竹宮ゆゆこスレ保管庫の補完庫 - ななこい4

 玄関に再び訪れたのは暗い闇だった。足元を照らしていた明かりは消えうせて、奈々子と竜児の間に重たい緞帳が降りる。
 竜児は口元を覆いながら、唾を一度だけ飲み込んだ。
「ねぇ、どう?」
 奈々子は、竜児を自分の部屋に誘った。竜児の家で、夕飯を呼ばれて、家に送ってもらった。
 そして、竜児を引き止めるために、奈々子はもっと近くに居たいと思った。
 家には奈々子と竜児以外誰もいない。まだ、二人きりの時間を作ることは出来る。
「竜児くん……」
 奈々子は竜児の正面から、ゆっくりと近づいていった。竜児の肘に手を当てて、そっと体を近づける。
 服と服がぶつかった。ほんの少し顔をあげると、瞬きを繰り返す竜児の顔が見えた。
 奈々子は荒くなりつつある自分の呼吸を抑えようと、意識して呼吸を沈めた。喉を通る空気が、かさついた音を立てて、それが耳に痛い。
「お、おい、香椎……」
「奈々子って呼んでよ。ねぇ」
 竜児の肘を、手の平で撫でる。それだけで、竜児の体がびくっと震えた。
「そんなに緊張しないで」
「いや、これは……別に」
 竜児が一歩下がり、それと同時に足元の明かりが灯る。再び、玄関に小さな明かりが点いて、竜児の顔がよりくっきりと浮かんで見えた。
 今の自分はどんな顔をしているのだろう。そう思うと奈々子は、血液が熱されたのではないかと思うほど全身が熱くなるのを感じた。

「キス、しようか」
「お、ちょ、ちょっと待てって……」
「もっと凄いことだって」
 目の前に竜児がいる。それだけで、奈々子の瞳は潤んだ。二人の間にある、ほんの数十センチの距離だって、今は遠く感じられる。
 もっと距離を縮めたい。竜児と体を重ね合わせて、竜児に溶けるようにしてひとつになりたかった。
 もしそんなことが出来るのなら、それはどれだけ気持ちがいいことなのだろう。
 心が焼き尽くされそうだった。腹部から昇る下火は、心臓を焙り、今にも焦げ付きを起こしそうだった。
 脳髄から降る電流が、理性を痺れさせてしまう。
「ねぇ、あたしじゃダメ? 本当に、竜児くんのことが好きなの。あなたのためだったら……」
「ま、待てって、落ち着け奈々子」
 竜児は奈々子から距離を取ろうとして、玄関の扉に背をついた。奈々子に向かって片手を伸ばす。
「……奈々子って呼んでくれるんだ。うふふ、嬉しい」
 奈々子が、伸ばされた竜児の手を取る。そして、竜児の手の平を自分の右胸に当てた。竜児の手が、自分の体の大切な場所に触れている。
 心臓を叩くビーターは高々と振り下ろされて、その度に大きな衝動が全身を震えさせた。
「おお、ちょ、お前」
「もっと……。ねぇ、もっと触って。強くしていいよ」
 竜児に向かって、わずかに進む。すると、竜児の手がもっと強く自分の胸に押し付けられた。
 浅い呼吸を繰り返す竜児が、奈々子の手を振り払う。
「お、落ち着けって奈々子。な?」
「どうして……? あたしじゃダメ? あたしのほうが、きっと竜児くんにとっていい相手になれるわよ。他の誰よりも」
 竜児に手を払われて、奈々子が目を細める。沸騰する湯に差し水をしたかのように、すっと熱が引いてしまう。
「いや、別にそういうアレじゃなくて……。ほら、俺らだって、別にそう長い付き合いでもないし、こういう、なんつーか」
「時間なんて関係ないわよ。それだったら、これから何年も何十年も一緒にいればいいだけじゃない」
「そ、そんな先のことなんて考えられねぇよ。それに、俺は……、その、なんだ」
「あたしに魅力が無いの? ねぇ、この体だって、竜児くんの好きにしていいんだよ」
 奈々子は腰をくねらせて、自分の体を見せ付けるように、わずかに前かがみになった。
「み、魅力が無いとかじゃなくて……、そんなもんはバッチリありすぎるけど、そういう問題じゃなくてだな……」
「なら、いいじゃない。きっと気持ちいいわよ。ううん、絶対に、気持ちよくしてあげる」
「いやでもだな、俺は……」
「……好きでもない相手とエッチなことするのは嫌? あたしのこと、嫌いなの?」
「そ、そういうわけでもなくて……。いや、俺はともかく」
 奈々子は、自分の心の底に冷たいものが広がるのを感じていた。青く小さな氷のようなそれが、尖って奈々子の心を刺す。
 竜児の心の中に、誰が住んでいるのかはもう知っている。櫛枝実乃梨だった。
 実乃梨を、竜児の心の中から追い出さなければいけない。蹴飛ばしてでも、その座を奪い取る。

「……ごめんね、困らせちゃって」
「えっと、いや」
 奈々子は肩にかかる髪を手で払って、竜児から少し距離を取った。
「本当に、奥手なのね。ここまで迫られたら、勢いでしちゃおうと思わないの?」
 その言葉に、竜児が俯いて唇を噛んだ。
「そんなわけにはいかねぇよ。そんな無責任なことしたら……」
 竜児が、ぐっと拳を握り締める。それを見て、奈々子は鼻から小さく息を抜いた。
「もしかして、泰子さんのこと考えてる?」
「……お前に話してたっけ? 俺って、ずっと親父の顔知らねぇし……、親父と泰子がどういう付き合いしてたのかはわかんねぇけど、俺は……」
 きっと、竜児は自分の行いで、不幸な子どもが生まれてしまったらどうしようと考えているのだろう。
 竜児自身が不幸なのかどうかは、奈々子にはわからない。竜児の強い責任感が、自分の誘惑を断ち切ったということなのだろう。
 その強い責任感も、竜児の魅力のひとつだと思えた。しかし、その責任感を潰してまで体を重ねたとしても、竜児はきっと後悔するだろう。
「そう……。家庭のことってあんまり訊くのも失礼だし、あんまりいい話にはならないかもしれないけど……。少しくらい訊いてもいい?」
「……そりゃ構わねぇけど」
 薄い明かりの中で、竜児が少しだけ細く見えた。

 立ちっぱなしだと疲れるので、竜児と奈々子は玄関に腰掛けた。
 このまま竜児の肩に頭を預けたくなったが、奈々子は少しだけ距離を開けて竜児の話を聞くことにした。
 自分の生い立ちを訥々と語る竜児に、奈々子は深く頷いたり、相槌を打ったりして聞き入る。
 まだ若い泰子が、竜児を身ごもってからずっと二人で暮らしてきたこと、それを理由にして他人から蔑まれたりしたこと。
 泰子のような若い女性が、一人で子どもを育てるのに、どれだけ苦労を重ねたのだろう。奈々子には想像もつかなかった。
「そりゃ、泰子の仕事のこともあるし、俺もこんな顔だし……」
 竜児の根底にあるのは、不安なのかもしれない。自分の存在が、誰かにとっての重荷になるのではないか、邪魔になっているのではないか。
 そんな思いが、拭いきれていない。だからこそ、竜児は自分が誰かに好意を向けられていても、それを素直に信じることができないのかもしれない。
 俺なんかが、そう話した竜児だったが、それは自分自身を肯定できないことから来ているのだろう。

 奈々子は、口を挟むことなく竜児に語らせることにした。自分を卑しいもののように語る竜児に、反論をすることはしなかった。
 そんなことをしたところで、竜児の心の中で焦げ付いた不安は削り取れないだろう。
 子どもの頃から、母親を失うことに対しての不安を抱えていた竜児。
 父がいないこと、母が若すぎること、母の仕事が理由で、大人たちの見る目が変わったこと、顔が理由で多くの人から避けられたこと。
 竜児の話を聞いているうちに、奈々子は胸が痛くなってきた。
「俺は……、本当に、どうすりゃいいんだろうな……」
 遠い目で、竜児は最後にそう呟いた。将来に対して不安があるのだろう。金銭的な理由で、進学することにも躊躇が生まれている。
 奈々子は竜児に何を言えばいいのかがわからなくなっていた。
「どう言ったらいいのかわからないけど、あたしは、竜児くんに幸せになって欲しいわ。その時、あたしが傍にいるのが一番いいんだけど」
「……幸せねぇ」
 竜児が手を後ろについて、天井を見上げた。視線の先にあるのは夜空を遮る冷たい壁だけ。
「今度は、あたしの話も聞いてくれる?」
「いいけど……。いいのか?」
 奈々子の顔を見ながら、竜児は目を瞬かせた。
「竜児くんになら、ね」
「口外はしねぇよ。それだけは約束する」
「本当に? じゃあ指きりね」
 体の後ろについていた竜児の手に、自分の手を重ねる。
「ええっ?! いや、別にそんなことせんでも、俺は」
「あら、いいじゃない」
 本当は、ただ竜児と少しでも触れ合っていたいだけだった。
「わかったよ、ほら」
 体を起こした竜児が、右手の小指を立てて差し出してくる。奈々子は、その指に自分の小指を絡ませた。
 ほんの少し触れ合っただけで、胸の中で暖かなものが広がってくる。
「指切った、と。ほら、これでいいだろ。お前が何話しても、誰にも言わねぇからよ」
「そう。まぁ別にたいした話じゃないのよ。こんなことしておいて言うのもなんだけど」
 苦笑いが出てしまう。あまり重く構えられても、困るだけだった。

「今更だけど、あたしってお父さんと二人で暮らしてるのよ」
 家庭の事情なんて、人に話すようなことではないと思う。だから、麻耶にも詳しいことは話したことがなかった。
 それを、竜児に話そうとしている。
「離婚、したんだっけか」
「そうね……。離婚したの。普通はさ、離婚すると女の子だったら母親のほうが引き取るじゃない? でも、そうはならなかった」
 話しづらいことではあった。でも、竜児なら、真剣に聞いてくれるだろうと思えた。
「んー、どこから話したらいいのか悩むわね」
「お前の好きにすりゃいいと思うぞ。俺はちゃんと聞くから」
 竜児の言葉には、優しさが滲んでいた。気を遣ってくれているのだろう。
 そんな竜児の優しさに、心が乱される。
「あたしのお父さんって、ずっと仕事で忙しくて……。朝に仕事に出て、帰ってくるのは日付が変わった頃とかそんなのばっかり。それで休みも少なかったし……」
 本当に、異常なほど働いていたと思う。
「お父さんは忙しいし、お母さんも働いてて、それでね、段々とあたしは自分で家事とかするようになったの。料理とか覚えるとお父さんも喜んでくれたし、教えてもくれたし」
「まぁ、俺も自分でやんなきゃならなかったからな……。嫌ではなかったけど」
「そうね、あたしも別に嫌じゃなかった。色々出来るようになったら、お父さんもお母さんも喜んでくれたし、頑張ったわ。でも、そしたらお父さんもお母さんも、あたしのことほったらかしになったの」
 奈々子なら大丈夫だ、そう言われた。その通りにしようと思った。
「でもね、そのうち段々と上手く行かなくなった。お父さんって、地味にモテるのよ。それで、浮気やらがバレて大喧嘩して」
「……そりゃ、また」
「そしたらお母さんも浮気してたのよ。それで、お母さんは浮気相手のところに走って出て行っちゃった。それで離婚」
 話してみれば、なんてあっさりしたことなのだろう。あの時は、本当に辛かったのに。
 父も母も、なんて醜いのだろうと思った。二人は愛し合って、一生一緒にいることを誓ったはずじゃなかったのかと思った。

「お父さんとお母さんの喧嘩を見てるのも辛かった。本当に、あんなに酷くて醜いものは、もう見たくないわ……」
 ふぅ、と息を吐いて、奈々子は玄関の扉のそのずっと向こうへと視線を送った。
 竜児は何を言うべきなのかがわからないのか、黙ったまま俯いている。
「一番辛かったのは、なんだと思う?」
「えっ? いや……、そりゃ親が離婚したこととか」
「ううん、違うの」
 これだけは、今でも辛い。
「あたしのお母さんがね、あたしを捨てていったこと」
 言葉にしてから、奈々子は自分の体を抱くように腕を組んだ。少しだけ寒くて、上腕を手で擦る。
「お母さんは、もう新しい家庭を作ってるらしいわ。子どももいるみたい。そしたら、その子があたしのお母さんを、お母さんって呼んでるんでしょうね」
「……ひでぇ」
 滲みでた竜児の言葉に、奈々子は小さく溜め息を吐いた。
「小さな頃から、ずっとお母さんお母さんって呼んでた人なのよ。いなくなるなんて考えたこともなかった。小さな頃には一緒に遊んだりもしたわ、一緒に洗濯物を畳んだりとか、運動会で応援に来てくれたりとか」
 思い返すと、沢山の思い出があった。
「寝付けなくて一緒に寝たこともあったし、あたしが怪我をしたら痛くないよって頭を撫でてくれた。あたしの作った料理を美味しいって食べてくれた。あたしが風邪を引いたら、仕事を休んででも看病してくれた」
「……そうなのか」
「そんな人だったのに、結局は、あたしを捨てて他の男のところに走って、また子どもを作って……」
 あたしは、捨てられた子なんだ。
 そう自覚した時は、心の中身ががらんどうになったような気がした。目の前にあるものが、現実のものなのかもわからなくなっていく。
 薄いガラスの向こうに現実があって、自分はそこから遠い場所にあるような気がした。すべてのものが、遠くにあるように思えてしまう。

 突然、肩に手を回されて、奈々子は目を見開いた。竜児が、奈々子の肩に手を回して奈々子を抱き寄せている。
「……どうしたのいきなり」
「な、なんかよくわからんが、つい」
「ついって……」
 竜児の言い方に苦笑してしまう。竜児は顔を赤く染めて、恥ずかしそうに頬を掻いていた。
 きっと、竜児が優しいから、同情してくれたのだろう。だから、いきなりこんなことをしたに違いない。
 奈々子はそれを悪いものだとは思わなかった。たとえ同情だとしても、それは竜児が自分の気を引きたいからとか、他に何か下心があるわけではない。
 だから、つい、なんだろう。

 奈々子は竜児の優しさに甘えることにした。竜児の肩に頭を預けて、少しだけ目を細める。
 そして、自分の右肩に回された竜児の手に、自分の左手を重ねる。
「あたしはね……、壊れない家族が欲しいの。お父さんやお母さんみたいにはなりたくない。ずっと、ずっと一緒にいられる人が傍にいてほしい」
 それが、奈々子の願いだった。家族が壊れた時の悲しみは、竜児にも理解ができないかもしれない。けれど、失くしてしまうかもしれないという恐れは、竜児の中にもあるだろう。
「のんびりと、ゆっくりと、日々を平穏に過ごせたら一番だと思うわ」
「……ああ」
 竜児は、自分を愛してくれるだろうか。奈々子はそんなことを考えていた。
 もし、竜児が自分を愛してくれたなら、長く一緒にいられそうな気がしていた。
 こうやって肩を抱かれていると、心が温かく、安らいでいく。何よりも好きなお風呂の時間よりも、今は気分がよかった。
 瞳を閉じると、竜児の暖かさが伝わってくる。このまま、眠ってしまいたいくらいだ。
 優しくて、責任感や倫理観が強くて、人の心を気遣うことが出来る。そんな竜児に、奈々子は強く惹かれた。
 目先の快楽や誘惑にも流されず、正しくあろうとする。その心が、奈々子には綺麗なものに思えた。
 竜児の正しさは、きっと自分を守る盾なのだろう。外から向けられる矛から、自分を守るために、竜児は正しくあろうとしている。
 それがいいものなのかは奈々子にはわからなかった。竜児は心の底で、何かに怯えていて、不安を拭うために正しさという盾を掲げて周りを伺っている。

「ねぇ竜児くん」
 目を開けて、竜児の顔を覗き込む。
「ん? なんだ」
「奈々子、って呼んでよ」
「……またかよ」
 少しだけ嫌な顔をしているが、本当に嫌なわけではないのだろう。
「奈々子」
 だから、奈々子の言葉に応えてくれる。
「うん……。ありがとう」
「そんな礼を言われるほどのことじゃねぇと思うが」
「ううん、嬉しいもの。好きな人に、ちゃんと耳元で名前を呼ばれるんだから」
 この気持ちが、竜児には理解できない。それだけで、竜児の心が遠いところにあるのが感じられて、奈々子は唇を閉ざした。
  
 竜児が帰った後、奈々子はお風呂に入って歯を磨き、寝巻きに着替えた。
 長い髪を肩でひとつにまとめて、前に垂らす。もう夜の11時を回った頃になって、奈々子は牛乳を飲むためにキッチンに行った。
 キッチンで冷蔵庫を開けた瞬間に、玄関で物音がした。どうやら父が帰ってきたらしい。
「ん? 奈々子か。お前なぁ、家の鍵はちゃんと閉めとけよ。最近は物騒な世の中なんだから、それくらいしとけよ」
 コートを脱ぎながら、奈々子の父がリビングに入ってくる。そういえば、竜児が帰った後に鍵を閉めるのを忘れていた。
「あら、早かったじゃない。今日は会議があるんじゃなかったの」
 確かそんな話をしていたような気がする。だからこそ、竜児を部屋に誘ったのだが、もし竜児を部屋に上げていたら鉢合わせになってしまっていたかもしれない。
「いやぁ、それがな、ちょっと人手不足で抜けられない人がいてな。そんで今回は流れた。まぁ、そのうちにまたやる予定だけどな」
「ふーん……」
 別に仕事の話なんてどうでもよかった。
「ところで奈々子、たい焼き食うか? ほれ、なんか専門店できただろ。会議のおやつにしようと思って買ったんだけど、無くなったからなぁ」
 コートを椅子の背もたれにかけて、父は紙袋をぽんとテーブルの上に置いた。
「……」
 作られてから時間が経っているにも関わらず、その紙袋からは小麦の焼けるほっこりとした匂いが漂ってきて、奈々子は唾を飲んだ。
「も、もう歯を磨いたし、いらない」
「なんだいらないのか。美味いのに」
 そう言って、父が紙袋に手を突っ込む。たい焼きをひとつ摘み上げて、頭から豪快にかぶりついた。小豆餡の甘い香りが広がる。
 それを見ると、夜食にひとつくらいつまみたい気持ちになる。しかし、足を痛めてからというものの、日課のウォーキングも出来ていない。
 運動不足もあってか、わずかに肉がついてきたような気さえする。ここでこんな甘いものを食べてしまったら、確実に軽肥満への道を行くことになってしまう。

「やっぱ美味いなこれ。時間が経っても皮がさくさくで、中の餡もしっとりとしてて、いい感じの甘みだ。小豆も潰れてないから、食感も残ってるし、砂糖の甘さだけじゃなくて小豆本来の味がしっかり生きてる」
 奈々子の心中などお構いなしに、父は口にしたたい焼きの感想を述べ始める。
 それがさらに奈々子の胃袋を刺激した。竜児の家で夕食をご馳走になってから、結構な時間が経った。ちょうど小腹も空いてくる。
「ん? 尻尾まで餡子が入ってるじゃないか。別にここはいらないんだけどなぁ」
 丸々ひとつ食べ終えた父が、指先をぺろりと舐める。 
「ところで奈々子、なんか食うもの無いのか?」
「……今日は外で食べてきたから無いわ」
「そうなのか。仕方ない、自分で作るか……。どうすっかな、パスタか、丼物か、うーん」
 牛乳を注いだコップを煽り、奈々子はふぅと息を吐いた。

「そうだ、お父さん、ちゃんとしたオムレツの作り方教えてよ」
「オムレツ? 別にいいけど、なんだっていきなり。俺に料理教わるの嫌なんじゃなかったのか」
 意外そうに目を瞬かせて、父はキッチンに入ってきた。
「別にいいじゃない。作り方覚えたって損にはならないでしょ」
「どうせ男に作ってやるとか、そんな理由だろ」
「……どうだっていいでしょ」
 まったくもってその通りだった。オムレツなら材料は玉子くらいのものだし、特別な手間がかかるわけでもない。
 玉子焼きを巻くよりは簡単そうだと思えた。

「んじゃ、久しぶりに作るかな」
 父はコンロの前に来ると、換気扇を回し始めた。それから、テフロン加工の小径フライパンをコンロの五徳に置く。
「んー、普通に作ったら面白くないな。なんか入れるか……」
「なんにもいらないから、普通のでいいわよ」
「普通のねぇ……。デミグラスソースも無いし、ケチャップで食えっていうのかよ」
 父が、食器棚から適当な大きさのお椀を取り、冷蔵庫を開ける。
「玉子っと。ん? なんだよ、バター無いのか」
「仕方ないじゃない。高いのよバター。マーガリン使えば?」
「お前なぁ、マーガリンは体に悪いんだぞ。まぁ、無いんだったらこれでいいか」
 冷蔵庫からマーガリンと、玉子を3つ取り出す。そして、コンロに火をつけてフライパンに熱を加える。
「お前もわかってると思うけど、テフロンの鍋は熱くしすぎるなよ。テフロン剥げるからな」
「そんなのわかってるわよ」
「じゃあいいけど……。んで、玉子割って、菜箸でガーッと混ぜてやる。混ぜすぎるとあんまりよくないんだけど、こっちのほうが目が綺麗になるからな」
 父は片手で玉子を割って、お椀に玉子を入れると、菜箸を使って玉子を激しくかき混ぜはじめる。
 白身と黄身が完全に交じり合うまで、箸を立ててガシャガシャと混ぜ合わせた。
「そんで、マーガリンをフライパンに入れる、と。火から離して回してやればほら、溶けるだろ」
 フライパンを片手で回し、マーガリンを溶かしていく。同時に、マーガリンの甘い匂いが空気に混じった。
 マーガリンの塊が溶けかけた頃になって、フライパンを五徳の上に置く。
「基本は強火だからな。ここで玉子をどーんと一気に入れてやる」
 お椀から、溶いた玉子をフライパンに流し込む。小径フライパンの中で、玉子が丸く広がった。
 入れた後で、父は白い皿を一枚用意してコンロの隣に置いた。
「それでだ、フライパンの端で玉子がふつふつ言い始めたら、箸を使ってこう混ぜてやる」
 フライパンを前後に揺すりながら、素早くフライパンの中の玉子をかき混ぜていく。円を描くように、何度も何度もかき混ぜた。
 そのうち、玉子の海の中で、豆粒のような玉子の塊がいくつも出来上がる。
「この焼き加減が難しいんだけどな。あんまり生だと困るし、焼けすぎても美味しくないし。箸に感じる抵抗と、見た目で判断する」
 玉子の固まり方がちょうどよくなったところで、フライパンを五徳の上に置いた。
「ここでちょっと玉子の底を焼いて固めてやる。そんで、軽くフライパンをコンロで叩いてやって、玉子がフライパンに当たらないようにしてやるわけだ」
 ちょうど玉子がフライパンの上で滑るのを見計らって、父は左手首を右手でトントンとたたき始めた。
「ここで叩いて、トントントントントントン……、と。ほら、玉子が返っただろ」
 手首を叩く度に、玉子がフライパンの奥でくるくると回り始めて、オムレツの綺麗なラグビーボールの形を作り上げていた。
 そして、右手で皿の底を持ち、フライパンを近づける。
「かっこつけてやるなら、こうやって皿に盛る」
 フライパンを空中でひっくり返し、皿の上にオムレツをぽとりと落とした。フライパンと皿が当たって、澄んだ音が鳴る。
「やべっ、当たっちまった。まぁこんなことしなくても、横から滑らせたほうが潰れにくくていいけどな」
 隣で父がオムレツを焼く様子を見ていた奈々子は、目を細めて焼きあがったオムレツを見ていた。
「ほら、まだ中身が柔らかいからこう、皿の上で転がるだろ」
 父が白い皿を傾けて、その上でオムレツを転がしてみせる。綺麗に巻かれたラグビーボールのような形のオムレツが、皿の上をゆっくりと転がった。
「と、まぁこんな感じだ」
「ちょっと待って……。なんか、早すぎてよくわからなかったんだけど」
「そりゃ手早くやらなきゃな」
 鮮やかな手並みに、奈々子は首を傾げた。
 簡単そうにやってはいたが、果たしてこれが出来るのだろうかと思うと不安になる。

 とりあえず、父に教わった通りにやってみることにした。かけてあったエプロンを着て、肩におろしていた髪を後ろに回す。
「奈々子、お前って……」
「なによ?」
「エプロン似合うよなぁ」
「そう?」
「まぁ、あいつもよく似合ってたな……。腕はともかくとして」
 あいつ、が誰のことなのかは奈々子にもすぐ想像はついた。冷蔵庫から玉子を3つ取り出して、お椀に開ける。
「エプロンの似合う女ってのはいいよな。やっぱ、それが一番だ」
「ああそう。だったらちゃんと逃がさないようにすればよかったのに」
「ん、ああ……。いや、あれからはマジで俺もちゃんとしてるからな?」
「どうだか」
「お前、大人しい顔しといて結構言う時は言うよなぁ」
 重たく息を吐きながら、父は腹をぽりぽりと掻いた。見た目は若いが、仕草はすでに中年の域に達している。

 玉子を箸で溶いてから、フライパンに熱を加える。マーガリンをフライパンの上で溶かして、一気に玉子を流し込んだ。
「ここで混ぜればいいのよね」
「箸でな。外から中にぐるぐる回す感じにすれば、大体均等に混ぜられるから」
 教わったとおりに、フライパンの中を箸でかき混ぜる。
「おいおい、フライパンを揺すりながらやれよ。って、そんな無茶苦茶かき回せばいいってもんじゃないぞ、少しくらい間隔開けていいから。ほら、端っこが固まってるからそこも落として」
「えっ? 混ぜればいいんじゃないの」
「揺すりながらやれって。ほら、もうほとんど固まってきたぞ。そろそろ巻けよ」
「えっ? もういいの」
 奈々子はフライパンを持ち上げて、左手首を右手でたたき始める。しかし、玉子はまったく動かない。
 思い切り叩いてみたら、玉子が宙に浮いて、フライパンに落ちた。同時に玉子の形が潰れてしまう。
「馬鹿、底をちょっと焼いてやらないとフライパン滑らないだろ。それと、手首の力はちゃんと抜いとけよ。軽く叩くだけでいいんだから」
 フライパンの奥で、卵の塊がぐちゃぐちゃに潰れてしまっていた。もう何もかもが遅い。
「ええっ?! どうするのよこれ」
「いいから、もう箸で返せ、畳め」
「畳むっ?!」
 フライパンの上で、玉子がどんどん固まっていく。もう半熟の部分などなく、ただの玉子焼きになっていた。

「あーもう、ほら、貸せよ」
 奈々子が持っていたフライパンを横から奪うと、フライパンを揺すった。それだけで、玉子がフライパンの上で滑り始める。
「もうこうなったら巻くのは無理だから、箸でこうやって畳む。そんでフライパンの端で形だけ作る」
 潰れていた玉子が、フライパンの淵で半月の形に整えられる。フライパンからお皿の上にオムレツを移した。
「こうなったらもう無理だな。後はもう、キッチンシートとかで形整えて、オムレツもどきにする」
 クッキングシートを一枚とって、父は焼きあがったオムレツの上に被せて手で形を整えた。
「一応、それっぽいのは出来ただろ」
「それっぽいのって……」
 父が、キッチンの下の戸棚を空けて、中の包丁立てから一本のペティナイフを取り出した。
 ペティナイフで、まずは自分が作ったオムレツの上を一直線にすっと切れ目を入れる。すると、オムレツが割れて、中に溜まっていた半熟の玉子がとろりと流れ出した。
 次に、奈々子が焼いたオムレツにも同じように切れ目を入れる。しかし、火が通り過ぎたせいか、切れ目を入れてもまったく変わりがなかった。
「ほら、お前のは焼きすぎなんだよ。ちゃんと玉子が焼ける頃合を見て、手早く玉子を巻いてやらないと」
「……そんな簡単に出来るわけないでしょ」
「どうせ簡単で見栄えがいいからとか思ってて教わったんだろ」
 確かにそれは図星だった。材料も少なくて済むし、綺麗に巻く姿はそれなりにサマにはなる。だが、実際にやってみたらまったく上手く出来なかった。
「こんなのやるより、お前は煮物とかああいうの美味いんだからそっちやればいいだろ」
「それは、そうかもしれないけど」
 奈々子自身、フライパンを使った炒め物はあまり得意ではなかった。上手くフライパンを振ることができなかったし、火加減の調節も難しい。
 野菜炒めも、炒めすぎて食材がベチャッとしてしまうこともあった。だから、普段は煮物だったりスープだったり、そういったものを作ることが多い。
「まぁ、オムレツやりたいんだったら、布巾とか使って巻く練習したりとかだな。手軽にやりたいんだったら、巻かなくても普通に畳んで後から形整えるだけでもいいけどな」
 父は冷蔵庫の中からケチャップを取り出して、割ったばかりのオムレツにケチャップをかけていった。
「とりあえずテフロン鍋と、鍋の温度がわかりやすいようにバター使ってやることだな。それで慣れたら鉄のフライパンでもできるように練習。こっちは普段からよく焼いたフライパンじゃないとちょっと難しいけどな」
 父が、テフロンのフライパンを布巾で拭いて、五徳の上にフライパンを置いた。
「もっと綺麗にやろうと思ったら、卵液に生クリームと牛乳入れて、それから漉してやるんだよ。そしたら輝かしい黄色のふわふわオムレツができるぞ」
 奈々子は溜め息を吐いて、機嫌良さそうにフライパンを拭いている父を横目で見た。料理の腕に差がありすぎて、教えられていてもそれが上手く伝わってこない。
 こういった腕前に左右される料理については、特にそうだった。
「……あたしにはちょっと難しいわね。まぁいいわ、そのうち練習してみるから」
 そう言って奈々子がキッチンを去ろうとした瞬間、父に肩を掴まれた。
「なによ?」
「これ俺一人で全部食えっていうのか……。玉子6個分だぞ」
 顔を歪める父に、奈々子は冷たく言い放った。
「あたしダイエット中なの」
「お前、いつでもダイエット中だな……」

 冬の冷たい空が綺麗に澄み渡り、降り注いだ寒気が鋭く肌を刺す。学校へ続く坂道を、奈々子はゆっくりとした足取りで歩いていた。
 念のため、今日もいつもより早めに家を出たが、その必要もなかったかもしれない。坂道を登っていると、上から女子ソフト部が掛け声をあげながら走ってくるのが見えた。
 先頭を走っているのは、櫛枝実乃梨だった。冬だというのに額から汗を流し、奈々子の横をさっさと走り抜けていく。
 奈々子はなんとなく振り返って、坂道を走り降りていくソフト部の背中を見た。
 櫛枝実乃梨を、どうにかしないといけない。その思いは心の中にあった。
 冷たい風が足元をするりと流れていく。奈々子は身震いをしてから、学校へ続く坂道を登っていった。

 足の痛みは随分と引いてきた。歩く分には、ほとんど問題がなくなっている。さすがに走ったり跳んだりをすればすぐに痛むだろうが、普通に生活する分には問題がなさそうだった。
 教室に入ってから、奈々子は頬杖をついて黒板をぼんやりと眺めていた。
「……ふぅ」
 知らないうちに溜め息がこぼれる。
 櫛枝実乃梨と、竜児の間にある関係をすべて断ち切ってしまわなければいけない。そうしなければ、竜児は自分に思いを寄せてはくれないだろう。
 修学旅行で亜美から聞いた話だと、実乃梨は竜児の告白を無かったことにしてしまったらしい。その上で、なんでもなかったかのように友達付き合いを続けているのだという。
 なぜ明確な返答を避けたのかといえば、おそらく大河に遠慮をしたからだろうと奈々子は思っていた。それで間違いないと思う。
 それでありながら、今までの関係を崩したくないからと、竜児の心を無いものとして扱っている。
 なんて酷いのだろう。奈々子は下唇を噛んで目を閉じた。

 竜児は、そんな扱いをされても実乃梨への想いを拭いきれないのだろう。だから、苦しんでいる。
 やることはやり尽くしたという感じのようだったが、それでも望みは捨てきれていないのかもしれない。
 だとしたら、実乃梨の口から、しっかりと竜児の想いに対する返答を聞きださなければいけない。
 そう考えた時、奈々子は頭の中で電流が走ったような気がして目を丸く見開いた。
 これは、修学旅行で亜美がやったことと同じ。そう、実乃梨の口から、竜児への想いを無理矢理にでも聞きだそうとしている。
 亜美は実乃梨の本心を聞き出そうと、実乃梨を挑発した。どうして?
 それは、亜美が竜児のことを想っているから。だから、竜児の首に、見えない鎖を繋いでいる実乃梨が許せなかった。
 その鎖を断ち切って竜児を自由にしてやりたかったのだろう。竜児が振られてしまったほうが、何かと都合がいい。
 けれど、実乃梨は竜児との関係や、大河を取り巻く環境を変えたくないと思って、何も答えることができなかった。
 亜美は失敗した。けれど、自分はやり遂げてみせる。

 放課後まで待って、奈々子は実乃梨を呼び出した。部活に向かおうとしている実乃梨に話しかけて、少しだけ時間が欲しいと告げたのだ。
「なになに? どうしたの?」
「ごめん、ちょっとだけ付き合ってよ」
 賑々しい放課後、クラスメイトたちの目を盗むようにして、校舎の端へ向かった。自動販売機が置かれた一角に行く。
 実乃梨はなんの話をされるのかがわかっていないのか、鞄を肩にかけたまま目を丸く輝かせていた。
「ねぇ、なんの話だい。私部活あるから、早くしてほいんだけどさ。つーか珍しくね、私を呼び出すなんてさ」
「すぐ終わるから大丈夫よ」
「そうかい。なんだ、私だけ検尿出し忘れたとかそんなんじゃないよね」
「違うから……」
 こうやって実乃梨を見ていると、明るい笑顔も何か嘘臭いものに感じられた。変なフィルターが自分の中に作られているのかもしれないと、奈々子は目を瞬かせた。
 いつも突飛なことを言い出したり実行したりと、クラスの中でも変わった存在である櫛枝実乃梨。この明るさに、竜児は惹かれたのだろうか。
「話っていうのは、高須くんのこと」
「はぁ?」
 笑顔のまま、実乃梨が瞬きをする。
「簡単なことなの。高須くんのこと、ちゃんと振ってあげて。あたしから伝えるから」
「……いや、なんの話?」
 誤魔化しに来た。
「あたし知ってるのよ。高須くんが、櫛枝に告白したんだってね。でも、櫛枝はちゃんと返事してない。だから、櫛枝の気持ちが高須くんに向いてないってちゃんと言って欲しいの」
「意味わかんね。話ってそんだけ? 私忙しいし、そんだけだったらもういいっしょ」
 振り返って歩み去ろうとする実乃梨。奈々子は実乃梨の鞄を掴んで、制止した。
「あたし、竜児くんのことが好きなの。だから、率直に言うとね、櫛枝のことが邪魔なの」
 実乃梨が首を奈々子に向けた。その表情は、幽霊でも見たかのように引き攣っていて、奈々子も驚いた。
「高須くんのことが、……好き?」
「そう、好きなの」
「好きって……、え?」
 実乃梨が、引き攣った顔から無理矢理笑顔を浮かべようとしているのを見て、奈々子は目を細めた。
「好きなのよ。だから、竜児くんの気持ちが自分に向いて欲しいと思ってる。でもね、竜児くんは櫛枝のことが……、好きみたい。今はどうなのか知らないけど」
 竜児が実乃梨のことを好きだということを、自分で口にするのは難しかった。だから、こんな言い方になってしまう。
「櫛枝は竜児くんのこと、嫌いなんでしょ。だって、告白だって無かったことにしたくらいだもの。だから、ちゃんと振って欲しいのよ」
「……そんなの、あんたには関係ないし。別に私は」
「関係あるわよ。だって、あたしは竜児くんのことが好きなんだもの。ほら、早く聞かせてよ。竜児くんのこと、嫌いなんでしょ。っていうか付き合う気は無いって言ってあげて。そうじゃないと竜児くんがかわいそうだわ」
 実乃梨は歯を食い縛って、掴まれた鞄を思い切り引っ張った。奈々子の力ではそれを止めることが出来ず、奈々子の手から実乃梨の鞄が離れる。
「悪いけど、私に言われたってどうしようもないし……」
「そんなわけないじゃない。櫛枝がはっきり言えば済むことでしょ。だって、竜児くんは櫛枝のこと引き摺ってて、そのせいで前に進めないんだから」
「だから、私は……。それに、そんなの私がどうこうしたって」
 曖昧に言葉を濁らせる実乃梨を見て、奈々子は下唇を軽く噛んだ。

 実乃梨が何を考えているのかが、よくわからない。竜児を取り巻く環境を、壊したくないのだろうか。
 恋愛感情の縺れで、いつも一緒にいる友人たちが不仲になるのを避けたいのだろう。そのために、何をしているのかわかっているのだろうか。
 そのために、竜児は犠牲になっている。上辺だけ取り繕って、すべてを無かったことにして、仲良くしていればいいと思っている。
「だから、櫛枝がはっきりしないから竜児くんが苦しんでるんじゃない。付き合うつもりがないなら、そう言ってあげて」
「っていうか、横からなんでそんなこと言ってくんの?」
 実乃梨が目を細めて、奈々子を睨んだ。
「横から? あたしは竜児くんのことが好きなの。だから櫛枝の曖昧な態度が許せない。なんとかしたいと思うのは、当事者だからよ。それで? 竜児くんのこと、好きなの? 嫌いなの?」
「……だから、関係ねーだろ」
「関係あるって言ってるでしょ。はっきりしてよ。付き合う気はないんでしょ? だったら、それだけでもはっきり口にして」
 眉を吊り上げて、奈々子は大きな声でそう言い放った。実乃梨と話していると、段々と腹が立ってくる。
 修学旅行で、亜美が実乃梨を相手に激昂した理由が、奈々子には実感できた。決して本心を晒そうとしない実乃梨に、奈々子は唇をぎゅっと結んでその姿を見据えた。
 実乃梨も、機嫌悪そうに目を細めて奈々子を睨みつけている。

「櫛枝、いい加減はっきりしてよ」
「だから、あんたには関係無いって言ってんだろ」
 実乃梨は眉を寄せて、そう言った。
「どうせ、タイガーのことでも考えてるんでしょ」
 その言葉に、実乃梨が表情を激変させる。目を丸く見開き、拳を握り締めた。
「そうよね、タイガーは竜児くんのことが好きだもの。二人が上手く行けばとか考えてるんじゃないの?」
「もう、いい加減にしてくんない? 私忙しいし、付き合ってる暇無いし」
「また逃げるの? ほんと、逃げるのだけは得意なのね」
「だから、いい加減にしろって言ってんだろ」
「だったらすぐに答えを聞かせてよ。竜児くんと付き合うつもりはないってことでしょ」
 今にも、実乃梨は握り締めた拳を自分に向けてくるのではないかとさえ思えた。
 実乃梨はぐっと何かを堪えながら、肩にかけた鞄の紐を握り締めている。視線を廊下に落として、小さく震えていた。

 もし、実乃梨が竜児を振ってしまえば、竜児と実乃梨の間に出来ていた友情は壊れてしまう。
 以前のように付き合うことはできなくなるかもしれない。でも、竜児は実乃梨を好きになってしまった。
 竜児の感情を殺さなければ成り立たない友情に、一体なんの価値があるのだろう。竜児は傷ついているのに。

 このままでは埒が明かない。そう思った時だった。
「お前ら、何してんだ……」
 廊下の門から、突然竜児が現れた。状況が飲み込めないのか、目を丸くしている。
 竜児に気付いて、奈々子と実乃梨の体が一瞬大きく震えた。こんな場所に竜児が現れることは、予想していなかった。
「なんだ……?」
 竜児なりに、二人の間に気まずい空気が流れているのを察知したのだろう、歩みを止めて肩にかけた鞄を握りなおした。
 実乃梨との間で決着をつけようと思っていたのに、このタイミングで竜児がやってくるとは思わなかった。
「高須くんはさ……。大河のこと、どう思ってるの?」
 実乃梨が、竜児に背を向けたまま問いかける。奈々子には、実乃梨が俯いて唇を結んでいる姿が見えた。
「どう、って、なんの話だ?」
「あのさ、もしかして、大河のことほったらかして、こいつとどうにかなるつもり?」
 ゆっくりと、実乃梨は竜児のほうへ振り返って視線を向けた。実乃梨の表情がどんなものなのか、奈々子にはわからない。
 ただ、実乃梨の視線を受け止めた竜児は狼狽していた。半歩後ずさって、実乃梨からわずかに距離を取ろうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ櫛枝。なんの話だよ、俺にはわかんねぇよ」
「わかんない? どうして? 高須くんはさ、大河のこと、ほったらかしになんかしないよね?」
「……お前、何言ってんだよ。だから、俺には話が見えねぇって」
 竜児が顎を引いて、実乃梨の視線を正面から受け止める。

「ねぇ、櫛枝は竜児くんのことが好きなの? 嫌いなの? 自分ははっきりしないくせに、竜児くんにははっきりしろって言うんだ」
「だから、関係ないから黙っててくんないかな。ほんと、苛々するし」
「苛々するのはこっちのほうよ」
 実乃梨の背中を見ながら、奈々子は自分の左腕に爪を立てた。
「ちょっと待てよ。お前ら、一体なんの話を……」
「なんの話って、決まってるじゃない。櫛枝が、竜児くんの告白を無かったことにして、のほほんとしてるのが許せないの。はっきりしてもらわないと」
 苛立ちのあまり、竜児に対しても奈々子は低い声音を放ってしまう。
 こんな醜い姿を見せたいとは思わない。言ってから、わずかな後悔が襲う。
「……そんな話してたのか」
 奈々子が心配するほど、竜児は奈々子に悪い印象を抱かなかったらしい。気まずそうに視線を逸らして、顎に手を触れている。
 竜児が現れたことで、奈々子はどうしていいのかがわからなくなっていた。ただ、実乃梨に対する怒りだけは心の中で沸々と音を立てていて、その熱は収まりそうにない。
 今自分が何をしようとしているのかもわからない。竜児が実乃梨のことを好きだということは、奈々子にとって何よりも嫌なことのはずだった。
 しかし、竜児の気持ちが実乃梨にちゃんと伝わって、その上で竜児が振られて欲しいなどと思っている。
 それによって、竜児は傷付くのに。

「竜児くん、今ここで、もう一回櫛枝に告白すればいいじゃない。あたしが横で聞いててあげる。櫛枝の返事もね」
 奈々子は眉を寄せながら、竜児にそう言った。竜児は顎に触れていた手で、ゆっくりと前髪に触れ、俯いた。
「それは……、できねぇよ」
「どうして? はっきりと決着をつけたほうがいいわ。そうしないと、竜児くんはずっと傷ついたままじゃない」
 実乃梨との友情を保つために、竜児は自分の心を延々とおろし金で削り続ける日々が続く。それは、どれだけ辛いことなのだろう。
 奈々子は拳をぎゅっと握り締めて、竜児の顔を見ていた。
「俺は……、その、もう、櫛枝に告白する気はない」
 竜児の言葉は、奈々子の耳の上で一度保留された。喉に引っ掛かった小骨のように、その言葉の意味を飲み込めずにいる。
「そう、高須くんは、私のことを好きじゃないもんね」
 過去の過ちを自嘲するかのような笑みで、実乃梨は肩を竦めた。
 告白をする気がない。それが意味するところは、つまり、実乃梨への恋心は、竜児の心の中で失せてしまったということだった。
「いや、俺は櫛枝のことが好きだった。今更言ってもしょうがねぇけど……。って、なんだよ、なんでこんなこと言ってんだ俺。あの日、緊張しまくって結局言えなかったのに」
 後頭部を掻きながら、竜児は視線を壁に這わせた。
「それで、高須くんの気持ちはどうなったのかな? ようやく、気付いたんじゃないの」
「……多分、な」
「そう……」
 実乃梨は目と閉じて、大きく息を吐いた。それに合わせるように、実乃梨の肩が下がる。
「俺が好きなのは、お前でも、大河でもない……」
「えっ?」
 竜児の言葉を耳にした実乃梨が、顔を上げて竜児の顔を見た。瞬きすらせずに、怒っているのか笑っているのかも判別できない顔で、竜児を見つめていた。
「きっと、一緒にいられる相手は、大河じゃないんだ……。あいつのことは放っておけないとは思う。でも、あいつは俺の手を借りることを望んでない」
「ちょっと待ってよ、何を、言ってるのさ」
 両手をぐっと握り締めて、実乃梨は言葉を喉で潰しながら放った。
「高須くんが、大河を好きにならない? どうして、何を言ってるの。大河は、大河はどうなるの?!」
 実乃梨の怒声に、竜児は申し訳無さそうに唇を閉ざして俯いた。
「それが、高須くんの答えなの? どうして、そんな……」
「ああ、俺が出した答えだ」
 俯きながらも、竜児はしっかりとした声音で応えた。

 実乃梨の体が、がくりと一瞬倒れそうになり、なんとか踏ん張った。
 そのまま奈落へと落ちていくのではないかと奈々子が思ったの同時に、実乃梨は一歩足を進めていた。
 真横に構えた手で、竜児の頬を強く打ち抜いた。なんの手加減も無かったのだろう、頬を張られた竜児は壁際に叩きつけられて肩をぶつけていた。
「竜児くんっ!!」
 奈々子は慌てて駆け寄ろうとして、同時に足首に焼けた鉄を押し付けられたような痛みを味わい、竜児の体に向かって倒れこんだ。
「ぐほっ」
「あっ、ごめんなさい」
 ちょうど手をついたら、竜児の腹にめりこんだらしい。竜児は頬を張られたことよりも、それが痛かったのか顔をしかめて腹を押さえていた。
「い、いや、別にいいけど」
 竜児は顔に脂汗を滲ませながらも、微笑もうとしていた。ようやく追い詰めた獲物をこれから屠ろうとする猟奇殺人者のような顔だったが、奈々子には竜児の気遣いが見えてほっと胸を撫で下ろした。

「……高須くん、君のこと、本当に見損なったよ。結局、何がしたかったの? 大河のこと変に期待させて、大河のお父さんの時も自分勝手にして、そしてまた勝手に大河を傷つけて」
 倒れこんだ奈々子と竜児を冷たく見下ろしながら、実乃梨は渇いた声で告げた。
「さよなら高須くん」
 鞄を掴んで、実乃梨は足早に廊下の角を曲がり去っていく。

 自動販売機の間にある隙間にすっぽりと埋まった竜児が、膝を抱えながら片手に持った缶コーヒーを強く握り締めていた。
「あああ、俺は……ううう」
 竜児は時々額を膝にこすり付けてぐりぐりしながら、重たい息を吐き出していた。奈々子がお金を出して買った缶コーヒーも、ほんの少ししか口をつけていない。
 奈々子は落ち込んでいる竜児を見下ろしながら、どう声をかけていいものか悩んだ。
 さっきは、随分と威勢よく実乃梨に自分の心を告げていたのに、終わってみれば竜児は狭い隙間に嵌って落ちこんでいる。
「竜児くん、そんなところに座ってたら汚いわよ」
「心配するな、ここは俺がいつも徹底的に掃除してるから」
「なんでこんなところ掃除してるのよ……」
 いくら掃除好きだからって、こんな場所を掃除することはないのに。

「はああぁぁ……。やっちまった」
 ようやく顔をあげて、竜児は額を指で掻いた。
「それなんだけどさ、竜児くんはどうして、櫛枝にあんなこと言ったの?」
 あんなこと、としか言えなかった。実乃梨と付き合う気はないという。そして、大河のことも選ばないという。
 その言葉の先に何があるのか。奈々子は期待をせずにはいられなかった。竜児が落ち込んでさえいなければ、すぐに問い詰めたかったことだ。
「あんなこと? なんだっけ、ああ、俺……、あいつと付き合うつもりはないとか言ったんだっけ」
 まるで他人事のような言い方だった。
「そうだよ、言っちまった……。櫛枝のこと、本当に好きだったのに、何言ってんだろうな」
 再び額を膝に当てながら、竜児は小さく縮こまった。
 放課後になってから随分時間が経ったのもあって、もう廊下のほうからも賑々しい声は聞こえてこない。
 ほとんどの生徒が下校したか、部活に向かったのだろう。校舎の中は静かだった。窓こそ開いていないのに、冷たい空気がどこからか入り込んできて身震いしてしまう。
 奈々子は手に持ったホットコーヒーに少し口をつけて、喉の奥に流し込んだ。両手で包み込んでいたおかげで、指先が冷たくなることはないが、体の芯が冷えてくるのは避けようがない。

「……俺は、櫛枝と一緒にはいられないんだろうな。好きになって、精一杯頑張って、そんで振られて、ようやくわかった」
「そう」
 奈々子にはその言葉しか出せなかった。その後に、良かった! などと続けそうになったからだ。
 そんなことを言ってしまえば、竜児は傷つくだろう。
「竜児くんは、悪くないと思うわ」
「どうだか……。結局、めちゃくちゃになっちまった。これからは、櫛枝とも普通に喋れねぇだろうし」
「いいじゃない別に。竜児くんの気持ちを無視して、今まで普通に振舞ってたほうがおかしいのよ」
 普通を続ける代償に竜児は傷つき続けた。ここで櫛枝が傷ついたからといって、それがなんだというのだろう。
 自分のしたことに比べれば、本当にちっぽけなことじゃないか。
「そうかぁ? なんか、もっと他に方法があったんじゃねぇかと思っちまって」
「無いわよ。いつか終わるのがわかってた関係じゃない。竜児くんの選択は正しかったと思うわ」
 奈々子はそう言いながら、頭の隅で違うことを考えていた。
 実乃梨と付き合う気はない、大河を選ばない、そう言った。なら、竜児は誰を選ぶのだろう?
 奈々子は腹の底にむずむずするような期待が膨らむのを感じていた。遠足前日の子どもみたいに、ふわふわと落ち着かない気持ちで、手に持った缶コーヒーを揺らす。
 そうしていないと、貧乏揺すりのように足を揺らしていそうだった。
「ああ、そうだった……。お前に言いたいことがあって探してたんだ」
 ようやく気力が回復したのか、竜児は年寄りじみた仕草でゆっくりと立ち上がった。
「言いたいこと? そ、そう……」
 覚悟を決めなければいけない。
 竜児が自分に何か大切なことを告げようとしている。きっと、この場所に来たのも偶然ではなくて、自分を探していたからに違いない。
 そうでなければ、竜児がわざわざ中央の階段に向かわずに校舎の端へやってくる意味が無い。
 櫛枝を選ばない、大河を選ばないと言った竜児。きっと、一人の時間に考え続けたに違いない。自分が誰を選ぶべきなのか。
 そして、竜児は決断をした。
「今更言いにくいことなんだけど」
 竜児はそう前置きをして、咳払いをした。奈々子は唇をむずむずと合わせて、視線の居所を探してうろうろと漂わせた。
 自分の肘を抱き、心を落ち着かせようと鼻からゆっくりと息を吐く。
「気にしないで、ちゃんと、言って」
「ん、ああ、そうだな。ほんと今更言うのもなんだと思ったんだけど……」
「うん」
「ハンカチ返してくれねぇか」
「うん?」

 商店街を自転車でゆっくりと走る。自転車の後ろに腰掛けて、奈々子は一人で溜め息を吐いた。前で自転車を漕ぐ竜児は、のんびりした様子で前カゴに入れたエコバッグを見下ろす。
 エコバッグから、長ネギが頭を出していた。その他には、牡蠣鍋の具が入っている。
 今日は天気が良かったからか、昨日よりも空気が少し暖かい。竜児は、緩く巻いたマフラーの先を弄りながら機嫌良さそうに遠くを見ていた。
「さて、どうすっかな。味噌仕立てにして土手風にするか、それともシンプルに出汁で作るか」
「シンプルな方でいいんじゃない。せっかくの牡蠣なんだし、あんまり味つけても仕方ないわよ」
「そうか、じゃあ薄めにやるか」
 竜児にとって、牡蠣は高価な食材なのだろう。だからこそ機嫌よさそうにしている。
 しかし、奈々子は心がわずかに沈むのを感じていた。

 実乃梨も、大河も選ばない。なら、竜児は一体誰を選ぶのだろう。もしかしたら、自分かもしれない。
 そう思ったのに、竜児の口から出てきたのは、ハンカチを返してほしいとの言葉。確かに、借りっぱなしだった。
 自転車で転んだあの日、膝に巻いてくれた。もう洗ってアイロンがけをし、机の中に仕舞ってあった。
 まずは奈々子の家に行ってそれを取りに行き、竜児にハンカチを返した、そして今度は一緒に商店街を奈々子の自転車で移動している。
 一度家に帰ってから、竜児に少しだけ時間を貰って、なんとか身なりを整えることができた。何を着るべきなのかで、随分と悩んでしまったが、なんとか可愛く見える服を選ぶことができたと思う。
 お気に入りのワンピースを出したし、下着も可愛いものに替えたし、準備は万端だった。濃いブラウンのワンピに、それよりも濃い色のロングブーツ。

 せっかくの鍋だから、一緒に食わないかと誘われたのだ。それ自体は嬉しい申し出だった。
 奈々子が竜児に、泰子には亜鉛の豊富なものを食べさせたほうがいいと言ったのが昨日。そして、竜児はそのアドバイスに従って、牡蠣鍋をすることにしたのだろう。
 ご馳走にしては確かにヘルシーだし、健康にもいい食品ばかりが並ぶ。けど、奈々子にとって重要なのは今夜のご馳走ではなく、竜児の気持ちだった。

「ねぇ竜児くん。櫛枝とのこと、あたしが変にかき回しちゃってごめんね」
 そう言うと、竜児が唸りながら唇を閉ざした。鼻を鳴らし、顎の辺りを指で掻きながら、視線を空中に向ける。
「いや……。つーかまぁ、びっくりしたことはしたけどな。なんで二人でそんな話してんのかと」
「それは、だって」
 実乃梨の態度が許せなかった。不誠実で、自分にとって都合のいい環境を作るために竜児の気持ちを無視した。竜児を傷つけた。
 何かを言おうにも、竜児に対して実乃梨の悪口しか出てきそうにない。奈々子は出かかった言葉を一度飲み込み、篩いにかける。
「竜児くんにとって辛いことだったわよね。櫛枝に、その、振られたわけだし……」
 実乃梨と竜児がどれほど仲が良かったのか、奈々子にはよくわからなかった。北村、大河、亜美、実乃梨、竜児、この5人で夏休みには亜美の別荘へ遊びに行ったという話も知っている。
 一緒にいて、仲良くやっていた。けれど、これからは前のような関係を作ることは難しいだろう。
 もし、竜児が自分の気持ちを犠牲にしてでも、以前の関係を保っていたいと思っていたのなら、奈々子がしたことは余計なことでしかない。
「……確かに、振られたわけだしな。クリスマスにもう振られてんだけど……、結局上手く行かなかったし。うーん、なんつったら言いのか」
 竜児の心中は、奈々子にはわからなかった。実乃梨のことが好きだった。けれど、告白する気はないと言うほどに、実乃梨への想いは褪せてしまっているのだろうか。
 実乃梨への恋心を諦めてくれるのは、奈々子にとって都合のいいことだった。さらに、大河も選ばないという。
 まさかここで亜美を選ぶなどという方向へは進まないと思う。そうなると、竜児の傍にいるのは、自分だけ。

「きっと、俺は櫛枝と一緒にいられないと実感したんだと思う……」
 遠い目で、竜児はそう口にした。商店街を抜けて、住宅街を行く。もう少しで竜児の家だった。
「そう……。あたしは、竜児くんがそれを選んだんだったら、その考えを尊重するけど」
「別にそんな大層なもんじゃねぇよ。ただの諦めみたいなもんだからな」
 諦め、と口にした竜児。なら、実乃梨のほうから竜児を求めてきたらどうするのだろう。
 実乃梨の気持ちは、奈々子にはわからない。竜児のことを憎からず思っているのは確かだと思った。
 だったら、実乃梨から竜児に告白をしたらどうなるのだろう。竜児は、その時に実乃梨を選ぶのだろうか。
 大河のことはどうなるのかもわからなかった。
 それについても訊きたいが、大河と竜児の間にある関係は、難しくてややこしくて、とても簡単に聞き出せそうになかった。
 二人は2年生になってから一緒にいることが多かったし、周りは二人が付き合っているのだとばかり思っていた。
 大河が暴れまわって、竜児とはなんの関係も無いと表明したが、それでも二人の関係は密接で、付き合ってるのだと思うほうが多かったはずだ。
 大河とのことを避けては通れない。竜児と一緒にいるのは、大河ではなく、自分でありたいから。

 竜児が台所に立って、買ってきた野菜を切っていた。コンロの上に置かれた土鍋から、ゆらゆらと湯気が上がっている。
 手伝いを申し出たが、竜児に断られた。まな板はひとつしか無いし、手伝えるようなことはあまりない。
 竜児に頼まれて、食器を用意して、カセットコンロを卓袱台の上に置いたくらいだった。
 テレビでも見ててくれ、と言われてテレビを点けているが、流れてくるニュースは何も頭に入らなかった。
 日が落ちるのも随分と早くて、外は夜の色を帯びている。

 昆布だしの香りが、台所からわずかに漂ってきた。畳の上にぺたりと座りながら、竜児の背中を見てしまう。
 まな板に向かって立ち、今は牡蠣の処理をしている。加熱用の牡蠣を袋から出して、キッチンペーパーで水気を切っていた。体力が落ちている泰子のことを考えて、生食用より加熱用を選んだのだろう。
 野菜の類は、大きな皿に盛り付けられていて、すぐにでも鍋に放り込める状態になっている。
 牡蠣の処理も終わったのか、竜児は皿に牡蠣を並べた。これで用意は整ったのだろう、その皿を持ち上げて卓袱台の上に置いた。
「よし、これくらいあればいいだろ」
 高く盛られた白菜に、丁寧な花切りを施された椎茸。えのき茸は白菜に寄り添うように立ち、長ネギは斜め切りされて並べられていた。
「泰子さん、起こしたほうがいいかしら?」
「ああ、頼む。俺はちょっと台所片付けるから」
 エプロンを外しながら、竜児が微笑んだ。

「わーお。すっごぉい。今夜はお鍋?」
 起き上がった泰子が、仕事に行く準備を終えて食卓についた。座布団の上に座り、両手を合わせて鍋からあがる湯気の中で笑っている。
「こら泰子、あんまり覗き込むな。髪が落ちるだろ」
「はーい」
 ポン酢をとんすいに注ぎながら、竜児は泰子の肩を軽く叩く。泰子の顔色は、昨日よりもわずかに良いものに見えた。
 化粧の乗りも悪くないようで、少しは体調が持ち直しているらしい。目元に少しだけ疲れの色が見えたが、それでも昨日のように足がむくんでいるわけではない。
「やっぱ鶏肉かなんか買ってきたほうがよかったか……」
 野菜たっぷりの鍋を見下ろして、竜児が首を傾げる。メインの具が牡蠣だけでは物足りなく感じたのだろう。
「十分じゃない? 美味しそうよ」
 素直な感想だった。牡蠣鍋なのだから、他に何か余計なものを入れる必要はないだろう。
 カセットコンロの火が、弱火で土鍋を暖める。立ち上る湯気の中で頭を出した白菜が、透明感を得て鍋の中へ沈んでいった。
「よし、じゃあ食べるとするか」
 準備を終えた竜児が、座布団の上に座る。

 鍋を食べ終え、泰子が仕事に出てからは随分と静かになった。一緒に食べる鍋の美味しさに、泰子の口数も随分と多かったが、その泰子が仕事に出ると部屋の中がしんとしてしまう。
 竜児は鍋をカセットコンロの上に置いたまま、他の食器を下げているところだった。奈々子には座ってゆっくりしててくれればいいと言って、今は洗い物をしている。
 奈々子は、竜児の背中を眺めながら、体の後ろに手をついて静かに息を吐いた。運動不足で、食事には気をつけようと思っていたのに、随分と食べてしまった。
 鍋自体も美味しかったし、何より竜児と泰子がいて、一緒に食べること自体が楽しかった。
 泰子が次から次へと鍋に手を出しているのを竜児が見て、それはまだ煮えてねぇ、こっちから食えと、泰子の世話を焼いていた。
 その勢いか、奈々子にもあれに火が入ったから食えよ、と勧めてくれた。
 自分が食べるのもそこそこに、人の世話を焼いているのだからおかしい。奈々子は竜児の姿を思い浮かべて、一人で笑みを漏らしてしまう。

「いやぁ、食った食った」
 洗い物を終えたのか、竜児がエプロンを外して、今度はミトンの手袋をして鍋をコンロに持っていく。
「しかし、ちょっと残っちまったな」
 鍋の中には、野菜が随分と残っていた。確かにあれだけの野菜を用意すれば、残るだろう。
 明日、吸い物にすっか、と呟きながら、竜児は手袋を外して居間に腰掛ける。満腹から来るものなのか、体を重たそうにして座った途端に年寄りじみた仕草で息を吐いた。
 竜児の横顔を見ながら、奈々子が言った。
「ご馳走様、美味しかったわ」
「そうか、喜んでもらえてよかった」
「本当に料理が上手いのね。高校生で、男の子でここまで出来る人っていないと思うわよ」
「なんだよいきなり……。鍋くらいでそんな褒められても」
「あら、お米だって研げないのが普通じゃない?」
「さすがに米すら研げねぇ奴はいねぇよ」
 大真面目な顔でそんなことを言っている。だが、麻耶が調理実習で米すらまともに研げない姿を見たことがあったので、竜児の言い分には素直に賛同できなかった。
 男子だったら米の量り方や炊き方もわからないかもしれない。  
「ほとんど独学で覚えたんでしょ? 凄いことだと思うけど」
「まぁそりゃ、誰かが教えてくるわけじゃないからな。自分でやるしかねぇよ」
「本当に凄いわね。独学で覚えるのは大変でしょ」
 いくら本を読んだり、レシピを見て作っても、正解がわからなければ上手く出来たのかどうかの判断は難しい。
 完璧なレシピを渡されたとしても、食べたこともない料理を作って、それが正しい出来上がりなのかどうかをどうやって判断するのか。
 結局は、食べたものが美味しいかどうかだけで判断しなければならない。そうなると、すべてが味覚頼りになる。
 味覚に頼って作り、それが竜児好みの味付けに染まっているのならわかる。けれど、そうではなく奈々子にとっても泰子にとっても、おそらく多くの人にとっても美味しい料理に仕上がる。
 それがどれだけ難しいことなのか、きっと竜児にはわからないのだろう。

「ま、失敗も色々したしな。それはそれで面白かったし」
「そうね、あたしも味見した時には美味しいと思っても、全部食べたらちょっとしつこかったりとかあるわ」
 一口食べて美味しいと思う味付けでも、最後まで全部食べてしまえば濃すぎると感じることは多い。
「ああ、あるよなそういうの。後は、弁当とかに入れるとちょっと濃いなぁって感じることとかよ」
「それもあるわね。あたしも、昨日の残り物を入れたらちょっと味が濃いって思うことあるもの」
 料理が冷めれば、それだけ味も濃く感じる。熱いうちに食べて美味しい味付けも、冷めてしまえば濃すぎると感じる。

 料理のことになると、竜児も雄弁になるようだった。普段の料理で、どんなものを作ったりしてるかとか、コツなどを機嫌良さそうに語っている。
 多くの料理に使える万能たれの作り方だったり、安い肉をどうにかして美味しくする方法など、竜児の話は続いた。
「俺の場合は、薄口とみりんが1に対してダシが7くらいだな」
「そうなの? あたしはダシが8って教わったけど」
「それってやっぱ、店とかの大きな鍋で作るから、水分飛んでちょうどよくなる割合だったりするだろ。俺はそんなでかい鍋使わないから、そんなもんだな」
「ああ、なるほど、確かにそうね」
「でも量ったりするのは面倒だから、大体で合わせるけどな」
 泰子が仕事に出てから、随分と時間が経った。
 奈々子は竜児の話に相槌を打ちながら、少しずつ竜児に近づいていった。卓袱台の前に座る竜児の隣へ移動して、奈々子は竜児の声を耳で拾い集める。

 近くにいると、体が段々と熱くなってくる。自分の中に、竜児と触れ合いたいという欲求が沸き立ってきた。
 竜児と料理の話をするのは楽しい。同級生で、これだけ話せる相手に会ったことなんか無い。
 絵や音楽なら、一度に多くの人に触れてもらえる。けれど、料理となると、実際に作って食べさせるしかない。
 そして、家族以外の人に料理を出す機会などというのはあまり無い。その料理を作るのに、どれだけの手間をかけたり、勉強をしたりしても、披露する機会はほとんど訪れない。
「そういや、ぬかづけにした野菜とかもあってだな、今度食わせてやるよ。毎日手を入れてるから、結構いい感じだぞ」
「あら、そんなことまでしてるの? 本当に色々してるのね」
 きっと、料理が好きでなかったらここまでしないだろう。
「今度はあたしの料理も食べてもらいたいわね。あたし、煮物とかだったら普通に作れるから」
「おお、食わせてくれよ。俺も奈々子の料理食ってみたいしな」
「あんまり期待されても困るわね……。本当に、ベタなものしか作らないから」
「それでいいんじゃないか? 普通に作れるのが一番だと思うぞ」
 竜児は乗り気のようで、隣に座った奈々子の顔を見ながら、微笑んでいた。
 夜が深くなるにつれて部屋の中は静けさを増す。時計の針が刻む音は二人の会話に相槌を打つように響き、少し肌寒い部屋の空気は奈々子の体の火照りを冷ました。
「明日、休みじゃない……。あのね、あたしの家でご飯食べない? 晩御飯は泰子さんのこともあるから、お昼ご飯でも……」
「ああ、いいぞ」
「本当? じゃあ、今夜から早速仕込んでおかないとね」
「おいおい、そこまで気合入れなくてもいいだろ」
「ううん、だって竜児くんに喜んでもらいたいんだもの。出来れば、いいものを出したいわね」
 床についた竜児の手に、奈々子は自分の手を重ねた。竜児の体が少しだけ震えて、それから恥ずかしそうに目を逸らす。
 二人きりでいると、心臓がうねるかのように大きく動いているのが感じられた。竜児の手は、洗い物の後なので、少しだけ濡れて冷たい。
 竜児の手を温めるように、奈々子は手を重ねた。

 ずっと、好きだと告げてきた。
 竜児の優しさに、誠実な態度に、奈々子は恋をした。
 好きになるだなんて思ってもいなかった。自転車で転んで、手当てをしてくれた。
 竜児のまっすぐな態度に、奈々子は転げ落ちるように惚れてしまった。
「一緒にいてくれて、本当に嬉しいわ」
「お、おう」
 自分の体を摺り寄せたかった。昨日のように、肩を抱いてくれたら、どれだけ気持ちよくなれるのだろう。
「ねぇ、竜児くんは……、誰を選ぶの?」
 奈々子の問いに、竜児は唾を飲み込むように喉を鳴らした。深くなる夜の匂いが、奈々子の鼻腔を満たす。
 すぐ傍にいる竜児の体温が、立ち上る湯気のようにゆらめいて感じられた。竜児の肩に、奈々子は頭を預けた。
 奈々子は俯いて、竜児の手を握る。竜児の手の甲に上から手を重ねて、指を絡ませた。
「俺は……」
 ようやく、答えが聞ける。そう思うと、奈々子の胸が強く締め付けられる。
「俺は、お前がいい」
 奈々子の肩が、びくりと震える。聞き違いではない。奈々子は、眼球の奥から目が開いていくような気がした。
 手の平から汗が滲むのが、奈々子には実感できた。
 今、肺の中に空気があるのかどうかさえ、奈々子にはわからなかった。寝付けない夏の夜のように息苦しくて、体の内側から、喉へせりあがる不快感があった。
 頭の中身が湯だった豆腐にでもなったかのように柔らかく、ぐにゃりと歪んでいく。
 声が出ない。何かを言いたいのに、何も出てこなかった。肋骨を突き破ろうと、心臓が肥大していく。

「俺みたいなのに、好きだって言ってくれて、本当に嬉しかったし……。その、気付いたらなんか結構お前のこと考えてて」
 竜児は唇を動かして、奈々子に好意を寄せた理由を述べていく。そんなもの、今はいらない。
「お前も言ってたけど、お互いさ、なんか長く一緒にいられそうな気がするんだよな……。それに、なんだろ、お前のことがなんか他人とは思えなくなってて」
 息ができない。苦しい。噴火前の火山のように、灼熱の炎が心の中で押しとどめられている。
 爆発しそうだった。
「だから……、なんだ。俺は、奈々子のこと好きだぞ」
 もう、耐えられなかった。

 竜児の肩を両手で突き飛ばした。何をされたのかわからなかったのだろう、竜児は一瞬目を見開いてそのまま後ろに倒れこんだ。
 奈々子が、仰向けになった竜児の体に覆いかぶさる。奈々子の顔があまりに血走っていたからか、竜児は怯えたように唇の端を引き攣らせた。
「お、おい?」
「……もう、だめ」
 奈々子が口にした言葉に対して、竜児は何かを言おうとした。だが、唇から言葉が紡がれることはなく、奈々子の唇によって塞がれていた。
 二回目のキスは、最初のもののように軽いものではなかった。
 唇を強く重ね合わせるだけでは足りなかった。かさついて、唇の皮がめくれた竜児の唇。それが、すぐに奈々子の唾液で濡れていく。
 奈々子の長い髪が、竜児の顔を覆う。漏れた息のすべてが、互いの顔の間に立ち込めた。竜児の唇の間に、舌を差し入れて、竜児の舌を探した。
 挽肉をこねるかのような、肉と肉がぶつかりあう音が口内で響く。竜児の胸板に、奈々子は体重をかけた。両脚を開いて、竜児の腰を捕まえる。
 体が触れ合うと、そこから竜児の体温が伝わってくる。夕暮れのような暖かい赤色に似た、優しい温度。
 竜児の口内にある唾液を吸いだすように、奈々子は唇を吸った。竜児の唾液を、舌の上で味わい、そして喉の奥へ流し込んだ。竜児の体の一部が、奈々子の胃に落ちていく。
 息をする時間さえもどかしくて、奈々子は竜児の舌を貪った。
「んっ」
 喉で漏れた声が、竜児の口に響く。竜児の舌が、奈々子の求めに応じるように差し出されてきた。
 背骨を抜かれたような気がして、奈々子の体が崩れる。自分の体が制御できなくなる。暖かな温度に、体が溶けて消えた。
 舌と舌を絡み合わせる。脳の中心で火花が散る。血が燃え上がる。深く舌を合わせる度に、奈々子の心が満たされていく。
 なのに、すぐに足りなくなる。底の抜けたバケツに水を注ぐかのような行為。竜児が足りない。
 もっともっと、深く体を重ねたかった。竜児のシャツの間から、手を差し入れる。肋骨のわずかな出っ張りに指先を這わせる。
 竜児の体が跳ねた。竜児にも触れて欲しい。この体に竜児の手が触れたら、どうなってしまうのだろう。
 今、唇を合わせているだけでも、奈々子の体は燃え上がっていた。熾った炭のように、中心から真っ赤に色づく。

 奈々子は、顔をあげて、竜児の顔を見下ろした。驚きに満ちている竜児の表情が、再び奈々子の心を熱くさせる。
「好きよ……」
 竜児の顔を見下ろしながらそう言って、奈々子は自分の背中に手を回し襟のボタンを外した。
「ちょ、ちょっと待てって奈々子!」
 慌てて竜児は制止の言葉をかけるが、奈々子には届かない。奈々子は竜児の腰の上に座りながら、服に手をかけている。
 背中のボタンをすべて外し、奈々子はワンピースを肩から抜こうとした。


 階段を駆け上がる足音がした。高須家の家の扉が、大きな音を立てて開かれる。
 ぼうっとした頭で、奈々子は誰かが来たのだろうかと考えていた。服を脱ぐのをやめずに、奈々子は胸元を晒そうとした時だった。
 台所に、大河が立っていた。
「た、大河?!」
 竜児が仰向けになったまま、大河を見上げる。大河は制服のまま、細い眉を強烈に吊り上げ、二重の大きな瞳を細めて歯を食い縛っていた。
 大河の右手には、木刀が握られていた。
「あんた……、何してんのよ」
 低い声色で、大河は竜児を見下ろす。木刀をぐっと強く握り締めて、上段に構えた。