つらつら日暮らしWiki〈曹洞禅・仏教関連用語集〉 - 只管打坐
【定義】

曹洞宗系統で行われている、余事を交えない、ひたすらなる坐禅のこと。祇管打坐祗管打坐とも。

【内容】

只管(祇管・祗管)とは、ひたすらに、余念を交えない、ただ〜のままに、などの意で、打坐とは坐ることであるから、ひたすらに坐禅することの意。多くの仏教宗派の場合、坐禅をしながら他の行を兼ねて行う場合があったが、只管打坐は坐禅の際に余行を交えることを否定した。つまりこれは、叢林修行に於ける坐禅以外の行の否定ではないし、実際に道元禅師もそれは否定されていない。道元禅師は、次のように説示される。
とふていはく、この坐禅をつとめん人、さらに真言・止観の行を、かね修せん、さまたげあるべからずや。しめしていはく、在唐のとき、宗師真訣をききしちなみに、西天東地の古今に、仏印正伝せし諸祖、いづれも、いまだ、しかのごときの行を、かね修すときかず、といひき。まことに、一事をこととせざれば、一智に達することなし。 『弁道話

曹洞宗系統の坐禅は、もともと無相的な禅法を突き詰めて、ひたすらに修行することを是としていたが、特に中国曹洞宗の宏智正覚は『黙照銘』などによって「黙照禅」を説いた。その影響を受けていた天童如浄禅師の下で修行した日本曹洞宗道元禅師は、さらにその如浄禅師から受けた教えをもって、只管打坐を主張した。
先師古仏云わく、参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし、焼香礼拝念仏修懺看経を要いず。 『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻

ここにさまざまな哲学的意義を認めるものがいるが、端的に坐禅のときには坐禅をすることの意である。浄土教に於ける「専修念仏」などのような、徹底した他の行の廃止と同列に扱うべきではないが、唯務坐禅という言葉があるのも事実である。そこで、道元禅師は只管打坐の様子を以下のように述べる。
上堂大衆参禅身心脱落なり、祇管打坐道理を聴かんことを要すや。良久して云く、心不能縁、思不能議。直に須らく退歩荷担すべし。切忌すらくは、当頭触諱。風月寒清なり古渡の頭、夜船撥転す琉璃の地、と。『永平広録』巻4−337上堂

上記にある「心不能縁、思不能議」、或いは「退歩荷担」はよくよく参究されるべき語句であると思われる。

なお、表現上の問題として、「只管打坐」は『正法眼蔵随聞記』に多く見られ、『正法眼蔵』には「祇管打坐」が多く見られるという特色があるが、『随聞記』では「祇管打坐」も併用していることから、意味的な違いはないため、特段問題にすべきことではない。