総一郎と茜_5月
初出スレ:初代598〜
属性:男子高校生と女性教師
「期待を抱くな。勝手に期待して勝手に失望するなどもってのほかだ」
鉄の仮面を被った女性教諭・小笠原茜はそう言い放った。
そういえば命令形で話をされるのは初めてだ、とふと思った。
*
今年から副担任をもった茜は、職員室にいる時間が長くなった。
つまり、化学準備室で仕事をしなくなったということ。
ついでに三年生の化学は受け持っていない。非常にがっかりだ。
部活動でしか顔を合わせられなくなった。
その部活動も、ついに二人っきりの活動ではなくなってしまった。
見学が終われば落ち着くと、信じていたのに。
すべては茜のせいだ。
珍しく参加者が多かった先々週火曜日の部活動。
一年生の朝倉悠基がビーカーを床に落として派手に割った。
触らないように、と言い残して茜がホウキを取りに行っている間に、何を思ったか朝倉はガラスの破片に手を出して指を切った。
「いてっ」
その声に茜が素早く飛び戻ってきて、朝倉の手を強引に掴んで水道まで引っ張った。蛇口をひねって、流水で傷口を洗う。
「いてぇ」
「我慢してくれ。部長、悪いがガラスを片付けてくれないか。くれぐれも触れないように」
言われなくたってそんなことぐらい熟知しているが、素直に頷いてホウキを取りにいく。
戻ってきて目にした光景に度肝を抜かれた。
茜が、朝倉の人差し指を両手で握りこんで、息がかかるほど間近で傷を覗き込んでいた。
そのままぱくりと口に咥えてしまいそうな距離だった。もしそんな、ありがちな治療をしたらどうしよう、とドキドキした。
ふと朝倉を見ると、ぽかんと口を開けて、茜の横顔を見ている。
朝倉が何を考えているか、総一郎には判りすぎるほどよく判ってしまった。
おそらく、肌がきれいだとか、まつげが長いとか、目が意外と茶色いとか、この銀のフレームを取ったらどうなるんだろうとか、
甘いにおいがするとか、恐ろしく手が冷たいとか、吐息がやわらかくてくすぐったいとか、そういう類のこと。
自分も何度も同じことを思った。
小柄な朝倉は、茜とほとんど頭の高さが一緒だ。彼女の長いまつげも、横からだったらよく見えるだろう。
「部長?」
一年生の長峰に声を掛けられて、はっと我に返る。
慌てて散らかった破片をホウキでかき集めた。
茜は朝倉の手を自分のハンカチで丁寧に拭うと、白衣から絆創膏を取り出して指に巻きつけた。
準備のよろしいこと、と嫌味に思う。
「破片はキズに入っていないと思う。おそらく大丈夫だ」
「あ、はい」
「朝倉、今回はただのヨウ素液だから問題ないものの、毒性の強い物質だったら傷口から直に入り込んで大変危険だ。割れたガラスには絶対に素手で触らないこと」
「…………すいません」
自業自得で身を小さくしていた朝倉に、茜はふわりと笑いかけた。
「うん。次回から気をつければいい」
新入生は現金にも、その微笑みに笑顔で頷いた。
お前は自分の罪を反省したのか、と破片でずっしりと重いちりとりを片手に毒づいた。
ただの八つ当たりだ。
男前にして女神のような小笠原茜に、新入部員数名が男女問わずとりこになった。
ハラショー、センセイの魅力は性別を超えて理解される。
そんな彼らが律儀に部活動に参加するようになって、開店休業中だった化学部はにわかに活気づいてしまった。
茜と二人っきりだった夢のような時間は終わりを告げた。
女子部員などは「茜ちゃん」などと親しげに呼んで、手を握ったり頬に触れたり髪を撫でたり、やりたい放題で羨ましい。
そもそも教師をちゃん付けで呼べるなんて、ニュータイプは恐ろしい、と総一郎は思う。二つ年が違うだけでもう彼らは新人類だ。
茜はその呼称についてなんとも思わないようで、なんだ、と淡々と顔を向ける。
その様子がまた新鮮らしく、まるで珍獣を見たかのようにきゃあとはしゃぐ。
化学部は、健全な部活動とおしゃべりの場となってしまった。
茜のせいだ。
……盛大な、八つ当たりだ。
今日はどんな奇跡か珍しく二人っきりで夕焼けに染まる実験室にその身を置いている。
実に、2週間ぶりである。
うきうきと握ろうとした手を、ぱちんとはじかれた。
触れないでくれ、と感情の読めない声音で低く告げる。
「浅尾よ。学校でのアバンチュールは危険だ」
あまりに今更過ぎるその宣言に、度肝を抜かれて声が出ない。
「突然そのドアが空いて、忘れ物を取りに来た生徒に遭遇したらどうする。
学校で触れるのも甘い囁きも禁止だ。オンとオフを切り替えてくれ」
そもそもそのはずだったのに、最近は気が緩みすぎていた、と茜がクールに告げる。
「…………でもただのデートじゃ、人目があるからダメだって言うじゃないですか」
「そうだとも。衆人に晒すものでもあるまい」
その理屈は判る。判るのだが。
じゃあどこで茜に触れればいいのだ。
ただでさえ、湯たんぽの季節は終わったというのに。
「センセイ、オフがありません!」
「む、そうか」
「センセイ、一人暮らしですよね?」
「そうだが?」
「……遊びに、行ってもいいですか」
喉が渇いた。緊張して手が震えそうだった。
ダメだって言われたら、少しの間立ち直れない気がしていた。
茜のプライベートを知りたい、と常々思っていた。
例えば、部屋のカーテンは何色で、どんなレイアウトで家具が置かれていて、毎日9時間も過ごすベッドはどんな風だろうか、と。
ずっと、一人胸の中に抱えていた疑問だ。
プライベートすぎて、踏み込んではいけないのだろうと勝手に推察していた。
「ああ、いいとも。招待しよう」
意外にあっさり了承されて、気が抜けた。
「気がつかなかった。その手があったな」
気がつかないってどんだけ老成しているんだ、と胸のうちで呟く。
これは、下心があるかないかの違いなのか。
「しかし遊びにきて何をする? うちには遊ぶものなどない」
痛いところをつかれた。
ただのおしゃべりなら外ですればいい。
希望としては、手を握ったり抱きしめたり髪を触ったり、あわよくば、なのだがそれをストレートに口にするのはさすがに気が引けた。
そんなことを言ったら、来なくてよし、とか言われそうである。
考えに考えて、苦渋の結論を口に出す。
出来ることなら、これだけは避けたかった。
でもこれ以上に茜を納得させられる言葉は思い浮かばなかった。
「…………べ、勉強を」
「ああ、なるほど。いいとも、専属の家庭教師を引き受けよう」
家庭教師も響きがエロいですね、と言おうとして、――――やっぱりやめた。
*
狭いけれど、と招き入れられた。
女性の部屋なんて、妹のしか知らない。ドキドキする。
予想通り物が少ない茜の部屋は、十分な広さに思えた。
ローテーブルと小さなデスクとテレビとベッドと、少々の本棚と。最低限の家具しかない。
もしかすると総一郎の部屋よりシンプルだ。
クリーム色のカーテンのすぐ下に、淡いブルーのカバーのベッド。
そのベッドの枕元に、大小二つのうさぎのぬいぐるみが置いてあってちょっと意外に思った。
ぬいぐるみを飾る人種だとは思っていなかった。
「適当に座っててくれ。くつろいでくれて構わない」
「うさぎ」
総一郎の目線を追った茜が、ああ、と低く言う。
「もらいものなんだ。似合わないだろう?」
やっぱり自分で買ったわけじゃないのか。
でも年季の入った二匹のうさぎを見て、あの時送ったマグカップの柄は間違えてなかったと嬉しく思う。
携帯電話にうさぎがぶら下がっていたという理由だけで当てずっぽうだったのだけど、己はなかなかいい勘してる。
「好きなの? うさぎ」
「……うん、まぁ。すごくって程じゃないが」
ちょっと照れたように顔を背けて、茜はコーヒーでいいかと言いながら、返事を聞く前に背中を向けてしまった。
部屋中に香ばしい香りが漂っていて、幸せな気分になる。
せっかく茜が淹れてくれたコーヒーなので、いつもより熱めの温度で口につける。
インスタントと一緒にしては申し訳ない気がしたからだ。
でもやっぱり温度が馴染まなくて、舌がちょっとしびれた。
「おいしい、です」
「ん、それはよかった。しかし、浅尾よ」
「はい」
「一つ言っておく。私はもてなしが苦手だ」
「意味がわかりません」
「……つまりだ、私が料理を用意して君をもてなすだなんて幻想を持つんじゃない」
あ、料理できません宣言か。
別にそんなこと思ってもいなかったのに。
「期待を抱くな。勝手に期待して勝手に失望するなどもってのほかだ」
きっぱりと言い切られて、そういえば命令形で話をされるのは初めてだ、とふと思った。
じっと見つめると、その視線に気がついた茜がぷいと顔を背けた。
これは、女としてのプライドなのか年上としてのプライドなのか、どっちが刺激されているんだろう。
「ちょっと聞いてもいいですか」
「…………………………なんだ」
「料理できないんですか」
「出来ないのではなく、しないだけだ」
「普段のごはんはどうしてるんですか」
「……………………あー、まぁ、適当に」
「コンビニ?」
「いいや」
「外食?」
「しない」
「お姉さんが作りにきてくれるとか」
「そこまで甘えられない」
「じゃあなに?」
「浅尾」
「はい」
「例えば、6時に家に着くとするだろう?」
「うん」
「シャワーを浴びて、ちょっとした仕事を片付けているとすぐに9時なんだ。不思議だろう」
全然不思議じゃない。
つまりは食べてないってことか。
なんてだめな大人なんだろう、と総一郎は思った。
「不健康にもほどがあります」
「うん、そうなんだが、その、食事を作ろうとすると食べ終えて片付けるまでに軽く3時間はかかるだろう? 平日は食べるより寝たい」
3時間もかかるか? 一人だったらせいぜい1時間、ゆっくり食べても2時間ぐらいじゃないか?
一人分の食事を作った経験はないので上手に計算は出来ないが、たぶん、茜の手際は恐ろしく悪いに違いない。
そうか、センセイにも、対人関係以外で苦手なことってあったのか。
大人は、茜は何でもできてしまう、一人で生きて行けてしまう人間だと思っていた。
付け入る隙を見つけたような気がして、嬉しくなる。
思わず湧き出た笑いをかみ殺したら、変な顔になった。
「そんなに可笑しいか。笑いたければ笑うがいい」
拗ねた。
子供みたいだ。
「いいです、もちろんごはん前には帰ります」
ここで俺が作ります、とか言えたらカッコいいのだろうけど、あいにく、チャーハン以上のスキルは持ち合わせていない。
何の前準備もなく、いきなりよその家で料理を作れない。
どうせ食べてもらうなら、自信作を食べてもらいたい。
ふと思いついてしまった。
それはとってもワンダフルな発想に思えた。
「……もし、俺が料理出来るようになったら食べてくれます?」
両眼だけを少し見開いて茜がこちらを見上げた。
眼鏡の奥の茶色い瞳が、いつもより早く瞬いた。
「あ、うん。食べる、けど、無理はしなくていい」
「うち、共働きだからさ、妹と交代で台所手伝わされるんですよ。味付けは母さんがやっちゃうから自信ないけど」
「偉いな」
「だからセンセイよりは手際いいと思うよ。ちょっとオフクロの味を教わってきます」
どう、と目線だけで尋ねると、もう3度ほど目を瞬かせた茜が、ふわりとその瞳を細めて微笑んだ。
「判った、楽しみに、してる」
「うん」
にっこりと笑いかけて、嬉しくなる。
こうやって、自分の居場所とか、役割とか、見つけていけばいいのかと、茜の隣にいていい理由が判った気がした。
そんなものがなくても、茜は、総一郎全部を受け入れてくれているのだろうけど。
「じゃあノートを出して。当初の目的を果たそうじゃないか」
……くすぐったく流れたあまやかな空気は、一瞬にして色を変えた。
茜はリアリストだ。非常に残念だ。
*
なかなかにスパルタで濃密なお勉強の時間を過ごした帰り際。
名残惜しい思いを抱えながら、たたきに腰を掛けてくつを履いていると、茜がすぐ後ろで膝をつく気配がした。
「浅尾、」
穏やかなアルトで呼ばれて、振り向くと同時に顔の横に両手をつかれた。
追い詰められて、どん、と壁に後頭部をぶつける。
囲い込まれて逃げる暇もなく、茜の顔が近づいて、くちびる同士がそっと触れた。
思わず見開いた目に、茜の閉じた瞳とまつげがアップで映りこむ。
そういえば、迫るほうが好みなんだっけ、とぼんやり考えているうちに、くちびるが離れた。
「……今の、なに?」
「アバンチュール」
「そう、ですか」
「……初めてか?」
非常に不本意だが黙って頷いた。
茜は満足げにそうか、と言うと、くちびるの端を素敵にあげて、にやりと笑う。
「それはどうも、ごちそうさま」
何かに負けたような気がして、身を引こうとした茜の肘をとっさに掴んだ。
「ん?」
「…………もいっかい、お願いします」
「ほう」
低く呟くと同時に、再び眼鏡の顔が迫ってきてくちびるに触れた。
今度はちゃんと目を閉じられた。
羽のように軽く触って、すぐにぐいとくちびるを押し付けられたかと思ったら離れてしまった。
名残惜しげに息を吐いて、もう一度、と目だけで訴えてみたが、茜はゆるゆると首を振った。
「今日はもう終りだ」
「なんで?」
「分散させた方が味わい深いから」
意味が判らないが妙に説得力のあるその言葉に不承不承、首を縦に振る。
茜は眼鏡の奥の茶色い瞳を柔らかく細めて、総一郎の頭をそっと撫でた。くすぐったくて、心地いい。
「送っていく」
「一人で帰れますよ」
「うん、そうじゃなくて…………名残惜しい」
ギリギリ聞こえる程度の大きさで、早口にさらりと呟くとさっさと靴を履き始める。
また萌え殺された。
どうしてこう、タイミングよく自分が欲しい言葉をくれるのだろう。
同じように自分は、茜を幸せな気分に出来ているのだろうか。
「……また、遊びに来てもいいですか?」
「うん。また来てくれると嬉しい」
「ごはんも、楽しみにしてて」
「ああ、それは嬉しいけど、勉強もな」
「ちゃんとやりますよ、大丈夫」
「そうか」
「そうです」
そうか、ともう一度呟いた茜の手を握って歩き出す。
その手は一瞬触れたくちびると同じように柔らかくて、納まりを見せたはずの胸がまたどきんと高鳴った。
二人で歩く初夏の夕焼けはあまりに赤くて、物悲しさを増幅させる。
明日も学校で会える、と、なんとか自分に言い聞かせて、さて最初に作るのは何にしようかと、無理矢理に楽しいことを考えた。
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