吉原の沿革 歴史 江戸期
最終更新: yoshiwarawiki 2011年02月01日(火) 17:37:04履歴
江戸幕府によって遊郭として公認された後、明暦の大火を経て浅草寺裏の日本堤に移転。前者を元吉原、後者を新吉原(現代で言うところの吉原)と呼ぶようになりました。当初は身分の高い武士が客の中心で、夜間の営業が許可されていたこともあり、吉原は全盛時代を迎えます。
その後、岡場所や、品川、内藤新宿といった価格の安い宿場の女郎屋の台頭により衰退。これを境に、武士中心から経済的な実力をつけてきた町人中心の街へと変貌していかざるを得なくなり、それまで重んじられていた格式や伝統が形骸化し大衆路線へと舵を切ることを余儀なくされました。これに加え、私娼の配流先となったことによる質の低下、さらに数度にわたる大火・全焼という悲劇も重なり、吉原の客離れが進むこととなったのです。
その後、岡場所や、品川、内藤新宿といった価格の安い宿場の女郎屋の台頭により衰退。これを境に、武士中心から経済的な実力をつけてきた町人中心の街へと変貌していかざるを得なくなり、それまで重んじられていた格式や伝統が形骸化し大衆路線へと舵を切ることを余儀なくされました。これに加え、私娼の配流先となったことによる質の低下、さらに数度にわたる大火・全焼という悲劇も重なり、吉原の客離れが進むこととなったのです。
- 1617(元和3)年
- 日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に吉原遊郭誕生
- 1618(元和4)年
- 秋頃に大門を構え、周りを堀で囲む工事が終了し「吉原」という名称が確定
- 1637(寛永14)年
- 風呂屋に置く湯女を1軒3名に制限される
- 1648(慶安1)年
- 吉原以外の遊女が禁止される
- 1652(承応1)年
- 風呂屋に置く湯女が禁止される
- 1656(明暦2)年
- 吉原大門類焼
- 吉原への類焼を防いだ吉原町人火消褒美を受ける
- 1657(明暦3)年
- 明暦の大火により吉原遊廓焼失
- 浅草田んぼに移転を命じられ、以後、新吉原と称する(略して吉原)
- 1678(延宝6)年
- 茶屋に置く給仕女が1軒3名に制限される
- 1735(享保20)年
- 大名・旗本が娼家や劇場に出入りする事が禁止される
- 1742(寛保2)年
- 品川宿の飯盛り女が吉原へ下げ渡される
- 1743(延享3)年
- 隠娼婦全体の一斉取締まりの開始
- 1765(明和1)年
- 飯盛り女の規制で品川・板橋・千住の宿場町が衰退したため再度増員が許可される
- 1768(明和5)年
- 大火で遊郭が全焼する
- この頃揚屋が消滅する
- 引き手茶屋か直接妓楼に登楼する遊び方となる
- 1787(天明7)年
- 大火で遊郭が再度全焼する
- 1790(寛政2)年
- 岡場所の取り潰し開始
- 1792(寛政4)年
- 女衒取締令が出される
- 1798(寛政10)年
- 女芸者取り締まり令
- 1800(寛政12)年
- 火事で全焼、浅草田町等6ヶ所で仮宅営業
- 1835(天保6)年
- 1月に一部焼け、2月に大火で全焼する
- 1842(天保13)年
- 吉原以外の売春全面禁止、吉原へ収容される
- 堕胎取締り令が出され、吉原の避妊法が高値で口伝される
- 1855(安政2)年
- 安政の大地震
- 大勢の遊女が犠牲になり、浄閑寺に投げ込まれて葬られる。
- 1862(文久2)年
- 大火で遊郭が再度全焼する
- 1864(元治1)年
- 大火で遊郭が再度全焼する
- 1866(慶応2)年
- 大火で遊郭が再度全焼する