「右」の諸君、米国が、戦前、日本、ひいては東アジアに対して犯した犯罪と戦後日本がその占領下にあることに憤れ。 「左」の諸君、米帝国主義への憤りを忘れたのか、その米帝の植民地となっている現状に甘んじ続けるのか。 日本独立に向けて決起を!〜作成中


太田述正氏について

自己紹介
#4051(2010.6.5) 私の考えはいかに形成されてきたか(その1)
#4093(2010.6.26) 私の考えはいかに形成されてきたか(その2)

 私は、自分がリベラル右派であると言ったことがありますが、より正しくは、日本(縄文)の顔をしたアングロサクソン的価値観を抱いている者です。
 「日本(縄文)の顔をした」とは、人間(じんかん)主義と自然との共生志向を、「アングロサクソン的価値観」とは、自由主義的(=必ずしも民主主義的ではない)価値観を含意しているところです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51356097.htmlより)

 私の裏芸は官庁不祥事・・要するに政官業癒着構造・・問題であり、表芸は安全保障問題・国際問題であります。
 これは別段、裏芸はヘタで表芸は上手だということではなく、両者は表裏一体をなしています。
 よりピンポイントで申し上げれば、私は、安全保障を表芸にしているからこそ、国内政治について的確な判断が下せる、と自負しています。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51350654.htmlより)

 私は国際問題(安全保障・国際関係・比較政治)の専門家を自称していますが、私がコラムを通じて訴えているのは、「独立」することで、国際問題の専門家が活躍できる国に日本をすべきだということです。
 私が国際問題をとりあげることがあるのは、あくまでもそのための手段としてであって、それ自体が目的ではないということです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51986234.htmlより)

 猪木正道先生が防衛大学校の学長をされていた1970年代の終わり、ある友人(政治学者の卵)が猪木先生にぜひ会わせてくれというので、(当時、私は防衛庁の本庁にいましたが、)彼を案内して横須賀の防衛大学校を訪問し、学長室で先生にお目にかかりました。
 その時、予定時間をはるかに超えて、東西にわたる該博な歴史知識を披露されつつ、先生は国際情勢について熱っぽく語られました。
 この時に教えられたこと・・歴史を知らずして国際情勢を論ずることなかれ・・が、現在書きつづっているこのコラムのスタンスになっているのです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/50955667.htmlより)

 ボクの主張のポイントって、例えば、横井小楠コンセンサス/対赤露安全保障、アングロサクソン対欧州、自由民主主義対民主主義独裁、戦前の日本の自由民主主義性、できそこないのアングロサクソンたる米国、人種主義的帝国主義たる米国、縄文モード/弥生モード、帝国陸軍>帝国海軍>外務省、豪・加<チャーチル/英海空軍<チェンバレン/英陸軍、だよ。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52065298.htmlより)

太田流分析手法

 私の分析手法(#20#152)が、どこが他の人々の手法と違うかを一言で言えば、軍事を縦糸とし、アングロサクソン文明と欧州文明との大抗争(Great Game)を横糸とする手法だという点でしょう。
 この手法で世界の近現代史を切ってみると実に良く腑に落ちるし、国際情勢を切ってみると、これまた的確な理解と予想ができる。(#231

日本「独立」論抄

 私は、世界の近現代史は、自由主義文明・非イデオロギー文明のアングロサクソンと全体主義文明・イデオロギー文明の欧州(並びにその外延)とのせめぎあいの歴史であると考えている。(#61#100/#127/#129/#162#1157#1161/#1165

 先の大戦によってまず欧州の敗北が確定し、その後欧州の第一の外延たるロシア等についてもおおむねその敗北が確定的となったものの(#65#100)、欧州の第二の外延たるイスラム世界は依然としてせめぎあいを続けている、と私は見ており、ことあるごとに、アングロサクソンと日本の提携を主張し、ヒンズー原理主義を批判し、イスラムの病弊を嘆き、ロシア的なるものを指弾し、中国の現状に懸念を表明してきた。
 この背後には、開放的な社会を是とする私の価値観がある。この価値観は、開放的な(=多様性に富み、言論の自由が認められた)アングロサクソンや日本のような社会は、より高度で適切な意志決定が行われるため、政治・経済・文化等あらゆる面で非開放的な社会に比べて優位に立つ、という認識に根ざしている。(#357/#358
 つまり、私に言わせれば、先進国でまともなのは、アングロサクソン諸国と日本だけであり、とりわけまともなのは日本である。(#3696#3754

 今、世界では、共産主義に引き続き、市場原理主義も急速に力を失いつつあり、政治的宗教で活力が残っているのはファシズムくらいだが、他方で、歴とした宗教である、イスラム教、キリスト教、及びヒンズー教、とりわけそれぞれの原理主義勢力は依然隆盛を極めている。
 これらの政治的宗教を根絶させるとともに、宗教・・別段「無くならな」くても構わないが・・を世俗化させて無害化させるのは、「独立」した暁の日本が果たすべき世界史的役割の一つである、と私は考えている。

 戦後一貫して、米国はもとより、英国も対GDP比で日本よりはるかに多額の防衛費を投じて防衛力を整備し、維持してきた。これは、米国・英国とも、国際貢献のために、自らの国土の防衛のために必要な防衛力をはるかに上回る防衛力を整備、維持していることを意味する。
 見通しうる将来にわたっての日本の国益にとって、在外資産/自国民の保護はもとより、本土防衛よりも重要なのは、法の支配の確保と自由・民主主義の維持・推進という観点からの軍事力を用いた国際貢献であると私は考えている。

 人的貢献、就中軍事的貢献が高く評価されるにも関わらず、集団的自衛権行使を拒み続ける日本は、自由民主主義諸国の中で最も白痴的であるがゆえに、実は悪辣であり、米国に日本が払うべき軍事費と血を最大限肩代わりさせてきた。
 集団的自衛権行使の禁止という政府公定解釈は、救いを求めている他者を助けないということであって、人倫の道に反することであり、かつ、戦争と平和に関し、主権を放棄していることを意味する。
 日本は「自発的に」米国の属国(保護国)であることに甘んじ、一方、宗主国米国は日本を軽蔑し、怒りを募らせ、日本搾取の度合いを次第に強めてきた、というのが日本の戦後史である。

 首相の決断だけで可能である政府公定解釈変更により、集団的自衛権行使の解禁をすることで、吉田ドクトリンを廃棄し、国家ガバナンスを回復させる、つまり、日本は米国から「独立」しなければならない。
 その上で、日英同盟を復活させ、NATOにも加盟し、日本と英国の提携によって、アングロサクソンと欧州のキメラたる米国をまっとうなアングロサクソンへと善導しつつ、欧州の外延的なものの残滓の一掃とイスラム世界の無害化を図ることが、人間主義的・世俗主義日本のグローバルな課題である、と私は考えている。

文明論

 アングロサクソン文明を理解するためには、アンチ・アングロサクソン文明とも言うべき、欧州文明についても知らなければならない。また、そうしないと、アングロサクソン文明を主、欧州文明を従とする両文明のキメラであると私が考えているところの、米国「文明」を理解することもできない、と私は思っている。(#1755

アングロサクソン文明

 アングロサクソン文明とは、純粋なゲルマン文化を継受したものであり、コモンローと個人主義(=利己的)を特徴とする、帰納的、経験論的思考の文明である。
 個人主義を特徴としているということは、アングロサクソン文明は、本来的に資本主義的文明である。(#3754
 また、アングロサクソン的な考え方とは、理論と現実のフィードバックを重視する経験論的・帰納的な考え方で、改革と妥協的政治をもたらした。(#1256

 自由主義は、個人主義なくしては生まれ得なかった。そういう意味では、個人主義の果たした歴史的役割は大きい。
 これに関連し、人権は、法の支配(陬▲ウンタビリティー)と裏腹の関係にあるところ、人権は、法の支配とともに、自由主義の一環であって、非人間主義社会においては、真の近代化のために確保されるべき前提だ。
 そういうわけで、自由主義は普遍性がある、と言えよう。
 つまり、アングロサクソン文明とは、自由、人権、法の支配を重視するリベラリズムの文明である。
 なお、民主主義は、自由主義(人権/法の支配)が一定程度機能している社会においてのみ、文明を超えた普遍性がある。(#3614

 アングロサクソン文明が近代の殆ど全てを生み出した文明であることは私が力説しているところであり、この文明が文化や富を生み出す力でいまだに世界をリードしていることは周知の事実である。(#84
 ちょっと日本人の皆さんに想像力を働かせてみていただきたいのだが、仮に日本文明が世界をリードしていたとすれば、他の文明を皆さんは、どうご覧になるだろうか。恐らく、一段低いものとして見下されるのではないだろうか。そして、その「一段低い」他の文明に対しては、自分の文明に害を及ぼす可能性のある部分は抹殺ないし無害化し、その上で、害を及ぼさないと考えられる部分は世界遺産ないし天然記念物的に可能な範囲で保全しつつ、できる限り自分の文明を普及しようとされるのではないだろうか。
 アングロサクソンは、まさにこのような、階層的世界観を抱いている。それは、最上階の四階にいるアングロサクソンが、身内である三階の準アングロサクソン(スイス・オランダ・北欧諸国等)、よそ者であり潜在敵であるところの二階の(上記以外の)欧州諸国等、そして保護すべき対象であるところの一階のサハラ以南のアフリカ諸国等、に君臨しているという四層からなる世界観である。(#768

欧州文明

 欧州文明とは、階級文明であり、より具体的には、階級、人種、宗派/イデオロギーによる差別の文明である。欧州文明は個人主義のアングロサクソン文明とは水と油であり、反リベラリズムの全体主義的文明である。アングロサクソン文明から輸入されたリベラリズムは、まだ欧州諸国には十分根付いていない。

 欧州的な考え方とは、古代ローマないしカトリシズムに由来する、理論ですべてを割り切ろうとする合理論的・演繹的な考え方で、革命と恐怖政治、つまりは野蛮な民主主義的独裁(民主主義的全体主義)をもたらした。(#1256
 (ここで言うカトリシズムとは、欧州の中世のそれであって、現在のカトリシズムではないことに注意。(#497))

 民主主義的独裁とは、民主主義を装った独裁のことであり、一般には「政治的宗教(#3676)」と呼ばれる。
 ナショナリズム、共産主義(#144)、ファシズム、市場原理主義は、欧州文明がキリスト教(の神)を殺した上で、その代替物として、18世紀末から、次々に創り出してきた新宗教であり、欧州文明の中からカトリシズムの変形として生まれた、政治イデオロギーないし政治体制である。これらは、世界の人々を惑わしたり世界に災厄をもたらしたりした。(#410

 英国もカトリシズムの洗礼を受けたが、英国教会の成立(16世紀後半)は、欧州的なものの象徴でもあるカトリシズムを峻拒したことを意味する。これは、英国人の宗教意識がペラギウス的であり、キリスト教、就中カトリシズムとは本来異質であったためだ。(#461
 また、英国は、宗教原理主義と宗教忌避の両面を持っていたプロテスタンティズムとも基本的に無縁であると割り切った方がよい、というのが私の理解である。英国のプロテスタントの多くは北米に移住し、後に彼等が中核となって米国が誕生したからだ。

 文明差別のアングロサクソン文明と人種差別(+階級差別)の欧州文明とを峻別するのが私の考えである。

米国文明(できそこないのアングロサクソン)

 英国は帝国主義国ではあったが、決して人種主義的ではなかった。
 米国の有色人種、就中黒人差別(#225#306)は、欧州文明的側面の現れである、と私は考えている。

 米国の人種主義的帝国主義の背後には米国流のキリスト教原理主義がある。(#93/#95#456/#458#470
 米国流のキリスト教原理主義の特徴の一つは、米国人たるアングロサクソンの選民意識である。それが次第に白人全体に及ぼされ、現在では有色人種にまで及ぼされるようになったわけだが、米国人の多くは、現在でもなお、独特の階層的世界観を維持している、と私は見ている。
 その階層的世界観とは、おおざっぱに言えば、頂点は米国の白人たるキリスト教徒であり、次にその他の米国人と白人たるキリスト教徒であり、次いで外国人の有色人種たるキリスト教徒であり、どんじりにくるのが有色人種たる非キリスト教徒、というものだ。

 米国が人種差別とこれに関連した、戦前における東アジアへの恣意的介入という二つの原罪を犯し、現在ではキリスト教原理主義にからめとられつつあるのはどうしてなのだろうか。
 換言すれば、どうして米国はかくもできの悪い(bastard)アングロサクソンなのだろうか。
 それは、米国がアングロサクソン文明を主、欧州文明を従とする両文明のキメラだからではないか、と私は考えている。(#502

日本文明

 私は、縄文時代と平安時代と江戸時代を基本的に「軍事と警察」抜きの手弱女ぶりの時代と見て、後の2つを縄文モードの時代と名付け、日本史は、縄文モードと、これと対蹠的な益荒男ぶりの弥生モードの時代が交互に訪れるユニークな歴史である、と考えている。(#276#1057#2200

 日本の歴史は、縄文時代から始まり、(広義の)弥生時代、平安時代(縄文モード・マークI)、武家の時代(弥生モード・マークI)、江戸時代(縄文モード・マーク II)、明治大正期(弥生モード・マークII)、昭和期〜(縄文モード・マークIII)、と、パラダイムシフトは都合6回、というのが私の今のところの認識である。
 「平和」「鎖国」「国風文化」の縄文モードは「普通の形」であり、「戦争」「開国」「輸入文化」の弥生モードは「異常な形」である。

 日本文明は、縄文文化を基調とする文明であるが、その縄文文化は、(和辻哲郎言うところの)人間(じんかん)主義(#113/#114)と自然との共生を属性としている。
 人間主義とは、人間は他人との関係性において存在するとの利他的な考え方なのだが、自然との共生については、この人間主義の系である、という位置づけもできそうだ。
 なぜなら、人間主義とは、他者との関係性において自己が存在するとの考え方、と一般化ができるのであって、そうなれば、人間とは自然との関係性において存在する、という考え方が導き出されるはずだからだ。(#3820

 人間主義文明である日本文明は、欧州文明ともアングロサクソン文明とも異質である。
 ただ、アングロサクソン文明も実は人間主義的な側面が強く、どちらかと言うと、欧州文明よりアングロサクソン文明の方が日本文明と親和性が高い。
 ちなみに、この三つの文明の中で、日本文明は、最新の人間科学によって、その正しさが裏付けられており、最も普遍性が高い文明である。

 日本は、これまで繰り返してきた縄文モードと弥生モードのサイクルを「弁証法的に止揚」させる、すなわち、平和・自然との共生・人間主義をコアとする縄文的価値観を維持しつつ、この価値観を世界に普及させるくらいの意気込みを持って、アングロサクソンと手を携える形での日本の弥生化、すなわち日本の開国、を実現しなければならないと私は考えている。

 人類の近代史は、近代社会たるアングロサクソン社会と他のもろもろの社会との邂逅の歴史であり、他のもろもろの社会がアングロサクソンの影響を受けて変容を続けた歴史である。
 しかし、これからの(日本以外の)人類は、日本と邂逅し、日本の影響を受けて変容しなければならない、と私は信じている。
 なぜなら人類は史上初めて、自然にこれ以上負荷をかけられない時代に突入しつつあるからだ。
 自然との共生と人間主義をベースとする日本、それと同時に、ポスト農業革命的文化だけを身につけた社会やアングロサクソン社会と論理的な対話が可能な日本は、今まさにこの新しい時代の先導役を果たすことが期待されている。(#2372

 私は、21世紀における日本の課題は、グローバル化した世界の下、単なる弥生モード化ではなく、これまでの日本史の宿命的サイクルからの脱却、すなわち、弥生的縄文社会(=日本の顔をしたアングロサクソン的社会)の構築であると考えている。(#862
 そして、そのために必要なこととしては、基本的に、
  1. (軍事力の保持、マーケットメカニズムの重視、人的開国の実現を含む)選択的弥生(アングロサクソン)化
  2. 軍事力の保持とあいまった米国からの「独立」(国家ガバナンスの回復)
  3. (このことともあいまった男女共同参画社会の実現を含む)縄文化の徹底と縄文モードの世界への普及
であると私は考えている。

太田史観(作成中)

#100(2003.2.18) アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪(その1)
#2900(2008.11.8) 19世紀末以降の日本史をどう見るか
#3660(2009.11.21) 米国の世紀末前後(続)(その2)
#4303(2010.10.9) 日本人の日本近現代史認識の歪み
#6716(2014.1.25) 日本の世界史的使命/「アーロン収容所」再読(その15)
#6579(2013.11.17) 横井小楠コンセンサス(その1)
#6581(2013.11.18) 横井小楠コンセンサス(その2)

 17世紀以来途絶えていた日本と英国の国交が、幕末において、(その実質は英露戦争であったところの)クリミア戦争を契機として英国側のイニシアティブで再開され(#4560)、その後日本は、私の言うところの横井小楠コンセンサスの成立(#1609#1610#1613)を経て、五箇条のご誓文(#1608#2973#2983#2998#3001#3666#3742#3903#4170)に体現されているような、英国流の自由民主主義を追求する近代国家として再スタートを切ります。
 この東アジアにおける自由民主主義の旗手たる近代日本にとって、その最大の仮想敵国が最初から専制国家ロシアであったこと(#4500)は当然です。
 日本は、日英同盟の下、議会開設国として日露戦争を議会非開設国たるロシア・・議会ができたのは1906年 http://en.wikipedia.org/wiki/Duma ・・と戦い、これに勝利しました。
 そして、日本は大正時代に名実ともに自由民主主義国になります。(女性参政権だけは実現されていませんでしたが・・。)
 他方、ロシアは、その後、一党独裁制で強力な間接侵略性を持つ赤露になったところ、日本は、引き続き、東アジアにおいて、このようなロシアと対峙する安全保障政策を一貫して推進して行くのですが、その日本を背後から襲い、日本帝国を瓦解させたのが米国であり、不幸なことにこの米国の逸脱行動を手引きしたのが、欧州における目前の敵たるナチスドイツに目を奪われた英国であったわけです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52063572.htmlより)

戦前/戦中の日本は自由民主主義国であった。

 戦後、自ら米国の属国であり続けてきたのは、日本人が自分達の国家ガバナンス能力について自信を喪失しているからです。
 ですから、広範な日本国民に米国から「独立」する気にならせるためには、戦前の国家ガバナンスだって、東アジアに係る当時のアクター達の中では決して悪い方ではなかったよ、という認識を普及させる必要があるのです。
 ここで重要なのは、(ブッシュじゃあるまいし、)広範な日本人は、(少なくとも無意識のうちに)戦前が民主主義だったのではないかと思っているってことです。戦前の日本が民主主義だったのはファクトであってロマンではありません。
 戦後「も」民主主義だからこそ、広範な日本国民は、戦前の「失敗」に懲りて自らの国家ガバナンス能力について自信を喪失しているわけです。
 繰り返しますが、戦前から民主主義だったけど、当時の世界で、最も民主主義による国家ガバナンスが機能していた、数少ない国のうちの一つが日本だった、という認識を普及させることは、優先順位が最も高い課題なのです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51312855.htmlより)
Q. 戦前/戦中・自由民主主義論は、太田さんの独創ですか?
 私の独創ではなく、ゴードン・バーガー(防衛庁再生宣言 第5章)や古川隆久(#47)の客観的指摘です。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51971332.htmlより)

 戦前/戦中・自由民主主義論に加えて、このところ私が主張し始めているのは、「プロシア的軍国主義化<も><戦前の>日本の一つの流れであった」などという、いわゆる軍国主義的ないし反民主主義的な人々と民主主義的な人々とが対立した時代として日本の戦前史をとらえるのは間違っている、ということです。
 (グルーが駐日米国大使であったのと同じ時期に駐日英国大使であったクレイギーにはこのことが分かっていました。(「ロバート・クレイギーとその戦い(続)」シリーズ(#3956/#3958/#3960/#3964/#3966/#3968/#3970/#3978/#3980/#4182))
 民主主義の維持についてはもとより、東アジアにおいて民主主義独裁への防波堤となるという国家戦略についても国民の間で広汎なコンセンサスがあり、わずかに、対外政策論において、早期対ソ開戦(陸軍の皇道派)かソ連封じ込め(陸軍の統制派)かという基本的対立(「張鼓峰/ノモンハン事件」シリーズ(#3774/#3776/#3778/#3780/#3782))に伴う、対支那政策(早期和平の是非)や対英米政策(開戦の是非やその時期)に関する対立があったにとどまる、というのが私の見解です。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51970034.htmlより)
Q. 太田さんは折にふれて(軍部独裁のファシズムという類の)戦前の日本観は誤りであると繰り返し述べられてますが、いずれも本や書評への反論が主なため、(ファシズムと言えないとしても、何故「正常」だったと言えるのかの部分の)主張がやや弱いという印象を受けてしまいますので、コラムを書いてください。
 実は、『防衛庁再生宣言 第5章』で詳述しており、このコラム上での戦前の日本の自由民主主義性についての記述は、すべてこのもともとの記述の補足にほかならないのです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51634672.htmlより)

防衛庁再生宣言 第5章 戦争と民主主義

1 民主主義の起源
 アテネ
 民主主義を、「すべての成人に無条件で平等に政治参加権(市民権)が与えられる政治制度」ととらえれば、世界最初の民主主義は、ギリシャのアテネで、紀元前6世紀末の508年から開始されたクレイステネスの改革の結果生まれた(1)
 しかし、偉大な実験とも言うべき、この民主主義が定着したのは、紀元前5世紀初頭の数次に渡るペルシャ戦争の賜物だった。490年には、武具を自弁できる裕福な市民によって構成されるアテネの重装歩兵がマラソンの戦いでペルシャ陸軍を打ち破り、職業軍人中心のスパルタ陸軍の顔色をなからしめたし、480年には、無産市民を漕ぎ手の中心とするアテネ海軍が、サラミスの海戦でペルシャ海軍を壊滅させた(2)が、アテネ市民は、アテネの民主主義こそ、これらの勝利をもたらしたと信じたのである(3)
 それ以降、アテネは、絶え間なくギリシャの他のポリスとの戦争を戦い、これに次々に勝利を収めることを通じ、アテネの最下層の市民達の「完全雇用」が(従軍を含む。民主主義下の公的義務の履行という形で)達成され、他のポリスからの上納金等でアテネは空前の繁栄を謳歌し、デロス同盟の盟主としてアテネはギリシャ世界に覇権を打ち立て、アテネの民主主義は成熟期を迎える(4)

 ローマ
 ローマは、当初王制であったが、紀元前509年、エトルリア人の王を追放して共和制に移行する(5)。しかし、共和制ローマにおいて政治的権利を持ちえたのは、パトリキ(貴族)とエクイテス(騎士)の両階級だけだった(6)
 494年にローマは蛮族の攻撃を受けるが、平民(プレブス)は、その機会を捉えて徳政令と平民の政治的権利確保を要求し、要求が満たされない限り、ローマ防衛のためにともに戦うことを拒否する。パトリキらはたまらずこの要求に譲歩し、これを契機にローマは民主制への歩みを開始する(7)
 449年には十二表法の制定という形で政教分離および法治主義の確立を見(8)、445年にはカヌレウス法の制定により、平民はすべての政治的権利から疎外されないようになり、287年のホルテンシウス法の制定をもって、民主制は完成する(9)
 この「<ローマ人>の本領は世界を征服し統治することであった(10)。」と言われる。世界を征服し、統治する手段は戦争であり、軍隊であったが、ローマの民主制は、軍隊を構成する戦士による統治制度と言い換えてもいいぐらいで、ローマ人には、戦士経験を経て、初めて政治的権利が与えられた。「金持ちほど多くの税金が課され、<18歳からの>兵役の年限も長かった。公職につくには最低10年の軍務経験が必要だった。10年間も農場や店を離れていられるのは金持ちだけだから、貧しければ実際には公職を志望できない……。最大の政治的権利、投票権を行使するにも軍歴が必要だった。最高の立法機関である民会<ケントゥリア会議>に出席するためには、百人隊<ケントゥリア(11)>の一員でなければならなかった(12)」(山括弧内は引用者。以下同じ)

 ゲルマン人
 ゲルマン人にとっては、戦争による掠奪こそ、その生業であった。
 ゲルマン人の政治集会には、戦士のみが出席を許された。集会は、各自が武装したまま開催され、軍の司令官である王の選出、慣習法および王令の承認、また戦争によって掠奪された戦利品の分配等が行われた(13)
 これが西欧における議会制の起源であり、ゲルマン議会制が最も純粋な形で残ったイギリスにおいて、これが後に近代議会制へと変貌を遂げるのである。

 日本
 18世紀に安藤昌益という独創的な民主的思想家を持った日本(14)は、実際にも、江戸時代中期以降、当時の世界においては数少ない豊かで民主的な国になっていた。
 このような民主的伝統があったからこそ、明治維新以降、地方自治制度の導入から始まった欧米式の民主主義制度の導入は、日本で着実かつ急速に進展することになる。
 そして、日清戦争を契機として、それまでいがみ合ってきた政府(官=藩閥)と議会(民=政党)は政治休戦し、戦後においては、その戦時の政治休戦の恒久化が計られ、藩閥・政党連合政権が誕生する。ここに、それまでは政権から疎外されてきた政党の政権参加が戦争を通じて実現し、日本の政治は政党化し、日本の民主は一層進展した(15)
 日露戦争においては、参戦や銃後の国民の納税負担、国債負担の増大によって、国民の軍事的役割が大幅に拡大され、それが戦後における国民の政治的役割の拡大をもたらした。日露戦争をはさんで、その前後の4年間で選挙権者は4倍に拡張した(16)
 三谷太一郎は、「大正デモクラシー」は、この日露戦争と第一次世界大戦の戦後デモクラシーと言うべきであるとする(17)
 原敬は、1917年(大正6年)に、「結局立憲政治は戦争に因りて進展すべきもの」と語っているが、実際、その翌年、第一次世界大戦停戦に数十日先駆けて、初の政党内閣たる原政友会内閣が成立する(18)
 また、松尾尊兊は、「内には立憲主義、外には帝国主義」を指導理念とする1905年の日露戦争講和反対運動を、民衆勢力の伸張という意味で大正デモクラシーの起点とする。暴動に参加した民衆は、「警官隊とは戦っても、帝国の光栄をかがやかせた軍隊とは対決しなかった。」この民衆を使嗾(しそう)したのは、新聞記者と弁護士達であった(19)
 やがて、「政党は、1918年から32年かけて、2年を除く全期間、首相の地位を独占し、内閣に支配的影響力をもち続け」ることになる(20)
 この間、1925年(大正14年)には普通選挙制度が導入され、日本の民主主義は名実ともに確立するのである。

2 試練にさらされた戦前日本の民主主義
 このように、日本の民主主義の起源もまた、地中海世界や西欧における民主主義の起源と同様、戦争と切っても切り離せない関係にあった。その論理的帰結として、発生期の地中海世界や西欧の民主主義と同様、確立したばかりの当時の日本の民主主義も、軍や戦争に対する対抗原理(抑制原理)を持ってはいなかった。
 戦前の日本が「支那事変」や「大東亜戦争」に勝算なくして乗り出していった背景として、幕末・維新期よりはるかに厳しかった当時の内外情勢のほか、このことを忘れてはならない。しかも、当時の日本には市民エリートと軍事エリートの分断(第8章2節参照)という悪条件もあった。
 まさに、民主主義が軍部(や軍部と提携した官僚)をこの時代の主役に据えたのである。
 ゴードン・バーガーは、「権力闘争における政党の突然の敗退のおもな原因は、……複雑な国内・国際環境の一連の変化にあったと思われる。なかでも重要なのは、軍と官僚のエリートが、外交・内政ともに国家的危機の時代を迎えた日本には軍事的官僚的専門知識が必要であり、政党にはそれが欠けていることを、他のエリートや多数の国民の間に浸透させることができた点である」(注20、22頁)とし、その過程を次のように説明する。
 「経済不況が経済政策の分野における……政党の専門的能力に対する国民の信頼を低下させたのと同様に、軍縮条約の論争は、政党に指導された内閣の国防政策樹立能力の有無如何という重大な疑問を提起した……」(25頁)、「二つの……1931年……9月のショック……イギリスの金本位制の放棄……<と>……関東軍の行動……<の影響は大きく、とりわけ後者>は『幣原外交』の制約を打ち破り、内閣の外交政策をその経済政策と同様に反故同然にしてしまったのであったが、国内世論からは拍手喝采をもって迎えられた」(26頁)、「世論を騒がせた政党スキャンダルは、正統な政治指導機関としての政党のイメージを一層傷つけた」(39頁)、当時、「美濃部達吉……は……<議員達は>1934年には、……集会、言論の自由ないし選挙権の拡大のような政治問題……だけでなく経済問題にも習熟していなければならなくなった。<しかし>……議員たちには……<その>能力がない……政党は……政策研究を本気で重視してこなかった<からだ、と指摘しているし>」(41頁)、「行政学者蠟山政道は、1935年、……『<政党は>政府の政策施策をかれこれ批評はしたが、何一つ具体的な代案を示さなかった……』<と指摘している>」(42頁)という。
 そして、政党側もあっさり自己批判をしてしまう。「政党内閣のもっとも強力な支持者であったと歴史家達が考えてきた政党政治家のほとんどが、1932年5月には政党内閣不支持に回った……」(34頁)。
 政治家達は、かかる民意を踏まえ、軍部を叱咤激励する役割を積極的に演じていくのである。「政党は……重大な国策については率先して国論の統一に努めその先頭に立つ決意であることを宣伝するため、……犬養の死後一月も経たない内に、新生満州国を国家として承認することを、国会で満場一致で支持し……」(36頁)、議会は、「1937年……『国際信義にもとる中国の抗日軍』に対する非難決議を満場一致で可決<する>……」(96頁)。「政党政治家達は他のエリート集団同じく、日本の東アジア権益の減少と太平洋における日本の防衛の弱体化とは、政策の選択肢としては受け容れられないとみなしていたのである」(251頁)。
 これは、当時の日本おいて、民主主義が機能していなかったということでは決してない。そもそもこれは、確立期の民主主義固有の「病理」ですらない。バーガーいわく、「議会制を支持する文民政治家も欠陥だらけの対外政策や国防政策を熱烈に支持することがある……ヴェトナム戦争前には、民主主義や議会主義と戦争反対とは不可分に結びついているというウイルソン主義的な楽観のために理解できなかった、戦前戦中の日本の議会政治の真相が、ヴェトナムの悪夢の後では理解可能になってきた……」(ⅲ頁)と。
 1936年(昭和11年)の二・二六事件について、英国の政治学者のサミュエル・E・ファイナーは、ドイツのカップ一揆(1920年)やフランスの四月反乱事件(1961年)とともに、米国、英国等のアングロサクソン諸国の成熟段階に次ぐ発展段階にリベラル・デモクラシー的政治文化が到達していた国で起こったために挫折したクーデタの例としている(21)

[参考] ファイナーの指摘は正しいか?

 しかし、外国人の評価を借りるまでもない。当時の日本人自身がどう考えていたかに耳を傾けてみれば、日中戦争勃発直後の1937年の『改造』9月号で、マルクス主義哲学者戸坂潤は、「自由主義ないしデモクラシーが今日の日本国民の政治常識であるという事実を枉(ま)げるころは出来ぬ。選挙演説などの有様を見ると、この事実は疑う余地なく実証される」と言っているのである(25)
 民主主義が機能していた証拠に、政党政治家達は決して軍部に迎合したり、膝を屈するようなことはなかった。バーガーは、「政党が軍部の致命的な対外政策と国防方針を承認したのは、政党が勇気と政治的武器とを持っていなかったからではない。1932年以後政党は首相の座を支配できなくなったが、それでも政党は衆議院を握り、また国民の政治参加の主要な回路を掌中にしていた。これらの制限された制度的特権だけでも、もし政党がそれを行使した場合には、日本帝国を崩壊させたような政策の実行を阻止するには十分だったことは、とくに強調される必要があろう。事実政党は、政党とその主要な支持者達の特権を制限しようとする軍部の試みに対しては、しばしば激しく闘い、そして勝利を収めた」(252頁)とする。
 例えば筒井清忠は、1939年の11月末、町田民政党総裁等の「政界の策士」によって、「うぶな」新任の武藤陸軍省軍務局長が手玉に取られたエピソードを紹介し、当時の陸軍の政治力の実体はその程度のものだったとしている(26)
 バーガーに至っては、前掲書の中で、「1940年の幕開け<において、>……陸軍の長年にわたる激しい攻撃にもかかわらず、議会勢力は劇的な回復を見せ、陸軍大将阿部信行の内閣を崩壊させた……」(172頁)、「米内内閣……四人もの閣僚が二大政党主流派によって占められた……」(173頁)、「国家総動員法<の審議の際>……議会の批判に応じて……集会と新聞発行の停止に関する条項は法文から削除され、さらに同法発動にあたって諮問を受ける、……六割を議会代表者が占める国家総動員審議会<が>設置<された>……さらに重要な譲歩は、総動員法は戦争状態下においてのみ発動され、「日華事変」には適用しないと<されたことである>……」(104、107〜108頁)、「電力国管法案<の審議にあたっては>……民間企業は最終的には敗退したが、それまでにかなりの譲歩を獲得していた。……こうして実業界への国家統制は、戦時経済の他のどの領域への統制よりも軽いものに止まった。実業界と政党の政治力は、……なお決定的な打撃は蒙らなかった」(110〜111頁)、「1940年以後になると、少なくとも外部に対しては国内統一を誇示したいという欲求が指導者の間で強くなってきた。この欲求は一方では聖戦を批判した齋藤隆夫の議員除名をもたらし、政府の施策についての議会壇上の公然たる論戦は姿を消した。しかし他方では、「国内統一」を誇示するために政府が議会に支払う代価はむしろ増加した。……1943年4月にはついに政党指導者が再び内閣に迎えられ、その後政党を代表する閣僚の数は徐々に増加していった」(206〜207頁)、「七六議会において政府が提出法案の3分の1の取下げに同意したことも、議会の力を示すものである」(242頁)「1942年……『翼賛選挙』は旧政党の力を再確認する結果に終った。……1940年……に議員を除名された齋藤隆夫も……当選した」(246頁)、と畳みかけるように動かぬ証拠を突きつける。
 なお、財界も軍に対し、独立性を失うことはなかった。1934年に三菱造船所と三菱航空機が合併して三菱重工業になったが、これは海軍の反対を押し切って行われたものであるし、川崎航空機は、全面的に陸軍に依存していたにもかかわらず、ことあるごとに陸軍の影響力の排除に努め、先の大戦中でさえ、いくつかの契約の締結を拒否し、また、陸軍のジェットエンジンおよびロケットエンジン開発事業への参加を拒否したという(27)
 ちなみに、先の大戦中等の人権「弾圧」も、当時の日本に民主主義がなかった証左にはならない。米国でも、「第一次世界大戦の際には、ワスプ中心主義的な『100パーセント・アメリカニズム』が叫ばれ、……総力戦体制と民主主義は共存できなかった(28)」し、第二次世界大戦の際には、日系人の強制収容が行われた(29)ことからもわかるように、戦時中に多かれ少なかれ人権が制約されるのは、いかなる民主主義国においても、普遍的に見られることだからだ。

参考文献

Q. 軍部独裁のファシズムについて。
 戦前の軍部の暴走は、軍部内部の統制の乱れの問題であり、厳しくとがめられなければなりませんが、軍部の暴走の背景に圧倒的な国民の支持があったことを忘れてはなりません。
 つまり、当時の日本の民主主義は未成熟であり、直接民主主義的な風潮が蔓延していた、ということです。(そもそも、大正デモクラシー生誕のきっかけの一つは米騒動という直接民主主義的暴動でした。)
 これだけ政官業の癒着体制の弊害が連日のように(この体制の片割れの主要メディアを通じてさえ)報道されているというのに、大規模デモの一つも起こらないところを見ると、直接民主主義的「青二才さ」の段階を、日本の一般国民は完全に卒業しているということであり、このことは自衛官たる日本国民においても同じです。すなわち、自衛隊(軍)が暴走する危険など、およそ考えられません。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51293847.htmlより)

 軍隊も企業も欧米型の組織であった明治/大正期を経て、昭和戦前期に日本型経済体制が岸信介らの尽力もあり、成立します。
 これにより、組織内/組織間情報共有とボトムアップを旨とする日本型経済体制的なものに軍隊も企業も変容するのです。
 ところが、企業の方は大成功を収めたけれど、軍隊の方は大チョンボを繰り返し、周辺諸国と日本人は多大なコストを支払わされることになります。
 しかし、旧軍がいかなる「犯罪」を行おうと「圧政」を行おうと、それは日本国民が自ら好んでやったことなのです。
 なぜなら、旧軍の予算も旧軍に係る法律も、帝国議会の衆議院の普通選挙で国民から選ばれた議員の協賛を得たものですし、旧軍の若手幹部達は、ほとんど学業成績だけで日本国民の中から選抜された人々であって、彼等が行った下克上は、当時の国民の意向を踏まえた直接民主主義的行動であったからです。
 つまり、旧軍を忌み嫌う、ということは、自らを忌み嫌う、ということとほぼ同値である、ということです。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51430064.htmlより)
Q. 大政翼賛会について。
 大政翼賛会は、有事における挙国一致内閣的なものであり、民主主義の否定では全くなかった、実際民主主義は機能していた、というのが私の主張です(#47#48#918#1416#2925#3119#3255#3799#3953#3970#4079#4265#4378#4713#4907)。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51364020.htmlより)

 戦前の1940年における大政翼賛会の成立は、自由民主主義世界の中で日本が先駆けとなって無党派時代を切り開いた画期的出来事であったと私は理解しています。
 この大政翼賛会は、いかなる意味でも政党ではありません。綱領・宣言の類を持っていなかった(大政翼賛会 - Wikipedia。12月12日アクセス)からです。
 こんなことが可能であったのは、当時の日本において、世界の他の自由民主主義国では考えられないことに、既に階級間対立も宗教間対立も人種間対立も地域間対立も基本的に克服され、存在しなかったからです。
 戦後の55年体制も形を変えた大政翼賛会の継続であり、自民党と社会党の対峙は、実質的には大政翼賛会内の主流派と反主流派の対峙でしかなかったのです。
 どこが違うかと言えば、戦前の大政翼賛会は独立国における大政翼賛会であったのに、戦後のそれは米国の従属国(保護国)の大政翼賛会である点です。
 つまり、私は本来日本は政党の存立基盤がない国であると見ているのです。
 しかし、戦後の日本が米国の従属国(保護国)であることからすれば、日本は米国から「独立」すべきか「独立」すべきでないのか、という対立軸をめぐって政党的存在が二つ存立し、対峙しても不思議ではないのではないでしょうか。
 私は、この対立軸をめぐって政界大再編がなされることを願っています。
 (当然のことながら、このような対立軸において、旧時代の遺物である公明党が存続する余地は皆無です。)
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51095100.htmlより)
Q. 天皇主権、天皇大権について。
 帝国憲法にも日本国憲法にも規範性がないという私の主張はとりあえず横に置いておきますが、臣民だから(=君主制だから)民主主義たりえないなどということは絶対にありません。
 このことだけは、ご理解いただきたいと思います。
 私は、英国の主要紙を毎日読んでいますが、(英国にはそもそも憲法がありませんが、)British subjects(英国臣民)という言葉が記事の中にしばしば出てきます。
 彼等は、自分達を女王(国王)陛下の臣民であると認識しているわけです。
 いちいちあたっていませんが、このことは、エリザベス女王を元首としていただくカナダ、オーストラリア、ニュージーランド等においても同じはずです。
 よもや、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等が民主主義ではない、と思ってはおられないでしょ。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51920639.htmlより)

 戦前、昭和天皇が国策を動かしたのは、2.26事件を鎮圧させた時と、終戦を決めた時の2回だけです。
 すなわち、内閣(と統帥部)が機能しなくなった場合と、内閣が天皇に決定してくれるよう求めた場合の2回だけです。(#3063
 後は、すべて内閣(と統帥部)が決めたことです。
 ですから、昭和天皇の責任は法的にも実質的にも問えません。
 なお、天皇制というのは、昭和の戦前においては、まさに天皇たる「権威」が内閣(ひいては国民)たる「権力」に従う、ということですから、もちろん天皇制の「責任」を問うこともできません。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51311145.htmlより)

 作戦統制権を、憲法上、というか慣行上、行政府は持っていなかったわけだが、基本にあたる予算案や法律案の策定権を持っていたのだから、議会とあいまって十分民主主義が機能していたと言えよう。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52094741.htmlより)

 帝国憲法について、いわゆる統帥権の独立以外の解釈の余地がなかったのか個人的には疑問に思っている。仮に統帥権が独立していたとしても、政府には軍部に対する予算統制権(行政府及び議会)、立法権(行政府及び議会)や人事権(行政府)があったことを忘れてはならない。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51338602.htmlより)
Q. 戦前/戦中の日本は非自由民主主義国です。(戦前/戦中自由民主主義論は困ります)
 絵に描いたような民主主義などいつの時代のいかなる国にも存在しません。戦前の日本が大正デモクラシー以降、民主主義的であるというのは、私の民主主義の定義(国民の多数の意向に基づいて国家政策の基本・・法律と予算・・が決定される(#3009))に照らしての話です。これを批判しようと思ったら、私の定義自体を否定するか、その定義に照らして戦時中は民主主義的でなかったと指摘するかのどちらかしかありません。ぜひやってご覧なさい。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51317243.htmlより)

 有事には、政権が有事政権になる(憲政の常道をはずれる)、というのは民主主義国共通に広く見られることです。
 英国においても、実に、世界恐慌下の1931年から第二次世界大戦終了直前(1945年)まで、政党内閣ではなく、挙国一致内閣(National Government)でした・・しかも、そのきっかけは、国王ジョージ5世の意向でした・・し、総選挙も、1935年からの10年間、実施されませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Prime_Ministe...
http://en.wikipedia.org/wiki/Ramsay_MacDonald
 これに対し、日本が挙国一致内閣になったのは、満州事変、5.15事件が続いて世の中が不穏になった1932年からであり、英国よりも遅かったばかりか、それに昭和天皇は直接関与していなかった(政党内閣 - Wikipedia五・一五事件 - Wikipedia)上、日本では総選挙がそれ以降も終戦までに1936、1937、1942年の3回も行われています(衆議院議員総選挙 - Wikipedia)。
 一体当時の英国と日本は、どちらで民主主義がより機能していたのでしょうね。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/51971332.htmlより)

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情報を募集しています!

 英国の警察にはどうやら「統帥権の独立」があるらしい。
 誰か少し調べて教えてくれないかなあ。
 いずれにせよ、依然としてかかる警察への英国民の信頼は維持されているようだ。↓
 ・・・the changes in tactics and police numbers were due to commanders, not politicians.・・・
 The police service will make the tactical decisions and quite rightly <they> must and should be held to account.・・・
 ・・・an ICM poll for the Guardian showed that the public sided with the police and not the politicians over the handling of the riots. The poll conducted this week shows that less than a third of voters think the prime minister or the London mayor, Boris Johnson, have performed well.・・・
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/aug/12/police-re...
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52095116.htmlより)

 米国政府が、原爆の威力(物的破壊力は別にして、爆発と放射線による殺傷力)を米国内で原爆投下前及び後において人体実験を伴う形で検証しつつ、広島と長崎に原爆投下を行い、その広島と長崎でも原爆の威力を検証したからといって、広島と長崎への原爆投下が人体実験(目的)であった、ということにはならないでしょう。
 なお、「戦争時における化学兵器の使用禁止<が>すでに1925年のジュネーヴ議定書で謳われてい(化学兵器禁止条約 - Wikipedia)」たところ、禁止の理由は殺傷力そのものではなかったはずだ、被害極限不可能性や不必要な長期的苦しみを被害者に与える点にあったのではないか、というのが私の考えであり、放射線被害の極限不可能性や被害者に及ぼす長期的苦しみを相当程度既に把握していた米国政府が、その上で原爆投下を行ったことは、上記議定書の規定のもちろん解釈でもって同議定書違反を構成し、戦争犯罪となる、と思うのです。
 この点は、もっと詰めなければなりません。
 どなたかやっていただけるとありがたい。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52097852.htmlより)

<TA>

≫ <(日本において、防衛予算に占める研究開発費が低いにもかかわらず高性能の兵器を開発できるのは、日本企業の優れた技術力等を転用出来るからだ、という井上和彦の主張に対し、)>試験の回数とか実戦的な試験の実施を確保するためのカネがなくっちゃ、いくら一所懸命で匠の技だなどとほざいたところで、まともな兵器の開発などできるわけがない・・・。≪(コラム#4759。太田)

 世界第三位の武器輸出国であるドイツ(コラム#3900)の研究開発費はそれほど高くないように読めます。(PDFファイル20頁)↓
 国防に関する各国基礎データ(米・英・独・仏・中・露・印・韓・台・瑞西・瑞典)
http://www.kaikosha.or.jp/doc/anpoken-data.pdf

 少なくともイギリスやフランスと比べ、明らかに、というか極端に低いです。このこととドイツの国際競争力の高さは、どう考えればよいでしょうか。

<太田>

 お示しの典拠の20頁の表を見ると、ドイツの正面装備費・・戦車、艦艇、航空機の類いの予算と考えればよい・・の国防費に占める割合が先進国の中では際立って低いのですね。
 これは、私にとっては意外でした。
 どなたか、その理由をご説明いただけるとありがたい。
 さて、軍事研究開発には、正面装備以外に係るものも含まれています・・例えば糧食とか被服・・が、そういうものは民生品が使える場合が多いし、そもそも、単品のお値段がそれほどはるものでもないので、軍事研究開発は正面装備に係るものが大部分です。
 そこで、軍事研究開発費を正面装備費で割ってみると、ドイツが34.6%であるのに対し、日本は22.0%ですから、やはり、ドイツの方が日本に比べるとはるかに研究開発を重視していることが分かります。
 もとより、フランスのそれは65.0%ですし、英国のそれは52.8%ですから、ドイツも仏英と比較すると顔色なしですが・・。
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52115362.htmlより)

 中共の裁判も先例主義じゃないんだね。
 その点だけとりゃ、日本式だわ。
 誰か、詳しい人もっと教えて。↓
 ・・・Chinese law does not work on precedent. ・・・
http://www.theguardian.com/world/2014/jan/28/china...
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52193837.htmlより)

 共産主義を否定した中共当局が日本の共産主義化を図るなんて笑い話だが、秘密指令文書の話、知ってる人は情報提供を!↓
 「・・・中国の・・・2013年のジニ係数は0.717・・・北京大学の歴史学教授がかつて行った概算では、明末に李自成が農民反乱を起こした際のジニ係数は0.62、清末の太平天国の乱の際は0.58であり、現実に易姓革命につながった。20世紀初めの国民党政府統治期は0.53で、最終的には現在の共産党による統治に移行した。・・・
 先進国は基本的に0.2〜0.3台(2010年:日0.329、独0.295、米0.378)で、0.4が警戒ライン、0.6は社会不安につながる危険ラインとされている。・・・
 中国の砂漠化や乾燥化は進行が速く、今や森林面積が12.5%、人工衛星での実測では8.2%とも言われる(ちなみに2005年国連統計では中国は21.2%で、日本は68.2%となっている)。・・・
 中国の対日工作秘密指令文書(福田博幸著『中国対日工作の実態』)からは、中国が日本の共産主義化を最終目標にしていることが読み取れる。日中の国交正常化を第1段階に、民主党政権樹立を第2段階に位置づけていたし、その点では中国の意図通りに進んできた。
 尖閣問題が急浮上したように日本人は錯覚しているが、1992年の領海法で中国領に組み込むなど、長期的計画のもとに進めてきたのである。・・・」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40136
(以上、http://blog.ohtan.net/archives/52196646.htmlより)

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