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タグ検索で関三刹は4件見つかりました。
僧録
括をさせた。総寧寺・龍穏寺・大中寺が[[関三刹]]となった。 さらに、[[總持寺]]の[[五院]]が中心となって、寛永6年(1629)6月に、大僧録及び全国に録所を設置している。ここで、先の[[関三刹]]と[[可睡斎]]を大僧録(可睡斎は東海道大僧録)に任じ、上野・信濃・越後・佐渡について上野双林寺を僧録頭に命じることで、基本的な統制を確立している。 録所は、当初[[永澤寺]]を始めとして50ヵ寺だったが、延宝9年(1681)には、147ヵ寺にまで拡大されている。 &color(blue){''【参…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c1%ce%cf%bf... - 2007年04月11日更新
江戸三ヶ寺
(blue){''【定義】''} [[関三刹]]の東京出張所として江戸府内に置かれた三ヶ寺のこと。江戸時代、宗務行政上、大きな役割を果たした。 ''・[[総泉寺]]'' ''・[[青松寺]]'' ''・[[泉岳寺]]'' なお、関三刹と上記三ヵ寺を合わせて、関府六ヵ寺とも称する。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b9%be%b8%cd%bb... - 2008年10月16日更新
泉岳寺
戸時代の曹洞宗管轄の最高機関となった[[関三刹]]の1つである[[大中寺]]の[[末寺]]となり、関三刹の江戸出張所である[[江戸三ヶ寺]]の一寺となった。 江戸期には寺内に[[学寮]]が九棟あり、常時100人以上の[[学僧]]が[[宗乗]]・[[余乗]]、並びに[[外典]]の漢籍等の[[参究]]を行っている。 [[本尊]]は釈迦牟尼仏坐像・脇士は文殊菩薩・普賢菩薩である。江戸期には極めて荘厳な[[伽藍]]を誇っていたが、第二次大戦には戦災で大半が消失した。ただし、[[山門]]は昔のままの威容を誇って…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c0%f4%b3%d9%bb... - 2006年12月08日更新
関三刹
に、[[永平寺]]の[[住職]]は、この関三刹の住職から選ばれ、一方で[[總持寺]]は末派寺院から選ぶ制度を定めたため、関三刹の権勢は[[両大本山]]を凌駕するほどであった。 しかし、明治時代に入ると、僧録所は廃止となり、宗務については、[[宗務庁]]を設立して行うようになったため、関三刹制度は終焉を迎えた。 また、以上の三ヵ寺の他に、[[総泉寺]]・[[青松寺]]・[[泉岳寺]]の三ヵ寺を、江戸の触頭として、合わせて関府六ヵ寺とも称した。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b4%d8%bb%b0%d1... - 2008年10月16日更新