つらつら日暮らしWiki〈曹洞禅・仏教関連用語集〉 - 日本曹洞宗
【定義】

永平寺を開いた高祖承陽大師永平道元大和尚が中国から伝えた禅宗の一派である(対外的には、或いは社会通念上は「禅宗」に分類されるが、教義的にはそれほど単純ではない。詳細は「禅宗」項参照)。現在の宗教法人名は「曹洞宗」というだけであり、この項目が「日本曹洞宗」となっているのは、中国に存在した曹洞宗の系統と区別するためでしかない。つまり、「日本の曹洞宗」或いは「曹洞宗道元派」に関する記述ということである。

また、国際布教を通して、海外にも展開している事実が撥無される可能性もあったが、当Wikiではこの名称で立項したことをご理解願いたい。

【教義と歴史】

宗門の規定は『曹洞宗宗制』によって定められているが、その中に、宗旨や教義の基本的な内容も定められている。

・宗旨:仏祖単伝正法に遵(したが)い、只管打坐即心是仏承当することを宗旨とする。
・本尊:釈迦牟尼仏本尊とし、高祖承陽大師道元禅師)・太祖常済大師瑩山禅師)を両祖とする(これを一仏両祖という)。
・教義:本宗は『修証義』の四大綱領懺悔滅罪受戒入位発願利生行持報恩)に則り、禅戒一如、修証不二(修証一等)の妙諦を実践することを教義の大綱とする。

特に、只管打坐については、ひたすらに坐禅を行うのが良いとされ、この坐禅は悟りを得るための修行ではないとする「修証一等」の考えに基づき、更に一歩を進め、悟りの存在である我々が、その真実の姿に催されて修行を行うとする「本証妙修」を思想的根拠としている。

なお、生活一般を修行と捉えるため、坐禅だけではなく歯磨き・洗面・トイレの使い方まで事細かに規定され、一つ一つの行いを大事にするように威儀即仏法作法是宗旨の行持綿密を唱えている。

永平寺を開かれた道元禅師から数えて4代目の太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚の頃までは永平寺大乗寺永光寺を中心に北陸地方に広がっていた。そして、その後は瑩山禅師が開かれた諸嶽山總持寺を継いだ峨山韶碩禅師と、その会下に輩出された多くの龍象(峨山二十五哲)が五院制度における輪住制を中心に總持寺を支えつつ、室町時代から江戸時代初期にかけて爆発的に全国展開したため、永平寺總持寺両大本山として定めている。

室町時代以降、全国へ教線が拡大する過程で、各地の神仏・信仰・習俗などと習合し、葬儀や授戒、卒塔婆による供養念仏、密教による加持祈祷なども積極的に取り入れられるようになった。ただし、最近の研究では、曹洞宗の僧侶がこれらの民俗宗教的実践者として認知されることが可能だったのは、只管打坐による禅定力が、民衆によって感じとられたからだとされている。

江戸時代は幕府による宗教政策に従うことで規模を保ち、明治時代に変わる頃に廃仏毀釈によって一部地方では大打撃を受けたが、その後も多くの篤信僧・篤信者が輩出されて、現在平成の世にあっても、14000ヵ寺以上の寺院を有する、単一宗派として日本最大の規模を誇る宗教団体である。最近では、時代に合った布教教化が模索されており、授戒会三仏忌を始めとする諸法要、或いは坐禅会禅をきく会(説法会)なども行われている。

更に詳細なる歴史は「日本曹洞宗史略年表」参照のこと。

【経典】

曹洞宗の教典は道元禅師瑩山禅師両祖が撰述されたものから、諸大乗経典に及ぶ。特に日常に依用すべきものとして、「曹洞宗儀礼規程」では下記の分類を行う。

・経典
(1)般若部経典
(2)法華部経典
(3)華厳部経典
(4)涅槃部経典
(5)その他の大乗経典
(6)各種陀羅尼
(7)各種偈文

・宗典
(1)正法眼蔵
(2)永平広録
(3)普勧坐禅儀
(4)学道用心集
(5)永平清規
⇒ここまで道元禅師
(6)伝光録
(7)坐禅用心記
(8)瑩山清規
⇒ここまで瑩山禅師
(9)修証義

・列祖の語録
(1)参同契(石頭希遷撰)
(2)宝鏡三昧(洞山良价撰)
(3)信心銘?(三祖僧璨撰)
(4)証道歌?(永嘉玄覚撰)
(5)従容録(宏智正覚撰、万松行秀評唱)
(6)その他列祖の語録

宗務庁?

〒105−8544
東京都港区芝2−5−2 曹洞宗宗務庁

公式HP:曹洞禅ネット

【曹洞宗という名称について】

曹洞宗という名称は、中国では様々な燈史文献や、宗派の教義を研究するような著作の関係で、中国曹洞宗の曹山本寂と洞山良价から1文字ずつ取って「曹洞宗」となったとされる(「洞曹宗」と書く文献もある)。しかし、この曹山と洞山は、洞山が師であり、曹山がその法嗣となっているため、長幼の序という観点からすれば、問題があるのではないかという意見が出た。また、そもそも洞山禅師には宗名を自称する気がなかったとして批判した例もある。
洞山大師、まさに青原四世の嫡嗣として、正法眼蔵正伝し、涅槃妙心開眼す。このほか、さらに別伝なし、別宗なし。大師かつて、曹洞宗と称すべし、と示衆する拳頭なし、瞬目なし。また門人のなかに、庸流まじはらざれば、洞山宗と称する門人なし、いはんや曹洞宗といはんや。曹洞宗の称は、曹山を称じくわふるならん。もししかあらば、雲居・同安をもくわへのすべきなり。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。はかりしりぬ、この曹洞の称は、傍輩の臭皮袋、おのれに斉肩ならんとて、曹洞宗の称を称するなり。まことに、白日あきらかなれども、浮雲、しもをおほふがごとし。 『正法眼蔵』「仏道」巻

雲居というのは、曹山と同じく洞山の法嗣の雲居道膺禅師のことである。道元禅師を開祖とする日本曹洞宗は、この雲居系統になる。したがって、基本的に「洞山宗」と名乗ってしまうのもおかしいが、もし名乗るのであれば、「曹山」だけではなく「雲居」も加えなくてはおかしいと、道元禅師は指摘されるのである。

なお、道元禅師は宗派名を否定されてはいるが、自分自身が洞山禅師の系統であるという自覚に不足はなかった。『正法眼蔵』「嗣書」巻では、「わが洞山門下(同巻自筆草案本には「わが洞山宗門」と見える)」というような記述も見えるためである。しかし、道元禅師ご自身については、遂に「曹洞宗」を冠する自称をお使いにはならなかった。なお、「曹洞宗」という自称について最初に確認されるのは延慶元年(1308)に成立した『正法眼蔵御抄』を著した経豪禅師であり、『御抄』「出家」巻の末尾に「曹洞末塵沙門」とあるのが、その最初であるとされる。

また、日本に於いては以上のような状況を受けてか、広く、曹洞宗という呼称は中国六祖曹渓慧能禅師の曹と、洞山から1字ずつ取ったものだという認識が広がっているが、その説の原典については現在調査中である。なお、現段階(平成19年4月19日)で確認しているのは、道元禅師の直弟子であった詮慧禅師が書かれた『正法眼蔵御聴書』「仏道」巻に見える次の記述である。
曹洞 〈以下割注〉青原流曹山洞山二人ヲ合テイフ〈改行〉曹山ハ六祖洞山ハ悟本大師ナリ 〈改行〉私云曹山ハ本寂禅師ノ事歟六祖ハ曹渓ナリ

後半にある「六祖」とは六祖慧能であるから、本来曹渓と呼ばれるはずであるが、ここでは曹山を持って六祖としている。このことについて、問題があると思った者がいたらしく、この文章に対して、別に書き入れを行ったことが「私云」以下の文章に確認できる。

 問て曰く洞山宗を何に因てか曹洞と云ふや
 答て曰く達磨の宗風、六祖慧能大師に到て盛に大唐に興る、六祖の住処を曹渓と云、その曹渓の曹と洞山の洞を合て曹洞宗と云ふ、又一説には洞山良价の法嗣五人中に就て雲居・曹山の二人門庭大に繁昌せり、彼曹山の曹と洞山の洞を合して曹洞宗と云ふともいへり、よろしく曹渓洞山を正とすべし、亦洞家とも洞上とも唱へり 曹州卍源禅師『通俗玄談集?』巻下・16丁裏〜17丁表

江戸時代中期以降の議論となるが、やはり上記の通り、曹洞宗の名称の由来を、「曹渓・洞山」の組み合わせに求める場合があったことが分かる。