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【定義】

瑩山禅師によって示された、全文500字余りの短編の坐禅解説書である。ただし、撰述時期や、撰述意図は不明である。

【内容】

そもそも「三根」とは、衆生の根性(=才能)を段階に分けて「上・中・下」としていくことであるが、ただ、これは善し悪しではなくて、いわば悟りの世界に入るのに、違いがあるということである。
上根の坐禅は、諸仏出世の事を覚らず、仏祖不伝の妙を悟らず、飢え来たらば喫飯し、困じ来たれば打眠す。

まず、上根の坐禅であるが、改めて悟る必要もないほどに、生活がそのまま坐禅であり、その生活を生き抜く事がそのまま仏法に契っていることを意味している。
中根の坐禅は、万事を抛捨し、諸縁を休息し、十二時中、暫くも怠惰無し。

次いで中根の坐禅は、まさに道元禅師が目指した坐禅であり、日夜坐禅の行に徹していく只管打坐を意味している。
下根の坐禅は、且く結縁を貴んで善悪の業道を離れ、直ちに即心を以て諸仏の性源を顕す。

最後に下根の坐禅は、みずからの修行を維持することが出来ない程度の内容であるが、しかし仏道との結縁を貴び、自らが具足する本来の悟りに気づく事を求めている。

そして、以上の「三根」を説かれた瑩山禅師は、以下のような指摘をする事で、いわゆる禅戒一如としての坐禅を説かれているのである。
五戒・八戒・菩薩の大戒、比丘の具足・三千の威儀、八万の細行、諸仏菩薩の転妙法輪、皆此の坐禅の中自り現前して尽きること無し。万行の中、最勝の実の行は、唯坐禅の一門なり。

戒律が、坐禅から出てくるという、まさに禅戒一如であるが、これは坐禅自体の功徳が無量である事を意味し、坐禅を悟りまでの手段ではなくて、あくまでも悟りそのものだと捉えて信仰する日本曹洞宗の宗義が良く表されている。

【その後の流布・伝播】

この著作は、長らく表には出なかったらしく、江戸時代の卍山が、自らが住持となっていた大乗寺で発見し、そして延宝9年(1681)に、『瑩山清規』を発刊する際の付録としたものである。その時に、卍山は自序を付しており、この著作の発見と発刊の経緯を示している。
大乗は乃ち徹通古仏の道場にして、瑩山・明峰相次いで住持を董す処なり。是の故に、禅誦にて暇有れば、必ず三師の故事を質す。偶古、篋を開いて此の好本(=『三根坐禅説』のこと)を得たり。

そこで、卍山は禅とは本来階級がない事を示し、三根と言いつつも、それを否定しがたい才能の違いとして捉えることなく、この三根が全て具有するような坐禅をすべきであると説くのである。

余談的だが、この著作は瑩山禅師の弟子の明峰素哲禅師の「明峰和尚法語?」の中盤以降と極めてよく似たところがあり、古来から瑩山禅師の真撰とは思えないという見解も多いが、曹洞宗学では師資一等の見地から同一的内容であっても問題はないとされている。

【解説書等】

・『常済大師全集』(鴻盟社)
原文が収録されている。

・『瑩山禅』第9巻(山喜房仏書林)
瑩山禅師の全著作を解説し、訳している『瑩山禅』の第9巻目に、『坐禅用心記』や『教授文』などと一緒に収録されている。

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