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【定義】

元々は達磨宗の僧・懐鑑の弟子であったが、後に興聖寺道元禅師に参じるようになる。道元禅師が亡くなった後、懐弉禅師に参じてその力量を認められたともいうが、最終的には高野山に登り、名前を義能と改めて、播磨の加古郡に無量寿院を開いたという。

生没年:不詳
俗 姓:不詳
出身地:一説に越後の人とも。

【内容】

元々日本達磨宗の懐鑑に弟子入りしたが、後に比叡山に登って経律論の三蔵、そして天台教学を学んだとされている。また、興聖寺にて道元禅師に参じた。

道元禅師が越前に移ると、興聖寺にとどまって後事を託され、興聖寺にいる間に越前に向かって木犀の樹を送ったという記述がある。
同月七日(寛元2年[1244]9月のこと)、宇治の興聖寺より、木犀樹到来、義準上座送りて而今に到り、孤雲の前に種える、云々。 『建撕記

そして、後には永平寺に移ったと思われ、永平寺では書記を任されたともされており、道元禅師に、自らの師であった懐鑑のための上堂を依頼したことが知られている。
書状懐鑑上人忌辰の為に上堂を請す。云く。老鶴雲に巣くい眠り未だ覚めず、壷氷の雪の上に更に霜を加う。荘厳報地豈他事ならんや。少しきの薫修有り一炷の香。且く道え、衲僧分上、今日、又、作麼生良久して云く、言うことを休みね、彼岸目前の外、拄杖一条、是、橋梁、と。 『永平広録』巻7−507上堂

また、漢詩を交換したことも記録に残っている。この時、道元禅師は病に倒れていたともされ、義準自身がその歌を代筆(右筆)したとされている。
雪の夜、準記室の廿八字を感じて、病中に右筆す  訪道登高す深雪の夜、覆身没腰憐むべき時なり、頭を刎り臂を断つ邪法なりと雖も、藤蛇を跳脱する乃ち正師なり。 『永平広録』巻10−偈頌98

なお、道元禅師が亡くなった後は、懐弉禅師に参じて心印を受け、越前永徳院の開基となり、歓喜院にて隠棲したとされているが、一方で、『三祖行業記』では、晩年に宗旨を軽蔑したために、龍天によって罰せられたともいう。また、道元禅師が亡くなった後のことであろうが、京都の五山に上り、更に高野山に入ったともいう。『続伝灯広録』「播州賀古郡無量寿院開山伝灯大僧都義能伝」に以下のようにある。
大僧都義能、初め義準と称し、字は明信。越後州の人。本、禅宗仏法禅師に依って出家し、常に随侍の者、長く遍参に及ぶ。皇都、五山の関を叩き、継いで高野山金剛三昧院に聞こゆ。台密禅を兼ねる。

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