あ な た と 融 合 し た い ・ ・ ・


 世界は不思議に満ち溢れている。
 
 探査機を太陽系外へ飛ばせるようになろうとも、不可視のレーザーでミサイルや航空機を迎撃できるようになっても、10000mの深海へ潜れるようになっても、人智の及ばぬ領域は確かにこの世に存在するのである。
 「羽化症候群」もその一つだろう。
 数年前にユーラシア大陸のとある国で確認されたのが最初とされているが、その日を境に世界中のあちこちで同様の症状の報告が爆発的に増え続け、世界人口の1/8はこの奇病に罹っているといわれるほどになっている。死に至るような致命的な病ではないが、根治も発症のメカニズムも不明。偶然の産物で発見されたに等しい発症をある程度抑制する成分を含んだ鎮静剤で、日常生活への支障を抑えることくらいしかできないこのある日突然振って湧いたような病気に罹っている人間は、もちろんこの極東の島国にも存在する。夜の帳が下りた空を鮮やかなネオンが彩る大都市から普通電車に乗って約1時間、郊外の住宅地の駅に降り立ったこの青年も、その一人だった。
 「遅くなったなぁ…」
 切りそろえられた黒髪、少しくたびれたグレーのスーツ。体格が良いわけでも小柄なわけでも太っているわけでもない中肉中背、顔つきもさして端正なわけでもないが他に何か特徴があるわけでもない、至って普通な若きサラリーマン。仕事の資料と私物のノートパソコン、そして、日常生活を送る上で絶対に欠けてはいけない、大事なとある錠剤が入ったビジネスバッグを手に、駅前広場に降り立った彼は、左腕のデジタル時計を見遣るとため息を吐いた。時刻は22時を回っており、家路に着く会社勤めの人々も学校帰りの学生の数もピークを過ぎ、残業が確定しひたすらデータを打ち込んでいた夕刻から比べると明らかにその数は少なかった。
 「また歩きだよ…はぁ」
 疲れたように青年は呟く。少し先にはバスターミナルがあり、バスを待つ人々が列を成しているのが見えるが、彼はそちらとは反対の方向へ向かって歩き始めた。もう少し早い時間にたどり着いていれば、近くのバス停を通るバスに乗ることが叶ったのであるが、残念ながらこの時間はすでに最終便が出発した後で、事実最寄りのバス停を経由する路線のバス乗り場には誰一人並んでいなかった。
 「ま、健康のために歩くのもいいか」
 ここ数日は健康のために歩きっぱなしだ、という現実を思い出すと余計疲れるのであえて思い出さないことにして、彼は歩くと40分程度は確実にかかるアパートまでの道のりを歩き始めたのだった。



 ここまでの道のりは何もなかった。駅前の大通りから国道へ折れ、行き着けのスーパーの角をもう一度曲がり、車2台がぎりぎりすれ違える程度の路地に差し掛かったところで、残りは道半ばを少し過ぎたあたりといったところであった。最近蛍光灯から取り替えられたばかりの白いLEDの街灯が等間隔で道を照らし、そこだけが暗闇に浮かび上がっているように見える寝静まった住宅地。この道をしばらく進み、十字路を左手に折れれば、自宅の築20年2階建てのワンルームアパートは目の前だった。
 人一人いない静かな夜道はいつものように不気味であったが、通いなれた、歩きなれた道でもある。気味の悪さで歩調が変わることもなく、彼が家路を進んでいた、その時だった。
 「…っっ!!」
 突如、全身に奔った感覚に、その足が止まった。神経を優しくなでられるような、少なくとも痛みとは正反対の、それでいて形容しがたい感覚。
 それは非常に身に覚えのあるものだった。
 「…まじかよ、もうちょっと、なのに…!」
 心拍がどくどくと早くなっていくのを感じる。なんとか目の前の街灯の真下まで歩を進め、地にへたり込みそうになる体を電柱に寄りかかって支え、肩からかけていたビジネスバッグのファスナーを引き、口を開く。
 「確か、持ってきてる、はず…」
 街灯の白い明かりを頼りに、暗いバッグの中の小分けスペースを開けた。財布やスマートフォンや自身の昇進がかかった大事な会議資料は忘れても、これだけは絶対に忘れてはならない、ある意味命の次に大事な白い錠剤が、
 「…まじすか」
 なかった。影も形もその痕跡すらなかった。
 別のところに入れたのかと、バッグを漁る。力が抜けそうになる体で無理やりスーツとスラックスのポケットも漁る。しかし神様は彼に微笑んでくれなかった。忘れ物を司る貧乏神の類は満面の笑みを浮かべていたかもしれないが。
 「やっちまった…」
 上気した青年の顔に、明らかな焦りが滲む。一昨日病院で受診した定期の経過観察の後、いつものように処方された錠剤をバッグに入れた記憶がない事と、この後の自分の体に起こるであろう事、2つの現実に。
 「だ、だめだ、力、はいらない…」
 全身から何かが抜けていくような脱力感に、彼の膝は折れてしまい、肩から下げていたビジネスバッグが、地面にするりと落ちて横たわる。それでも倒れ込むことだけはなんとか避けることに成功し、冷たく荒いアスファルトの上に手をつき、上体を支える四つん這いの姿勢をかろうじてとることはできたが、それが限界だった。息が更に荒くなり、額に脂汗が滲み始める。全身の血液を短時間で沸き立てたような錯覚を覚えるほどの熱。もしここに今通りがった近所の人間がいれば、誰もが心配して声を書け、119をコールするであろう様相だったが、運の悪いことに後1時間あまりで日付が変わってしまうような深夜、通りがかる人も車の気配もない。
 しかし、熱にぼんやりとする思考の中で、青年はまったく正反対のことを強く願っていたのだった。
 「だ、だれかに、みられません、ように…っ!」
 もうこうなってしまった以上、他人の目に触れることだけは避けたい。この後に自分の体に起こる事を知っている彼はそう強く願っていた。その願いは神も聞き届けてくれたのか、通行人がやってくる雰囲気は皆無だった。
 そして、ついにそれはやってきた。
 「っっっくぁぁぁ!!?!」
 口から異様な声が漏れる。それは声というより、喘ぎと形容したほうが正しいものだった。それも、苦痛とは間逆の感覚──快楽によって漏れ出た喘ぎ。
 「はぁ、はぁ…くぅぅっ!」
 それを裏付けるかのように、スラックスの股間部分は膨らんで、さらに。
 「ああああ…っ!!」
 びくり、と大きく体が震えた後、盛り上がる先端部分の生地の色が変わり、うっすらと染みを作った。そこから広がる、小便の匂いとは明確に異なる、どこか生臭い、少なくとも芳しいとは言えない匂い。
 彼は、射精していたのだ。
 「お、おお、おおおっ!!」
 びく、びくと震えが止まらない体。股間の染みは濃く、じわりと大きく広がり、比例して、烏賊の匂い、栗の花の匂い、あるいは銀杏の匂いと言われるような、男性であれば知っているであろう独特の臭気も強く、濃くなっていく。全身がわずか跳ねる度、青年は絶頂し、精を放出しているのだ。二度、三度、四度。『普通であれば』、快楽の波が一気に引く頃合であったが。
 「っっ!っくぅぅ!と、とまら、な…!!」
 引くどころかさらに強く、全身を駆け巡る絶頂の痺れ。成人男性として、ヒトという種の限界を超えてなお射精し続ける青年の肉体。そして、さらに大きい波──波という生易しいものではなく、鉄砲水や激流といった方が良い、さらに強い快楽が全身に広がった。
 「ああああああああっ!!!」
 静かな夜の空気に、青年の嬌声が響き渡る。他者に見られたくない、と気にしていられるような余裕は当になかった。思考や理性も大きく揺さぶる、人間の限界を超越した性感。視界が白く明滅している中で、飛びそうになる意識が、自身の肉体で何が始まったかを理解した。
 「あああ!!ううっ!うおおおお!!」
 上気し、歪む青年の頬が、いや、顔の表情を司る肉が制御を離れ、ぷるぷると踊り出し始めたように見える。しかしよく見れば、唇、鼻、瞼といった顔のパーツが少しずつ造形を変えていっていることに気付くだろう。それどころか、顔が頭蓋の骨格ごと僅かに収縮しているのだ。
 頭蓋だけではない。彼の体の骨格や、臓器や、脂肪や、筋肉や、神経から細胞の一片に至るまで、数年前までの常識では考えられないような変化を始めていたのだった。
 「あああ!!あああああっ!!」
 アスファルトの地面につく両手の指が細くなっていく。両手が一回り小ぶりになり、その素肌が白く滑らかになっていく。うっすら生えていた体毛が、その根元から抜け落ちていく。毟られるような痛みを彼は全く感じることはなく、閉じていく毛穴に押し出されるようにして、手の甲や腕に生えていたものがはらはらと落ちていく。同じように、趣味の自転車で多少は鍛えられた両の脚も、つま先から細くわずかに縮み、肌は白く、脛や腿の体毛が自然に脱毛していく。
 「うう、うああ!!くぅぅぅぅっ!!」
 一方で、頭髪は逆の変化を始めていた。黒い髪はざわめきながらその長さを増していく。うなじを完全に隠し、肩口から背中へ伸びながら、その色は根元から、筆の先を塗料につけたときのように鮮やかなブロンドへ変化していく。染色や脱色といった不自然さは微塵もなく、生まれ持っていたかのような艶のある金糸へ変わっていく。
 「うああああっ!うう、うおおっ!お、おあ、あ、ああああんっ!!」
 ほっそりとした首から、喉仏の山が消失する。それに合わせるように、彼の声が高く軽やかな、まるで少女のようなものに変わり始め、その嬌声だけを耳にすれば若い女性が乱れているものと聞き分けはつかないだろう。
 声だけではない。今や彼は中肉中背の若者の男性などではなく、年の頃は十代半ばかそれより少し高いくらいの、まだ大人になりきれていない少女の姿になっていた。体格は小さくなり、ほっそりとした手足。美しい金の髪は背中の中ほどまで伸びきり、小顔の造形はモンゴロイドやコーカソイドといった人種の特徴を超えたような、美麗と可愛らしさを高次元で両立した女の子のものだった。
 それでも、肉体の変貌は止まらない。今度は胸部が肉付き始め、平たい胸板が柔肉を称えながら盛り上がり、急速に発達していく。風船を膨らませるような速さで成長する胸の膨らみは、ついに白いシャツや灰色のスーツを内側から押し上げる。 同年代の少女の平均より一回りかそれ以上に形成された、普通の成人男性にはありえない双球。体が少女の大きさになってしまい、サイズに余裕が出来たとはいえ、シャツの白い生地が微妙に張り、その下の乳房の窮屈さを主張していた。
 「あ、あ、んああああ…っ!!」
 そして、最後の決定的な変化が始まった。唯一少女がかつて男性であったことを示すその象徴、スラックスとパンツの下で精液まみれになってなお吐き出すことを止めない陰茎が、収縮していく。
 「はぁぁぁっ、んう、うあああああああ!!」
 背中の肩甲骨が、硬く擦れる音を上げながら皮膚と、筋と、神経と共にぼこりと盛り上がり、スーツの背中部分が膨らみ始める。
 「あ、あ、あああ…っ!!」
 睾丸が見えない手で揉みしだかれるように蠢きながら、体の中へ溶けるように引き込まれていく。小指の大きさほどにまで縮んだ肉棒は、ついに精を吐き出せなくなり、ぴくぴくと痙攣しながらさらに縮んでいく。同時に、その根元からすっと、腿の付け根の中央を分けるように肉が割れ、縦筋を形作り始める。
 「ん、んんっ!ふぁぁぁぁぁ!!」
 背中の膨張はさらに進み、ついに生地が悲鳴を上げて裂けていく。その下で大きな何かが蠢く様子は、宿主を食い破り外へ出ようとする寄生生物のような気味の悪い印象があった。
 そして。
 「あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
 小指の先よりさらに小さくなった彼自身は、スリットの中に完全に埋没し。
 グレーのスーツの背中部分と、下のワイシャツと下着のTシャツを破り、巨大な白が広がり。
 スリットから透明な汁を滴らせながら。
 つい先ほどまでサラリーマンだった少女は絶頂の嬌声を響かせ、肉体の変化は完全に終わった。

 「はぁ、はぁ、はぁぁぁぁぁ…」
 変化の余韻の波が急速に引いていき、取り残された疲労と倦怠感で、柔らかく肉付いた胸をゆさりと揺らしながら荒い息を吐を吐く彼──いや、彼女は、ゆっくりと体を起こし、両腕を投げ出して道路に座り込むような姿勢になった。その姿に、以前の青年の面影は微塵も残っていない。金のロングの髪も、少女の顔にも、揺れる二つの膨らみにも、そして何より、背中に生える、巨大な白い翼にも。
 それは鳥類のものを何倍にも大きくしたような羽だった。人を一人をすっぽり包み込んでもまだ余るような大きさのそれは、純白の羽毛に包まれ、両腕と同じように力なく垂れ下がり、先端部は地についてしまっている。
 「やってしまったぁ…」
 羽根の生えた少女はまだ焦点の定まりきらない瞳で、ぼんやりとした表情のまま呟いた。
 「羽化しちゃったら4日は戻れないのに…明日も会社なのに…定例会議に出す実績書、まとめないといけないのに…」
 はぁぁ…、と深い深いため息を吐き、がっくりとうなだれる少女。次の瞬間、朗らかな笑顔で顔を上げ、
 「でも!4日の臨時休みを貰えた、と、思え、ば…」
 始めは明るかった声のトーンが、徐々に自由落下していく。結局再びうなだれた少女が再び口を開いた時、そこから飛び出た声は再び重苦しいものになっていた。
 「また課長からねちねち言われるんだろうなぁ…はぁ…」
 同僚や先輩達から万年課長と揶揄される上司の顔が脳裏に浮かんでしまい、元青年だった少女はもう一度、盛大にため息を吐いたところで、周囲の様子の変化に気付いた彼女ははっと再び顔を上げると、よろめきながらも慌てて立ち上がった。寝静まっていた周囲の家の窓に明かりが灯り、カーテンや障子を開けて路地を覗き込む人の姿がちらほら見える。肉体が変貌していくときに彼であり彼女が上げてしまった嬌声がことのほか大きく、何事かと不審に思った住民達だった。
 「み、見られたら面倒だし、とりあえず家に急ごう」
 投げ出されていたビジネスバッグのストラップを乱雑につかむと、サイズが合わずぶかぶかになり、背中は大きく裂け、股の部分に大きな染みと、自分のものとはいえ酷い匂いと気持ち悪い湿った感触のスーツ姿のまま、彼女は背中の翼を広げ、脱げそうな革靴で駆け出す。走りにくいことこの上ないが、なんとか助走をつけて羽根を羽ばたかせると、ふわりと浮き上がることに成功した彼女は、夜の空へ消えていった。


 世界は不思議に満ち溢れている。

 探査機を太陽系外へ飛ばせるようになろうとも、不可視のレーザーでミサイルや航空機を迎撃できるようになっても、10000mの深海へ潜れるようになっても、人智の及ばぬ領域は確かにこの世に存在するのである。
 「羽化症候群」もその一つだろう。
 発症すると人間が突如、背中や腰から巨大な翼を生やした少女や若い女性に変貌してしまう、常識では及びもつかない謎の奇病である。治療法も発症のメカニズムも不明。偶然の産物で発見されたに等しい、発症をある程度抑制する成分を含んだ鎮静剤で、日常生活への支障を抑えることくらいしかできない奇病にある日突然罹ってしまった彼に、一体この先どのような波乱万丈の日々が手ぐすね引いて待ち構えているのかもまた、誰にも分からないのである。


                                                                   完

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