いながら手を借りて立ち上がると、竜児はバイクに向かう。
掛かっていたヘルメットをとり、座席の下の収納スペースから、もう一つのそれを取り出し亜美に投げ渡す。
そして、跨り、キーを回し、キックをして、エンジンを掛ける。なんとか上手く掛かった。
ガソリンを燃焼させて、動力機が回る、唸るような音が響き渡る。
そして、ヘルメットを被った亜美を後部座席に座らせ、ゆっくりと走り出す。
その走り方は少し自信に欠けて、試しためしにアクセルを回している印象を亜美は感じた。で、疑問に思った。
ヘルメットをピタリと目の前の頭に当てて、囁く。
「高須くん。バイクの免許なんか持ってたんだっけ?」
「持ってない」
あっさりとした一言が返ってきた。亜美は声を荒げて、
「ちょっと待ってよ。大丈夫?」
「大丈夫だ。乗り方は北村に教わった。少し乗せてももらった」
「全然、大丈夫じゃない。そんなんで信用できるかぁ〜、公道とかちゃんと走ってないじゃない」
「ゲーセンで練習した」
「レースゲームですら私に負けそうになった高須くんが?。だいたい祐作はかなり走りこんでて……」
「北村に出来て、俺に出来ない訳がねぇ!」
少し驚いた後、亜美は「ははん」と笑う。
「ねぇ、竜児。私が幼馴染とどういう風に小さい頃を過ごしたか知りたい?」
上体が浮かないように前傾姿勢になり、竜児はアクセルを強く回すと
「知りたくもねぇ」
とバイクを加速させ、亜美の悲鳴と抗議で、彼女の口の悪さを消すと、街中を走り抜けた。
******
「て、なんでこんな所いるんだ?」
「しょうがないでしょ、行くところないんだから」
「予定通り、お前の別荘に行けばよかったろ」
「免許もない男の夜道の運転なんかに亜美ちゃんの大事な命まかせられるかての」
亜美の文句と竜児の弁解が廊下に響いていた。とても楽しそうだ。
彼らは大橋高校の自販機スペースにいた。それが彼らの場所だった。
竜児は自販機の前で缶入り紅茶を買うと「ほらよ」と亜美に渡す。
「ありがとう」としなやかな指が受け取る。
「それにいいじゃん。今夜はここで体休めて、明日からまた考えれば」
「そうだな」
「そうそう」
竜児は自分の分とコーヒーを買うと、すばやくプルトップを引き、まずは一口と飲み。息をはく。
とりあえず安全地帯に着いたと緊張を解く。
「それにしてもずさんなんだよね。高須くんは」
「だから悪かったて言ったろ」
「こういう所は生徒、教師が完全に帰ったら、セキュリティーが動くんだよ。なんも考えず忍び込んだら、大変な事になるって
それなのに堂々と入っていくし」
「俺たちの学校だぜ。そんな厳重とは思わないだろ」
「本当、何も知らないんだね。前に迎えに来てくれた時が夕方でよかった。公共施設だもの。最近は結構、そういう設備入ってるんだって」
「そんなもんか」と竜児はコーヒーを飲みながら、物騒な世の中になったと日本の将来を憂たりした。
そんな先の事よりもっと気になる事があったので聞いてみる。
「お前が用意周到すぎるだろ。なんでセンサーの場所とか、セキュリティーが入ってない場所とか知ってるんだ?」
「私が家出した時の事、覚えてる?。学校に潜む予定だったんだもの。下調べはしとくって」
「と言うかだな、普通の女子高生は調べ方自体解らないだろ?。なんで、こういう事詳しいんだ?。
目端が利くのはお前らしいて言えば、そうなんだが」
亜美は少し煩わしいそうに、
「中学生の時さ、まだモデル始めたばっかで仕事もそんな無い頃、結構、暇でさ。
マンションの中、探検して、目的もないのもつまらないから、そんな探しっこしてたらいつのまにかね」
その頃を思い出したかのように子供のように表情を緩めて、
「あの家、高級マンションだからいたる所にそういうのがあって、楽しかったんだよね」
竜児はしみじみと同情するように返答し、その言葉を聴いて亜美は一気に顔をしかめた。
「……そうか。お前、友達いなかったもんな」
「うっさい!」
亜美は竜児を「むー」と睨んだ後、気を静めるため、竜児の脇を抜け、お決まりの場所、自販機と自販機の隙間に腰を下ろす。
「んー♪、落ち着く」
竜児はいったん、亜美が座る場所を眺めて、なにか言いたそうに唇を動かした後、「しかたないな」と
亜美の対面に向かい、壁にもたれるようにして座る。
そして、ジュースを飲みながらじゃれるような取りとめのない話を始める。けれど、やはり足りなかった。
「お前さ、そこ座るの、止めねぇか?」
「なんで?。だって、ここ私の隙間だもん。ほ〜ら、ピッタリ♪」
竜児はまた、何か言いそうになって、言いよどむ。
そして自分の中で理性と感情、羞恥心と愛情が喧嘩をして、しばらくして決着がついた。
「けどよ。そこだと、俺が隣に座れねぇ」
目線を逸らして、そんな事を告げた。
亜美はキョトンとした表情でその言葉を聴いて、言われた事を消化するのに数秒を要した。
その後、自然と口元に笑みが浮かんでくるのを楽しむ。感情が身体の隅々までいきわたる様まで目を閉じて、噛み締める。
十分にその言葉を味わった後、ゆっくりと目を開け、悪戯ぽく目を輝かせ、静かに立ち上がった。
楽しげに、一歩、二歩と廊下を横断して竜児の元へ。ちょこんと彼の横に腰を下ろす。
「じゃ、今日から、ここが亜美ちゃんのリザーブシート」
と竜児の身体にピッタリと身体をつけ、肩に頭を預けた。
「片方はタイガーのでもいいけど、他の子に座らせたら絶対に駄目だからね」と囁く。
竜児が不器用に「おう」と返事をするのを聞いて、再び目を閉じた。
そうして、二人は話しをした。
これからどうするとか、将来の事とか、そんな未来の話しはしなかった。
二人は先のこと等解らなかったからだ。
竜児は、こんな駆け落ちモドキで、安奈にプレッシャーを与えれるとは思っていなかったし、実は亜美もどうにかなるとは考えていなかった。
今の行動自体は正しくないと心の底では解っている。それでどうして、今の延長線上である先を考えることができるだろうか?
けれど、そこには不安はなかった。
今夜はイブのような、八方塞がりの寒い夜ではない。
亜美が大橋高校を転校した、やるせなさと焦燥感に背中を押され、一人でも歯を食いしばって坂道を登る事を決めた真冬の日でもなかった。
隣にぬくもりを感じている。
同じ道を、同じ方向を向いて、歩いていける人がいる。
これから、どんなイベントが起きるか楽しみでしょうがなかった。
いい事があるなら二人で喜べばいい。問題があるなら二人で取り掛かればいい。
たとえ困難が待ち受けているとしても、
それは、二人で一緒に立ち向かうチャンスだ。
全ては、二人で生きる大切な時間の一つだ。印象的ならそれも楽しく、平凡なら微笑みを交わしながら、歩ける事を楽しめばいい。
明るい未来の確約等、笑いあう為の絶対条件ではない。
必要なのは、一人ではないこと。相手に話しかける事が出来る距離にいること。
だから、彼らは今を楽しめた。いろいろな話が出来た。
あの時はどう思っていたかとか、こんな事をしていたのかとか
その取り止めの無い話は、
やっぱりそうだよなという事もあれば、そんな風に思えるのかという想像の外の事も多い
けれど、そのどれもがあいつらしいと、互いに思えた。
そんな時間も忘れるような、二人で完結してしまうような世界にも、来客は来る。世界はやはりリアルだ。
カツカツとハイヒールで廊下を歩いて来る音。それは落ち着いていて、一定のリズムをもつ美しさを持ち、
なにより自信あふれる傲慢な足音だった。
「こんばんは、竜児くん」
******
そこに現れたのは川嶋安奈。それとマネージャーなのか、付き人なのか、大きなサングラスがやけに特徴的な恰幅のいい男が安奈の右側に一人。
その男はもう一つ、特徴的なところがあった。高そうなスーツを着ていたが、各所に力づくで破られた後があった。鋭く裂けた後もある。
「安奈さん」
「こんばんは。いい夜ね。竜児くん、それと、亜美」
安奈は陽気に右手を上げ、挨拶をして来る。けれど目は笑っていない。冷たく、鋭く。
「ママ、なんでこの場所が?」
「あなた達のお友達に聞いたの。亜美たちの為だとお願いしたら、協力してくれたわ」
「みんなになにしたのよ」
「言ったとおり、話をしただけ」
そう言って、挙げた右手をゆっくりと横にしながら手のひらを下側に向け下げていく。水平になった所で手を止めた。
その姿はまるで、後ろに立つ男に「待て」を命じる猛獣使いのようだった。
逆に言えば、「行け」と一言命じるだけで、今にも男が飛び掛ってきそうな迫力がある。
「ふふ、あんたの彼氏と違って、この犬は中身も凶暴よ」と安奈。自分が持っているカードの種類が暴力だと告げる。
そして、「話し合いをしない?」と他に選びようの無い選択肢を提示した。
竜児たちは安奈のペースになる事はまずいと解っていたが下手に動いて、相手にカードを切られるのはもっと危険だと沈黙を守る。
その様子に安奈は満足そうに笑った。
「私から話していい?。竜児くん」
「どうぞ」
「では質問。竜児くんが亜美を連れ出したの?、駆け落ちでもするつもりだった?」
「いえ、ただ顔を見たかっただけで」
「でも、現に亜美はここにいる。君はこう言いたいのかな。亜美にそそのかされたって」
亜美が横から口を挟む。
「そうよ。高須くんに私が頼んで」
より大きな声で竜児が答える。
「違います。俺が連れ出しました」
安奈はまた満足そうに笑い、頷き。
「そうでしょ。ふふ。私の勘、冴えてるわ。さすが、女検視官夕月玲子ってところかしら」
そう言った後、芝居がかった残念そうな声色で、
「という事は竜児くんは不法侵入に、略取も。犯罪起こしちゃったわね」
「ママ、それは大げさ」
亜美を話し相手とせず、徹底して竜児に安奈は話しかける。
「もう一つ、私の勘が冴え渡ってる話をしてあげる。昨日、竜児くんから電話もらったでしょ。虫の知らせていうのかな。
警備会社に連絡したの、うちのマンションのオーナーのところ。亜美も知ってるでしょ。あの社長さん。
さて、なにを頼んだと思う?」
「セキュリティーの強化ですか?」
「その逆かしら。君の写真を渡して、五日ほどの間でいいから、君が来たら、通報とかしなくていいって。
竜児くんは亜美の大事な友達だもののね」
「ありがとうございます」
「でも、電話してすぐに来るなんて、せめて、もう二、三日は悩んでくれた方が面白かったのに。案外、単純なのね」
「すみません」
「謝ることはないわ。そうだ、後、もう一つ。監視記録類は消さないで確実に保存して欲しいってお願いしたの。
ふふん。竜児くんを信用してたのに。安奈ショックだわ。
マンションに侵入する時の映像と、亜美を連れ出す映像。善良な市民は警察に提出しないといけないのかしら。
竜児くんが考え直してくれたら、私も穏便にすませたいのだけれど」
そう言って、ニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「ママ、さっきも言ったけど高須くんに連絡を取って、迎えに来てくれるようにお願いしたのは私」
「携帯も、電話も、パソコンだって取り上げられているのに?」
「いくらでも方法はあるわ」
「まぁ、すごい。そんな裏技があるなんて吃驚だわ。信じられな〜い。きっと誰も信じないわね」
亜美は不敵に笑って逆襲に出る。
「マンションを出る時の映像があるなら、信用してくれるんじゃないの?。先導してるのも、高須くんを追い立ててるのも私。
主導権を握ってるのが川嶋亜美だって、あの絵見ればわかるはずよ。
ついでに近所の人も証言してくれると思う。高須くんと私がどうやって出て行ったか」
「そうなんだ。あら、残念。機械の故障で高須くんがマンションに押し入ってきた映像しか残ってないかもしれないわね。
それにご近所さんはみんな私の味方。そう上手く行くかしら、私は子煩悩な親で通ってるから。
近所付き合いはしとくものよね。家を飛び出した子にはできる筈も無いけど」
「そんな都合のいい事なんか、だって実際は…」
「あなたに教えたはずよ。本当の事とみんなが信じたい事は違うって。真実なんて価値はないわ」
そう言って親子は睨みあう。
数秒のにらみ合いの後、亜美は眉を上げ、目をむき、口を大きく開けて、
「怒った。マスコミにばらす。ゴシップ紙でもいい。ある事、ない事、全部話してやる。ネットだって使う」
「亜美、今度の仕事も台無しにする気?、あなた終わりよ」
「そんなの怖くないわ」
安奈はおののく、真似をしてみる。
「あら、私は怖いわよ。事務所は大損害。あんたのせいで撮影間際のドラマがボロボロ。信用失墜。先行投資もすべてロス。
これから売り出す予定の若手が使い物にならなくなる。機会費用の損害と宣伝費の無駄。損害は相当大きいわね」
亜美はここが勝負だと強く出る。
「だったら、ママの方が下手に出るべきじゃないの?」
安奈はまた笑った、邪悪な笑みで
「その損害請求って何処に行くと思う。亜美?」
無言で睨み返す。自分の事ならどうだってしてみせる。けれど…。
「ドラマのクランクイン直前に自宅に押し入って、女優を誘拐。精神に致命的な疾患を与え、役者として再起不能にされる。
悪人が明確なら事務所への責任追及は誰も出来ないわね。むしろ、同情してもらえるかも。さしずめ、私は悲劇の母親かしら。あら、また好感度上がっちゃうかしら?。
亜美。あんたの芸能界生命は終わらせてあげるけど、竜児くんは開放しない。
犯罪者になるだけでなく、莫大な債務請求を背負う羽目になる。お金を返すだけで精一杯の人生を送るのね。かわいそうだと思わない。
きっと、ご家族にも迷惑が掛かるわ。たしか、竜児くんのお家、間違っても、裕福とは言えないもの」
「卑怯よ」
安奈は下準備は終わったと、真顔になり、諭すように喋りだす。
「亜美。大人になりなさい。昔から言ってるでしょ」
「ママのいう事なんか聞かない。私は子供でもいい」
「なんて聞き分けのない子なの。大橋高校に行かせるまではちゃんと言う事を聞く子だったのに。さて、どうしてかしら?。
聞くまでも無いわね。竜児くん」
亜美には十分にプレッシャーを加えたと判断。次のターゲットとして竜児に圧力を掛ける事を再開。
「亜美はとりあえず放って置いて。あなたは違うわよね。たしか、気配りの高須だっけ?。
君が一歩引くだけで、全てが丸く収まる。
君も、お母様も、私も、誰も損しない。亜美は女優の道を捨てないですむの」
竜児はさっきから考え込んでいた。反論をする事をしない。
その様子を見て、安奈は満足げに頷き
「さて、亜美、どうするの?。彼女っていうなら、竜児くんを尊重してあげれば?
あんたがむきになって騒げば、騒ぐほど、問題は大きなり、竜児くんへの罰は重くなる。
もし、あなたが協力的になればどうかしあら、あら、不思議。問題なんて何処にも無いわね。
竜児くんは一つも罰を受ける必要なんかないし、あなたは女優への道を続けられる。
好きなら、自分勝手な恋じゃなく。竜児くんの幸せ考えてあげればどう?」
その時、竜児が重たい口を開いた。
「安奈さんは、亜美の幸せを願ってるんですよね?」
「もちろんよ。竜児くんと同じくらい。きっと気持ちは同じよ」
竜児が安奈のストーリーに乗ってきたのを幸いと、亜美に答えを強要する。
「ね。亜美。竜児くんはこう言ってくれてるわ」と笑う
******
竜児は考えていた。
亜美の幸せの為に別れるべきか?
なんて事は露とも思っていない。
約束しているのだ。
自分を幸せにする為に、自分の責任で人生を生きる事を。
若さ故の血潮のたぎりで頭が茹っているとしても、ガキの自分勝手な理想論というかもしれないけれど、
惚れた女がおり、その女が自分の気持ちを受け容れてくれているという今がある。
自分の幸せを想像した時、その存在は必要不可欠なものだと断言出来た。
考えている事は、今の現状からどうすれば、みんな幸せになれるかだ。
泰子や、安奈の事を考えている。
正直、亜美の事はそれほど考えていない。
けして彼女は不幸になっても構わないとは思っている訳ではない。
彼女も約束してくれていた。自分の幸せにする為に、自分の責任で時間を使うと。
彼は自分の幸せの為に彼女と一緒にいる。亜美も自分の為に彼といる事を選択してくれている。
二人でいる事は考えるまでもない事だった。
つないだ手のひらから、温もりを感じているかぎり大丈夫だ。それだけで自分達は幸せでいられるという自信がある。
ただ、亜美と安奈が喧嘩するのは困る。親子は仲良くするべきだ。片親の息子は強く思う。
そして、債務を抱え、泰子に苦労は掛けたくない。それでも、泰子は、家族と食卓を囲めるなら「幸せ」と
くったく無く笑うだろうが、これ以上苦労は掛けたくない。
一体どうすれば、みんな幸せになれるのだろうと考える。
そもそも、今、もめている原因は何だろうかと思う。状況を整理したい。
だから疑問がわいた。それで聞いてみる事にした。
「安奈さんは、亜美の幸せを願ってるんですよね」
「もちろんよ」と安奈は答え、亜美に話しかける。
もしかしたら、話しは簡単なのかもしれない。
「俺、安奈さんの期待にこたえれると思います」
「ありがとう。引いてくれて、友達として応援してくれるのね。亜美、竜児くんはこう言ってくれてるわよ」
「竜児!」
安奈は悠然と笑い、亜美が必死の声を挙げる。竜児は落ち着いたまま、安奈の目を見て
「俺、安奈さんを絶対、幸せにします」
「な、え、なに、わ、私に、こ、告白したの?」
安奈は驚きの声をあげる。素が見えた。声のトーンが上がり、瞳が少だけ潤んだ。
「あ、違います。俺には亜美がいるんで、ごめんなさい」
あっというまに、安奈は振られた。
「なに?、どういう事、なんで私が断られなくてはならないの?。べ、別に竜児くんに振られるのがくやしいんじゃないんだからね!、
て、なんで私が振られる側なのよ?、と言うか、なに、よくわからない」
安奈は何故かショックを受けた、と言うよりも、なんで自分がそんな事を言われるか理解出来ない。
竜児の言っていることは当然意味不明。言ってる事が脈略無しの出鱈目だ。
それ以前にふ・ざ・け・る・な!、である。兎に角、高須竜児は理不尽だ。
「俺と亜美が恋人で、幸福であれば、安奈さんは幸せになります。安奈さんの期待に応えられます」
「は?、なんか本当、意味解らないんだけど」
「安奈さんは亜美の幸せを願ってる。俺と亜美を幸せです。よく考えてみたら、今のままでまったく問題ないんです」
バカがいる、目の前にだ。安奈は酷い頭痛を覚えた。
「意味不明。なんで、話しが最初に戻ってるのよ。私の時間を返しなさい。最初に問題提起したでしょ。
ねぇ、瘤つきのティーンなんて人気が出ると思うの?。
清純派でいろとは言わないけどね。世間は遊び好きの女って見なすわ。いい事なんか何も無い。それで何で幸せなんて言葉が出るのよ」
「亜美は軽い女でもないし、遊び好きなんて事もないです」
「言われなくても解ってるわよ!。けど、それを決めるのは私でも竜児くんでも無く世間様っていう実体の無い化け物なの。
そう言う、みんなっていう訳のわからない敵と芸能人は戦わないといけない。イメージ業ってそういうものなのよ」
安奈は仮面を外して怒り出す。
「けど、俺、幸せそうにしてる人とか、やりたい事をやってる人のドラマとかスポーツとかの方が見てて
自分も嬉しくなったり、味方したくなります」
「お芝居ってね。Happyな話だけじゃないのよ。悲劇だってあるし、憎悪だって表現しなくちゃならない。
いやでもしなくてはいけない仕事はある。だいたい、ベテラン女優の私に高須くん程度が演技の講義?。百年は早いわね」
「すみません。言いすぎました」
「当たり前でしょ」
「俺のわかる事だけ話します。亜美は俺といると楽しいって言ってくれてます。俺も嬉しいです。俺達は幸せです」
「本当、話にならないわね。債務請求の話しはいいの?。私は容赦しないから」
「よくないです」
「もちろん、そうでしょうよ」
「けれど、安奈さんはそんな事しません」
「私、弱みでも握られたのかしら?」
と安奈は皮肉を言ってみる。その裏で冷静になろうとした。論理は組み立ててある。勝機は九十%以上。勝てない可能性の残り十%未満、それは論理の外に持ってこられた時。
感情論に摩り替えられ、結果、どうしようもない水掛け論になり、決着がつかなくなった場合だ。勝てる勝負をそんな結果にされてはつまらない。後片付けも面倒だ。
相手を追い詰めすぎてもいけない。そのあたりは匙加減、経験がものをいう。だが竜児の言葉は彼女の想定斜め上を行った。
「いいえ、安奈さんの弱みなんて探してもいないです。ですが、債務請求をされると俺と一緒にいる亜美も楽しくないだろうから安奈さんはしないと思います」
訳が解らない。安奈は今までの会話を反芻して、論旨展開を考え直す。やはり意味不明だ。なぜ、こんな言葉を吐けるか理解出来ない。
ただ少し興味も出た。挑発してみる。
「何故?。私は君を評価していない。君達が別れる事が私の幸せにつながるわ。金銭的な障害があなた達が別れる原因になれば、私の思うとおりだと思わないの」
「経済的な理由なんかで俺達は別々になりません。そもそも一緒なので、たとえそうなっても二人でその課題をどうするか考えるだけです。
そしたら安奈さんは重荷しか与える事が出来ない。亜美の幸せを願ってる安奈さんはそんな事しません」
竜児が唖然とした顔をするので、安奈は馬鹿にされたか、それとも挑発し返されたか、はたまた、出来るはず無いと舐められているかとと思ったが、違う事に気づいた。
話が通じない。二人でいる事が前提なのだ。そして、竜児は自分の事を何故か信頼している。
相手の為に自分が身を引くとか思いついていない。そもそも目の前の男は亜美の重荷になるとか考えていない。亜美も恋で盲目になっている顔つきだ。
青すぎる。
「なんで一緒にいる事が決まっているのよ。もっと考えなさい。お互いの為を思うとか、不幸にさせない為の方法とか」
「俺、結構考えます。どうすれば幸せになれるか。今の時点で一番いい方法だと思うんです。
俺と亜美が幸せになる事で安奈さんを幸せに出来ます。きっと、みんなも幸せに一歩近づけるんじゃないかと思うんです」
竜児が彼女の苦悩を知るか、知らずか、畳み掛けるように理解出来ない話を続ける。安奈自身がよく解らなくなってきた。何を言ってるのだ。この夢想男は。
「なんて言ったの?。どうして私を幸せにしたいなんて竜児くんが考えてるのよ。それになに?。え、みんな幸せ?」
安奈は自分の認識力に自信をもっていたし、人の気持ちも読む事にも長けていると思っていた。それだけに混乱する。
高須竜児の人物評は、真面目で誠実、気の回らない点は気になるが、人の良さの裏返しだろうし、頭の切れは悪くない。
鍛えれば使える男になるだろう。
それなりに買っていた。それだけにこんな訳のわからない事を言い出すとは、愕然としていた。
竜児は当然と言ったそぶりで答える。
「はい。俺は人生掛けて亜美を幸せにします。亜美も彼女の精一杯で俺を喜ばせてくれると言ってます。
亜美が幸せになれば、安奈さんの願いも叶います。きっと見てて楽しくなってくれると思います。
泰子も喜びます。大河や、北村や、櫛枝。能登に春田に木原に香椎、2-cのみんな…はなんで、お前ばかりフラグが立つとか言われるかもしれませんが
祝福してくれると思います。
俺達が不幸になるより、よっぽと多くの人たちが喜んでくれると思うんです」
竜児の表情、言葉遣い、息遣い。そこから真意を読み取ろうとする。自分を引っ掛けるための手ではないかと疑っていた。が。
……本気で言っている。
安奈はうめき声を上げた。
「亜美、あんたの彼氏、相当、馬鹿よ。なに、みんな幸せって、いったい…」
なぜ、こいつは「みんな」なんて形の無いものの幸せを願えるのか?。その辺りからして、さっぱり理解出来ない。
そんな苦情すら最後まで言い切る事は出来ない、笑い声がした。
「あはははははは」
亜美の明るい笑いが聞こえた。まるで子供のような馬鹿笑いだ。以前、そんな娘の笑い声を聞いたのはいつだっただろうか。
中学に入る前かもしれない。小学生の時の亜美の笑い声だ。
「ママ、無理。私たちみたいな人種、高須くんに敵うはずないもの。こいつ、本気で言ってるんだよ。みんな幸せって」
「なに?、そのエセ宗教みたいな、現実にはありえないファンタジーは。
亜美。まさかあんたもそんな馬鹿げた妄想を語るの?。そんな子供だましな童話みたいな話?」
亜美は強く頷いて
「高須くんがそう思うなら、きっと作れると思う。それに少しづつなら意外と簡単。
例えば料理を食べてもらって、美味しいと思ってもらうこととか、お芝居で楽しんでもらうとか、明るい物語を演じることでもいい。
人に幸せと思ってもらえる事、高須くんとならきっと出来ると思う」
安奈は呆れたと思った。
自分の娘がこんな馬鹿だとは思わなかった。その彼氏は輪を掛けて馬鹿だ。
みんななんて切が無い。幸せなんて果てが無い。無償奉仕でも一生するつもりなのか?。仮にそうしたとしても達成できるものではない。
それなのにこいつらは…、存在するはずがないものを、あると胸を張って言う。ましてや自分で作るとすら言う。
高校生にもなって、その上、物事を考えれる頭がある奴が、ドンキホーテみたいな行動をする。信じられない事だ。
けれど、現実は、人間は食べていかなくてはいけない。人の幸せだけ願う偽善者なんか続けられる訳などないのだ。
高須竜児は交渉相手にはならい。こいつの事を見誤っていた。なら現実的な娘に的を絞る。
「亜美。無責任に女優を辞める気?。今までの努力は?。モデルとして築いたキャリアは?。私と競演したいんでしょ」
「仕事に責任は感じてる。楽しいとも思う。ママとも競演したいと小さい頃から思ってた。けどね、
モデルだって、芸能人を目指してしてた訳じゃない。メイクさんみたいな裏方だって楽しいと思うし」
「あんた、女優以外で食い扶持稼ぐ事なんか出来るの?。業界だって、私の目の黒いうちは働かせない。
そこを離れてあんたどうやって食べていくつもり?。
中学受験が失敗した時言ったわよね。馬鹿なあんたの武器は容姿と演技の才能の種だけって」
亜美は微笑でその中傷に応える。
「私ね。少しだけど料理できるようになったんだ。それが出来る人間はどこでも生きていけるんだって。需要はあるらしいの」
「生姜焼きの出来損ないの話は聞いたわ。何十回も失敗作つくって、やっと出来るようになったのよね。才能ないわね。
そんな下手糞でよく言うわ。あんたが思ってるほど甘くない。料理の世界は厳しいの。あんたの料理に金を取れる価値がある訳ないわ」
「大丈夫。私だけじゃないんだ。横に料理暦が十数年の人がいてくれる。私が今まで食べたことがない位、美味しい料理が出来るプロ級の人」
と笑顔のまま竜児を見て、「おう」との答えを聞いて、笑みを強くする。
「惚けてる奴の評価なんか信用出来る訳ないでしょ。あんたがそんな馬鹿だとは思わなかった。
あの世界で努力と同等の報酬を得る事なんて稀。贅沢に慣れきったあんたが耐えられるものじゃないわ」
「高須くんの家はすごい貧乏だった。一ヶ月半しかなかったけど耐えられた」
「ほっとけ」
「てか、耐えるまでも無く、楽しかったよ。
私、今みたいなにギャラ良く無くても、場末のお笑い芸人さんくらいのギャラしか貰えなくて、
そのギャラで4人と一匹分の生活費を賄わなければならない暮らしだとしても、
「これで、よかったのよ」って笑ってられる自信がある。あは。ママでも知らない事あるんだね」
「それで、貧乏ぐらしで、自分たちはほっておいて、よく解らない、『みんな』って化け物を幸せにしようとするての?。
本当、学生ぽい考え方。あんた達が不幸になるのが目に浮かぶわね」
「安奈さん。俺は責任もって幸せにします」
「何の結果も出せてない馬鹿が口出さないの。そんな奴だから信用出来ないと言っている」
「ママ。心配してくれてありがとう。でも大丈夫。みんな幸せにするのには、まず自分が幸せになる必要があるって言ってある。
それに、高須くんは自分の為に私を幸せにしてくれるって。だから、ちゃんと私の事、考えてくれると思う。もちろん手綱は取るし」
と今度はニヤリと竜児を笑う。余裕が出ていた。もめる必要などない事に亜美は気づいた。
自分だって母に幸せになって欲しいと願ってる。それは竜児と一緒にいる事となんら対立していない。
そして竜児は、自分と一緒にいる事で安奈を幸せに出来ると言ってくれた。彼女の彼氏が示してくれた、高須竜児なりの解決方法。
「お手柔らかにな」の竜児の声に笑顔であえて手厳しく答える。
「甘えんじゃないの。私はタイガーみたいにベッタリしないし、実乃梨ちゃんみたいに輝ける太陽にもならない。厳しいよ」
同じ道を行けばいいのだ。道は長く続いていてくれる。今、反対されても、これで最後ではない。
例えば、孫なんてみせたら、あっさり考えも変わるかもしれないし……
そんな二人に安奈は、バカップル顕在の確信する。大馬鹿は一人ではなく、二人だった。
竜児が今時、珍しい位の馬鹿なのは何度か話して解った。
自分の娘はそういう気質、正直さとか人の良さはあるものの、現実的な選択が出来る子だと思ってたが、違ったらしい。
亜美はサンチョパンサ役が適役だと思っていたが、男に影響されてか、今やドンキホーテ気取りだ。
そして、ドンキホーテは物語の主役だ。
面白いかもしれない。
安奈は笑って、抑えようと思っていたがこの際だと、口を大きく開けて、太陽のような笑い声を上げて、
「やめ、やめ、カット、NGテイクでいいわ。中止」
ぽかんとした二人を前に、
「ごめんなさい。ここまで反対をするつもりはなかったんだけど、ちょっと興が乗っちゃった」
自分の年を棚に置いて、テヘと舌をだして笑う。
「え、何、それってどういう事?」
亜美が困惑を隠さずに問い返す。
「私はね。映画撮影終わって大橋高校に。男の為に自分から戻りたいって言った時。
この引っ込み思案の背伸びした子が男の為に本当の我侭言った時から私は100点あげてたわ。
我慢ばかりのこの娘が我侭いうなら、きっとタラコスパゲティ好きな神様は喜んでくれるでしょ」
「なら、こんな事しなくても」
「でも竜児くんを見分ける事は私には義務と言って良いくらいの事。亜美が好きな事をするならいいけど。彼氏がきついのは勘弁。
身内からのスキャンダルなんてワイドショーにかっこうの餌をやる気なんかないわ」
「嘘よ。それなら、ママなら高須くんに一度でも会って話したら、どんな人間なのかわかったはずだもの」
「安奈、わっかんな〜い」
と十年前なら通じたかもしれない媚た笑顔でごまかす。そして、少し真剣な顔をして
「女優やるって言っても恋くらいはした方がいいとは思うわ。芸の肥やしだしもの。ただこの子、斜に構えてるけど、あれでしょ。
ワクチンは必要と思うじゃない。けどね本気の本気はノーサンキュー」
と竜児を睨む。竜児も臆する事なく見つめ返す。
「と思ったけど、亜美、あんた、女優続けるよりも大切なもの持ってるの?」
「ママ、私、優先順位はしっかりしてるつもり」
そこで安奈はやっと目元を緩めて、
「別に私はこの娘が女優を生業とするかしないかはどうだっていい。私はまだ現役の女優だし、パパの会社だって順調、資産だってある。
ただ、亜美がどう食べていくかが心配だったけど…」
「俺が幸せにします」
「まぁ、若者は現実にぶつかって、それなりの苦労をしてみなさい」
そう言って安奈は竜児たちに背を向ける。
「亜美、交際は許すけど、あんたプロなんだから五日後からの取りしっかりするのよ。万全な体調を維持する事はあんたの義務。
これは事務所の役員としての業務命令。
後はあんたの人生。とりあえず、大橋の家に戻っていいわ。荷物も明日には送り返してあげる」
そこで安奈はニヤリとおばちゃん笑いをして、
「ただし、夜遅いから、今日は駄目よ。迷惑かけちゃうからね。それと竜児くんのお母さんにも迷惑かけないように。これはあんたの母親の命令。
後、出来たらばれないようにしなさい。知られてない方がなにかと都合がいい事は変わらないわ。これは先輩女優からの助言。
まぁ、バレたらバレで考えてあげるけどね」
と歩き出すが、数歩で歩みを止め、振り返り、竜児を見る。
「竜児くん。最初あった時から好みって言ってあげたでしょ。嘘じゃないわ。本当に気に入ったの。
でもね。私、気に入った子、苛めたくなる子供みたいな所があってね。長い付き合いになりそうね。楽しみだわ」
目だけで覚えていろという威嚇をして、竜児を、怯えさせたことを確認した後。
指を大きく開いて、手の平を忙しそうに揺らして、おばさんながら可愛らしく手を振る。
「ばいばいき〜ん」
笑いながら安奈は自販機スペースを後にした。
付き人らしき男はサングラスをとって、人の良さそうなどんぐり眼の大きな瞳を、その暴力とは無縁そうな顔に
一杯の笑顔で浮かべ竜児たちに笑いかけると、頭を下げる。そして、広い背中を揺らしながら安奈の後を追った。
二人取り残された竜児たちは顔を見合わせて
「なぁ、川嶋。安奈さん、本当に解ってくれたのかな?」
「どうだろう?。ママ負けず嫌いだから、私たちがどうしても引かない事を感じて、寛容な振りして、この場を収めたのかも」
「そうなのか?」
「解んないよ。そんなの」
亜美はただ竜児を見つめて、そう言う。現状を把握出来ないのと、そんな亜美に説明できない自分をもてあます竜児。
なんだろうか、むず痒い気分だった。狐につままれた気分とはこういう事をいうのだろう。
「安奈さん、どこまでが本当で、嘘か、よく解らないんだが…」
「そんなの、娘の私だってわからないもの。しょうがないよ」
「手ごわいよな」
「手ごわいよ、これから先も」
竜児は「お、おう」と、将来の新しいお母さんと上手くやれるのでしょうか、とため息をつく
亜美は竜児の落ち込みに気づかない振りをしておく、
「そういう所がきっとママ好み。きっとイジラレルだろうな」とは竜児がかわいそうなので黙っておく。
他に大切な事はと考えて、重要なことを思い出す。
「そ、そうだ、タイガーの事、何もしてないって、アレも嘘じゃないよね」
「おう、そうだ。とりあえず連絡してみる」
竜児が自宅に電話すると、出たのはその逢坂 大河だった。
大河は「ばかちーのお母さんに怒られたでしょ」と嬉しそうにしゃべりだした。
とりあえず、大河に事件のあらましを報告する。
その合間にもばかちーにもったいないくらいの、いい母親だとか安奈を贔屓した言葉を大河は発し、
「でも、許してくれたんでしょ。良かったわね」と祝福をくれた。
逢坂 大河は仲の良い家族というものを夢見ていた節がある。それを安奈に利用されたのか、実乃梨、北村を含め、抱き込まれたようだった。
新たに三名、川嶋安奈の熱烈なファンが誕生していた。
安奈が言ったように、大橋高校の自販機エリアにいるのではないかと、伝えたのも彼女たちだった。
まぁ、殴り合いになるよりましだが…
しかし、竜児には安奈の考えが、ますますもってよく解らない。けど彼も信じたくなった。
電話している間、なにも言わず無言で見つめていた亜美に、大河の話の概要を伝えた。
「高須くん。ママ、私以上の嘘つきだから、信用しすぎちゃ駄目だよ」
「俺は安奈さんを信じようと思う」
「だから!。もう、学習能力ないの?。少しは客観的なものの見かたてものをね…」
「なあ、川嶋。たとえ、安奈さんの言葉が嘘だとしても、俺達を少しの間でも認めてくれるて言うなら、その言葉に応えようと思う」
「どういう事?」
「俺、お前と一緒にいられるなら、幸せになる自信がある」
「それは私だって」
「さっき言ったように、二人で幸せでいられるなら、きっと、みんなを幸せに出来る。それを安奈さんに証明し続ける。
それなら嘘だろうが、なんだろうが、安奈さんは喜んでくれると思う」
亜美は返答の変わりに仕方ないなという笑いを浮かべる。
「あきれたか?」
「うん、あきれた。みんな幸せってやつだよね」
「誤解するななよ。みんなって言っても、まずはお前を幸せにするのが俺の目標だから」
「わかってる。もう、うんざりするくらい。
うんざりするくらい。私が高須くんの事好きな事、解ってるから。だから大丈夫だから」
「お、おう」
「それなら私も信じてみようかな」
「安奈さんの事をか?」
「みんなが幸せになれる事」
「そうだな」
「うん。そうなるといいよね」
飲みかけの缶入り紅茶を再び手にとって、お疲れ様と竜児に渡す。
竜児は一口飲み、喉を潤す。
そんな竜児に、少しもじりとしながら亜美が話しかける。
「だから、ママのいう事に従ってみようかなって」
「なにについてだ?」
「実家から出て、大橋の家に戻っていいって」
「おう、良かったな」
「でも、今夜は夜遅いから駄目だって、もちろん、高須くん家も迷惑掛けるから駄目だって」
「お、おう」
「今夜ここで過ごすにはお尻冷えちゃったし、体調管理しないといけないし」
「ああ」
「泊まる所どうしようか、竜児?」
竜児もなにが言いたいかは解る。親公認のカップルになれた訳だ。
もう少し、こう、即物的なつながりを求めてもいいのではなかろうか。
「え〜と、川嶋さん。今夜は時間あるか?」
「う〜ん、急なお誘い。どうかな?。ちょっとスケジュール確認するね。
わ、竜児、すごくラッキー。予定していた駆け落ちがキャンセルになったから、時間あるみたい。
亜美ちゃんのこと、好きにしてもいいよ」
「あ、えーとだな」
「うんうん」
「つまりだな」
「はい」
「…マンガ喫茶で時間つぶすか?」
「もう。あのさ、私、高須くんの事、好きだよ」
「え、ああ、ありがとう」
「違って、だから、ちゃんと言って。臭くてもいいから」
「あ、えーと、お前が本当に好きだ。絶対幸せにする」
「解ってる。そんな当たり前のことじゃなくて、もっと、グッと来るのが欲しい」
「そう言われてもな」
と亜美を見て、困り果てて、
「悪い、言葉が思いつかない」
亜美は何も言わない。じっと竜児を見つめ続ける。いや変化もある。だんだん険が立ってきた気がする。睨んでるように思えてきた。
竜児は時間がないと焦る。そうだ、急に迫られた時用のいい手を思い出した。
言葉を使わなくてもいい手段を最近知った。
亜美と映画を見てるときよく出てくるそのシーン。彼女はいつも押し黙る。きっと効果があるはずだ。
竜児はぐっと亜美の距離をつめた。その唇を奪おうとする。
が彼が踏み込むのに合わせ、亜美が二歩、三歩と距離を取る。警戒をしながら竜児の目を見て
「この前の旅行みたいにごまかされない。駄目、ちゃんと言ってくれないと」
「駄目なのか…」
最後にして、最新の奥の手が封じられる。他の手はと頭をフル回転するが出てこない。負けを認めて和平交渉に入る事にする。
「すまん。何も出てこない。今度じゃ駄目か?」
条件交渉どころか、借金の返済についてのご相談のように平謝り。
「もう!、こういうのはタイミングが大事なのに。亜美ちゃんうんざり」
彼女は背を向け、それ以降、竜児が何を言っても反応しない。おずおずと彼が近寄り、彼女の肩に手を置く。
すると悪戯顔で振り向いたと同時に彼の頬に唇を寄せ、体温を伝える。
「なぁ!」
「やっぱり高須くんはまだまだなんだから」
ニコリと愛しそうに笑いけられる竜児。
解ってるなら手加減してくれ、なんて言いたくなる。キス一つで顔を熱くさせてしまう。本当、まだまだなのだ。
この気持ちを伝えられないのがもどかしい。
いつのまにかゆっくりと育っていた恋心は現在もまだまだ順調に成長中。ドキドキとして気の利いた台詞ひとつ言う余裕もない。
「……もっとうまく表現出来るようになろうと思う」
「本当、相変わらずの高須くん。でもね。期待はしてるんだよ。だからね…」
幸せそうな亜美の笑顔がそこにある。
「これからも、ゆっくり、話して行こうね。竜児」
やはり、キザな言葉は苦手だ。亜美の言葉に返すものは口から出ない。それでもゆっくり伝えていこうと竜児は思う。
同じ道を歩いていくのだ。じっくりと気持ちを重ねていけばいい。どうせこれからも今まで通り、ドタバタとした騒動の日々の連続だ。
けれど二人で歩けば、全ては幸せな時間で、それはずっと、この後も続いていく。
まずは、今夜、期待に応えるべくゆっくりと悪戦苦闘してみよう。
そう決意して竜児は亜美の手をとる、そして……
Happy Ever After
422 Jp+V6Mm ◆jkvTlOgB.E sage 2011/01/23(日) 21:40:57 ID:XJyDsPLH
こんばんは。以下SS投下させて頂きます。
421様、スレ立てありがとうございました。
概要は以下です。よろしくお願いします。
題名 : Happy ever after 第11回
方向性 :ちわドラ。
とらドラ!P 亜美ルート100点End後の話、1話完結の連作もの
シリーズものの最終回なので今回だけだと解らない所があるかもしれません。
まとめサイト様で保管して頂いている過去のも読んで頂けるとありがたいです。
主な登場キャラ:竜児、亜美、安奈
作中の時期:高校3年 9月
長さ :16レスぐらい
前提:
竜児と亜美は交際してます
夏休み中、亜美は高須家に居候していました
440 Jp+V6Mm ◆jkvTlOgB.E sage 2011/01/23(日) 22:14:38 ID:XJyDsPLH
以上で今レスでは投下終了です。お粗末さまでした。
すみません、注意書きで書かないといけない事なのかもしれないんですが、
エロ有りです。微というかキスシーンだけですが…
閉め部分は次スレで投下させて頂きます。もう少し推敲してから投下させて頂きますので、
規制されない、且つ、他の投下と重ならなければ2、3日中にさせて頂きます。
読んでくださった方、どうぞ最後までよろしくお願いします
7 Jp+V6Mm ◆jkvTlOgB.E sage 2011/01/25(火) 20:29:26 ID:uVctpfTU
こんばんは。以下SS投下させて頂きます。
概要は以下です。よろしくお願いします。
題名 : Happy ever after 第11回
方向性 :ちわドラ。
とらドラ!P 亜美ルート100点End後の話、1話完結の連作もの
シリーズものの最終回後半です。伏線とかあるので前半部分(前スレ、423にあります)を読んでからお読み頂けると幸いです。
まとめサイト様で保管して頂いている過去のも読んで頂けるとありがたいです。
主な登場キャラ:竜児、亜美、安奈、大河、北村、実乃梨
作中の時期:高校3年 9月
長さ :17レスぐらい(前半と合わせて、33です)
前提:
なんだかんだあって、竜児と亜美は交際してます
そんなこんなで、夏休み中、亜美は高須家に居候していました。
前半の流れ
亜美は竜児との交際を報告するため実家に戻りました。
10日ほどの間、亜美と連絡がとれなくなった竜児は亜美の実家を訪れます。
亜美は部屋に立てこもって、交際に反対する安奈と折衝中でした。
竜児と亜美は彼女の実家を抜け出して、高須家に向かいます。
次スレからSS投下いたします。
25 Jp+V6Mm ◆jkvTlOgB.E sage 2011/01/25(火) 21:09:49 ID:uVctpfTU
以上で本編全て、投下終了です。
コメント頂けた方、まとめサイト様、支援頂いた方、読んでくださった方、ありがとうございました。
みなさんのおかけで、シリーズもの最後まで投下する事が出来ました。感謝です。
PS
この板に投下させて頂いているという事で、ちゃんとしたエロ、このSS終了後の夜部分の話、をちょろっと投下させて頂きたいです。
規制が無ければ近日中に投下します。山も谷もない上、エロSS初心者の品ですけれど
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