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【定義】

‘本に曹洞宗将来した鎌倉時代初期の僧侶禅僧)で、越前国志比庄(現在の福井県永平寺町)に、日本曹洞宗大本山となる永平寺を開かれた。

生没年:1200(正治2)〜1253(建長5)年
出身地:山城国(現:京都)
俗 姓:村上源氏
諡 号:仏性伝東国師(1854年)、承陽大師(1879年)

道元禅師に関する伝記文献の書名。1935年に圭室諦成が日本評論社から刊行した『道元』、1992年に竹内道雄が吉川弘文館人物叢書から刊行した『道元(新稿版)』、2011年に和辻哲郎の「沙門道元」が文庫本化される際、書名が変更された『道元』(河出文庫)などがある。

【略年表】

※略年表リンク先は、それぞれの年代にジャンプする。

正治2年(1200) 誕生
建永2年(1207) 母の死
建暦2年(1212) 家を出て、比叡山の良顕(良観)を訪ねる。
建保元年(1213) 天台座主公円に就いて剃髪し、得度。
建保4年(1216) 園城寺公胤に質問する。
建保5年(1217) 建仁寺の明全に弟子入りする。
貞応2年(1223) 入宋するために日本を旅立つ。同年中に入宋
嘉禄元年(1225) 如浄禅師の下で身心脱落。
嘉禄3年(1227) 日本に帰国
貞永2年(1233) 深草の観音導利院(後の興聖寺)に入る。
仁治4年(1243) 越前に遷る
寛元2年(1244) 大仏寺に移る。
寛元4年(1246) 大仏寺を永平寺に名称変更する。
寛元5年(1247) 鎌倉行化
建長年間(1249以降) 晩年の道元禅師
建長5年(1253)以降 道元禅師入寂後について。

【略歴−中国に入るまで−】

父は源通親とも、源通具ともされているが、江戸時代に作られた伝記の影響もあって未だ結論を見ていない。ただし、古い時期に書かれた伝記による限り、父親は少なくとも道元禅師12歳までは存命であることから、源通親である可能性は無い。そこで、研究者の間では、父親は源通具であり、母親の名は不明(藤原氏ともされるが、伝記上は良く分からない)と推定されている(父親は文献に明確な形で名前が出るのではなく、道元禅師が「源亜相」と呼ぶことや、その生没年から消去法で選ばれたものである)。なお、道元禅師を「久我源氏」だと紹介する人もいて、現在の大本山永平寺の寺紋は「久我竜胆」ではあるが、もし、「源通具」が父親であるとすると、家名は「堀川」になるので、「久我源氏」ではおかしい。よって、古来の記述通り「村上源氏」が良いと思われる。

道元禅師は、正治2年(1200)1月2日(新暦では1月26日を高祖降誕会とする)にお生まれになった(ただし、古い伝記には、生誕日は出ず面山瑞方師『訂補建撕記』に見える)。瑩山禅師の『伝光録』第51章では、このような聖人の親は早死にをすると予言した者があったことを指摘している。そして、実際に8歳で母を亡くしたとされている。それまでも、4歳で『李嶠百詠』を、7歳では『毛詩』『左伝』などを読み(『三祖行業記』)、また父親に「周詩」一篇を献上したとも伝えられ(『伝光録』)、儒教などの教養と詩歌の勉学を積まれていた道元禅師は周囲の人々からの評価も高かった(文殊菩薩に喩えられるほどであった)。

しかし、母の死を契機に仏教書を読み始め、9歳の時には『倶舎論』を読んだとされている。そして、13歳の時に母方の親族(良顕[または良観]法眼)をたよって比叡山に赴いた。良顕は、父親などが怒ることを述べて意を翻すように諭そうとしたが、道元禅師は、母親に「汝、出家学道せよ」と告げられたことを挙げ、自分もそう思って「悲母及び祖母姨母等の恩を報ぜんが為に出家せんと思ふ」と意志の堅いことを告げると、良顕は感涙にむせびながら、横川の首楞厳院般若谷千光房に留学させた。

翌年(1213年)、当時の天台座主公円僧正の下で出家された。まず、4月9日に公円を礼して剃髪すると、翌10日には延暦寺の戒壇院にて菩薩戒を受けて比丘となった(『伝光録』)。

比叡山で修学中に、『大蔵経』を二度(一度という説もある)読んだとされる道元禅師だが、当時比叡山にて流行していた「天台本覚思想」に対して、重大な疑問を発したとされている。天台本覚思想では、一切の事象は仏陀本覚そのものであるとし、端的に「本来本法性・天然自性身」という、我々衆生が本来悟った仏であるという意義が強調されていた。さまざまな高僧の伝記を読んだ道元禅師は、「何故、本来悟った仏であるならば、諸仏は何故発心し、修行をして、悟りを得たのだろうか?」と疑問に思われた。この疑問を各地の僧に問うた道元禅師は三井寺の公胤僧正から、中国に渡るか、京都建仁寺で禅宗を挙揚していた明庵栄西禅師を訪ねるように勧められたのである。

建仁寺に赴いた道元禅師であったが、建保3年(1215)に遷化してしまった栄西禅師に対しては、深く弟子入りすることは出来ず(『宝慶記』冒頭の文章などから、何かの機会に相見はかなったものか。ただし、議論はある)、その弟子である仏樹房明全和尚に師事した。そして、その下で6年修行したが、どうしても疑問を解決できなかった(ただし明全からは印可証明を受けたという説もある)ため、明全和尚と一緒に中国に入られた。この中国留学を、当時の王朝が南宋だったことから入宋という。

【略歴−中国にて−】

中国に入られた道元禅師は、舟に留まっていたとき(留まっていた理由は、本人の病とも、或いは上陸するための書類の不備とも、様々推測されている)阿育王山広利寺の典座という役僧と出会って、最初の衝撃を受け、自らの修行観を改めたといわれている。この故事は、『典座教訓』にて示され、一般的には「椎茸典座」といわれている。道元禅師は、同著にてその時の典座和尚に礼を述べている。
山僧聊か文字を知り弁道を了ずる事は、乃ち彼の典座の大恩なり。

そして、先に明全和尚が入っていた天童山景徳寺に、自らも入ることになる。その時の天童山の住持は臨済宗楊岐派の無際了派禅師であった。この時、「新到列位問題」が起きたとする説がある。そして、修行過程なども納得できなかった道元禅師は天童山から出て、径山や普陀羅迦山などを始めとして、平田の万年寺・天台山・大梅山などの中国浙江省南部にある諸山を旅したとされている(一説には、栄西禅師の旅路を辿ったともいわれている。また、浙江省から出ていない)。また、この旅の過程で道元禅師は『嗣書』という悟りの証明書をあちこちで拝見することになった。後には、この因縁を『正法眼蔵』「嗣書」巻にまとめられている。

この旅でも正師を見出すことができなかった道元禅師は帰国も考えたが、老璡という者から天童山に如浄禅師が入ったことを聞く。或る因縁を感じながら道元禅師は再び天童山に入ることになる。そして、南宋の宝慶元年(1225)5月1日に如浄禅師と面授の拝を行った。この状況を後に『正法眼蔵』「面授」巻で以下のように表現されている。
大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏々祖々、面授法門現成せり。

そして、如浄禅師の下で厳しい坐禅修行に励み、只管打坐の禅風に親しむことになった。また、積極的に如浄禅師と問答をかわし、ここで学んだことは、『宝慶記』としてまとめられた。

道元禅師は、自分の修行が進む一方で、悲しい出来事も起きている。面授がかなった後すぐに、日本から一緒に来ていた参学師である明全和尚が病によって亡くなった。道元禅師はその葬儀を行い、遺骨を持ち帰って建仁寺に埋葬した。その経緯は『舎利相伝記』に示されている。

さて、如浄禅師の下で坐禅修行に励んでいた道元禅師は、同年の或る日、隣で坐っていた僧が居眠りしていたのを如浄禅師が怒った際に、その言葉を聞いて悟りを開いた。「身心脱落話」と呼ばれる因縁である。なお、この話は後の伝記『三祖行業記』に以下のように紹介されている。
天童五更坐禅、堂に入って巡堂して、衲子の坐睡を責めて云く「参禅は必ず身心脱落なり。祗管に打睡して什麼か作さん」と。師聞いて、豁然として大悟す。早晨に方丈に上って、焼香礼拝す。天童問うて云く「焼香の事、作麼生」と。師云く「身心脱落し来たる」と。天童云く「身心脱落、脱落身心」と。師云く「這箇は是、暫時の伎倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」と。童云く「吾、乱りに你を印せず」と。師云く「如何なるか是、乱りに印せざる底」と。童云く「脱落身心」と。

悟りを開いた後、同年の9月18日には如浄禅師から「仏祖正伝菩薩戒」を受戒し、如浄禅師の正式な弟子として認められた。それは、ただ如浄禅師の弟子になったというだけではなく、釈尊より各祖師が伝来していた正法眼蔵涅槃妙心を受けたことを意味していた。

そして、その後2年間天童山にて如浄禅師の指導を受けた道元禅師は、如浄禅師の「王侯貴族や権力に近付くな」という言葉などを受けて、日本に帰国した。その直前には如浄禅師から『嗣書』を承けたとされており、この時のものと思われる『嗣書』が、現在永平寺に残されている。この時、南宋の宝慶3年(1227)夏のことである。

なお、この中国で出会った寂円禅師は後に来日し、道元禅師の弟子になり(最終的には懐弉禅師法嗣)、越前大野に宝慶寺を開くなどしている。

【略歴−日本に帰国されてから−】

日本に帰国された後、中国に渡るまで修行した建仁寺に戻られた。それは、日本での師匠だった明全和尚の遺骨を納めるという目的(『舎利相伝記』参照)もあった。建仁寺に入るや、みずから「入宋伝法沙門」と名乗った道元禅師は、かつて比叡山を開いた伝教大師最澄が「入唐伝法沙門」と名乗ったのと、同じ位置に立ったことを表明したことになる。

この頃には最初の著作である『普勧坐禅儀』を著す。最も古い嘉禄本とされるものであるが、現在ではそれがどんなものだったのかは分かっていない。

また、この頃の建仁寺は開祖である栄西禅師の宗風が失われていたようで、道元禅師はすぐに(一説には3年後)別の場所に移って閑居してしまう。なお、その理由の一端が知られる文章として、道元禅師自ら指摘される内容は以下のようなことである。
山僧帰国より以降、錫を建仁に駐むること一両三年、彼の寺おろかにこの職を置けども、ただ名字のみあって、全く人の実無し。 『典座教訓

他にも、『正法眼蔵随聞記』では、栄西禅師が亡くなった後に残った僧侶達の怠慢ぶりが批判されている。そういう状況に嫌気が指したのであろう、道元禅師は建仁寺から出るのだが、建仁寺に寓居している間に、当時は達磨宗だったが、後には永平寺2世となる孤雲懐弉禅師が尋ねてきて仏法を聞いた。数日間の議論に及び(『伝光録』第52章)、その力量を認めた懐弉禅師は弟子入りを願ったものの、道元禅師は寺を新しく建てたら再び来るように願い、懐弉禅師はいったん帰り、文暦元年に弟子入りしている。

寛喜3年(1231)には、道元禅師にとっての立教開宗の宣言書と言って良い『弁道話』が著されている。一説には、先に行われた懐弉禅師との問答への答えになっているともされており、また朝廷に上奏されて『護国正法義』となったともされているが、詳細は判明していない。その後は、有縁の檀信徒が提供した土地を13箇所ほど見た上(これは『伝光録』第51章の説。『建撕記』では越前移転前)で、天福元年(1233)に宇治の極楽寺の旧趾であり、観音導利院(後の興聖寺)と呼ばれる寺院に入ったようである。

興聖寺を建立するにあたって、道元禅師は「勧進」のお願いを名文にしたためて、多くの人々に「僧堂」という坐禅を中心とした修行を行う道場建築に協力してくれるようにお願いされた。記録によると、弘誓院殿(藤原教家、明恵上人の弟子)という人や、正覚禅尼(不明なるも、源実朝の縁者か)という方などが協力されたようである。そして、嘉禎2年(1236)10月15日のことだが、興聖寺にて修行僧を集めて初めて説法された。その時の内容は以下のようなものである。
上堂して云く。依草の家風、附木の心、道場最好叢林たるべし。牀一撃、鼓三下。伝説す如来微妙の音。正当恁麼時、興聖門下、且く如何が道わん。良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国。無限の平人、陸沈をこうむる。 祖山本『永平広録』巻1−1上堂
    
要するに、この興聖寺こそが道場として最高であり。ここの修行そのものが、如来の素晴らしき教えを具体化した仏の国だということになる。道元禅師は、この上堂を通じて、まさに今ここで修行することの素晴らしさ、尊さを弟子達に伝えたのである。

興聖寺で説法を続ける道元禅師であったが、多くの弟子や信者が集まるようになり、それは一般の民衆から貴族まで多種多様であったと伝えられている。この間11年ばかりだったが、このような流行を快く思わなかったのが、当時京都近辺に強い教権を維持していた比叡山延暦寺から、その僧兵がやって来て興聖寺の一部を焼き討ちし破却するという出来事が起きたという(ただし、これは天台宗系文献の『渓嵐拾葉集』に『護国正法義』との関連で示されるのみであり、伝記資料では破却を伝えないことから、疑うに足る一件である)。以前から、師である如浄禅師から「王や貴族、権力には近付いてはならない」と言われていたのが気になっていた道元禅師は、ここで外護者の1人である、波多野義重公から所領がある越前に移ることを勧められ、「我が師である如浄禅師は、中国は越(南方の国。現在のベトナムに近い)の出身だったと聞く。越を慕って越前に移ろう」と返事をして、移転を承諾し、後席を弟子の義準などに任せた。寛元元年(1243)7月16日のことである。

なお、興聖寺にいたときに弟子で法嗣にまでなっていた僧海首座が27歳で亡くなった。

【略歴−越前に移る】 

道元禅師は翌閏7月1日までに越前国への移動を完了し、吉峰寺に寓止された。吉峰寺は道元禅師が叢林に望むような設備が整っていなかったと思われ、この時期には多くの『正法眼蔵』が著された。約30巻以上成立し、修行僧に示された。或いは、一時期(寛元元年11月下旬以降、翌年2月ごろまでと思われる)には禅師峰の麓にある庵でも修行された。一部の『正法眼蔵』はこちらでも示されている。

また、寛元2年(1244)2月25日は菅原道真公の命日に当たるが、当地の天神宮に参詣をしたようで、道真公の歌に和して自らの歌を詠まれた。さらに、同年の2月29日には、後の永平寺となる場所で、法堂を建てるべき土地が平らにされ、4月21日には法堂の基礎ができ、柱が立った。そして、7月18日には道元禅師はその寺に移られた。その時の様子は『永平広録』巻2の冒頭に以下のように書かれている。
師、寛元二年甲辰七月十八日に於いて、当山に徒る。明年の乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。

そして、この寺はしばしの間、大仏寺と名付けられ、以上の文章にある通り、翌年から修行僧の受け入れを始めた。

【略歴−大仏寺から永平寺へ】

道元禅師は大仏寺を開くと、安居修行の開始を告げる「結夏の上堂」(『永平広録』巻2−127上堂)を行って、安居の真意を弟子達に説き明かし、続く上堂では叢林のあり方について、夜間の上堂にて以下のような説示を行っている。
縦え衆多くとも、如し道人無くんば、実に是、小叢林なり。縦え院小さくとも、如し道人有らば、実に是、大叢林なり。『永平広録』巻2−128上堂〈抄録〉

さらには、『弁道法』を定めて僧堂を中心とした生活を定め、現在まで続くような厳しい修行が開始されている。他にも、以下のような上堂を行って、修行僧達の規則をその都度指示していることが分かる。
去年の冬間、特に兄弟に示す。若し、堂内・廊下・渓辺・樹下に於いて、兄弟相見の処毎に、互いに相い合掌低頭して如法に問訊すべし。然る後に説話せよ。未だ問訊せざる前、大小の要事を相い語ることを許さず。永く恒規と為すべし。是、仏祖相見の家常茶飯なり。仏祖、豈に礼儀無からんや。『永平広録』巻2−133上堂〈抄録〉

これは、大仏寺山内にあっては、もし修行僧同士が出会ったとき、必ず合掌問訊等の礼拝をすることを説いたものである。他にも、典座という修行僧の食事を作る役僧や多くの知事が入れ替わりに任命されたようで、その任命のたびに請する上堂や、辞めるたびに謝する上堂を行っている。まさに、道元禅師が中国で見聞してきた叢林の姿を自ら現じたと言って過言ではない。

また、何か思うところがあったのか、道元禅師は寛元4年(1246)6月15日には大仏寺の名称を改めて永平寺にする上堂を行っている。
大仏寺を改めて、永平寺と称する上堂(寛元四年丙午六月十五日)。天に道有り、以て高く清み、地に道有り、以て厚寧なり。人に道有り、以て安穏なり。所以に世尊降生し、一手は天を指し、一手は地を指し、周行七歩して云く「天上天下唯我独尊」と。世尊に道有り、是、恁麼なりと雖も、永平に道有り、大家、証明す。良久して云く、天上天下、当処永平、と。『永平広録』巻2−177上堂

【永平寺での修行、そして鎌倉行化】

道元禅師は永平寺に名称を変更してから、それほど時を置かない間に、自ら誓願を立てている。まさに仏祖の大法を聞いて来世に成仏を願う内容であり、そのために今世であっても仏祖の法を承け嗣ぐべく修行に励むべきだというものである。

宝治元年(1247)には、鎌倉に下向された。この行いには幾つかの問題が指摘されている。まずは、招聘したのはいったい誰であったのか。通説では、永平寺の大檀那だった波多野義重公か、その親族が当時の鎌倉幕府執権の北条時頼に依頼されて鎌倉に呼んだのではないかとされている。『建撕記』には、「西(最)明寺殿(時頼のこと)」が堅く請うた旨が記されており、また室町時代の史料であるが『空華日用工夫略集』3では、足利義満と禅僧・義堂周信が天下の政について対談し、義満が「万一変有らば、天下を棄んと欲す。当に永平長老の平氏に勧むるが如くすべし」と述べたとされ、一方の義堂と、太清宗謂は「世を視ること弊屣の如くす、是れ乃ち安楽長久の基なり」と賛成したという。このような対談に使われるということは、道元禅師が亡くなってから130年近く経ってはいるが、よく知られた話だったようである。

しかし、この故事には問題点があり、その一つには『正法眼蔵随聞記』との記述の齟齬がある。同著の「巻3−6」では端的に以下のように示される。
若し仏法に志あらば、山川江海を渡っても来って学すべし。その志なからん人に往き向かってすすむとも、聞き入れん事不定なり。ただ我が資縁のため人を誑惑せん、財宝を貪らんためか。其れは身の苦しければ、いかでもありなんと覚ゆるなり。

要するに、仏道への志があれば、自分から呼ぶのではなくて、自分の足で聞きにこいということになる。しかし、道元禅師は鎌倉へ下向された。『三祖行業記』では、北条時頼が菩薩戒を受けたいと思っており、さらに寺院を建立して、留まることを願ったためであるという。また、鎌倉での活動だが、漢詩を詠んでいることが『永平広録』巻10−77偈頌に残っている。
因みに相州鎌倉に在って驚蟄を聞いて作す 半年喫飯す白衣舎、老樹梅華霜雪の中、蟄を驚かす一雷轟霹靂たり、帝郷の春の色桃華紅なり。

さらに、北条時頼(『道元禅師和歌集』の古写本では、時頼本人を指し、『建撕記』古写本の一部は「北の御方」として、その妻を指す)の請により道歌を献じたともされている。

宝治元丁未鎌倉に在して西明寺殿道歌を御所望の時、

・教外別伝を詠ず
あら磯の波もえよせぬ高岩にかきも付べきのりならはこそ
・尽十方界真実人体を詠ず
世中にまことの人やなかるらんかぎりも見へぬ大空の色
・見桃華悟道を詠ず
春風にほころびにけり桃の花枝葉にのこるうたがひもなし
・十二時中不空過を詠ず
過にける四十余りは大空の兎烏の道にこそありける
・父母所生眼を詠ず
尋ね入深山の奥のさとそもと我住れし都なりける
・本来面目を詠ず
春は花夏ほととぎす秋は月冬ゆききえで(さえて)すずしかりけり
・応無所住而生其心を詠ず
水鳥の遊くもかへるも跡たへてされども道はわすれざりけり
・不立文字を詠ず
いひ捨しその言の葉の外なれば筆にも跡をとゞめざりけり
・即心即仏を詠ず
おし鳥やかもめともまた見へわかぬ立る波間にうき沈むかな
行住坐臥を詠ず
守るとも覚えずながら小山田のいたづらならんかがし成けり
・正法眼蔵を詠ず
波も引風もつながぬ棄をふね月こそ夜半のさかりなりけれ
・涅槃妙心を詠ず
いつもたゞ我ふる里の花なれば色もかはらず過し春かな

翌宝治2年(1248)2月14日には、相模鎌倉郡名越白衣舎にて、阿闍世王六臣の法語を著している。そして、その頃に永平寺に帰ろうとした。このような活動をされている間に、時頼は道元禅師の帰山に臨んで、留めて新しい寺院を建てることを約束し、さらに越前に六條の寺領を寄進しようとしたともされるが、道元禅師は新地建立寺院も所領をも断って帰られたという。なお、『建撕記』では、道元禅師に入ってもらおうと思った寺は建長寺であったともされ、時頼は道元禅師門下にいた玄明首座という僧に手紙を託して、その意を伝えようとされた。玄明首座は、その寄進状を持って、永平寺山内を嬉しそうに歩いたそうだが、道元禅師はそのような「喜悦の心が汚い」として、玄明首座擯出したという(『建撕記』の説。『御遺言記録』では、道元禅師の教えとは違う内容の考えを抱き、追放されたようである)。

なお、この後、『建撕記』では、臨済宗の蘭渓道隆と道元禅師が手紙を交換したことが示されており、詮慧恵達という門弟が、博多に行った時に、たまたま手紙を受け取って使者になったときもあったようである。

鎌倉を出た道元禅師は宝治2年3月13日に永平寺にお着きになり、翌日には「帰山の上堂」を行った。
宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云く。山僧、昨年八月初三日、山を出て相州の鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。這一段の事、或は人有あって疑著す。幾許の山川を渉って俗弟子の為に説法する、俗を重くし僧を軽くするに似たり、と。又、疑わん、未曾説底の法、未曾聞底の法有りや、と。然れども都て未曾説底の法、未曾聞底の法に似たり、と。只、他の為に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉而已なり。然りと雖も、如是、這一段の事、永平老漢の明得・説得・信得・行得なり。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐、永平が舌頭、説因・説果・無由。功夫耕道、多少の錯りぞ。今日、憐れむべし水牛と作ることを。這箇は是、説法底の句、帰山底の句、作麼生か道ん。山僧、出去半年余。猶、孤輪の太虚に処するが若し。今日、帰山、雲喜ぶ気。山を愛するの愛、初めよりも甚だし、と。 『永平広録』巻3−251上堂

この上堂で見る限り、あくまでも鎌倉下向は「檀那俗弟子」がその対象であったことが理解できる。だとすれば、波多野氏縁故の者だった可能性が高い。なお、道元禅師が、『随聞記』で「仏道への志があれば、自ら来なさい」と言っていたのに、自ら出て行ったことについて、弟子達の間に不信感が広がっていたことが確認できるが、道元禅師は、それに対して、「未だ説かない法は、未だ聞かない法である」とした上で、今回鎌倉で説いてきたのは「修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉而已なり。」という因果歴然の事実だけだったといったのである。そして、それこそ道元禅師が仏祖として存在する事実であると強調しているのである。

【晩年の道元禅師】

建長年間(1249〜)に入る頃から最晩年に至るまで、道元禅師は「山居」の生活を肯定し、そのために『羅漢講式』などを行って、修行弁道を進めるための方便をなしている。また、安居修行を重んじて、「一生不離叢林」や、真の弟子を育てる「一箇半箇接得」なども強調されていくのである。宝治3年(1249)頃に修行僧を前に、500年もの間永平寺から離れないことを誓約した「不離吉祥山示衆」を行ったと伝えられている。
師、九月初十日。示衆して云く、今日従り尽未来際、永平老漢恒常に山に在り。昼夜、当山の境を離れずして、国王の宣命を蒙ると雖も、亦、誓って当山を出でず。其の意如何。唯、昼夜に間断なく、精進経行積功累徳せんと欲する故也。此の功徳を以て、先ず一切衆生を度し、見仏聞法して仏祖の窟裏に落ちんとする也。其の後、永平大事を打開して、樹下に坐し、魔波旬を破し、最正覚を成ぜん。重ねて此の義を宣べんと欲す。偈を以て説いて云く、古仏の修行、多く山に在り。春夏秋冬も亦、山に居す。永平、古の蹤跡を慕わんと欲し、十二時中常に山に在り。 『建撕記

そして、建長2年(1250)だが、永平寺の大檀那である波多野義重公から『大蔵経』が寄進されている。道元禅師は、それに感謝の意を表し上堂を行っている。
雲州太守、応に大蔵経を書写して当山に安置すべしの書到る上堂に、挙す。僧、投子に問う「一大蔵経に、還、奇特の事有りや、也、無しや」と。投子云く「演出、大蔵経」と。投子古仏、既に恁麼に道う。山門多幸。因みに一偈有り、雲水の為に道わん。乃ち云く、演出、大蔵経、須く知るべし、大丈夫・天人・賢聖類、幸いに護身符を得たり。正当恁麼の時、如何。良久して云く、世間、必ず阿羅漢有り、善悪、豈、因果の途無からんや、と。 『永平広録』巻5−361上堂

さらに、波多野公からの書状は重ねて永平寺に届いたらしく、道元禅師はそれに対してもお礼として上堂を行っている。
大蔵経、応に当山に書写すべしの由、太守の悦びの書、重ねて到る上堂。毘盧蔵界、古今、伝わる。三たび法輪を大千に転ず。千嶽万峰、黄葉の色、衆生得道、一時に円なり。 『永平広録』巻5−362上堂

建長3年(1251)のことだが、永平寺の奥にて、常に鐘の音が聞こえることについて波多野公から質問があったらしく、道元禅師はそれに書状を以て答えたようで、『建撕記』にはその手紙が収録されている。
御尋に付き、申し候。此の七・八年の間、たびたび候なり。今年正月五日、子時、花山院の宰相入道と、希玄と、霊山院の庵室に、仏法の談義し候処に、鐘の声、二百声斗聞こえ候。其の寺、京の東山清水寺の鐘か、法勝寺の鐘の声かと聞こえ候。随喜して聞き申し候。宰相も不思議の霊地也と随喜し玉ふ。入道がせかれに候。中将兼頼朝臣、一室に在りながら聞こえず。又、右近の蔵人入道経資法師も聞こえず。其の外、十二・三人、侍七・八人候も、皆承け給わず候。

建長4年(1252)は、道元禅師が一宗教者として活動できた最後の年となっている。興聖寺から行われていた上堂も、この年の10月1日・開炉の上堂までは日付が確認できる。ただ、それは全531回収録されている上堂の528番目であり、この時から日をおかずに上堂は終了していることが如実に分かる。『建撕記』では、「建長四年、今夏の比より微疾まします」という表記で、道元禅師が発病したことを伝えている。そして、翌年(建長5年)の1月6日には、最後の『正法眼蔵』になる「八大人覚」巻が示された。これは『遺教経』に説かれる「八大人覚」について道元禅師が提唱しようとしたものであり、同巻末尾にある懐弉禅師の識語に依れば「此れ、釈尊最後の教敕、且つ先師最後の遺教なり」とされている。

病がいよいよ重くなってきた道元禅師は、建長5年の7月14日に、永平寺を懐弉禅師に譲っている。また、翌8月5日には、京都にいた大檀那の波多野義重公から上洛して治療されるべきとの書状が届いたため、供の者を連れて上洛されている。その時、上洛する意志を『上洛療養偈』に著して「十年喫飯す永平寺、十箇月来病床に臥す。薬を人間に討ねて山を出づ、如来手を授けて医王に見しむ。」とされている。8月に、10ヶ月前から闘病していたのであれば、前年の夏が終わる頃には発病していたことが明らかになるだろう。

そして、丹波路から上洛したと伝えられ、京都・高辻西洞院にいた俗弟子の覚念の家に逗留して治療を行っていた。しかし、その効果ははかばかしいものではなく、数日が過ぎるころには死を覚悟していたようで、同年の中秋(8月15日)には「また見んと、思いし時の秋だにも、今夜の月にねられやはする」という歌をお詠みになったとされている。また、臨終行儀のようなことも行ったようである。
或る日、室内を経行して低声に誦して云く「若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舍。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆応起塔供養。所以者何。当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提。諸仏於此転於法輪。諸仏於此而般涅槃。」と。誦し畢りて後、此の文をやがて面前の柱に書き付け給う。「妙法蓮華経庵」と書し留め給う。 『建撕記

いきなりこのような行為をしたことが周囲には奇異に写ったのかもしれないが、道元禅師はこの行為について以下のように説明している。
此の『法華経』の文を書き付け玉う心は、今俗の家に入滅在ます故に、昔日諸仏も是の如く仰せられたると、引き玉う也。 『建撕記

そして、道元禅師も遷化するときが来た。建長5年(1253)8月28日、寅の刻(午前4時頃)に遺偈を自らお書きになったとされている。

五十四年  五十四年
照第一天  第一天を照らす
打箇浡跳  箇の浡跳を打して
触破大千  大千を触破す
 咦      咦
渾身無覓  渾身に覓むる無し
活落黄泉  活きながらに黄泉に落つ
  ※「浡」は正しくは足偏

遺偈を書き終わるや、書いた筆を擲げると入寂された。54年の生涯であった。

【略歴−道元禅師入寂後−】

建撕記』によれば、道元禅師が遷化されると、その場にいた波多野義重は天を仰いで地に臥し、54年の早世を嘆いた。覚念を始めとする在俗の弟子達も皆悲嘆し、特に懐弉禅師は半時ほど気を失ったほどであったという。その後、御遺体は落陽天神中小路の草庵に入れ、更に波多野義重が東山赤辻の小寺(現在の高台寺であるとされる)に龕を遷して、法に従って荼毘された。

同年の9月10日には、懐弉禅師が永平寺にご遺骨を持ち帰り、12日には方丈の間にて、入涅槃の儀式の如く、様々な供物を欧欧法事が行われている。『禅苑清規』の「尊宿葬儀法」に従って行われたものか。そして永平寺の西側に塔を建てて葬られた。それは承陽庵(現在の承陽殿)と名付けられた。

嗣法の弟子は懐弉禅師・京都永興寺開山詮慧禅師興聖寺で亡くなった僧海首座だったとされているが、更に数名を数えることもある。また、嘉永7年(1854)には孝明天皇から仏性伝東国師の諡号を賜り、明治12年(1879)には明治天皇から承陽大師の諡号を賜った。

【参考資料】

・竹内道雄『道元 新装版』吉川弘文館
・河村孝道編『諸本対校 永平開山道元禅師行状建撕記』大修館書店
・横関了胤著『伝光録』岩波文庫

【著作】

詳細は『道元禅師全集』項を参照せよ。

【伝記資料】

詳細は「道元禅師伝」を参照せよ。

このページへのコメント

御無沙汰しています。自分の講演のためにtenjin和尚様のブログにお邪魔しています。
つくづくよくこれだけ長い文章をお書きくださったかと改めて感心し、御礼申し上げます。

たまたま一カ所道歌「あら磯の」の「ら」

Posted by 風月 2015年10月22日(木) 13:35:57
http://www.goo.ne.jp/fugetu3483

> 松井勇二 さん

道元禅師御自身、漢文の語録を残していることもあり、中国語も出来たと見て良いでしょう。その紹介ですので、漢字言葉が多くなります。また、和歌は、「道歌」ですので、これも理解は容易ではありません。是非、分かったところがあれば、それを更に深められ、「何となく」ではなくて、「明得」していただけますようお願いいたします。合掌

Posted by tenjin95@管理人 2010年02月20日(土) 08:22:58
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/

難しい漢字言葉多々有り和歌の様なもの今一解らず処ありでしたが何となく解ったのは「欲」というモノを無くし自然を自然に見聴きする事に何かある様な気がする。この調和言葉無くして通づるものは無いものかと思った。

Posted by 松井勇二 2010年02月20日(土) 07:06:25

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