呟き尾形の個人的な資料です。

呟き尾形の哲学自転

※この記事は、みなてつwikiへ投稿した記事を基にした記事です。


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 現象学とは真実を見つけ出す方法論です。
 ですから、真実を語る方法論ではありません。
 つまり、エポケーによって、ありとあらゆる、先入観を取り払うことでそこに残る本質(本質直観)がどのように基礎付けられるか。
 というところで、終わってしまいます。

 ですから、「現象学とは認識のメカニズムを調べているだけ」なのですが、認識のメカニズムを調べるには、認識そのものにメタをはらなければいけません。
 すると、どうしても、認識の外へ飛び出なければいけなくなります。

 サッカーを観戦するためには、サッカーの試合に出ないことが必須条件なのと同じ理屈です。
 その意味において、認識の外へ飛び出ることなの現実的には不可能ですが、限りなく、その状態に近づくためには、どうしても主観および、客観を除外しないといけない。というわけなのです。

 さて、認識のメカニズムを調べる前後でも、認識の違いが生じてしまい、その意味において、新たな認識が生じてしまいます。
 それが、現象学が、現象学として分析される前後においては、さまざまな判断や主観や、先入観が介入せっざるを得ないということです。

 それがゆえに、現象学が、宗教的な新境地を齎す力が現象学にあるように感じられる可能性は否定できません。
  しかし、それは明らかな現象学に対する、大きな誤解だといえます。
 
 ところで、上記の仕組みを利用して、現象学の得意なモデルがあげられます。
 それは、現象学と他の学問への考察の移行があります。
 真実を語る部分は現象学と組み合わされた学問で語られるものと成ってしまうのです。
 とはいえ、現象学的現象学というモデルを使用した場合、「独我論解決するものではではないものの、問題を一つ推し進めることにはなりうるわけです。

エポケー

本質直観

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