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【定義】

道元禅師が嘉禎元年(1235)冬至日(11月下旬)に記した著作の題名で、実際の写本には『正法眼蔵』とだけ題される。漢字仮名交じり文で書かれた和語(=仮字)の『正法眼蔵』と対比するために、便宜的に全て漢文で書かれたことをもって「真字」を冠する。中国のさまざまな禅問答(=公案)を収集して300則を厳選した。様々な出典が考えられるが、『宗門統要集』との関連も指摘されている。収録された公案の数から『正法眼蔵三百則』とも呼ばれる。

【書誌学的研究】

・『真字正法眼蔵』は近世に於いても『三百則?』、或いは『正法眼蔵』の名の下に、その存在が僅かに指摘されていたが(面山『正法眼蔵闢邪訣?』など)、しかし、その実態が解明されたのは近年である。同書の発見は近年最大級の成果であり、詳細な調査が行われた結果、異本は数多く発見されている。大別して六種であるが、ここではそれを三つに分類し挙げておく。

・まず、金沢文庫にて発見された鎌倉時代の写本である。ただし、この写本は上・中・下巻があるはずの『真字正法眼蔵』で、中巻の一部しか発見されていない。さらに、「金沢文庫本」は草稿本(=下書きのこと)であるとの指摘もある。

・室町期の写本はそれぞれ発見された寺院や縁のある寺院の名前から「真法寺本」「永昌院本」「成高寺本」等がある。このうち、「成高寺本」が最も新しく、書写の様式等もやや異なり、「上・中・下」の三巻ではなく、六巻本に編集されている。

・江戸時代の曹洞宗の学者であった指月慧印には、『三百則』に関して拈評(=採り上げて評論すること)を行い、それを弟子の瞎道本光がまとめた『拈評三百則不能語?』が存する。ただし、これは提唱やその後の編集の段階で、元々の『真字正法眼蔵』本文に手を加えたとされる。『真字正法眼蔵』は、道元禅師が中国の禅籍から渉猟した古則公案集であるが、「三百則」あった。『三百則』とは、そこから来た名称であり、現代でも通称で『正法眼蔵三百則』ということがある。さらに、この『三百則不能語』の草稿本である「丈六寺本」がある。

【撰述時期】

『真字正法眼蔵』には道元禅師が自ら付した「序」がある。それに従うならば、この三百の公案が撰集されたのは「嘉禎乙未一陽佳節」とあるから、嘉禎元年(1235・禅師36歳)である。

【撰述意図】

道元禅師が自ら記された「序」を読み考察する。以下は、その全文と訳文。尚、写本によって様々文言が異なるが、ここは「真法寺本」を底本にしてある。


【原文】

  正法眼蔵
    観音導利興聖宝林寺

正法眼蔵、大師釈尊已拈挙矣、拈得尽也未、直得二千一百八十余歳、法子法孫、近流遠派、幾箇万万、前後三三、諸人要明来由麼、昔日霊山百万衆前、世尊拈花瞬目、迦葉破顔微笑、当時世尊開演之曰、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶大迦葉、迦葉直下二十八代菩提達磨尊者、親到少林、面壁九年、撥草瞻風、附随、震旦之伝、肇于之也、六代曹谿得青原南嶽、師勝資強、嫡嫡相嗣、正法眼蔵不昧本来、祖祖開明之者三百箇則、今之有也、代以得人、古之美也、
  于時嘉禎乙未一陽佳節、住持観音導利興聖法林寺 入宋伝法沙門 道元 序

【訳文】

   正法眼蔵
    観音導利興聖宝林寺

 正しい仏法とは、偉大なる師である釈迦牟尼世尊が既に採り上げておられるが、採り上げ尽くされたのだろうか、まだだろうか。直に、(釈尊から)2180年あまりが経つ、直弟子や孫弟子、釈尊に近き者も遠き者も、幾万となく、前後に数は知れない。諸君よ、この(釈尊の教えが)正しく伝えられてきた由来を明らかにしたいと思うか。
 むかし、霊山にいる百万の大衆を前に、世尊は花をつまんで瞬目された、迦葉は顔を崩し微笑まれた。そのときに、世尊は(大衆に)明らかにして云った「吾に『正法眼蔵涅槃妙心』がある。摩訶大迦葉に附属する」と。迦葉から直接に二十八代下って菩提達磨尊者は、自ら少林に到って、面壁九年して、草をはらい、風を見ることで、(慧可に)附属して中国に「正法眼蔵」が初めて伝わったのである。六代の曹谿慧能は青原(行思)と南嶽(懐譲)を得た。師が勝れ、弟子も強く、正しく相嗣いで、正法眼蔵は、本来の姿をくらますことがなかった。(中国の)祖師方が明らかにした、三百則の公案は、今のこれである。代々人を得ることをもって、古の見事なものである。

    この時、嘉禎乙未一陽佳節
      観音導利興聖宝林寺の住持であり 入宋して正法を伝えた沙門 道元 序する

【伝播・流布】

『真字正法眼蔵』は、以上のような撰述意図によって書かれているが、これでも、結局「三百則」の公案を集めたこと以外の意図を知ることはできない。したがって、『仮字正法眼蔵』を撰述するために集めた手控え(特に「金沢文庫本」)とも、中国人の弟子(=宝慶寺開山・寂円など)に対する参考書とも言われている。ただしこれらが、草稿本系統と思われる「金沢文庫本」、そして、一応の修訂本(=推敲済みのこと)と推定される「真法寺本」と二種あることからも流布・伝播の過程を探るのは複雑で、難しい。

さらに、峨山韶碩禅師の高弟「峨山五哲」の一人、通幻寂霊禅師の系統に伝わったこと(「通幻禅師葬記」に記述が見える)などがあるが、取り立てて流布・伝播した事実は考えられない。

また、道元禅師には古則公案に対して頌古した『玄和尚頌古』が存するが(『永平広録』巻九に所収)、『真字正法眼蔵』同様に、曹洞宗でも公案を熱心に扱うことは知られておいて良い。

【内容】

内容は、道元禅師が中国の様々な古則公案を撰集されたものである。そこで、ただ集めたのであれば思想的価値は存しないが、その集めた公案を、本来の読み方を意図的に改めたものが見られ、そうすることで、本来の古則公案にはなかった意味を付加することに成功している。

さらに、道元禅師の頃からふられていたであろうルビは、中国の音をそのままにふられており、道元禅師が日常の弟子の指導にどのような言語を用いていたかも推定できる貴重な資料である。

【解説書等】

中世時代を通じて秘蔵されており、現代に発見されて時間が経っていないが、江戸時代の註釈書が存在する。

指月慧印『拈評三百則不能語?
⇒江戸時代の宗乗家・指月慧印師による拈評。ただし、本文が改変されており、原初態では無いともされる。

・大通一智『正法眼蔵三百則頌古?
⇒指月の拈評本への頌古。

・全苗月湛『評退玄和尚三百則頌?
⇒先の大通頌古への註釈。

廓堂?祖宗『拈評三百則不能語蒙解?』(3冊)
⇒指月の拈評本への註釈。

瞎道本光『拈評三百則方語解?』(3巻1冊)
⇒指月の拈評本への註釈。

また、現在入手できる解説書としては、西嶋和夫(愚道)『真字正法眼蔵提唱』(全六巻)や、石井修道『中国禅宗史話』(禅文化研究所・1992年、3500円)がある。前者は全ての則に提唱がされている。後者、石井先生は特に中国禅宗史における研究成果を背景にした解説は精緻を極める。全体に対して行ったものではないが大いに参考になる。

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