竹宮ゆゆこスレ保管庫の補完庫 - ×××ドラ! ─── ×××ドラ! × n-h-k+ ───
152 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/10/23(土) 01:33:15 ID:UKkfHsxW



「×××ドラ! ─── ×××ドラ! × n-h-k+ ───」




一週間ほど前まであれだけ色めき立っていた街中はすっかりその様相を変えていた。
目を奪われずにいられない、色とりどりに鮮やかに煌く電球は知らぬ間に撤去され、籾の木代わりに飾り付けられていた街路樹は一年で一番の大役を終えたからだろうか、見上げる者がいなくなっても誇らしげに立ち並んでいる。
店先に掲げられていた赤白緑の垂れ幕やポスターは見当たらず、休業日程を告知する簡素な張り紙が身を潜めるように貼り付けられていた。
どこにだって置かれているのは縁起のよさそうな門松で、それまであったはずの星を頂くミニチュアの針葉樹は影も形もない。
薬局の入り口横に突っ立つ、年がら年中顔色の悪そうなカエルは世界中の明けぬ夜空を駆け抜けて、一日限りの郵便配達を粉骨砕身に勤しむ老紳士から、どこで売ってんだか、紋付袴のコスプレで客引きをしていた。
すれ違う人々の顔ぶれは浮き足立った男女から、厄を払うべくお参りに行く家族連れや、今もって年賀を迎える準備に慌てる者、今年最後の逢瀬を惜しむ者たちへと入れ替わっていた。
ただぶらついているだけだってのに、今年もいよいよ終わるんだなという哀愁をひしひしと感じるのは、自分もそれだけ歳をくったのかもしれない。
それとも、クリスマスも大晦日も男やもめで過ごしている切なさ虚しさ惨めさをごっちゃにしてしまっているんだろうか。
年の瀬もへったくれもない。このまま新年に入ったんじゃあんまりにもあんまりじゃないか。
思いきって真向かいからこちらにやってくる、友達同士だろうか、振袖に身を包んで楽しげにはしゃぐ女の子二人に声をかけて、万が一、誘いを快く承知してもらえたら。
あるいはなどという、不確定にしてご都合主義全開な妄想に沈む自分が果てしなくしょうもないながら、加速していくそれは光の速さで俺の制止を振り切り、姫納めからそのまま姫始めまでも夢じゃないんじゃないかとうつつを抜かさせる。
まったくもって、改めて思い知るね。破廉恥な意味合いを一切含まず、言葉の通り穴があったら入りたいよ。
俺っていう人間はなんて煩悩にまみれているんだろうな。
親の顔が見てみたいとか特にそういうことはなかったが、ある意味、その常套句が新婚旅行に熱海なんてしみったれた場所を選ぶかどうかで悩んでる、とかそこまでワープしていた妄想に歯止めをかける。
貧相なボキャブラリーを漁って帯の絞め方、解き方を引っ張り出そうとして、そういや身近にいる母親含むY染色体を持たない人間に着物を着るようなやつが皆無だったことを思い出し愕然とした。
わざわざこんなこともあろうかと、なんて着付け教室に通うような余裕も情熱もなく、ましてや知識すら持たない俺に、想像力だけであの面倒そうな布切れを意のままにできるわけがない。
二十年以上四半世紀未満も生きておいて何故俺は着付けの仕方ひとつ学んでこなかったんだ。
そんなこと、彼女らの横を完全に素通りしてから悔やんだってもう後の祭りなんだけどさ。
でも、あさっての方向から肩を落として帰ってきた、浅ましい期待に胸躍らせていた自分と、その見るに耐えない情けなさのみで構成されるヘタレ加減をまざまざと確認するよりはいくらかマシだった。
しかし勿体なかったというか、後ろ髪を引かれる思いが残るのはどうしたってどうしようもなく、つい振り返ってしまう。
やめときゃよかった。
あちらは連れ合いらしき男二人組みとちょうど合流したところだった。
さもしさ溢れるその自爆行為のせいで、独り身の辛さに拍車がかかったのは語るに及ばない。
先立つものはたいしてないくせに先に立つのは後悔ばかりで嫌になる。
後頭部を指先でポリポリ掻く。そうしてから、寒さを一層険しくさせたように思う道路を、行き先を自宅に向けて歩き出す。
道中の暖はコンビニで買った缶コーヒーだけだった。一緒に買った大量のビールと同じ袋に入れられていて、おかげでもう冷えてかけていた。
マフラーでもしてくりゃよかったという小さな後悔を遅まきながらまたもして、せめて少しでも温まればいいと、小走りで路地裏を抜けた。


今年最後の夕焼けは雲一つなかった快晴を見事な唐紅に染め上げ、深まる前の青々とした夜が、あたかも縋るように後から空を覆いつくしていく。
毎朝毎夜終わることのない追いかけっこを永劫繰り返すあいつらも、年の終わりと初めは一入に躍起になるものなのだろうかと思うのはいくらなんでも情緒に過ぎるか。
それにひきかえ、俺に付きまとってるのは何だろう。
現状を鑑みるにつけ、陰鬱にして暗澹たる靄が肩組んで馴れ馴れしくしてくる幻視をリアルに見そうだ。
冗談じゃない。
無性に気分を変えたくなって何か別のことに注意を逸らそうとしたとき、変えるという言葉から連想したのかどうかはさて置いて、最近なんの気なしに開いた雑誌の、ある一文を思い出した。
人は過去は変えられないが、未来は変えられる。たしか、そんなことが書いてあったはずだ。
前者はそりゃあそうだろう。
過去なんて変えようがない。変えられるものじゃあない。
時間でも巻き戻せるなら話は別だが、そんなの漫画とか小説の中だけで間に合ってる。
現実でそんなことないとか言ってみろ、荒唐無稽の一言で一蹴されるだけだろ。白い目のおまけつきで。
そうじゃなくて、俺がそのとき気になったのは、未来なら変えられるというくだりだ。
一秒先だろうが一年先だろうが未来に違いはないし、何を定義に未来とするのか、なんていうのは難しすぎて俺には決められないので感性に頼るほかないんだが、その感性が違和感を訴え、そしてこう主張した。
いや、本当は未来は決まっていて、なるべくしてそうなるんじゃないのか。
そんな考えが唐突に浮上したのを不思議に思った反面、どこか納得もしていた。
運命とか予言とか、オカルトチックな類を信じるような性質じゃないけど、なんでだろうな、なるべくしてという部分がとてもしっくりくる。
どうしてそうなのか自分でもよくわからなくて、その一文を目にしてからと言うもの、これっぽっちも実益に繋がらない答え探しで散々時間を潰したんだ。
それまでの時間はいちいち明言しなくったって無駄だった。結局答えなんてでなかったのだから。
わざわざ無い知恵を絞らなくっても、待っていれば自ずと答えの方からやってきたのに。
そうだ、気になって気になってしょうがなかった違和感の答えは、呼んでもないってのに勝手に、それもいきなり転がり込んできたんだ。
意外というか、わりとさっき。
頭上の街路灯が通り抜けざまに明滅し、足元を薄白く照らした。
そうこうするうち、花も潤いも微塵も感じられない、少々雨だれの目立つ概観の、どこにでも在りそうなアパートが目前に迫っていた。
俺が起居しているアパートだ。
木造二階建て。築年数は古くもなく、かといって新しくもない。ちなみに部屋は二階の一番奥。
やや日が入りにくいのと、風の通りが若干よすぎなせいで今ぐらいの季節は暖房代がかさむのが悩みの種か。
選んだ理由は家賃の安さ以外にない。一人暮らしに贅沢は不要だし、ていうか贅沢できるようだったらまず部屋を変えている。
俺はコートの内ポケットをまさぐり、そこではたと手を止めた。つい癖で鍵を探してから、その必要がないことを思い出した。
今、この部屋に施錠はなされていない。
手をかけたドアノブはいとも軽やかに回り、ウエハースみたいな薄っぺらい扉は家主を迎え入れるために油の切れた蝶番を嘶かせて開いた。
せめて可愛い女の子が出迎えてくれでもしたら、こまごまとした諸々の不満なんてどっかに放り投げられるんだが。
現実はままならない。上手いこといったためしなんてない。理想とはかけ離れていくばかりだ。
ただし、そう悪いことばかりでもない。

「ただいま、と。すごいな」


目を見張る様変わりようだった。
玄関の隣に設置されている、普段は食器でジェンガをしているような流し台は鏡みたいにピカピカに磨かれていて、その奥の一台きりのコンロではとろ火にかけられた土鍋がうまそうな匂いを湯気に乗せて上らせている。
可燃不燃を問わずそこに積まれていたゴミ袋は跡形もなく消えており、カゴに山盛りで放置していた洗濯物はベランダにて干され、
交じり合い熟成されるまで室内に漂っていた一嗅ぎすれば酩酊できること請け合いな異臭は開け放した窓から抜けていったらしく、冷たくて爽快な空気が肺に心地いい。
隅っこにて湿気と綿埃を栄養にすくすく育っていた頑固そうなカビまでが、いっそ憐れみを向けたいぐらい綺麗さっぱり根絶やしにされてるじゃないか。
これがあの男の汚い部分を汚い汁で煮詰めたような自室だとは、とてもじゃないが、にわかに信じられない。
しかもこれを俺が買い出しに出ているほんの数十分で終えたというのだから、なおさら驚きを禁じえない。
いやはや手際のよさもさることながら、その徹底した仕事ぶりたるや、それなりの金を払わないとむしろ罰があたるんじゃないだろうか。

「おう、おかえり」

見違えた室内に一種感動すらしていると背後から声をかけられた。
目を向ければ、そこには左手にカビ落し、右手に先端に布を巻きつけた棒を持つ、やたらと板についたエプロン姿の高須がいた。


「×××ドラ! ─── ×××ドラ! × n-h-k+ ───」


話は少し遡る。
前日行われた忘年会が四次会に突入した辺りまでは辛うじて思い出せたが、そこから先は真っ暗で、電源でも切れたように記憶が途切れていた。
いったいどうやって帰ってきたんだろう。まったくわからない。
着の身着のままで布団に潜り込んだようで、財布だの携帯電話だの、とりあえず失くなって困るものはちゃんと身に着けていたので一先ずは安心したが。
しかし諭吉の代わりに入っていたこの覚えのない領収書と、御座をかいて尻にしてる万年床よりも平べったくなってしまった財布との関連性は如何に。
気の早い除夜の鐘が鈍く鳴り響く頭は考えることを早々と放棄した。正直考えると怖かったというのが強い。
鉛みたく重たい体を起こし、安手の遮光カーテンごと窓を開け放した。仰いだ太陽は既に傾き始めていた。
それでもいいさ、こんなに晴れやかなんだ。年末年始は物入りな時期なんだし、どうせあぶく銭だったんだって。
それをおまえ、ちょっと飲み過ぎたからなんだよ、身包み剥がされるような店に入らなかっただけまだ良かったんだよ。
むしろ値段に見合うだけの良い思いはしてきたんだろう、これも覚えのない、キスマークがプリントされた桃色の名刺がなによりの証拠だ。
ほんの少し見栄張って調子に乗った果ての、自業自得だからって落ち込むようなことじゃない。泣くな、バカ。
そうしてたっぷり五分もの間自分を甘やかしてよしよしと慰めてやった。そうしないとその場に崩れてしまいそうで、やってられなかった。
不幸中の幸いとでも言うのか、生活に行き詰る程使い込んだわけではなかった。
雀の涙と悲観していたボーナスを二度と鼻で笑うまい。来年からは勤勉に働くと、後ほど参拝客の少ない近所の神社で約束してこよう。
けれども困ったことになったのは違いない。
さしあたって、手持ちの現金では心もとないな。
今日はこれから春田と北村に会うことになっている。
別に会って何をするというでもないけど、今日が今日だから自然と酒が入ることもあるだろう。
昨夜ほど羽目を外した飲み方はしないだろうが、にしてもいくらか懐に余裕がほしい。借りるというのも忍びない。
銀行はさすがに閉まってるだろうが、コンビニでなら引き出しができるだろうか。
そんな算段を立てていたときだった。
誰かがドアの前に立つ気配がすると思うとおもむろにノックされた。
そのままドアが開くのを待つつもりらしく、どうも郵便配達でもしつこい新聞屋なさそうだ。
奴らのノックはドアをストレス発散にうってつけなサンドバッグと勘違いしてるのかと邪推するほどにでかく、しかも玄関先で人の名前を連呼するという嫌がらせまでしてくる。
そんなことをせず、喚かないところを見るに、その手の人種じゃないことだけは把握できる。


ならば誰だろう。ひょっとして春田だろうか。にしては早すぎなような気もするが、別段しっかり時間を取り決めてもいない。
おおかた暇つぶしがてら早めに来たのだろう。
そういったことが今までにないこともないし、今さら惨々たる有様なこの部屋に嫌悪感を催すあいつでもない。
こちらとしたって、いちいち際どい表紙をした卑猥な書籍を見られまいと慌てふためく相手でもない。
だが、ドアの向こうにいたのは思いがけない人物だった。

「高須?」

「よお」

両手にお手製の買い物袋を提げた高須が、そこに立っていた。

「どうしたんだ、こんないきなり」

顔を合わせるのもそうだが、高須がここを訪れるのは久方ぶりのことだった。
最後に来たのはまだ金木犀が香る頃で、回数だって、人手が足りずに急遽拝み倒して手伝ってもらった引越しを含めても片手で足りるほどしかない。
ああ、誤解を招く前に糺しておくが、あのとき拝み倒した相手は高須ではない。
高須ははじめ声をかけたときには二つ返事で快諾してくれたんだ。
俺が頭を下げに下げたのは高須の親御さんにだった。その日は休みで、たまたま実家に居たんだ、高須は。
これがタイガーないし亜美ちゃん、はたまた櫛枝辺りならまだいい。
焼け付くような威圧感と不機嫌極まる視線から放たれる熱波を浴びるか、何でもない言葉の裏にある罵詈雑言の暴風雨を耐えるか、欠片も綻ばない笑みから繰り出される大吹雪をどうにかして抜けれればいいのだから。
損ねた機嫌の取り方も心得ている。なにせ高須から聞き出したんだから間違いない。
高須ほどに効果を見込めるのかと言われれば生憎と首を横に振らざるをえないが、なに、少々の貢物と平身低頭の態度、そして忍耐力を発揮すればいいだけだ。
睨め付けられようとどんなことを言われようと、まともに受け取らず、右から左に聞き流すのもコツだな。精神衛生上はとても有効だ。
ちょっと友達借りるだけなのにそこまですんのかよとドン引いてるのは俺も同じだった。
けれどあの三人は同級生の誼みもあってか、なんだかんだで正当な理由があれば話しを聞いてくれないことはないんだよ。結果的にはだが。
しかしそれらを駆使しようと難航したのが、おっとりとかのんびりという感じが一目でわかる、高須との年齢差を考えると思わず首を傾げるか目を逸らさずにいられない、ずいぶん小さな女の子をつれた高須の親御さんだった。
とにかく何を言ってものらりくらりと煙に巻き、合わせようと試みようといまいち会話は噛み合わず、乱れるペースをとぼけた顔しながらしっかりと握られているような印象をたびたび受けたのはきっと気のせいじゃない。
食えない人だと思った。
恨まれただろうか、少しは。
休日に順番がやって来ることは滅多にないと奈々子様が愚痴ってたこともある。あれだけの数の家を日々転々としているんだ、無理もない。
その貴重な休日を台無しにしたんだから、多少なりとも恨まれていてもおかしくない。
だけどこっちだって背に腹は変えられない。
持たざる者にとって持つべきものは友達で、身勝手ながら、来てもらわなければその日の内に引越しを終えることも危うくなる虞があったのだ。
ひたすら頭を下げる以外に方法はない。
そんな俺を見かねたんだろう、結局ごねる親御さんを高須が説き伏せる形になり、渋々その日借りていく了承をもらった。
タイガーを筆頭に相手が奥様方ならこうはいくまいと、見方を変えれば亭主関白のように見えなくもない、妙ちきりんなあの親子のやりとりを目にしつつそう考えていたのは内緒だ。
その高須がだ、こんな日に事前の連絡もなしに急遽訪問してくるとは。
不思議に思わないわけがない。

「春田に呼ばれたんだ」

片方、持ち上げてみせた袋からはネギやら白菜やらが覗いている。
もう片方にはなんと米に餅までという、けっこうな大荷物だ。
これだけあったら自分なら楽々半月はしのげるという量の食料持参で、高須は続けた。

「能登のとこで集まるから、なんか飯作ってくれってよ」


命知らずのアホめ。布石も打たずに魔窟からお宝をくすねたらどうなると思う。
日夜虎視眈々と抜け駆けを狙いながらも易々とは手を出せず、お互いを監視している状況にフラストレーション溜めまくりの魔獣どもに目をつけられても俺は知らないからな。
だが、まあ、今日のところはよくやったと素直に褒めておこう。
うまい飯が食えるのは大歓迎だ。賑やかなのはもっといい。

「そうだったのか。助かるよ。悪いな、わざわざ」

「いや、それはいいんだが」

人によっては卒倒ものな困り顔になった高須が顎で指したのは、足の踏み場を随時作らなければ移動もままならない、密林の秘境もかくやという窮屈な我が一国一城。
今しがたできあがったばかりの獣道から続くのは、全方位から徐々に侵食されつつある陸の孤島たる万年床だ。
言うに及ばず、他人をあげるには不適切な状態だった。

「ちょっと時間潰してきてくれたりっていうのは」

こんな時間にかよと物語るようにじとりと光るあの三白眼が、なんだか数年ぶりに背筋を凍りつかせ、その先を噤ませた。
泳ぐ視線がチラリと高須の手元を掠め、たらふく肥えて重くなった買い物袋の存在が肩に圧し掛からんばかりだ。
まいったな、こんなことになるんだったら掃除しときゃよかった。
それもこれもにくい演出をしてくれた春田のせいだ。あの野郎、こういうのはせめて一言確認とってからするものだろうが。
この場にいないやつに責任転嫁するのは至極簡単で、後でどうしてくれようかという非建設的なアイデアはごろごろ出てくるものの、肝心要、このゴミだらけの部屋をさてどうしたものかという解決策は、まあ片付けるしかないんだけどさ。
それができたら苦労はない。そんなにパパッと済むのならこうまで悩まない。

「能登」

高須だって二進も三進もいかず、人によっては即刻通報ものないい笑顔になってしまっている。
そのままゆらりと一歩前に身を出して、そして俺はその爽やかな怪しさに慄き、ゆうに三歩も退いた。

「頼みがある」

土間まで踏み込まれたところで最近忘れがちだったあることを思い出した。
いや、思い出させられた。
勘違いしていたことにも気づかされた。背筋が凍ったのはもっと別の理由だった。
元より鋭かった高須の眦がさらに吊り上っていき、赫赫とした光を灯すまでに血走るのを見るのは、決まって、そう。

「俺に、ここを、掃除させてくれ」

荒げる手前でなんとか押し留めたような区切りがちな語調でそう言いきると、頷き返す暇もなしに高須は状況を開始していた。
圧倒的で鬼気迫る高須のその迫力を前にした俺はというと、この場における不要さを痛く感じとり、取るものだけ持ち出して自主追放の道を選んだ。
言い訳をさせてもらえるなら、ああなった高須は普段のまともさというか落ち着きぶりが嘘のように歯止めが緩くなり、目先のこと以外見えなくなる。見境をなくすと言っても過言ではないだろう。
いくらなんでも実際にすることなんてないだろうが、カカシよろしく棒立ちしてるとまとめて粗大ゴミとして放り出されそうな、そんな雰囲気は確実にあった。
邪魔しちゃ悪いし、ならばすることは一つ。三十六計なんとやらだ。
飲み物を調達してくると、聞いてんだかないんだかの背中に言い置いて、俺は颯爽とアパートをあとにした。
万が一という疑惑の種が芽吹きかけたが、高須なら要らぬ心配だろう。
金目のものなんて俺が欲しいくらいだし、捨てられて大変なのは猥褻関係ぐらいだし、むしろそんなもの持って帰ってくれてもいっこうに構わない。
けど、それこそ要らぬ心配だったか。
その気になれば。そこまで考えて、その先を考えるのをやめた。下世話だろ。
仮に魔が差したとて、比較的保守派な高須をそこまで狩りたてるほどのブツが転がってるとは到底思えない。
それに、だいたいからして、そんなもの持ってることが発覚されただけでも大目玉だろうしな。
やはり心配することは何もないじゃないか。それに、こんな日にせっかく来てくれた友達を疑うのも、なんか、なんだしさ。
止まりかけたことも、振り返りかけたことも、一瞬のことで、すぐに歩みだした。
暮れ行く街並みを眺めながら、少しだけ、遠くの店まで。
そして時間は廻り、現在に至る。


「すんません部屋間違えました」

最後にやって来た春田は開口一番に謝って、開けたばかりのドアをそっと閉めようとした。
気持ちはわからないでもない。あの北村だって同じようなことを入ってくるなり口走っていたからな。
俺なんて快適すぎる居心地に戸惑ってすらいるくらいだ。のびのび足を伸ばせるのはいつ以来だったろうか。
これも高須さまさまだ、声をかけてくれた春田にも一抹分は感謝してる。

「バカ言ってないで早くしろよ、待ってたんだぞ」

「だははは。わりーわりー」

身を縮ませながらも能天気に笑う春田がテーブルに着いた。
そのまま目の前に並べられていたビールに素早く手を伸ばすと突き出すように勢いよく掲げ、

「んじゃ、かんぱーい!」

音頭はなんの脈絡もなくとられた。

「もうちょっと何かあってもいいんじゃないか」

北村が苦笑交じりにグラスを傾ける。
一息で半分ほどを喉に流した春田はもう鍋をつついていた。

「堅っ苦しいのはなしにしようぜ。ていうか、もう俺腹へって腹へって」

「だからってお前なあ、たく」

だけどもまあ、たしかに高須の作った鍋はうまかった。これを先送りにするだけの長ったらしい挨拶もいらないだろう。
大仰なリアクションで舌鼓を連発する春田に、甲斐があったという感じで高須も満足げだ。
だから、もういい。北村からの目配せに頷いて、そこからはお互い無粋なことを言うのを控えた。
程なくしてささやかな宴会は盛り上がりを見せ、近況報告に愚痴自慢と広がる話題は尽きる気配がない。
次第にお互い話に出すことが最近の出来事から懐かしい高校時代へと移っていき、昔話に咲かせた花は絶好の肴になって興を添えた。
いい年越しだと思った。こんなのも、たまにはいい。
和やかな空気は、けれど長くは続かなかった。

「ときに高須」

箸を置いたのは北村だった。
声色から漂ってくる不穏なものを感じたのは俺だけだったらしく、相変わらず春田は飲むか食うかで、高須は早くも底の見えだした鍋に追加の具材を投入していた。
その高須の手がピタリと止まる。

「今さらなんだが、こんなところでこんなことしていて大丈夫なのか」

BGMを流すだけのテレビでは、どこのチャンネルも、とうとう数時間後に迫る新年に向けてを取りざたしていた。
この夜が明けたら、代わり映えこそしないが、そこは新しい年の第一日目だ。
今頃はどこの家庭でもこうして団欒を囲んで、それを待っていることだろう。
当然というか、タイガーたちもそうして過ごすつもりであったことは想像に難くないわけで。

「それはまあ、その」

濁す高須にため息ひとつ、北村は携帯電話を取り出した。
呼び出しを知らせる振動と、ランプが計ったように点滅し、すぐまた消える。
開き、操作し、こちらに見せつけた画面には、上から下まである人物の名前で埋まっていた。

「会長からひっきりなしに着信がくるんだが、俺には出る勇気はないぞ」


それはつまり、出てしまったら庇いきれなくなることと同義だ。
電話越しとはいえ会長に相対して知らぬ存ぜぬで貫き通すのは、特に北村には不可能だろう。
とてつもない背任だ。根が真面目な北村にできるはずも、勘の鋭い会長に気取られないはずもない。
無視し続けていることにしたって、落ちれば地獄に真っ逆さまな綱渡りを一輪車でするような危ない行為だというのが窺える。
不安を紛らわせるようにラッパ飲みで飲み干されたビール瓶を、俺は北村からそうっと離したところに置いた。

「え、あれ、なに、高っちゃん、呼んじゃまずかったりした?」

春田がしどろもどろになった。やはり考えなしだったようだ。
高須が軽く片手を振った。

「いや、そんなことは。向こうは向こうでよろしくやってると思うんだが」

自信なさげだな。というか、その言い方だとまるで全員が一箇所に集まってるように聞こえるのは俺だけだろうか。
興味本位で確認をとってみたところ、ああと言って高須は肯定した。
嘘だろうと思ったが、なんでも最も部屋が広いタイガーの所で、ここと同じように集って宴会を開いているそうだ。
綺麗どころの共演に羨ましさが先んじたが、今一度踏みとどまって想像してほしい。
まず全員が子持ちだ。しかも数ヶ月前にそろいもそろって玉のように可愛らしい赤ちゃんを産んだばかりだ。まさしく幸せの絶頂期だろう。
そんなところに誘蛾灯に誘われる憐れな虫がごとくふらふら近づいたとして、得られる結果は目に見えている。
火葬場送りにされるのは人生もっと謳歌した後でいいはずだ、俺はまだしゃれこうべになりたくない。
それに、隣の芝生は青いとも言う。どんなに煌びやかで美麗に見えようと入ってみなければ良し悪しなんてわからない。
わからないが、にこやかに毒吐いたり、時折ギスギスするような場面に出くわす恐れがないこともない。
そういった予感は湧いては後を絶たず、そしてそういった予感を確信させるのが対面に座る高須だ。
その場に居たら居たで取り合い引き合いてんてこ舞いの争奪戦に発展しそうだが、居なきゃ居ないで、彼女らは面白くないだろう。
他人が甘えるのを見るのはそりゃ気に食わなかろうが、自分が甘えられないのはもっと腑に落ちないという気持ちはまあ汲み取れないでもない。
そうしてバランスをとっていたりもするんだろうし、ガス抜きは何にでも必要だ。
そしてもしもだが、もしストレスと名のつくガスが溜まり続けたら。我慢の限界を向かえたなら。
男と女とはとかく対岸に立っているようだと比喩されるが、向こうはたとえマリアナ海溝が隔たっていたとしても高須目当てに捜索を開始し、易々こちらにやって来ることだろう。
そんな様子を思うにつけ身震いする。のみだけでなく、思い出さずにはいられない。
ざっと一年近くも前になるか。ちょうど今みたいな季節だった。
俺と春田と北村とが拉致られた高須に追いついたときには事態はもう佳境だった
完成された包囲網、織り成すのは悪鬼を髣髴とさせる形相のタイガー、櫛枝、亜美ちゃん他。
狭まる輪の中心部では負けず劣らずの相貌に傲岸不遜を維持しつつの、両脇に高須とお子さんを抱えていた会長。
方々からしきりに発せられるさっさと諦めて悔い改めやがれといった具合の投降勧告は頑として退けられた。
引かない、媚びない、省みない。
仁王立ちってのはああいう雄々しい姿をさすんだろうと場違いに感心する俺の目前では、依然として会長は薄れることのない男らしさを存分に発揮しており、タイガーたちは今にも襲い掛かる寸前だった。
あれで自身らを妊婦とのたまうのだから女というのは恐ろしい。
いつかどっかのアホが口にしたような気がするが、母は強しというのはこの世の真実だと思わせるに充分な光景だった。
さらに恐ろしいのは、呼びつけておいて、到着した直後に北村を蹴り飛ばす会長だった。
容赦も躊躇もなくだった。場所が橋上であったため、北村は勢いそのままに落下していったが、足元に流れる川がもし浅かったらどうなっていたか。
巻き添えをくらった春田も、運が悪かったとしか言いようがない。


挙句会長は落っこちてった北村に、次に唯一被害を免れた俺に拒否権なんか行使しやがったらただじゃおかねえぞみたいな目つきでタイガーたちの足止めをしろなんていう無理難題を、
怒声を張り上げるようにがなりたてていたのだが、それが裏目に出た。
気配を殺し、気づかれぬように忍び寄り、ここだと見やるや影を置き去りにするような速さでもって一気呵成に背後から飛びついたタイガーに、ついに会長は取り押さえられた。
そっから先は、あれ、ああいうのも家族会議と言っていいのか。
なんだっていいが、妙に裁判めいた様式をした弾劾の中、俺はすっかり春田の存在が意識の外にあったことに思い至った。
あまりにも普通に、かつ短時間で北村が橋脚をよじ登ってきたきたもんだし、会長の剣幕に面食らっていたのも大きい。
欄干から乗り出してみても、夜陰に溶ける川面は静かに流れるだけであり深さすらも測りようがなくて、視野いっぱいの暗がりに人影は捉えられない。
青褪める俺は涙を見せる乙女回路全開発動中の会長の姿とそのわけに涙するずぶ濡れな北村の首根っこを引っつかみ、見えない足場を確かめながらしてどうにかこうにか橋の袂まで降りた。
その間通報でもあったのかパトカーが高須たちのいる場所付近で停車したのだが、とんでもない金切り声の合唱が響き渡るやいなやすごすご退散していきやがった。
市民の危機だってのになんとも情けないと憤ったものだが、はたして自分があそこにいたならどうするかと考え、今度ばかりは多めに見てやろうと目を瞑った。
それよりも、優先すべきは苦情でなく、春田の安否である。
ゆらゆら揺らぐ水面は吸い込まれそうな宵色をたたえ、透明度なんて関係なしに何も見えない。
頼りにしていた月明かりはこんなときに限って雲間に隠れてしまい、暗中模索がこれ以上なく当てはまり、捜索は困難を極めるかに思えた。
いや、もしかしたらもうなどといった不安が否が応にも現実味を増していき、途方にくれているところだった。
ポンと肩を叩かれる。氷みたいな冷たさに小さく悲鳴がもれた。
血の気が一気に引いた。
化けて出るにしては早すぎじゃないかそれに俺なんもしてないじゃないか勘弁してくれよと込めて、うろ覚えの般若心経を早口で唱えていると、
藻のお化けみたいな頭をしたそいつはぽつりとまだ死んでねえよと呟いてからそろりとぶっ倒れた。
まじまじ見てみればうつ伏せに寝転がっていたそいつは、どうも下流まで流され、死に物狂いで川岸まで泳ぎ、そっから土手伝いに戻ってきたらしき春田だった。
驚かせやがってこの野郎と、安堵も束の間、春田は動くそぶりがない。
あんな高さから川面に叩きつけられるわ、真冬に凍てつく水中を泳がされるわ、よくぞ自力で帰ってこれたものだ。
あのまま流れに流されて、しまいには三途の川を漂うはめになっていたとしてもおかしかない。
それを思えば肺炎程度ですんだのは幸運だ。つくづく悪運のいいやつめ。
同じような目に合っといてくしゃみの一つもせずにすこぶる健康なままでいた、飛び降りと縁の深い北村についてはもう今さら語ることは何もない。
失恋大明神の加護を余すところなく受け賜った不死身メガネが大橋の七不思議に加えられる日は近いな。
今現在、七不思議枠全てが高須ファミリーに関わるものだからここらで一発新しい風を吹き込んでくれと願ったがそもそも北村が不死身っぷりを披露するのも大抵高須に関わるときなもので、
最終的にはやっぱり高須に起因してしまうのなら、はたしてそれは大橋の七不思議と呼称してよいのだろうか、高須七不思議に改題するべきじゃないのか。
なんとかは風邪をひかないといった名言と合わせ、はたしてそれはどうなのだろうかと思いはしたが、北村は満足に立つことすらできなくなった春田を担いで勾配のキツい土手を上ってくれたのだからどうだっていいか。
ともかく、そうして俺たちが春田を引き上げてくるのと入れ違いに、まるで売られていく牛のように高須がタイガーに引きずられていくところだった。
豪放磊落なくせに嫉妬に狂いやすい元凶こと会長の姿は既にどこにもなく、他の面子も三々五々に散っていく最中で、まるで何事もなかったようだった。


なにがどうしてあんな大騒動が丸く収まったのかは別段詮索せずともいいだろう。
夫婦喧嘩は犬だって食わないらしい。どの道こうなることは予想の範囲内だ。
だけどもそれはあくまで、元鞘になることだけは予期できていただけであり、俺たちが辿った過酷な過程なんて当初は見当がつくはずもない。
理性を取り戻していて、かつ気の利いた誰かが手配してくれていた救急車の中では救急隊員の小言と呆れ顔もどうとも思わないくらいだった。
疲労困憊なのもあったが、いたたまれなさは俺よりも、死ぬ思いをした春田と、馳せ参じたというのに特攻をさせられていっそ死にたい北村の方が感じていた。
しかして、あの長かった冬の日の夜は外野にばっか犠牲を払わせて幕を閉じた。
ついでに新たな戦いの火蓋まで切られていたのを知ったのは後日のことだ。
しばらくの間入院を余儀なくされた春田の見舞いがてら、偶然亜美ちゃんに会ったことがある。
一人で歩いてるところに声をかけたんだが、いや驚いた、数日前までは腰よりも長かった髪を肩の辺りまでばっさり切っていたんだ。
イメチェンにしたって大胆すぎる。
髪は女の命とまで古い考え方を持ち合わせちゃいないが、思い入れがあったから手入れに手間がかかる長髪を長年保ってきたんだろうし、思い出だってあっただろうに。
先日の追いかけっこに何か思うところがあってだろうか。
視線がそちらに行っていた俺に、時間があればちょっと話さないかと亜美ちゃんが持ちかけてきた。
断る理由はないので即頷いた。
連れ立って入った喫茶店はカウンターとテーブル席と、そして個室を備えていた。
亜美ちゃんは慣れた感じで個室を選び、通され、ソファに腰を落ち着けるとメニューを一瞥して眉をしかめ、はずれちゃった、なんて可愛い声でぼやいた。
生憎カフェインレスの飲料は取り扱ってなさそうだったらしい。
仕方なしにホットのレモネードを注文する亜美ちゃんのその目の前でエスプレッソなんぞをやるのは気が引けたので、同じ物を頼んだ。
あわせなくってもよかったのにと笑われたが、いらない気を遣うのはもはや性分みたいなもので、そうしていないと逆に居心地悪い。
あんまり良い人もモテないよって、やっぱり笑われた。
そこまで悔しくなかったのは相応の説得力があったからだ。そういうことを亜美ちゃんが言うと様になってるし。
でも、そうだな、茶化すついでに矛盾は指摘しておこうか。
高須以上に良いやつがいるのか。
きょとんとした表情をみるみる朱に染めて、可笑しそうな、悲しそうな、どちらにもとれそうな顔で、またも亜美ちゃんは笑った。
あんなにひどいやつもいないけど、うん、そうだね。どこにもいないかな、あんなにいいひと。
粗く砕いた惚れた弱みを、ふんだんに垂らした惚気シロップで一緒に溶かしたレモネードは控えめな酸味をかき消すほど甘ったるかった。
エスプレッソなんて洒落たものはいらない、炒ったコーヒー豆をそのまま噛み砕ければそれでいい俺を知ってか知らずか、亜美ちゃんは与える印象を大幅に変えた髪を照れ隠しに撫でさすった。
そうして、ぽちぽちと語りだす。
髪を切ったのは願掛けだと言っていた。
赤ん坊の無事の誕生を祈願してなんて、あれで案外古風なんだなと意外に思っていた。
そんな内心は容易く見透かされていたらしく、それも当然あるけれど、でもそれだけじゃないと前置きし、笑わないでよと釘まで打った念の入れようをする亜美ちゃんが言うには、どうしても勝ちたいからだそうだ。
無論ミセス高須たちにだ。亜美ちゃんもその一人だ。
あの奥様方は身重の身でありながらなにやら対決をするらしい。その迸るバイタリティをお腹の子供のために費やせばよかろうに。
惨劇の予感に頬が引き攣らんばかりの思いだった俺は、けれども話が進むにつけだんだん首を傾げていき、盛大に疑問符を浮かべた。
大雑把に整理するとこうだ。
具体的な勝負方法はべつにない。ルールは無理をしないこと、邪魔をしないこと。判定を下す者は自分たち。もちろん負けてもなんもない。
それじゃあぜんぜん勝負にならないんじゃないかとか、する意義があるのかとか、疑問はいろいろと尽きなかったが、意地と尊厳と愛を賭けた女と女の戦いなのだと力説されれば苦笑いで返すしかない。


まあ、勝てば手に入るのは愛の結晶なのだから、そりゃ負けるわけにはいかないよな。
俺はそういう風に自分にわかりやすく解釈することで強引に納得した。
このままいけばそのうち悟りの境地にでも立てそうだ。それとも俺があっちの色に染められたからか。
まだまだ話したいことはあったが亜美ちゃんの方が時間が迫ってきたらしく、その日はそこで切り上げることとあいなった。
別れ際、それまでずっと靡いていたものがなくなった後姿がなんだか小さくて、一瞬言っていいものかと迷ったのだが、勝てるといいなとその背に放った。
なにも亜美ちゃんだから特別そうしたというわけじゃあない。
そこにいたのが奈々子様だろうが木原だろうがゆりちゃんだろうが、俺は同じことを言った。それがたまたま亜美ちゃんだっただけだ。
亜美ちゃんは右手をひらひら気だるげに振るだけで、一度たりとも振り返らずに雑踏にまぎれていった。
あの言葉は届いたのだろうか。確かめようがなく、確かめる気もなかったので、それ以上それについて考えることはなかった。
その足で今度は春田の病室を訪れた俺は、今さっきの話を入院生活に飽き飽きしていた春田にしてやった。
食っては寝てばっかりでいい加減退屈していたあいつは大層羨ましがっていて、おまえだけずるいずるい俺だけなんでこんなのばっかなんだよとあんまりぶうぶうやかましいものだから、
喫茶店で買ってきた見舞いの品であるモンブランを丸々口に捩じ込んでやったら大人しくなった。
それでいい、病人は安静にしていろ。
しかしふて腐る春田はもぐもぐしながら尚もぶちぶちと文句を吐くのをなかなかやめようとしなかった。
鬱陶しかったんで、気休めに病院名と部屋番号を教えておいたんで見舞いに来てくれるんじゃないかと言った途端にケロリとふてぶてしくなりやがったが、気休めは最後まで気休めだったとだけ言っておこう。
たいして長引かずにさっさと退院できたんだから喜べばいいものを、ぬか喜びさせんなよなんて、そんなことで恨み言を言われる筋合いはなかったぞ。

「あー、あのさ。すんげえ聞きづれーんだけど、高っちゃん、聞いていいかな」

当の本人はそんなのすっかり忘れているようで、アルコールが回って赤くさせていた顔を今度は白黒させ、汗だくになっていた。
事ここに至りようやく想像力が働き出したらしい。
こんな節目の日に愛しの高須を持ち去った不届き者を、臨界点を超えたミセス高須たちは決して許しはしないだろう。
しかもあのはち切れんばかりだったお腹はとうに萎んでいるはずだ。これでもう、彼女らを戒めるものは何もない。
不届き者の末路は決まった。合掌。

「今日ここに来てんの、誰かに言ったりは」

言いつつの春田は傍から見れば完全に及び腰で、返答如何によっては我が身可愛さに一人でだって逐電するという腹づもりが見え透いていた。
そう何度も医者の世話になりたくない気持ちもわかるが、本当にそんなマネしてみろ、俺は生涯おまえを軽蔑してやるからな。

「まさか」

水を打ったような静けさに満ちる空間で、高須の投じた一言が波紋が浮かべる。
ぶはあとあからさまに安堵の息を吐いて、春田は浮かせていた腰を床につけた。
北村はメガネを外して目元の緊張を指で解し、俺は俺で、仰向けになり大の字になっていた。
考えればわかることだ。
居場所が特定されていたのならば会長が北村を呼び出す理由はない、まどろっこしいことなんかしないで直行してくる。
それがないということは、つまりそういうことだ。
しかし安心もできない。
行き先を伏せてきたとなると向こうは虱潰しに高須の行きそうな所を探すのは自明の理であって、そしてそんな所はそう多くない。
女の勘と野生の勘がよく利く彼女らのことだ、それらをフル活用し、高須の臭いを嗅ぎつけていずれはここに押し寄せてくるだろう。
とんでもなく由々しきことだ。高須にとってもだろうが俺にとってもだ。
男四人で埋まってしまうような狭っ苦しくってしょっぱいこの部屋は俺の家なんだ。
それをあんな、箍の外れやすいっていうか箍が外れた状態だろう高須の嫁さんたちに雪崩れ込まれたらどうなることか。
帰宅を勧めてしまいたくなる気持ちは山々だった。


春田諸共不届き者認定をされるなんてそんな冤罪も甚だしい、俺はどちらかといえば被害者寄りだ、北村のように異常な回復力だって持ち合わせちゃいないんだよ、巻き添えはまっぴら御免蒙りたい。
保身的な考えは幾重も積もり重なって、今にも倒れてしまいそうだ。
だが、不意に気がついた。
くすんで仄暗かった蛍光灯が随分と鮮明な明かりを放っている。
切れかけていたらしく最近ではたまにちかちかとしていたんで、とっとと換えよう換えようと、新しい蛍光灯だって買ってはおいたのに、そのままずるずると今日までほったらかしにしていたそれが、天井で強く自己主張していた。

「なら、大丈夫なんじゃないか」

根拠はない。
こうしている間にも、もうそこまで近づいてるんじゃないかと不安の雲は晴れないが、蛍光灯が降らす光は充分明るかった。
それでいい。

「せっかくなんだからゆっくりしてけよ、高須」

誰にも覚られぬよう、胸の中、小さくちくしょうとごちた。まったくもって亜美ちゃんの言うとおりだ。
高須はなんてひどいやつだろう。これで怒り狂ったタイガーたちがやって来たらと思うとゾッとしないね、いろいろと大打撃だ。
だというのに、それがわかっていてそれでも、タイガーたちを惹きつけて止まないそのひどいやつを追い出せないんだから、俺もそうとうつけ込まれてるんだろう。
そういう言い回しをすると自分まで高須にいけない気持ちでも抱いてるのかと、我ながら気色の悪いこととてつもなかったが。

「いいのか」

「ああ。北村曰く、こんなところでよければだけど」

そんな胃の中身を吐きそうな考えを振り払うべく、わざとらしく強調すると、北村はバツの悪い顔をした。

「なんというか、言葉の綾だったんだが。そこまで気に障ったんならすまなかった」

頭を下げられるとこっちが恐縮するね。こんなところ呼ばわりされたところで、不快感なんてこれっぽっちも沸いちゃこない。
真面目なやつってのはどうしてこう冗談と冗談でないものの区別なく途端に真に受けてしまうんだろう。
人生疲れたりしないもんなのか。

「そうそう、遠慮すんなよ高っちゃん。タイガーたちにビビるこたあねーって」

北村とは逆に、こいつはもう少し人生に疲れるよう、脳みそに皺を刻むことをした方がいいだろうという春田はやれやれというような仕草で、もう安心しきっていた。
悲観に暮れられるよりかは遥かにいいが、あっけらかんと楽観してるのも、それはそれでどうなんだ。微妙に羨ましいけどさ。

「真っ先に逃げようとしてたやつがなに言ってんだ」

「違くって。あれはケツが痒かっただけなんだよ」

「ほほお、それでケツ捲くる準備をしてたと」

「だから違えって。ああ、あとそれに足も痺れちゃったりなんかしちゃったりして」

「言い訳がましい上に嘘くさいぞ」

「いやいや、マジマジ。本当なんだよ、信じてくれよ」

「どうだかな」

「なあ、高っちゃんと北村なら信じてくれるよな。友達だろ」

風船に詰めていけばその内飛んでいきそうな、空気よりも軽い言葉をべらべらとまあのべつ幕なしに捲くし立てる春田は、見苦しい同意を求めるべく照準を俺以外の二人へと向けた。
なんと返したらという表情の高須と対照的に、北村はきらりとメガネの縁を光らせ、不敵な面構えを見せる。
そうして北村は春田の肩に悠然と手を置いてから、冷厳に口を開いた。

「突然だが、俺はこう見えてけっこう根に持つたちなんだ」


北村本人が自身をどう見られてるもんだと思ってるのかは定かじゃないが、俺の見立てでは北村が言うようなことはないだろうし、客観的に見てもそうだと思う。
会長が関係するようなこととなれば目の色変えて食いつくわ、挙句海の向こうまでくっ付いていくわ、その粘着さたるや凄まじいが、それも会長に限られている。
そんな北村が何でまたそんなことを言い出すんだ。

「あれはもう一年ほど前になるな。高須を追いかけて奔走した夜だ」

覚えてるだろう、覚えてなきゃあ許さんとばかりの高圧的な北村に春田がたじろぐ。
けれども言わんとすることはまだわからないようで、それは高須と俺も一緒だった。
ただ一つわかっていることがあるとすれば、

「お互い散々だったな、あのときは。まさか突き落とされるとは俺も思わなかった」

紛れもなく北村は怒っていた。それも春田に。
にじり這い寄る怒気と思わせぶりな物言いに思い当たる節を発見してしまったのか、春田の顔面をハテナマークから代わっていくつも縦線が浮かぶ。
やや置いて、敷いていた座布団を胡座から抜き取り、畳敷きの床に正座した。

「俺は春田のことを友達だと思っていたんだが、そう思ってたのは俺だけらしい」

「んな風に言わないでくれよ。わざとじゃなかったんだよ」

「だろうな。仕方なかったのもわかるが、しかしいくらなんでもあの場面で押すなんておまえ」

「俺だって落っこったじゃねえか」

「なにか言うことがあるだろう」

「ごめん」

なにやら不穏な会話を交わす二人だが、主導権は完全に北村の掌中にあり、春田はどんどん小さくなっていく。
しまいには土下座に近しい体勢で、額が床に触れる寸前まで俯いてしまった。
察するにどうも、眼前でぷるぷる震えて丸くなっているこの物体は以前の騒動で橋の上から突き落とされた際、巻き添えをくらわせてきた側である北村と揉み合いになったようで、それだけでも不幸だってのに、弾みで止めの一撃を入れてしまったらしい。
目にしたわけじゃないが、狙ってやったことではないのは断言できる。たんにいつものように、間が抜けていただけだ。
その間抜けにしたって直後に空から降る一条の星になったんだし、どの道結果は変わらなかったろう。
問題は、今の今までこのアホは謝罪をすっかり忘れていて、しかし北村はしっかり覚えていて。
それでいけしゃあしゃあと友達面して友達だろ、なんて言われた日には、もう語るに及ばない。
憤慨する北村の理由はわかった。もっともだと俺はうんうん頷いた。
煮ても焼いても骨ばって筋ばって食えたもんじゃないが、そんな春田でもよかったら好きなようにすればいい。死に水は灰汁取りようのお玉でとってやろう。
しかし、やはり北村は北村だった。

「まったく。今日はこれで水に流すが、今回だけだぞ。次は知らないからな」

腕組みをした北村は少しだけ仏頂面ながら、その広い懐で寛大なとりはからいをした。
怒気も重圧も霧散していて、北村の中ではもはや片付いた出来事らしかった。
別段複雑なものはなく、不可抗力の末とはいえ謝意を述べられないままだったことそのことが隘路だったらしい。
それさえきちんとしてくれれば他は大目に見てやっているのだから、北村も大概甘い。

「次って。二度とあんな目に遭いたかねえよ俺」

うなだれ気味の春田はまさに頭が上がらないと言った具合で、北村がグラスを空けるとすかさず恭しい態度で、茶瓶を満たす琥珀色の液体を注いでいた。

「それはたしかに。ああいうの、せめて向こう一年は勘弁してほしいよ」


来年のことを言うと鬼が笑うそうだが、こっちは笑えないほど、かなり切実だった。
どっしりと重量感のありそうな深いため息に乗せ、相槌がてら俺は春田に便乗して言った。
春田がほんとだよなとしきりに首を上下させた。北村もそれに倣った。
その様子を眺めていた高須が心底同情するように呟いた。

「大変だったんだな、おまえら」

空っ風が部屋を通り抜けていったような、そんな気がした。
俺たちは顔を見合わせた。仔細な違いはあるものの二人の顔は似たり寄ったりなもので、きっと俺も、あまり変わらない顔をしていた。
誰ともなしに頷きあって、それが合図となる。

「そういう高須はどうだったんだよ!」

「高っちゃんにだけは言われたくねえんだけど!」

「いったい誰のせいだと思ってるんだ! おい、聞いてるのか高須!」

一斉に高須に対しての集中砲火が始まった。北村に至っては熱がこもりすぎて掴みかかる手前だった。
まるで他人事みたいな言い草にいろいろと思うところはあったし、口々に別々のことを言っている春田にしろ北村にしろ当然ながらそうだったろうが、でも、結局のとこ何が言いたかったかって、それはたぶんこんなもんだったろう。
おまえほどじゃねえ。
とうの高須はといえばあの凶悪な双眸を下げきるところまで下げた異様な苦笑いを貼り付けるのみだった。
それからのことを掻い摘んで話そうと思う。
沈下しかけた場の空気は一転高須をいぢり倒すことで再燃し、回り始めた酒の手伝いもあってさらに盛り上がっていった。
高須からすりゃいい迷惑だったろうが、こんな機会でもなけりゃ話だってろくにできないので、大いに語ってもらったさ。ていうか語らせたさ。
赤裸々にして生々しいあれやそれは最初こそ笑ってられたが、笑えない部分もそれなりの割合であった。
いわゆる夜の営みというあれだ。
俺の口から微に入り細に入り克明につまびらかしてしまうのは、高須の手前さすがに憚るというのもさることながら、吹聴して回ったりしたら後々どんな惨たらしい姿にされるかわかったものではないので控えさせていただく。
月夜の晩に背中を気にしながら歩くような生活は望んじゃいない。
ただ、大人しい草食動物は獰猛でしたたかで食欲他いろいろと旺盛な可愛い肉食動物に食べられちゃうと、そして食べられてしまった草食動物は高須だったと、それだけ言わせてもらおうか。
やっかみが過分になっていたのはご愛嬌だ。
そうそう、やっかみで思い出したが、いつぞや春田が持ちかけてきたトトカルチョの結果発表をついでに行った。
今度は誰が先陣切るのか予想する、なんていうくだらないお遊びだ。
そんなことをやっていたのを知らなかった高須はとても嫌そうなげんなりとした顔をしていたが、構わず発表は進んだ。
本命はタイガー。対抗に櫛枝、亜美ちゃんときて、大穴はあまりにも大穴すぎて、名前を聞いた瞬間高須は思わず春田の横っ面に良いのを五、六発ぶち込んでいた。
ちなみにその大穴は前回の一着だったもんだから、ともすればもしやと睨み、再度の番狂わせに望みを託し一点賭けをした博徒もいたが、高須は大穴からの熱烈な猛攻にだけは全力で逃げ切ったようで結局博徒もとい春田は殴られ損に終わった。
北村はそもそもこういうのを快く思わない方なので参加こそしなかったけど、会長の順位にだけは過敏な反応を示し、納得がいかなかったのか知らないが高須に詰め寄っていった。会長が絡むと本当に面倒くさいやつだ。
俺はというと、今度亜美ちゃんに会ったら茶でもご馳走しようかと、まあそういった案配だった。


笑い声や咽び泣く声は絶えることはなくて、止め処なく飛び交う話題も尽きることはなかったが、だからこそ時間はあっという間に過ぎていく。
あれだけあった鍋の中身をすっからかんにし、しこたまに飲んで酒もなくなった頃だ。
そろそろおいとますると高須が立ち上がった。
慣れない一気を何度もやってすっかり酩酊だった北村はまたなと一声かけてからその場に潰れ落ちた。
春田も北村に先がけしばし前に夢の世界へと旅立っていて、しかし人の動く気配を感じたからかがばっと勢いよく体を起こして、それでもう限界だったのだろう、高須にもたれかかってまたいびきをかき始めた。
高須は小さく笑って、春田を横にしてやり、それから静かに玄関から出ていった。
一人で帰すのはなんだか気が咎め、それに冷たい風にも当たりたかった。酔い覚ましにはちょうどいい。
念のために一応戸締りをして後、高須のあとを歩いた。高須は一度止まって振り返り、追いつくまで待つと、無言でまた歩き出した。
遠くどこかで除夜の鐘が鳴っている。ごおん、ごおんと重厚な響きが厳かに、夜風に運ばれどこまでも。
道すがらふと、虚空にこだまするその鐘の音に被せるように、独り言を呟いてみた。
なんとなく聞いたらいけないような気がして、ずっと聞けずじまいでいたことがあったんだ。
返答なんて期待しちゃいなかったし、でも答えてくれなかったらくれなかったで気まずいから、独り言にして言ってみた。

「これで幸せじゃなかったら嘘だろ」

自慢か、はたまた聞きようによっては惚気のような口調だった。
どっちにしろ珍しくて、上機嫌なことが窺い知れた。
なら、もしもだが、愛想つかされて捨てられるようなことになったらどうする。
冗談っぽくそう尋ねると、高須はふむと顎に手を当て、しばらく考えてから朴訥に口を開いた。

「どうもこうも、なるようにしかならねえだろ」

それは俺もそう思う。一寸先のことでだって確然としてはわからないが、なるべくしてなるという思いは今もある。
でも。
そう付け加え、そこで一旦区切った高須の横顔は笑っているように思われた。

「本当にそうなるようなことがあったら、とっくにそうなってるよ」

呆けにとられたのも束の間、ひとたび噴きだすとそっからはもう、腹を抱えるぐらい笑っていた。
なにが可笑しいって、あんまりそのとおりすぎて。
高須もいつの間にか声を上げて笑っていた。
咽込むまで笑いあって、ひとしきり呼吸を整え、そうしてから俺は高須の背中を平手でおもいきり叩いた。
せいぜいそんなことにならないよう、今夜はこれからがんばってこい。
半歩ほど前のめりによろけた高須に発破をかけ、立ち止まった。見送りは、ここいらでいいだろう。

「またいつでも来いよ。匿うぐらいはできるからさ」

「恩にきる。マジで」

「春田じゃないけど、ま、友達だからね。それじゃあな、高須。元気でやれよ」

「おう」

踵を返し、今しがた歩いてきたばかりの道を戻る。背中合わせに、高須はそのまま真っ直ぐ歩いていった。
あいつはこの後どうなることだろう。
こんな時間までどこにいたんだと四方八方から責めたてられ、きつくお灸を据えられそうだ。
それで終いになればまだ御の字だ。いっても軽めの折檻ですめばいいが。
そんな様子を頭に浮かべて、でも、そこまで心配するようなことじゃあないかと思いなおした。
それに耐えられないようなら、それで嫌気がさすようなら、とっくに放り出しているだろう。
だけどそうはしないで、高須は自分の足で帰っていった。
しょっ引かれていくことも多々あるし、一所というわけでもない。
かなり変わってはいて、うんざりするような苦労なんて数え切れないだろうし、なにかある度いちいち姦しいことこの上ないが、それでも尚ああして足取りも確かに、自分の意思で自宅へと。
日付が変わるまでには辿り着くだろうか。もうあまり時間もなさそうだ。
耳を澄ませばまた一つ。一拍空けてもう一つ。
遠くどこかで除夜の鐘が鳴っていた。ごおん、ごおんと重厚な響きが厳かに、夜風に運ばれどこまでも。
明くる年の上げる、まるで、産声のように。

                              〜おわり〜


167 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/10/23(土) 01:54:09 ID:UKkfHsxW
本当におしまい