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【定義】

道元禅師が、参学師であった仏樹房明全和尚の略伝や、遷化する際の話を認(したた)めて、そしてどのようにして舎利が取れ、それを持ち帰ってきた経緯が書かれている。明全和尚の弟子である智姉(明智優婆夷の説有り)という者の求めによって書かれたものであり、漢字仮名交じり文の仮名法語である。嘉禄3年(1227)10月5日、建仁寺にて書かれている。
熊本県玉名市の広福寺に伝わる文書で、寒巌義尹禅師が伝えた「仏舎利」の経緯が書かれたもの。詳細は「仏舎利相伝記」項参照。

【内容】

道元禅師が先師として追慕していた師の一人に明全和尚がいるのだが、明全和尚は留学先であった天童山の了然寮(了然斎)にて病死した。そこで、現地にて荼毘に付し、その際に舎利が取れ、守っていくべきことを示した一文を記している。

なお、明全和尚については臨済宗側の伝記が無いようだが、曹洞宗側では持律堅固の僧であり、「建仁寺二世」であると伝え、栄西禅師の高弟であるとされている。しかし、『禅学大辞典』によれば、建仁寺二世は栄西禅師の弟子の退耕行勇にする。しかし、実際のところはそれも違い、禅慶和上であるとする(『扶桑五山記』)。

さて、道元禅師とともに入宋された明全和尚は、天童山にて宝慶元年(1225)5月27日に42歳で示寂した。そして、29日に火葬に付したところ、舎利三六〇余箇が出現するという奇瑞があったことを伝え、これは日本に仏教が伝来して600年余り、未だ曾て無かったことだと伝えている。道元禅師が伝えた『明全戒牒奥書』にも東大寺戒壇院で受戒された明全和尚の略伝があるので、明全伝は、そちらも合わせてご参照願いたい。現在、建仁寺内には、明全和尚の墓塔が存在している。

なお、道元禅師が舎利信仰の強かった当時にあって(達磨宗などは顕著だった)、舎利信仰を否定したことは、以下のような一文からも知られている。
是レを思フに、仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是レを仰ぎて得悟すべしと思はば、還ツて邪見なり。 『正法眼蔵随聞記』巻2−1

ただ、『日本国千光法師祠堂記』にも、明全の火葬後に、「堅固子無数を得たり」とあるため、舎利を得たことが想起され、しかも道元禅師が明全和尚のために詠まれた偈頌にも「金剛焔後、真身を露す」(『永平広録』巻10−真賛5)とあるため、道元禅師が単純に舎利を否定したというような考えをすることは慎むべきである。

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