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事変下、日本は何に怒っていたのか/司馬史観

  • 司馬遼太郎史観というのがあります、彼は「昭和という国家」「明治という国家」の中でこう述べている。

  • 「昭和ヒトケタから同20年の敗戦までの10年数年は、別国の感があります。ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。まるで、別の民族だったように思われるのです。」

  • 「右にせよ左にせよ、60年もこの世に生きていますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーを、日本語訳すれば'正義の体系'といってよいでしょう。イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。」

  • 「ありもしない絶対を、論理と修辞で持って、糸巻きのようにぐるぐる巻きにしたものがイデオロギー、つまり'正義の体系'というものです。イデオロギーはそれが過ぎ去ると、古新聞より無価値になります。」

  • この司馬の歴史観には、かなり嘘があります、歴史に連続性やら不連続性があるというのは、その時代の行動や背景が説明がつかない時に使う都合のいい便法としか思えません。

  • 大正から昭和にかけて、民族が入れ替わったようにイデオロギーを言い始め、国民がマインドコントロールされた如く高揚し、群集心理に後押しされ戦争に突き進んだのでしょうか。

  • 宗教についてのこんな問答があります。「宗教は、女子供のような弱い存在には必要かも知れません、だから、決して否定するものでもありません。しかし、私にはそれを必要とはしないのです。」これは、現在の若者が言った言葉ではありません。江戸末期に吉田松陰が宗教について語った言葉です。

  • 民族性というのは、いつの時代でもさほど変わりません。大概は小さな違いを言い立てますが、確かに、民心が落ち腐敗する時期もあるでしょう。


  • しかし、昔の古書をあさり、読んでいくと、日本人はイヤになるほど日本人であるし、アメリカ人はいやになるほどアメリカ人であるし、中国人もいやになるほど中国人であることを発見するでしょう。歴史とは、人間の一生と同様であの頃は別の人格が存在した一時期であるとは説明できるものでもないのです。我々は、いい悪いは別にして、「日本人であるという宿命」からは逃れないのです

  • ましてや、司馬が戦前のイデオロギーに染まった言いますが、そのイデオロギーとは果たして何だったのろうか。また、司馬はイデオロギーは悪でリアリズムは善と定義していますが、本当にリアリズムが絶対的な善で、それだけで、果たしてなりたつのでろうか?

  • 確か三島由紀夫が割腹自殺した時に、司馬は「思想と言うものは、本来、大虚構であることを我々はしるべきである。思想は思想として存在し、・・現実とは何の関係もなく・・」と述べている、イデオロギーが「正義の体系」というには余りにも曲解であり、イデオロギーや思想がない小説や評論が存在するはずがない。

  • 司馬の書いている小説、「坂の上の雲」にしても「坂本竜馬」「峠の河合継之助」にしても、ある種、司馬が嫌った「正義の体系」ではないのか。

  • 確かに、司馬が書いた小説の主人公は「目元が涼しく、黙っていても他者が寄ってくる。」とどの小説を取っても、主人公が同一人物かと見間違う程に、ひたすら楽天的でストリーの展開としては収まりよく、書き手としてはこの上ない程に都合がいい人物ばかりであるが、それでも、司馬なりのイデオロギーや思想はあるように思われる。
 

  • この司馬が批判した「思想やイデオロギー」が自分だけには当てはまらないというのは、司馬小説がさかんに読まれた昭和40年〜50年代頃の余りにも「自分だけが絶対」という排他的なアメリカイズムされた「正義の体系」に他ならのではとさえ思われ、御都合主義的な胡散臭い嫌悪感さえ感じます。

  • 司馬遼太郎は、昭和18年に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業し、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属されます。そして、帰国した後に、栃木県佐野市に入り、ここで終戦を迎えたとされています

  • そこで、高台に登り、「何故、日本人はこんな愚かな戦争をしたんだろう。」と考え、それが小説家になるきっかけだったと記しています。

  • しかし、司馬の小説やエッセイからはそれを読み取ることはできません。当時の資料から考察したいと思います。


2007年03月23日(金) 15:20:29 Modified by yuyu122222




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