日本人論、日本社会論
「あれどうなっているかね?」で発動する何か
小泉さんの敵は「どうなっているかね?」以上のことを小泉さんが言うから怒っているわけで、味方は「どうなっているかね?」以上のことを小泉さんが言うから混乱してしまうわけで、「どうなっているかね?」以上のことを言わないリーダーの下で困っている人たちが、これを見て、面白がっている。
ハーベイロードの仮定
こういう国で育った人には「官僚が正しいことをするわけがない」というケインズと逆の思い込みができちゃうでしょうね。こういう「たかりゲーム」に参加することを「公共」と言うのだと思っている人はいっぱいいて、そういう人の中からまだケインズのようなブリリアントな人は出てないので、明解な経済理論のような形にはできてないけど、そういう理論にならない理論のようなものが濃厚にあって、それを行動原理にしている人って結構いるでしょう。
そういう世界観においては、「公共」とはパワーゲームの別名のようなものになるから、「公共」っていう言葉が生理的に嫌いになる人が多くなるのも当然だ。
もちろん、ケインズだって、自分の回りのローカルな現象を普遍的な現象と思いこんで、そこから立派な理論を作りあげたのだから、「たかりゲーム」=「公共」理論だって、何らかの抽象化をすれば立派な経済理論なり、政治哲学なりに化ける可能性は充分あるかもしれない。
しかし、「たかりゲーム」=「公共」理論は、富の分配に関してはいっぱしのことが言えたとしても、富の源泉について何も説明できないのではないか?「たかりゲーム」=「公共」理論には、頭のいい人が常に無欲でいつまでも馬鹿どもに搾取されまくっていていくらでも税金の源泉となるという仮定がある。どんなに頭が良くてもそういう環境にいつまでも甘んずる人は馬鹿というのであって、結局、馬鹿には富は創出できない。
「富を創出する人は無欲で、しかも正しい判断ができない」という仮定は、いったいどの町のどこの通りで生まれたのだ?
ロゴス批判の高速道路にモヒカン族を押しこむな
このドイツ→アメリカの間に起きたアク抜きと同じようなことが、アメリカ→日本の間でも起きているわけです。ドイツ思想をアメリカがアク抜きしてライフスタイルとしたものを、日本がさらにもう一段階漂白して輸入して、ムラ社会ができているのだと私は思います。
日本は遣唐使の時代から、いや聖徳太子の時代から似たようなことをやっているわけで、そういうアク抜きに関してはアメリカよりずっと巧妙で、しかも蓄積されているものも多い。そこに対する反発としてモヒカン族は生まれたわけですから、思想史的な意味は大きいと思いますよ。
「空気」の研究
「とてもそんなことを言える『空気』ではない」という時の「空気」を論理的に考察した本である。
オープンソースはわからないくていいから部下のことを理解しなさい
規律やシステムを緩めに作って、上司の裁量で部下を泳がせる。そもそも優秀な部下というものは、上司に見えないことが見えるのでたいてい怒っていて、時として上司に理解できないような無茶をする。そういう人が、羽目をはずせる余地があってこそ、日本的経営組織というものはうまく回っていたのだ。
そういう上司としてのふるまい方は、あちこちで見たから、ひとつの伝統的な芸として、日本のあちこちに定着していたのではないだろうか。おそらく、池田敏雄さんは始末書をたくさん書いただろうが、念書は書いてないと思う。俺が知っているよき伝統は消滅しつつあるようだ。
オープンソースがわからない上司がいたってしょうがないと思うが、部下のやってることが見えてない上司はどうしようもない。部下を怒らせることが問題なのではなくて、部下の目を自分の武器として使えないことが問題である。時代についていけないことが罪なのではなくて、自分たちが継承したものを残せないことが罪である。
もう、日本のPKIはめちゃくちゃだ
問題は、こういうのにかぶれて筋を通そうとすると、日本の中では「嫌われ者」のキャラ属性がついてしまうことですね。組織の中の個人としても、そういうことが得意な人は、なんとなく煙たい存在になってしまうし、企業としても、そういうことをうるさく言う技術者を、営業がうまくコントロールできない会社は、なかなか官庁関係の仕事が取れない。「営業がコントロールする」ってことは、なあなあでいいかげんになることで、他のことならむしろそれでバランスがとれて全体的には正解だったりするんだけど、セキュリティに限ってはそうではありません。
○○ちゃんのお母さん
のび太のママのことは誰でも知っている。しかし、彼女の野火玉子という名前を知っている人はめったにいない。彼女は大半の人から「のび太のママ」として記憶されている。
こういう人間のあり方はフィクションの中だけかと思ったら、お互いのことを「○○ちゃんのお母さん」と呼びあう人たちは実在する。PTAのクラス会で俺はこの目で目撃した。こういう会話をかわしている人たちがいた。
それどころか、実際に俺もそう呼ばれてしまった。ほとんどの場合に俺は「フグ田さん(仮)」と呼ばれていて、それ以外ではせいぜい「マスオ」か「マスオくん」としか呼ばれたことがない。それが突然「タラちゃんのお父さん」と呼びかけられたのだが、一瞬誰のことだかわからなくて混乱してしまった。
不完全なプロセスを記述する語彙
これは、役人の怠慢とか悪意でなく、「そもそもそういうダイナミックなプロセスを記述する言葉がないのだ」と考えると、よくわかるような気がする。そのような役所言葉の特性は、日本語のある側面を確実に反映しているわけで、片岡さんは日常あらわれるなにげない日本語の中にそういうものが見えてしまうのだろう。
馬鹿とcrazyの間
日本人は、クボヅカとジム・クラークを別のカテゴリに入れて、後者だけに金を貸そうとする。富士山の山頂だけ注文するようなものだ。頂上だけ持ってきてどこかに据え付けたらそれは富士山ではない。クボヅカという裾野から積みあげなければジム・クラークという頂上は得られない。
させていただきます
「始めます」という言葉は、俺が個人としての担当者に向けて発する言葉。「始めさせていただきます」という言葉は、俺が主賓に向けて発する言葉。そして、この主賓という機能は片岡義男さんが言う「場」というものをリプリゼントするものだと思う。「始めさせていただきます」と言わされてしまうと、妙に腹がたつと言うかなんかスッキリしない気分になるのだが、部長さんに恨みがあるわけではなくて彼が体現する「場」と言うものに長年悩まされていているからだろう。
「個人」の探究河合隼雄
上が死ねと言えば死ぬのも武士だが、上がとことんバカなら刺し違えて死ぬのも武士。体育会系では武士はつとまらないものらしい。雪印のことを軽々しく日本的な体質とは言えなくなった。
聖徳太子の賞味期限が切れた
それで、こういうリスク回避の元祖は誰かというと、これが何と聖徳太子なんだよ。あの時も、ローカルルールの神道を取るかグローバルスタンダードの仏教を取るか重大な選択を迫られていた。国内世論はまっぷたつで、どっちを取っても深い傷が残る局面を向かえていた。聖徳太子は一応仏教派の蘇我について実権を握った。政治的にはそれなりにケリをつけたけど、戦後処理の中で施政方針として、「どっちも取る」という表明をした。対立する二つの思想を矛盾を解決しないでひとつの体系に収めるという、世界史上誰もやってない離れわざを演じた。ひとつ上のレベルに視点を上げて矛盾を解決するってのはヘーゲルがやってる。しかし、矛盾を解決しないで体系化するってのは聖徳太子以外誰もやってない。そんなことをちょっとでも考えた奴さえいない。
「場の雰囲気」という怪物
いろんな役員がテレビに出てきて、性格や芸風はいろいろあるが、この「言葉の無さ」は共通している。この現象を一番単純に理解するならば、「言葉」を持ってる奴は偉くなれないということだろう。これを見ているとなぜか、東条英機を思い出してしまう。東条英機があれくらい品がなかったということではなく、「言葉」を持っていなかったということでもなく、「場」のふんいきに流されてしまうこと。
雪印の役員と東条英機の共通点とは、ここのことだ。つまり、両者とも「場の雰囲気」を感じとりそこに身を潜める能力に長けていて、それがズバ抜けていたから出世したのだと思う。これを長年続けていたら、「言葉がない」というのは職業病みたいなもので、当然のことかもしれない。
2007年06月21日(木) 17:47:11 Modified by uncate