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“台風ライブ”をきっかけに仕事が増え、あの海水浴旅行が懐かしくなるほど
忙しい中、それでも皆わずかな時間でもあれば事務所に集まってくる。
そんなある日、高木社長の重大発表に事務所が大騒ぎになった。

新事務所だ、いやプロデューサー増員だという皆の予想が飛び交った後、
予定がない人は一緒に来るように言われ、特に興味は無かったのだけれど
プロデューサーが張り切っているのを見て、春香に引っ張られる体で一緒に
いくことにした。

「ねえ千早ちゃん、新しい事務所綺麗だといいね!」
「はるるーん、まだ新事務所と決まった訳じゃないよ?」
「そうそう、765プロ専用劇場という可能性もノーコーだからね」

さすがにそれは無いと思いながらも、歌える機会が増える計画なら嬉しいと
架空のステージで歌う自分をつい想像してしまう。

「さあ、未来のトップアイドル諸君! わが765プロの新設備に到着だ!」
「えー、もう着いたの? まだ10分も歩いてないよ」
「事務所に近い方が何かと便利だろ?」
「そっか、さすが目の付け所が兄ちゃんだね!」

繁華街から少し離れ、住宅が増え始める少し静かな街並みの中、
社長の指差す“新設備”は洒落た感じがする2階建ての建物だった。
1Fの半分は駐車場でガラス張りの2Fがメインフロアになるのだろう。

「やっぱり新事務所だね! ちょっと古そうだけどお洒落な感じだね」
「ライブハウスが地下にあるという意外性は?」
「ほらほら亜美真美、みんな先に上がっていったわよ」
「うわうわ、待ってよはるるん!」

階段を上がりガラス扉の向こうを見た瞬間、心が逸り立った。
壁一面の鏡とバー、綺麗に磨き上げられた木製のフロア。

「さあ、遠慮なく上がりたまえ。我が765プロ専用のレッスンスタジオだ!」



新事務所を探している時に出会ったらしく、元がダンス教室という物件を
みた瞬間にレッスン場のアイデアが浮かんだらしい。
新しい事務所より専用レッスン場の存在価値は計り知れない。特に自主トレの
場所に不自由している私にとって何よりありがたいことだった。

「どうかね、気に入ってもらえただろうか?」
「あ、ありがとうございます社長!」
「うんうん、千早お姉ちゃん嬉しそうだねぇ」
「千早ちゃん、目がキラキラして可愛い」
「んっ? なんかあっちの方で物音がしたよーな」
「いくよ真美隊員、早速調査にとりかかるんだZE!」

フロアの隅、カウンターの背後に部屋があるようで、その扉を亜美真美が
開けようとした瞬間、中から人影が現れ驚いた二人は急停止する。
彼こそがスタジオの管理人となる新しいスタッフの方だったのだけれど
厳つい体格と容貌は亜美真美がとっさに叫んだ名前そのものだった。

「わわっ、フランケンシュタイン伯爵だーー!」
「で、デカいの出たーー、危ない真美隊員!!」
「ちょっと待って、フランケンシュタインは伯爵じゃなくて博士じゃない?」
「はるるん突っ込むとこ、そこ?」
「そうよ、伯爵はドラキュラじゃなかったかしら」
「千早お姉ちゃんまで!!」

私たちの話に苦笑するばかりの本人が否定をしなかった結果、
そのまま“伯爵”というのが通称になった。
プロデューサー曰く、ピンと背筋が伸びた姿勢と洗練された物腰は
ドラキュラ伯爵を演じた往年の映画俳優を彷彿させるらしいから
亜美たちがつけた仇名はあながち間違いではなかったかもしれない。



誰に対しても腰が低く丁寧だけど、どこか距離を感じる伯爵の態度。
会えばきちんと挨拶を交わし、私たちのことによく気を配ってもくれるけど
会話に加わることはないし、彼に対する質問は曖昧にはぐらかされる。
だけどそんな不干渉は私にとって都合が良かった。
事務所でプロデューサーの横顔を眺るよりはと、空き時間はスタジオで
過ごすようになり、遅くまで入り浸っても彼に咎められることは無かった。

「如月さん、少し休憩してはどうでしょう」
「すみません、もう終わりにします」
「時間は気になさらずに。ただしインターバルはとってください」

新曲の振り付けを覚えるのに夢中で、時計はとっくに9時を回っている。
まだ余裕はあったけれど、いつになく真剣な伯爵の声に押されるまま、
ベンチに腰をおろし汗を拭く。
空腹をごまかして水分補給だけすませると練習を再開し、一応きまりの
10時前には一応納得できる形までもっていくことができた。
車で送るという申し出を断ったのは遠慮なんかではなく、二人きりで
気詰まりな空気になるのが怖かっただけだった。
だけどその夜以来、自主錬の時には彼が休憩の声をかけるようになり
特に言葉を交わすわけでは無くても、心の安らぐ時間になったと思う。
それは変化というにはあまりに些細な出来事で、私はそのことの意味に
気付かないでいた。

そう、あの夜までは。



その夜スタジオに私一人が居残っていたのは、事情があって遅れている
合同ライブのダンスパートに追いつくためだった。
難易度の高いステップはなかなか上手く覚えられない。それでも疲れた体に
鞭打ちながら何度も繰り返し、あと少しで掴めそうだと思ったその時。
ターンの最後、流れた軸足を無理に立て直そうとしたのが失敗だった。
足首を捻って無様に転倒し、お尻と背中がフロアに打ち付けられ。

やってしまった……これでライブには間に合わない。
プロデューサーにも迷惑をかけてしまう。
転がったまま、そんな事をぼんやり考えている私に彼が駆け寄ってくる。

「如月さん、大丈夫ですか? そのまま動かないで」
「……!?」

いつもの落ち着いた声。
シューズと靴下が脱がされ痛めた足首が冷たいもので包まれる。

「少しだけ我慢してください」

抱きあげられた私は休憩スペースのソファーに寝かされる。
一度遠ざかった気配が戻ってくると、患部をサポーターで固定され
ジャージの上下が着せられる。

「今から病院に行きます。おんぶするので背中に掴まってください」
「待ってください、ひとりで歩けます」
「駄目です、無理をすればライブにでられなくなります」

いつにない厳しい口調に私は黙って彼の背中に体を預けた。
最初感じた気恥ずかしさが消え、どこか懐かしい感じを思い出した頃
明りの消えた整骨院に着いた。


「夜分遅くにすみません。この子の足を診てもらえませんか?」
「なんじゃお前さん、ダンスは止めたんじゃなかったのか?」
「急ぐんです、すぐにでも踊れるようにしなければ」
「ふんっ、いつも無茶ばかり言いおって……そこに寝かせなさい」

伯爵の知り合いらしい老齢の先生は、口では厳しいことをいいながら
私の足を診察し、一通り治療が終わると痛みはほとんど収まっていた。

「明日もう一度来なさい。痛くなくても足を使うんじゃないぞ」
「ありがとうございます、先生」
「それよりお嬢ちゃん、こいつの……いや、なんでもない」

帰り道はもう伯爵に遠慮しなかった。しっかり背中にしがみつき
体温のぬくもりを密かに満喫しながらスタジオに戻ってくる。

「あの、今夜のことはプロデューサーには内緒に」
「心配をかけたくないという気持ちは分りますが……」
「足の具合、それほど悪くないんです。痛みもひいてますし」
「仕方ないですね、でも絶対に無理はしないでください」
「分かっています。あの、更衣室の毛布を取ってきてもらえますか」
「如月さん、ここに泊まるのは駄目です。家まで送ります」
「明日病院にいくならここの方が便利です。この足で家に帰っても不便だし」

先に折れたのは伯爵だった。
彼は呆れ顔で溜息をつくと、買い出しに行く間に着替えを済ませるよういい
スタジオを出て行った。その間にジャージを脱ぎ、汗に濡れた体を拭って
きれいにすると置いてあった予備の下着に着替えてようやく一息ついた。



いざ寝る時になって案内されたの扉の向こう側。
誰も見たことないその中は元の事務所を改装した居住スペースだった。
部屋の奥まであろうことか抱っこで運ばれ彼のベッドに降ろされる。

「シーツは新品に替えたので大丈夫と思います」
「困ります、伯爵の寝る場所が……」
「私はソファーで大丈夫です。ここが嫌ならご自宅に送りますが」
「……分りました、お言葉に甘えます」

さすがに一緒に寝ようとも言えず、大人しく引き下がることにした。

「ゆっくりお休みください。あと今夜の事はくれぐれも皆には内緒に」

私達は顔を見合わせて吹き出すと、おやすみの挨拶をして明りを消した。
慣れない部屋の慣れないベッド。それなのにどこか懐かしい感じがするのは
何故だろうと思いながらいつしか深い眠りに落ちていく。



足の怪我は驚くほど早く回復し、合同ライブにはぎりぎり間に合った。
そうしていつもの日常に戻ってきたけれど、スタジオで過ごす時間には
ほんの少しだけ変化があった。


「如月さん、そろそろ休憩にしませんか」

行き詰った時か集中を欠いた時を見計らい、彼が声をかけてくれる。
温かい飲み物と甘い物をつまみ、少し言葉を交わしただけでまるで
つっかえが取れたように私の動きはスムースになる。

「そういえばあの先生、最後に何を言いかけたのでしょう」
「さて、何のことでしょう。覚えていませんね」
「ダンスを止めたというのは?」
「昔……若い頃に凝っていた、それだけの話です」

はぐらかす物言いは相変わらずだけど、彼の表情にはどこか
探り合いを楽しんでいるような気がする。
お互い秘密を作った仲だと、少し踏み込んでみることにした。

「おんぶはともかく、抱っこはさすがに恥ずかしかったですね」
「そうですか。如月さんが軽くて助かりましたが……
見かけによらず乙女なのですね」

しれっとそんな事を言われ、思わず絶句してしまう。

「これは失礼。スレンダーなのも魅力的ですが、如月さんは
いささか細すぎるように思います」
「努力はしますけど、抱っこして腰を痛めても知りませんから」

とっさに憎まれ口を返したのはただの照れ隠しだった。
おんぶされた時はまだしも、お姫様だっこされたことは
今思い出しただけでも胸がドキドキしてしまうくらいだから。

「さてと。まだ続けますか?」
「いえ、今日はもう上がります。お腹がぺこぺこなので」
「ではお詫びといってはなんですが、私とご一緒いただけますよう」
「ふふっ、私を太らせる気なら受けて立つますよ」

執事よろしく恭しく差し伸べられた彼の手をそっと握った。
連れて行かれたのは繁華街の路地裏にある隠れ家のような洋食店。
彼に勧められるまま注文した料理は確かに美味で、結構なボリュームが
あった肉のお皿はあっという間に空になっていた。

「なかなかの食べっぷり、私の目的は果たせたようです」
「ガツガツ食べて恥ずかしい……色気も何もあったものではないですね」
「そういう姿も充分魅力的だと思いますが」
「そうでしょか? 他の子にくらべれば私なんか……」
「魅力というものは人と比べるものではないと思いますが。
如月さんはもう少しご自分に自信を持つべきだと思いますね」
「それができれば苦労しません!」

八つ当たりの失言も意に介さず、彼は顎に手を当て考える素振りをする。

「ふむ、確かに言うだけでは無責任です。少々遅くなりますが
まだお付き合いいただけますか?」



引っ張られるようスタジオに戻った私は、準備を整えて現れた彼を見て
思わず目を見張った。
袖まくりしたワイシャツに黒いベストを着た伯爵は、普段の物静かな姿
とはまるで違い、ピンと背筋が伸びた姿は見蕩れるほど恰好がよかった。
天井のスピーカーから緩やかなワルツが流れ始め、彼が手を差し伸べる。

「如月さん、一緒に踊っていただけますか?」
「ワルツのステップなんてわかりません」
「大丈夫、私だけを見ていてください」

ゆったり流れる三拍子に乗り、組んだ手に導かれるまま動きを追うと
それがステップとなり徐々にリズムに乗り始める。

「そう、その調子です……流石トップアイドル、勘がいい」
「トップアイドルだなんて、まだそんな」
「表情を柔らかく、そう、とても魅力的な笑顔です」
「いまそんな事言わないで……」
「どうしてです? 年甲斐もなく惚れてしまいそうですよ」
「か、からかわないでください……私なんて」
「これは失礼。こんな年寄りに惚れられては迷惑なだけですね」
「ち、違います。今の伯爵はとても素敵です」
「それは光栄です。ではもっと熱くなりましょう」

曲がタンゴに変わると組んだ手に力が入り、体がさらに密着する。
伯爵に抱きしめられるようなダンスに胸が弾み、開き直った私は
リードは彼に任せて思いついたステップでついていく。
さらに曲が変わってジルバになると、彼の顔をみつめながら
無心でダンスを楽しむ余裕ができた。


「いかがでした? 気分転換になればいいのですが」
「はい、それはもう。ですが……」
「何かご不満でも?」
「その気もない癖に、あんな風にからかわないでください」
「美しい女性と踊ってつい調子にのってしまいました」
「ち、違います……そういうことではなく」

落ち着いて余裕たっぷりの彼を驚かせてみたい、それだけのつもりで
彼の胸にぶつかるように抱きつくと、背中に手を回してしがみついた。
だけど胸に顔をうずめているから彼の表情はうかがえない。
きっと苦笑を浮かべ、それとなく私を引き離そうと……はしなかった。

「如月さんは意外と甘えん坊のようですね」
「こ、子どもだといいたいくせに」
「いえ。あなたのような美しい女性に迫られるとドキドキします」
「……嘘ばっかり」
「いいのですか、本気にしてしまいますよ?」
「そんな気なんてないくせに」
「本当です、私だって男なんですから。そろそろ離れましょう」
「嫌だといったら?」
「家に帰れなくなりますよ」
「……帰れなくてもいい」
「真面目な如月さんらしくない」

肩に置かれた彼の手が背中に回され控えめな抱擁。
それだけで十分なのに、彼の指で顎を持ち上げられると
まさかと思いながらつい目を閉じてしまう。
彼の体温を頬に感じた次の瞬間、予想とは違う形のキスを受ける。
外国人がするような、頬を合わせるあれをキスというならだけど。

「やっぱり子供扱いなんですね……」
「そうやって膨れるようではまだまだ子どものようですね。
それよりまた一緒に踊ってください、二人きりの夜に」
「……足を踏んづけられていいなら」
「それよりすっかり遅くなりました。お送りしますか、それとも……」
「子どもは寝る時間らしいのでお休みさなさい、お・じ・さ・ま」
「私はスタジオの掃除をしてから休みます。歯磨きを忘れないよう」

抱擁から抜け出すと彼の声を背中で聞きながら部屋に向かう。
子ども扱いされた腹いせに着替えもせず横になると、寝心地がよすぎて
うとうとしてしまい彼がベッドに入ってくるのに気づかなかった。

「失礼、毛布をクリーニングに出しているのを忘れていまして」
「な、あの……え? どうして」
「子ども扱いがお気に召さないなら大人の対応をしようかと」
「待ってください、いきなりそんな、こ、心の準備……シャワーもまだ」
「私は気にしませんが、今から浴びてきますか?」

こんなことを予期すらしていなかった私は、夜遅くに男性とベッドに
入ることの意味に今更ながら気づいて頭が真っ白になってしまう。

「さて、これに懲りたら軽率な真似は控えるように。先に寝てしまうので
シャワーを浴びて着替えをしなさい。歯磨きも忘れないよう……」

からかわれていた事に安堵こそすれ腹は立たなかった。
彼が本気でそういう行為をするなどあり得ないことで、私はただ子供っぽく
甘えていればいいのだから。

だけどその翌朝、目の前にあるのは生々しいまでの現実だった。
先に目を覚ました私が見てしまった彼の体の変化。
男性の下半身がそうなるのは、私を性の対象として見ているからで
それを女として認められたと考えれば喜ぶべきことだろうか。



あの夜が私にとって大きな転機になったのは間違いないけれど
伯爵との関係は目に見えて変化はなく、仕事が忙しくなったせいで
スタジオに通う余裕が少なくなったくらい。
僅かな時間を惜しんでダンスを教わり、遅くなって疲れたといえば
渋々だけど泊めてもくれる。
だけど同じベッドで寝るようなことは全くなかった。

変化といえば、色々な人から”変わった”と言われるようになった。
プロデューサーは表現力に磨きがかかってきたと褒めてくれたし
ドラマの仕事では演技力が褒められるようにもなった。
真や我那覇さんが驚きながら褒めてくれたダンス、そればかりは
伯爵にお礼をいわなければならない。

だけど春香だけが違うことを言った。
わざわざ事務所の屋上に呼び出して。

「千早ちゃん、何か変わったことなかった?」
「変わったこと? 特に無いけれど、どうして?」
「ううん、なんとなく聞いてみただけ。最近すごく綺麗になったね」

伯爵とのことは春香には話してないし、気づかれてもいないはず。
だけど冗談めかしても目が笑ってないのは、少なくとも私のことを
心配するか気遣っているからに違いない。

「素直に褒め言葉として受け取らせてもらうわ、ありがとう春香」
「もしかして好きな人ができたとか?」
「……春香だけは誤魔化せないわね。聞いてくれるかしら」
「あはは、はぁ!? 千早ちゃん、マジで? 相手誰?」
「あなたもよく知っている人よ、年上で素敵な男性」
「も、もしかしてプロデューサーさん?」
「正解っていいたいところだけど、美希と春香に割り込む勇気はないわね」
「あはは、私のはそんなんじゃないよぉ」
「あら、だったら美希の一人勝ちでいいの?」
「千早ちゃん、最近プロデューサーさんのこと気にしなくなったね」
「……え?」
「やっぱり外は寒いね、降りて温かいものでも飲もっか」

やはり春香、人のことをよく見ている。
もしかしたらその理由にも気付いているかも知れないけれど
伯爵のことには一言も触れなかった。
春香は私に何を聞きたかったのだろう? あるいは何を言いたかったの?



せっかく仕事が早く終わっても、伯爵が私用で休みとはついてない。
当てもなく街をぶらぶらした後、馴染みとなった例の洋食屋さんで
夕食をすませると、私の足は自然とスタジオに向かっていた。
今夜の目的はスタジオではなく、妙に寝心地の良かったあのベッド。

合鍵を預かっているから無断侵入じゃないけれど、人目につく玄関は
避けて裏の通用口から中に入ると、妙な違和感に足を止める。
部屋の奥に灯るスタンドの光、聞き取りにくい囁き声と人の気配。
その主が泥棒や不審者じゃなく伯爵だった事にはほっとしたけれど
その姿を見てぎょっとなった。

スーツも髪もくしゃくしゃに乱れ、テーブルにはお酒の瓶。
転がったグラスを拾い上げようとして写真立てに気付いた。
寄り添い立つ1組の男女。暗くて見えにくいけど背格好と雰囲気は
若い頃の伯爵のようで、もうひとりの女性は……

「帰ってきてくれたんだね」
「ふふ、今日はどうしたのですか。お酒、飲みすぎみたいですよ」
「遅かったじゃないか。君のことをずっと待っていたんだぞ」
「え? そうなのですか……それでこんなに酔ってしまったとか」
「いいからこっちにおいで」

酔った姿どころかお酒を飲むのも見るのは初めてのことで
普段とかけ離れた姿を見れば、飲みすぎということだろうか。

「少し痩せたんじゃないか、ちゃんと食べているのかい?」
「あの店でお肉を食べてきたところですよ」
「いつもと違う匂いがするね、香水を変えたのかい?」
「もう、香水なんてつけないって知っているくせに」
「いいから一緒に飲もう、乾杯をしないと」
「駄目ですよ伯爵。もうお酒はやめてお休みになられては」
「そうだな、酒よりもその方がいいか。一緒にベッドにいこう」
「いいのですか? 前は駄目だと叱ったくせに」

ふらつく彼を支えながらベッドに座らせると、大人しくしているうちに
ネクタイを外しワイシャツも脱がせてしまう。
そのままベッドに横たえようとして不意に抱き寄せられ、お酒のにおいと
コロン混じりの体臭に包まれ頭がふわっとした瞬間。

それはキスなどという生易しいものではなかった。
獲物に喰らいつく獣のように彼の舌と唇と歯が首筋を蹂躙し
私は叫びそうになるのを懸命にこらえる。

「い、いや……だめです」
「ずっと待ってたんだ、xxxのことを」
「やぁ、そんなに強く吸わないで」

だけど私の弱々しい抗議は彼の耳には届いていないのか
ベッドに押さえつけられ、首筋から喉元が舐めまわされる。
このままじゃだめ、止めないと……そう思いながら男性から受ける
初めての行為に体は麻痺したように力が入らない。
シャツのボタンが外され、彼の唇が喉元から下りてくる。

無精髯の感触、ざらついた舌の感触が乳房に迫る。
ブラの上から胸がなでられ、理性と思考が蒸発してしまいそうになる。

「好きだ、xxx……ずっと会いたかった」

さっきから何度も耳にする、私の知らない女性の名前。
彼が見ているのは、求めているのは私なんかじゃない、
写真立てに見たあの長い髪の綺麗な女性なのだろう。
だけどそれが分かっていても私は止められなかった。
抱きしめられ、求められる気持ちよさに気付いてしまったから。

「胸……欲しいのですか。 少し待ってください」

恥ずかしさより彼の求めに応えたい気持ちが上回った。
そこへもキスしようとする彼をそっと押し止め、ブラウスを脱ぎ
ブラも外してしまうともう一度彼を引き寄せる。
待ちきれなかったのか、いきなり乳首を咥え強く吸われてしまい
その異様な感触に大きな声が止められなかった。
乱暴に吸われ、舐められ、歯を立てられてもただ気持ちがよく
彼の頭を抱きしめながら、このまま彼に捧げることになるのかしら……
それはそれでいいかも知れない、そんなことだけ考えていた。
いつか私もそういう事をする、それが今夜で相手が彼だったということ。
どうせなら酔っていないとき、もっと優しくされたかったのだけれど。

だけどふと気がつけば、彼は胸に顔を埋めたまま眠っていた。
せっかく決めた覚悟をどうしてくれるのですか……
ほっぺでもつねってやろうと思ったけれど、彼の顔を見て気が変った。
辛そうだった顔が穏やかになっている。
私が役に立てたのならいいのだけどと思いながら頬にキスをひとつ。
それから彼のワイシャツを寝巻き代わりに羽織ると、毛布をかぶって
彼の胸に寄り添った。



翌朝、先に目が覚めたのは私だった。
部屋に残ったお酒の匂いに辟易し、空気を入れ替えてコーヒーでも
入れようかと考えているとき彼の瞼がゆっくりと開いた。

「如月さん……?」
「おはようございます、おじさま。ご気分はいかがですか?」
「ど、どうして君がここに。それにその格好は」
「そんな他人行儀な呼び方しないでください」

慌てて起き上がろうとして頭を押さえたのは二日酔のせいだろうか。
そのしかめっ面が私の姿を見て、みたこともない表情に変わる。

「ちょっと待ってくれ、これはいったい」
「あら、おじさまは覚えていないのですか?」

昨夜は裸の上にワイシャツを羽織っただけだから、胸でも見えたかと
視線を下げて、今度は私が変な声を出しそうになった。
乳房に散らばる沢山の紅い斑点、その見た目の凄惨さに。

「そ、それは私が……つけたということか」
「思い出しました? 昨夜は随分と甘えん坊でした」
「何かの間違いであってほしいが……すまない如月さん。謝って済む
問題ではないが、この通り」
「頭を上げてください。求められて応じたのは私ですから」
「だが責任は私にある、一体どうすれば……」
「ではこういうのはどうでしょう?」

この状況で”お願い”をするのは気がひけるけど、私のささやかな要求は
深刻な顔で頭を抱える彼のためになるはず。

1、昨夜の事は酔った上の過ち、お互い綺麗さっぱり忘れる。
2、これを気に名前で呼んでほしい。勿論二人きりのときだけでいい。
3、次にこういう機会があれば優しく丁重に扱うこと。

さすがに3番目は難色を示されたから、機会がないなら問題もないはず、
皮肉混じりの冗談だと言い、それ以上反論されないようシャワーに逃げた。
身支度を終えて部屋に戻ると昨夜の痕跡は綺麗に片付いていて、
テーブルの上には淹れたばかりのコーヒーカップがあるだけだった。



仕事がさらに忙しくなると、スタジオに行ける時間は深夜に限られる。
だけど明りを落としたフロアは別世界のように静かで居心地がよく
彼とおしゃべりをし、時にはダンスの手ほどきを受け、眠くなれば
疲れたと駄々をこねて彼のベッドを占領する。
そんな私を彼はそっと抱き寄せ、眠りにつくまで優しくなでてくれる。

この前のような事になっても構わない、などと強がるわけじゃない。
本来の彼はあんな風にするような人ではないという安心を嵩にきて
からかってみたりする。

「最近皆が褒めてくれます。ダンスだけでなく、表現力や演技なども」
「それは私も同感です」
「ですが肝心の部分はまだ全然です。どうすればいいと思いますか?」
「難しいでしょうね、まだねんねのお子様には」

いつもはこんな風に返り討ちにあい、そのまま不貞寝するところだけれど
今夜は少し手を変えてみることにする。

「では今夜の課題はねんねからの脱却ですね」
「恋人でもこしらえて、キスの一つでも試してみるというのは?」
「……貴重なご意見をありがとうございます。ですが仮にも現役アイドルの
 私には難しいようです」

予期した対応を引き出せて笑いそうになるのを我慢する。
そのまま寝ると見せかけ、不意をついて顔を近づけようとした私は
彼に押さえつけられる。
急襲してほっぺにキスする作戦はどうやら読まれていたみたい。

「おふざけは程ほどに。気持ちはわかりますが」
「お子様にキスされるのは迷惑なのですね」
「迷惑とは思いませんが、生殺しを強いられるのはつらいものです。
千早さんはご自身の魅力がどれほどのものか分かっておられない」
「社交辞令は結構です。いいたことははっきりおっしゃっるべきかと」

表情は分からないけど、雰囲気がいつもと少し違う気がする。
そのせいなのか背中のあたりが妙にザワザワと落ち着かない。

「そうですか、では率直に言いますが気を悪くされないように。
年甲斐もなく恥ずかしいですが、若く美しい女性とベッドを共にするのは
男にとって欲望を刺激されるものです。その意味くらい分りますね?」
「……は、はい」
「男の本能がどういうものかはこの前、身をもって知ったはずです。
 ですからどうか自重しておとなしく眠るだけにしてください」
「分りました……おじさまの理性はキスにも耐えられない程もろいのだと」

自分の身勝手な思い込みを否定されただけでなく、思ってもいなかった
彼の本音を突きつけられつい口走ってしまった。
直後、手首を強くつかまれ彼の体がのしかかってくる。

「おじさま、そんなに強くすると痛いです……」
「千早は悪い子だ」
「あなたのせい……んっ」

不意に唇がふさがれた。
予想とは違うファーストキスに、私は目を閉じることしかできない。
二度、三度と回数を重ねるたび深くなるキスに大人の味を感じながら。



唇を重ねた、ただそれだけで自分の気持ちが止められなくなった。
寝る前のベッドの中で自分からキスを求め、気が済むまでキスをせがみ
ついには彼に止められても、まだ私の体はキスを欲している。

昂ぶる気持ちはいつしか彼にも伝染した。
ダンスの合間に交わすキスは、いつしか抱き合い唇の貪りあいになり
熱く疼き始めた体が求めるまま、訴えるかける彼の眼差しに頷くと
明りを灯したフロアの真ん中で、彼の唇が首筋にかじりつく。

「だ、だめです……汗かいているから」
「かまわない、千早を味わいたいんだ」
「んっ、あぁ……そんなこと、あぁ、噛んじゃだめ」

いつかの夜のように、だけどあの時よりやさしいキスが首筋を這うと
ぞくぞくするような感触が体をひたす。
もっと欲しい、この前のようにしてほしい、だけど言葉にするのが
恥ずかしくてしがみついた手で彼の背中をゆっくり撫でる。
そうすれば彼も同じように私の背中をなでてくれる。

「約束、覚えています?」
「もちろん、だけど……嫌だと思ったらそういってくれ」

彼に求められることがこんなにも嬉しくて気持ちがいいのなら
これ以上のことだって嫌なわけがない……はず。
キスの先にある行為への不安と恐れから目を背けるよう
しっかり目を閉じて彼に体を預ける。

もう一度キス、さっきより深く、強く。
彼の舌で唇をなぞられ、そのまま舌が私の中に入ってくる。
お尻がなでられ、ついで太ももをなぞった手が内側に入ってくる。
まだ触れられてもいないのに、大切な部分がかっと熱くなる。

ようやくキスから解放され、息を整えている間にシャツのボタンが
外され待ちきれないよう喉から胸に唇が這わされる。
力が抜けて崩れそうになる体が壁際におしつけられ、手探りでバーを
掴んだのと乳首を咥えられたのが同時だった。

胸を舐められ、乳首を吸われ、首筋に歯がたてられ、脇を舌でくすぐられ。
その度私は声をだしてしまい高まり続ける快感に自分がおかしくなりそうで
彼の頭を抱きしめて愛撫に耐えるしかない。
ひとしきりの行為が終わると、ぐったりして動けないままベッドに運ばれ
気が付けば彼の胸の中で朝を迎える。



深夜のレッスンはいつしかキスで始まる男女の行為に変わっていた。
フロアに立たされ、唇を重ねながら服が脱がされていく様子を鏡に
映して見せられて私の興奮は高まっていく。

「おじさま、今の私はどうですか?」

可愛い、綺麗だ、美しい……聞きたいのはそんな言葉ではなくて。

「聞きたいのか、千早?」
「はい」
「いやらしい、とても淫らな顔をしている」

鏡の中の私はブラウスがはだけ、ずらされたブラからのぞいた
片方の乳房は既に愛撫の印にまみれている。
その姿は全部脱がされた時よりいやらしいと思う、だけど。

「どうしていつもここまでなのですか」
「……これでは不満、ということか」
「そうではありません。ただ、これ以上求められないのは私のせいかと」
「千早のせいではない。それが証拠に……」

鏡の中で彼が後ろに回り込む。
掴まれた手首を背後に導かれた先にあるのは、手のひらに余る大きさと
硬さを持つ膨らみだった。熱くてびくびくと脈動する感触に思わず手を
ひっこめそうになりながら、懸命に平静を装って。

「こ、これが私を求めている証拠……それなら何故?」
「この先に進めばもう後戻りはできない。一時の気の迷いで大切なものを
失えばいずれ後悔する。君は賢明な判断ができる子のはずだ」
「では私の判断が求めることだとすれば?」
「今ここで結論を出す必要はない。男と女が交わるというのは
君が思う以上に生々しいことなのだから」
「……セ、セックスがどういうものかくらい私でも知っています。
おじさまこそ、この後に及んで怖気づいたのでは?」

彼が私を大切にしてくれていることには気づいていた。
彼が私にいわんとしていることもよく分かっていた。
だからこそ私は求められたい、その願いを視線に込めて彼を見る。

「力を抜いて……」

脱げかけのブラウスが床に落ち、外されたブラが後に続く。

「バーを両手で持って、足を少し開いて」

囁かれた声が私の耳に浸み込むと熱いしずくとなって降りていく。
ズボンが膝までずらされると、大切な部分を隠す下着はとっくに
その役目を放棄していて、女の子の大切な場所はいとも簡単に
男の人の手に侵入を許してしまう。

「こんなになって……ほんとうに千早はいやらしい子だ」
「おじさまのせいです、だから、その……」
「分かっている、もう止めたりはしない」

鏡の中、ぐしょぐしょに濡れた白い下着は陰毛が透けて見え
体中が燃えそうなくらい恥ずかしいのに、さするようにゆっくり
見え隠れする彼の指から目が離せない。
こんなことなら可愛い下着を履いていれば、などと思う余裕も
股間をさする指の動きが大きくなれば、くすぐったいだけだった
感触がもどかしい快感に変わっていく。

こぼれてしまいそうな声を塞ぎたくても、バーから手が離せない。
歯を食いしばろうにも、巧みな指の動きがそれを許してくれない。
そして指が下着の中に潜り込み、つーっと性器を一撫でする。

目の前に立つ女の子が形相を変え悲鳴を上げるのにも構わず
男のごつい指が下着の中、ひとしきりぐにゅぐにゅと蠢く。
しばらくして抜き出された指は、ねばっこい粘液を下着の乾いた
部分になすりつけて無造作に引き摺り下ろし、無防備になった
女性器の中に侵入を開始する。

鏡に映るのは、胸を揉まれ、性器を触られ、お尻には男性器が
押し付けられながらうっとり呆けた淫らな女の子の姿。
初めて知った快感に溺れ、理性を失い乱れるだけの自分。
神経全てが快感に痺れ、手足の感覚を失って、頭の中が真っ白に
なってはじけ飛んで……それが初めて知る性的絶頂だった。

遠のきかけた意識が戻ってくるのを見計らっていたように
今度は鏡を背にしてバーにもたれさせられると、膝までずらした
ズボンと下着が下ろされ、ついに全裸をさらしてしまう。
懸命に息を整えようとしている私の前で、屈みこんだままの彼は
大きく足を開こうとする。

「……いゃ」

それはだめです、許してください。
汗かいているし、汚れているし、だからせめてシャワーを

「あぁあああっ!」

彼は無造作に口をつけ、性器全体をべろりとなめあげる。
指で撫でられたときの何倍もの快感が神経をゆさぶり
性器の中に差し込まれた舌があちこちを舐めまわして
じゅるじゅると吸い上げられずるりと中に入ろうとして
最後に一際敏感な部分を執拗に嬲られて意識が途絶えた。



気がつけばベッドの中だった。

目の前に彼の穏やかな笑顔があり、裸のままの私は彼の腕の中で
頭をなでられていた。

目だけで問いかける私に、彼は微笑んだまま首を振る。

やはり、と落胆を隠さない私を彼はぎゅっと抱きしめると
聞いて欲しいといって穏やかな声で語り始める。

生涯を誓ったパートナー、その愛する女性を若くして失い
失意と絶望の中で生きながらえ、人生を諦めようとしたとき
彼女にそっくりな私に出会ったこと。
愛する彼女ではないと知りつつ、姿を見るだけで満足していた
はずが、いつしかそれ以上の気持ちを持ってしまったこと。

「つまり……私は彼女の代用品だったと?」
「千早のことを愛おしく思う気持ちが本当なのかわからない。
 君と彼女を重ね合わせていただけなのかもしれない」

だから最後まで踏み切れなかったのね、と胸の中で呟いた。

本当に男の人ってロマンチックな馬鹿者なんだから。
それにこれで私が引くなんて思うのは大間違いだわ。
だって私は知っているのだから、あなたが気付いていない
本当の気持ちを。

「おじさま、今さら逃げようなんて虫が良すぎます。
私をこんな風にした責任、絶対にとってもらいますから」
「え、と……ち、千早さん?」
「ふふ、大丈夫です。私が望む通りにしてもらえば」
「……どうしてそう言い切れるの」

「あら、女の勘です」



時計の針が12時を回った頃、既に寝息をたてている彼の
隣に寄り添うと私も瞼を閉じた。
それまでの顛末を明らかにするのが筋というものだけれど
あまりにも恥ずかしすぎるというか、初めての痛さに私が
ギャーギャー叫び、その挙句にめそめそとなき続けるのは
聞くに耐えない話になりそうだから。

もう少し落ち着いて、気持ちの整理がついてから。
それがいつになるか分らないけれど、その日がくれば
きっと自慢げに話すと思うから

その日が来るまで楽しみに待っていてください。


もう少し大人になった未来の如月千早へ。

16才になったばかりの如月千早より。



おしまい。

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