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【定義】

〃佇犬魎覇匹垢襪海函L枡鼻η扱弌諷経・誦経・転読などの方法がある。作法の詳細は「看経法」の項目を参照されたい。
道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では21巻、75巻本では30巻。仁治2年(1241)に宇治の興聖寺にて示衆された。

【内容】

〜眛興,任蓮道元禅師が伝えた天童如浄禅師の只管打坐の教えがあり、そこでは、「参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし。焼香礼拝念仏修懺・看経を要いず」などとあるから、「看経」の修行についても否定されたように思われるかもしれないが、この教えはあくまでも、坐禅中の兼行に関しての言及だと理解されるべきであろう。よって、曹洞宗では道元禅師『正法眼蔵』「看経」巻や、瑩山禅師『瑩山清規』や『洞谷記』「看経法」等に、看経の古儀が見える。

△泙此道元禅師は「看経」の事実について、自分から見た対象として経典としてではなく、まさに自己そのものが経巻であることを示そうとされる。そのために、「自己」の定義も以下のようにされるのである。
阿耨多羅三藐三菩提修証、あるひは知識をもちい、あるひは経巻をもちいる。知識といふは、全自己の仏祖なり。経巻といふは、全自己の経巻なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるがゆえに、かくのごとくなり。自己と称すといへども我你の拘牽にあらず、これ活眼睛なり、活拳頭なり。

そこで、この菩提そのものの修証として、或従知識・或従経巻とされたことを承けて、さらに経巻と自己との関係を発起する方途として、「看経」があるのだが、この場合、ただ「経を看る」という意味ではない。
しかあれども念経、看経、誦経、書経、受経、持経あり、ともに仏祖の修証なり。しかあるに仏経にあふことたやすきにあらず。於無量国中、乃至名字不可得聞なり。於仏祖中、乃至名字不可得聞なり。於命脈中、乃至名字不可得聞なり。仏祖にあらざれば、経巻を見聞読誦解義せず。仏祖参学よりかつかつ経巻を参学するなり。

調度この文章に出たが、「仏経」巻との関連性が指摘されており、当に仏=経としての事実を説いたのが、「仏経」巻であるとすれば、この「看経」巻は、それを叢林での修行に力点を於いて説かれたものである。そして、この仏経=看経としての故事を挙げて、それぞれに提唱されながら、一巻をまとめておられる。

用いられた公案は、「薬山陞座」や「東印請祖」や「薬山看経」など、他多数であるが、それらについて、道元禅師は「仏祖の屋裏に、承当あり、不承当ありといへども、看経請益は、家常調度なり。」という巻尾の言葉で締めくくられている。また、義雲禅師著語で指摘したように、「薬山看経」で示された「遮眼」も重要であろう。この語は、本来の意味は「眼の相手をさせる」という中国の俗語だが、ここでは、「蔽われた眼」の意味で、眼にとって一切が経巻、いや眼そのものが経巻であることを指した言葉である。

なお、同巻に於ける特徴として、道元禅師が中国で直接に見聞してきたものであろう、「看経法」が示されている。その詳細は同項参照のこと。

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