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【定義】

道元禅師の門下にいた僧であるとされるが、僧侶として相応しくない行為をしたとして擯斥される。一説に永平寺では首座を務めたともされる。

俗 姓:不明
生没年:不明
出身地:不明

【内容】

玄明首座に関する記述は幾つか存在しているが、まずは『御遺言記録』である。
又た先師は尋常に化を挙せらるるの上の是非の中に云く「汝が本師に於いて人を見る眼有り。然れば汝を許して嫡嗣と為す。又た我が会に参じて直綴を著して以来今まで放逸の聞こえ無し。又た其の兄弟多しと雖も実に是れ仏法なる者なり。其の神際に抜群の志気有りて、彼の玄明等に似ず。当時は事に依りて罰せる院内の例なり。彼の身に於いて不覚なるに非ず。

この『御遺言記録』とは義介禅師か瑩山禅師あたりが編集したものだと思われる。道元禅師最晩年に於いて、義介禅師とどのような会話を交わしたかが記録されている書物である。

そこで、道元禅師は義介禅師について、大変にやる気があって素晴らしいとしながら「彼の玄明等に似ず」とされている。しかも、玄明首座が「当時は事に依りて罰せる院内の例」ということは、何か理由があって罰せられたことを意味している。

具体的な内容は分からないが、修行について大きな思い違いをしたことがあるようである。そこで、『建撕記』に依拠して考えてみたい。道元禅師は鎌倉の北条時頼の下に行き説法した後で永平寺に帰るのだが、その後になって北条時頼は寄進を申し出てきたとされている。
師、帰越の後、西明寺殿願心を留めし、為に越前国六條歩を供養すと雖も、師これを受けず。

しかし、道元禅師は寄進を申し出た最明寺殿(=時頼)に対して、にべもなく断っている。そして、この時の寄進状のやり取りに関わった僧が、今回採り上げている玄明首座であり、「寄進を断る」という師の意図を考えなかったため、以下のようなことを起こしてしまう。
玄明首座、この寄進状の御使いに成るなり。かの保の御寄進を歓喜し、衆中に触れあるきたもう。師、聞き得て「喜悦の心汚し」とて、則ち寺院を擯したもう。玄明が坐禅の床まで取ると、云々。前代未聞のことなり。

要するに、玄明首座は時頼から寄進状をもらってきたことを、まるで自分の手柄のように考え、そして永平寺での生活が良くなると思ったらしい。そして永平寺に帰るや修行僧の間に知らせて回った。ところが、道元禅師はそのようにはしゃぐ玄明首座の心根を「汚い」という一言で断じ、寺から追放してしまった。しかも、その際に玄明首座が坐禅していた場所(=これを禅床とも単ともいう)の板を切り取り、しかもその地面までも(一説には)7尺(=2.1メートル)ほど掘ってしまったとされている。

ところで、その後の玄明首座だが、『建撕記』に末路が示されている。
かの玄明は、師の入滅已後百三十年の後、伊豆国に箱根山にて行脚の僧に行き逢って云く「我はこれ、越州永平寺の玄明首座と云う者なり」と。師、在世の物語し、竹杖にすがると。その行脚の僧、永平寺にて語り申す。

なにやらオカルトじみた話だが、道元禅師が亡くなられてから130年後に、箱根山中にて発見されたようである。箱根といえば、役小角などの修験道とも関わりがあるが、仏道修行が全うできなかった玄明首座は、今度そちらの道で自らの煩悩を滅却しようと励んだのかもしれない。しかし、杖がなくては立てず、しかも口から出るのは、道元禅師が生きておられた頃の永平寺の話ということは、昔の栄光にすがって生きていたことを意味していると思われ、一僧侶の末路としては、あまりに惨めでもある。

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