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【定義】

日本曹洞宗高祖である永平寺開山道元禅師が、その生涯において必要と思われたたびに、修行道場の規則をまとめたもの。「清規」とは「清浄大海衆の規矩準縄」という意味である。さらに、『永平大清規』というのは、玄透禅師永平小清規』に対する名前ともされており、道元禅師が統一的に付けた名前ではない。

【撰述時期】

各々独立した六編で、それぞれに撰述時期が記されている。一々を以下に挙げる。

典座教訓(てんぞきょうくん)
嘉禎3年(1237・禅師38歳)春に書かれたものである。

弁道法(べんどうほう)
大仏寺」と識語があるだけのため、おそらく、現在の永平寺大仏寺と呼ばれていた頃の寛元2年(1244)7月18日から、寛元4年(1246)6月15日までに書かれたものであろう。

赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)
永平寺」と識語があるだけのため、おそらく、寛元4年(1246)6月15日以降書かれたものだが、内容からすれば改称以来比較的早い時期に書かれたものか。

・吉祥山永平寺衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)
宝治3年(1249・禅師50歳)正月に記されたものである。

対大己五夏闍黎法(たいたいこごげじゃりほう)
寛元2年(1244・禅師45歳)3月21日、当時道元禅師が仮に掛錫していた吉峰寺において撰述されたものである。

・日本国越前永平寺知事清規(ちじしんぎ)
寛元4年(1246・禅師47歳)6月15日(=つまり大仏寺永平寺に改名した日)に撰述されたものである。

【撰述意図】

もともと、『永平大清規』は統一的な意図によって書かれたものではない。あくまで、道元禅師が自ら運営される叢林の規則を定めたものであり、特に従来の清規に欠けていた意義を補完したものである、とされている。ただ、いくつかには撰述意図も見えるため、抜粋する。

典座教訓
後記に「記して後来学道の君子に示して云う」とあるため、禅師が自ら体験された中国での故事や、知事としての典座の心構えを後の弟子たちに示されたものである。

弁道法
特に記載なし。

赴粥飯法
特に記載なし。

・吉祥山永平寺衆寮箴規
冒頭に「寮中の儀、まさに仏祖の戒律に敬遵し、兼ねて大小乗の威儀に依随し、百丈の清規に一如すべし」とあり、あくまでこの箴規がそれまでの戒律・清規に則ったものであることを示され、末尾に「前件の箴規は古仏の垂範なり、尽未来際、当山に遵行せよ。」とあるため、特に永平寺内での規範を作成されたものである。

対大己五夏闍黎法
後記に「右、大己五夏十夏に対するの法は、是れ則ち諸仏諸祖の身心なり。学せずんばあるべからず」とあり、修行者に叢林内での先輩に対する法を示されたものである。

・日本国越前永平寺知事清規
後記に「前来の数条は皆是れ古仏の巴鼻、先聖の眼睛なり。亘古亘今に不便なるべからず、学道証道に不合なるべからず」とあり、それまでの知事の弁道の様子を示して学人を導いたものであろう。

【内容】

典座教訓
修行僧の斎粥(昼食・朝食)を調える衆僧を司る者(典座)の心得を教示したもの。有名な「船中問答」「椎茸典座」の話は本編にある。道元禅師はそれまでの日本仏教に飽き足らなくなって、正法正師を求めて中国へ渡ったが、禅師の仏教参学の態度を根本的に変化させたのは、大刹の住持でもなければ、長老でもない一人の老典座であった。

弁道法
叢林一日の行持日課を示したもの。四時坐禅や食事作法などを中心に説示。普段の我々の日常生活は、「朝起きて夜寝るまで」と思いがちであるし、別にそれで何の問題もないのだが、『弁道法』ではまず黄昏(午後7時から午後9時ころ)の坐禅から始まり、次いで睡眠となる。釈尊の涅槃絵を御覧になればわかるのだが、必ず右脇を下にして、身体を横にして寝ているが、禅師は『三千威儀経』を引きながら、仏祖の寝姿までを大衆に指導する。

赴粥飯法
朝昼二時の粥飯の作法(食事作法)を示したもの。原型は『禅苑清規』第1巻に収録されている「赴粥飯」項である。そして、現代でも永平寺を始めとする日本曹洞宗の修行道場では、ほとんど『赴粥飯法』に準じた方法で行われている。冒頭では「是以法是食、食是法也」とされているが、法を実践的な日常の生活において捉えることしかできないことを主張されていた道元禅師らしい御言葉である。さらに、本編には禅師が仏法の威儀が西天から伝わったことを重視したことを示す一文がある。

・吉祥山永平寺衆寮箴規
衆寮の内外における修行僧の威儀用心を規定したもの。衆寮とは叢林における僧侶達の休憩所に近い建物であり、構造的には坐禅堂に近いが、各単毎に机が備えられ、祖録等を拝読して智慧を磨いたり、僧侶自身が身の回りのこと(裁縫・洗濯等)を行うことが出来る施設である。休憩所ということで、他の場所に比べ聊か気が抜けることになるのだが、そうした事情を勘案してのことだろう、道元禅師は本当に些細なことにまで気を配られ、仏威儀としての寮中作法を大衆に説示する。

対大己五夏闍黎法
五年以上叢林にあって修行した長老に対する後輩の儀礼を示したもの。元々南山道宣の手による『教誡律儀』に所収されている『事師法入衆法』『大己五夏闍黎法』に文字を増減して六十二条の条文に組み替えたもの。道元禅師にとって『対大己法』とは大乗の極致である。

・日本国越前永平寺知事清規
寺院ないし、僧事を主管する者(知事頭首小頭首)の職掌とこれに対する心構えを説示し、併せてその職にあるとき大悟した因縁事例を示したもの。冒頭に「知事は貴にして尊たり、須く有道の耆徳を撰ぶべし。その例……」とあり、これまでのインド・中国の叢林において如何に知事という役職が重んじられ、かつ尊貴にして有道の者が努めてきたかを説かれている。なお、『永平広録』に知事に謝する上堂が所収されている。当時知事程度の役職が変更される際には、必ず上堂が行われた。同様に『知事清規』の内容に相当する説示が行われている。併せて参究されなければならない。

【流布・伝播】

対大己五夏闍黎法』については、道元禅師自ら書かれたものが断簡として現存し、現在でも署名や花押の筆跡鑑定を行う際の根本真蹟資料となっている。そして、古い書写本は、文亀年間に永平寺15世光周禅師が書写した「典座教訓」と「知事清規」があるのみである。本来の六編は、各々独立した規範であって、収集・刊行したのは、永平寺30世光紹智堂禅師である。

光紹禅師は刊行するに因み「中ごろ塵に封じ霧に隠れて、見ること稍稀に、聞くこと既に鮮し。予来たって此の山(=永平寺のこと)に住するに逮んで、適之を蠧簡(=虫食いの本のこと)裏に遭ふ、苑も陰晦長夜に夜光の珠を得たるが如し」と、跋文を付した。そのまま承けるのであれば、当時でも六編の清規を見ることは難しかったのだろう。

それから、總持寺開山・太祖瑩山紹瑾禅師には、自らが住された洞谷山永光寺において依随すべき『瑩山清規』が存する。そこには、「十二時中の行履弁道法赴粥飯法・洗面法・洗浄法、并びに寮中清規参大己事師法等に委曲なり。悉くこれを諳んずべし」とされていて、道元禅師が書かれたと思われる清規に加えて「洗面法」「洗浄法」(=『正法眼蔵』「洗面」「洗浄」巻のこと)を「悉くこれを諳んずべし」とある。『瑩山清規』は瑩山禅師の系統で各地に伝播したため(現・岩手県水沢市の大梅山正法寺に伝わる『正法清規?』もその一つ)、瑩山門下で依随していたことが考えられるが、それでも、『正法眼蔵』はともかくとして六編の清規は写本が殊の外少ないため、伝播の状況については考慮されるべきであろう。『通幻寂霊禅師喪記?』には、『知事清規』が弟子に伝えられた様子が見える。

【他に見える清規的著作】

道元禅師には、先に挙げた『永平大清規』の他にも、その時々で書かれた修行僧の規則が存在する。多くは『正法眼蔵』の一巻として書かれているものだが、列挙すれば以下のようなものがある。

●『普勧坐禅儀
坐禅の方法を示したもの。

●『正法眼蔵』(95巻本ベース)
・「重雲堂式
雲堂(=僧堂のこと)での進退と、堂司の行法を指南された。

・「洗浄
雲水は日常、身体を清潔にすることを説き、爪切りや東司の使用法を示された。

・「袈裟功徳」「伝衣
御袈裟についての意義を説示し、搭袈裟の方法や、袈裟を洗う方法等が示されている。

・「看経
特に巻の後半で経本の読み方が示されている。

・「陀羅尼
本師に対する礼拝の方法について示されている。

・「洗面
入浴法や、洗面、歯磨きの方法が示されている。

・「坐禅儀
普勧坐禅儀』を和文にしたような内容で、坐禅の方法が示されている。

・「諸法実相
天童如浄禅師の下で行われていた正伝入室法について示される。

・「安居
叢林修行することとは、つまり大衆が集まって、同じ道場内で生活することに他ならないが、その際に必要な書類の作成方法が示されている。

・「示庫院文
庫院」とは、つまり修行道場の食事を作る台所のことである。「庫院」で調理する際の心構えなどが示されている。

・「供養諸仏
仏を供養するのに、塔を建て、慇懃に礼拝することが説かれる。

・「帰依三宝
仏法僧の三宝帰依する事の意義と、その方法が示されている。

・「受戒
受戒の際の行法が示されている。

●『永平広録
永平広録』は、道元禅師がその御生涯の中で弟子たちに説かれた説法の記録であり、説法の際、「口宣」として日常の行履について説かれたこともある。

【解説書等】

全体に関する本文のテキストとしては、大久保道舟博士校註『道元禅師清規』(岩波文庫)や、春秋社『道元禅師全集』第六巻などがある。

解説・註釈などだが、『永平大清規』は、『禅苑清規』をもとに、その内容の補完であったと考えられるため、意図的に偏向した内容となっている。さらに、近世までにはほとんど伝播していなかった事実から鑑みても、古い時期に書かれた註釈書等はないが、江戸時代に入ると数名の宗乗家が註釈を行っている。

・徳巌養存『衆寮箴規然犀?
面山瑞方『典座教訓聞解?』『衆寮箴規聞解?』『対大己法聞解?
瞎道本光『衆寮箴規求寂参?』『対大己法求寂参?』『亀鏡文求寂参』『略述赴粥飯法

最初に出来たのが、徳巌の『然犀』であり、それを批判して面山の『聞解』が成立し、その見解を参照しながら瞎道の『求寂参』が成立している。また、冠註を付した『永平大清規』も刊行されており、その註釈も参照可能である。

さらに、現在手に入るものも、全体に関する解説書では、従来の註釈を参照した『永平大清規通解』がある。部分に関するものであるが、石川力山先生他が訳された『典座教訓・赴粥飯法』(講談社学術文庫・1991年、820円)が刊行されている。参考にすると良いだろう。また、篠原寿雄師より、全文の訳文として『永平大清規』が出ているため、参考にされたい。 

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