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【定義】

/反瓦録搬里反粥Cν遒呂發未韻襪海函身体と心がもぬけること。曹洞宗の宗学では、坐禅している状態が、まさに身心脱落であるとする「坐禅時脱落」のこと。
天童如浄禅師の下で、道元禅師が大悟徹底する機縁となった言葉。曹洞宗の宗学では「叱咤時脱落」と呼ばれる。

【内容】

身も心も、一切の束縛から離脱することであるが、その状況として「坐禅時脱落」と「叱咤時脱落」の二義性がある。後者については、一切の束縛から離脱しているため、大悟底の境界にいたることになる。
いはゆる道は地によりてたふるるものは、かならず地によりておく。地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを挙拈して大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。 『正法眼蔵』「恁麼」巻

道元禅師は天童如浄禅師の教示によって、参禅とは身心脱落であり、只管打坐をして大悟底に至ることとしてではなく、只管打坐こそ大悟底に他ならないと悟った。その状況は『三祖行業記』に以下のような問答として残されており、これが「叱咤時脱落」である。
天童五更坐禅、堂に入って巡堂して、衲子の坐睡を責めて云く「参禅は必ず身心脱落なり。祗管に打睡して什麼か作さん」と。師聞いて、豁然として大悟す。早晨に方丈に上って、焼香礼拝す。天童問うて云く「焼香の事、作麼生」と。師云く「身心脱落し来たる」と。天童云く「身心脱落、脱落身心」と。師云く「這箇は是、暫時の伎倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」と。童云く「吾、乱りに你を印せず」と。師云く「如何なるか是、乱りに印せざる底」と。童云く「脱落身心」と。

道元禅師はこの「身心脱落話」を自らの説法や著作で縦横無尽に用いている。そこでは、身心脱落は只管打坐とともに用いられ、坐禅そのものが身心脱落であることが指摘されているが、これを「坐禅時脱落」という。
先師古仏云く、参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要いず。あきらかに仏祖眼睛を抉出しきたり。仏祖眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり。震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。 『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻

参禅の実態は、只管打坐によって知られるが、その内容が身心脱落なのである。坐禅はまさに仏法であるが、この両者の連関は、外的な観察者によって知られることはない。あくまでも、実践者だけが知るのである。また瑩山禅師は身心脱落について、以下のように提唱を行っている。
学道心意識を離るべしと云ふ。是れ身心と思ふべきに非ず。更に一段の霊光、歴劫長堅なるあり。子細に熟看して必ずや到るべし。若し此心を明らめ得ば、身心の得来るなく、敢て物我の携へ来るなし。故に曰ふ身心も脱け落つと。此に到りて熟見するに、千眼を回し見るとも、微塵の皮肉骨髄と称すべきなく、心意識と分くべきなし。如何が冷暖を知り、如何が痛痒を弁まへん。何をか是非し、何をか憎愛せん。故に曰ふ、見るに一物なしと。此処に承当せしを、即ち曰ふ、身心脱落し来ると。 『伝光録』第51章・道元禅師章

ここからすれば、身心そのものを自己に対して現象させていく「此心」について得るところが有れば、それで身心へのとらわれが無くなり、何物をも呼んだり、分別したりする事象がないと明記されている。これは事象の否定ではなく、それらに自己からの働きかけが及ばないことを意味しているのである。身心脱落とは、まさに世界の定義付けのやり直しに値する経験である。

【問題点】

,海痢嵜反潅ν遏廚、如浄禅師の語録に見えないため本当に言ったかは語録からは明らかにならない。一方で「心塵脱落」があったため、この両者を聞き間違いではないかとする学説が流行した。なお、道元禅師は如浄禅師が「身心脱落」について様々な機会に説示していたことを指摘している。
先師、よのつねに衆にしめしていはく、参禅者心身脱落也、不是待悟為則。この道得は、上堂の時は、法堂の上にしてしめす、十方の雲水、あつまりきく。小参の時は、寝堂〈裏にして〉道す、諸方衲子、みなきくところなり。夜間は、雲堂裏にして拳頭と同時に霹靂す。睡者も聞、不睡者も聞。夜裏も道す、日裏も道す。しかあれども、〈知音〉まれなり、為問すくなし。 『正法眼蔵』「大悟」巻草稿本

ただ、この一文は草稿本という下書きにのみ示されているため、実際の状況については、良く分からないとすべきである。また、そもそも『如浄禅師語録』は「広録」と違った「略録」であるため、「載っていない=言わなかった」とは、やや邪推に過ぎるように思われる。

「載っていない」事について、如浄禅師が言わず道元禅師が「心塵脱落」を聞き間違ったとする見解と、如浄禅師が言っていたのに語録に載らなかったとする見解とは、論理的にはどちらの方が優位と言うことはない。あとは、道元禅師の言葉を信じるかどうかということになろう。

∪茲傍鵑欧拭嵜反潅ν醢叩廚砲弔い討蓮道元禅師自身の言葉ではなくて、あくまでも後代の伝記資料の記述であるため、本当に「叱咤時脱落」なるものがあったかどうかについて、宗学上議論もあった。特に、道元禅師が、大悟を得る宗風を強調した臨済宗楊岐派の大慧宗杲を批判し、自らは黙照禅の系譜になる宏智正覚を古仏と尊んだことなどからも、大悟の経験自体が否定されたのではないかという議論もあった。

しかしながら、道元禅師は「待悟為則」という修証否定の論理を否定したのであり、大悟経験の否定を行ったことは文献上ただの一度もないはずである。よって、伝統宗学と呼ばれる研究方法を採った一部の学者が、待悟為則と大悟という両者の区別が出来なかったことによる誤謬であった可能性が高い。さらには、以下の説法もあるため、「叱咤時脱落」とは、まず事実だったのだろう。
汝等、諸上座瞿曇比丘の因由を知らんと要すや。一には天童の脱落話を聞得するに由って成仏道す。二には大仏拳頭力、諸人眼睛裏に入ることを得るに由る。 『永平広録』巻2-136上堂

また、本来悟れる者が、さらに修行をしていく本証妙修の論理にも合わないとされているが、以下の言葉などから、それも容易に解消されてしまう。
一人悟道すれば、自類他類一同に悟道す。一朝悟道すれば、前身後身一同に悟道す。譬えば船橋の如し。自他共行す、道に達し道に通じ、東に向かい西に向かう、一時無滞にして倶に無礙なり。 『永平広録』巻1-52上堂

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