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山口組


六代目山ロ組(やまぐちぐみ)は、兵庫県神戸市灘区篠原本町に本拠を置く日本の指定暴力団。組員は2006年10月現在、組長と舎弟15人、若中84人の計100人である。 組長を除き、これら約100人の舎弟・若中は それぞれが数十〜数千人の構成員を傘下に抱える組織のトップのため、その総構成員は2005年末現在で約2万1700人と言われ、全暴力団構成員の50.1%を占めるとされる。 傘下組事務所は広島、沖縄の2県を除いた45都道府県に置かれていると言われる。「山ロ」の2文字を鋭角な菱形にデザインした「山菱」と呼ばれる代紋を用いている。

歴史


創設

1915年(大正4年)、「運河の親分」大嶋秀吉の大嶋組に属して活動していた山口春吉が、神戸市兵庫区西出町で沖仲士50人を集めて、港湾荷役人夫供給業「山口組」を結成した。結成当時は、大島組の系列で、独立組織ではなかった。


二代目

1925年(大正14年)、山口春吉の長男・山口登が2代目を継承した。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。山口組二代目親分相続披露宴は、神戸市須磨区の料亭で行われた。披露宴には、主筋の大島組組長・大島秀吉をはじめ、大島組幹部や兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。難波島之助が参謀格となった。

1929年(昭和4年)1月、山口登は大島組への上納金をやめたため、大島秀吉から破門された。

1930年(昭和5年)3月、神戸市が兵庫区浜新町に中央卸売市場の建設を計画した。この利権をめぐり、山口組は大島組と対立した。同年5月、山口組の刺客・田尻春吉が大島組・川端勝次を射殺した。同年8月7日に、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から兵庫区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、中央卸売市場建設予定地の近所であった。1932年(昭和7年)7月、大島組の刺客・守屋謙造が、山口登のいた須磨の待合を襲撃した。若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は難を逃れた。抗争の末、山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、大島組から独立した。

山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森議員は浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名:森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介した。

1934年(昭和9年)7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。松風軒栄楽のマネージャーは、庄村吉之助だったが、山口登は庄村吉之助を引き抜き、彼を支配人に据えて、山口組興行部を作った。また、山口登は庄村吉之助の側に、若衆の笠種次を付けた。

同年8月、海員争議が起こり、会社側は山口組二代目・山口登に、紛争解決の調停役を依頼した。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。話し合いはこじれ、乱闘が起こり、西田幸一は殺害され、田尻春吉は重傷を負った。その知らせを受けた田岡一雄(後の山口組三代目)が、岡精義とともに、海員組合争議本部に乗り込み、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。

同年9月3日、山口登は、庄村吉之助や笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいは、東京新橋演舞場で、大阪漫才公演を開催した。山口登は、この東京興行の応援に駆け付けた。翌10月14日、山口登は、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいとともに、東京 浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き、浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。

1935年(昭和10年)10月、田岡一雄が神戸刑務所から出所した。

1936年(昭和11年)1月20日、山口登は、田岡一雄を二代目山口組の正式な若衆とした。同年7月、山口組は、田岡一雄の仕切りで、広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の大正座、夜席は県会議事堂を会場とした。

その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷つけたためであった。1937年(昭和12年)2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は「大阪楼」を急襲した。田岡一雄が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激怒した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴りこんできた。田岡一雄が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同年2月27日、田岡一雄は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。

1940年(昭和15年)7月、広沢虎造は九州巡業を行った。巡業後、広沢虎造は、下関・籠寅組の親分・保良浅之助を訪ねた。保良浅之助は、下関の料亭「春帆楼」で広沢虎造を接待し、当時売り出し中だった女剣劇・不二洋子一座・大江美智子一座との映画競演を持ちかけた。広沢虎造は即決し、吉本興業に無断で、籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌7月29日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。

同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で千円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組は5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄は日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。

1942年(昭和17年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。

1943年(昭和18年)7月13日、田岡一雄は「皇紀2600年」の恩典で2年減刑され、高知刑務所を出所した。


三代目

1946年(昭和21年)7月に開かれた兄弟会の席で、田岡一雄の山口組三代目襲名が決まった。同年8月、神戸市須磨区の料亭「延命軒」で、山口組三代目の襲名式が行われた。山口組三代目の初代若頭には、山田久一が就任した。

この頃の山口組はまだ神戸の一組織に過ぎず、田岡は安定した収入が見込める「正業」を重視して経済基盤の強化に専念した。10年近く経った1955年(昭和30年)頃、田岡より年長で渡世歴も長い安原政雄(安原会会長)から田岡子飼いの地道行雄(地道組組長)に若頭(若衆頭)が交代した。地道の指揮の下、山口組は全国進出を一挙に開始した。1957年(昭和32年)に徳島県[1]で本多会系と衝突した小松島抗争では、組員を大量動員することにより機動力を見せ付けた。1960年(昭和35年)8月に大阪市の明友会を潰滅に追い込む(明友会事件)と、これを契機に老舗組織、新興組織が入り乱れていた大阪に本格的に乗り込んだ。その後、鳥取県で本多会系と争った鳥取抗争(1961年(昭和36年)10月〜1963年(昭和38年)1月)、九州の地元組織と争った博多事件(夜桜銀次事件)(1962年(昭和37年))[2]、横浜で錦政会(後の稲川会)と衝突したグランドパレス事件(1963年3月)、広島の打越信夫(打越会会長)を舎弟として取り込んだことから本多会寄りの地元諸組織[3]と争った広島代理戦争(1963年4月〜1967年(昭和42年)8月)、愛媛県松山市の本多会系 郷田会を潰滅に追い込んだ第1次松山抗争(1964年(昭和39年)6月)など各地で抗争を繰り返すと同時に、地方の実力者に盃を与えて傘下に収める手法も用いて組織を拡大させ、全国有数の大組織へと発展させた。1963年2月には、児玉誉士夫の仲介で東京の東声会会長・町井久之を舎弟として取り込んだ。

1963年(昭和38年)8月には舎弟頭・松本一美(松本組組長)ら舎弟衆と若頭の地道から成る運営委員会[4]を設けると共に、若頭を支える若頭補佐の役職を正式に置き[5]、組織運営の近代化を図った。

1964年(昭和39年)2月、警察庁は暴力団一斉取り締まり、いわゆる「第一次頂上作戦」を開始した。1965年(昭和40年)6月に田岡が心筋梗塞で倒れ一時危篤状態に陥ると、警察側は山口組に対する取り締まりを強めていった。山口組と並んで集中取り締まり対象とされた錦政会、北星会、本多会、住吉会、松葉会、日本国粋会が次々と「解散」していく状況にあっても一向に解散しない山口組に対し、兵庫県警察は1966年(昭和41年)6月、「山口組壊滅作戦」を開始させた。一連の取り締まりで、多くの幹部組員が逮捕され、引退する者も相次いだ。1968年(昭和43年)1月、「解散」を唱えて組内で孤立していた地道の辞任により、若頭補佐・梶原清晴(梶原組組長)が後任の若頭に就いた。山口組の尖兵として北陸、北海道にまで勢力を拡げ、最大規模の2次団体となっていた柳川組が1969年(昭和44年)4月に解散[6]すると、取り締まりに一区切りが付けられた。

若頭・梶原清晴は1971年(昭和46年)7月、新たな試みとして機関誌『山口組時報』を創刊させた[7]が、その同じ月に磯釣りに訪れた大隅諸島 硫黄島で事故死した。同年9月、後任の若頭には若頭補佐の互選により山広組組長・山本広が選ばれたが、若頭補佐・山本健一(山健組組長)の田岡に対する“直訴”により実際には山本健一が就任した。この一件は組内に対立の芽を残すこととなった。

山口組が東海、関東に勢力を拡げる過程で幾度となく衝突した関東の大組織・稲川会(稲川一家)との関係改善を推し進め、1972年(昭和47年)10月、双方の最高幹部同士2組が五分の兄弟盃を交わすことにより親戚縁組を行った[8]。

1975年7月、賭場での争いから大阪の博徒・二代目松田組との抗争、いわゆる「大阪戦争」が勃発した。当初は2次団体・佐々木組主体の抗争だったが、1978年(昭和53年)7月に田岡が京都市内の高級クラブで松田組系組員に狙撃され傷を負ったベラミ事件が起きると、様相は一変した。多くの傘下団体が報復に動き[9]、松田組を圧倒していった。格の違いを見せ付けるため、松田組との手打ちは敢えて行わず、同年11月、田岡邸にマスコミを集めて一方的に抗争終結を宣言した。この会見は警察の怒りを買い、若頭・山本健一は保釈を取り消されて収監された。この抗争の最中、永く若頭補佐を務めると共に有力2次団体・菅谷組を率いて巨大な力を誇っていた菅谷政雄を、無断で松田組との和解工作を図ったことを問題として謹慎処分とし、その後、若頭補佐を解任。菅谷組の内紛を口実に1977年(昭和52年)4月に絶縁した[10]。

1981年(昭和56年)7月23日、35年に渡って山口組を統率し、山口組を日本最大の組織に成長させた田岡が、急性心不全により この世を去った。兵庫県警察は同年10月、これに乗じて「山口組解体作戦」を開始した。若頭・山本健一は獄中で体調を悪化させ、刑の執行停止を受けて入院した後、1982年(昭和57年)2月に亡くなった。


山一抗争以降

4代目の最有力候補だった山本健一を失ったことで、4代目争いは組内の対立を深めていった。、1982年(昭和57年)6月、若頭補佐・山本広が組長代行に昇格し、同・竹中正久(竹中組組長)が若頭に就任した。舎弟衆は山本広を4代目に推したが、警察から「三代目姐」に認定されていた田岡の妻・文子の反対により頓挫した。先代霊代の立場にある田岡文子の指名により、1984年(昭和59年)6月5日、若頭・竹中正久が4代目を継承[11]し、後任の若頭には若頭補佐だった中山勝正(豪友会会長)が就任した。山本広擁立に動いた山広派は竹中の4代目継承に反発し、山口組から脱退して「一和会」を結成した。

1985年(昭和60年)1月26日、大阪府吹田市のマンションで竹中ら一行が待ち伏せしていた集団に銃撃され、若頭・中山勝正ら2人が死亡。竹中も翌27日、搬送先の大阪警察病院で死亡した。山口組側の切り崩しによって劣勢に立たされていた一和会による、起死回生を図っての暗殺だった。しかし、これは裏目に出て、歴史的な大抗争となる山一抗争を招くこととなった。同年2月に舎弟頭・中西一男(中西組組長)を組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則(二代目山健組組長)を若頭に据えた山口組は、全国で一和会への攻撃を繰り返した。稲川会総裁・稲川聖城、四代目会津小鉄会長・高山登久太郎の仲介を得て、1987年(昭和62年)2月に一旦抗争終結を宣言したが、その後も攻撃は続けられた。一和会からは引退・離脱する者が相次ぎ、山口組の勝利は確定した。1989年(平成元年)3月19日、一和会会長・山本広が自身の引退と会の解散を届け出て、山一抗争は完全に終結した[12]。


住吉会系組幹部射殺事件(港区西麻布)

2007年(平成19年)2月5日、住吉会 住吉一家 小林会の幹部・杉浦良一(43歳)が港区西麻布で射殺された。同日中に港区麻布十番の山口組 太田会系の組事務所で発砲事件発生。
6日には豊島区の太田会系組事務所、渋谷区の國粹会系組事務所で発砲事件。警視庁組織犯罪対策4課は渋谷区の事件で、小林会の沼能英雄、上野浩二を銃刀法違反容疑で逮捕した。
7日には家宅捜索し、拳銃1丁と実弾46発を押収した。
同課は8日、中央区銀座の小林会本部、港区六本木の同会系組事務所、同会六本木本部を家宅捜索。
同課によると、抗争の背景には、六本木などの縄張り争いがあるという。
警視庁に8日、山口組と住吉会が和解したと電話連絡があった。
15日東京都台東区の國粹会会長・工藤和義(70歳)が拳銃自殺。
警視庁組織犯罪対策4課は21日、小林会の杉浦良一への殺人と銃刀法違反容疑で、東京都台東区の国粋会本部など複数を家宅捜索。
同課は26日、同じく山口組総本部(神戸市灘区)を家宅捜索した。被疑者は不詳で、山口組系下部組織が何らかの関与をしたとみ、実行役の割り出しを進めるとした。



綱領と組指針

三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。また、年ごとの「組指針」も定められている。

山口組綱領
一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
一、長幼の序を弁え礼に終始す。
一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。

弱者を支援。阪神大震災では率先して被災者に炊き出し支援を行った。


歴代組長

初代(1915年〜1925年):山口春吉
2代目(1925年〜1942年):山口 登(春吉の長男)
3代目(1946年〜1981年):田岡一雄
4代目(1984年〜1985年):竹中正久(竹中組組長)
5代目(1989年〜2005年):渡辺芳則(二代目山健組組長)
6代目(2005年〜):司 忍(弘田組組長、二代目弘道会総裁)

六代目山口組


最高幹部

組長・司 忍
若頭・盪垣胸福米鸞緻楾案参餡馗后二代目盪柿帆躡曄 - 名古屋
最高顧問・岸本才三(舎弟、岸本組組長) - 神戸
舎弟頭・野上哲男(二代目吉川組組長) - 大阪
顧問・石田章六(舎弟、章友会会長) - 大阪 北区
顧問・大石誉夫(舎弟、大石組組長) - 岡山市
顧問・西脇和美(舎弟、西脇組組長) - 神戸
顧問・尾崎彰春(舎弟、心腹会会長) - 徳島市
総本部長・入江 禎(大阪中ブロック長、二代目宅見組組長) - 大阪 中央区
若頭補佐・瀧澤 孝(舎弟、関東・北海道ブロック長、芳菱会総長) - 静岡
若頭補佐・橋本弘文(大阪南ブロック長、極心連合会会長) - 大阪
若頭補佐・寺岡 修(大阪北ブロック長、侠友会会長) - 淡路 洲本
若頭補佐・青山千尋(九州ブロック長、二代目伊豆組組長) - 福岡
若頭補佐・鈴木一彦(旭導会会長) - 北海道 旭川
若頭補佐・井上邦雄(阪神ブロック長、四代目山健組組長) - 神戸 中央区
若頭補佐・正木年男(中部ブロック長、正木組組長) - 福井

舎弟

英 五郎(英組組長) - 大阪
後藤忠政(後藤組組長) - 静岡
石川 尚(名神会会長) - 名古屋
玉地健治(玉地組組長) - 大阪
堀内伊佐美(堀内組組長) - 大阪
川合康允(川合組組長) - 岐阜
勝野重信(勝野組組長) - 大阪

幹部

大原宏延(大原組組長) - 大阪
福島末博(勝龍会組長) - 大阪
組長付・岸上剛史(平井一家十代目総裁) - 愛知 豊橋
副本部長・池田孝志(池田組組長) - 岡山
副本部長・毛利善長(毛利組組長) - 大阪 吹田
組長付・光安克明(光生会(旧「二代目伊豆一家」)会長) - 福岡

若中(兵庫)

中村天地朗(二代目大平組組長) - 兵庫 尼崎
細川幹雄(細川組組長)
柴田健吾(柴田会会長)
井奥文夫(井奥会会長)
大西康雄(大西組組長)
細見孝夫(二代目佐藤組組長)
岡本久男(二代目松下組組長)
落合勇治(二代目小西一家総長) - 神戸
古川恵一(二代目古川組組長) - 兵庫 尼崎
管 和巳(三代目真鍋組組長) - 兵庫 尼崎

若中(大阪)

森田昌夫(森田組組長)
小林 治(二代目難波安組組長)
中野雅己(中野組組長) - 大阪 堺
川下 弘(川下組組長) - 大阪 東大阪
盛力健児(盛力会会長)
堀 義春(堀組組長) - 大阪 西区
奥浦清司(奥浦組組長)
浅川桂次(浅川会会長) - 大阪 吹田
平山桂次(三代目南一家会長) - 大阪 中央区
浅井昌弘(浅井組組長) - 大阪 北区
剣 政和(二代目黒誠会会長)
亀井惟茂(二代目松山組組長) - 大阪 東大阪
川昌彦(二代目一心会会長) - 大阪 中央区
川口和慶(三代目小車誠会会長) - 大阪 西成区
天野洋志穂(天野組組長)
小條鎮生(倉心会会長)
野村 孝(三代目一会会長) - 大阪 北区
高木廣美(五代目早野会会長) - 大阪 浪速区
布川皓二(二代目中西組組長)
佐達秀正(三代目大野一家総長) - 大阪 港区
太田守正(太田会会長)
江口健治(二代目健心会会長)
里 照仁(二代目中島組組長)

若中(その他)

地蔵吉一(地蔵組組長) - 京都市
青野哲也(七代目一力一家総長) - 静岡 浜松
白川孝郎(二代目熊本組組長) - 岡山 玉野
尾崎勝彦(尾崎組組長。心腹会会長・尾崎彰春の実子) - 徳島市
野崎 圓(野崎組組長) - 三重 伊勢
浜尾将史(浜尾組組長) - 横浜
山田忠利(二代目矢嶋組組長) - 愛媛 今治
根本辰男(二代目川内組組長) - 福井 芦原町
渡辺啓一郎(瀬戸一家九代目総裁) - 愛知 瀬戸
江口 亨(三代目石井一家総長) -大分
島村國光(二代目稲葉一家総長) - 熊本市
小野守利(六代目奥州会津角定一家総長) - 福島 会津若松
西畑晴夫(六代目佐々木組組長) - 和歌山市
北島 虎(二代目杉組組長) - 名古屋
三谷省一(伊勢志摩連合会会長) - 三重 志摩市
金光哲男(金光会会長) - 福岡市
水田元久(水心会会長) - 長崎市
奈須幸則(三代目大門会会長) - 熊本 八代
正田 悟(二代目松山会会長) - 愛媛 松山
玉井武雄(三代目小山組組長) - 和歌山市
島田俊正(二代目益田組組長) - 横浜
浅川睦男(二代目浅川一家総長) - 福岡市
津田功一(二代目倉本組(旧「貴広会」)組長) - 奈良市
貝本 健(貝本会会長) - 名古屋
船木一治(三代目誠友会会長) - 札幌
篠原重則(二代目若林組組長) - 香川 高松
高木康男(二代目美尾組(旧「五菱会」)組長) - 静岡
原口武己(三代目北岡会会長) - 熊本市
菱田達之(二代目愛桜会会長) - 三重
山本克博(五代目豪友会会長) - 高知市
田保伸一(二代目昭成会会長) - 石川 金沢
掛野一彦(二代目近藤組組長) - 岐阜市
茶谷政雄(茶谷政一家総長) - 札幌
木村阪喜(木村會会長) - 愛媛 松山
森尾卯太男(大同会会長) - 鳥取 米子

去った人々


五代目

若中・近藤慶文(近藤組組長) - 岐阜市。 2005年8月 引退、12月 死去

六代目

若中・仲里正秋(二代目真鍋組組長) - 兵庫 尼崎。 2005年10月 死去
舎弟・古川雅章(古川組組長) - 兵庫 尼崎。2005年10月 引退、06年1月 死去
若中・中村伍男(中村組組長) - 岐阜。 2005年12月 破門
若中・中島利一(中島組組長) - 大阪 淀川区。2006年5月 引退
幹部兼慶弔委員長・松岡義雄(松岡組組長) - 大阪。2006年9月 引退
若中・須藤 潤(須藤組組長) - 大阪。2006年10月 引退
若中・山田輝雄(山田組組長) - 兵庫 伊丹。2006年11月 引退・組解散
最高顧問・工藤和義(舎弟、國粹会4代目会長) - 東京 台東区 2007年2月 自殺


その他


2008年11月13日(木) 06:34:31 Modified by ID:2luP7vl+tA




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