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【定義】

道元禅師の後を嗣いで永平寺2世として住した懐弉(えじょう・懐奘とも)禅師のこと。道号は孤雲。諡号は道光普照国師。

生没年:建久9年(1198)〜弘安3年(1280)
出身地:京都
俗 姓:藤原氏(九条家系)

【略歴】

藤原氏に生まれた懐弉禅師であるが、史伝では「九条大相国」と称された藤原伊通(1093〜1165)の曾孫であるとされる。比叡山横川に円能法印に就いて出家し、建保6年(1218)に菩薩戒を受けた。比叡山に於いては止観・倶舎・成実・三論・法相・浄土など、多くの仏教諸学を参究したが、当時流行していた禅宗の道に進むようになった。

当時、禅宗挙揚していたのは、一方では鎌倉幕府の帰依を受けて流行した明庵栄西禅師、そして一方では、悟りを開いたと自称し中国の拙庵徳光に偈を送って認めてもらった日本達磨宗の大日房能忍の系統があった。懐弉禅師は、この後者の日本達磨宗の系統で、大和多武峰にて布教していた仏地覚晏の下に参じている。しかし、この多武峰が興福寺の暴徒によって破却されてしまった。

同じ頃、道元禅師は中国留学から帰国されており、懐弉禅師は建仁寺に道元禅師を訪ねた。仏教の教義について色々なことについて話し合い、特に「見性成仏」などについて、論破された結果、懐弉禅師は道元禅師に弟子入りすることを決意するが、道元禅師が自らの修行道場を持たないことを理由に、また別の機会に弟子入りすることを願った。よって、後の機会を待つことになる。この様子を懐弉禅師の孫弟子に当たる瑩山紹瑾禅師は『伝光録』「第五十二章 孤雲懐弉禅師章」にて以下のように示している。
永平元和尚、安貞元丁亥歳、初て建仁寺に皈りて修練す。時に大宋より正法を伝て窃かに弘通せんといふ聞へあり。師聞て思はく、我既に三止三観の宗に暗からず、浄土一門の要行に達すと雖も、尚ほ既に多武の峯に参ず。頗ぶる見性成仏の旨に達す。何事の伝へ来ることかあらんと云て、試に赴きて乃ち元和尚に参ず。初て対談せし時、両三日は唯師の得所に同じし。見性霊知の事を談ず。時に師歓喜して違背せず。我得所、実なりと思ふて愈よ敬歎を加ふ。稍や日数を経るに、元和尚、頗ぶる異解を顕はす。時に師、驚きて鉾先を揚るに、師の外に義あり、悉く相ひ似ず。故に更に発心して伏承せんとせしに、元和尚即ち曰く、我れ宗風を伝持して初て扶桑国中に弘通せんとす。当寺に居住すべしと雖も、別に所地を択で止宿せんと思ふ。若し処を得て草庵を結ばば、乃ち尋ねて到るべし。此に相隨はんこと不可なり。師、命に隨ひて時を俟つ。

この後、文暦元年(1234)に、深草に庵を構えていた道元禅師に正式に弟子入りした。懐弉禅師の弟子入りに続いて、日本達磨宗からは多く道元禅師に参ずる者がおり、懐鑑上人、義介禅師、義演禅師なども入ることになる。弟子入りしてからの懐弉禅師は、道元禅師の侍者として身の回りの世話をし、受けた教えは『正法眼蔵随聞記』としてまとめられた。また、以下のような公案で悟りを開く。
ある時、元公(=道元禅師のこと)、一毫、衆穴を穿つの因縁を挙示す。師(=懐弉禅師のこと)言下に大悟礼拝す。元問う「礼拝の事、作麼生」と。師云く「一毫は問わず。如何ならんか是れ衆穴」と。元微笑して曰く「穿ち了れり」と。師礼拝し了りて退く。元大いに悦んで、真の法嗣と為す。『三祖行業記』「二祖弉禅師」章参照

そして、弟子入り翌年の文暦2年(1235)には「仏祖正伝菩薩戒」を受けて、その力量を認められ、『建撕記』などによれば、同年8月15日に伝法したと伝える。そして、更に嘉禎2年(1236)12月の除夜には興聖寺最初の首座として秉払(公案を提唱して払子を振るうこと)し、道元禅師の弟子達の中でも中心的な存在となった。道元禅師が京都・興聖寺から越前に移ってからも常に隋侍され、『伝光録』には、他の職にあっても常に侍者を兼ねたとされている。それは道元禅師が亡くなった後も続いた。亡くなった後は永平寺2世として、その宗風を支えるとともに、道元禅師の祖像に対して生前と同じように接するなど、粉骨砕身して道元禅師を慕った。

永平寺では道元禅師が亡くなった後、その忌日(旧暦8月28日)の前後一週間をもってお祀りしていたが、懐弉禅師は自分一人のために後代の者が改めて祀ることが無いように、この一週間の間に亡くなることを願い、それは果たされた(8月24日に亡くなる)。そして、墓も道元禅師のすぐ近く、ちょうど侍者が侍る位置に立てられている。遺偈は次のようなものであった。
八十三年夢幻の如し、一生の罪犯弥天を覆う。而今の足下無絲去、虚空を蹈翻して地泉に没す。 『三祖行業記

『三祖行業記』が伝える限り、弟子には、「付法弟子」として永平寺3世となった徹通義介禅師・大慈寺開山寒巌義尹禅師・義準仏僧(仏聴)・宝慶寺開山寂円禅師が挙げられ、更に「伝戒弟子」として永平寺4世となった義演禅師、そして道荐がいたとされている。なお、全てではないが多くの場合、道元禅師の弟子がそのまま懐弉禅師の弟子になり、後にはひとかどの僧侶として各地で化を振るったという。

なお、滅後六五〇回忌に当たって、昭和5年(1930)5月、道光普照国師を下賜された。

【著作】

・懐弉禅師には、自分自身で書いた著作は、道元禅師の『正法眼蔵』「光明」巻を受けて書かれた『光明蔵三昧』があるとされていた。思想的には、道元禅師の修証観と若干の相違を見せつつも、曹洞宗宗乗を極めていると評価できる面もあり、『正法眼蔵』参究者としての懐弉禅師の面目を伝えている。しかし、発見の経緯などから、書誌学的には真撰かどうかは疑わしいとされている。

・道元禅師の言行の記録に務め、『正法眼蔵』『宝慶記』の書写に加え、上堂などの記録を『道元和尚広録(永平広録)』として他の弟子達と共同で編集し、『正法眼蔵随聞記』を書き残すなど、現在の我々が道元禅師の著作の多くを読み、その生き方を知ることが出来るのは、まさに懐弉禅師の努力があってのことである。もし、道元禅師が懐弉禅師を得ることがなければ、現在このように評価されることは有り得なかったことであろう。改めて、懐弉禅師の報恩行を鑽仰するものである。

【法諱・道号について】

懐弉禅師のお名前だが、真蹟といわれている文献を見ると、「懐弉」も「懐奘」もともにある。ただ、『正法眼蔵』「仏性」「十方」両巻は後者である。また、道号の「孤雲」だが、受業の弟子である瑩山禅師の文献には一切登場しない。江戸時代の洞門諸師に関する灯史では、当たり前のように道号は孤雲であると指摘されるが、それが何に依っているかは不明である。

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