竹宮ゆゆこスレ保管庫の補完庫 - 私はだれ、あなたはだれ
137 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/06/14(月) 04:18:10 ID:9yURlEAd






流れ星が願いを叶えてくれるなんて言い出したのはいったい誰なんだろう。
子供の頃、眠たいのも忘れて夜空を眺めていたときに、不意にそんなことを考えたのを思い出した。
ああ、今目を離してしまったら、その瞬間にあっちの空を横切るんじゃないか。
もうちょっとだけ我慢していれば、きっと。
そんなドキドキが楽しくて、疎らな雲のもっと上に浮かぶ青白い月と満点の星明りの下、開けた窓から入り込む夜風でたなびくカーテン。
悴む手に、白く色づいた吐息を何度も、何度もふきかけながら、寒いのを堪えて、願いを叶えてくれる流れ星が降るのをずっと待っていた。

いくら待っても流れ星なんて降ってこなかった。
流れ星が願いを叶えてくれるって言い出したのはイジワルな人だって、子供心にそう思った。
見れるかどうかさえわからないのに、見えたって早口で三回も願い事を唱えなくちゃいけないなんてルール、ずるい。
こんなに真剣に待ってても、どんなに願い事を早口で唱えても、どれだけ強く願っても。
肝心の流れ星がなければ、何の意味もないのに。
見つめていると吸い込まれそうな空には数えるのもバカらしくなる無数の星々が輝いて、手を伸ばせば届きそうで、なのに、ひとつも落っこちない。
次第に流れ星が降ってほしいなんて本末転倒なお願いまでする始末で、そこまでくると飽きがきちゃってて、でも。

そのとき、ふとこんな考えが湧いた。
イジワルなその人は、そんなに簡単に叶う願いはつまらないって思ったんじゃないか、って。
なんだか妙に納得できた気がした。
待って、待って、待って待って待って、ひたすらにじっと待って、飽きるほど待って、願い事さえ忘れかけるくらい待って。
待ち続けた人だけがやっと流れ星に逢えて、願い事を唱えることができて、唱えきれたご褒美に、その願い事を叶えてくれるんじゃないか。
そう考えると本当にそんな気がして、流れ星を待ってるあのもどかしい時間さえも楽しく感じることができた。
結局あの夜は落ちてきそうで落ちてこない流れ星を待ちぼうけして、そのまま寝ちゃったものだから、翌日は風邪引いちゃったけど。
あのとき、何を願おうとしてたんだっけ。
お小遣いとか、流行ってたおもちゃとか、ちょっと背伸びして、素敵なカレシとか。
最初はそんな叶わなくってもどうってことない、小さなものだった気がする。
時間が経ってからは、もう少しでいいから、丈夫な体がいいなあっていうのを願ったかもしれない。
今となってはハッキリ思い出せない。
願い事なんて、あんなに沢山あったはずなのに。
「やっぱりだめかぁ、ちぇ」
白み始めた藍の夜空を駆けていく光る線を、そのとき偶然目にすることができた。
本当に偶然で、突然のことだったから、咄嗟にした願い事は言い切る前に見えなくなっちゃった。

ざんねん。
「でも、いいもの見たなぁ」
願い事は叶わないだろうけど、ちょっと得した気分。
だって流れ星なんて滅多に見れるものじゃないし、見れただけでも嬉しい。
なんだか今日一日、まあ帰って寝るだけなんだけど、良い事がありそう。
そんな予感がした。
疲れた体に、えもいえない満足感が広がっていく。
とってもいい気持ちの余韻を、名残までなくなるほど堪能する。
「ん〜。よっし、帰ろっと」
最後にもう一度空を仰いだ。
彼方に昇る朝日に焼けた青と蒼の空の境でポツンと薄く自己主張する月が、その周りを散り散りに瞬く星が煌いて、目の前で弾けて閃光になった。


                    ***


未だまどろむ意識が一応の覚醒をしたときには既に体の方が起き上がっていた。
目やにでしょぼつくまなこを枕元の時計へとやれば、針は明け方と言っていい時間を指しており、設定した時刻すら回っていない目覚ましは今もって沈黙している。
代わりに鳴っているのは居間にある電話だった。
こんな時間にどこのどいつだと、本格的に目を覚ました高須竜児はその厳しい双眸を一層険しくさせる。
ベッドから起き上がった竜児は相も変わらず太陽の恵みを遮る隣のマンションのおかげでひどく暗い部屋を抜け、休むことなく鳴り続ける電話を置く居間へ踏み入った。
居間もどっこいの薄暗さであり、まるで意味をなさないカーテンの向こうから辛うじて入る僅かな日差しがなければ夜中か、はたまた今日の空模様は曇天かと勘違いしそうになる。
いよいよ竜児の目つきが直角になりそうなほど吊り上がる。
なにも鳴り止まぬ電話の先にいる無遠慮な相手に憤っているからでも、洗濯物の乾きが悪いのを憂いているからでもない。

いないのだ。
いつもなら布団にたどり着く前に力尽き、あられもない格好で倒れているはずの母親が影すら見当たらない。
鋭い目をさらに細めて玄関を睨めば鍵は掛かったままであり、出がけに履いていったヒールもない。
当然襖で仕切った向こうの部屋ももぬけの空で、人の気配はしてこない。
しょうがねえなと竜児がぼやく。
おおかた酔い潰れて店の中で寝てしまっているんだろう。
あれだけ飲みすぎるな、遅くなっても必ず家には帰ってこいと口うるさく言っていたのにと竜児はため息をこぼす。
寝癖のついた頭を撫でつけがてら軽く掻き、そうしてから睡眠を邪魔する憎たらしい受話器に手をかけた。
学校からの緊急の連絡網かなにかと当たりをつけていたが、この分じゃあもしかしたら、あの手のかかる大きな子供かもしれない。
迎えに来いとかだったらどうしてくれようか。
へべれけになって猫なで声で甘えたことをほざくその姿を想像すると、こんな時間にふざけんなと、無性に腹が立つ。

ものの、それ以上に心配ではある。
態度と酔いの程度次第によっては迎えに行ってやるかと、竜児はいつから呼び鳴っていたかも知れない電話からようやく受話器を取り上げる。
しかし、予想は大きく外れ、回線の先にいたのは面倒な母親ではなく、連絡網を回す級友でもなかった。
開口一番にまず聞かれたのは、そこが高須家で間違いないかということ。
耳馴染みのない声で、だ。
挨拶もなく、知り合いでもないのにこんな朝早くから何の用だと訝しみつつそうだと答えると、電話をかけてきた主は他に家人はいないのかと尋ねてくる。
余計に不審がりつつ、この家に住んでいるのは自分と、自分の母親の二人しかいないという旨を、やや乱暴な口調で言いつけ、用件は何だと急かし問う。

どうしてこんなにも苛立ちが募っていく。
どうして息苦しくなるほどに気持ちが逸り、不安が顔を覗かせる。
どうして否定したいのに、嫌な胸騒ぎを覚えずにいられない。
それらを内心不思議に思う竜児の焦燥が受話器越しに伝わったのだろうか。
相手は落ち着いて聞くように、と前置きをし、遅れ気味な自己紹介と、事務的にただ事実を述べた。
スピーカーを震わせる言葉は最初理解することが難しく、欠片も現実感がなくぼんやりと返事をしていたが、場所と、原因だけは聞き取れ、鼓膜に焼きつく。
握った受話器がミシミシと軋んで悲鳴をあげるのも構わず、もはや切れた回線はそれ以上の情報を与えてくることもなく、一定の間隔でパルス音を無機質に響かせ、けれどそれも竜児には届かない。
微動だにせず、電話の応対そのままの姿勢で佇む竜児が次に動いたのはかけていた目覚ましがけたたましく鳴り出してからだった。
段々と大きくなるその音にすぐには気付けず、気付いてからも、すぐにはどうこうできず。
まるで精気のない緩慢な足取りで喚きたてる目覚ましまで歩むと、おもむろに手を伸ばしてスイッチを手探り、止める。
しばらくぼんやりと針を進めるだけの目覚ましを見つめていたが、スヌーズ機能をかけていたのか、再度、より爆音を上げる目覚ましを、竜児は無造作に放り投げて捨てた。
役目を果たしたからではなく、役目そのものを果たせなくなるほどに無造作に、渾身の力を込めて。
壁に激突した目覚ましがチンッと暢気な音を最後に黙り込む。

もとより黙る竜児はそんなプラスチックと金属の塊に成り果てたゴミになんて目もくれず力なくベッドに腰掛け、ものの数分も経たぬうち、今度は炊飯器が米が炊けたことを知らせている。
いつもと変わらぬ朝だ。
目覚ましが鳴り、タイマーをセットしておいた炊飯器がうまそうな香りと湯気を上げ、隣のマンションのおかげで満足な朝日すら入ってこない。
夢なら覚めてくれればどれだけ安心できるかわからないのに、いつもと変わらぬ朝が、残酷にも現実だと突きつける。
早々と炊飯器のメロディーが止んだ。
つい朝食の準備をしなければと、そんな場合じゃないのに、しかしそこでもう一人の家族の存在に思い至った。
竜児は立ち上がり、窓を開け放ちベランダに出た。
朝の冷たい空気が肌を刺す。爽やかなはずの風が、今はこれ異常なく鬱陶しく纏わりついているようだった。
隅っこに立てかけていたデッキブラシを持つと、竜児はそれで眼前の壁の、その少し上に位置する窓を叩き始める。
大河の家の、寝室をかねた大河の部屋であるところの窓。
近所迷惑どころか眠っているだろう大河の迷惑も顧みず、竜児はガラスを割らぬ程度に力を込めて叩く。
いくらもせぬうちサッシがスライドしていき、眠気と不機嫌さを隠そうともしない大河が顔を出した。
「うるっさいわね。なんなのよ、こんな朝っぱらから……どうしたの?」
だが、その剣幕も、竜児を目にしただけで引っ込む。
否、言葉が足りない。
竜児のあまりの様子に、大河は何かを感じ取った。
「竜児、ねえ、どうしたのよ、真っ青じゃない」
そんなものではない。
その顔色は真っ青を通り越し、土気色にまでなっている。
「なにか、あったの」
ただ事ではないと察した大河は、込み上げる怒りも残る眠気も忘れ、つとめて平静になって言う。
「泰子が」
「うん」
蚊の鳴くような掠れ声の竜児は幾度も言いよどみ、所々つっかえ、口ごもる。
まどろっこしいが大河は決して急かさず、その言葉に優しく耳を傾けて先を待った。
「さっき、電話があって、あいつ、病院に運ばれたって」
そう喉奥から搾り出した竜児は、苦悶に満ちた顔を俯かせた。
「そう」
それだけ口にすると大河が一度室内に引っ込む。
次に現れたとき、その手には携帯電話が握り締められていた。
「どこ」
見上げれば、そこには見つめてくる大河がおり、竜児はただ聞かれたことだけを答える。
淡々と、抑揚のない声で病院名を告げるその様に、大河は容態の知れない泰子のことよりも竜児の心配を優先した。
体ではなく、心の方を。
もちろん泰子のことも気にはかかる。
無事でいてほしいが、しかし目の前にいる竜児の様子は尋常ではなく、悪い想像ばかりが掻き立てられてしまう。
一刻も早く搬送された病院に赴きこの目で安否を確かめなければならない。
竜児では無理だ。精神的に不安定になっている今の竜児では。
だから、今すべきことは竜児の代わりに自分が率先して動くこと。
抜けそうな腰に喝を入れ、崩れそうな膝をピンと伸ばし、気丈にも大河は竜児の前に立った。
一度小さな深呼吸をし、丹田に力を滾らせ、若干痺れの走る口を開く。
「今タクシー呼ぶから、着替えて待ってましょう」
俯いたまま動かない竜児に、大河は今一度言う。
「着替えてくるから、待ってて」
本当は縋りたい。
不安なのは誰も同じだ。
この胸に渦巻くものが少しでも霧散するのなら、その場にへたり込み、打ちひしがれ、現実を直視するのを拒否していたかもしれない。
だけどしてはならない。するべき時ではない。
今だけは、力になってやれるのが自分だけなのだから。
ともすれば倒れてしまいそうな竜児を支えるべく、大河はタクシー会社に連絡を入れた。
この住所に大急ぎで一台寄越せとだけ言い終えるとマニュアルに則った挨拶を聞く間も惜しむように通話を切り、身支度も手短に済ませる。
寝癖も放置し寝衣を床に脱ぎ捨て、袖の長いワンピースを被るようにして着込み、コートを羽織り。
携帯電話と財布だけをポケットに突っ込むと、施錠もじれったく、駆け足で隣家の高須家へと向かった。
案の定ドアには鍵が掛かっている。
インターホンを押すと、たっぷりと時間を置いてからドアが開かれ、土間に突っ立つ竜児を一瞥した大河はやっぱりと顔を曇らせた。

「すぐタクシーが来るわ。その前に着替えてきて。いいわね、竜児」
Tシャツにスウェットという、おおよそこの季節に外を出歩くには相応しくない装いではなにかとまずかろう。
背中を押しながら家内に上がり、竜児の部屋、押入れから畳んである衣服を適当に見繕い掛けてあったコートと一緒に投げ渡した。
竜児は大河が傍にいるのも構わずその場で着替えを始めてしまう。
といってもせいぜいが上に着るようなもので、下に手をかけたところで大河も背中を向けた。
「大河」
背中合わせ。
互いの顔は見えない。
「ありがとう」
その声が涙で濡れているように思えて、大河は聞こえないフリをした。
思わず言葉を紡ぎそうになる唇をキュッと噛みしめ、固く結ぶ。
ほどなく身支度を終えた竜児が部屋から出てくる。
そのまま棚から保険証と、他に必要になりそうなものを取り出すと玄関へ。
大河も後に続く。
朝も早い時間帯。
表は人の通りも少なく、まだ明かりを灯す街灯がちらほらあった。
並んで立つ二人の間に会話はない。
竜児はしきりに曲がり角の向こうを気にしてばかりであり、首を窄めて寒さに耐える大河は時折現在時刻を確認していた。
一分一秒が異様に長い。時間の感覚が引き伸ばされているようだ。
何もしていないと際限なく嫌な考えが膨らんでいく。
振り払いたくとも付き纏うそれは心の深い部分に突き刺さり穴を穿つ。
その穴から湧き出た感情を燃料に、爆発的に膨らむ嫌な考えが一層巨大化していくのがわかっていて、何もできず。
穴は広がり滾々と沸く感情は尽きず嫌な考えをより膨らませ、穴もまた然り。
連鎖は止まることを知らずぐるりと幾重も螺旋を描く。
終わりがないかのように思えて仕方ない。
こうしている間にも、だというのに。
「遅えな」
自然、イラつきが滲んでいた。
いっそのこと待つのをやめてしまおうか、そうすれば少しでも速く目的地には近づく。
「もうちょっとよ」
しかしそれを大河がやんわり制す。
引き止めるその言に根拠はない。
でも、一人先を行かせてなんになろう。
たとえ今から走ったとて、きっとタクシーの方が速く着いてしまう。
火を見るより明らかだ。
だから我慢してもらわねばならない。
大河はコートのポケットに忍ばせていた手を片方、隣のコートに忍ばせる。
竜児の手は自分のそれよりも熱く、うっすら汗ばんですらいたのに、なのに微かに震えていた。
「大丈夫よ、きっと、だいじょうぶ」
握った手を、応えるように握り返す竜児は、その言葉を信じてくれただろうか。
信じてくれたら、いい。
そう思いながら大河も握り返した。
タクシーがやって来たのはそれから数分後だった。
行き先を告げて乗り込んだ二人を、よく言えば大らかそうな、悪く言えば手を抜いて仕事をしていそうな中年の運転手がジロジロと値踏みするかのように見やる。
こんな時間にどう見ても高校生がどうして近郊の病院へ行こうというのかと疑問に思っただけだろうが、それすらも竜児は癇に障った。
食ってかかろうとするのを大河が抑える。
まるで普段と真逆だ。
大河はともかく急いでくれと言い、わけもわからず不機嫌をぶつけられ腹に据えかねるも恐れをなしたのも事実で、運転手は無言で車を走らせる。
車内は沈黙に終始した。
運転手は命じられたのもさることながら憂さを晴らすべく法定速度ギリギリのスピードで飛ばし、車窓に映る景色はあっという間に過ぎていく。
後部座席のほぼ中ほどにピタリと寄り添って座りながら、二人は反対側の窓を睨むように見ていた。
同じようでいてそれぞれ別の景色。
竜児は流れる民家やビルに目をやりながら、その向こう、泰子をずっと見ている。

──引ったくりらしかった。
道路にうつ伏せになって倒れていた泰子の周囲には、おそらく泰子のだろう化粧品や手帳が散乱しており、携帯電話もその中に混じって転がっていた。
泰子の名前と、自宅の番号はそれでわかったと、電話をかけてきた警察官は慣れた口調で言っていた。
肝心のそれらを収めていたはずのバッグは財布共々発見されず、状況的にみて、後ろから来た引ったくりにつられる形で横転したのだろうと判断したと説明された。
咄嗟にバッグを持っていかれまいと踏ん張って、それで。
バカだろうと心の中で毒づいた。
そんなもんくれちまえばよかったんだ。
たかだか数千円しか入れていない財布も、使い込んで年季のいったブランドのバッグも。
怪我なんてして、担ぎ込まれて、本当にバカだ。大バカ野郎だ。
そこまでして守ってなんになる。そこまでする値打ちがどこにある。
さっさとその引ったくりにでもやっちまって、そのまま帰ってきて、それでよかったじゃないか。
落ち込んでいれば元気が出るまで慰めてやるし、愚痴ならいくらでも付き合ってやれたし、抜けてんだよなんて怒ったりも責めたりもしない。
たかだか数千円でも家計に痛いことは痛いが、痛い思いをする必要なんてこれっぽっちだってありはしないだろう。
それとも腕を引き抜くこともできないのろまだったのか。
背後から猛スピードですり抜け様、掴まれたバッグに引っ張られてべちゃっと押し倒れる泰子が簡単に想像できて、その様子が妙におかしくて、悔しかった。
泰子自身も、何もできない、何もできなかった自身も。
もう少し歩いたら帰宅できたというところで倒れていたことにも、それに拍車をかける。
気付けたんじゃないのか。そんなことができる人間はいない。
でも、それでも、そう思わずにはいられなかった。
握り締めた拳はどこにも振り下ろせず、そして、大河は何も言わずにその痛みから目を逸らす。
目まぐるしく車窓を流れる眺めではなく、反射する竜児を先ほどから見つめる大河は、折られんばかりに握られる手を振り解く気になれずにいた。
こんなにも取り乱す竜児を大河は知らない。
いつもであったら大きなその手も、こんなに力を込めて握られているというのに、ひどく小さかった。
ただ前だけを目標にして、向こう見ずに突っ走り、後ろに立つ存在に守られているのが当たり前になっていたことをこんなときに限って思い知らされる。
どうすれば正解なのかわからない。
どうしていいのか見当もつかない。
この手はこれほどまでに強く頼ってきてくれているというのに。
歪な家族ごっこのツケだ。
所詮ぬるま湯の関係の、これがその成れの果てと言えなくもない。
与えられるばかりだったから与え方を知りえず、かける言葉すら見つけられず、無様にも口を閉ざし、何もできない。
歯痒い。
噛みしめる度に味あわされるのは苦味の塊である無力さでしかなく、なればこそ、この手を離すわけにはいかなかった。
与え方なんて知らないから、かける言葉も見つからないから、今は受けとめることに専念しよう。
全部を肩代わりできるほどにこの体は大きくはないけれど、せめて半分は受け持とう。
それはただの自己満足でしかない。そんなことは承知している。
だからなんだというのだ。
少しでも何かになるのならば、自己満足だっていい。
誰でもない、たった今自分に誓った。
この手は絶対離さない。
大河は求めに応えられない代わりに、抱きしめるように、強張る竜児の手の、その指に我が指を絡めて繋ぎ合わす。
窓に映る竜児が目を見開いた。反射した視線同士がぶつかる。
悲鳴を上げそうな痛みが嘘のように和らいだ。
今度は労わるように、謝るように、まるで柔らかく包み込むようで、ちょっとくすぐったい。
絡めた指は解かれずに、目的地に到着するまでそのまま繋がれていた。
泰子が搬送された病院は近隣に看板を掲げる中ではダントツに規模が大きく、救急の設備もしっかりしたもので、急を要する患者はほぼここへと運ばれる。
運賃の清算を大河が済まし、タクシーから降りた二人は、一目散に総合受付と明かりが点く掲示板の下、自動ドアを潜る。
血相を変えて飛び込んできた竜児に、窓口にいた事務員ははじめ及び腰であったが、話を聞くにつれ落ち着きを取り戻す。
そうして少しばかり待っててくれるように言うと、内線だろうか、どこかに電話をかける。

間を置かず、術衣の上から白衣に袖を通した壮年の医師が竜児と大河の前へと歩いてきた。
二人の迫力がよっぽど鬼気迫るものだったのか、まだ何もしていないというのに早々に怖気づいているが。
だが、泰子が寝かされている病室までの道すがら、彼は医者らしく診察の結果を踏まえた簡単な説明を二人にした。
大した怪我はしていないこと、処置自体も軽いもので済んだということ、ただ、頭を打っているらしいために検査をしていくこと。
今はまだ眠りについているが、容態はすぐによくなるだろうと、最後に付け加える。
一言一句逃さぬと言わんばかりに固唾をのんで聞いていた竜児は、幾ばくか胸を撫で下ろした。
命に別状がないという、それが分かっただけでも重たかった荷がだいぶ降りた。
「ほら見なさいよ。言ったじゃない、大丈夫って」
竜児に、そして自身にも言い聞かせていたそれを、満面の中に安堵の色を含ませ、誰ともなしに言う。
声に出さず、浅く頷き返す竜児に覚られぬよう大河が肺いっぱいに取り込んだ空気を吐き出す。
正直なところ竜児同様緊張の糸が緩み、切れる寸前まで張り詰めていた分撓みは大きくなって、今にも膝が笑い出しそうだ。
とはいえ、まだ泰子の顔も拝んでいない。
安心しきるのはその後でいいだろう。
大河はもうひと踏ん張りと、沈んでいた心が弾むのを実感しながら竜児の隣を歩く。
薬品の臭いが染み付いたリノリウムの廊下が歩を進めるごと、固い音を立てる。
清掃員や職員とときたま擦れ違い、人の出入りも増えてきているようだったが、それでもとても静かだ。
コツン、コツンと、足音がやけに反響する。
蛍光灯から降り注ぐ昼白色の明かりが濃い影を作り、足音と相まって、なんとなく、不気味だった。
時間が時間とはいえ寂しい場所だと竜児は思う。
起きたとき、一人でいたらきっと心細がるだろう。
今さら学校に行く気にもならない。今日くらい、付っきりで傍にいてやろう。
組み立てた建前を飲み込むと、竜児は足を止めた。
「竜児」
「ああ」
だんだんと近づくある一室。その扉の横には紙でできた簡素なネームプレートがかかっており、高須泰子と書かれている。
先を行く医師が二度、三度とノックし、ゆっくりと扉を開けた。
大河と、そして竜児に中へと入るように促す。
はたして病室内には泰子が一人、壁紙も、カーテンも、シーツも、全てが白一色の中で、これもまた頭に白い包帯を巻きつけ、頬にもガーゼを貼り付けて寝かされていた。
実際に目にすると安心感よりも痛々しさで胸が締めつけられる。
説明では軽傷だと言われてはいたが、目の当たりにした泰子は、おそろしくか細い寝息を立てているのみで身動ぎすらもしない。
寝顔もまるで作り物みたいだ。
たまに思い出したように上下する胸と、毛布の上に出された右手の指先に伸びるコード類はいったい何のためにあるのだろう。
ぬか喜びをしていたつもりはない。
弛みはあったとて、緊張の糸は今もって張られている。
しかし。
「おい」
床に伏せるというよりかはよほど安置されていると言った方がしっくりくる。
そんな泰子に、竜児はやおら歩み寄る。
かけた声に、いつもの間延びした返事は返ってこない。
「泰子」
ベッド際まで近づこうと、一切の反応を示さない。
人形よろしく横たわるだけだ。
このまま、二度と目を覚まさないのではないだろうか。
「なあ、おいって」
おずおずと肩を軽く揺する。
それでも瞼は瞑られたままだった。
か細かった呼吸すら竜児の耳は拾えず、蒼白の肌には廻っているはずの血の気も失せきっている。
よもや、本当に、二度と。
その考えが脳裏を横切ったとき、竜児の中で何かが切れた。
「起きろっつってんだよ! いつまで寝てやがんだ、おい、泰子! いい加減にしとけよなお前、聞こえてんだろ!? なんとか言えよ!」
「竜児!」
両の肩を掴み、大きく揺さぶり、無理やり泰子を起こそうとする竜児に大河がしがみついた。
控えていた医師も、狂乱する竜児を力ずくで引き剥がす。
「やめて! なにしてんのよ、バカじゃないの!?」
二人がかりで隅までおいやられた竜児の胸倉を両手で握り、大河が怒号を飛ばす。

「放せよ」
だが、その大河の両手を、竜児が乱雑に払いのける。
強引に前に出ようと、竜児が身を乗り出す。
それでも、大河は泰子との間に立ち塞がった。
「どけ」
「どかない」
今度は竜児が大河の胸倉を掴んだ。
勢いに任せて横薙ぎにしようとして、けれど大河は倒れない。
ギリギリとキツくなっていく首元が苦しい。
目頭が熱くなっていく。
息ができないのが苦しくて、それ以上に、もっと別の部分が苦しい。
確かに横になっている泰子のあまりの弱々しさに大河もショックを受けたが、ここは病院だ。
大事があれば悠長なことなんてしてないで迅速に動いてくれてるだろう。
それにさっき説明だってされたではないか、眠っているだけだと。
そうだというのに、竜児は、まるで周りが見えていない。
視野狭窄に陥っており、泰子のことしか目に入っていない。
そしてたった一目、今の泰子を目にしただけでこの有様だ。
「どけよ」
小さな胸がチクリと痛む。
胸を貸してくれとも言ってもらえない自分が、大河には、ただただ不甲斐なかった。
「ねえ竜児、あっち見て。お願いだから、ちゃんとよく見て。やっちゃん、眠ってるだけだよ。本当に寝てるだけ。
 心配しなくってもすぐに起きるわよ、私が約束する、信じて」
朦朧としてきた意識を意思で繋ぎとめ、足りない酸素を体中からかき集め、その頬に両手を添える。
きっとこいつは気付いちゃいないだろうと、さり気なく、一筋できた線を拭ってやった。
そうしてさらに腕を伸ばし、燃えそうに熱くなっていた頭をかき抱く。
「だから、大丈夫、大丈夫だから、ね、竜児。だいじょうぶ」
さながら子供に言い聞かせているようだ。
それが功を奏したのかもしれないし、必死の大河の想いが伝わったのかもしれない。
何が決定打となったのか定かではないが、結果として、竜児が大人しくなる。
周りと大河に気を配れるだけの余裕も、冷静さも帰ってきたらしい。
細い肩にもたれ、埋めるように目元を押し付け、ぽつり。
「悪い」
「いいのよ、いいの」
あやすように髪の毛を撫で梳きながら、どうにも調子が狂いっぱなしだわと、内心敢えて大河は能天気に構える。
でなければ、このままでいられそうになかった。
ここまで脆いものだったろうか。
この目で直に見やり、肌に触れてみるまでついぞ思いもしなかった。
昨日まで傍らに立ち続けたこいつは、少なくとも他人に暴力を振るえない程度には温厚であり、見てくれに甚だ反して優しかった。
いくら自分が理不尽に立ち回ろうとも、勝手に自宅に居座ろうと、それを許容できるだけの懐の深さも備えていたはずだ。
押し付けるでなく、適当にやり過ごすでなく、疎んじられる己の性格を知っていてなお傍らに居続けると宣言したときに感じた芯の強さは、不覚にも、他のなによりも心を動かした。
それがどうだ、今日のそいつの情けなさといったら。
放心し、虚脱しきり、一人では何もできず、かと思えば取り乱し、暴れ。
大の男がだ。
滑稽以外のなにものでもないではないか。
こちらの身にもなってみろ。
道中握り締められっぱなしだった手は未だ鈍い痛みを訴え、おかげで痺れが取れないでいる。
今しがた締め上げられた胸元では、コートのボタンが弾けてしまい、生地が皺くちゃによれ、そして、バクバクと心臓が高鳴っている。
怖かった。
常日頃本人からして悩みの種にしていたあの凶悪な双眸に射竦められ、力任せに退けられかけ、そうされまいと抵抗すれば胸倉を掴まれ。
どれも初めてのことであり、大河には、そんなことをする目の前の男が竜児とは信じられなかった。
信じたくなかった。
だが、紛れもない現実として、抑えのきかなくなった竜児は大河に内面の不安感を躊躇もなしにぶつける。
一歩間違えれば最悪の形で、最悪の展開になっていただろうことは想像に難くない。
そうなっていても不思議じゃなかったし、大河はそうなってしまうだろうと、半分以上確信していた。
今までにない恐怖心と失望感、喪失感が津波となって襲いかかり、いっそのこと、逃げ出してしまいたくなる。

だけど、できない。
そんなことをしてしまったら、今の竜児は泰子を傷付けてしまうかもしれない。
そうなれば泰子はもとより竜児も傷つく。必ず負い目を負う。
責任感が強すぎて、いささか自虐の気すらある竜児が、もしもこんな状態の泰子に手を上げてしまったら。
させるわけにはいかない、なんとしてもだ。
故に、臆した足を地に根を張らせる思いで踏ん張らせ、できる限り精一杯、元の竜児に戻ってくれるようにと願い宥めた。
あんな竜児、違う。あんな竜児、偽者だ。あんな竜児なんて、嫌だ。
そういった大河の願望があったことも否めないが。
とにもかくにもどうにか竜児を落ち着かせることには成功したが、それでも、今にも盛大な音と共に瓦解してしまいそうだ。
そんな、あまりにも脆くなってしまった竜児が怖くて、でも。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
竜児もこんな気持ちでいたのだろうか。
自分を見ているとき、こんな風に、放っておけないという気持ちでいたんだろうか。
竜児が落ち着ききるまでこうしていよう、それがたぶん、私にできることだから。
そう、大河が決意を固めていたときだった。
「……んぅ、ん〜」
小さな呻き声がする。遅れて毛布が捲れあがった際の衣擦れの音も。
竜児が弾かれたように俯けていた顔をそちらへと向けた。
大河も竜児に倣い、振り返る。
二人の視線の先には、竜児の怒声と、激しく揺さぶられた衝撃が起因したのだろうか。
意識を取り戻し、上半身を起こした泰子が、緊張感なんて微塵もないかのように大あくびをかいていた。
「ふぁ〜、あいた、いたたたた」
その途中、突然側頭部を押さえて蹲る。
それを合図にして、竜児が泰子へと駆け寄った。
「痛むのか? どこだ?」
「あのね、こっちのここがね、あ、そこそこ、そこすっごく痛い〜なんで〜?」
患部に軽く手を翳しただけで大げさに痛がっているが、感触的にはどうやらたんこぶが腫れているだけのようだ。
転倒した拍子にアスファルトに強かに打ちつけてしまったんだろう。
頬に張っ付けられたガーゼの下も擦り傷ぐらいなものらしい、その他に怪我らしい怪我は見受けられない。
「ふぇ」
それを把握した瞬間、恥も外聞もなく、竜児は泰子に抱きついていた。
消毒薬の臭いに安物の香水が溶けた、不快感すら催す香りが鼻を突く。
その中に確固として漂う懐かしい匂い。
衣服を抜けて伝わる体温。鼓動。
意外に華奢にできている体は、ちょっと力を入れてしまえば折れてしまいそうであり、その加減を誤ってしまう寸前まで抱きしめる。
どれもこれもが、キョトンとしているその姿さえ無事の証明のようで感極まりそうだ。
「えぇ〜っとぉ、なぁにぃいきなり? どうしたの?」
「バカ、いきなりってそんなのこっちが言いてえよ。お前、道路にぶっ倒れてたって聞かされて」
「そうなの?」
「そうなのって、覚えてないのか?」
「う〜ん……よく、わかんない」
天井と睨めっこでもするような仕草で思い出そうとしてはみるが、上手く思い出せない。
ピントが合わないような、はたまた霞でもかかってしまったような感じにぼやけてしまう。
なにか、すごくいいものを見られたような気はするのに。
それが何であったのか、それに、どうしてこんな所にいるのか。
「あれぇ、そういえばここ、どこ?」
ここがまったく見覚えのない部屋であることにやっと気付いて首を傾げる泰子に、竜児がプッとふきだした。
どうして笑うんだろう、変なことでも言っちゃったのかな、と。
笑われたことに納得がいかなかった泰子が殊更に首を傾けて、それがまた可笑しく、万の言葉よりも竜児を安心させた。

「む〜、なんでそんなに笑うの」
いよいよ不愉快になってきてほっぺたを膨らませる。
そんな泰子の背中を竜児がぽんぽん叩いた。
「よかった、本当に」
そうこぼす竜児は表情をうかがわせない。
回す腕に一際力を込めて、泰子はリスみたいに膨らませたほっぺたをしぼませた。
「心配したんだぞ。いや、そんなもんじゃねえ。すげえ心配したんだ」
「あ……うん」
「もし、なんかあったらって。ひょっとしたら、このままずっと起きねえんじゃねえかって、そう考えたら、俺」
「……うん」
「でもよかった。何ともなさそうで、安心した」
言の葉が紡がれるそのつど、だんだんとむずがゆくなっていく。
そんなに不安にさせてしまったという申し訳なさと、こんなに心配してくれていたという想いがせめぎ合い、どうにもそわそわする。
不愉快な気持ちなどとうに消えてしまっていた。
「……ごめんね……ありがとう」
謝って、感謝して。
ずいぶんと簡単な言葉が、しかし今は少々口に出すのが難しく、重かった。
それだけ真剣だったのだ、竜児は。
「ねえ」
そして泰子も真剣みを帯びる。
これなら、こんなへんてこなことを言ってもきっと信じてくれる。
予感めいたそれを、人は期待と呼ぶんだろうか。
「ん? ……ああ、いや、すまん。悪かったな、ちょっと動転してたっつうか」
「ううん、いいの、そうじゃなくって」
離れかけた体を逆に引き寄せたのは泰子で、竜児は今さらながら恥ずかしさに耳まで染まる。
だが、次の泰子の一言でそれも一気に引き去り、笑みを無理やり噛み殺した引き攣ったようなにやけた顔からは表情がなくなり、翳る。
「あのね、今度は笑わないでね」
「おう」
その翳りが全身を覆いつくすのに、さしたる間は必要なかった。

「私は、だれ」

絶えず進み行く世界はその動きを停止した。
もちろんそんなわけはない。そんなこと、あろうはずもない。

「……やっちゃん?」

現に時計は留まることを知らずに常に今を刻むために働き続け、空気は流れ、窓から入る朝日が見えない波に乗る埃を氷昌が如くキラキラ輝かせる。
様子を一歩下がって見守っていた大河も、後ろから差す光を背負う泰子に声をかけている。
かけられたそれが自分に向けられたのかどうかすら判断つかず、泰子は困惑し、しかして大河はそんな反応を返す泰子に困惑を極める。
検診をしようとタイミングを計っていた医師は渋面を作り、すぐにでも今朝運び込まれてきた患者を改めて詳しく診なければと足踏みを繰り返す。
世界は一秒足りとて止まってなどいない。
そう感じているに過ぎない。
竜児だけが、そこに取り残されてしまったように感じているだけだ。
泰子は今なんと言ったのだろうか。
皆目意味が分からない。
ふざけてるのか。そんなやつじゃないのは誰よりも知っている。
なら、まだ寝ぼけてやがんのか。きっとそうだ。
なのに。

「それとね、そのぉ」

言ってしまって本当にいいのだろうか。
口にしてしまうのが怖いと言うようにしどろもどろになり、困った風にひそめた眉の下では、滲み溜まった雫でたゆたう瞳が。
その奥で薄く儚く、けれど確かに悲しみに染められた色を感じて。

「だれ」

それが、その言葉が嘘偽りのないものであり、そして意味することの事実を受け入れるにはしばしの時間を要した。
大河もそうだが、一直線に自分目掛けて発せられた竜児には、特に。


146 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2010/06/14(月) 04:37:29 ID:9yURlEAd
おしまい
記憶喪失ネタは公式がやってるし、どうしたもんだろう。
とりあえず終わらせたい方を先に終わらせよう。