竹宮ゆゆこスレ保管庫の補完庫 - だけど独身
「は?大河、今何て――」

『二度も言わせるな、この駄犬。今日はみのりんとご飯食べてくるから、私の分の夕飯はいらないって言ったのよ』

携帯電話越しに聞こえてくる、いつもの如く人を見下したようなそれを再確認した竜児の目が、大きく見開く。
隣で袋詰めをしていたおばちゃんが、悲鳴をもらしながらも袋詰めの速度を上げ、足早に逃げていく。
怯えながらも、その袋詰めは乱れることなく、綺麗に商品を区分けしたのはもはや慣れなのだろう。
竜児は更に上を行くのだが。

「お、お前が今日魚が食いたいって言ったから、もう買い物もしちまったぞ!どーすんだよ!」

『あんたが二匹食べれば?』

だから何?といった感じの投やりな返答に、竜児は尚も反論しようとするが、

『あ、みのりん、もういいの?――じゃ、そういうわけだから』

「あ、ちょ―」

っと待て、の言葉も追い付かず、電話は無機質な電子音を立て始めた。

――人に晩飯のリクエストをしておいて、櫛枝と食ってくるだと…!?何て羨ましい、いやいや身勝手な奴だ!
つーか、それなら俺だって誘ってくれてもいいじゃねえか。大河は俺を応援しているんじゃなかったのかよ…

結構下心満載な悪態を、竜児は心の中でねちねちとつく。
だが、それも自分の目の前のビニール袋を見て溜め息に変わった。入っている二尾の魚を、どう始末をつければよいのか。
今日全部使うつもりだった竜児は、割引されていた魚を購入していた。
つまり、あまり持たない魚であり、今日中に使わないと色々とよろしくない。しかも、今家には自分一人しかいないのだ。

泰子は昨日から温泉に行っている。職場の人と、二泊三日のプチ旅行だ。
「竜ちゃん一人おいて行けないー」とか何とか言っていたが、こちとら学生身分なのだ。
竜児としても、たまには泰子に羽を伸ばしてほしいと思っていたので、是非と行ってくるように話した。
最初こそ譲らなかった泰子だが、長い説得の末、漸く首を縦に振った。しぶしぶ、しかし嬉しそうに。

それでも、昨日の夕飯はいつも通り大河が来たため、少し静かなだけの夕飯だった。
だが、今日は竜児にとって、久々の一人きりの夕飯だ。
自分が作った飯を、自分一人で食べる光景を思い浮かべ、少し―本の少しだけ、寂しく感じた。

気分が沈むとともに、空模様も悪くなってきた気がする。
仕方なく、竜児はそのまま帰途に着いた。

「…ん?」

ふと、竜児のアパートにほど近い店の前に、独りぽつんと立ち尽くしている女性がいた。
どこかで見たことあるような気が、と目を凝らし、

「おうっ…」

その姿をはっきり確認した時、竜児は思わず声を上げた。

(な、なぜこんなとこに?)

――そこには、担任の恋ヶ窪ゆり(独身/30)がいた。

「あ、あは、あはは。小言を言われながらわざわざ仕事を早めに切り上げて来たのに、[親族の結婚式の為臨時休業します]?
なにそれ、私への当て付け?『三十路の独身が来るから結婚式で店閉めちゃえ』ってか、あ?」

死んだ魚の様な目をしながら、呪祖の様に呟く独身(30)に、さすがの竜児も後退った。
他に、人がいないのが救いか。

学校以外で独身(30)とエンカウントするのは、別に初めてのことではない。
スーパーで、カップ麺や菓子パンを籠に詰め込んでいる場を目撃した時もある。
はたまた、春田達と別れた休日、『独りで』居酒屋に入っていく姿も見掛けた。
その度、竜児は込み上げてくる何かを懸命に押さえ付つ、そしていつも思うのだ。
頑張ろう、独身(30)だって、先生だって頑張っているのだから、と。

思うが、今の独身には正直近寄り辛い。
しかし、その道を通らなければ大回りをして帰ることになってしまう。

(ばれないように、ゆっくり)

だが約束は裏切らない。吸い込まれるように、竜児の足は空き缶を蹴り飛ばした。
渇いた音が、そう広くない道に響きわたる。竜児は、ゆっくりと独身の方を見た。

「ひっ…!」

つい、情けない声が出てしまった。独身の顔は、無表情だがしっかりと竜児の方を向いていた。
真正面から見たその目には、まるで正気が灯っていない。
そう、その目を竜児は最近見た。今自分が持っている、このお手製エコバッグにいる魚の如くだった。

「こ、恋ヶ窪先生…?」

時が止まり、十数秒。沈黙が辛くなった竜児は、微かな声で呼び掛けた。
びくっ、と独身の体が大きく震え、徐々にその視線は竜児をはっきりと捕えていった。

「…あら?高須くん、こんにちわ。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」

今更竜児に気付き、何事もなかったように独身は普段の表情に戻った。

「あ、いや、俺の家はこの辺りなんで。むしろ、何で先生がいるのかが不思議です」
ああ、そういえば。と、独身は手を打つ。竜児の住所思い出したのだろう。
少しだけ照れたように、話した。

「あのね、ここのお店の料理が美味しいって他の子から聞いたの。
だから、先生は少し、少しだけ早めにお仕事を終わらせて、来てみたんだけど…」

臨時休業だった、ということらしい。はぁ、と独身は肩を落とす。
一瞬、舌打が聞こえたのは気のせいだろう、と竜児は自分に言い聞かした。

「高須くんは…お買い物の帰りなのね?高須くんが、毎日ご飯を作ってるのよね」

「偉い偉い」と言わんばかりの独身の優しい視線に、竜児は少し気恥ずかしくなり、
「別に、普通です」とそっけなく答えた。

「謙遜しなくてもいいのよ。むしろ、誇ってもいいくらいなんですから。
あ、もちろん、先生も自炊はしますよ。だけど、毎日の献立を考えるのが大変なのよね。
だから、たまに、本当にたまに手を抜いちゃって、外食とかでもいいかなーっていうのもあるのよ、うん」

嘘を付けぇ!と叫びたくのをぐっとこらえ、
竜児は独身の言い訳(にしか竜児には聞こえない)をひたすらに受け流した。
一度話出すとなかなか止まらない、独身の癖が発動した。
どこかで話を切らないと、ずっと独身のターンは終わらない。長期戦を覚悟した竜児だった。

しかし、ふいに独身の会話が途切れた。二人の頭に冷たい粒が当たり、二人して空を見上げた。
随分と厚い雨雲が、ずっと先まで続いていた。

「あら…」

「雨、ですね」

降り出した雨は意外とすぐに強くなり、二人は目の前の店の日差しに待避した。
雨脚はそれほどではないにしろ、傘は必要なくらい降っている。
竜児は走ればすぐそこだが、独身はそうも行かなかった。
雨は暫く止みそうになく、独身の口からは本日何度目かの溜め息が溢れた。

「はぁ…この雨だし、どこかコンビニで傘を買って、お弁当もついでに買おうかしら…」

そんな独身の小さな呟きを、しかし竜児は聞き逃さなかった。
クワッと目が開き、独身の横顔に向けられる。

この独身め…学校で出前ものばかり食っている挙句、コンビニ弁当だと?
塩分過多にもほどがある!確か前見たときには、菓子パンやカップ麺ばかり買い込んでいた。
やっぱ自炊する気ゼロじゃねぇか!しかも、割り箸なんぞも!
飯ぐらい材料を買え!作れ!食え!
箸ぐらい使え!洗え!
ああ、誰かこの独身に人並みの食事と俺のエコ魂を――!!

はっ、と竜児の視線は己がエコバッグに向く。少しの思考の後、ニヤリと口端がつり上がった。
そんな竜児の心境を知るわけなく、突然うつ向いた竜児に、独身は心配そうに声をかけた。

「た、高須くん?どうしたの?具合い悪くなったの?大丈夫――」「先生!!」

「は、はいっ!?」

突如大きな声で呼ばれ、独身はその場に変なポーズでかたまった。

高須竜児という人間は、目付きが悪いだけであり、それ故誤解されているが非常に真面目な性格であることは、
担任である独身は十分理解しているつもりである。
むしろ、独身から見れば、確かに目付きは犯罪者級で完全に反則だが、一年も担任してればそれにも慣れるし、
まだまだ高校生なのだ。
であるが、それでもその鋭くギラついた視線が自分に向けられると、多少は体がこわばってしまう。
実際、今の竜児は獲物を逃さんといった思惑に間違いはないわけで、普段とは大分違うのだが。
そういうわけでその眼力は更に強まり、今まで見たことのない竜児の雰囲気(と目)に、
独身はもはや恐怖に身を震わせていた。

「あ、あのね、高須くん。先生、な、何か気に障ること、い、言っちゃったのかなーって。
だから、そういうのがあったら、え、遠慮なく言ってもいいんですよ?
そしたら、先生も、ほら、ちゃんと謝りますから。だから」

そんな独身の言葉は全く聞いておらず、竜児の口が開く。
と同時に、本日一番の殺人高須ビームが独身を貫いた。

「雨宿り、ついでに、家に、飯を、食いに、来ませんか!!」

意味を知ってか知らずか、独身はただただ涙目で何度も頷いていた。

「竜ちゃんはパパみたいに大きくなるから、おっきめのシャツが必要なの〜☆」

なんて言って泰子が買ってきたそのシャツを広げ、竜児は深い思考の海に漂っていた。

なぜこんな時に限って、出せる服がこんなのしかないのか。
泰子の服は端から無理と分かっていたが、まさか自分の服がほぼ洗濯されていたとは。大きな誤算だった。
しかし、他に渡せるものがない。しかし、しかしだ。独身にこれを渡すってことは、なんだ。
つ、つまり…伝説の『男物シャツ姿』にさせてしまうわけで――

「駄目だ!いくら独身だからといって、それはまずい!」

絶対変な目で見られるどころか、犯罪一歩手前だ。
これがクラスメイトに知れ渡り、学校中に知れ渡り、遂にはお巡りさんにも知られ、
そのまま会ったこともない親父がいる場所へと赴く可能性がある。
だけど、それ以上に、

(櫛枝や、川嶋や―大河が知ったら…)

二度と話してくれなくなるだろうか。
もしかしたら目を合わせることも、会うこともしてくれないかもしれない。
竜児にとって、それはどれほどの苦痛だろうか。想像しただけで、竜児は顔をしかめた…

なんてセンチな気分になっても、現実は変わらない。
腹をくくった竜児は、最大限の言い訳を考えながら脱衣所にシャツを置いた。
刷り硝子は見なかったが、脱衣籠がふと視界に入ってしまい、そこにチラリと見えてしまった「おぅっ」から逃げるように退場。
流れるような手付きでエプロンを付け、颯爽と料理を始めた。
しかし、心中穏やかではなかった。

(な、何をうろたえているんだ俺は。相手はあの独身こと恋ヶ窪ゆりだぞ!
三十路だぞ!落ち着け、落ち着くんだ、COOLになれ竜児…)

もう料理のことなんて、さっぱり頭の中にはなかった。
それでも手先がぶれたりすることはなく、包丁は竜児の一部になっていた。

(よくよく考えてみりゃ、泰子は常日頃際どい格好でうろついているじゃねえか。実の母親だけど。
それに比べれば、独身の男物シャツなんて全く健全じゃないか。
そうだ、独身が着ても色気は無い!…はずだ。)

「あるわけない…ありえない…ないに決まってる…」

包丁で魚を捌きながら、一人言を呟く竜児は、他人が見れば即通報だろう。
完全に自己暗示の世界に入ってしまっていた。
つまり、竜児はいつゆりが風呂から上がったかを認識していなかった。

「何か買い忘れたの?高須くん」

「のわぁっ!!」

突然後ろからゆりに話しかけられ、驚いた竜児は反射的にそのまま振り返り、

(ぅおぅっ…)

今までの人生の中でも、トップクラスの衝撃が竜児を貫き、そのまま全てが停止した。

「えと、高須くん。お風呂、その、ありがとう。おかげで暖まりました」

しかし、そのお礼は竜児の耳には欠片も入っていなかった。

恋ヶ窪ゆりは、綺麗系より、可愛い系の部類に入る。
三十路前からやっている日々の鍛練のおかげで、体は引き締まっており、出るところは出ている。
伊達に努力はしていないのだ。
しかし、何故独身であるかと言えば、単にそれは『気合の入れすぎ』が原因だった。
化粧を取っても、服装を見ても、力が入りすぎて逆に本人の魅力を潰してしまっていた。
可愛い系であるゆりにとって、逆効果となっていた。

だが、今のゆりはその全てがない。
化粧は落ちており、その下にある少し童顔とも言える顔立ちは、下手な化粧が無いほうが映えた。
そして、シャツ一枚から伸びる生足は、亜美の様に長くすらっとしているわけではない。
だが、若者にはない女性特有の肉付いた太股が、あまりに扇状的だった。
そして、そのシャツ姿故か、普段あまり気にされない豊かな胸が薄いシャツを押し上げ、
整ったプロポーションが惜し気もなくさらけだされており、泰子にはない、ゆりの大人の魅力が溢れていた。
その効果は、
『風呂上がりで少し紅くなった肌、男物シャツ姿に戸惑いながら恥ずかし気に頬を染め困り顔の上目使い』
という最終兵器で更に増し増しとなり、それが竜児の『目を反らす』という選択肢を捨てさせていた。
とどのつまり、竜児はゆりに見惚れていたのだった。

一方、包丁を握り締めたまま自分を凝視してくる生徒に、ゆりは当然だが脅えていた。
身を清めたこの憐れな三十路女を、これから煮て食おうか焼いて食おうか。
と竜児が考えているわけではないのは、ゆりだって十分理解している。
しかし、何はともあれ包丁を置いていただきたくて仕方なかった。

「あ、あの、あのね?高須くん。時には考えることは、とーっても重要だと、先生も思います。だけど、だけどね?…お願い、包丁を置いて下さい」

言葉尻は、弱々しく震えていた。

ゆりの声で正気に戻った竜児は、慌ててまな板のほうに向き直る。
そのまま、凄まじい勢いで魚を捌き始めた。

「す、すいません!すぐ飯を作るんで、先生は座ってのんびりしていて下さいっ」

独身のくせに、独身のくせに、独身のくせに!ちくしょう…良いものをお持ちじゃねえか!
しかも、狙ったかのようなあの仕草は…正直、やばい。
見惚れてしまった…担任に…恋ヶ窪ゆりに…三十路に…
自己嫌悪に陥る竜児。
そんな、ゆりが聞いたら泣いて喜びそうな竜児の心境も知らず、ゆりは引き下がらなかった。

「これだけお世話になって、待っているだけじゃ申し訳ないわ。
高須くん、先生が何か手伝えるようなことはありませんか?」

と、さっきより近い場所から声が聞こえる。竜児の体は更に緊張した。
後ろを見ていないが、近い。これは相当近い。

「い、いや、まじで大丈夫ですから!ホントに!」

だから、それ以上俺に近付かないでくれ!
そんな竜児の心の叫びが届くはずもなく、「でも」とか「大人として」等をたてに、なかなか譲らない。
そんな、普段とは違うある種のプレッシャーを感じていたせいだろうか。

「痛っ」

「きゃあ!た、高須くん、大丈夫!?」

包丁で指を切るという、普段の竜児にはありえない失態をしてしまった。
だが、傷は浅いし料理に支障はない。
取り乱したゆりとは逆に、竜児は怪我のおかげで少し冷静さを取り戻した。


703 名無しさん@ピンキー sage New! 2008/11/23(日) 01:56:39 ID:RpV9+WJK
「大丈夫っすよ、これくらいなら舐めとけば治ります」

苦笑しながらも、簡単な止血をしようと指を舐めようとした。
しかし、突然ゆりにその手を捕まれ、引っ張られてしまった。

「な、舐めておけば治るのね!分かりました!」

そういうわけでゆりは、

「んっ」

止血のために指をくわえた。

「…は?」

何が起こったのか竜児には認識できなかったが、それもわずか。すぐに理解して、

な、なめらおぅあぁぁぁぁぁ!!?

声にならない声をあげた。
我に返り、ゆりも自分がしたことの重大さに気付き、湯気が立つんじゃないかというくらいに紅くなった。
そのまま二人して固まる。衝撃の連続だった竜児の思考は、完全にストップしていた。
ゆりはゆりで、フル回転していた。

(な、何してるの私は!?いくら年下の、それも生徒だからって、怪我したからって…
ゆ、ゆ、指、指くわえるなんて、普通ありえない!ありえないわ!)

ゆりは、ゆっくり竜児の指を解放する。透明な細い糸が枝下るように、竜児の指とゆりの口を繋いでいた。
それを見てしまい、ゆりはまともに竜児の顔を見ることができなかった。

「ごごご、ごめんね高須くん!うん、高須くんの言う通り、先生大人しく座って待ってますね!
わー、高須くんの手料理、楽しみだわぁ!」

同じ方の手と足を動かしながら、ゆりは足早に台所を去った。
放心状態の竜児は、それでもゆったりとした動作で料理の続きに戻った。
竜児の意識は、料理が出来上がるまで戻ることはなかった。

「……はっ」

竜児が我に返った時、その手にはしゃもじと客用茶碗。向かいに座っているゆりに、ご飯をよそっていた。
ゆりが座っているテーブルの上には、魚、味噌汁、サラダ。ほぼ和食で固められており、
大河がいないため久々の肉抜き夕飯だった。

「ごめんね高須くん。お味噌汁に、ご飯まで盛ってもらっちゃって」

向かいに座ったゆりが、両手で茶碗を受けとる。
そうすると、自然と胸部を左右から圧迫する形になり、それは竜児の視界に飛び込んできた。
大きめのシャツといっても所詮は男用。
胸回りにあまり余裕がなく、張ったシャツに何かの模様が浮かび上がる。
その模様を、ついさっき脱衣所で見たものだった気付いた竜児は、即座に顔を背けた。

「…?どうしたの、高須くん。今日は少し落ち着かない様子だけど」

お前のせいだ!と目で訴えるが、普段の竜児の目付きに慣れているゆりには少しも伝わらなかった。

(おかしい…なんだ、さっきから起こる、この微妙な心揺さぶる青春フラグは。
まさか、独身は狙ってやってるのか!)

不自然な竜児の態度に首を傾げたが、しかしゆりの意識は既に料理の方に向いていた。
チラチラとテーブルの上に目を送り、気のせいか目が爛々と輝いているようにも見える

「…先に食べていいですよ」

「え!い、いえいえ、高須くんを差し置いて、先生だけ先に食べるなんてできません。
ほら、やっぱりご飯は皆手を合わせて、『いただきまーす』の合図で――」

ぐぅ〜、と低い音が狭い部屋に響く。色気も何もないその音は、ゆりの腹部から発せられた。
ゆりは罰が悪そうに「ふ、ふへへ」と笑った。
それを見て、竜児の変な緊張も無くなり、苦笑しながら立ち上がった。

「いいから、食べてください。俺も、準備が出来たらすぐ食べますから」

竜児は自分の分の味噌汁を取りに、台所に向かった。

「そ、そう?ごめんね、高須くん。先生、あのお店で食べるつもりだったから、あんまりお昼食べてなくて」

腹が鳴った理由を説明しつつ、ゆりは箸をしっかり持ち味噌汁を持つ。
ゆっくりお椀を傾け、口の中に味噌汁を運んだ。

「…なにこれ、凄い美味しい」

その呟きが聞こえ、竜児はニヤリと口元を歪ませた。
味噌汁に毒が仕込まれていて、何の疑いもなく飲んだゆりに対して愚かだと笑っているわけではない。
自分の料理に対し、久々に「美味しい」という言葉が聞けて嬉しいのだ。
大河の場合、特に感想も言わず勢いよく食べていく。
泰子の場合、何を作っても「さすが竜ちゃん。いつもおいしー」しか言わない。
それはそれで嬉しいのだが、やっぱり作り手としてはもう少しリアクションがほしかった。

上機嫌で自分の味噌汁を持って、テーブルに着いた。

「魚も絶妙な焼き加減で、ご飯もふっくら!
高須くんが家事が得意なのは知っていましたけど、まさかここまで…」

「料理とか掃除とか、昔からやってましたから。
初めはめんどくさかったんですけど、やってる内にこだわりとか出てきて。
気付いたら、家事が趣味みたいになってました」

感心したように、ゆりはへぇ、と頷く。

「そういえば、教室の掃除の時も、不思議な棒みたいの持ってたわね」

「あれは高須棒といって、非常に万能な掃除道具で――」

『高須竜児の楽しい家事講座』が始まり、竜児は生き生きとした様子で知識を披露し始めた。
そんな竜児を見て、ゆりは無意識に微笑んでいた。

ゆりが初めて竜児を見た時、やはり怖かった。
生徒や教師の間でも様々な噂が飛び交っていたし、竜児自身それについて諦めていたのか、
否定するような素振りも見せなかった。
まして、一年の副担任になるとは思わず、その時は何度も上長に確認をしたほどだった。

しかし、いざ高須竜児という生徒を受け持ってみれば、遅刻はせず、授業態度も良し。
成績は優秀で、掃除に関しては誰よりも熱心に取り組む。
ともあれば、他人の仕事を奪う程だった。

二年の担任になり、クラス名簿に竜児の名前があったときは、すこしだけ嬉しかった記憶がある。
同僚には「可哀想に」という目で見られていたが、ゆりは全く気にしなかった。
ゆりは一度、竜児とはゆっくりと話をしてみたいと思っていた。
ただ、唯一の母親が夜の仕事をしており、普段は竜児が家事をしていると知った。
その竜児をわざわざ引き留めるのも気が引け、なんともなく機会がやってくることはなかった。
だが、竜児に対するイメージは早い段階で払拭され、無意味に怯える様なことはなくなった。

竜児自身、ゆりのような教師は初めてだった。
小学生の頃は意味もなく呼び出され、何が不満なのかと何度も問いただされた。
中学になると逆に呼ばれなくなり、触らぬ高須に祟りなし状態だった。
高校に至っては、さすまたを使われそうになったくらいだ。
副担任は女の先生と聞いたとき、まず関わり合いはないだろうと踏んでいた。
担任ですら、あれなのだ。

しかし、予想は裏切られた。
恋ヶ窪ゆりという教師は、他の生徒と全く変わらない態度で竜児と向き合ってくれた。
ちょっとした雑用を頼まれたこともある。それだけで、竜児にとっては驚嘆すべきことだった。
一年の頃、竜児が早くクラスに馴染めたのは、生徒から親しまれているゆりのおかげでもあった。

生徒と教師であり、歳は十以上離れている二人だが、会話が途切れることはなかった。
主にゆりが聞き手となり、竜児が話し手になっていた。
聞き手側が多かった竜児は、今までの分を消化するように話が止まらなかった。


「あら、もうこんな時間になってたのね」

ふと、ゆりが腕時計に目を落とし、針が八時近くを指していた。

「うおっ、全然気付かなかった…すいません、何か俺ばっかり話してたみたいで」

「むしろ、高須くんから色々教えてもらえて、先生にとって貴重な時間でした。
だけど、そろそろお暇しないとね。えっと、スーツはどこにあるかしら?」

竜児はゆりに乾かしたスーツを渡し、着替えるために泰子の部屋を貸し出した。
テーブルの上を布巾で拭いている最中、襖の向こうから衣擦れの音が聞こえた。
竜児の喉が鳴り、しかし勢いよく顔を横に振った。
もしかして俺って相当エロなんじゃ、と若干自己嫌悪に陥る。

「高須くんは、きっと良い旦那さんになれますね。
気が利くし、家事も出来て、何より正直ですから」

突然襖越しに話しかけられ、思わず手を止める。
誉められて嬉しいが、ゆりの様子がどうにもおかしい気がした。
その竜児の気負いは、間違いではなかった。

「それに比べて、先生は駄目ね。最近は料理しないでファミレスとか、出来合のものばっかり。
友達がどんどん結婚していく中、一人独身のまま…三十路過ぎちゃったし、このままずっと独身かしら?
いえ、独身なんて名前じゃ生温いわ。独臣?それとも独神?う、うふ、うふふー」

襖の向こうで不気味に笑うゆりに呼応して、今まで静かだったインコちゃんがバタバタと騒ぎ始めた。
何を血迷ったのか、「ドドド、ドドド、ドドドド独身!」とリズミカルに歌いだす。
ええい、何故こんな時に限ってインコとしての能力を発揮するのか!
こんなのを聞いたら、独身の暴走がエスカレートしてしまう!

「せ、先生だって、優しいし面倒見が良いし可愛いですから、すぐに良い人が見つかります!
今まで回りの見る目が無かったんです、きっと!俺なら…!」

とっさに出た言葉は、そこで止まった。励ます為でも、これ以上はまずい。言えない。

「俺なら…なに?高須くん…?」

妙に艶っぽいゆりの声色に、竜児は少し体を固くする。

「え、えっと…続きは…あー…」

竜児がしどろもどろしていると、ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。
からかわれたことに気付いた竜児は、顔が熱くなるのを感じた。
と同時に、川嶋以外に、それもまさか担任にからかわれるとは思わず、脱力してしまった。
はぁ、と深い溜め息が漏れる。

「高須くんは、本当に正直ね。でも…高須くん」

襖が開いた時、普段は気付かない仄かな匂いが竜児の鼻孔をくすぐり、

「ありがとう」

少しはにかんだようなゆりの笑顔は、初めて実乃梨と会話をした時のように、竜児の動悸を強くした

その日の夜――

「……?」

「ん?どうしたんだ、大河」

「…別に、何でもないわよ」

実乃梨と別れた大河は、いつものように高須家に上がり込み、茶の間に寝転んでいた。
竜児は妙に気が抜けた様子で、大河の向かいに座っていた。
何か違和感を感じる。それが匂いだと気付いたのは、少ししてからだった。
始めは、泰子が新しい香水を買っただと思った。しかし、大河は首を捻る。

―この匂い、知ってる。気がする。

大河がその正体にもやもやしている時、思わぬところから答えが明かされた。

「ど、どく、独神!可愛い、かわ、イイッ!
俺は!俺、はー!ウッ」

大河の時が止まった。
ああ、そうだ。あの憐れな独身が、身体中から振り撒いてる悪臭だったのね。
なぜ、それが、ここでも、するの、かしら?
あの馬鹿インコの言葉。どういう意味かしら?可愛い?あの三十路が?誰が言ったの?

凶悪なまでに吊り上がっていく両の眼が、現在この部屋に同席している者へと向けられる。
しかし、彼はそんな視線にすら気付かず、大河が来てから何度目かの小さな溜め息。そして、

「年上、かぁ…」

数秒後、高須家の家賃はまた少しだけ上がることになった。