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【定義】

日本曹洞宗太祖である瑩山紹瑾禅師が自ら建立した永光寺などで使うために著された修行僧の規則。

【解題】

上下2巻本である同著は、一般には表題から『瑩山清規』や『瑩山和尚清規』と呼ばれるが、内題として『能州洞谷山永光寺行事次序』とあることから、永光寺での規則であることが理解できる。さらには、『洞谷清規』と表題が書かれた写本もある。この写本は永享6年(1434)に書写されており、『瑩山清規(下)』の年中行事に相当する部分が収録されている

清規」という言葉だが、これは「清浄大海衆規矩準縄」を略したもので、要するに修行僧のルールである。道元禅師にも『知事清規』『典座教訓』などの著作がまとめられ江戸時代に刊行された『永平大清規』がある。

そこで、同じような性格であれば別個に作らなければ良いのではないかと思われるが、前者が永平寺で行うための著作であれば、後者は瑩山禅師が開かれた永光寺總持寺などで修行するための具体的な方法を記した内容であると考えるべきで、所が変われば規則も変わるということであろうし、さらには『永平大清規』には、『弁道法』にて日中行事は示されるが、月中行事・年中行事は不備のままであった(或いは、火災で失われた可能性もある。『三祖行業記』「懐弉禅師章」参照)と思われる。よって、それを補う意味もあったと思われる。

したがって、場所が変わっても方法が変わらない日中行事の歯磨き・洗面など諸作法については『瑩山清規(上)』にて「十二時中の行履は、弁道法赴粥飯法洗面法・洗浄法、并びに寮中清規参大己事師法等に委曲なるが如し。悉く之を諳んずべし。」とされるなど、道元禅師の時代から用いられている清規の一部は、それをそのまま行うことを定めている。

なお、体系的な叢林行持が、初めてまとめられた『瑩山清規』は、極めてその重みがあり、結果、写本が多くなされたが、そもそも「清規」は、各寺院の状況に於いてローカライズされて用いられるものであることから、同じ『瑩山清規』という名前でありながら、内容を異とする場合が多かった。そのことを、江戸時代の学僧である面山瑞方師は以下のように指摘される。
これ瑩祖は、永光寺の行事ばかりを撰せし草稿に、後人が増減して瑕を附けたるを、一概に『瑩山清規』と題するゆえに、中の違却は、みな瑩祖一人に負せるなり。祖師に不孝なるべし。 『僧堂清規』巻1

『瑩山清規』については、容易に是非善悪を行うべきではない。ただ、用いるべき箇所を有り難く拝受すべきである。

【内容】

内容は永光寺で行っている日中行事・月中行事・年中行事を示し、またその行事を行うために必要な作法や回向文・疏などが示される。

[上巻]
⇒日中行事・月中行事、その他の回向(法要の末尾に読む言葉)や様々な法要で読むべき長文の趣意書(=疏)、多くの儀式の手順や方法。

[下巻]
⇒年中行事の作法や回向、そして疏の例文が収められている。

道元禅師と瑩山禅師とが示された清規をそれぞれ比べると、道元禅師が修行者個人が行うべき修行の内容や意義について説かれているのに対して、瑩山禅師は僧団として1日・1月・1年とどのように修行していくかが内容の主たるものであると指摘が出来、現在まで至る曹洞宗の修行道場や各地の寺院で行われる多くの法要の淵源が、ここに始まっている。

なお、この『瑩山清規』が拡大路線を突き進んでいた室町時代の曹洞宗に、どれほど大きな影響を与えたかと言えば、各地の大規模な修行道場ではこの『瑩山清規』に基づきながら、それぞれに合うように独自に変更しながら清規が編集されていることが挙げられる。多分にデファクト・スタンダードの扱いを受けたのだろう。永平寺も、月中・年中の行事を補完するため導入したほどである。

江戸時代にはまた別の清規が流行するが、それまでの宗門行持の基本には、『瑩山清規』が大きな影響を与えた。また、具体的な内容としては、基本的には漢文をもってそれぞれの作法・行法が解説されているが、必要と思われる場所には適宜図が付されるなどしており、懇切丁寧な内容である。

【テキスト・伝播】

常済大師全集』或いは『瑩山禅』などを参照されたい。また、その全体的な評価としては鏡島元隆『道元禅師とその周辺』(大東出版社・1985年)を参照すべきである。

また、『瑩山清規』の伝播であるが、現在多く目にすることが出来るものは、江戸時代に大乗寺月舟宗胡と卍山道白によって開版された流布本であり、これは延宝9年(1681)に成るものである。流布本の跋文には次のようにある。
瑩山清規は、瑣々たる礼数の謂には非ず。直に是れ仏祖身心の存する所なり。拈華の遺芳、名づけて仏行と曰い、面壁の孤風、喚んで祖儀と為す。仏行祖儀、叢林以て立つ。今日、幸いに此の書の出るに遇う。即ち、教外別伝の符にして、見性得髄の印なり。只、願わくは、人々拝玩し、処々、遵行して、古人、後昆を悲愍するの大恩に背かざらんことを。告げる所、此の如し。請う、高く眼を著けよ。延宝戊午仏成道の日 椙樹林大乗護国禅寺 現住月舟叟 印 印

なお、この流布本は、応永30年(1423)に行われた太容梵清による写本が原型になっている。そちらにも跋文が残る。
右は、洞谷第一祖瑩山大和尚後昆の為に設くるところなり。しかるに、当山の紀綱寮常住の旧本、字画漫滅して、編次正しからず。愚、これを慨き念うこと久し。ここに応永壬寅の冬十一月、同門諸老の尊命を蒙りて、当山の主盟を領す。よって、この行記を拝謄して、もって紀綱寮の公用に備え、素志を償うことを喜ぶなり。しかりといえども、刁刀・柬東・手丰・毫亳の謬り、ただ恐らくは、家醜を外に揚げ、誚りを傍人に貽んことを。惶懼戦慄の臻に勝えず。伏して覬くは、後覧の君子、穿鑿し改正して、予がために屈を雪がんことを。慈愍の手を袖にすることなくんば幸甚なり。ときに応永三十年癸卯に次る春正月吉日 總持開山瑩山祖師五世の玄孫比丘梵清 謹んで記す

このように、梵清は旧本の滅したるを補うために改めて謄写したわけだが、謙虚に、自らの筆写に誤りがあることを怖れ、よって、それを補ってくれるように後代の者に托す内容となっている。

また、『瑩山清規』は、梵清本よりもさらに古い写本が福井県福井市の禅林寺から発見された(=禅林寺本。同寺が全焼した際に、その焼け跡から奇跡的に発見された)。これは奥書から、通幻寂霊の法嗣である普済善救禅師(禅林寺開山)の手になる写本であることが確認されており、時代は永和2年(1376)になる。元々、浄住寺に伝わった本を写している。そして、この禅林寺本の研究に依って分かってきたことは、例えば『瑩山清規』は『禅苑清規』の影響を受けているとされてきたが、より古いものほど、その原文を変えずに受容されており、それは同時に『禅苑清規』を通底する禅浄一致思想をも受容したことになる。

例えば、葬儀法などが顕著だが、『禅苑清規』では既に、尊宿喪儀法亡僧喪儀法が確立されており、基本的に浄土への往生を願う儀式として成立している。『瑩山清規』の禅林寺本では、念誦などを除いてだいたいそのまま入っていたが、流布本など徐々に時代が下るにつれて浄土色が薄くなり、現代まで影響しているような曹洞宗独自の喪儀法が確立した様子が明確となった。特に禅林寺本については、下掲論文を参照されたい。

・竹内弘道「新出の禅林寺本『瑩山清規』について」(『宗学研究』32、1990年)
・尾崎正善「翻刻・禅林寺本『瑩山清規』」(『宗学研究所紀要』7、1994年)
・竹内弘道「禅林寺本『瑩山清規』の考察 ―発見の意義とその後の研究動向」(『宗学研究』46、2004年)

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