最終更新: uedam1984b 2014年04月10日(木) 12:46:21履歴
岡田暁生の本のページへ戻る
音楽の森のページに戻る
真也グッズの整理箱フロントページへ戻る
目次
まえがき i
第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る 3
音楽の生理的次元
相性のメカニズム
「内なる図書館」と人の履歴
「好み」の社会集団性
突き抜けた体験
時間の共有としての音楽体験
第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ 35
「鳴り響く沈黙」とドイツ・ロマン派の音楽観
神の代理人としての音楽批評
聴衆は信者か公衆か?―ストラヴィンスキーのバイロイト批判
鑑定家としての音楽批評?
音楽を「する」/「聴く」/「語る」の分裂
音楽は言葉で作られる?
「わざ言語」について
「地元の人」の言葉
教養主義と日本固有の問題
「わざ言語」を作り出す
第3章 音楽を読む―言語としての音楽 85
「音楽の正しい朗読法」―一八世紀の演奏美学
音楽/言語の分節規則
音楽の句読法と民族性
音楽のセンテンスを組み立てる
多楽章形式について
音楽の意味論
「音楽は国境を越える」というイデオロギー
アーノンクールの近代批判と「言語としての音楽」の崩壊
「ケージ以降」への一瞥
言語的聴取の退化?
第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く 137
再生技術史としての音楽史
演奏家を信じない作曲家たち
壊死しつつある「音楽の意味」の救済―アドルノのフルトヴェングラー論
完璧主義の実存不安―アドルノのトスカニーニ批判
音楽の解釈とは何か
ポリーニのショパン<<エチュード集>>をどう聴くか
未知のものとして音楽を聴くということ
第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からない 175
音楽は社会が作る/音楽が社会を作る?―パウル・ベッカーのテーゼ
音楽は政治的にうさんくさい?―「感動させる音楽」の恐怖
音楽を中断するということ―アイスラーの<<ハリウッド・ソング・ブック>>
「聴く音楽」と「する音楽」―ハインリッヒ・ベッセラーの二分法
アマチュアの領分
「聴く」から「する」へ
おわりに 207
文献ガイド 218
あとがき 226
音楽の森のページに戻る
真也グッズの整理箱フロントページへ戻る
目次
まえがき i
第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る 3
音楽の生理的次元
相性のメカニズム
「内なる図書館」と人の履歴
「好み」の社会集団性
突き抜けた体験
時間の共有としての音楽体験
第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ 35
「鳴り響く沈黙」とドイツ・ロマン派の音楽観
神の代理人としての音楽批評
聴衆は信者か公衆か?―ストラヴィンスキーのバイロイト批判
鑑定家としての音楽批評?
音楽を「する」/「聴く」/「語る」の分裂
音楽は言葉で作られる?
「わざ言語」について
「地元の人」の言葉
教養主義と日本固有の問題
「わざ言語」を作り出す
第3章 音楽を読む―言語としての音楽 85
「音楽の正しい朗読法」―一八世紀の演奏美学
音楽/言語の分節規則
音楽の句読法と民族性
音楽のセンテンスを組み立てる
多楽章形式について
音楽の意味論
「音楽は国境を越える」というイデオロギー
アーノンクールの近代批判と「言語としての音楽」の崩壊
「ケージ以降」への一瞥
言語的聴取の退化?
第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く 137
再生技術史としての音楽史
演奏家を信じない作曲家たち
壊死しつつある「音楽の意味」の救済―アドルノのフルトヴェングラー論
完璧主義の実存不安―アドルノのトスカニーニ批判
音楽の解釈とは何か
ポリーニのショパン<<エチュード集>>をどう聴くか
未知のものとして音楽を聴くということ
第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からない 175
音楽は社会が作る/音楽が社会を作る?―パウル・ベッカーのテーゼ
音楽は政治的にうさんくさい?―「感動させる音楽」の恐怖
音楽を中断するということ―アイスラーの<<ハリウッド・ソング・ブック>>
「聴く音楽」と「する音楽」―ハインリッヒ・ベッセラーの二分法
アマチュアの領分
「聴く」から「する」へ
おわりに 207
文献ガイド 218
あとがき 226
- 『CD&DVD51で語る西洋音楽史』
- 『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
- ピアニストになりたい! 19世紀 もうひとつの音楽史
- 「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後 (レクチャー第一次世界大戦を考える)
最新コメント