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 今日も今日とて休日出勤。もはやそれにも慣れたもので、朝から諸所営業先を回りまわっての、夏の太陽も完全に沈む午後八時。俺はようやく事務所に戻ってきた。
 足は棒のようだ。一日打ち合わせやらで喋り続けて顎が痛い。駆けまわって流した汗で湿ったシャツが肌に張り付いて、なんとも言い難い不快感を感じる。
 心身ともに中々の疲労困憊だったが、一つの愚痴も文句も零さなかったのは、俺もようやく企業戦士もとい奴隷としての生活に順応し始めたからだろう。
 心地良さすら感じる倦怠感を抱いたまま事務所前にぼうと佇んで、俺は今日初めての嘆息を漏らした。――まあ、喜ぶべきか否かは別として、これも成長といえようか。
「ただ今戻りました」
「あ、おかえりなさい。お疲れ様でした」
「ホントに疲れました……」
 事務室に入ると、まず空調の利いた爽やかな冷気が体を包んだ。思わずふうと息を抜き、そのまま横になってしまいたくなるような開放感が体を駆け巡る。
「へとへとって感じですね。大丈夫ですか? コーヒー飲みます?」
 自身のデスクでパソコンとにらみ合っていた小鳥さんが、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。彼女は俺の持っていたカバンを受け取ると、にこにこと微笑みながら言葉を続けた。
 今日は彼女も休日返上だ。とはいっても、休日など関係のないテレビ業界に振り回される俺と違い、小鳥さんの場合は日ごろの怠慢が原因なのだが。
 人手不足もあるが、彼女は少し、サボりすぎだ。一周り年下のアイドル達と友人のように仲良くするのはいいことだと思うが、一緒になって遊んでいては困る。
「作業は進みました?」
「ええ、ばっちりです。これでしばらくは安泰ですね」
「普段から真面目にやってれば、苦労もないのでは……」
「いえ、それほどでもないですよ」
 ふふん、と小鳥さんは俺に何か言って欲しそうにこちらを見上げていたが、俺は溜息をあてつけて何も言わずソファーに腰を下ろした。まったく、調子のいい人だ。
 彼女は肩をわざとらしくすくめると、給湯室に消えていった。ポットからお湯の注がれる音を意識の端に、俺は目を瞑って深くソファーに体を預ける。
 もしかしたら、小鳥さんは俺に付き合って、休日にも関わらず出社してきてくれたのかもしれない。ふとそんなことを考え――微妙なところだなあ、と眉を寄せる。
 彼女はそこまで健気ではないだろう。しかし、仕事が溜まっていたのも事実。しかし、休日にまで出てくるほどでもない。……必要と思いやりの折衷案、というところか。
「どうぞ、アイスコーヒーですよ。これを飲んで元気だしてください」
「……ポット使ってませんでした?」
「あれは私のです。後で飲むので」
 悪戯っぽい笑顔の小鳥さんに、ガラスのコップを手渡される。中にはパックのアイスコーヒーが氷と共に並々と注がれ、ストローが突き刺さっていた。
 まあいいけれどさ、と何も言わずにストローを抜いてコップに口をつける。一気にぐいと煽ると、一日の疲労と共に抜けた水分が体内に充足されていく感覚があった。
 彼女の持っていたトレイにコップを返し、再びふうと息を抜く。まあ、冷たい飲み物の方が良かったかもしれないか。思いつつ、したり顔の小鳥さんから目を逸らす。
「あの、プロデューサーさん」  
 と、不意に優しい香りが鼻腔を擽った。小鳥さんが唐突に、俺の隣に腰をおろしたのだ。密着するような程に近い場所に陣取られ、苦い顔を向けると、彼女は上目使いに俺の顔を覗き込んできた。

「……なんです。今日は疲れてるので、あなたの相手をする元気はないですよ」
「いえいえ、そうじゃなくて。ちょっとサービスしてあげようかな、と思いまして」
「結構です」
「そ、そんなに邪険にしないでくださいよ。……いえね、先日、これを買いまして」
 眉を八の字にして苦笑しながら、小鳥さんは脇から小箱を取り出した。それをどこか嬉しそうに俺に見せびらかしてくる。また無駄遣いしてこの人は。
 見るに、ちょうどソーイングセットの入れ物ぐらいの大きさの箱だ。俺は自分の服がどこか解れているのかと思い至るが、しかし、どうも違うようだ。
 小鳥さんはその箱をぱかりと開けると、中から二十センチ程の銀色の棒を取り出した。くるくると器用にそれを指で回し、彼女はにやりと笑むと、言った。
「ふふ……プロデューサーさん、耳かきをしてあげましょう」
「結構です」
「え、ええー……」
 がーん、と口で効果音を発する28歳の事務員を眺めながら、俺は口とは裏腹に、素直に彼女の申し出を受けることを決めた。
―――――――――――
「うーん、やっぱり思った通り、凝ってますね」
「そうですか?」
「はい。普段あの子達にしてあげてるときは、もっと柔らかいんですよ? プロデューサーさん、疲れを溜めこみ過ぎですね」 
 小鳥さんはソファーの背中側に回り、それ越しに俺の肩をせっせと揉んでくれた。耳かきをする前に、少しでも体の緊張をほぐしておくのが重要だというのは、彼女の談。
 流石に十代のアイドル達よりはずっと硬い体をしているとは思うが。しかし、小鳥さんは彼女等と俺を比較して疲労は深刻だという結論を出したらしい。何も言うまい。
 小鳥さんは難しい顔をしたままぱたぱたスリッパを鳴らしてと戻ってくると、先ほどと同じように隣りに腰かけた。そして一度大きな深呼吸をすると、太ももをぽんと叩いてみせた。
「ど、どうぞ?」
「……いいんですか、本当に?」
「もちろんです。膝枕は、耳かきとは切っても切れない関係ですからね」
 診療台に乗せて耳かきを施術するのはどうなのか、と聞いて困らせてやりたかったが止めておいた。平静を装いつつも赤い彼女の顔が、中々に可愛らしかったからだ。
 上着を脱ぎ、では失礼してと俺は太ももに手を添えてソファーに横になった。ぴたりと添えられた太ももの谷間に、具合よく頭が収まった。顔の左半分を押し付ける形となる。
「ど、どうですか、高くないですか? いい感じですか?」
「結構です」
「どっちですか」 
 異性と体が触れただけで赤面するような時代はとうに過ぎてしまってはいたが、普段明け透けなやりとりをしている女性の太ももに頭を預けるのは、流石に照れくさいものがあった。
 俺を待っていたのは、これを試したかったからなんだな、と理解が及ぶ。早くおもちゃで遊びたくてたまらない、子供のような人だと、改めて微笑ましく思う。
 彼女の太ももは、制服のタイトスカート越しではあったが柔らかく、それでいて適度に張りつめていて、想像以上に心地よかった。少し高めの体温が眠気を誘う。
 ふわりと漂ういい香りは、彼女本来のものだろうか。香水とは少し違うそれは、仕事で荒れた心を落ち着かせる力があるようだ。――極上の枕でも、こうはいかないだろう。
 絶賛しすぎかとも思うが、普段、時々覗く彼女の太ももの感触を想像したりもしていたのだ。多少の補正はあって然りというところで、疲れているせいもあるかもしれない。
「じゃ、じゃあ、いきます」
 ちらと視線を向けると、大分複雑な表情をした小鳥さんがてをわなわなとさせていた。俺は鼓膜が破かれないことを神に祈ってから、静かに目を閉じた。

 小鳥さんの細い指が俺の髪を撫で、耳に掛かっていたものを後ろに流す。恐々とした手つきで耳たぶを掴むと、くいくいと引っ張る。中の様子を見ているのだろう。
 平生、あまり耳掃除などはしない。時々綿棒で汚れを拭ってはいるが、小鳥さんの持っているような本格的な道具など、もっているはずもない。少し気になって、言葉を発する。
「汚いですか」
「え? いえ、そんなことはないですよ」
「普段、あまり掃除しませんから」
「……もしかして、汚いって思われたら嫌だな、なんて思ってくれていたりするんですか? うふふ、可愛いですねプロデューサーさん」
 ……。言わせておくわけにはいかないので、俺は手持無沙汰な右手をそっと太ももに這わせた。ひゃあ、と小鳥さんは変な悲鳴をあげると、ぺしんと耳かきで俺の手を叩いた。
「お、お触りはダメですよ。耳かきなんですからね」
「わかってます」
「もう……ダメですよ? ダメですからね?」
 ふす、と小鳥さんが鼻を鳴らす。彼女は少しもぞもぞと太股を蠢かせると、気を取り直したのか再び耳に手を添えてきた。彼女の細い指は、ひんやりと気持ちいい。
 しばらくして、す、と静かに異物が耳の中に入っていった。耳かきだ。しかしすぐには動かず、しばしそのまま孔の中の壁に添えられている。
 何の金属を使っているのだろう。幾許もなく、当初冷たかったはずの耳かきは、すぐにこちらの体温と柔らかく馴染んだ。遺物感も、驚くほどに薄い。
 小鳥さんは耳を指でつまむと、強弱をつけて引っ張りながら、耳かきで壁を掻いていった。カシカシカシ……コシコシ……。耳殻の溝に沿って、丁寧に耳かきが走っていく。
 普段そんなところは掃除しない。だが、されてみると案外に気持ちがいい。汚れを取る乾いた音は耳に心地よく、まだ始まったばかりだというのに、ぼうとからだが温まってくる
 一通り終えると、指をティッシュでくるんで、耳殻を丁寧に拭われた。耳たぶも指で挟む様に擦られ、じんわりと熱を持つ。――結構手慣れているな、とそんな思考が頭をよぎった。
「……普段、誰かにやってあげているんですか?」
「昔は、お父さんとかにしてあげてましたね。よくしてもらっていたので、自然と出来る様になったんです。今は……時々あの子たちにしてあげるくらいで」
「そうですか……」
 少しほっとしたのは、気のせいだということにしておこう。言葉を交わしているうちに、匙が耳孔に添えられた。入口の辺りを掃除するように、耳かきが繊細に動く。
 つ、つつ、つつ……かさかさ、かさ……カリ、カリ、カリ……。
 産毛を撫でているのだろう、じりじりとしたむず痒さがある。たまらないくすぐったさに、思わず足をこね合わせてしまう。
 そこを終えると、とうとう匙は孔の中へと入っていった。細い耳かきは、中を器用に擦っていく。かり、かりかり……かりかり、かり……。
 時々ぴりっとした感触があるのは、溜まった堆積物をはがしているのだろう。耳かきは的確に汚れを削り、剥ぎ取っていく。彼女は汚くないと言ったが、やはり結構汚れているようだ。
 小鳥さんは一言も発しない。頭を動かすわけにもいかないのでじっとしているしかないが、今顔を見れば、きっと真剣な面持ちで集中しているのだろう。是非拝みたかった。
 しばらく続けると、耳全体がほんのりと熱を持ち始めた。ぽかぽかと心地よく、自分がだらしなく口を半開きにしていたの気付き、慌てて締める。涎を垂らしかけていた。
 夢見心地とはこういうことなのだろう。小鳥さんにこうまで気持ち良くしてもらえるとは、意外なような悔しいような。思わず寝入ってしまうそうなのは、仕事の疲れのせいということにする。
「思ったより綺麗ですけど、ちょっと奥の方に溜まってますね。今のうちに綺麗にしておかないと、まずいかもしれません」
「お願いできますか……」
「まかせてください」
 耳かきが少しずつ奥の方へと入っていく。それに伴って、聞こえる音も大きくなる。少しずつ、堆積物がはがれていく感触がある。匙を引っ掛け、こするように耳の壁から汚れを落としていく。
 かりかりかり……つつ、ぺり……ぺり、ぺり……。
 時折、匙がきゅうと耳の壁に押し付けられる。すると凝っていた鬱血が散らされ、耳の中がじんわりと暖かくなる。頭の芯から、緩やかに痺れていくような感覚がある。瞼が重い。

「うっ……」
 まどろんでいると、不意に鋭い刺激があった。みし、という鈍い音と痛みを一瞬だけ感じ、それは耳の外へ連れ出されることなく、より深いところで拡散せずに留まった。
「あ、すみません、大丈夫でした?」
「ええ……」
「落としちゃいました……」
 若干沈んだ声を出しながら、小鳥さんが再び耳たぶをつまんで中を覗き込む。結構な大きさのものだったのだろう。堪らないかゆみに、もぞもぞと足をすり合わせる。
 匙が先程のものを拾い上げるべく、どんどんと奥へ入っていく。鼓膜に触れるんじゃないだろうかという所まで降りていき――つん、と微かな痛みが走った。
 鼓膜まで届いたのだろう。反射的に体が揺れる。少し緊張したが、彼女は普段からは考えられない程に繊細な手つきで、慎重に鼓膜の周辺の堆積物を掻き、引き剥がしていった。
 ガサ、バリ……ばりばり……ガザリ、バリ……びり……。
 張り付いていたものがはがれていく、ぴりぴりとした心地よい感触。細やかな作業の割には、やけに大きな音が直接鼓膜に響く。
 落とした大物ごと、周りの溜まったものも削り取り、拾い上げるつもりらしい。くい、匙がものを乗せる感触があり、むず痒さの原因を抱えて、慎重に匙が耳孔を抜けていく。
 そして匙が耳から出ていくと、先程までのたまらない痒みが一気に引いた。とても爽快な気分だ。はふ、と思わずため息を吐くと、小鳥さんも同じような吐息を漏らしていた。
「ふふ、上手くいきましたよ」
「ふう……」
 仕上げにと、小鳥さんは綿棒をローションで湿らせ、耳孔の壁を念入りに拭ってくれた。ティッシュを指に巻きつけ、ぐりぐりとねじ込んで拭き取る。ここまで、二十分くらいだろうか。
「……凄かったです。小鳥さんに、こんな特技があるとは……」
「えへへ、そうですか? 喜んでいただけたようで、幸いです」
「見直しました。認識が百八十度変わるくらいに」
「す、素直に喜ばさせてくださいよ……」
 軽口を叩きながら体を起こそうとすると、ふわりと軽かった。まるで自分の体でないような感覚だ。肩の凝りも大分ほぐれている。今朝よりもよく腕が回る。
 心底すっきりとした気分で、当初、鼓膜を破られ云々などと考えていた自分を恥じた。こうまで劇的な効果があるとは。耳かきなんて、ただの掃除だと考えていたのに。
「え、えっと」
 凄いな、と改めて感動していると、不意に小鳥さんの手が頬に添えられた。ん、と思って視線を合わせると、小鳥さんは嬉しそうな顔で笑い、再び俺の頭をひきよせ、太ももに乗せた。
 顔の右半分が太ももに沈む。すぐ目の前には小鳥さんの体があり、少しどきりとする。彼女からも少し浮ついた雰囲気が伝わってきて、何とも言えない空気になる。
「は、反対側もしてあげますから。もうちょっとじっとしててくださいね」
「……お願いします」
「はい。まかせてください」
 何も言わず、俺は好意に甘えることにした。まだ解されていない左耳に指が伸ばされ、先ほどと同じようにくいと引っ張られる。この体勢だとやりにくいのでは、と言うのは野暮か。
 再び訪れるであろう心地よさを楽しみに思いながら、俺は今度こそ気を張らず目を閉じた。太ももの柔らかい感触、彼女の優しい香り。俺は沈み込む様にリラックスしていた。
「眠たかったら、我慢しなくていいですからね」
 その少し挑発的な言葉に抗っていられるのも、時間の問題だった――

「――……ん?」
 ぱちりと目を開けると、まず小鳥のさえずりが聞こえてきた。窓から差し込む光の柱は、陽光だろうか。
 ……。自分が今寝ているのが彼女の太ももの上でなく、ベッドの上だというのを理解するのに、数瞬を要した。どうやら、仮眠室に運ばれたらしい。
 ふああ、と大きく欠伸をしながら、昨日あのまま寝てしまったらしい、と気づいた。きていたシャツもそのままで、少ししわになってしまっている。シャワーを浴びたい。
 それにしても――。横になったまま昨晩のことを思い出し、俺は少し苦笑した。それにしても、気持ち良かった。人に耳かきをされるということが、ああも素晴らしいとは。
 これまでの人生、まったく損をしていたなと、大げさでなく思う。人間、快楽はギャンブルと性的なことばかりかと思っていたが、その序列の中に耳かきを含めても――
「……すー……」
 とにかくシャワーを浴びようと考え、体を起こそうとして気づいた。あろうことか、隣に小鳥さんが寝ていたのだ。屈託ない寝顔がすぐ横にある。無防備にも、あどけない寝姿を晒している。
 この人は……。離れようとしたが、彼女は俺の腕をつかんで離さない。薄い生地のブラウス越しに柔らかい感触を感じ、目を細める。それは昨晩の太もももと、同じくらいに柔らかかった。
「まだ早いし、いいか」
 俺はベッドから出ていくのをやめ、大人しく彼女に抱かれていることにした。むしろ小鳥さんにより近づき、背中に腕を回して引き寄せる。胸に頭を抱き込んで、すー、と髪の香りで肺を満たした。
 ――膝を貸してもらっても、こうして同衾しても。多分、俺と彼女の仲に劇的な進展などないだろう。結局いつもの関係に戻り、今日も仕事が始まれば普段通り。
 それでいいのだ。その関係が一番心地いい。彼女は暖かく柔らかいが、だからといって手を出すつもりはない。明け透けなやり取りの出来る彼女が、俺は好きなのだ。
 まあ、小鳥さんがどう考えているかは知らないが。少なくとも、俺はそう考えている。小鳥さんの頭頂に顎を乗せ、俺は再び目を閉じた。
「……プロデューサーさん、大好きです……」
 寝ているのか、それともいつから寝たふりをしていたのか。判然としないが、彼女は言うと、きゅっとシャツを握り、体をすり寄せてきた。
 寝言にしては聞き取りやすい言葉を、俺は聞かなかったことにした。

 彼女もまた、多分そのつもりで言ったのだろうから
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