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【定義】

道元禅師が中国で本師・天童如浄禅師の下で学んだときの記録。「ほうきょうき」と呼び、「ほうけいき」とは読まない。

【内容】

道元禅師が中国で天童如浄禅師に就いて学んでいた頃の記録であり、内容も、道元禅師が学道を進めていく過程で疑問に思ったことを如浄禅師に聞いたものである。特に、道元禅師が日本に帰国されてから『正法眼蔵』等を撰述されるのだが、その内容と明らかに相違する内容が説かれているものもあれば、影響を受けているものもある。そこで、道元禅師がどのような立場で御自身の宗教を確立されたのかを知る絶好の資料とされていたが、現代では、これはそうした中国参学時のノートではなく、道元禅師が自身の考えをまとめられたものであるとする説があるが、推測以上のものではない。

その質問の内容は多岐に渡るが、問答の題名は池田魯参先生『宝慶記――道元の入宋求法ノート』(大東出版社)の記載を踏襲。

1・随時参問の許可
2・教外別伝
3・二生の惑果
4・自知即正覚
5・弁道功夫の種種
6・楞厳経と円覚経
7・業障
8・撥無因果
9・長髪長爪
10・仏祖の聖胎
11・裙袴の腰縧
12・緩歩の法
13・善悪の性
14・禅宗の呼称と仏祖大道
15・祗管打坐
16・業障本来空
17・了義経
18・感応道交教家の是非
19・文殊の結集
20・着襪の法
21・胡菰を食べるな
22・風の当る処での坐禅
23・一息半趺?の法
24・褊衫
25・法衣糞掃衣
26・迦葉附属の袈裟
27・四箇の寺院
28・六蓋を除く
29・法衣を著けぬ
30・大悲を先とする坐禅
31・獅子形と蓮華蓋?
32・風鈴頌
33・一切衆生諸仏の子
34・閉目と開目の坐禅
35・大小二乗を超える坐禅
36・坐禅と吉瑞
37・今年六十五歳
38・正身端坐
39・経行直歩の伝統
40・心は左掌におく
41・菩薩戒の臘
42・初心後心得道
後書 懐弉義雲の奥書

このように、「坐禅時の注意点」「身心脱落の内容」「経行法」「経典の読み方」「威儀の基本」「礼拝偈」等々が記されている。なお、上記文献では、42問にしているが、古来からは50問といわれてきた。その数え方を行うものとして、『日本禅籍史論』では、問答28、慈誨22と数える。道元禅師は、特に如浄禅師にお願いしてこうした質問をする許可を得たのであるが、その経緯が「宝慶寺本」等に記載されている。

 道元、幼年より菩提心を発し、本国(=日本)に在りて道を諸師に訪ひて、聊か因果の所由を識れり。然も是の如くなりと雖も、未だ仏法僧の実帰を明らめず、徒に名相の懐幖に滞ほれり。後に千光禅師(=栄西のこと)の室に入りて、初めて臨済の宗風を聞く。今、全法師(=明全のこと)に随うて炎宋(=宋は火徳のため、「炎宋」と讃える)に入る。航海万里、幻身を波涛に任せて、遂に大宋に達し、和尚法席に投ずることを得たり。蓋し是れ宿福の慶幸なり。和尚、大慈大悲、外国遠方の小人の願う所は、時候に拘わらず、威儀を具せず、頻頻に方丈に上りて、愚懐を拝問せむと欲す。無常迅速にして、生死事大。時人を待たず、聖を去らば必らず悔いむ。本師堂上大和尚大禅師、大慈大悲、哀愍して道元が道を問ひ、法を問ふことを聴許したまえ。伏して冀くは慈照。
 小師道元百拝叩頭して上覆す。
 元子(=道元禅師のこと)が参問は、今より已後、昼夜の時候に拘らず、著衣衩衣、而も方丈に来って道を問ふに妨げ無し。老僧は親父の無礼を恕すに一如せむ。
 太白某甲(=如浄禅師のこと、天童山は別に太白山とも)

なお、このような経緯については、『正法眼蔵』の中にも若干見えることであるので、まず事実だったのであろう。
ひそかにおもふらくは、かれらいかなる罪根ありてか、このくにの人なりといへども、共住をゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。 「梅華」巻

【流布・伝播】

・最も古い形態を保持していると考えられるのは、愛知県豊橋市全久院所蔵の懐弉禅師直筆とされるものである(「全久院本」)。さらに、福井県大野市宝慶寺所蔵の書写本も存する(「宝慶寺本」)。
・一般に流布したのは、江戸時代の明和八年(1771)に刊行されたものである(「明和本」)。

『宝慶記』が現存するのは、懐弉禅師が道元禅師の遺著から発見し、書写されたことによる。その時の様子を以下に示す(原漢文)。
建長五年癸丑十二月十日、越宇吉祥山永平寺方丈に在りて之を書写す。右は先師古仏の御遺書の中に之れ在り。之を草し始めて、猶お余残在る歟。恨むらくは功を終えず。悲涙千万端。 懐弉

懐弉禅師の書写の様子の後に、宝慶寺二世兼永平寺五世義雲禅師が『宝慶記』を拝読したことが記されている(原漢文)。
正安元年己亥(1314年)十一月廿三日冬至明日。越州大野宝慶寺に於いて初めて拝見す。開山(=寂円のこと)存日、之を許すと雖も、今まで延遅したり。今、正に是の時なり。而今、聖王の髻の中に明珠を得たり。大幸の中の大幸なり。懽喜千万、感涙襟を湿おす而已。  義雲

したがって、宝慶寺に『宝慶記』が伝わっていたことは相違ない。宇井伯寿先生が訳注された岩波文庫本末尾には、宝慶寺から全久院に収納される経緯が示される。

なお、道元禅師が病を得てから徹通義介禅師と交わした問答が記されている『永平室中聞書(または『御遺言記録』とも)』には、懐弉禅師の法嗣である寒巌義尹禅師が『宝慶記』を護持したことが奥書に記されている。
この記録は、先師寒岩和尚の親筆の本をもって、これを伝写す。先師示寂の時、常賢?首座侍者として先師の自筆の戒儀、ならびに自筆の宝慶記、及びこの記録を収拾し、一生これを護持す。大智大慈寺瑞華庵において、この本を拝請して伝写すること、已に畢りぬ。 時に嘉暦元年丙寅十月十二日

さらに、明峰素哲禅師の法嗣である大智禅師が、義尹禅師が護持しておられた『宝慶記』を伝写したことが確認されている。

【註解・解説書等】

全久院に道元禅師や懐弉禅師の直筆本が多数収められたのは江戸時代の学者面山瑞方師の御尽力による。さらに、『宝慶記』は面山によって刊行(=「明和本」のこと)されてからは宗門諸師による参学が行われ、提唱等も刊行された。以下に挙げておく。

・『宝慶記聞解』(二巻)
面山の提唱を、斧山玄鈯が編集したもの。提唱の時期等は不明。明治十一年に東京にて刊行。

・『宝慶記事林?』(一巻)
または『宝慶記事林鈔』とも、或いは『宝慶記事考』ともいう。『宝慶記聞解』に挙げられる故事の典拠等を示したもの。

他にも、これらを本に編集されたものがある。さらには現代にいたり「全集」に収められるようになり、一般の目に触れるようになった。宇井伯寿博士訳注の岩波文庫本も存在する。現在入手できる訳本・解説書は、池田魯参訳『宝慶記−道元の入宋求法ノート』(大東出版社・1989年)や、水野弥穂子訳『現代語訳・註 道元禅師宝慶記』(大法輪閣・2012年)などが手頃であろう。

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