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【定義】

日本曹洞宗大本山總持寺を開かれ、太祖と仰がれる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師のことである。表記でたまに「螢山」と書く人がいるが、正しくない。

生没年:文永元年(1264、または文永5年(1268)とも)〜正中2年(1325)
出身地:越前国(現:福井県越前市[旧・福井県武生市])
諡 号:仏慈禅師(1354年)、弘徳円明国師?(1772年)、常済大師(1909年)

【略歴−出家から印可証明まで−】

※この伝記は近年の研究成果を承けて、享年62歳説に従って構築されている。

文永元年10月8日(現在では11月21日)越前国多弥観音堂で観音信仰を持っていた母親からお生まれになった瑩山禅師は、幼名を行生という。母の懐観大姉?は子供がなかなかできなかったこともあり、『妙法蓮華経』「普門品」を唱え、観音に礼拝することしきりであった(毎日3333拝されたとも伝える)。その甲斐もあり、37歳で瑩山禅師が誕生された。なお、この多弥観音の場所であるが、2説あり、1つは福井県越前市帆山町(旧:武生市)とするものと、もう1つは福井県坂井市丸岡町とするものである。現在では、前者の説を受けて、福井県越前市庄田町に瑩山禅師ご生誕を示す御誕生寺?開山されている。

幼少の頃は、母の信仰に感化を受けて、非常に信心が強い少年として育った。また、母の懐観大姉?のみならず、祖母からも親しく保育されたと瑩山禅師は述べられた(『洞谷記』)。一説では、6歳の時に多弥観音に参詣した際に、感応道交されて、出家の志を発したという。実際に出家されたのは8歳の時であったが、許可しようとしない両親を説得するために、断食を行ってその想いの強いことを見せた。

なお、祖母であるともされる明智優婆夷は、道元禅師の弟子であったともされ(古写本『洞谷記』には、この関係は見えないが、後の流布本『洞谷記』では肯定される)、そうであれば、瑩山禅師が永平寺に登ったのは祖母と無縁ではあるまい。永平寺に登られると瑩山禅師は沙弥となり(当時の住持義介禅師)、13歳になると得度して正式な修行僧として歩み始めている。その時には、道元禅師の直弟子である懐弉禅師に就き、その最後の弟子(末後の小師)となった。瑩山禅師は懐弉禅師から親しく指導を受けたようで、先師として仰いでいる。弘安3年(1280)に懐弉禅師が亡くなると、また永平寺住持道元禅師の孫弟子に当たる徹通義介禅師になり、瑩山禅師は改めて義介禅師に就いて坐禅修行に励んだとされている。

翌年18歳になると発心求道し、その翌年には各地へ遊行の旅に出た。まずは、義介禅師の兄弟弟子に当たる、越前大野の宝慶寺に住していた寂円禅師を訪ね、19歳の時の夏には維那という修行僧を監督する役目を頂戴し、また菩提心を発して不退転位に至った。

しかし、秋には辞して、次いで京都に上ると、臨済宗聖一派の東山湛照や白雲慧暁などから密教禅の系統を学んだとされ、比叡山では天台教学に接し、20歳の秋には紀伊国由良の興国寺にいた無本覚心を訪ねたともされる。この無本覚心も密教禅である。なお、近年ではこの密教禅の瑩山禅師への影響については、限定的だったという見解もある。

弘安8年(1285)、瑩山禅師は『法華経』「法師功徳品」の一文である「父母所証眼悉見三千界」を聞き、大いに悟るところがあって、「自己を変じて万物と為し、万物を変じて自己と為す、清風と明月と依然として目前に在り」とその理解したところを述べられた。義介禅師は、これを聞くや、わずかばかり覚りに触れたからといって安心することなく修行するように示され、瑩山禅師の精進はさらに進むことになる。

正応元年(1288)には、観音のように大悲闡題として生きるという誓願を発された。

正応4年(1291)、瑩山禅師28歳のことだが、阿波国海部の城万寺住持となった。この経緯だが、阿波国海部郡の郡司に加賀の富樫氏の親族がいて、自らの領地に城万寺を建てて拝請したとの説もあるが詳細は不明。同寺は、後に長く所在が不明となって、廃寺になったとも言われていたが、瑩山禅師600回大遠忌(大正13年・1924)には復興されて現在に至っている。

正応5年(1292)、永平寺義演禅師に就いて、授戒作法を受け、さらに永平寺に於いて『仏祖正伝菩薩戒作法』一巻の書写を許されている。そして、同年中には、城万寺にて初めて戒法を開き、鉄鏡眼可など5人へ授戒している。この鉄鏡は、後に浄住寺で西堂を務めるなど、瑩山禅師の僧団で重きをなしたが、元亨元年(1321)の1月28日に、遷化した。

永仁元年(1293)、瑩山禅師30歳のことだが、師の義介禅師が、前年に入寺していた加賀の大乗寺にて、開堂されている。

永仁2年(1294)、禅師31歳の冬だが、10月20日に義介禅師が上堂されて、趙州従諗禅師の「平常心是道」の公案を挙示されると、瑩山禅師は「我れ会せり」といわれた。義介禅師は「お前はどのように分かったのか」と尋ねると、瑩山禅師は「黒漆の崑崙夜裡に奔る(真っ黒のたまが闇夜の中を走っています)」といわれた。義介禅師は、「まだ、十分ではないようだ。更に一句を言ってみなさい。看てあげよう」と促すと、瑩山禅師は「茶に逢っては茶を喫し、飯に逢っては飯を喫す」と答えた。義介禅師はこれを認め、微笑みながら「お前は師を超える才能がある、永平道元禅師の宗旨を興すのだ」と示された(ただし、『洞谷記』所収の『洞谷伝灯院五老悟則并行業略記』では、大悟の様子などは収録されずに義介禅師が「平常心」の会得について尋ね、瑩山禅師が「道は、知・不知に属せず」と答えた様子のみ収録されている)。

翌年正月14日には、義介禅師によって、道元禅師から拝領されていた袈裟が瑩山禅師に伝えられ、祖位を継承された。『洞谷記』にある瑩山禅師自述の『行状記』では、32歳で義介禅師の宗旨に参得して嗣法の長嗣となり、大乗寺初の首座になったことが示されている。

【略歴−最初の寺を開いてから−】

すでに述べたように、瑩山禅師は28歳で阿波城万寺の住持となっていたが、ご自身の参学と、この寺での衆生接化とは、同時的に行われていたようで、永仁2年(1294)31歳の時には『菩薩戒作法』に従って、70人余りに授戒した。また、義介禅師から大乗寺を受け継ぐようにいわれた瑩山禅師は、永仁6年、35歳の時に、大乗寺の第2代住職となっている。さらに、これと前後するように永仁5年(1297)には、後に法嗣となる峨山韶碩禅師と相見しており、峨山禅師は正安元年(1299)に大乗寺に来参した。

【略歴−大乗寺での活動−】

正安2年(1300)瑩山禅師37歳のことだが、正月12日(写本によっては11日)から、『伝光録』の提唱を開始している。釈尊を始めとして、摩訶迦葉尊者から懐弉禅師までの一尊五十二代の仏祖の伝記、悟道因縁提唱されて、顕彰されたものである。さらに翌年のことだが、加賀の浄住寺を開いている(一説には、文保2年[1318]8月)。また、大乗寺にいる間に『信心銘拈提』など様々な著作が成立している。

嘉元4年(1306)8月28日のことだが、義介禅師から『示紹瑾長老』の文書を授与されて日本達磨宗の嗣書相承の次第を授けられ、さらに同年11月3日には達磨宗伝来の六祖普賢舎利、および文書そのものを曹洞宗嗣書の助証として授けられた。

延慶2年(1309)のことだが、9月に、法衣相伝の次第を書して、文書として残した。そして、9月14日に瑩山禅師の本師である徹通義介禅師は91歳で遷化された。懐弉禅師や義介禅師に縁のある僧は各地から集まって、瑩山禅師の弟子などが中心になって法要を行ったと『義介禅師喪記』に記録されている。この師に対する法要で、瑩山禅師は秉炬師を務めている。

応長元年(1311)10月10日だが、大乗寺の住持職を明峰素哲侍者に付属した。

【略歴−永光寺での活動−】

正和元年(1312)、瑩山禅師49歳の春のことだが、海野三郎夫妻から、後に永光寺となる寺域を寄進された。その清らかな志に感じ入った瑩山禅師は「予、施主の清浄の志を感じ、以って予の終焉宴息の処と為し、乃至、累祖の遺骨書安置の浄処と為す」(『洞谷記』)と述べたとされ、翌年には茅屋を建てて仮の庫裡が成立した。

正和3年(1314)、この年瑩山禅師の母である懐観大姉が、87歳でお亡くなりになった。

文保元年(1317)のことだが、酒匂平八頼基の遺命によって、父・頼親の家屋を移して方丈を建立した。同年10月2日、修行僧を移動させ、入院の儀式を執り行い、永光寺初の結制安居が冬安居として行われた。

文保2年(1318)頃から、永光寺を自らの主たる寺院とすべく、様々な文書を著され、同年冬至の日、『洞谷尽未来可為本寺之置文』(正法寺蔵)を著し、さらに翌年には『洞谷山尽未来際置文?』を著している。特に、後者は永光寺に五老峰を設置する因縁を示したものであり、その住持輪住制を敷くこと、そして、長く護持すべき事が述べられた。そして、その翌年である元応2年(1320)にも、除夜の小参に永光寺の開山理由などを『当山因由』として示され、『坐禅用心記』『三根坐禅説』なども著された。

元応元年(1319)、3月のことだが、能登に光孝寺を開かれた。同年8月には、永光寺の開基である海野三郎夫人が出家して、黙譜祖忍尼と称したという。9月15日には、永光寺で羅漢供養を修行されているが、この供養は道元禅師も永平寺で行い、様々な奇瑞が起こったと記録されている。日本曹洞宗では伝統的な供養である。

元応2年(1320)には、加賀の放生寺を開いた。そして、一説には同年中に、後醍醐天皇が、臨済宗の孤峰覚明を使者として、勅問を下された(『十種疑滞』奥書)という。このような因縁から、元亨2年(1322)の8月28日には、總持寺へ日本曹洞紫賜出世道場の綸旨を下したという。

元亨元年(1321)には、永光寺の方丈である妙荘厳院に於いて、明峰素哲・峨山韶碩などに対し伝戒の儀が行われ、戒脈及び『仏祖正伝菩薩戒作法』一巻が与えられた。

【略歴−總持寺の開山、永光寺の整備及び法嗣の育成−】

晩年に近づいた瑩山禅師は、かなり多忙だったように思われる。それは、總持寺開山を行っていたからであり、同時的に永光寺の境内整備にも追われていたからである。

元亨元年4月23日に、永光寺に於いて、總持寺を開堂するという霊夢を感じられた瑩山禅師は、6月17日に總持寺に入山し、『總持寺中興縁起』一篇を撰述された。この著作は、總持寺があった諸嶽寺観音堂が行基菩薩の開山であることを、「鳥巣不縣」の故事から示したものであり、その素晴らしき場所に瑩山禅師が化を振るう事への想いが綴られたものである。そして、7月22日には、それまで諸嶽寺観音堂を管理していた定賢律師から、寺領敷地を寄進されるに至るのである。9月14日には、勅額「總持寺」(藤原行房筆)を賜った。

また、同年中だが、7月29日には永光寺に於いて、初めて嗣法を行っている。また、同年11月25日には峨山禅師を永光寺の首座に任じて、秉払を行わせた。他にも、12月22日には、黙譜祖忍尼にも嗣法をしている。

永光寺の整備についてだが、元亨元年の9月15日に、宝篋印塔を建て、さらに翌年の4月3日には、永光寺仏殿の鉞立式を行って、建立の準備を行い、同年8月8日には上棟式が行われた。さらに、同年6月18日には、勝蓮峰に円通院を建てて祖忍尼に与えている。これは、『洞谷記』に収録される『円通院縁起』に示されることである。

【略歴−晩年の状況・弟子への遺言−】

元亨3年(1323)2月1日には、弟子の無涯智洪に、加賀の浄住寺を譲っている。

さらに、同年4月8日からは、五老峰の増築を始めている。同年8月22日に鉞立、9月13日に上棟、同28日に完成を見た。ここから、それほど大規模な設備ではなかったことが推定できよう。そして、9月13日に『洞谷伝灯院五老悟則并行業略記』を撰述して、五老峰に関わる祖師方の顕彰を行っている。

10月9日には、『山僧遺跡寺寺置文記』を撰述して、永光寺・円通院・宝応寺・光孝寺・放生寺・浄住寺・大乗寺・總持寺の8ヵ寺について、永代にわたり護持すべき事を、弟子や門徒に厳命された。

正中元年(1324)には、永光寺の更なる整備が進み、3月3日には法堂の鉞立式が行われ、4月8日には開堂式が行われ、さらに同年中に『瑩山清規』が著されたという。

また、同年中には、總持寺の整備の仕上げも行われており、3月16日には『總持寺十箇條之亀鏡』を撰述して、總持寺の修行の大まかな軌範を整え、さらに5月16日には、瑩山禅師が峨山禅師以下、大衆20人とともに、僧堂を開単するべく出発し、19日には開単式が行われた。そして、7月7日には、『總持寺譲状』及び『總持寺譲与及法衣伝授語』を撰述して、峨山禅師に總持寺を譲り、拄杖?払子竹箆などの法具も付属された。

【略歴−最晩年・瑩山禅師の遷化−】

正中2年(1325)は瑩山禅師の最晩年となったが、4月10日に、祖忍尼を宝応寺房主職に任じられた。また、15日からは、永光寺にて結制修行されている。

同年5月1日、『洞谷山松樹禁制文』を撰述して、山中にある松樹を大事にして、伐採することがないようにと厳命された。さらに同月23日には永光寺開山の発願を著している。これは、重ねて開山をしようという意志である。なお、この頃から永光寺を後代に託すための準備も合わせて行われたようで、7月2日には『永光寺相続文』を撰述して、四門人六兄弟を明記して、護持するように訴え、同月18日には『当山条条尽未来際可勤行事』を著して、今後の運営に関する注意点も示した。

さらに、8月1日には『洞谷門下僧録御書』を著して、明峰素哲禅師を、瑩山禅師の遺跡の僧録となして管理をせよとされ、同8日には、『洞谷山譲状』を著して永光寺の全座を明峰禅師に付与されている。

そして、同月15日巳の刻(午前10時頃)にいたって急に鐘を鳴らし、修行僧を方丈である妙荘厳院に集めて説法された。その内容は「私が説法するための寿命はすでに尽き、涅槃に入るときが来た。諸君は今後、ともに励まして我が法をどこまでも断絶させてはならないぞ。釈尊は2月15日に入滅されたが、私は8月15日に諸君に別れを告げよう」というものであり、遺偈は次のようなものであった。
自ら耕し自ら作る閑田地、幾度か売来買去して新なり。限り無き霊苗の種は熟脱し、法堂上に鍬を挿む人を見る。

この遺偈は、五祖法演という中国禅の僧の偈頌から影響を受けている。田を植えるということは、自らの法を弟子達に伝えたことを意味し、ここでは明峰禅師や峨山禅師という素晴らしい弟子達が育ったことを満足し満ち足りた境涯を意味しているとも読み込むべきとされる。なお、法嗣明峰素哲、峨山韶碩、壺庵至簡、無涯智洪、黙譜祖忍尼、金灯慧球尼?など。他に、弟子として珍山源照、孤峰?覚明などがいる。

遺偈を詠んだ瑩山禅師は筆を抛ってそのまま遷化された。62歳であった。永光寺では入般涅槃の儀式を行い、法に依って荼毘された。採れた舎利は瑩山禅師ゆかりの寺院である、大乗寺や總持寺などにも分配され、それぞれに舎利塔を建てて埋葬したという。

なお、寂後には、正平9年(1354)3月2日に南朝の後村上天皇から、仏慈禅師の諡号を賜った。安永元年(1772)11月29日には後桃園天皇から弘徳円明国師の諡号を賜り、さらに明治42年(1909)9月8日に明治天皇から常済大師の諡号を賜った。

【「瑩山」の読み方について】

諸橋『大漢和辞典』を始めとして、一般的な漢和辞典では「瑩」を「ケイ」とは読まない場合が多い。よって、「瑩山」の読み方については様々な疑義が呈されてきた。一例では、江戸時代の学僧面山瑞方師が『大智禅師偈頌聞解』にて、大智禅師の「上瑩山和尚」という偈頌に対する註釈に、臨済宗の僧から「ケイ」と「エ」の違いも付かないと莫迦にされた事例を挙げながら、漢字の成り立ちや部首や音通などの考察を元に「ケイザン」にて正しい旨主張している。

現代的な考察でも、平安時代から鎌倉時代にかけての様々な文献で、「瑩」に「ケイ」とルビを振っている物が発見されており、読み方の正しさが実証された。なお、この詳細については『曹洞宗報?』2009年4月号に収録されている、納冨常天先生「大本山總持寺宝物殿 古文書の世界(第四回)」を参照願いたい。

【参考文献】

この略年表を示すに当たり、以下の資料を参考にしている。

・松田文雄「瑩山禅師伝及び略年譜」(『瑩山禅』第11巻所収)
なお、この松田先生による略年譜は山端昭道師が作成した略年譜を元に編成されたものであることを、併記しておく。
・松田文雄「瑩山禅師略年譜」(曹洞宗宗務庁?版『伝光録』所収)

【瑩山禅師の著作】

・『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻、『続曹洞宗全書』「宗源補遺」巻
・『常済大師全集
・『瑩山禅』全12巻

上記参照のこと。

このページへのコメント

> unnou さん

ご参考になれば幸いです。

もし、他にもご不明の点があれば、ご遠慮なくご質問下さい。

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Posted by tenjin95 2016年11月10日(木) 03:55:10
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/
返信

ご多忙の所、即、ご回答を頂きまして、どうもありがとうございました。
早速にも探して、読ませて頂きたいと思います!
懇切丁寧なるご教示に、心より深く感謝申し上げます。
今後とも興味深いお話を楽しみにさせて頂いております。
どうもありがとうございました。

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Posted by unnou 2016年11月09日(水) 18:06:28 返信

> unnou さん

ご質問ありがとうございます。

それで、その件ですが、典拠は『洞谷五祖行実』の「瑩山禅師章」になります。なお、本書は『曹洞宗全書』「史伝・上」巻に入っております(595頁上段)ので、もし、ご覧になれる環境にあるのでしたら、ご一読下さい。

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Posted by tenjin95 2016年11月08日(火) 13:24:46
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/
返信

いつも大変ためになるご教示を興味深く拝読させて頂いております。
当方、不勉強なのでお教え頂きたいのですが、瑩山禅師が『法華経』「法師功徳品」の一文である「父母所証眼悉見三千界」を聞き、大いに悟るところがあった、というくだりで、「自己を変じて万物と為し、万物を変じて自己と為す、清風と明月と依然として目前に在り」と自己の内証を述べられたということですが、この「自己を変じて万物と為し、万物を変じて自己と為す、清風と明月と依然として目前に在り」という瑩山禅師の言葉の出典、典拠をお教え頂けますでしょうか?
宜しくお願い申し上げます。

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Posted by unnou 2016年11月08日(火) 11:17:58 返信

> せんだい さん

確かに、様々な辞書を調べても、「ケイ」が無いことはご指摘の通りですが、実は室町時代の写本に、この字を「ケイ」と読ませているものが発見されて、曹洞宗の読み癖が正しいことが明らかになりました。

ですので、「瑩山」は「ケイザン」で正しいことになります。

0
Posted by tenjin95 2006年06月01日(木) 12:32:37
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/
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