2009年夏 横浜の片隅に生まれた小さな森がありました。つながりの森は、人と人とのつながりの中で新しいものを生み出そうとする人たちが暮らす場所。人々はその場所を「Y150ヒルサイド・つながりの森」と呼び、歌い、作り、育て、奏で、走り、語り、そして笑いました。このページは、そんな「つながりの森」の住民達の語りを後世に残し、新たなつながりの森へとつなげていくために作られました。

子ども達に「秘密基地」というキーワードを与えて、
自宅でも学校でも普段出来ない、自分がその中に入れるような大きなモノを作るという工作を、
自由に思う存分堪能してもらうワークショップを、
竹の海原と水の広場の二ヵ所を利用して延べ約3週間に渡り出展されました。



−名取さんが、市民創発に参加した切欠は何だったのでしょうか?

Y150ヒルサイドの開催や、旧若葉台西中学校(廃校/以降、旧西中)
が利用されるコトは事前に人伝で知っていました。
その上で、ある時マンションの1階で「若葉台から世界へ発信しよう」
という告知が張り出されているのを見ました。
事前説明会は近所だったので参加したのですが、
参加してみると「とにかく名前だけで良いから書いて!」と言われ、
参加用紙に名前を書くことになりました。
第一回目の研修会で、コ(個)からはじまるという説明があって
「個人なんだ!」と思いました。
若葉台チームで参加すると思っていた私はここではじめて
「チームじゃない!」ということに気がついて驚きました。
研修会で知り合いも増えてきた第四回目の説明会から
「何かやりたいことがあるはずだ!」「何がやりたいの?」「やりたいコトがあるのだろ!」と
スタッフに強く迫られてさらに驚いていたのですが、
そう言われても自分で出展するコトなど全く考えていなかったので、
出展のアイデアは何も出てきませんでした。
そこで個別相談会に参加したのですが、
私1人に対して5〜6人のファシリテーター(進行役)が交代交代で対応して、
一緒に何をしたいのかを考える作業をしました。
結局、気が付いたら個人での出展参加の線路の上を走っていた感じです。

'''−知らず知らずの間に、
大きな流れの中に巻き込まれて参加する事になったようですね。(笑)'''
でも、それが何故「秘密基地をつくろう」という出展に繋がったのでしょうか?

ファシリテーターとのやり取りは、実際には何をしたいのかというよりも、
今私が何に関心を寄せているのか?思っている事や考えている事を整理し、
それを形としての出展に結びつける作業でした。
私は「何故今イジメの問題が世の中で蔓延しているのか?」というコトに強い関心がありましたが、
それが頭の中で出展と結びつきません。
やり取りの中で、
昔はガキ大将とかがいて、悪いコトもしたけれど、
年下の子や周りの子を守ったり面倒をみたりもしていた。
今はそういう子どもがいないし、そういうコトを経験する環境がない。
と思ったので、平成のガキ大将づくりを考えました。
ではガキ大将をつくるにはどうしたら良いのか?という現実的な話になり、
自宅でも学校でも、危ないとか汚れるとかを理由に制限されてしまうことを、
思いっきりやってもらおう。
子どもが萎縮しないように大人が口をださないようにしよう。
子供同士で解決してもらう空間にしよう。
という思いが、秘密基地をつくるという出展に形として結びついていきました。



'''−なるほど!自身の中に思いはあるけど、
それが出展に結びつくとは全く想像していなかったのですね。'''
思いもしなかったコトを形にする作業は大変だったと思います。
'''思わぬ展開で出展することになった名取さんにとって、
市民創発で印象に残っているコトはありますか?'''

印象に残っているコトは色々ありますよ。
出展準備は、毎週旧西中に行って1人で黙々と作業をする日々が続きました。
大道具のトンネルを作ったり、
ひたすらペットボトルだけを洗って1日が終わる日もありました。
また、頻繁に近所のホームセンターに通っていたら、店員さんに顔を覚えられました。
そのお店で使ったことの無い電動ドリルを買って、
店内でビスを入れるまた抜くの練習をさせてもらっていました。
制作物では、ペットボトルハウスとペットボトルの柵を作りたかったのですが、
実際にやってみたらかなり精度を求められる作業で、
最後まで作りたいと思い続けたものの、結局諦めなくてはいけませんでした。
他にも途中で諦めなければいけなかったコトはたくさんありました。
出展に合わせてスタッフが着るTシャツを作ったのですが、
他にスタッフバンダナも用意したかったですし、
ブースの飾付などをもっと懲りたかったけど、何れもやむなく断念しました。
出展中では、チェキ(ポラロイドカメラ)で参加者のみなさんと作品を一緒に撮影したのですが、
そのフィルム代だけでなんと10万円以上にもなってしまいました。
そしてこれは出展を終えた後の話なのですが、
出展に使った部材をゴミとして捨てるのにはとても量が多いので、
不法投棄と間違えられました。
結局最後は近所の廃品回収の人に、
出展期間中作業部屋として使っていた旧西中まで引取りに来てもらいました。
期間の全体を通しては、出展は他の事をやりくりしながらでしたから、
作業が思うように進まなかったのが残念です。



−フィルム代の10万円に不法投棄と間違えられたにはびっくりですが、何よりお疲れさまでした。
出展は苦労の連続だったと思うのですが、市民創発を通じて何か得たものはありますか?

準備から通して自分で企画・出展してみて「ここまでできた」という自信がつきました。
また、参加してみて色々な人と知り合い、価値観の違う人と話ができました。
そんなみなさんとは仲間であり、お互いに頑張るライバルでもありました。
それは「自分も良いものを出さなきゃ!」という自分自身への良い刺激にもなりました。
そして出展に至るまで自分のやりたいコト、
形にできるコトを自分で語ることができるようになりました。
出展当日は、ボランティアでスタッフがたくさん来てくれました。
撤収の時は時間も限られているので、男手のマンパワーには助けられました。
一人だったら出展はとても無理だったと思います。
みんなが私の夢に付き合ってくれて、
中には自分の友達を連れてきてくれる人もいました。
そういう全ての経験とボランティアの人々と会えたコトが私の得たものです。
あと、任意プログラムでKP法というプレゼン方法を教わったのですが、目から鱗でした。

'''−多くの人に支えられたからこそ出来た出展ですよね。
では、市民創発で周りに変化を感じた人はいますか?'''

実は夫は私がボランティアをすることを理解できなかったのです。
「すぐに止めるだろう」とか「何時か止めるだろう」と思われていました。
そんな中では相談もできないですし、
家族の中で孤立化しそうなところがありました。
しかし私の性格なのでしょうか?始めた以上は途中で止められない。
しかし終盤にさしかかりいよいよ人手が足りないという時に、
夫も手伝わざる得ない状態になりました。
夫は実際に参加して人の姿を見て、子供達と触れ合ってみて
「こういう活動も良いものだ。もっと早くから係わっていれば良かった。
また合ったら参加してみたい」と言ってくれました。
最後は娘も加わって家族一緒に出展の作業が出来ました。
そんな家族の変化を感じています。
出来れば活動は継続していきたいと思っていますが、
自宅に置けない大量の部材は全て処分してしまったので、
現在模索中と言うか未定です。
旧西中が自由に使えるようであれば、そこで何かしたいと思っています。



−生活の基本は家族です。最後は家族と一緒の時間を共有できたのは、素晴らしいと思います。
それでは最後に思い出深いエピソードがあればお願いします。

遠方から来ていた4歳のお孫さんが、横浜に住んでいるおばあちゃんと一緒に来場されまして、
女の子は最初何をして良いのか分からず呆然としていたのですが、
周りを見ながら自分で秘密基地を完成させました。
その日の午後、今度は2歳の妹を連れてまた来てくれました。
遊びにきていたおばあちゃんのHPを後日偶然見つけました。
2人とも楽しかったと伝えてくれたのは嬉しかったですね。
再来場といえば、全19日の出展期間中、6日間参加した5歳の男の子がいました。
お母さんと一緒に来場されていたのですが、
子どものやりたいに横から口を出さずえらいなと思いました。
また、息子の作業に横から口や手を出すお父さんがいたので、
ここでは見守って頂ける様にお願いしました。
そうしたらそのまま息子を2時間黙って見守っていました。
帰り際にお父さんから、「自分の息子は私が思ったよりも出来るのだと知りました。」と声をかけられました。
確かに作れずに帰った子どももいたけど、大人ができないと決め付けているだけで、
本当は子どもはやらせれば出来るのだと思いました。


<了>

【園田明日香】

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