竹宮ゆゆこスレ保管庫の補完庫 - 指環1
 梅雨の中休みなのか、真夏を思わせる晴天が続き、暦はいつしか七月になっていた。
 竜児たちの通う大学は、七月の第一週で前期の講義がひとまず終了する。その後は二箇月に及ぶ夏休みだ。
 海に、山に、海外に、思う存分羽を伸ばせる機会到来だが、休み明けには前期試験が控えている。うっかり遊び呆
けていると、休み明けには試験対策で慌てふためくことになるだろう。
 首都圏の他の大学の多くは、前期試験を終えてから夏休みに入るようなのだが、竜児、それに亜美と北村祐作が
通う大学は、頑ななまでに休み明けに前期試験を実施するのが伝統となっていた。
 休み中でも、学生の本分たる勉学に勤しめ、ということなのだろう。
 この試験制度は、当然のことながら、ほとんどの学生には不評だが、一部には歓迎しないまでも、いくぶんは有難
いと思っている者が存在していることも確かである。
 竜児や亜美のように弁理士試験の受験を志している者たちがそうだ。
 弁理士試験は、毎年、七月の第一日曜日に二次である論文試験が行われる。
 この論文試験は、弁理士試験の天王山とも言うべきものであり、一次から三次まである弁理士試験中、
最大の難関とされている。
 それも、竜児たちが通う大学のような、言うなれば名門校の出身者が、それこそ全力をあげて立ち向かって、かつ、
運が良ければ合格するという程に手強い。何かの片手間とか、何かを並行して行いながらでは、合格は、まず無理
だろう。
 そのため、大学の前期試験が休み明けであって、弁理士試験と重ならないというのは、在学中での最終合格を
計画している竜児や亜美にとっては、むしろ願ったりであると言ってよい。
 もちろん、二次試験である論文試験に合格するには、マークシート方式の一次試験に合格しなければならず、これ
はこれでかなり困難なのだが、実際の判例や事件に基づいた複雑な事例の下で、制限時間内に法的に妥当な論文
を書かなければならない論文試験よりは与しやすい。
 竜児も亜美も、六月に受験勉強を独学で開始したばかりだから、二次の論文試験が受験できるようになるのは先
の話だろうということで、一次試験突波が当面の目標である。本音を言うと、来年の二年生時点での一次試験合格
が望ましいが、これは、現時点での学習程度を考慮すると相当に厳しい。そこで、二人とも、来年の受験は本試験の
雰囲気を身をもって知る予行演習と割り切り、初陣での成果にはこだわらないことにした。その代わり、じっくり時間を
かけて、条文と、法律の解説書で通称『青本』と呼ばれる『工業所有権法逐条解説』に慣れながら、
徐々に弁理士試験に必要な知識とセンスを磨いていくことにしている。
 その後は、三年生時で少なくとも一次試験に合格し、後はあわよくば最終合格までこぎつけるという算段である。
 都合、受験二回での最終合格を理想とし、それが叶わなくても、四年生時に二次試験及び三次試験をクリアして、
最終合格するという計画だ。どちらかというと、平均的な受験生よりも早期の合格を目指していることになるが、
社会人に比して時間に余裕がある学生の強みを活かせば、何とかなる可能性はあると、竜児も亜美も踏んでいた。
 という訳で、この夏は、竜児も亜美も、休み明けの前期試験の勉強に加えて、弁理士試験の勉強に精励するという
ことになっている。
 ただ、四六時中、勉強一点張りでは、さすがに味気ない。たまには息抜きが必要だろう。
 それを見越してのつもりなのか、前期の講義最終日の昼休み、竜児と亜美は、お揃いの弁当を、
北村は学食のカレーを頬張りながら、取り留めのないことを喋っていた折、北村が唐突に切り出してきた。
「なぁ、高須に亜美、お前たちは、真面目に毎日勉強ばかりしているようだが、今日はせっかくの夏休みの前日だ。
ちょっとビールでも飲みながら、ぱーっ、といこうじゃないか」
 北村は、爽やかな笑みとともに、ビアホールの招待券を三枚振りかざした。それも、銀座の老舗のビアホールで、
ビールが飲み放題というものだった。
「ど、どうしたんだ、こんなもん…」
 北村は、ちょっと得意そうに相好を崩している。
「いやぁ、保険やってるお袋から貰ったんだよ。元々は、保険を契約した人に配布するものなんだが、手違いで余った
らしいんだ。で、本来なら親父とお袋と兄貴とが行くべきなんだろうが、みんな出不精でな。銀座くんだりまで行きたく
はないんだと。で、俺が、有難く頂戴したというわけさ…」
 亜美と竜児は、思わず顔を見合わせた。酒は大して強くないくせに飲み助な亜美は、目を輝かせている。
 一方の竜児は、未成年での飲酒ということで渋面を浮かべている。更には、竜児にはもう一つの懸念があった。
「お、おい、北村…。その券だけど、余ったということは、本来なら保険会社に返さねぇとまずいんじゃないのか? 
それを俺たちが使っちまうと、お袋さんは、結果的に業務上横領とかになっちまうよな?」
 その瞬間、竜児は、脇腹に走った鋭い痛みに、「うげっ!」と、絶句した。
「あんたねー、無粋なこと言ってんじゃないわよぉ!」
 亜美の左肘が竜児の右脇腹にめり込んでいた。
 そのあまりの痛みに耐えかねて、竜児はテーブルに突っ伏して悶絶する。
「だ、大丈夫か? 高須」
 北村が、脇腹を押さえて呻いている竜児を、心持ち眉をひそめて、心配そうに覗き込んでいる。
 竜児は、その北村に、「だ、大丈夫な訳がねぇだろ…」と言い掛けたところ、亜美に機先を制された。
「大丈夫よ、こいつは鈍いけど、その分だけ頑丈にできているからぁ、この程度じゃ何ともないって」
 しかも、亜美は、なおも悶絶している竜児のつむじの辺りを人差し指で、ぐりぐりと無慈悲に弄んでいる。
 哀れな竜児は蚊の鳴くような声で「か、川嶋ぁ、憶えてろよぉ〜」と怨嗟の呟きを漏らしたが、それは当の亜美には
無視された。
「おい、おい、亜美。あんまり高須をいじめるな。お前の言うように高須が頑丈だとしても、今の一発は、かなり効いて
いるみたいだぞ」
 北村の指摘に、「そうね」とだけ半ば事務的に応じて、亜美は、なおもテーブルに突っ伏していた竜児の襟首を
ひっつかんで、元通りに座らせた。
 竜児は、涙目で亜美を睨んだが、亜美は全く動じない。竜児の三白眼には、それなりの威圧感が備わっているのだ
が、単なるこけ威しに過ぎないことを、当の亜美はよく知っているからだ。
 顔に似合わず温厚で誠実。それが竜児の本質だけに、今回の理不尽極まる亜美の態度にも、面と向かって抗議す
ることはないと、亜美は踏んでいるのだろう。
 案の定、亜美は、恨めしそうに見ている竜児には構わず、北村に向き直った。
「で、祐作ぅ〜、その券だけど、あたしらが使っても、別段問題はないよね?」
「ああ、その点は大丈夫だ。もう、お袋が保険会社から許可を得ている。だから、ひとまず問題はないだろう」
「そらぁ、ご覧なさい! 何も問題はないじゃなぁい!」
 北村のその一言が決め手だとばかりに、亜美は目を輝かせて、竜児に詰め寄った。その瞳には、単なる喜色のみ
ならず、どうだぁ、文句あっかぁ?! という恫喝とも強迫とも判じがたい迫力が漲っている。
「お、おう…」
 竜児は未だに疼く右脇腹を撫でながら、涙目で不承不承に頷いた。亜美とのやりとりでは、竜児にはほとんど勝ち
目がない。詐欺スレスレの引っ掛けと、時には強迫によるごり押しも交えた緩急自在の攻撃に、翻弄されっぱなし、
やられっぱなし、が常なのだ。
 それに、今回の言い出しっぺは亜美ではなく北村だ。単純な多数決でも賛成二に反対一で、分が悪すぎる。
「決まりだな…」
 北村が、眼鏡のレンズ越しに目をしばたたかせた。
 かくして、北村、亜美それに竜児の三人は、午後の講義が終了した後、地下鉄で銀座に移動し、
その古いビアホールで前期の講義が無事に終了したことを祝すことになった。
 半ば竜児の意思は無視された格好での強行採決。
 竜児は、微かな痛みが残っている脇腹を擦りながら、いつものことだ…、と嘆息した。内罰的な竜児は、相手と意見
が対立することを、できれば避けてきた。その文法に従えば、結局は北村や亜美の主張には逆らえないのである。
 目指すビアホールは、銀座のど真ん中にあり、戦前から銀座界隈の名所との一つとして知られていた。
 古い建物らしく、ちょっと埃臭い感じは、理学部の旧館に似ているな、と竜児は思った。おそらく、竣工した時期は、
理学部の旧館も、このビアホールも似たようなものなのだろう。
「ずいぶん古いステンドグラスがあるのね…」
 亜美が、席に着くや否や、上を見上げて、ちょっと感心するように宣った。
 竜児と北村も、その声に誘われるようにして見上げてみた。確かに、横浜辺りに残っている古い教会にでも似合い
そうな、いくぶんは変色して古色蒼然としたステンドグラスが、夕刻のちょっとセピアな光を店内に導いている。
 午後五時前だというのに、店内は多くの客でごった返していた。竜児たちも、入店してから、今の席に案内される
まで、ほんの数分だけだが、レジの近くで待機させられた程だ。これからのアフターファイブには、会社勤めを終えた
サラリーマンやOLで賑わうことだろう。
「ねぇ、ねぇ、早く乾杯しようよぉ!」
 もう待ちきれないとばかりに、亜美がメニューを睨んでいる北村の肩を揺さぶった。
 北村は、その亜美に、ちょっと眉をひそめた迷惑そうな視線を投げかけて、苦笑した。
「おい、おい、まずは注文しなきゃ何も飲み食いできないだろう? 
それに、ここはビールだけでも何種類も選べるから、ちょっと選択するのに迷ってな…」
 その北村に、亜美は、目を細めた性悪笑顔で応じている。
「特段、グルメでもない祐作がメニュー見たって意味ねぇっつぅの! 
ここは、適材適所ということで、高須くんに任せるべきなんじゃない?」
 そう言うなり、メニューを北村の手から奪い取り、竜児に手渡した。
「おい、おい、亜美…」
 北村は、一瞬詰るような視線を亜美に向けたが、幼馴染の亜美は当然にお構いなしだ。
 亜美からメニューを渡され、戸惑いがちに「お、おう…」と応えた竜児は、一瞬、北村と目が合った。その北村が苦笑
している。
 その意図を竜児は正確には測りかねたが、多分、『相思相愛とはいえ、亜美が相手じゃお前も大変だな』といった
ところだろうと思うことにした。
「ねぇ、ねぇ、あんたならビールは何がお勧めなの?」
 縋りついてくる亜美に急かされながら、竜児はメニューを広げてみた。
 ビールは、下面発酵による日本でもっともポピュラーな、ビールといえば先ずこれを指すピルス、上面醗酵で色が
少し濃く、味わいも濃厚なアルト、それに麦芽をローストした苦味がやや強く香ばしい下面発酵の黒生、更にはアイ
ルランドの醸造所から輸入された、黒生よりもいっそう苦く重厚な上面醗酵のスタウトが揃っていた。
 値段は、一般的なピルスが一番安く、後は黒生、アルト、スタウトの順に徐々に高くなっていく。スタウトは輸入品だ
から少なくとも関税分だけは高くなるし、一般的でない黒生やアルトも、多少は高くなるのは道理と言えた。
「なぁ、北村。飲み放題できるのは、値段の安いピルスだけとか、そういう制限はねぇのか?」
「ああ、それなら大丈夫だ。券には、『ビール全種が飲み放題』って書いてある」
 北村が手元の券を、眼鏡を掛け直して確認した。
 竜児は、「そうか…」と呟いて、メニューに再び見入った。よく見れば、個々のビールの価格差は大したことはない。
メニューには何故か英国式の一パイントに相当する五百六十ミリリットル単位での価格が示されていたが、一番安い
ピルスと一番高いスタウトとの価格差も、二百円程度に過ぎなかった。
「味の薄いピルスを最初に飲んで、それから味の濃いアルト、黒生、スタウトの順に飲んでいくのが定石だろうな。
ピルスは、日本というか、世界でも一番ポピュラーなビールだから、飲みやすいというのもある。
その点、アルトは、重いというか、少々野暮ったいというか、上面醗酵で、名前の通り古い製法だからな。個性的だが
評価は分かれると思う。
黒生は、麦芽を炒ってるから、少し苦味が強いが、基本的にはピルスと同じような下面発酵だから、アルトよりも洗練
されているはずだ。
スタウト、これもアルトと同じ上面醗酵だ。これは、好き嫌いがはっきり分かれるだろう。ものすごく味が濃厚だが、
苦味も強いし、べったりと重く、アルコール度数も高いからな」
「上面醗酵と下面発酵ってのは何なんだ?」
 北村が、目をきょとんとさせて、竜児の顔を見た。竜児は、その北村に軽く頷いてから説明を再開した。
「そうだな、ちょっと説明不足だったようだ。下面醗酵ってのは、十℃以下の低温で長時間発酵させる製法のことだ。
最終的には出来上がったビールの下層に酵母が沈殿するので下面発酵と呼ばれている。ピルスや黒生がこの製法
で醸造されている。世界的にも主流だ。下面発酵によるビールは、洗練された穏やかな味わいが特徴とされる」
「じゃ、上面発酵ってのは、下面発酵と正反対の製法なの?」
 亜美が、いくぶんぞんざいな口調で、竜児の説明に割り込んできた。
 こうした理屈っぽい話を打ち切らせるつもりなのだろう。
「川嶋、鋭いな。その通りなんだ。上面醗酵は、常温で短時間発酵させるんだ。最終的には酵母がビールの上面に
浮かんでくるからこう呼ばれている。味も香りも下面発酵のビールよりも個性的だ」
 話を混ぜっ返すつもりが、却って正解を言ってしまったことに、亜美は渋面を浮かべている。
 それでも、竜児に誉められて、多少はうれしいのか、思い直したように、ほんの少しばかり相好を崩した。
「じゃ、カロリーが少ないのは、どれなの?」
 普段節制しているから、たまには大っぴらに飲み食いしても問題はなさそうだが、そこは女の子である。
『ダイエット』の文言が常に脳裏にちらつくのだろう。
「カロリーを気にするなら、ピルスか黒生で我慢した方がいいだろう。アルトははっきりしないが、英国式のスタウトは
黒砂糖を補助材料に使っていることが多いから、カロリーも一般のピルスとかに比べて高くなりやすい」
 そう言いながら、竜児は、メニューに記載されているビールのリストを眺め直した。
「黒生やアルトも、カロリーは高そうだな。両方ともピルスよりもアルコール度数が高いから、発酵前の麦汁はピルス
より濃いものを使ってるんだろう」
「じゃぁ、結局、ピルスしか飲めないってことぉ?」
 亜美が不満なのか、まなじりを心持ち吊り上げている。
「いやぁ、それは当人次第さ。少しでも摂取カロリーを抑えたいなら、ピルスだろうし、それが気にならないっていうの
なら、何を飲んでも構わねぇだろうさ。それに、どれもビールだ。一般の酒類に比べて糖質が多くて太りやすいって点
はどれも似たようなもんだ」
「つまり、何を飲んでも、実際は気にするほどのことはない。太りたくなかったら、ビールは止めておけ、
ってことだな?」
 結論付けるような北村のコメントに竜児は頷いた。
「まぁ、身も蓋もねぇけど、結局はそういうことだ。要は、何を飲んだって結果はそう変わらねぇ。であれば、最初の
一杯はピルスが原則だが、飲みたければ味のきついスタウトから始めたっていいだろう。その辺は、自由だな」
 そう言って、竜児は、亜美の表情を伺った。結果的に、あまり意味をなさなかったビールの説明に、少々ご立腹
なのか、頬を膨らませ、目を鬱陶しそうに半開きにして、竜児を睨んでいる。
「何よ、結局、何飲んだっていいってことじゃない! だったら、勿体をつけずに結論だけ言いなさいよぉ! 
ほぉ〜んと、無駄に理屈っぽいんだからぁ」
「お、おう…」
 亜美の剣幕に気圧されて、竜児は思わず首をすくめた。
 いつもの亜美なら、竜児の博識ぶりには、素直に敬意を表するのだが、今日に限って、すこぶる機嫌が宜しくない。
 その亜美は、不機嫌丸出しのブス顔のまま、席を蹴るように立ち上がった。
「じゃぁ、ビールはピルスでも何でもいいからぁ、適当に頼んどいてよ。あ、それと、あたしソーセージと、
ジャーマンポテトそれにザワークラウトとかピクルスが食べたい」
 それだけ言うと、そのままどこかへ行こうとする。
「お、おい、亜美、どこへ行く?」
 その北村に、亜美は、河豚みたいに膨れた不機嫌丸出しのブス顔を、般若のように歪めて北村を睨み付けた。
「うっさいわねぇ! 女の子が、人知れずどっか行こうってときは、何だか決まってるじゃない! 察しなさいよっ!」
 後は、互いに顔を見合わせている竜児と北村を尻目に、亜美はビアホールの奥へと引っ込んでいった。
「いつにも増して、ご機嫌斜めだな…。何かあったのか?」
 鬼ならぬ、亜美の居ぬ間に、北村が心配そうに尋ねてきた。その北村の問いに、竜児は頭を振った。
「いや…、何もねぇよ。川嶋とは、喧嘩になるようなことは何もねぇ…」
「そうか? 亜美の奴、高須と付き合い始めてから、性格はだいぶマシになったはずなのに、今日は、それが
元の木阿弥になってる…。お前たちに何かあったんじゃないかって、考えるのが普通だろ?」
 竜児は、う〜ん、と呻くように呟き、喉まで言葉が出掛かったが、自重した。
 なぜ、亜美が不機嫌かは、鈍い竜児にも察しはついていたが、相手が北村であっても、公共の場でそれを口にする
のははばかられたからだ。
 だが、そんな竜児の逡巡を、洞察力に長けた北村は見逃さない。
「お前のその様子だと、お前が忙しいことを理由に、亜美の相手をしてやらなかったとか、何とかが、あいつが不機嫌
になっている原因なんだろ?」
「お、おぅ…」
 竜児は、三白眼を真ん丸にして、親友の顔を見た。論理的な思考力では竜児の方に分があるが、
直感を交えた総合的な洞察力では、北村の方が遥に優っていることを、今更ながら痛感させられる。
「図星か…」
「ああ…。恥ずかしながらその通りさ…」
 竜児は観念して嘆息した。裸になったり、覗きをしたり、とかく問題行動の多い男だが、いざとなれば的確な判断が
下せる北村は、やはり竜児にとって頼もしい存在だ。
「前期末で、進行が遅れた科目とかは、最後は突貫工事で講義したからな…。
その予習復習が大変だったんだな?」
「ああ、それに、数学科は、複数の科目で、補講まであったんだ。それで、ここ一週間は、川嶋とは一緒に昼飯を食う
のが精一杯という有様さ…」
「まぁ、本学の数学科は、熱心な教官が多いらしいからな…。補講までして、予定を完遂するってのは、大学じゃ、
希な話だろう。法学部なんかいい加減だぞ。『以上で、前期の講義は終了します。なお、残りはテキストを各自よく
読んでおくように』で、お終いだった…」
 そう言って、北村は、にやりとした。
「でも、川嶋は、その補講が気にくわなかったらしい。この前の土曜日なんかは、午後まで解析学と位相幾何学の
補講がびっちりあってさ、恒例のプチデートがお流れになった。川嶋が目に見えて不機嫌になったのは、
この日からだな」
 半ば真実、半ば嘘だった。残り半分の真実については、この場では沈黙を貫くことにした。
「そういうことか? デートがダメになったくらいで、むくれるとは、所詮、あいつも子供だってことか…」
 北村が、首を傾げながらも、頷いた。その表情には不審の色が現れてはいたが、ひとまずは納得したような素振り
を見せてはくれた。
 だが、洞察力に優れる北村を欺くことは難しい。
 竜児は、いずれ、北村から新たな追及を受けるであろうことも、ある程度は覚悟しておくことにした。
「話としてはそんなところなんだ。取り敢えず、注文だけでも先に済ましちまおう。注文もしていないうちに川嶋が
戻ってきたりしたら大変だ。あいつの機嫌が更に悪くなる…」
 北村は、「そうだな…」と軽く頷いて、給仕を呼ぶために、右手を頭上に伸ばして、二度、三度と振った。
 呼び止めた給仕に、北村は、三杯のピルスと、亜美ご所望のソーセージの盛り合わせ、ジャーマンポテトそれに
ザワークラウトとピクルスの盛り合わせを注文した。
 更に竜児の提案で、この店の名物であるロースとビーフと、サラダと低脂肪で高蛋白な厚揚げのステーキを追加で
注文した。
 最悪と言ってよい亜美の機嫌が懸念材料であったが、亜美が手洗いから戻ってすぐにビールが運ばれたことが
奏効し、ひとまずは大した波乱もなく、三人での酒宴は進行した。
「でさぁ〜、この前、麻耶と電話で話したんだけどぉ、麻耶の奴、未だに祐作に未練があるみたいでさぁ〜。ピクニック
の時に祐作の裸には驚いたけど、『今にして思えば、もっとじっくり見とけばよかった…』だってさぁ〜〜」
 とか何とか、傍目には実に下らない話をしながら、ビールをあおって、ケタケタと哄笑している。
 どうやら、今日の亜美は笑い上戸らしい。
「お、おい、程々にしとけよ。お前、あんまり酒は強くないんだから…」
 たしなめる竜児には、「なんらとぉ〜」と呂律怪しく詰め寄って、その顔面に、ふぅ〜、と息を吐きかける。
 その露骨な酒臭さに、竜児は思わず顔をしかめた。
「お前、飲みすぎだよ…」
 その竜児の忠告に、「へん!」とばかりに鼻息を荒げ、血走った上に、どろり、と濁った酔眼を向けてくる。
「飲み放題ってんだからぁ、別に構わないっしょ! それに、亜美ちゃん、今日は、お酒飲まないとやってらんねぇっ
つぅの!」
 そう言うなり、なみなみと注がれた黒生を、一気に半パイント分、流し込んだ。
「亜美、高須が言う通り、ちょっとピッチが速くないか? もうそれで三杯目だろ?」
 亜美は、軽くげっぷをして、胃に溜まった炭酸ガスを放出すると、北村に向かって、だらしなく相好を崩した。
「そだよぉ、一杯目は確かピルス飲んでぇ、二杯目はちょっと色の濃いアルトっつぅのを飲んでぇ…。しかし、あんたも
高須の相棒だけあって、細かいことを気にし過ぎ! も、どうでもいいじゃん!」
 そう言って、笑いながら、北村の肩を、ばんばん、引っぱたいた。
「高須、こりゃ、ダメだ…」
「ああ、潰れるのは時間の問題だな…」
 男二人は、紅一点の乱れっぷりに、顔を見合わせて、ため息をついた。
 いつぞやのコンパの時にように、変調をきたした亜美を連れて帰らねばならないことを思うと、竜児は憂鬱になって
くる。ただ、あのコンパの時とは違い、今のところは、泣き喚いていないのが、僅かながらの救いだ。
「そこぉ! 男二人でこそこそ喋らない!! ホモかぁ、あんたら!」
 酔っているにも拘らず、語気だけは無駄に鋭い突っ込みに、竜児も北村も、ひゃっ、と思わず首をすくめた。
 酔っ払いはビアホールのあちらこちらに見受けられたが、困ったことに、その中でも亜美がダントツに目立っている。
大人しくしていれば、楚々としたお嬢様と言う感じの娘が、上品とはお世辞にも言えないことを、哄笑しながら喚いて
いるのだ。そのアンバランスさ、シュールさは、数多の酔漢の中でも群を抜いていた。
 こうなると、むしろ酔い潰れてくれた方が、面倒が少ないかもしれない。
 北村も竜児と同じように考えていたのだろう。竜児と目が合った瞬間、何かを決意したかのように眼を大きく見開い
て、頷いた。
 そして、給仕を呼び止め、
「すいませ〜ん、スタウトを三つお願いしま〜す」
 アルコール度数が一番高いスタウトを注文した。
 ベージュのきめ細やかな泡とコールタールのようにどす黒い液体が満たされた一パイントのグラスが三つ、
テーブルの上に並べられた。
「取り敢えず、飲みかけの奴は、きっちり飲み干してしまおう。で、これを飲めば、このビアホールが提供している
ビールの全種類を制覇したことになる」
 そう言って、北村は、もはや手がつけられない酔っ払いになりつつある亜美に、残りの黒生を飲み干すように差し向
けた。
「上等でぇい、こんなのぉ!」
 言うや否や、残りの半パイント分の黒生を一気に流し込み、「ぷはぁ〜!」とばかりに大きく息をついた。
その風情は、まるっきりアル中のおっさんである。
「川嶋、おかわりだ」
 竜児は、その亜美に、黒生よりも真っ黒なスタウトが満たされたグラスを手渡した。
「あへぇ? なんか、こいつも真っ黒じゃん」
 怪しい呂律で、そう言うと、亜美は手渡されたグラスの中身に口をつけた。
 それを横目で確認しながら、竜児と北村もスタウトを味わった。
「お、にっげぇ〜。でも、あまぁ〜い! これって、何かいいかもぉ」
 その点は、竜児も同意見だ。苦いのはホップの量がピルスやアルトよりも多くなっているせいだろう。
 ビールを火入れしたり、ましてや、フィルターでろ過するといった技術がなかった時代に、少しでも日持ちがするよう
にホップを多めに添加したという話を、竜児は思い出した。
 甘いのは、おそらく補助材料として使われている黒砂糖だろう。この黒砂糖のおかげで、酵母の活動が活発になり、
アルコール度数も一般のビールに比べて高くなるという訳だ。
「荒々しい感じもあるけど、訳ありの大人のビールと言う感じだな…」
 どぎつい味だが、他のビールとは明かに一線を画することは確かである。
 だが、それだけに、本来は、ちびちびと嘗めるように飲むものなのだろう。
 にもかかわらず、亜美は、先ほどの黒生と同じような調子で、グイッとばかりに半パイント分を流し込んだ。
 味は濃いけれど、アルコール度数が適度に高いから、口当たりは悪くない。それがスタウトの怖いところなのかも
知れない。
「うっひゃ〜、苦いけどぉ〜、こいつ、結構飲みやすいかもぉ」
 怪しい呂律で呟くように宣うと、亜美はグラスに残ったスタウトを飲み干した。
「うぃ〜」
 それがとどめになったのだろう。亜美は、まぶたを気だるそうに閉ざすと、そのまま力なく竜児にもたれかかった。
「亜美ちゃん、ねむ〜ぃ…」
「お、おい、川嶋…」
 亜美は、竜児の胸板に縋りついたが、その胸板の上をずるずると力なく滑るように落ち、竜児の股間に顔を埋めた。
「高須くんの匂いがするよぉ…」
「か、川嶋、こ、この体勢はまずいって」
 だが、亜美は、戸惑う竜児には構わず、その股間の膨らみに頬ずりすると、安心したような笑みを浮かべて、
微かな寝息をたて始めた。
 亜美のやわらかな頬が、布地越しとはいえ、竜児の股間を圧迫する。
 その艶かしい感触に竜児のペニスが不如意に怒張してきた。まずい、明かに、まずい体勢だ。
「麻酔が効いたようだな…。しかし、その格好」
 北村が、吹き出しそうなのをこらえながら、苦笑している。
「冗談じゃねぇよ…。こんなところを他の客か何かに見られたら、赤っ恥もいいところだ」
 そう言いながらも、竜児は、微かな寝息を立てている亜美の頬を指先で軽くなぞるように撫でてやった。
 亜美は、生え際まで朱に染めて、時折、むずかるように、う、う〜ん、と呻く。
「大人しくはなったが、ちょっと飲ませ過ぎたな」
「都合、ビール大瓶で三本ちょっとというところだからな。たしかに多いな…。それに川嶋は酒好きだけど、弱いんだ。
それでも、ワイン系ならそこそこいけるんだが、どうも、ビールとかはダメなようだな」
 竜児は、先月のコンパでも、亜美がビールで悪酔いしたことを思い出した。
「そうなのか? であれば、ビアホールに行こうって言ったのは軽率だったな。済まなかったな高須」
「いやぁ、川嶋の奴が、自分の限界もわきまえずに無茶な飲み方をしたのがそもそもいけないのさ…。
北村は何も悪くねぇよ」
 北村は伝票に打刻された時刻と、腕時計とを見比べた。
「二時間飲み放題だから、俺たちは、あと一時間はここに居られるわけだ…」
「であれば、このまま一時間ほど、俺は川嶋の様子を見ているよ。急性アルコール中毒って程じゃないが、要注意な
状態であることは確かだから、ちょっと目が離せない」
 北村は、竜児に軽く頷いた。
「そうだな…、尾篭な話だが、吐くってこともあり得るからな。それに、男の俺たちからは切り出しにくいが、
電車に乗る前には手洗いにも行けせないと、まずいな…」
「まぁ、川嶋は基本的にはしっかりした奴だからな。正気にさえ戻ってくれれば、その辺は大丈夫なんだが…。
それにしても、あれだけ騒いでおきながら、気持ちよさそうに眠ってやがる」
 その亜美は、竜児の股間に顔を埋めて、むにゃ、むにゃと、意味不明なことを時折呟いている。
「そうだな、何だか、高須に縋っている今の状態が、嬉しくてしかたがないって感じだな」
 北村の指摘に、竜児は、ちょっと動揺した。
「そ、そうでもないだろ…」
「そうか? 今の亜美の幸せそうな表情と、ちょっと前までの不機嫌な表情とを比べてみると、そうとしか思えないん
だがな、それと…」
「な、何だよ…」
 洞察力に秀でた北村の追及が始まった。
「結局、亜美の奴が、えらく不機嫌だったのは、高須、お前が忙しさにかまけて、亜美のケアを怠っていたってこと
なんだろう? それも、デートの予定がつぶれたなんてものじゃなく、もっと、生々しいものだよな?」
「な、生々しいってのは何だよ。抽象的過ぎて訳が分からねぇよ」
 北村が、眼鏡の奥のつぶらな瞳を、きゅっ、と引き締めた。
 それは、竜児に対する、『しらばっくれるのもいい加減にしろ』という、ある種の警告だった。
 竜児は、そんな北村の視線から逃れたくて、あまり飲みたくもないスタウトを一口含んだ。
「単刀直入に言おう。高須、お前、最近、亜美を抱いてないだろ?」
 口に含んだビールを吹き出しそうになったが、それは、口元を左手で押さえ、辛うじて堪えた。
「い、いきなり、何を言いやがる!」
 その竜児の狼狽ぶりを見て、北村は目を細め、口元を微かに歪めて、意地悪そうに微笑した。
「まぁ、そんなことなんじゃないかって思ったんだが、どうやら俺の推測は正しかったようだな」
「お前なぁ〜」
 竜児は北村に咎めるような視線を送ったが、竜児よりも直感に優れた北村に敵うわけがないことに思い至り、
観念したように瞑目して嘆息した。
「まぁ、恥ずかしながら、そういうことさ…。俺は川嶋とは、ここ一週間はすれ違いの生活で、満足にスキンシップも
できなかった。それが、川嶋の奴は不満だったのかも知れねぇな」
「なぁ、ちょっと立ち入ったことを訊くけどいいか?」
「な、何だよいきなり…」
 北村は、動揺気味の竜児には構わずに、自分たちが陣取っているテーブルの周囲を見渡した。
 ビアホールの店内の様子は相変わらずだった。多くの人でざわめいている。亜美が馬鹿騒ぎしていた時なら、竜児
たちが目立っただろうが、今は、他のテーブルに居座っている酔漢たちの方に、他者の注意は向いていそうだ。
 それを確かめてから、北村は、竜児の耳元に囁いた。
「なぁ、お前と亜美は、どこまで行っているんだ? Aか? Bか? それともCまでか?」
「お、おう…」
 ある程度は覚悟していたが、親友の北村であっても、亜美との逢瀬を白状するのは気恥ずかしかった。
 だが、北村は遠慮がない。
「どうなんだ? 奥手のお前でも、ませた亜美に引きずられて、Cぐらいは経験しているんだろ?」
「う、ま、まあな…」
「何だか、はっきりしないな…。そういった曖昧な態度でお茶を濁そうとすると、亜美にも愛想を尽かされるぞ」
 竜児の脳裏に、つい十日前の出来事がよぎった。
 互いに一つになるために、初めてのセックス。しかし、挿入直前になって突然の亜美の不調。
 痛い、痛い、と泣き叫びながら、苦しんでいる亜美の姿は、今も記憶に鮮やかだ。
 あの晩の亜美との行為は、一応は性行為なのだろう。だが、その結び付きは完全ではなく、亜美にも竜児にも、
心身にある種の痛みを残したのだ。
「CはCだが、Cマイナスって感じだな…」
「マイナスってのは何だ? 意味が不明だぞ」
 北村のもっともな指摘に、竜児は瞑目して頷いた。それは、北村に亜美との逢瀬の真相を告げるという意思表示で
もあった。どの道、洞察力に秀でた北村の追及から逃れる術を竜児は持ち合わせていない。
「およそ十日前のことだ。俺と川嶋は、始めて抱き合ったんだ…。だが、本番直前になって、川嶋は急に痛みと悪寒を
訴えて、そのまま中止になった…」
「中止って、亜美の具合はそんなに悪かったのか?」
 竜児は、眉をひそめて北村に頷いた。あの時の亜美の苦しみようを思い出すと、口中が苦々しくなってくる。
「川嶋は、膣痙攣を起こしたんだよ。ませてはいるが、本音では川嶋もセックスが怖かったんだ。それで、俺と一つに
なる直前、あいつの膣は天岩戸みたいにかちかちに収縮しちまって、全然俺を受け付けなくなっちまったんだよ」
「そんなことがあったのか…」
 竜児と亜美との初めての行為が無残な結果に終わったことは、北村にも予想外であったらしい。
 何事にも動じないはずの北村が、居心地悪そうにもじもじしている。
「川嶋は、再チャレンジを望んでいる。ただし、いきなり俺と一つになるんじゃなくて、裸で抱き合って、セックスへの
恐怖感を解消してから、本番をするつもりらしい。だが…」
「折悪く、数学科の補講が重なって、亜美との逢瀬がことごとくお流れになった、そういうことだな?」
 北村に結論を言われた竜児は、力なく「ああ…」とだけ応じた。
「そうであれば、お前は、亜美を抱いてやるのが一番なんじゃないのか? 前回の失敗があるから、踏ん切りがつき
にくいのはなんとなく分かるが、そうしてやることが亜美の望みなら、それを叶えてやるのが男の責務だろ?」
「そうだよな…、確かに」
 竜児は、せっかくだから、スタウトを、また一口飲んだ。
 ホップの利いた強い苦味と、黒砂糖らしい甘味が、口中に広がる。
「俺だったら、亜美が酔いつぶれたのを幸いに、どっかのホテルに連れ込んで、一発とは言わずに二発、三発と、
亜美の中にぶち込んじまうが…」
「お、おい、おい、お前、川嶋のことなんか眼中にねぇだろう…」
 北村の冗談だとは分かっていたが、いざ、亜美への横恋慕めいたことを告げられると、朴念仁の竜児でも内心は
穏やかではない。それに、品行方正を旨とする竜児にとって、酔いつぶれた婦女子をかどわかすなぞ論外だ。
「すまん、ちょっとした冗談だ。正直、お前たちが羨ましくてな。それと、亜美を抱くことに消極的な感じがするお前の
ことをちょっとからかってみたくなったのも事実だ。とにかくだ、高須、亜美を抱いてやれ。それ以外に、あいつが
救われる道はない」
「お、おぅ…。しかし、今日は無理だ。川嶋のこの体調じゃ、前回の二の舞になりかねない」
「あせらなくてもいいじゃないか。明日から夏休みだ。お前と亜美は試験勉強もしなくちゃならんが、大学が休みで
あれば、時間は十分にある。それをお前たちの関係修復に充てればいいだろう」
 そう言って、北村も、スタウトを一口飲んだ。
「改めて飲んでみると、苦いな…。それに甘い。こんなに味の濃いものを亜美の奴は一気飲みしたのか…」
「北村も知ってるだろうが、ストーカー事件の時もそうだったように、あいつは結構無茶するからな」
「だからこそ、お前がいざという時には支えてやる必要があるってことだよ」
「そうだな…」
 北村のもっともな指摘に、竜児は頷き、更に一口、スタウトを口に含んだ。
 じわっとする苦味が口の中を覆うが、それが先ほどのように不快なものとは思えなくなっていることに気づく。
 飲酒には否定的な竜児だが、これはこれで美味いのかも知れないと思えてきた。
「それはそうと、高須。お前、飲んでも全然赤くならないな。受け答えもしっかりしてるし、お前って、本当は酒が強いん
じゃないのか?」
 北村からの予想外の問いに、竜児は三白眼を丸くした。
「ど、どうなんだろうな…。俺自身、こんなに酒を飲んだのは実は初めてなんだ。先月のコンパだって、最初の一杯
こそビールを飲んだが、後はウーロン茶で誤魔化したからな。本当のことは分からねぇよ…」
「いや、多分高須は本当に酒が強いんだろうな。飲酒の経験がほとんどないのに、全然酔ってない。普通は、何度も
悪酔いしながら、酒に慣れていくものらしいが、高須の場合は、遺伝的に酒に強いのかも知れないな」
 竜児は、酒と女に溺れていた自分の父親を思い出した。不本意だが、確かにそうなのかも知れない。
「まぁ、酒が強いかどうかは分からねぇが、酒もそんなに悪いもんじゃないのかも知れねぇって気には、ちょっとばかり
なってきたよ…」
「うん…」
 北村が、ほんのり赤くなった顔をちょっとほころばせている。
「それに、料理と酒は不可分な関係にある。酒を無視して料理を考えることは難しいんだろうな」
「そうか…。料理上手な高須が、酒にも造詣が深くなったら無敵だな」
 竜児は苦笑した。
「よせやい。俺の料理なんて所詮は素人のお遊びさ。一時は、進学は諦めて、調理師とかも考えたけど、旧態依然と
した徒弟制度には多分馴染めないと思ってな…。今は、進学してよかったと思っているよ」
「そうだな、高須ほどの優秀な奴が、進学もせずにそのままってのは勿体ないからな。俺も、こうして高須と一緒に
酒が飲めるのは嬉しいんだ」
「お、おぅ…」
「そして、それは亜美も同じなんだ。今回、亜美は酒癖が悪かったが、亜美だって、高須と酒が飲めるのが嬉しいのさ。
だから、今回の狼藉は大目に見てやろうじゃないか」
「そうだな…」
 竜児は、相変わらず股間に顔を埋めている亜美の頭を撫でてやった。その亜美は、「う〜ん」という呟きを漏らしな
がら、むずかるように首を左右に振って、頬を竜児の股間に擦り付けた。
「うわっ!」
 その刺激で、竜児のペニスが勢い付き、股間がもっこりと盛り上がる。そして、亜美は、鼻をひくつかせながら、
竜児の亀頭の辺りに口唇を当て、竜児が穿いているチノパンの上から、しゃぶりついた。
「き、北村ぁ、何とかしてくれぇ!」
「何とかって言われてもなぁ…。亜美は俺の女じゃないし…。そういうことは、相方のお前が何とかしてやらなきゃ」
 そう言いながら、北村は、苦笑している。
「ど、どうすりゃいいんだよ?」
 北村は笑いながら竜児の肩を、ぽん、と叩いた。
「決まってるだろ? 予定を変更して、亜美を抱いてやればいいのさ。このままホテルで一発ってのが妥当だが、
金あるか?」
 竜児は首を振った。今回の酒宴は飲み放題だが、料理は別だ。しかも、味はまあまあだが、どの料理も結構な値段
がしていた。
「ここで飲み食いした分を払ったら、ホテル代は微妙だな。それにラブホは不衛生だから避けたい。
そうなると、都心のホテルは高いから、貧乏学生の俺には到底無理だな…」
「なら、しょうがないな…。俺も貸してやりたいが、俺の財布の事情も高須と大して違わないからな。
亜美に立て替えてもらうってのも考えられなくはないが、それは男としてちょっと格好悪いか…」
「ああ、川嶋はそんなことを気にしねぇだろうが、男の沽券にかかわるからな。この一線は譲れねぇ」
 北村は、軽く頷いて、嘆息した。亜美がよくても竜児は絶対に承知しないことを、親友として知っていた。
どんな場合でも、理由なく施しを受ける男ではないのだ。
「なら、しょうがない。亜美はお前の家に連れていけ。まぁ、前回と同じで芸がないかもしれないが、確実ではあるな。
泰子さんもお前たちの仲は公認なんだろ?」
「お、おぅ…」
 泰子なら、竜児と亜美が結ばれることをむしろ祝福してくれている。
 今夜、竜児の部屋で、二人が劣情の赴くままに抱き合っても、何も文句は言わないはずだ。だが…。
「だがよ、川嶋が外泊ってのはよくねぇよな…」
「なあに、亜美の酔いが覚めるまで、高須の家で休ませて、それから抱いてやって、日付が変わらないうちに亜美を
自宅まで送り届ければいいじゃないか」
「ま、それはそうだが…」
 竜児は、結局、亜美が竜児の家に泊まることになるだろうという懸念が捨てきれなかった。この泥酔っぷりだと、
簡単には酔いが覚めないだろうし、覚めたら覚めたで、しつこく竜児との抱擁を求めてきそうな予感がする。
「亜美が外泊するようなら、亜美に任せておけば大丈夫だ。こいつはこうした悪知恵だけは大したもんだからな。
自分から木原か香椎の家に泊まっているとかの嘘の電話を自宅にして、木原や香椎とも口裏合わせをするだろうさ」
「確かにそうだな…」
 亜美とは幼馴染の北村同様に、亜美とは密な付き合いの竜児は、彼女の食えない本質を嫌というほど知っている。
外見は楚々としたお嬢様だが、性悪で、嫉妬深くて、したたかで、それでいて健気で、一緒に居て、とにかく飽きない
女なのだ。
「それはそうと、あと二十分で時間切れだ。そろそろ亜美を起こすなり、残った料理やビールを平らげるなりした方が
いいだろう」
 竜児も時計を確認した。時刻は、午後六時半になっていた。ビアホール店内も、今まで以上に混雑していて、今が
書き入れ時といった感じである。
 ともすれば、互いの会話も聞き取れないような騒々しさの中で、竜児は股間に顔を埋めて、何やら幸せそうな笑顔
を浮かべて眠っている亜美を、椅子に元通りに座らせ、その頬を軽く突いた。
「う、う〜ん…」
 亜美は、眉をひそめて、むずかったが、やがて、渋々と目を開け、酔って焦点の定まらない目つきで竜児を見た。
「川嶋、気分はどうだ?」
 亜美は、頼りなげに首を縦に振った。
「う、うん…。ちょ、ちょっと気持ちが悪いけどぉ、何とか、平気…」
 『平気』とは言っているが、亜美が気分の悪さを訴えていることが気になった。
「そろそろ制限時間なんだよ。急かして済まねぇが、動けるなら、今のうちに手洗いにいくなり、帰る準備を始めてくれ。
それと、料理は、俺と北村がかなり食っちまったが、まだ少し残っている。よかったらどうだ?」
 一応は亜美にも料理を勧めてみたが、亜美は首を左右に振った。
「飲みすぎて食欲がないから、残りは高須くんなり祐作なりが食べちゃてよ。それと、何か、あたしって、また酒癖が
悪かったみたいね…。酔って覚えてないけど、またしても人生に汚点をつけたような気がするわ…」
 自覚はあるんだ…、と思ったが、そこは気遣いの高須である。
「いやあ、特に何もなかった。川嶋は、ワインとかだと案外平気なのに、ビールとかが苦手なのかも知れないな。
前半ですぐに酔いつぶれて、それっきりだったよ。川嶋こそ、せっかくの飲み会を楽しめなくて残念だったな」
 亜美は、そんな竜児に、とろんとした眼を向けていたが、やがて目を伏せ、「ありがとう…」とだけ呟いた。
 その後の二十分間は実に慌しかった。竜児と北村は、MOTTAINAI! とばかりに残った料理を半ば意地になって
平らげ、それから竜児は、足下がおぼつかない亜美を洗面所まで連れて行った。
 亜美は、吐き気をこらえているらしく、表情が青ざめ、いかにも気分が悪そうだった。
 亜美が泥酔一歩手前の状態であることを鑑みると、洗面所の中まで付き添うべきなのだろうが、紳士である竜児に、
それははばかられた。何よりも、三白眼の精悍な男が、女子の洗面所に闖入した日には、警察のご厄介になること
は間違いない。
 幸い、見かねたのか、ビアホールの女性従業員が、人事不省に近い亜美の付き添いになってくれた。こういう気配
りは、さすがに老舗ではある。
 亜美が女性従業員に付き添われて、洗面所に入って行ってから十分後、亜美は、入ってきた時よりもいくぶん
やつれたような表情で現れた。
「どうも済みません…。何か変わったことはありませんでしたか?」
 竜児の問いに、その女性従業員は、営業的なものだろうが、悪くない笑顔を竜児に向けてきた。
 その胸には『研修生』と記されたバッジが付いている。年の頃は学卒のフレッシュマンという感じだろうか。それで、
竜児は、このビアホールが大手ビール会社の直営店であることを思い出した。新人らしからぬ手際のよさから、その
ビール会社に総合職として採用された人材なのかもしれない。
「大丈夫ですよ。ちょっと、戻しましたけど、吐くものは全部吐いたようですので…」
「す、すいません…」
 危惧したように、やっぱり吐いたかと、竜児は思った。
「いえ、いえ、お気になさらずに…。これも私たちの仕事の一環ですから」
 それだけ告げると、その従業員は、厨房へと引っ込んで行った。客の粗相の後始末も厭わないのは、さすがだ。
飛び抜けて美人という訳ではなかったが、こういう人は、いずれ頭角を現すことだろう。
 また、そうした機転の利く人に介抱されたのは僥倖だった。
「川嶋、歩けるか?」
 竜児の問い掛けに、亜美は、のろのろと首を縦に振り、二、三歩、歩を進めたが、すぐにふらついて竜児につかまった。
「ご、ごめぇ〜ん、足に力が入らないよぉ」
 さっきよりも症状が悪化している。摂取したアルコールが分解されて悪酔いの原因であるアセトアルデヒドが体内に
溜まったのだろう。大体が悪酔いは、飲み始めて暫く経ってから症状が出てくるのだ。それに、吐いたことが引き金に
なって、張り詰めていた緊張感が切れたことも影響しているのだろう。
 涙目で訴える亜美を、竜児は抱きとめるようにして支え、どうにか北村の居るテーブルまで戻ってきた。
「ちょうど制限時間ギリギリだ」
 北村はそう言って、椅子の上に、竜児と亜美の荷物をまとめてくれていた。
「すまねぇな、北村…」
「しかし、二つともえらく重たいバッグだな。亜美がその調子じゃ、高須が亜美の肩を持たなきゃなるまい。
だから、お前と亜美のバッグは俺が持っていくよ」
 言うや否や、北村は、竜児と亜美のショルダーバッグを両肩へたすき掛けにした。
「お、おい、そこまでしなくてもいいよ…」
「いいから、高須、お前は、亜美の世話だけに専念しろ」
 北村はそう言うなり、伝票を持って、出口に向かっていった。それを、竜児は亜美の体を支えながら、懸命に追う。
 亜美はというと、完全にグロッキーで、まるで蒟蒻か何かのように、ぐにゃぐにゃと脱力していた。
支える竜児も一苦労だ。
「泰子顔負けの酔いっぷりだな…」
 前回のコンパの時には、まだしも亜美に歩行能力が残っていたから、その肩を支えてやるだけで済んだが、
今回ばかりは、そう簡単には行きそうもないようだ。
 ビアホールの出口では勘定を終えた北村が、待っていた。
「亜美の様子が、予想以上に悪そうだな…」
「ああ、歩行能力すら怪しいくらいだ…」
「この状態じゃ、亜美に肩を貸してやってもダメだろう。なぁ、高須、いっそのこと、お前が亜美をおぶってやったら
どうなんだ?」
「え?」
 竜児は三白眼を真ん丸に見開いて仰天した。ここは銀座のど真ん中なのだ。そこを、年頃の娘をおぶって歩くなぞ、
できる訳がない。
「お前が恥ずかしいと思う気持ちは俺にも理解できる。しかし、亜美がその状態では、肩を貸す方が、むしろお前の
負担が大きいし、亜美だって大変だ。であれば、おぶってやった方がずっといいだろう」
「お、おう、た、確かに、そうだけどよ…」
 北村は、戸惑う竜児に軽く頷くと、意識が朦朧としているような亜美の耳元に囁いた。
「どうだ、亜美。自力で歩かずに、高須におぶってもらった方がいいと思うんだが、お前はどうする?」
 亜美は、目を軽くつぶって口元を半開きしたまま、竜児にもたれかかっている。
「おぶってもらふって、それって、おんぶぅ?」
「ああ、高須におんぶしてもらうんだ。そうした方が、お前も楽だし、高須も楽なんだよ」
 それを聞いた亜美は、うふふ、と嬉しそうに笑っている。
「亜美ちゃん、歩けねぇし、た、高須くんにおんぶして欲しいよぅ〜」
 それをきっかけに、亜美は「おんぶ、おんぶぅ」を幼児が駄々をこねるように繰り返している。
 北村は、苦笑しながら、竜児に向き直った。
「聞いての通りだ。恥ずかしいかもしれないが、亜美をおぶっていくのが最善の策だろうな。
お前たちの荷物は俺が運ぶから、お前は亜美をおぶってやってくれ」
「お、おい…」
 顔から血の気が引くというのは、こういう感覚を言うのだな、と竜児は思った。
 あまりの展開に、現実感がなく、なんだか、北村と亜美との即興劇を遠くで見ている一観客のような気がした。
これは、現実逃避なのだろう。目の前の事象が受け入れ難いが故に、竜児の精神が萎縮しているのだ。
 そうした、竜児の内面の変化を直感に優れた北村は見逃さない。
「お前にとって亜美は何なんだ? 単に惚れた腫れたにとどまらない、伴侶であり、同志なんじゃなかったのか?」
 そうなのだ、実乃梨の前で、竜児はそう宣言した。
 それに、あの無残に終わった初夜の晩、亜美は竜児に何と言ったか。 
 健気な亜美は、『あたしは、何があってもあんたについていく。そう決めたんだよ…』と言ってくれたのではなかったか。
 何より、竜児もその即興劇の当事者であり、その劇の主役の一人に他ならない。与えられた役を演じなければ
ならないのだ。
「そうだな…、川嶋と俺は、もう不可分の関係なんだ。その川嶋が苦しんでいるなら、救ってやらにゃならねぇ…」
 竜児は、もたれかかっている亜美を背中に乗せ、亜美の両腕を自分の肩越しに前に出し、亜美の両脚の大腿部
から臀部の辺りを両腕で支えた。
「重くないか?」
 その問いに、竜児は首を左右に振った。
「川嶋は、今も節制しているから、全然太ってない。軽いもんさ」
 それよりも、服地越しに亜美の柔らかな乳房を感じ、亜美の臀部に手を添えているのが問題だった。むくむくと劣情
が首をもたげてくるが、それは、亜美の容態を第一に気遣うことで、押し殺した。
 それにしても、いつものようにデニムを穿いてくれていて助かった。これがスカートだったりしたら、目も当てられない。
「高須、こっちだ」
 竜児と亜美の荷物を持った北村が先導する。ビアホールから地下鉄の駅までは徒歩にして三分ほどだ。
 銀座通りは人でごった返しているから、努めて裏通りを選んだ。それでも、宵の口の銀座である。そこかしこに人は
溢れており、楚々とした美少女を背負っている竜児に好奇の目を向けてくる。それを竜児は、努めて黙殺した。
 狭い通りだが、信号で待たされた。その一角は、竜児でも耳にしたことのある海外高級ブランドの直営店だった。
 その直営店の前で信号待ちしていた時、ほとんど意識不明に近かった亜美がうっすらと目を開き、その直営店の
ショーウィンドウを見詰めた。
「川嶋、どうかしたのか?」
 だが、亜美は竜児の問い掛けには応えず、その直営店のショーウィンドウを指差した。
「あ、ゆ、指輪…。ペ、ペアリング…」
 亜美が指差した先には、一組の指輪が光っていた。白金特有の、いつまでも朽ちることのない輝きを秘めて、その
指輪は、紫色のビロードの上に置かれていた。
 特に意匠が凝らされたというものではないが、僅かにエッジを強調するような硬質なデザインが特徴的だった。
嫌味がなく、シンプルだが、ちょっと硬派な感じのする指輪。ジュエリーにはまったく興味のない竜児も、これには
何か惹かれるものがあった。
「か、川嶋、あ、あれが欲しいのか?」
 竜児の問いに、亜美は、無言で頷いたが、そのまままぶたを閉ざし、微かな寝息をたて始めた。
「あ、お、おぃ! 川嶋」
 頷いただけの亜美に、再度の意思表示をお願いするつもりで、竜児は背負っている亜美を、二度、三度と揺さぶった。
 しかし、亜美は、むにゃむにゃ…、といった、寝呆けたような甘い鼻声を紡ぐだけだ。
「どうした?」
 信号が青になっても渡ろうとしない竜児が気になって、北村が戻ってきた。
 その北村に、竜児は、先ほど亜美が指差していたプラチナのペアリングを示した。
「指輪じゃないか、それも、高級ブランドの…。値段は二十五万円か…。正直高いな。亜美のような金持ちなら
ともかく、俺たちのような貧乏学生が簡単に変える代物じゃない…」
「ああ…」
「これを亜美は欲しがったのか?」
 竜児は、頷いた。
「ああ、ただし、言葉ではなく、単に首を縦に振っただけだ。それで、もう一回、川嶋の意思を確認しようとしたんだが、
この通り、完全に白川夜船だ」
 北村は、亜美の寝顔と、ショーウィンドウの指輪とを見比べ、嘆息した。
「確かに、嫌味のない上品なデザインは亜美が好みそうな感じだな。しかし、お前の財布の中身を知っている亜美が、
お前に物質的な要求をするっていうのが何か不可解だな…」
 それは竜児も同感だった。亜美が、竜児に対して何かの給付を要求するというのは、少なくとも金銭や物品に関す
る限り、今までに例がない。
「でもよ、川嶋は、俺とのすれ違いが続いて、えらく不機嫌だったよな? それで、本心が出たんじゃねぇかって気が
するんだよ」
「う〜ん、本心か…」
「本当は、今までだって、川嶋は俺からのプレゼントを持ち望んでいただと思う…。しかし、俺が無資力に等しいから、
我慢していたんだよ。その代わり、二人一緒に居られることで、よしとしていたんだろうな。だが…」
「その二人一緒ってのが、ここんところの忙しさで、ご破算になったというわけだな」
「そういうことだ…」
 北村は、ショーウィンドウを暫し見詰め、ふーん、とため息のような呟きを残して、竜児に向き直った。
「まぁ、俺も詳しくは知らないが、指輪としては、これでも安い部類なんだろうな。亜美は、お前が頑張れば十分に
買えると思って、これを選んだのかも知れない…」
「そう思うか?」
 確かに金額的には、バイトをすれば何とかなる。 しかし、泰子からはバイトを禁止されているし、もはや泰子の
同調者と言ってよい亜美も、竜児のバイトには否定的だ。実際、竜児が今も継続している高校生向けの数学の
通信添削のバイトもあまり快くは思っていない。
 これも、家事に、勉強にオーバーワーク気味の竜児の体調を気遣うが故である。
 北村も、う〜ん、と呻吟しながら何やら考え込んでいる。
「正直、それも分からないな…。高須にこれを買わせるってことは、高須にバイトをさせるってことだからな。
お前にバイトをさせたがらない亜美の言動とは矛盾する」
「そうなんだよ…。だから、余計に不可解なんだ…。まぁ、こいつは色んな意味で普通じゃねぇからな…」
 北村は苦笑した。
「お前だって、普通じゃないんだぞ。いったい、どこの世の中に、家事万能で成績優秀な男子大学生が居るんだよ? 
お前と亜美は、『普通じゃない』のベクトルは多少違うが、所詮は似た者同士なんだ」
「お、おぅ…」
「まぁ、それはともかく、亜美が本当にさっきの指輪を欲しがっているのかどうかは、結局よく分からないな。となると、
亜美の機嫌がよければ買わなくていい。機嫌が悪かったらその限りではない。そんなところだろう」
「そうだな…。でもよ、川嶋の機嫌がいいかどうかなんて、いつどうやって確認するんだよ」
 北村は、そんな竜児の脇腹を、苦笑しながら、左肘で軽く小突いた。
「決まってるだろ? これからお前と亜美は何をするんだ? その行為の最中に、いくらでも亜美の機嫌は分かるだろ
うし、行為が終わったら終わったで、二人で語らいながら、あいつの本心を聞き出せるよな?」
 いくぶんは婉曲な表現だったが、その意味するところはかなり大胆だ。竜児は、頬が朱に染まり、不如意に股間が
怒張してくるのを鎮めようと狼狽した。
「まぁ、そ、それについては、川嶋が意識を取り戻してからだろ? 俺と川嶋がエッチするも何も、結局は川嶋の意向
次第だろ?」
「まぁ、そうだな。であれば、亜美が望むなら、お前は、それを裏切るなよ。亜美が『抱いて』って言ったら、
遠慮なく抱いてやれ」
「お、おぅ…」
 どうにも引っ込みがつかなくなった。後は、背中で眠っている亜美次第だ。
 竜児は、北村の先導でどうにか地下鉄の駅にたどり着いた。バリアフリー化の一環で、エレベーターが設置されて
いたのは心底有難かった。古い時代にできた地下鉄銀座駅は、どの階段も傾斜が急で、人を背負ったまま下るのは
実に剣呑だからだ。
 亜美は、そんな竜児の苦労を知らずに、その背中で眠りこけていたが、乗換駅で大橋駅に向かう電車に乗り込ん
だ時点でようやく目を覚ました。
「気分はどうだ? 川嶋…」
 混雑していた地下鉄と違って、始発駅からなので余裕で座れた。
 亜美は、左隣に腰掛けている竜児に、眠たげに半開きにした眼を向けていたが、そこがようやく大橋駅へむかう
車中であることに気付き、はっとしたように、周囲を見渡した。
「お前は、酔いつぶれて動けなくなったところを、高須にここまで背負ってもらったんだぞ。憶えてないのか?」
 右隣の北村の問い掛けに、亜美は、しばらくきょとんとしていたが、思い当たる節があるのか、悪酔いで青ざめてい
た頬を、にわかに朱に染め、恥ずかしそうに俯いた。
「う、うん…」
 亜美は、北村に何か言いたげであったが、口を噤んで、肩を震わせた。
 人事不省ではあっても、断片的な記憶はあるのだろう。銀座のど真ん中から竜児に背負われてきたことを憶えて
いるとしたら、穴があったら入りたいような気分なのかも知れない。
 竜児は、そんな亜美の肩を、そっと抱き寄せてやる。
「川嶋…。俺が、お前のことを巧く気遣えなかったのが、そもそも悪かったんだ。だから、お前が不機嫌になるのは
当然だし、やけ酒でも呷りたくなるのは、俺でも分かるよ」
「高須くん…」
「もう、何も言うな、それに、何も気にするな。電車が大橋の駅に着くまで時間がある。その間だけでも眠っておいた
方がいい。そうした方が、早く気分が良くなるだろう」
 亜美は、ちょっと涙目で竜児に頷くと、その肩に寄り添って目をつぶった。ガタゴトと単調な列車の振動が眠気を
誘ったのか、しばらくすると、亜美は、再び微かな寝息をたて始めた。
「亜美の奴、いろいろと無理をしていたんだな…。母親に逆らい、本当に必死の猛勉強で俺たちと一緒の大学に進学
して、今度は最難関級の国家試験に挑戦するんだ。そのストレスはかなりのものだろう…」
「ああ、それと、前にも話したように、弁理士試験対策のサークルにはとんでもないワルがいてな…。川嶋は、そいつ
らから目の敵にされている。それに、元モデルだってことで、つけ回す奴も居るみたいだし…。とにかく、こいつは
色々と大変なんだよ…」
 竜児は、亜美の寝顔に涙の痕があることに気付き、ハンカチでそっと拭ってやった。白鳥は水面下で必死にバタ足
するというわけでもないだろうが、普段は天使のような笑顔を浮かべている亜美も、陰では悩み、苦しみながらも、
それを克服しようと努力しているのだ。
「…だから、俺は、こいつを守ってやらなきゃいけねぇ。たとえ、こいつがヒスを起こして、俺に肘鉄を食らわせるような
ことがあってもだ」
「そうだな…。亜美は、ああ見えても、お前のことを、ものすごく頼りにして尊重している。お前も、亜美のことを大切に
思っている…」
 その北村が、不意にティッシュペーパーを取り出し、掛けたままの眼鏡を拭き始めた。
「北村、お前…」
 竜児は、北村が、眼鏡ではなく、こっそりと涙を拭っていることを見咎めた。
 その北村は、バレてしまったことの照れ笑いなのか、涙を拭きながらも相好を崩している。
「すまん、すまん。お前たちを見ていたら、何だか切なくなってな。それで、つい、不覚にも涙が出たってわけさ」
 竜児は、そう言う親友の、柔和で秀麗な面立ちを改めて見た。坊ちゃん刈りに眼鏡、それに亜美には始終貶されて
いるファッションセンスは相変わらずだが、どちらかと言うと、女性にはもてるタイプだろう。実際、今の大学でも言い
寄る女子はかなり居るようだ。木原麻耶だって、未だに北村のことを憎からず思っている。
 にもかかわらず、北村には特定の彼女と呼べる者が未だに存在しない。
「会長を…、狩野先輩を思い出していたんだな…」
 竜児の指摘が的を射たものであったため、北村は、一瞬だけ、その柔和な表情を強張らせた。
「バレちゃ仕様がない。その通りさ。高須と亜美を見ていて、俺も会長とこんな風になりたかったって思ってな。
それで不覚にも泣けてきたんだ」
「北村…」
「亜美が高須を追って今の大学に合格したように、俺も、本当は会長を追ってアメリカに行きたかった…。だが、考え
直したんだ。文系志望だった俺が、にわかにエンジニアを指向しても、所詮は付け焼き刃。会長のような超一流どこ
ろか、そこらの理系受験生にも及ばない。であれば、文系として、会長の仕事をサポートできるものはないかって考え
たのさ…」
「狩野先輩の仕事をサポートするのか?」
 エンジニア系の宇宙飛行士を文系の人間がサポートする。それが何なのか、竜児には見当が付かなかった。
「ああ、会長は、いずれは日本人の宇宙飛行士として日本に帰ってくる。その時に、俺が会長をサポートするんだ。
高須は『JAXA』っていうのを聞いたことはあるだろ?」
「ああ、ロケットの打ち上げの時に、ニュースで必ず出てくる名前だな」
「正式名称は、『宇宙航空研究開発機構』。総務省と文部省の所管の独立行政法人だ。ここが日本の宇宙開発の
拠点になっている」
「そこを目指すのか?」
 だが、北村は、頭を左右に振った。
「そこも法務などの文系を募集してはいるが、理系枠に比べてものすごく少ないんだ。だから、そこだけを狙うのは
いくら何でも危険だな。そこで…」
 北村が、眠っている亜美の頭越しに、竜児の方へ身を乗り出してきた。
「お、そう…、そこで?」
 それにつられて竜児も北村に向き合った。
「文科省か総務省に入って、行政の側から会長の仕事をサポートしたいんだ。その方が、俺にとっては現実的だ」
「も、文科省とか総務省って…。試験に合格しないとダメだろ?」
 思いがけない北村の意思表示に、竜児は仰天した。北村が目指すのは『キャリア』と呼ばれるエリートだろう。
そうであれば、国家公務員I種試験に合格しなければならない。
「そう、俺も、お前や亜美のように、受験生になることにした。お前たちが目指す弁理士試験よりはハードルは低そう
だが、それでも非常に困難だ。本学の学生も多数受験するが、誰もが苦戦は免れないらしい。だが…」
 北村の声は、囁くように小さいものの、壇上での演説を彷彿とさせるような決意が漲っていた。その囁きに竜児は耳をそばだてる。
「敢えてやる。俺の頭脳は、会長には及びもつかないが、それでも、会長をサポートすることぐらいはできるかも知れ
ない。そのために、文科省か総務省に入って、キャリア官僚として日本の宇宙開発を支えていきたいと思っているんだ」
 竜児は、北村らしい誇大妄想的な話に思わず苦笑しそうになったが、思いとどまった。それは、自分と亜美が目指
している弁理士試験も同じようなものだったからだ。
 それに、親友である北村の決意なのだ。安易に笑うことはできない。
「キャリア官僚とか、政治家とか、そっち方面は似合いそうだからな、お前は。下手に現場に居るよりも、後方での
指揮命令の方が、お前の能力を発揮できるかも知れねぇ。俺と川嶋は弁理士試験で、お前は国家公務員I種試験で、
それぞれ頑張ろうじゃねぇか」
「そうか、高須にそう言ってもらえると、俺も張り合いが出るってもんだ」
 だが、文科省や総務省と一口に言っても、その組織はいずれも大きい。それが、問題でもあった。
「なぁ、北村…」
「うん?」
「北村は、宇宙開発関係のキャリア官僚になりたいんだよな? だとしたら、I種試験に受かって文科省か総務省に
入っても、宇宙開発関係の部署に配属されるかどうかは不透明だろ? その辺は、どうなんだ?」
 夢語りに水を差すつもりは毛頭なかったのだが、こんなことは北村本人だって分かっているだろう。
その北村の考えを知りたかった。
 その北村は、ちょっと列車の天井に目を向け、何枚か貼られている車内広告を一瞥すると、竜児に向かって微笑した。
「気合だよ…」
「き、気合って何だよ?!」
 意味が分からず、困惑している竜児に、北村は、決意の程を示すかのように、つぶらな瞳を大きく見開いた。
「何事も為せば成る。たしかに、巨大な組織では、人事は個人の希望通りにはいかないだろう。しかし、文科省か
総務省でなければ、会長をサポートすることはできないんだ。だったら、とにかく試験に合格して入省することだよ。
そして、入省したら、上申書でも何でも上に提出して、俺は気合で自分の夢を叶えるつもりだ」
 無茶苦茶だ、と竜児は思ったが、落ち着いて考えてみると、北村の主張にも一理ある。巨大省庁で希望通りの部署
に配属されるというのは、希な話だろうが、まったく可能性がない訳じゃない。
 であれば、今できることをやっておくべき、ということなのだろう。
 それに、ある種、政治家のようなカリスマ性が備わっている北村であれば、本当に気合で希望通りの部署に就いて
しまうかもしれない。
「そうだな、時には気合も大切なんだ。俺も、お前を見習って、気合を入れて頑張るよ」
 北村が笑顔で頷いている。竜児も、三白眼を細めて、頷いた。
 電車は、大橋駅到着まで、あと十分というところに差し掛かった。亜美は、依然として竜児にもたれたまま眠っている。
 その亜美が眠っていることを確かめた上で、竜児は、北村に切り出した。
「そう言えば、俺と川嶋が飲み食いした分を立て替えてくれてたよな。いくらなんだ? 今、俺たちの分は払っとくよ」
 北村は、首を左右に振った。
「いや、お前たちの分はいいよ…。ささやかだけど、俺の奢りだ」
「いや、それじゃまずいって…。川嶋だって承知しねぇだろう」
 北村は苦笑しながら、俯いた。
「今回は、亜美があんなにビールに弱いとは思っていなかった俺のミスだ。高須にも負担を掛けたし、その責任は
俺にとらせてくれ」
 そう言って、ポケットから財布を出そうとした竜児を押し止めた。
 そんなやりとりがあっても、亜美は眠っている。
「じゃ、今回は、そう言うことにしとくよ。だが…」
「だが? 何だ?」
「奢られた上に、唐突ですまんが、肉体労働でも何でもいいから、割のいいバイトに心当たりはねぇだろうか?」
「心当たりがないわけじゃないが、しかし、高須、稼いだ金は、あれに使うんだな?」
 竜児は、微かに頷いた。
「さっきの様子を見た限りじゃ、川嶋の機嫌は、そう悪くなさそうだったが、機嫌の良し悪しに関係なく、俺は、あいつ
がプレゼントをもらって喜んでいるところを見たくなった。考えてみれば、俺は、川嶋から与えられるばかりだったんだ。
その恩も返さなきゃならねぇ」
 北村は、竜児の話を頷きながら聞いていたが、最後の部分だけは得心がいかないのか、ちょっと渋面になった。
「高須が亜美から施しを受けてばかりだというのは、お前の思い違いだと思うが、まぁ、いいだろう。
実は、日給がべらぼうに高い仕事を知っている」
「ど、どんな仕事だ?」
「春田の家が内装屋なのは知ってるよな?」
「急に春田なんか引き合いに出して変な奴だな。たしか、春田は、家業を継ぐつもりで進学せずに親父さんの元で
仕事をしてるって話だが…。て、おい、まさか、仕事ってのは、それか?」
 北村は、苦笑しながら頷いている。
「そうなんだ、実は俺も自前のバイクが欲しくなってな。それで短期でも割のいいバイトを探していて、春田の家が
内装工事のアルバイトを募集していることを知った。それも日給一万二千円でだ」
「すげぇな…。その手の肉体労働は、日給にして一万円程度が上限だろ? 破格だな…。だが、待てよ…」
「どうした? 高須」
「だったら、何でお前がやらねぇんだ? こんな高待遇のバイトを俺に紹介して…。それとも春田の親父さんは、
お前と俺とを雇ってくれるのか?」
 北村は、苦笑しながら、残念そうに嘆息した。
「いや、俺は春田の親父に断られたんだ」
「どうして? 何で、お前が断られたんだ?」
「いや、春田の親父さんが言うには、俺みたいな、いかにも大学生って奴じゃダメなんだそうだ。何でも、雇っている
職人はみんな低学歴だから、大学生の俺を見るとあからさまに不快になるらしい。下手したら連中からいじめられる
可能性すらあるから、やめておいた方がいいとも言われたよ」
 竜児は、「俺も大学生なんだが…」と、言い掛けてから、はたと思い当たった。
「この顔か…」
 そう言って、自身の三白眼を指差した。
 北村が、苦笑しながらも、申し訳なさそうに目を伏せている。
「すまんがそういうことだ。高須は、ぱっと見、迫力のある顔つきだからな。心ある者は、そうは見ないが、学歴
コンプレックスに凝り固まったような連中じゃ、高須をアウトローと誤認するだろう。だから、大丈夫だと思ってな」
 今度は竜児が苦笑した。
「アウトローか…。この顔で、今までの人生はかなり損をしてきたが、たまにはメリットになる時があるんだな」
「高須にとっては不本意な話かもしれないが、よかったら春田の親父さんにお前を紹介しておくよ。春田の親父さんも、
バイトを募集したはいいが、寄って来るのは俺みたいな優等生面した大学生ばかりなんで困っているようだ。だから、
高須みたいな、一見、普通の大学生らしくない奴が来てくれるのは、向こうにとっても渡りに船なんだろうな」
「俺は、仕事にさえありつければ、どう思われようが構わねぇさ」
「そうか、じゃ、決まりだな。早速、俺から春田の親父さんに連絡しておくよ。親父さんと連絡がつき次第、
お前にも状況を知らせる」
「有難う、恩に着るぜ…」
 竜児は、北村と目を合わせて頷き合った。高待遇なだけに訳ありな仕事のようだ。
それに作業自体もきついのだろう。その点についての覚悟も決めておくことにした。
 電車は、あと一駅で大橋駅に着く。
 竜児は、眠っている亜美の肩を揺さぶった。
「川嶋、そろそろ大橋駅だ。起きてくれ」
 亜美は、むずかるように顔をしかめながら、双眸を見開いたが、車内の意外な明るさに目が慣れないのか、再び、
きゅっ、と目をつぶった。
「大丈夫か? ゆっくりでいいから、目を開けてくれ」
 亜美は頷き、明るい車内に目を慣らすために、薄目を開けて、ちょっと、周囲を伺うように視線を泳がせた後、
ゆっくりと大きな瞳を見開いて、傍らの竜児の顔を覗き込んだ。
「酔っていたせいかしら、何だか、目がちかちかするのよぉ…」
「アルコールや、アルデヒド類は神経系統にとって有害だからな、それはあるかも知れねぇ。
それよりも、気分はどうだ? 吐き気とかはねぇか?」
 亜美は、頭を左右に振った。
「吐き気はしない。気分もそんなに悪くないわ…」
「そっか、じゃ、自力で歩けるか?」
 その問い掛けの答えを確認するつもりなのか、亜美は座席から立ち上がってみた。しかし、車内の揺れもあって、
すぐに足下がふらつき、へなへなと力なく座席にへたり込んだ。
「どうやら、介添えが必要なようだな…」
 北村の指摘に竜児も頷いている。
「ま、また、おんぶするの?」
 亜美が、頬を微かに朱に染めている。恥ずかしいけど、ちょっぴり嬉しいのかも知れない。
「そうして欲しいなら、やぶさかじゃねぇが、多少なりとも歩けるなら、肩を組むだけでも十分だろ?」
「そ、そうね…」
 その亜美の、安堵とも落胆とも判じ難い反応に、北村が苦笑している。
「まぁ、酔いはかなり醒めているようだが、それでも徒歩で帰るのは辛そうじゃないか。駅からは、高須と一緒に
タクシーで帰った方がよさそうだな」
「う、うん…。そうする…」
 電車は大橋駅に着いた。時刻は午後九時ちょっと前。都心のオフィスから帰宅してきた勤め人で、ホームや階段、
改札口はごった返していた。
 その怒涛のような人の波が引くのを、ホームのベンチで待ってから、竜児と亜美と北村は、改札口に向かう。
「川嶋、一歩、一歩、慎重にな…」
「う、うん、分かってる…」
 竜児の肩に縋りながら、亜美は、コンクリートの階段をゆっくりと下りて行った。
 その亜美のすぐ前方には、三人分の荷物を持った、北村が控えている。万が一、亜美が足を踏み外した時は、受
け止めるつもりなのだろう。実際、亜美の足取りは未だにおぼつかなかったが、何とか、階段を下り切ることができた。
 一行は、改札口を出て、タクシー乗り場に向かう。
 そのタクシー乗り場で、北村は、竜児と亜美にそれぞれのショルダーバッグを引き渡した。
「済まねぇ、結局ここまで持ってきてもらっちまった…」
「気にするな。今回は、俺が勝手にお前たちを誘ったんだ。であれば、このくらいのことは当然なんだ」
 そうして、北村は、「じゃあ、高須に亜美、俺はお先に失礼するよ」とだけ言い残して、すたすたと歩み去っていった。
「なんか露骨ね…」
 『どうせ、俺はお邪魔虫だから…』という北村の明け透けな態度に、亜美は苦笑していた。
「そう言うな。あいつなりの気配りなんだ」
 竜児は、自身と亜美のショルダーバッグを左手に持ち、右手で亜美の上体を支えた。
「さてと、川嶋…。これから俺たちはタクシーで帰るが、考えられる行き先は二つだ」
「二つ?」
 不安なのか、期待なのか、まぶたが微かに震えている。
「一つは、川嶋の自宅だ。川嶋の今の体調では、このまま自宅に帰って休んだ方がいい…」
「も、もう一つは、どこなの?」
「もう一つは、俺の自宅だ。俺の自宅で、アルコール抜きの飲み物でも飲みながら、のんびり英気を養ってから、
川嶋は自宅に帰るっていう選択肢だ」
 言い終えて、竜児は、亜美の瞳を覗き込むような気持ちで、その端整な面立ちと向き合った。
 亜美は、未だ酔いが残っているせいなのか、静謐な瞳を所在無げに開き、小作りな口元を、ちょっと弛緩させて
半開きにしている。その姿は、竜児だけが知る、脆く、儚げで、無垢な美しさだ。
 その亜美に、竜児は畳み掛けた。
「どうする? 川嶋。選択肢は二つだが、それを選ぶ権利は川嶋にある。どちらでも、川嶋が望む方を選んでくれ」
 微かに開かれたバラ色の口唇が艶かしい。その口唇が、一瞬震えたように竜児には感じられた。
「だ、第三の選択肢を忘れているわ…」
「第三の選択肢なんて設定してねぇぞ…」
 そう言いながらも、亜美が言う『第三の選択肢』が何であるかは、竜児にも分かっていた。
「可能性を考慮すれば、選択肢はもう一つあって然るべきなのよ…」
「お、おぅ…」
「あたしは高須くんの家に行き、高須くんと一夜を過ごすの…。これが第三の選択肢…。
あ、あたしは、これを選択するわ…」
 そう言うなり、竜児の腰に回している左腕に力を込めて、竜児にしがみついた。
 竜児も、亜美の肩を支えている右腕に力を込め、亜美の身体を引き寄せた。
 そのまま、互いに何も語らぬまま、待機しているタクシーに乗り込み、竜児は行き先を運転手に告げた。
 タクシーの車内でも二人は無言だった。
 これから待ち受けていることに心踊るというよりも、意識のし過ぎと、前回の無残な失敗の苦い記憶とで、
竜児は自身の鼓動が亜美に聞こえそうな程、緊張していた。
 それは亜美も同じなのだろう。車中では、うつむいたままで、竜児の顔を見ることもなかった。
 やがて、タクシーが、かつて大河が住んでいたマンションの前に差し掛かった。竜児は、「ここでいいです…」と
運転手に告げ、亜美を先に下車させて、料金を支払った。
「タクシー代ぐらい、あたしに払わせてよ! あんたって、本当に頑ななんだからぁ!」
 その感情的な亜美の口調に、竜児は、苦笑した。
 極度の緊張感に苛まれている亜美が、強がりか苦し紛れかで、わざと感情的に言っているのだろう。
 同時に、それは、竜児の緊張も、僅かだが和らげてくれたようだ。
「この次は、川嶋の奢りってことでいいじゃねぇか」
 そう言って、亜美の手を取って階段を上り、玄関のドアノブに手を掛ける。だが、玄関のドアは施錠されていた。
「泰子の奴、今日も夜のご出勤かな…」
 竜児はショルダーバッグのサイドポケットから鍵を取り出すと、その鍵で玄関のドアを解錠した。
 屋内は静まり返っていた。やはり、泰子は、スナックに出かけて行ったようだ。お好み焼き屋を始めても、何だかんだとスナックには非常勤で出勤している。結局のところ、水商売が性に合っているのだろう。
「とにかく、上がってくれ…」
 竜児は、亜美を自室に案内し、自分と亜美のショルダーバッグをそこに置くと、台所へ向かった。亜美のために、
アルコール抜きの飲み物を用意するためだ。何しろ、亜美は嘔吐しているから、何か消化が良くて、そこそこ栄養の
あるものが好ましい。
 冬場なら、文句なしに蜂蜜入りのホットミルクだが、今はあいにく夏場だ。そこで竜児は、冷たいミルクにプレーン
ヨーグルトと蜂蜜を加えたものを作ってみることにした。
 蜂蜜だけでは、甘いばかりで夏場はしつこい感じがするから、プレーンヨーグルトの酸味で口当たりをさっぱりさせ
るつもりだった。プレーンヨーグルトも、入れすぎると、その酸で、ミルクの蛋白質を凝集させてしまうから、ほんの少し
だけ、気持ち酸味が感じられる程度に留めておく。それらの材料をミキサーで攪拌してできあがりだ。
「どうかな? 思いつきで作ってみたんだが、口に合うかな…」
 亜美は、グラスの中身をちびちびと嘗めるように飲みながら、淡い笑みを浮かべた。
「蜂蜜ミルクの夏バージョンなのね…。単に甘いんじゃなくて、微かな酸味が美味しいわ。
思いつきでもこれだけできるってのが、本当にすごいわね…」
「いやぁ、たまたま巧くいっただけさ。思いつきでいろいろ作るけど、実は失敗作の方が多いんだよ」
 それを聞いて、亜美は、ちょっと納得がいかないかのように、心待ち眉をひそめた。竜児の謙遜を嫌味と感じたの
かも知れない。
「ご馳走さま。美味しかったわ」
 それでも、亜美は竜児に礼を言ってグラスをちゃぶ台の上に置いた。単に、ミルクと蜂蜜とヨーグルトをミキサーで
混ぜ合わせただけのものだが、悪くない味わいだったようだ。
「川嶋、お代わりはどうだ?」
 その竜児の申出には、首を左右に振った。
「美味しかったけど、もうこれでお腹一杯。もう、十分よ…」
「そうか、それなら、俺はシャワーを浴びてくるよ。何せ、今日は、色々あって、汗だくなんだ」
 そう言いながら、プルオーバーシャツの一番上のボタンの辺りを摘んで、襟元に風を送るように、二度、三度と
はためかせた。
「うん、先にシャワー浴びときなよ。あたしは高須くんが終わった後でいいからさぁ」
「お、おぅ、じゃ、そうするよ」
 竜児は、箪笥から替えの下着とTシャツと、ハーフパンツを取り出した。
「そんなもん、いらないじゃん。あたしたちは、どうせ裸で抱き合うんだからさぁ…」
 亜美は、白磁のような指を、すぅ〜っ、と伸ばして、着替えを持った竜児の右手首を撫で回した。
 蜂蜜ミルクを飲んだことで緊張感がほぐれたのか、その面相には、目を細め、口元をちょっと歪めた、
いつもの性悪笑顔が浮かんでいる。
「さっきまで緊張しておどおどしていたくせに、変わり身の早い奴だな…。お前は、羞恥心ってもんがねぇのか?
それに、川嶋がシャワーを浴びている間、俺は全裸待機かよ?」
 竜児の『全裸待機』に、亜美は、ぷっ、と吹き出した。
「高須くんて、バカ? 高須くんが全裸待機にならないようにするなんて簡単じゃない。それぐらい察しなさいよ」
 そう言うなり、竜児の手から着替えを奪い取った。
「お、おい…」
「いいから、あんたは何も気にせずに汗を流してきなさいよっ!」
「ちょ、ちょっと待て! バスタオルでも巻けって言うのか?!」
 亜美は抗議する竜児には構わず、その背中を押して、強引に脱衣所へと押し込んだ。
「川嶋め、まったく…」
 ため息をつきながら、竜児は脱衣所で服を脱ぎ、下着と、シャツと、チノパンとを別々のカゴに放り込んだ。
「全裸待機にならないようにする、だと?」
 こうしたことに鈍い竜児でもこれから何が起こるかは、分かっていた。気は進まなかったが、まさか逃げ出すわけに
もいくまい。とにかく、今はシャワーを浴びることにした。
 浴室に入って、蛇口から出るお湯が適温であることを確認すると、竜児は、全身をお湯だけで軽く洗う。
 亜美を背負って銀座の街を右往左往したこともあって、肌は汗や脂で粘ついていた。
 それから、泰子とは別の自分専用のシャンプーを手に取り、それを濡れた髪に擦り付け、指で頭皮をマッサージ
するようにして泡立てた。
 低刺激性のシャンプーだが、目に入れば、やはりしみる。竜児は、目をつぶったまま、頭を洗い、シャワーのお湯で
濯いだ。更に、もう一回、シャンプーをする。
 先ほどと同様に目をつぶって、頭皮をマッサージするように洗っていた時、脱衣所のドアを開ける音が聞こえてきた。
次いで、衣擦れの音が聞こえてくる。
 『来たな…』と竜児は身を強張らせ、頭を洗う手の動きを止めた。しかし、今更どうしようもないと腹を括り、再び、
頭を洗うことに集中することにした。
「高須くん…、入るよ…」
 何となく、遠慮がちな感じだな、と竜児は思った。だが、目をつぶったままで状況が分からない竜児の背中に、
弾力があって、生暖かい肉塊が押し付けられた。
「か、川嶋ぁ! いきなり何しやがる」
 耳元に亜美の吐息がかかる。その亜美は、例の淡い笑みを浮かべているのだろう。吐息に混じって、うふふ…、
という鈴を転がすような亜美の声が竜児の耳朶をくすぐる。
「何って…、失礼ねぇ、可愛くて気立てのいい亜美ちゃんが、フィアンセである高須くんの背中を流してあげようって
いうんじゃない。ちょっとは、感謝しなさいよ」
「気立てがいいだとぉ?」
 可愛いのは認めるが、嫉妬深くて、したたかで、性悪なのを気立てがいいとは、到底呼べまい。
 そうした気持ちが竜児の語尾をつり上げた口調には露骨に現れていたのだろう。それにむかついた亜美は、竜児
の脇腹に、思いっきり爪を立てた。
「い、いててって! 分かった、分かった、川嶋は可愛くて気立てがいい! こ、これで、いいだろ?」
「そうよ、分かればよろしい」
 そう言いながら、亜美は、両の乳房を竜児の背中に更に強く押し付け、上下左右へ不規則に動かして、擦り付けた。
「うわっ! 川嶋、こ、これはヤバいって」
 既に固く勃起した亜美の乳首が、竜児の劣情を刺激し、股間の一物が鎌首をもたげてくる。
「どうよ? 気持ちいいでしょ?」
 更に、亜美は竜児の脇の下から両手を前に差し出し、その手で竜児の胸板を撫で回した。
その手は、いきり立っている竜児のペニスを目指して、そろそろと下降していく。
 まずい、完全に亜美のペースだ、何とかこの状況を打開しなくては…、そう思って竜児は声を張り上げた。
「か、川嶋、そんなに密着するな! こ、こんな状態じゃ、あ、頭だって満足に洗えねぇだろ?!」
 その竜児への抗議なのか、愛撫の一環なのか、いきなり竜児の耳朶に亜美の吐息が吹き込まれた。
先ほどのミルクの匂いが混じった甘い吐息が、そこはかとなく竜児を切なくさせる。
「そっかぁ、じゃぁ、あたしがあんたの頭を洗ってあげるよ。あたしって、メイクやってることもあって、意外とシャンプー
上手いんだよ」
「お、おぅ…」
 たしなめるつもりだったのだが、却って事態をややこしくさせたようだ。
「ほらぁ、あんたは、自分の頭から手ぇ離してぇ。こっから先は、メイクが得意な亜美ちゃん様の仕事なんだからさぁ」
 そう言って、なおも頭部にあった竜児の手を強引に抜き取り、白磁のような指先で竜児の頭皮を、下から上へ、
生え際からつむじにかけて、しごくように動かした。
「どう? いい感じでしょ?」
「お、おぅ…。なんか、頭がすっとするような感じだよ」
 毛穴がぎゅっと圧迫され、中に溜まった皮脂が押し出されるような気がした。たしかに、本人が『上手』と主張する
だけのことはあるようだ。
 亜美は、ひとしきり竜児の頭皮を下から上へしごくようにマッサージした後、適温を確認したシャワーのお湯で、
洗い流した。
「リンスはどうするの?」
 竜児は、目をつぶったまま首を左右に振った。
「今まで特に必要性は感じていなかったから、いいよ…」
 亜美の機嫌が悪くなるかな? とも思ったが、亜美は、「そっかぁ、そんなら止めとく…」と言うだけだった。
 その亜美が、竜児の肩越しに、目をいくぶん細めたお馴染みの性悪笑顔で竜児の顔を覗き込んでいる。
「な、何だ、川嶋、人の顔なんか覗き込んで…」
「なんだ、はないでしょ? こっからがメインイベントなんだよ。もう、ここは、高須家の浴室じゃなくて、
『ソープランド亜美』なんだからさぁ」
 そう言うなり、うふふ…、と妖艶に笑うのだ。
「ソ、ソープランドって何なんだよ?!」
「あらぁ、全裸の男女が風呂場で絡み合うんですものぉ、こういう時の萌えるシチュエーションは、やっぱソープなんじゃ
なぁい?」
「知らねぇよ、そんなこと!」
 亜美以外の女を抱いたことがない竜児はソープランドがどんなところなのかは知らない。それは、亜美だってそうだ
ろう。しかし、ませてる亜美のことだ、ネットや雑誌とかで、ある程度ことは知っていてもおかしくはない。
 そういえば、北村も、狩野すみれに振られた後、しばらくは「ソープへ行け!」を連呼していた。
 だが、『あれはもしかしたら、北村は…、いやまさか…』、という余計なことを考えていたのがいけなかった。
「ちゃんと亜美ちゃんがリードしてやっから、心配すんなって!」
 いつの間にか、亜美が竜児のペニスを白魚のような指で掴み、亀頭の先端に軽く爪を立てていた。
「か、川嶋ぁ、ちょ、ちょっと待て、いきなり爪を立てるのは反則だぁ!」
 敏感な部分に軽く食い込んだ亜美の爪。しかし、その、痛む寸前のギリギリの違和感が、電撃のような快感に変換
されていく。
「反則も何も、あんた、本当は気持ちいいんでしょ? 嘘言ってもダメだからね。だって、あんたのおちんちんが、
爪立てた途端に、固くなってるんだからさぁ」
 言いながら、亜美は、竜児の耳朶から、首筋を啜り、ピンク色の舌先で、舐め回した。竜児の背中に、ゾクッとする
ような刺激が走り抜ける。更に、その背中には、乳首が固く尖った亜美の乳房が擦り付けられて…。
「うぉ! ダメだ、川嶋ぁ」
「ダメって、何がダメなのさ。このナイスバディな亜美ちゃんがダメだってことぉ? これは、もう、お仕置きね」
 亜美は、右手で竜児の亀頭から棹を往復させるようにしごき、左手で陰嚢を揉みほぐした。特に、竜児が、勃起した
時に陰嚢を揉まれるのが堪えることを、亜美は、不完全とはいえ竜児と結ばれた初夜で把握していた。
「う、うわぁ! か、川嶋ぁ! ヤバい、ヤバすぎる!!」
「ヤバいって、どういう意味なのぉ? もっと、素直に自分を表現しなさいよ。本当は気持ちいいんでしょ? それに、
高須くんって、何げにずるくない? 亜美ちゃんに奉仕させて、自分だけ気持ちよくなってるなんてぇ…。そろそろ亜美
ちゃんも高須くんと一緒に気持ちよくなりたいんですけどぉ」
 そう言いながら、亜美は、竜児の手をとって、それを自身の尻から、陰部に触れさせた。
 竜児の指先に、じっとりとした粘液と、熱を帯びて震えている陰裂が感じられた。
「か、川嶋、お前も準備オーケイってわけか…」
「うん…。もう、亜美ちゃんのあそこは、ぐちょ、ぐちょ…」
 竜児は、指先を更に伸ばして勃起したクリトリスに触れ、それから粘液を分泌し続ける膣口に指を当てた。
「あ、ゆ、指、き、気持ちいいよぉ!」
 そのまま、竜児は、亜美の膣に人差し指と中指を差し込んだ。処女膜らしい襞で引っかかるような感じがあったが、
ぬるりとした感触が卓越し、さしたる抵抗感もなく、竜児の指は亜美の胎内に飲み込まれた。
「川嶋、中は、どろどろだぞ…」
 亜美の胎内は、挿入した竜児の指をしゃぶり尽くすように、肉襞が熱く蠢いていた。
「高須くんの指が、亜美ちゃんのお腹に入ってるぅ。あ、あそこが、じんじんするよぉ」
「川嶋、痛くないようなら、このまま指を動かすぞ」
「う、うん、痛くないから、う、動かしていいよぉ〜」
 竜児は、肩越しに、亜美の顔を見た。
 瞑目し、涙と涎を垂らした姿は、亜美が快楽の虜になっているとき特有の表情だった。
「うわ、川嶋、お前、又、爪を立てたな!」
 亀頭の先端に走った、苦痛寸前の激烈な快感に、竜児は身を強張らせた。快楽に溺れていても、そこはしたたかな
亜美である。竜児の亀頭、それも尿道口に爪を立てたのだ。
 更には、陰嚢をいっそう強く揉みほぐし、亀頭の粘膜をぐりぐりと指先でしごいた。
「ど、どう? あ、あんただって気持ちいいでしょ?」
「お、おぅ」
 それについては竜児も異論はない。愛撫と苛虐との間を行き来するような。亜美の絶妙な手つきに翻弄されている
のだから。だが…、
「か、川嶋、それはそうと、お前はこの風呂場で何をしたいんだ? こ、このままだと、で、出ちまう…。
それでいいのか?」
 その竜児の言葉に、亜美は、はたと手を止めた。だが、それも束の間で、再び、竜児への過激な愛撫を再開した。
「うわぁ、ヤバい、本当に出ちまう! お、お前はそれでいいのか? 俺だって、生身の人間だ。
そう、何回も射精できねぇ」
 その畳み掛けるような竜児の一言で、亜美の手が止まった。
 亜美は、竜児の背中にもたれたまま、はぁ、はぁ…、と切なげに息を切らしている。
「そ、そうね…。あたしも、あんたの指遣いで、い、いきそう…。でも、前戯だけで気持ちよくなっちゃったら、その後の
本番で体力が保たないわね…」
 竜児も、亜美の陰部をいじっていた指の動きを止めた。
「今夜こそ、なんだな?」
「う、うん…。こ、今夜こそ、あたしは高須くんと完全に結ばれたい…。こ、今夜だったら平気。
あたし、き、きっと高須くんを受け止めることができる。そ、そんな気がする…」
 竜児は、「そうか…」とだけ呟くように言って、亜美の膣から指を引き抜いた。来るべきものが来たのだ。
「ぬぁっ!」
 指が引き抜かれた瞬間の刺激で、亜美は悶絶し、ぐったりと竜児の背中にもたれかかった。
「か、川嶋、大丈夫か?」
 その亜美は、竜児の背中に抱き付いたまま、その首筋に頬ずりしている。
「か、軽くだけど、い、いっちゃったよぉ…」
 あまりにもあっけないので、何となく嘘臭い。だが、亜美の呼吸はいっそう荒々しく、竜児の首筋には亜美の涙か、
涎のようなものが滴っていた。
「なら、さっさと身体を洗って、ここから出た方がいいだろう。『ソープランド亜美』と洒落込むには、この風呂場は
ちょっと狭すぎる」
 竜児のコメントに亜美は頷きかけたが、すぐに首を左右に振った。
「亜美ちゃんばっか、いっちゃって、あんたは未だ射精していないじゃない! このまま、一回いっちゃって体力が
消耗した亜美ちゃんを、あんたは、いいように弄ぶんでしょ? それって、卑怯よ、ずるいわよぉ!」
「卑怯、ずるいって?! な、何言ってんだお前は…」
 亜美は、竜児の背中にもたれて、呼吸を整えながら言い直した。
「じゃぁ、こうしましょう。あたしだけ気持ちよくなって、高須くんは、おちんちんを固くしたまま、射精寸前の状態で、
かわいそうです。だから、献身的なフィアンセの亜美ちゃんが、おちんちんを啜ってあげて、高須くんを楽にしてあげ
ましょう、ってのはどう?」
「お、おい! また、フェラすんのかよ?」
 呼吸が落ち着いた亜美が、竜児に擦り寄りながら、妖艶に笑った。
「そうよ、あたしは高須くんのおちんちんをしゃぶりたい。高須くんの精液を飲み干したい。これって、もう、理屈じゃな
いの、女としての、雌としての本能なんだわ…」
「お前…、だ、大胆な奴だな…」
 亜美は、竜児の背中から身を離した。
「女はねぇ、本当に好きな人の前では何でもできるのよ。だから、こっち向いてよ…」
 入浴用の椅子に腰かけたまま、竜児は亜美に応じた。
 北村とも約束したのだ。亜美が望む通りのことをしてやらなければならない。
「きゃっ! すっごくおっきい」
 亜美が歓声のような声を上げている。明るいところで、勃起した竜児のペニスを見るのはこれが初めてのはずだ。
改めて、その大きさや迫力に感じ入っている。
 一方の竜児も、亜美の裸身に見入っていた。ミルク色の肌は、先ほどの絶頂らしい余韻からか、ほのかな桜色に
染まり、量感がありながら無様に垂れ下がっていない美乳と、その先端で大きく膨らんでいるピンクに微かな褐色を
帯びた乳首と乳輪が艶かしい。
「川嶋、本当に綺麗だ。毎度、これしか言えねぇが、実際そうだとしか言いようがねぇ…」
「う、うん…、ありがとう…。で、でも、高須くんの身体だって、筋肉質で引き締まっていて、綺麗だよ」
「色々と身体を動かしているからな。それが、一種の筋トレになってんだろ」
「そうね…。あたしも、あんたを見習って、家事を覚えなきゃ…。あたしは、あんたの女房になる女なんだからさぁ」
 そうして、亜美は、身を屈めて、バラ色の口唇を竜児の亀頭にあてがった。そのまま、すっぽりと竜児の亀頭を飲み
込み、軽く歯を当てながら、舌全体を使って、敏感な粘膜の隅々までを舐め回した。
「きもひ、ひい?」
「ああ、この前と同じように気持ちいい…。しかし、川嶋、こ、こんなテクどこで覚えたんだよ?」
 その問いには、ちょっと答えられそうもない。何せ、インターネットのエロ動画を見て、それを真似ているのだ。
この前、竜児がエロ動画をパソコンに溜め込んでいることを非難した手前、言えたもんじゃない。
「おんなふぁねぇ、愛するひふぉに、尽くふといふ、きもひだけで、こんふぁことが、できふんふぁよ」
 フェラしながら、口をもごもごさせて適当に言い繕ったが、半分は本当だ。竜児を愛するからこそ、気持ちを込めて
フェラもできるのだから。
 亜美は、更に、陰嚢も揉みほぐす。
「うわぁ、川嶋、そ、それ、き、効くぜ…」
 竜児は、痛む寸前のギリギリの刺激が気持ちいいようだ。マゾかな? こいつは…、と亜美は思ったが、
それは自分にも当てはまることに思い至り、腹の中で苦笑した。
「そろそろ、ふぁな? 亜美ちゃんふぉ、おくひにだひちゃってよふぉ」
 竜児のペニスを口いっぱいに頬張りながら、亜美は、頭を前後に動かして、竜児の射精を促した。先端から吹き出て
くる苦い汁が顕著になった。心なしか、竜児の亀頭がどくどくと震えているようだ。その亀頭は、今までになく大きく
固く熱くなっている。
「か、川嶋、ヤバい! で、出る、出そうだぁ!」
 その瞬間、亜美の口中に竜児の精液が噴射された。喉の奥を直撃するほどの勢いに、前回同様にむせ返りそうに
なったが、辛うじて持ち堪え、吐き出された白い粘液を、さも美味そうに咀嚼した。
 そして、竜児の亀頭をすっぽりと咥え、舌先で粘膜の隅々までを舐め回し、仕上げのつもりで、その先端を強く吸った。
「くぅ〜〜〜〜っ!」
 竜児が、苦悶にも似た、眉をひそめ、歯を食いしばる表情を浮かべている。
 だが、その表情は、竜児が極限的な快楽に襲われている瞬間であることを、亜美は知っている。
「ど、どう? 気持ちよかった?」
 口唇から垂れてきた精液を手の甲で受けて啜りながら、竜児の反応を窺った。
 その竜児は、快楽にあてられ、首をのけぞらせて、苦しそうに呼吸している。
「お、おぅ…、こ、この前以上に、ものすごかった…。ここまでされちまうと、もう、オナニーなんてとてもじゃねぇけど、
やる気がしねぇ…」
 亜美は微笑した。そう思ってもらえるなら、フェラのし甲斐があるというものだ。オナニーをする気が起きないという
ことは、もう、エロ動画にうつつを抜かすようなことはない、ということなのだろう。それに、これは未だ序の口なのだ。
「フェラぐらい、あんたが望むなら、いつだってしてあげっからさぁ。今度は、フェラなんかよりも、もっと、もっと、気持ち
いいことをするんだよ。そこんとこを忘れないで欲しいわね」
「お、おぅ、そ、そうなのか…」
 ちょっと間抜けな竜児の応答に、苦笑とも微笑とも判じがたい笑みで応ずると、亜美は、ボディシャンプーを
スポンジで身体に擦り付けて泡立てた。その泡だらけの状態で、竜児に抱き付く。
「川嶋、俺は俺で自分の身体を洗うよ」
「だぁ〜め! これも、本番前の前戯の一つなんだから。本当は、あんたが床に寝て、その上を泡だらけになった
あたしが覆い被さる『泡踊り』とかってのをやりたいけど、ここは狭いからね。
せめて雰囲気だけでも『ソープランド亜美』にしたいってことよ」
「て、言ってもよぉ…」
 竜児の胸板に、亜美の乳房が当たっている。その先端の乳首は、再び勢いを取り戻し、その固さが亜美の興奮
ぶりを如実に示していた。
 その亜美の髪から、切ないような体臭が匂ってくる。
「なぁ、川嶋、お前、髪の毛洗わなくていいのかよ?」
 その一言に亜美は、はっとして、竜児の目を見た。
「そうね、今夜は、本当の意味であたしたちは結ばれるんですもの。身を清めなきゃいけないわね…」
 そう言って、手近なところにあった、竜児のシャンプーを手に取った。
「あたしは、高須くんの身体に抱き付いて洗うから、あんたはあたしの髪を洗ってちょうだい。
さっき、あたしが、あんたにしてあげたように、あたしの頭をマッサージしながら、洗ってね」
「だ、抱き合ったままで、お前の髪を洗うのか?!」
「そうよ、このままだとやりにくいけど、立った状態なら、それほど無理な体勢じゃないわよぉ」
 事も無げに言って、亜美は立ち上がった。その反動で、形の良い乳房がぶるんと震える。
「しょうがねぇなぁ…」
 観念して、竜児も立ち上がって、亜美と向き合った。
 竜児の目線から一段低いところに亜美の端正な面立ちが覗いている。その亜美の髪をシャワーのお湯で湿らせた。
「シャンプーはこれでいいのか?」
「うん、高須くんと同じシャンプーでいいよ。これって、低刺激性じゃない。デリケートな亜美ちゃんにはぴったりだわ」
 『デリケート』の文言で竜児は苦笑したが、亜美は一瞬、不満げに頬を膨らませただけだった。
 その亜美の髪にシャンプーを塗り、泡立てる。次いで、先ほど亜美が竜児にしたように、生え際からつむじにかけて、
しごくようにマッサージした。
「ああっ! すごく上手じゃない。も、もう、あたしと同じくらい…。あ、あんたって本当に器用なのね」
 その亜美も、泡まみれの身体を竜児の胸板に押し付け、膝を屈伸させて、上下運動をする。
「か、川嶋、や、やり過ぎだって!」
「あは、でも、気持ちいいんでしょ? 亜美ちゃんだって、気持ちいいしぃ…。それに何より、高須くんのおちんちんが
亜美ちゃんのお腹に当たってるぅ〜」
 射精して萎えていた竜児のペニスが、亜美との抱擁で再びいきり立とうとしていた。
 亜美の下腹部は柔らかく、弾力に富んでいて、それが竜児のペニスを滑らかに磨り上げている。
このまま亜美に抱き付かれたままだと、また射精してしまうだろう。
「か、川嶋ぁ、ちょ、ちょっとピッチが速すぎるぞ。こ、このまんまじゃ、お、俺、もう一回出しちまいそうだ」
 亜美は、目を細めて、笑っている。
「いいじゃない、本能の赴くままに出せばいいのよ」
「おい、おい、ここで出したら、この後に控えている本番で役に立たなくなっちまう。それでもいいのか?」
 亜美は、ふふんと、鼻先であしらった。
「そんときは、そんときだってぇ! なんなら、またフェラしてやって、あんたのおちんちんを元気にしてやっからさぁ」
 うへぇ、と竜児は絶句した。そう何度も射精したら、フェラされても勃たなくなるかも知れない。
 そうなったら、亜美のことだ、何をするか分かったもんじゃない。
「か、川嶋、とにかく、さっさと洗うからな」
 竜児は亜美のシャンプーを手早く切り上げることにした。そうすれば、無駄に射精するということを回避できる。
 頭皮を洗ったら、毛先まで、指先で梳くように撫で下ろし、シャワーで濯ぐ。そのシャワーで、竜児と亜美の身体に
着いている泡も洗い流された。
「「もう一回」」
 竜児はシャンプーを亜美の髪に擦り付けて泡立て、亜美はボディシャンプーを手に取り、それをスポンジで自身の
身体に塗り付けて泡立てた。
 そして、竜児は先ほどと同様に亜美の頭皮をしごくようにマッサージし、長い髪を梳くようにして洗った。
 亜美もまた、泡だらけの身体を竜児の身体に擦り付け、背中に回した両手も使って、竜児の身体を泡で撫で回した。
 竜児のペニスが亜美の下腹部に翻弄されているのも先刻同様である。
「な、流すぞ…」
 ズキズキと疼くほどに勃起したペニスを気遣いながら、竜児は、亜美の髪を濯いだ。そのまま、亜美の背後に回り
込み、リンスを髪に塗り付ける。
「あ、あたしの後ろを取るなんて、卑怯じゃない!」
 亜美の非難は無視して、竜児は、亜美の髪にリンスを馴染ませ、シャワーで濯いだ。これで、ゲームセット。
亜美には翻弄され続けたが、二度目の射精は、何とか阻止できたようだ。
 最後に、亜美の身体と自分の身体をシャワーで流して、『ソープランド亜美』の入浴の部は終了した。
「先に出るね。でも、そのおちんちん、さっきよりも、おっきくなってるぅ〜」
 嬉しそうにそう言うと、その固く勃起した亀頭を、指先で弾いた。
「い、いてえな…」
「あは、いいじゃなぁい。本当は、あんただって、刺激的な方が気持ちいいんでしょ?」
「んなことあるかぁ!」
 亜美は、「あはは、怒った、怒ったぁ〜」と、囃し立てるようにして、浴室から脱衣所へ向かった。
 その脱衣所では、亜美が髪の水分をタオルで丹念に拭い取り、バスタオルを身体に巻き付けていることが、浴室の
竜児も察せられた。
「じゃぁ、あんたの部屋で待ってるから…」
 亜美はそう言い残して、脱衣所から出て行った。
 入れ替わりに竜児が脱衣所で、髪と身体を拭き上げる。髪の長い亜美と違って、短髪で、それも男の竜児は、手間
らしい手間はほとんどかからない。手早く済ませると、腰にバスタオルを巻いて、自分の部屋に向かった。
「待ち遠しかったわよ…」
 まばゆい蛍光灯の下、バスタオルを巻いた亜美が、畳の上に横座りしていた。肩には濡れた髪を受けるための
タオルがあてがわれている。そして、亜美は、手にしたタオルで、丁寧に、艶やかな黒髪を撫でるようにして、
その水分を拭い去ろうとしていた。
「髪が濡れた川嶋も、いい感じだな」
 その言葉が嬉しかったのか、亜美は口元をほころばせて、「ありがとう…」と囁いた。
 竜児は、亜美の傍らに座る。
「ねぇ、キスしてよ…」
 言うが早いか、亜美はバラ色の口唇を竜児の薄い唇に密着させ、その舌を竜児の口中にねじ込んでくる。竜児も、
自身の舌を亜美の口中に差し込んだ。
 舌と舌、粘膜と粘膜が絡み合い、竜児も亜美も陶然となる。ひとしきり、互いに貪りあった後、二人は、唇をゆっくり
と引き離した。
「き、来て…」
 横座りしたまま、亜美は、身体に巻いているバスタオルの前をはだけた。
 竜児にとって、もはや見慣れた、それでいて見る度に美しいと思わざるを得ない、亜美の肢体が視野に飛び込んで
きた。その中で、艶やかに勃起した乳首が、その存在を主張している。
「川嶋…」
 竜児は、吸い寄せられるように、その乳首に口唇を近づけた。
 その瞬間、亜美が柳眉を心持ち逆立て、身をよじるようにして、近寄ってくる竜児をちょっとだけ避けた。
「お、おい、どうしたんだよ…」
「ねぇ、もう、互いに名字で呼び合うのは終わりにしましょうよ。あたしは高須竜児の女房になる女。
だったら、あたしは亜美とあんたに呼ばれるべきなんだわ。そして…」
「俺は、お前に竜児と呼ばれるべきなんだな?」
 亜美は、心持ち頬を染めて頷いた。
「分かった、これからは、亜美と呼ばせてもらうぜ。じゃあ、亜美、お前の身体を俺に託してくれ」
「う、うん、竜児、あんたの好きにしていいんだよ…。あたしは、もう、あんたの女房も同然なんだ。あたしの身体は、
あんたのものなんだよ…」
 そう言って、亜美は後ろ手に突いて、裸身を竜児の眼前にさらけ出した。
 濡れた髪が揺れ、弾力のある乳房がぶるぶると震えている。その乳房の先端を竜児は啜った。
「あはぁ〜」
 竜児に乳首を吸われるのは、これで何度目だろうか? と、快感に身悶えながら亜美はとりとめもないことを思って
いた。しかし、竜児が、乳首を更に強く啜り、軽く噛んだ瞬間、頭の中が真っ白になるような快楽で全てがどうでもよく
なってしまった。
 その竜児は、乳首と、乳輪と、乳房全体、更には脇の下までを舐め回すようにくまなく口で愛撫しながら、指を亜美
の下腹部から、陰裂へと伸ばしている。
「あ、そ、そこぉ〜」
 竜児の繊細な指先が、固く勃起したクリトリスを捉え、その薄皮を剥ぎ取った。その瞬間、びりっとした電撃にも似た
激しい快感に、亜美は背筋を反らされる。
 竜児の指は、亜美の秘所の更なる奥を目指して彷徨っている。その指遣いは、前回の時よりも格段に巧みで、
亜美を喜ばせるツボを完全に把握しているかのようだった。
「うっぁ!」
 竜児の指が、クリトリスから尿道口を撫で、甘美な粘液を分泌し続ける膣口に行き当たった。人差し指と中指で
膣口付近をまさぐられ、そのまま、ぶすりと、二本の指が亜美の膣に侵入してきた。
「ううう…」
「ど、どうだ? 亜美、痛くないか?」
「う、うん、へ、平気、そ、それどころか、き、気持ちいいよぉ〜。でもぉ〜」
「でも? って…」
 この前の膣痙攣が嘘のように、亜美の膣は柔らかで、滑らかだ。何といっても、竜児の指が気持ちいい。
このままの状態で、竜児のなすがままに委ねていたら、じきにクライマックスを迎えてしまうだろう。
「こ、このまま竜児の指だけでいきたくないよぉ〜。亜美ちゃん、竜児のおちんちんが欲しいよぉ〜」
 涙目でそう竜児に訴えた。
 竜児は、「分かった…」とだけ呟くと、亜美のまぶたにキスをして、涙を嘗め取ると、亜美の膣から指を引き抜いた。
その瞬間、亜美は、ぶるぶると身を震わせたが、持ち堪えた。
「亜美、ゆっくりと横になってくれ」
 竜児は腰に巻いていたバスタオルと、亜美が巻いていたバスタオルを畳の上に敷き、その上に亜美を横たえた。
 亜美も、バスタオルの上で、股を大きく開き、更には、大陰唇を指先で広げた。膣口が露になり、その膣口からは、
とろとろと愛液が滴っている。
「き、来て…」
 その言葉に竜児は頷いて、大きく膨れ上がった亀頭を亜美の秘所に擦り付けた。
「あ、じ、焦らさないでよぉ〜」
 亜美の非難めいた物言いにもかかわらず、竜児は、念のため、もう一度、亜美の膣に指を入れてかき混ぜてみた。
 亜美の膣は、柔らかく、瑞々しい。これなら、膣痙攣の心配はなさそうだ。
「ばかぁ! 何度も言わせないでよぉ! 指なんかいいからぁ、は、早く、そ、そのおちんちんを亜美ちゃんに頂戴よぉ〜」
 竜児の気遣いを、知ってか知らずか、亜美が腰を揺らしておねだりしている。
 その姿に、竜児は苦笑しそうになったが、これから行うことを思って、気を引き締めた。
 亜美との初めての交合。亜美にとっては、一生に一度、少女から女への分岐点だ。そのためにも、亜美の苦痛を
できるだけ和らげ、可能な限りの快感が得られるようにしてやりたいと竜児は思った。
 もう一度、亀頭を亜美の秘所に擦り付ける。そして、亜美の乳首を思いっきり吸ってやった。
「あぅ! お、おっぱいもいいけどぉ、は、早くおちんちんが欲しいよぉ〜」
「行くよ…」
 乳首から入力された快感に酔いしれている隙に、竜児は、怒張したペニスを一気に押し込んだ。最初こそ、処女膜
らしい弾力ある抵抗を受けたが、それは意外にあっけなく突破でき、そのまま、ずるん! という勢いで、亜美の胎内
の奥深く、その子宮を突き上げるようにして、竜児のペニスは収まった。
「う、うわああああああああ〜〜っ!」
 秘所を貫かれた亜美が髪を振り乱して悶絶している。
「だ、大丈夫か! かわ…、いや、亜美」
 思わず名字で呼びそうになったのを、何とか名前で呼ぶようにして、竜児は亜美を気遣った。
 その亜美は、涙目で、竜児に頷いている。
「う、うん…。い、痛いことは痛いけどぉ、この前の膣痙攣に比べたら、全然平気…。なんか、痛いっていうよりも、
あそこがじんじんして、感覚が麻痺しちゃってるみたいな感じなんだよぉ」
 そう言って、亜美は、恐る恐る、竜児との結合部に手を伸ばし、自身の秘所をまさぐった。
 そして、その手を竜児にも見えるように差し出した。
「お、おかしいわ、血が出てないみたい…。あ、あたし、あんたに処女あげるつもりだったのに…。ど、どうしてぇ〜」
 亜美は、悔しそうに涙ぐんでいた。竜児は、その亜美の涙を指先でそっと拭い取ってやる。
「泰子から教えて貰ったんだけどよ、処女でも出血しない場合が結構あるらしい。泰子の初めての時もそうだった
らしい。こういう時、処女膜は破れるんじゃなくて、大きく伸びるんだとさ。そして、その方が、痛みが少ないし、
セックスしていて、すぐに気持ちよくなるっていうことらしいぜ」
「う、うん…。そうなの?」
 竜児は、不安そうな亜美を慰めるつもりで、穏やかな笑顔を心がけて頷いた。
 亜美もまた、竜児の頷きを見て、ほっとしたように瞑目する。
 竜児は、亜美の身体を労るつもりで、挿入したまま、亜美の様子を窺うことにした。
「う、動いても、い、いいよぉ…」
 挿入して暫く経ってから、亜美が、深く息を吐き出すようにして言った。
 同時に、ペニスを挿入された違和感に耐えるべく、強張っていた亜美の身体が、いくぶんは弛緩したようだ。
「お、おぅ、で、でもゆっくりだからな…」
「う、うん…、や、優しくしてね…」
 竜児は、挿入していたペニスを、膣から亀頭の根元が見えるまでそろそろと引き、そこからまた、ゆっくりと胎内に
押し込んでいった。
「ど、どうだ? 亜美…」
 亜美は、「ふぇ…、ふぇ…」というしゃっくりのような声を発し、涙と涎と洟を垂れ流していた。
「き、気持ちいいよぉ〜。もう、痛くないし、な、何よりも、エッチって、こ、こんなに気持ちよかったんだぁ…。
き、気持ちよ過ぎて、あ、亜美ちゃん、お、おかしくなっちゃうよぉ〜」
「お、俺もだ…。亜美の中って、暖かくて、ぬるぬるで、きつくて、俺のペニスを、締め付けて、絞り上げているみたい
だぜ…」
「あ、亜美ちゃんの中って、き、気持ちいい?」
「あ、ああ。さ、最高だ。本当に気持ちがいい。こ、こんなに気持ちがいいのは、う、生まれて初めてだよ」
「う、嬉しいよぉ…」
 亜美がまた涙ぐんでいる。今度の涙は、悲嘆でも落胆でもない。竜児と一つになり、その竜児に快楽をもって奉仕
できているという歓喜の涙なのだろう。
 同時に、亜美の膣の締め付けが一段と強くなった。その圧迫感に耐えながら、竜児は、ペニスを引いては突き、
突いては引く、を繰り返した。
「あ、亜美、す、すごい締め付けだ…。ヤバい、このままじゃ、出しちまう…」
 亜美は、涙を流しながら、呆けたように微笑んでいた。
「あ、あんたが好きな時に、好きなだけ出していいんだよ…。あれからも、ちゃんとピルは飲んでっから、安心して、
あ、亜美ちゃんの中にぶちまけていいんだよぉ〜」
「お、おぅ…。そ、そうは言っても、ほ、本当に、げ、限界が近そうだ…」
「あ、あたしもだよぉ〜。は、初めてなのにぃ、な、なんでこんなに、き、気持ちいいんだろ…。あ、あたしって、やっぱ、
い、淫乱雌チワワ、な、なのかなぁ」
「あ、亜美がそうなら、お、俺だって、エ、エロ犬、だ、だろうさ…」
 亜美は、その表情をだらしなく弛緩させ、酸素を求めるように、涎を垂らしながら口をぱくぱくと開けている。
 その両目からは涙が溢れ、鼻腔からは洟が垂れ放題だ。
「い、犬、なんだね、あ、あたしたち、似た者同士なんだぁ。そ、そして、あたしたちは、い、今、い、犬みたいに、
ま、まぐわって、い、いるのね…」
「お、おぅ、そ、そうだとも。い、犬で、な、何が悪いってんだ。お、俺たちは、似合いの結びつきだ。こ、これは、誰にも、
も、文句は言わせねぇ」
「そ、そうよ、あ、あたしたちは、む、結ばれるために、う、生まれてきたんだわ…。こ、これは、だ、誰にも、邪魔させな
い! た、たとえ、ママ…、女優川嶋安奈であっても、ぜ、絶対に、じゃ、邪魔させないっ!」
 宣言するように、声高に叫ぶと、亜美は、「うっ!」と、息を詰まらせたように絶句し、白目を剥いて、全身を痙攣させ
た。同時に、亜美の膣の襞という襞が、くわえ込んでいる竜児のペニスを強く締め付け、しごくように脈動して、その
射精を促した。
「だ、ダメだ、で、出る! あ、亜美ぃ!!」
 堪えきれずに、竜児は、亜美の胎内に白い毒液をたっぷりと解き放った。亜美の胎内は、なおも妖しく蠢いて、竜児
のペニスから一滴残らず精液を搾り取ろうとしている。その苦痛と紙一重の強烈な快感に、竜児は酸欠にも似た
眩暈を覚えた。
「あ、亜美、だ、大丈夫か?」
 そう言う竜児も、視野がぼやけ、息が苦しい。
 竜児は、亜美とつながったまま、その身体の上に、倒れ込むように覆い被さった。
「あ、あうう…」
 亜美は、苦しい息の下、涙と涎と洟を垂れ流しながら、暫く痙攣し続けていたが、徐々に落ち着きを取り戻し、その
肢体を弛緩させた。
 それにつれて、竜児のペニスへの圧迫感が和らいでくる。
「気持ちよくて…、暖かくて…、初めてなのに、何で、こ、こんなに感じるんだろう…」
「俺たちは、未だつながったままだ。どうだ、亜美? 痛みは?」
 亜美は、紅潮し、涙でぐしょぐしょになった顔を左右に振った。
「あそこが、じ〜んと痺れたような感じが少しするけど、気持ちいいよ…。だって、亜美ちゃんのお腹の中に竜児の
おちんちんが入っているんだもん…」
「お、おぅ、じゃ、ぬ、抜くぞ…」
 竜児は、腰を引いて、ペニスを亜美の胎内から引き抜こうとした。しかし、亜美は、両脚を竜児の腰に絡ませて、
それを押し止めた。
「お、おい、亜美、どうしたんだよ」
 亜美は、はぁはぁ、と切なげに喘ぎながら、微笑した。
「あ、あんたのおちんちん、未だ、固いまんまじゃない…。本当は、物足りないんでしょ? だったら、あたしなんかに
は構わず、好きにしてよ。もう一度、う、うん…。何度でも、あたしの身体を貫いていいからさぁ…」
「物足りないなんてこたぁねぇよ。ただ…」
「ただ…?」
「お前の中が気持ちよすぎるんだ。それで、俺のペニスは固いまんまなのさ…。本当は、俺だって、もう、限界なんだ。
実際、さっきの射精では、眩暈がするほど気持ちよかった…」
「じゃ、じゃぁ、その気持ちいいことを、もう一回しよ! あたし、さっきの快感が味わえるなら、このまま死んじゃっても
構わない」
「お、おい、おい…。俺たちはには、これからがあるんじゃなかったのか? 死ぬなんて縁起でもねぇ」
「うふふ、そうね…。でも、あの絶頂の快楽は、本当に、この世とあの世の境界線みたいな感じだったわ。セックスって、
新たな命を生み出す営みだけど、それは死と背中合わせなのかもしれない…。生と死は本当に紙一重なんだわ…」
 苦しそうに喘ぎながらも、亜美は竜児の背中に両腕を回し、その筋肉質な身体を抱きしめた。
「ほ、本当にいいのか? 今のお前の様子じゃ、消耗しきっている感じなんだが…」
 亜美は、苦しそうな息の下、強がっているつもりなのか、笑っている。
「消耗してるわけがないじゃない…。あんたから生命の源である精液を注がれたんだからさぁ…」
「お、おぅ…」
「だから…。もう一回。あたしの中に、あんたの命を吹き込んでよ」
 言うや否や、亜美は、その腰を、ぐいっ、とばかりに突き上げた。
 ぬぽっ、という粘っこい音がして、竜児のペニスが一段と深く、亜美の胎内に飲み込まれる。
「あ、あああ…い、いいわぁ…。あ、あんたも、突いてよ。突いて、突いて、突きまくって、もう一回、亜美ちゃんを
気持ちよくさせてよぉ〜」
「じゃ、じゃぁ、亜美、突っ込むぞ」
 竜児も、いきり立った肉塊を、今まで以上に強く亜美の胎内に突き入れた。根元までは飲み込まれていなかった
竜児の極太ペニスが、ぐにゅっ! という音とともに完全に亜美の膣に収まり、その胎内を力強く押し上げた。
「あ、ああああ〜〜っ!! そ、そうよぉ! 突いて、思いっきり、突いて頂戴ぃ!!」
 膣口を中心に亜美の秘所が大きくひしゃげ、愛液と、竜児の精液が、どろり…と、零れ出てきた。
 竜児は、なおもペニスを強く突き入れて亜美を喘がせると、その極太ペニスを膣口から抜き出す寸前まで素早く引
き出し、再び、亜美の胎内へ力強く突き込んでいく。
「あ、あぅ、あ、あぅ…。し、子宮だけじゃなくってぇ、お、お腹の中全部が、か、かき混ぜられちゃうよぉ〜」
 そう言いながら、亜美は乳首を摘み、乳房を狂ったように揉みほぐしている。胸が弱いんだな、と竜児は思った。
「あ、亜美、ち、乳首、啜ってやるよ」
 腰を前後に往復させながら、屈み込んで亜美の乳房を啜るのは、なかなかにアクロバットめいていたが、ペースを
ちょっと落として何とかなった。
 右の乳首を甘噛みし、そのまま軽く引っ張ってやる。その刺激に、亜美はたまらず、再び、ぶるぶると全身を痙攣さ
せてきた。同時に、竜児のペニスをくわえ込んでいる膣壁が、一段ときつく締まってくる。
「うぁ、ああああ! あそこが、おっぱいが、お腹の中が、も、燃えるように、あ、熱いよぉ〜。いっちゃうぅ! 
亜美ちゃん、いっちゃうよぉ〜〜!!」
 亜美が髪を振り乱して悶絶している。二度目の限界を迎えようとしているのだろう。
「あ、亜美、し、締まるぅ…」
 その胎内が、これまで以上に、きつく竜児のペニスを締め上げている。
 そのあまりに強い締め付けは、竜児のペニスを押しつぶしそうなほどだった。
 その圧迫に抗しながら、竜児は、亜美の胎内を突いては引くを繰り返す。力を込めて、長いペニスを根元まで突き
込む度、亜美の華奢な身体が、「あぅ! あぅ!」という嗚咽のような声とともに、小刻みに跳ねるのだ。
「あ、亜美、こ、こっちの乳房も啜ってやるよ…」
 ひとしきり啜って噛んだ右の乳首に代えて、竜児は左の乳首にもむしゃぶりついた。
「あはっ、も、もう、な、何だか、あ、亜美ちゃん、わ、分かんなぁ〜いぃ」
 亜美が意味不明なことを叫びながら、髪を振り乱している。その目は虚ろで、目の前の居る竜児にも焦点が合って
いない。呼吸も苦しげで、あと、ちょっと、あと、一押しで、完全に限界に達するのだろう。
「お、俺も、も、もう、で、出そうだ…」
 竜児も呼吸が苦しくなって、啜っていた亜美の乳首を離した。
 亜美の膣は、滑らかに潤っていたが、その締め付けは強烈極まりない。その圧迫がもたらす快楽で、竜児は、
頭の芯が痺れるような感覚に襲われていた。
「あ、亜美、さ、最後の、し、仕上げだ…」
 その失神寸前の快楽にあらがい、更なる、いや未曾有の快楽を得るために、竜児はペニスを亜美の膣から抜く
寸前まで引き、それを、最後の力を振り絞って、突き込んだ。
 竜児のペニスは、疣のように、あるいは何かの吸盤のように突き出ている部分を直撃し、それを胎内の奥深くへ
と押し込んだ。
「あ、あああああっ! し、子宮に当たるぅ〜!!」
 疣のような突起は子宮口だったようだ。その子宮口ごと、亜美の子宮を、竜児の長いペニスが強引に突き上げた。
その一突きがとどめとなったのか、亜美は癲癇の発作のように四肢を激しく痙攣させている。
「うぉ! あ、亜美ぃ! し、締めすぎだぁ」
 その侵入物を握りつぶすが如くの圧迫に、竜児もたまらず射精した。竜児の極太ペニスは、まるで別個の生き物の
ように、どくどくと脈動しながら白い精液を吐き出し、亜美の膣も亜美とは別個の生き物のように、竜児のペニスを強
く締め付け、襞という襞が怪しく蠢いて、竜児から精液を一滴残らず絞り尽くそうとしていた。
「ふぅ…」
 亜美の膣の収縮が少し治まったのを見計らって、竜児は亜美の胎内からペニスをゆっくり引き抜いた。
 都合、三度の射精というハードワークを達成したそれは、竜児の精液と亜美の愛液のカクテルで、ぬらぬらと黒光
りしている。
 亜美の膣口からは、その白濁したカクテルが、とろとろと滴り落ちた。竜児は、それを、行為の寸前まで亜美が髪を
拭いていたタオルで拭ってやりながら、外傷がないかどうか確認してみた。
 タオルに血は付かなかった。やはり、亜美の処女膜は大きく伸びただけで破れなかったようだ。これなら、行為後も
陰部がひどく痛むようなことは、ないかも知れない。
 亜美の陰部からは粘液が止めどなく垂れてくるので、竜児は完全に拭き取るのを断念し、先ほどのタオルをそこに
あてがっておくことにした。何だが、おむつみたいだったが、こうでもしないと漏れ出てくる液を止めようがないのだか
ら致し方ない。
「気持ちよかったが、きつかった…」
 快楽の余韻が鎮まりつつある中、竜児は、全身に気だるい疲労感を覚えていた。亜美の胎内を突き上げるという
だけでも、かなりきつい運動であるし、何よりも三回も射精するということが堪えていた。
 セックスによる極限的な快楽は、死と紙一重の臨死体験のようなものだ、と亜美は言った。おそらくそうなのだろう。
新たな命を生み出す営みは、その代償として、それを行う者にも相応の負担を強いてくるのだ。
「亜美、大丈夫か?」
 その極限までの快楽にあてられた亜美は、失神したままだ。
 もし、夢を見ているのだとしたら、それはどんな夢だろうか、と竜児は思った。
 もう一枚のタオル、亜美が肩に載せていたもので、竜児は粘液で黒光りしている陰部を拭くと、そのタオルで陰部を
隠して、気を失ったままの亜美の隣に横たわった。
 涙と洟と涎にまみれてはいたが、その表情は穏やかで、何か幸せそうな淡い笑みを浮かべていた。竜児は、手近
にあったティッシュボックスからティッシュペーパーを何枚か引き出し、それで、亜美の顔をそっと拭ってやる。
「たか…、りゅ、竜児…」
 亜美がうっすらと双眸を開いて、隣に横たわる竜児を見た。
「よかった…、気がついたか」
「う、うん…」
 竜児のほっとした笑顔を見て、亜美は、また涙ぐんだ。その涙を、竜児は改めて拭いてやる。
「な、泣くなよ…」
「だ、だって…、う、嬉しいんだもん。念願かなって、あんたと一つになれた…。それも、前回の無惨な失敗を帳消しに
して余りあるほどの、もの凄く気持ちいい体験だった…。あ、あ、あたし、ほ、本当に、し、幸せだよぉ!」
 亜美は、竜児に抱きつき、そのまま泣き崩れた。
 竜児は、その亜美の頭を優しく撫でながら、見慣れたはずの自室の天井を見上げた。
 天井板の木目が、ロールシャッハテストの不規則な絵柄のようにも見えてくる。
 その畳敷きの木造借家の一室で、竜児と亜美は初めて本当に結ばれたのだ。
「なぁ、亜美…。前に俺が、『初体験は美しい思い出として語り合えるようなものにしたい』なんて言ったのを
憶えているか?」
「う、うん…、お、覚えているよぉ」
 亜美が涙で鼻を詰まらせながら、そう囁いた。
「この俺の部屋、一流ホテルでもなければ、川嶋家の別荘でもねぇ、質素で狭苦しいだけの場所だ。こんなところで
よかったんだろうか? 本当なら、亜美の別荘へでも行って、そこで初めて抱き合うべきだったんじゃねぇだろうか?」
 その一言に、亜美は、はっとして双眸を見開き、竜児を一瞬、睨み付けた。
「何言ってるのぉ! 永遠の愛を誓った竜児の部屋での処女喪失なんて、これ以上のものはないほど美しい思い出
じゃない。質素な部屋が何よ! いつもこざっぱりと片づいているこの部屋のどこがいけないって言うのよぉ!!」
「お、おぅ、おぅ、わ、分かった、そ、そんなに怒るなって…」
 竜児が、亜美の剣幕にたじたじなのを見て、亜美は、大きくため息をついた。
「あんたは、貧乏なのを心のどこかで恥じているのかも知れないけど、あたしはそんなもの全然構わない。
大切なのは、あんたという人間の中身なのよ。金や地位があっても、中身のない奴は本当にどうしようもないじゃない。
でも、あんたには中身がある。いつか、大きく花開く、もの凄いポテンシャルが秘められている。
あたしは、そんなあんたが大好きなのよぉ!」
 言い終えると、両目に再び涙が溢れてきた。竜児は、それを手にしたティッシュペーパーで丹念に拭ってやる。
「とにかく、何か着た方がいい…。夏とは言え、いつまでも素っ裸じゃ風邪を引いちまう」
 何か着るものをと、箪笥を開けた竜児の腕を亜美が牽制するように引っ張った。
「だったら、もうベッドに入りましょうよ。裸でも二人寄り添っていれば、あったかいわよ」
「お、おぃ、素っ裸のまま抱き合って寝るのか?!」
 亜美は、当然でしょ? とばかりに、柳眉をつり上げた。
「あたしたちは、もう、契りを交わしたのぉ! そのあたしたちの間に何の遠慮があるっていうのよ」
 言うや否や、亜美は竜児のベッドに潜り込み、そのタオルケットを持ち上げて竜児を誘った。
「あ、亜美、お前、大胆な奴だな…」
「大胆も何も、さっき、あれほどの激しい抱擁をしたばかりじゃない。その余韻を楽しむためにも、あたしたちは裸の
まま同じベッドで寝るべきなのよ。これが男と女の摂理ってもんなんだわ」
「摂理ねぇ…」
 亜美の機嫌を損ねると、後々まで祟るので、竜児は蛍光灯を消して、亜美の隣に横たわった。
 その竜児に、亜美が嬉しそうに抱きついてくる。
「このまま泊っていくんだな?」
「そう、だって、相思相愛のあたしたちが契りを交わした夜なんですもの。このまま帰るなんて無粋な真似はできない
じゃない」
「お、おぅ…。じゃぁ、アリバイ工作は万全なんだな?」
 亜美は、心持ち湿っていた表情を、ほころばせた。
「その点、抜かりはないってぇ! なんせ、あんたが先にシャワー浴びているうちに、完璧なアリバイ工作をしといた
からさぁ」
「ど、どんな工作なんだ?」
「うふふ、当社の営業ひ・み・つ。だからぁ、教えてあ〜げない」
 竜児は、苦笑した。どの道、大体の察しはついている。大方、麻耶か奈々子とでも口裏を合わせているに違いない。
 それに、そんな工作云々は、今日の二人にとって、些細なことでしかないのだ。
「まぁ、とにかくだ…。俺たちは一つになった…」
 亜美は、竜児の胸板に頬擦りしながら、頷いた。
「そうね、これからともに一生を歩んでいく、あたしたちの第一歩なんだわ…」
「だが、これから越えなきゃならないハードルがいくつもある。気を引き締めて頑張っていこうや」
「う、うん…。本当に、あたしたち頑張らないと…。だから、この夏休みは、あたしんちの別荘で合宿しましょうよ」
「合宿?」
「そう、合宿よ、合宿!」
 亜美が目を輝かせている。
 竜児は、高二の時にも、亜美から『夏中、別荘で一緒に過ごそう』と切り出された時のことを思い出していた。あの
時は唐突過ぎて、亜美の真意が分からなかったが、今ならば、それがはっきり理解できる。
 そして、その時に、何で、亜美の思いに気づかなかったのかという、自己の愚かさにも恥じ入るのだ。
「ねぇ、どうしたの? 急に黙り込んじゃってぇ…」
 亜美が眉をひそめて竜児の顔を覗き込んでいた。
「済まねぇ。ちょっと、昔を思い出していたのさ。お前と初めて出会った年の夏、俺は別荘へ誘われた。その時のこと
を思い出して、ちょっと懐かしくなってな…」
「なら、ノスタルジックな感傷に浸るためにも、合宿行きはオーケイってことでいいわね?」
「お、おぅ…。だが、三、四泊が精々だぞ。それ以上、この家を留守にしたら、大変なことになる」
 その一言に、亜美はむっとして、頬を膨らませた。
「竜児って、バカ? 三、四泊って、何なの? あの夏を思い出したなら、『夏中、一緒に過ごす』って言いなさいよ! 
あんたって、本当に鈍感! もう、いらいらするんだからぁ!!」
「怒るなよ…」
「べ、別に、怒ってなんかいないわよぉ!」
 その刺々しい物言いで、十分、怒っているって…、と言い掛けたが、止めにした。
 亜美は、精神的に未熟なのだ。同世代の女子の中ではかなり大人びているが、それでも、少女のような脆さや危う
さを引き摺っている。それは、今は未だ、少年と青年が同居している竜児とて同様だ。
「まぁ、泰子次第だな…。それでも家事が滞り、三度の飯もコンビニ弁当か、お好み焼きの売れ残り、掃除も洗濯も
蔑ろで、家の中は散らかり放題…。今から、その惨状が目に浮かぶけどな…」
 竜児は、あからさまに反対するよりも、事実を認識させることが肝要だということを、亜美との逢瀬で学んでいた。
 だが…、
「ほぉ〜、なら、泰子さんがオーケイなら、なんも問題ないじゃん」
 その竜児との逢瀬を重ねた亜美も、思ったより手強かった。
「お、おい…。そうは言ったが、俺が言いたかったことはだなぁ…」
 その後は、『家の中は散らかり放題…。今から、その惨状が目に浮かぶ、ってことなんだよ』と続けるつもりだったが、
「あんたねぇ…、泰子さん、つぅか、女ってもんを、内心では軽く見てるでしょ?」
 亜美に出端を挫かれた。
「そ、そんなこたぁねぇよ…」
「嘘ばっか! たしかに、あんたは家事万能で頭もいい。だからと言って、泰子さん、それにあたしが、家事とか一切
できないバカ女とかってみなすのは、傲慢もいいところだわ」
「お、お前、それは言い過ぎだって…」
 だが、亜美は、吠えまくるチワワのように引き下がらない。
「なら、こう言えばどうかしら? あんたが物心ついて家事万能になる前、誰のおかげで衣食住が何とかなって
いたの?」
「う…」
「答えなさいよ、誰のおかげなの?」
「そ、そりゃ、泰子だ…」
 亜美が、物覚えの悪い生徒に呆れる教師のように、目を細めて嘆息した。
「あんたは、幼児の頃に世話になっておきながら、泰子さんを内心では見下していたんだわ。たしかに、泰子さんは
あんたほど頭は良くないし、要領も悪い。でも、その泰子さんが居たからこそ、今のあんたがあるんじゃない」
「ま、まぁ、たしかにそうかも知れねぇ…」
「だったら、この家のことは泰子さんに任せても何の問題はないのよ。泰子さんが、あたしたちのことを許せば、
それだけでいい…。そうでしょ?」
「お、おぅ…」
 女との言い合いというものは、論理だけでは収拾がつかない。結局は、感情的になり切れない竜児が折れてジ・エンドなのだ。
 だが、亜美という女は一味違っていた。
「まぁ、そんなに心配すんなってぇ! 合宿が終わったら、あたしもこの家の掃除とか、溜まっているかも知れない
洗濯物とか、ちゃっちゃとやっつけるからさぁ。それに、合宿の期間中、一回か二回くらいは、大橋に戻ってきても
いいんだしぃ」
 そう言って、亜美は、笑いながら竜児の鼻の先を、人差し指で軽く突っついた。
 竜児は苦笑した。強引に攻めるだけでなく、相手である竜児のことも慮ってくれている。
 たしかに、亜美は、竜児にとって最高のパートナーだ。
「参ったな…。そういうことなら泰子次第ってことか…・」
「うふふ…、元々はあんたがそう言ったんだからね。だから、これで、この件は決定」
 亜美が微笑んでいる。高二の時の約束が果されようとしているのが本当に嬉しいのだろう。
 弁理士試験や後期試験のための勉強が名目だが、実際は、亜美を抱き、海で遊ぶ、という毎日になるかも
知れない。だが、ようやく結ばれた二人にとって、この夏くらいは、そうであってもいいような気がした。
「今、何時だろうな…」
 竜児は、ベッドの傍らに置いていた自分のバッグから携帯電話機を取り出し、フリップを開いた。
「意外だな…、時刻は未だ午前零時前だ」
 亜美との入浴、それと初めての交合。いずれも、ずいぶんと長く感じたが、実際には全部ひっくるめても、二時間も
経っていなかったらしい。
「そうね…。ものすごく楽しかったけど、それは束の間だったのね…。でも、時間にすれば短いけど、あたしたちに
とっては、違う次元への跳躍みたいなものだったわ…」
「そうだな…」
「あたしは、あんたに貫かれて、あんたの女になった…。それは、もう、取り返しのつかない事実なんだわ」
「分かっているよ…。そのためにも、俺は、お前を何よりも大事に思っている。それだけは信じてくれ」
「う、うん…。そ、それはあたしもだから…」
 亜美が鼻声で、竜児に縋り付いてきた。その竜児は、右手で亜美の頭を撫でながら、ちょっと、困惑したように眉を
ひそめて携帯電話機のディスプレイに見入っている。
「ねぇ、どうしたの? 携帯の画面ばっか見つめてさ」
 ディスプレイには、『明日の件で、至急連絡を乞う 北村』が表示されていた。
「なぁ、ちょっと北村に電話するから、ちょっと、部屋から出るぞ…」
 北村の要件は他でもない、春田の家でのバイトのことだろう。であれば、亜美に聞かれるわけにはいかなかった。
 しかし、亜美は、ベッドから出ようとする竜児の脇腹を軽くつねって牽制した。
「いてぇな…」
「祐作への電話だったら、あたしに対して何の遠慮もないじゃない」
「そ、そりゃあ、そうだけどよ…」
「でしょぉ? だったら、ここでかければいいじゃない。何か問題でもあるってぇの?」
「い、いや…、男同士でなけりゃ話しづらいこともあるんだよ、頼むから、その辺は察してくれ」
 だが、亜美は柳眉を逆立てて竜児を睨んでいる。
「あやしい…。あんた、祐作と何か企んでいるでしょ? 何、何なの?」
 女ってのは、どうしてこうも無駄に直感だけは鋭いんだろう、と、竜児は冷や汗を浮かべながら、たじたじとなった。
 実にまずい状況だが、ここは、亜美が傍らにいるまま、北村に電話するしかない。
 後は、機転が利くはずの北村のリアクションだけが頼りだ。
 竜児は、意を決して、北村の携帯の番号をリストから選択して、呼び出し、携帯電話機を左耳に当てた。
「ちょ、ちょっとぉ! そっちの耳じゃ、亜美ちゃんにあんたらの電話が聞こえないじゃない! 亜美ちゃんに聞こえる
ように、右耳に電話をあてがいなさいよぉ!」
 竜児は、やれやれ…、と、うんざりしながら電話機を持ち替えた。ヒスを起こした亜美には、どうしても逆らえない。
『高須か?』
 携帯電話機のスピーカーから、つい数時間前に一緒だった北村祐作のよく通る声が発せられた。
 亜美は、竜児の隣で、その携帯電話機にぴったりと左耳を押し付け、聞き耳を立てている。
「お、おぅ、先ほどは済まなかった。おかげで楽しかったよ。川嶋も…」
 その瞬間、亜美が竜児の脇腹に、軽くだが肘鉄をお見舞いした。
『ど、どうした、高須? 大丈夫か?』
 竜児は、痛みを堪えるために、息を大きく吐いてから、北村との通話を再開した。
「い、いやぁ、何でもねぇ。あ、亜美も、それなりに楽しかったようだ。今、俺の隣に居るんだが、代わろうか?」
 亜美が居ることに留意して、要点はぼかして話してくれ、という符丁のつもりだった。
これだけで、洞察力に秀でた北村は分かってくれるだろう。
『いや、それはいい…。しかし、何だ、亜美も居るのか。と、言うことは、亜美の奴は高須の家に泊まるんだな?
それに、高須も、川嶋じゃなくて亜美と呼ぶようになったか…。うん、うん…、状況は理解した』
 たしかに、北村の洞察力は鋭かった。それだけに、余計なことまで悟ったのは困りものだが…。
「で、急な話ってのは何なんだ? 例の春田の家庭教師のことか?」
 横に勘の鋭い亜美が居る状態では、冷や汗ものの嘘だった。それも、北村が適切に応じてくれなかったら、最後である。
だが、北村の状況判断は的確だった。
『ああ、今日の電車の中で俺が切り出した話だが、春田の親御さんから、高須をぜひ数学と物理の家庭教師にって、
先ほど言われてな、それも、善は急げで、明日の朝から、都合十日ほど特訓して欲しいそうだ。
高須は、どうだ? 明日は動けそうか?』
 明日からとは急だなと、思ったが、竜児に異存はない。
「ああ、大丈夫だ。何とかなるよ。で、春田の家には何時に行けばいい?」
『春田の家には、八時までに着くようにしてくれ』
「了解した。それと、何か特別に用意しなきゃならねぇものはあるか? 教材とか…」
『会長のノート、通称“兄貴ノート”を使って勉強するそうだし、あのノートのコピーなら、春田の奴も持っている。
だから、教材に関しては特に必要なものはないだろう』
「分かった…」
『ただし、春田の部屋はエアコンがなくて暑いそうだ。扇風機はあるみたいだが、結構汗をかくかも知れない。だから、
タオルと、着替えを用意して行った方がよさそうだな』
 竜児は、その北村の一言で、今更ながらに、暑い場所での重労働であることを覚悟した。きっと、シャツが汗の塩で
真っ白になることだろう。さすがに日給が高いだけのことはありそうだ。
 そうだとしたら、作業の後に服を着替えるだけでは足りず、銭湯にでも行かねばなるまい。
 それにしても、春田の部屋にエアコンがないというのは、北村にしては苦しい嘘だったかも知れない。
案の定、隣では、亜美が、不審そうに眉をひそめていた。
「いろいろ済まねぇな。恩に着るぜ」
『礼には及ばん。俺は、高須が何か美味いものを作って食わせてくれたら、それでいいよ。じゃぁ、明日は頑張ろうぜ』
 そう言って、北村は電話を切った。
「なんか、いろいろと、あ・や・し・い…。家庭教師って、あの春田に? 春田みたいなバカじゃ、いくら教えたって、無駄
なんじゃないのぉ? それに、これってバイトでしょ? 泰子さんの許可はあるの?」
 竜児の肩に白磁のような頬を擦り付けながらも、亜美は、不信感丸出しで、眉をひそめ、口をへの字に曲げている。
要点をぼかした北村の話のどこら辺までを把握されたのかが気になる。
 直感が鋭く、思考力もそこそこ備わっている亜美のことだ、もう、北村の話が嘘で塗り固められていることぐらいは
お見通しだろう。
「ま、バイトっつうか、なんつぅか、ほ、ほら、ボランティアみたいなもんだよ。春田も、結局、大学受験を志すみたいで
さ、で、ちょっと、勉強で解らねぇところを俺や北村に訊きたいんだと、それで、大学生である俺と北村が一肌脱ごうっ
ていうわけなんだよ」
「本当にバイトじゃないのぉ? でも、家庭教師をするくらいなら、相当の対価を受け取るべきじゃない! それを
しないでボランティア? しかも、お人好しのあんただけじゃなくて、少なくとも、あんたよりは現実的な祐作までぇ? 
嘘くさ〜い!」
 しまった、と思ったが、後の祭である。信憑性を持たせるために北村も一緒だと言ったのは、失策だったらしい。
亜美のことだから、明日の昼にでも北村に電話して、確認するに違いない。その時に、北村が、家庭教師をして
いない、とでも口走ったらおしまいだ。
「お、おぅ、北村も英語を春田に教えるんだ。それと現国に古文、漢文、世界史、日本史の文系科目全般なんだ。
それで、俺と北村の二人なんだよ」
 明日にでも、すぐ電話して、北村とは口裏を合わせておく必要があるだろう。それで亜美を誤魔化せるのなら、
御の字だが…。
 その亜美は、相変わらず不審そうに眉をひそめている。
「それに、朝八時って妙に早いわね。何だか、家庭教師っていうよりも、ブルーカラー的な肉体労働者が集まるような
時間じゃない? しかも、エアコンがないから、着替えって、何?」
 痛いところを突かれ、竜児は内心うろたえたが、とにかく、落ち着け、落ち着けと、念じて、動揺していることを亜美
に悟られまいとした。
 しかし、亜美の追及は容赦がない。
「ねぇ、正直に言ってよ。家庭教師ってのも嘘なんでしょ? 本当は、内装屋やってる春田んとこで内装工事か何かの
アルバイトをやるんでしょ? どうなの?!」
 万事窮す、完全に見抜かれてしまっている。こうなったら、白状するしかなさそうだが、それだけは絶対に避けた
かった。自白したら最後、すべてがお終いである。これは、実際の裁判でも同じだ。
「な、なんで、へたれな俺が、タフな肉体労働をやるっていうんだよ。そんなこたぁ、あり得ねぇだろうが…」
「どぉかしら? その気になれば、何だってやってのけてしまう竜児なら、あり得なくないわね。
どう? そろそろ本当のことを白状したらどうなの?」
 亜美は、瞳を大きく見開き、その瞳から、まるで放射線か何かを照射するように竜児を睨め付けている。
 魅力的だが、相手の本心を貫き通すような亜美に眼力に、竜児は怯みそうになった。だが、事実をありのまま
述べる訳にはいかなかい。
「いや、だから、本当に家庭教師をやるだけだって…。それも、北村と一緒のボランティア活動みたいなもんさ。
バイトじゃねぇって…」
「ますます、胡散臭いわね…」
 亜美が、鼻を鳴らして、ぽつりと言った。
「信じるも、信じないも、お前次第さ。そんなに疑うなら、明日は、俺と一緒に春田の家に行けばいいじゃないか。何なら、
お前も春田に何か教えてやれ。春田は、未だにお前のことを憎からず思っているだろうから、多分喜んでもらえるぜ」
 竜児にとってギリギリのブラフだった。亜美が、春田のことを、そう快く思っていないことを願いつつ、平静を装いなが
らも、内心では固唾を飲んで亜美の反応を待った。
 しかして…、
「え〜っ、何で、亜美ちゃんが、春田みたいなおバカさんの面倒を見なきゃいけない訳ぇ?! そんなの冗談じゃないわ
よぉ!」
 竜児は、内心、ほっと胸を撫で下ろした。だが、ここは強気に出ることにする。
「なら、俺の言うことにいちいち疑念を挿むな。俺はあくまでも、春田の学力向上を願って、この家庭教師を引き受けた
んだ。それに、家庭教師をやってれば、自分自身も勉強になる。泰子がバイトにいい顔しねぇのは、バイトで俺の学業が
疎かになることを危惧しているだけなんだ。それが、バイトでもないボランティアの家庭教師なら、
何も問題はねぇだろう?」
 我ながら、無茶苦茶な論法だと思い、竜児は冷や汗ものだった。
 バイトでないことを誤魔化すために、安直に、『ボランティア』と言ったことが色々と祟っている。バイト禁止の理由
は、竜児が言ったように、学業が疎かになる畏れがあるからなのだが、それを逆手にとって、家庭教師は竜児にとって
も勉強になる、という詭弁を弄した。ちょっと、考えれば分かるように、高校と大学では、レベルが全然違う。大学受験生
の家庭教師をしたところで、大学での勉強の足しになるわけがない。
「言いたいことは、それだけなの?」
 やっぱりと言うべきか、亜美がジロリと睨んでいる。その眼力に、竜児は蛇に睨まれるカエルの気持ちが分かるよう
な気がした。このままでは、竜児はぐうの音も出ないほど、亜美にとっちめられることだろう。
「だから、本当に、単なる家庭教師のボランティアなんだって…。第一にだなぁ…」
「何が第一なのよ?」
 言い訳のネタがない。根が正直だから、こうした虚々実々の駆け引きというものに、そもそもが馴染まないのだろう。
 それでも、竜児は、そこそこ優秀な頭脳をフル稼働させて、亜美を煙に巻くことができそうな口実を必死に考えた。
「な、なぁ、俺に物欲が余りないことは、お、お前が一番よく知っているよな?」
「そうね…、あんたは調理器具や食材とかには結構お金を使うときもあるけど、それも、熟慮の上、必要に迫られてから
買うことがほとんどだわね。それが、どうかしたの?」
 亜美が、相変わらず、竜児の顔を凝視している。僅かな表情の変化から、竜児の嘘を暴くつもりなのだ。
「俺は、講義に必要な専門書や、弁理士試験に必要な基本書も大体は買い揃えた。今後も結構高い本とかが必要に
なるかも知れねぇが、細々だが、添削のバイトを続けてきたおかげで、ある程度の貯蓄もできた。だから、これ以上バイト
する必要性がねぇ。だから、春田の件は、バイトじゃなくてボランティアなんだよ。友人である春田の学力を向上させて
やる、それえだけのことなんだ」
 もっともらしく理屈は付けたが、説得力は皆無に等しい。亜美は、口をへの字に曲げて、むっとしたままだ。
「聞けば聞くほど嘘臭い…」
「だ、だがよ、こ、これは本当なんだって。俺と北村は、明日から春田の面倒を見てやることになっている。こ、これは、
もう決まったことなんだよ」
「それで、あんたの言うボランティアとかは、明日から十日間だっけ?」
「お、おぅ、明日から十日間の予定だが、春田次第で変わってくる」
「十日間程度…、そんな短期間で効果があるのかしら…。まぁ、できるだけ短い方が、あたしはあんたと別荘で過ごせる
期間が長くなるから有難いけどね…」
 不機嫌そうな亜美の相好が、苦笑したかのように、一瞬だけほころんで見えた。多分、余りに説得力のない嘘に、
呆れているのだろう。
 だが、次の瞬間、亜美は、冷や汗を浮かべて、たじたじになっている竜児の喉元に、バラ色の口唇を押し付け、
吸血鬼もかくやの勢いで、激しく吸引した。
「な、何しやがる!」
 亜美は、竜児の抗議にも構わず、喉元の同じ箇所を、これ以上はあり得ないような強さで吸い続けた。吸われて
いる時間は、ほんの数十秒ほどなのだろうが、竜児にとっては、それが果てしなく長く感じられた。
 その吸引で、竜児が焼けるような軽い痛みを覚えた頃、ようやく、亜美は口唇を竜児の喉元から引き離した。
 だが、亜美に吸引されていた箇所には、接触していた亜美の口唇そのままの形で、赤い痣のようなものが浮き出て
いる。
「これは、あたしからあんたのへの戒め。どう? フィアンセのキスマークの味はぁ」
 亜美は、唇を手の甲で拭うと、その口唇を半開きにした妖艶な笑みを竜児に向けた。
「な、何だって、キ、キスマーク?」
 竜児は、狼狽して、先ほどまで亜美が吸い付いていた辺りを撫で回した。鏡を見ないと、どうなっているのか分から
ないが、触っただけでも、その部分が微かに熱を帯びているのが感じられた。
「これだけくっきり残っていると、誰にだって、キスマークだってのは分かっちゃうわねぇ。それに、ちょっと微妙な位置に
付いているしぃ。カッターシャツみたいな襟付きのシャツなら隠れるけど、Tシャツとかじゃ無理。だから、あんたは、
肉体労働で暑くなっても、服は脱げない。Tシャツ一枚になることだってできないでしょうね」
 竜児は、亜美に吸引された箇所を、手で押さえながら、唇を震わせた。
 やられた、まさかこういう手があったとは、本当に、亜美という女は油断がならない。
 しかし、ここは感情的になった方が負けである。竜児は、なおも平静を装った。
「しようがねぇなぁ、こんなところにキスマークなんて…。まぁ、いくら春田の家の中が暑いっていっても、半袖のスタンド
カラーシャツで、十分しのげるだろう。何せ、暑いとはいえ、部屋の中で、家庭教師のボランティアなんだからな。それに
春田にキスマークを見られたって、どうってことはねぇ。何なら、亜美は俺の女だ、ぐらい言ってやるいい機会かも知れ
ねぇ」
 そうして、傍らの亜美に、わざとらしくにやりと笑って、あくまでも嘘を貫き通した。
「ほぉ〜、これだけ嘘臭いのに、ここまであんたがシラを切るのは初めてね。まぁ、いいわ、お手並み拝見といきましょう
か…。明日からの十日間のうちに、どんな形で、あんたの嘘が破綻していくのかが見ものだわね」
 お馴染みの目を細め、口元を歪めた性悪笑顔。その目と耳は、竜児の嘘を確信的に見抜いているに違いない。
 にもかかわらず、今回に限って、この場で徹底的に追及してこない亜美に、竜児は今までになく不気味なものを感じた。
「どうしたの? 痛いところを突かれて、だんまり? まぁ、いいわ…。あんたの嘘が最後まで破綻しなかったら、
あんたの勝ち。でも、あんたの嘘が途中で破綻して、バイトであることが明らかになったら、あんたの負け。
そういうことで宜しくぅ」
 竜児は得心した。これはゲームなのだ。亜美は、竜児の嘘を見抜いていながら、わざと泳がせて、ぼろを出すのを待
つつもりらしい。
 ならば、竜児にも遠慮はない。欺いて、謀って、偽り続けるだけのことである。狡猾さにおいて一枚上手の亜美に、
根が正直な竜児の嘘が通用するとは思えなかったが、もうゲームは始まっているのだ。
 竜児は、携帯電話機の時刻表示を確認した。午前一時近い。もう、そろそろ眠らないと、明日から始まる重労働に差
し支えるだろう。
「なぁ、亜美…、そろそろ…」
 眠った方がいい…と続けるつもりで傍らの亜美を見ると、既に、竜児に縋って、微かな寝息を立てていた。
 竜児は苦笑した。その寝顔は、先刻まで竜児を意地悪く追及していた亜美とは全く別の、幸せそうな笑みであった。
 翌朝、竜児は、午前六時に目を覚ました。
 とにかく、身体がだるかった。
 昨日の亜美との交合による、重い疲労感が全身に残っている。大腿部や臀部には筋肉痛らしい鈍痛まであった。
やはり、セックスというものは、スポーツ並に体力を消耗するものらしい。
 ペニスに残る疼痛も無視できなかった。亀頭の粘膜には、亜美の胎内で圧迫され擦過されたことによる細かい傷が
あるのだろう。勃起しただけでもズキズキと痛んでくる。
 竜児は、ベッドに横たわる亜美を見た。長い髪をシーツの上に広げ、一糸纏わぬ姿のまま、タオルケットにくるまって、
未だに眠り続けている。
 処女であったにもかかわらず、竜児のいきり立った極太ペニスで幾度も貫かれただけに、その肉体的なダメージは
相当なものなのだろう。
「やっちまったな…」
 最愛の娘を抱き、ともに結ばれたという喜びよりも、もう、後戻りは許されない悲壮感や責任感が、竜児の心に重く
伸し掛かっていた。
 竜児は、横浜で亜美と永遠の愛を誓い、昨晩ようやく結ばれた。だが、自分はその永遠の愛を貫くことができるの
だろうか、という不安が湧いてくる。
 ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』に代表されるように、男女の永遠の愛を描いた古今の作品では、結局、
男の方が永遠の愛の約束を違えるのが一種のお約束だ。竜児だって、『指環』のジークフリートのように、何かの過ち
で妻となる亜美を裏切ることがあるのかも知れない。
「お、おっと、柄にもねぇ…」
 竜児は、自分の三白眼を思い出して、苦笑した。
 亜美ならば、『指環』のヒロインで、ジークフリートの妻であるブリュンヒルデといったキャラだが、
竜児はジークフリートのような英雄ではないことを、彼自身が誰よりもよく知っていた。
 竜児は、ブリーフとTシャツ、捨ててもいいような古いジーンズを手にし、シャワーを浴びるために浴室へ向かった。
 脱衣所に置いてある鏡で改めて確認すると、喉元の右下には、赤黒い痣がくっきりと印されている。
「まいったな…」
 亜美の口元は小作りだったはずだが、赤黒い領域は意外と大きかった。その全部を隠せるような絆創膏はあいにく
と持ち合わせがない。
 しかしその形はかなりぼやけていて、よくよく見なければ、口唇の跡とは分からず、遠目には、単なる皮膚炎のように
見えなくもない。
 竜児は、Tシャツ姿になる時は、首にタオルを巻いておくことにした。
 竜児は、ボディシャンプーを手に取り、それをスポンジで全身に塗り付けた。亜美との初めての交合の余韻を思わせ
るような、饐えたような匂いは、徹底的に除いておかないとまずい。
 竜児は、更に、低刺激性のシャンプーで髪を二度洗い、シャワーを手短に切り上げた。
 身体と髪を拭いて、ブリーフにTシャツ、ジーンズを着ると、朝食の支度に取りかかる。
 まずは、手早く米を洗って、炊飯器にセットする。昨夜のうちに準備しておかなかったのは竜児らしからぬ失策だった。
亜美や泰子は炊き立てのご飯にありつけるだろうが、竜児自身は、冷凍保存したご飯で我慢しなければならない。
 一方で、おかずは、いつも通りに、みそ汁に、塩鮭、作り置きの煮物、それに卵焼きと海苔である。シンプルそのもの
だが、結局は、こうしたものの方が、美味しいし、飽きが来ないのだ。
 みそ汁の具は、油揚げと切り干し大根にした。煮物でも繊維質は摂れそうだが、やや物足りない。その点を、切り干し
大根で補おうというわけだ。
 焼いた塩鮭と卵焼きは、亜美と泰子の分までラップにくるんで、ちゃぶ台の上に配膳しておいた。泥酔しているだろう
泰子はともかく、亜美だけは目を覚まさせて一緒に食事とでも思ったが、処女喪失という一生に一度しかない重大な
体験をしたのだから、好きなだけ休ませることにした。
 竜児は、炊飯器の様子を確認した。炊き上がるまで、もう少々時間がかかる。仕方がないので、竜児自身は、
冷凍保存のご飯をレンジで暖めたもので我慢した。
 そのレンジで暖めたご飯を食べている最中に、ご飯が炊き上がったことを示す、炊飯器の電子音が鳴り響いた。
「間が悪いぜ…」
 亜美と結ばれたこと、それにこれから始まる肉体労働に気を取られていたのか、今朝は、いつもの竜児では
あり得ないほど段取りが悪い。それでも、亜美と泰子には炊き立てのご飯を用意できたので、よしとすることにした。
 食事を終えて、自室に戻ると、亜美は未だ眠っていた。
 竜児は、その頬を軽く撫でたが、亜美は瞑目して寝息を立てたままだ。
「しょうがねぇなぁ…」
 竜児は嘆息すると、亜美には構わずに、出掛ける準備をした。
 古びたディパックに着替えのTシャツと、二枚のタオル、それに替えのジーンズを詰め込んだ。
 ついでに、汗止めとして額に巻くつもりのバンダナも用意した。
「こんなところか…」
 荷物を詰め終えると、Tシャツの上にネービーのスタンドカラーシャツを羽織り、上のボタンまできっちりと止めた。
本当は暑苦しいからTシャツ一枚で行きたかったが、亜美に付けられたキスマークを隠蔽するには、こうでもするしか
ない。
 それから、竜児は机に向かい、以下のような亜美への連絡事項をしたためた。
『亜美
 俺は、これから春田の家へ行って来る。
 帰りは、いつになるか分からないが、多分、夕方遅くなるに違いない。
 もし、今日も弁理士試験の勉強を予定しているのなら、夕食を終えた七時以降がいいだろう。
 それと、朝食はちゃぶ台の上に用意してある。気が向いたときに食べてくれ。
                                   竜児』
 そのメモを、寝ている亜美の枕元にそっと置くと、竜児は携帯電話機を開いて時刻が七時半であることを確認した。
 そろそろ出発してもいい頃合いである。
「じゃぁ、行ってくるぜ」
 眠っている亜美に、囁くようにそう告げると、竜児は着替え等を詰め込んだディパックを背負って自室を出た。
 捨ててもいいような一番ボロいスニーカーを履いて、玄関の外の階段をいつものと変わらぬ面持ちで、下りる。
 日給一万二千円は、多分税込みだろうから、十日間働けば、手取りで十万円強の現金を稼げる。これと自分の貯蓄
を合わせれば、あのペアリングも何とか購入できるだろう。
 そんな皮算用をしながら、門を出て、路地に入るや、竜児は手にした携帯で北村に連絡した。
「ああ、北村か? 俺だ、高須だ。今、家を出たところだ、それと、済まねぇが、ちょっと口裏合わせをしてくれねぇか。
実はなぁ…」
 昨晩、亜美に問いつめられて、北村も家庭教師のボランティアをすると口走ったことの辻褄合わせである。
 だが、二階の窓から、裸身にタオルケットを巻き付けた亜美が、路地で電話する竜児をカーテンの陰からそっと
窺っていることは、当の竜児は知る由もなかった。

続く