校了を目指しての作業のまっただ中、春希の携帯が鳴った。みると、保育園での春華の同級生の母からの着信だった。春希は急いで通話ボタンを押した。
「はいもしもし、北原です。」
「ああもしもし、北原さん? 春華ちゃんパパ? 鈴木です……。」
「ああはいはい、鈴木さん――陽ちゃんママ、いつもご苦労様です。今度の旅行の件ですか?」
「ええ……そうなんですけどね。ちょっと、ご相談……というか、春華ちゃんパパのご希望を聞いとかなきゃいけないことが起きて……。」
「――はい? 何でしょうか?」
「実はね、今度の旅行、水野さん――武ちゃんパパも、それからうちの鈴木も行けないことになっちゃって……。パパたちの中でお出でになるの、北原さん――春華ちゃんパパだけになっちゃったんです。」
「――えっ……。私ひとり、ですか……。」
「そう、ひとり。パパたちの中で今度こられるの、北原さんひとりなの。あとは子どもたち以外ぜーんぶママたち。唯一の成人男性。しかも、せっちゃんいないし……。」
「――それは、その……まいったな……。でも、子どもたちは楽しみにしてるんですから、行かないわけにはいきませんよ――。」
「そりゃもちろんそうですよ。でも、雪ちゃんはともかく、春ちゃんももう大きいから、何だったらあたしたちが子どもたちだけお連れしてもいいんですよ。北原さんだって、この時期お忙しいんでしょうし……。」
「ええ……その……。」
 ――正直、これは参った。

 北原家の小さな姉妹、春華と雪音が通っている保育園は、雑居ビルの1階に間借りした、いわゆる無認可保育所だった。無認可とはいっても、熱心なオーナー経営者の園長の下、都の補助を受けた認証保育所として保育の質は悪くなかったし、何といっても、割り増し料金を払えば夜遅くまで預かってもらうこともできるのが、フルタイムで共働きの若い二人には魅力だった。そのため北原家は、上の春華が1歳の頃から、もう5年近くこの保育園のお世話になっている。春華は今度の春には小学校に上がるが、下の雪音はもうあと2年はこちらに通う予定だ。
 園庭もなく、外遊びは近所の公園と路地裏を利用するしかない小さな保育所なので、園児の数も1学年数名と少なかった。それゆえ自然とアットホームな、手作り的な運営となり、行事の運営や寄付金集めなどを通じての、親同士の交流も密となった。とりわけ春華の学年の親たちの間の仲はよく、毎年1回は親子が参集して、1泊旅行に出かけることが恒例となっていた。
 忙しい働くママパパたちのこと、毎度のスケジュール調整は難航し、今年はどういう訳かみんなが忙しいはずの12月半ばの週末に、伊豆の温泉ホテルにお泊まりということに落ち着いた。しかしながらやはりこの時期は急な案件がどこでも浮上するようで、パパたちを中心に欠席の知らせがこの1週間でダダダダッと舞い込んできた。
 春希の場合は片親であるから、自分がダメなら連れて行く者がいなくなる。(いくらなんでも、こういう集まりについてまで、小木曽の義母やかずさを頼るわけにはいかない。)そこで上役の靴をなめ、部下たちを拝み倒し、担当する作家の皆さんに平謝りでスケジュール調整をお願いし、万難を排して無理矢理にその週末を空けたのだ。
 ――しかし、パパは俺ひとり……? あと全員ママさんたち? しかも、雪菜がいないのに? 
 武也ならぬ身としては、背筋を冷や汗が伝うのを止めることはできなかった。

「かんぱーい!」
 ――伊豆の温泉ホテルの1室で、5人のご婦人たちプラス1はビールのグラスを高く上げた。
 下は2歳児から上は小学2年生まで含めて9人の子どもたちを無理矢理寝かしつけた時には、10時を有に回っていた。既にママたち(プラスパパひとり)の疲労は極に達していたが、その分テンションも妙に上がっていて、まだまだ眠る気にもなれなかった。
「やー、しかしくったびれたねー! もうそろそろあたしこういうのは身体がついてかないわー。」
 ママたちの中で最年長の武ちゃんママ、水野さんが嘆息した。とある中央官庁の課長級職で、バリバリのキャリア官僚である。本人の言によれば「そこそこ地位が上がって、部下に雑用を押しつけて早くうちに帰れるようになったので、子供を作った」とのことで、仲間のママパパたちより一回り年かさだが、ママとしてはまだ新米で、こどもも武ちゃんひとりだ。
「もひとり産みたいとこだけどさー、こんなんじゃこっちの寿命が縮んじゃうかもー。それにいま産んだって、その子が成人する頃にはあたしも夫も定年だよ。このご時世じゃ天下りだってどうなることやら……。」
 冗談めかして愚痴る武ちゃんママに、
「そこはあなた、そんなけちくさいこと言わないでさ、うんと出世して、国の子育て支援政策とかもっと充実させてよ。何だったら役所おん出て、政治家にでもなるとかさ。」
と軽く突っ込んだのは陽ちゃんママ、鈴木さん。夫共々、都内の私立中高の教師をしている。明るくて面倒見がよく、このグループではリーダー格だ。北原家同様、陽ちゃんこと陽子と、妹の晴子の二人を園に通わせている。
「そうそう、初産じゃないんだし、まだ45までは余裕でいけるって。むしろここが最後のチャンスだと思って、バーンと行きなよ。」
と煽るのはともちゃんママ、バツイチのシングルマザーで、ベテラン看護師長の柊(ひいらぎ)さん。この仲間内では水野さんに次ぐ年長で、女手一つで小2の優君と、年長さんの友樹君を育てている。
「無責任なこと言って……それにあたしはたぶん出世しないよ。上に気に入られてないからね……。」
 水野さんが苦笑いを浮かべる。
「いやそれだったら、それこそ政治家にさ……。」
 亮君ママ、派遣社員の本田さんが言いつのったが、
「あたしが気に入られない「上」ってのには議員のセンセイ方もはいってんるだよ……。入れてくれそうな党を思いつかないね。」
と水野さんはグラスを振った。
 と、そこで、
「そうそう!」
と手を挙げて話の腰を折ったのはのりちゃんママの坂部さん。「生涯一「空気読めない」」を自認する彼女の職業は編集者――春希と同業だ。自分で原稿も書くフリーランスの何でも屋さんで、開桜社にも出入りしている。ちなみに連れ合いは、中堅どころの漫画家さんだ。さすがに年末進行で動きが取れなかったのだろう。
「春希君、チケットいただきました。ありがとうね! 冬馬かずささんにもよろしくね! 紀子ともども、楽しみにしてます!」
「――っ! ど、どうも……。」
 不意に名前を呼ばれて、春希はビールをこぼしそうになった。「空気を読めない」と言うよりわざと「読まない」坂部さんは、雪菜が春希を「春希君」と呼ぶのを聞いて以来、どこがツボったのか知らないが、開桜社ではおくびにも出さないが、この仲間の集まりでは「春希君!」を連発して、そのたび雪菜を爆笑させたものだった。悪気はないんだろうが心臓に悪い。しかも今回はかずさの名前まで出されたものだから、狼狽してしまった。ちなみに雪菜のことは「せっちゃん」だった。おかげでこのグループでは雪菜の呼び名は「春華ちゃんママ」でなければ「せっちゃん」になってしまった。
 まあもちろんこれは、「女の中に男がひとり(しかもほとんどは人妻で自分はやもめ)」で居心地の悪い思いをしている春希に対する、彼女一流の気の使い方であることはわかっていた。しかしこれはこれでばつが悪い……。
「ああそうだそうだ、あたしもいただいたんだ。昨日届いてましたよ、ありがとう。――今回は、みんなもらってるのかな?」
 水野さんがみんなを見回した。
「うん。」
「あたしも――。」
 皆が唱和する。
「1年半ぶりだよね、冬馬さんの「親子コンサート」……司会は、どなたにやっていただくの?」
と坂部さん。
「柳原朋さんです……雪菜の親友でしたから。」
「ああ……お葬式の時、歌ってくださってたねえ。」
と本田さんが目を細めた。

 思えば「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」のそもそものきっかけは、この保育園にあったと言ってもよい。何の偶然か坂部さんはSETSUNAの、そしてクラシックオタクの本田さんはかずさのファンだった。この二人と雪菜の出会いが、ナイツレコードの「冬馬番」である雪菜に親子コンサートとそれを基にしたアルバムの企画を思いつかせ、冬馬オフィスと開桜社に持ちかけて実現させたのである。曜子社長はそれほど乗り気でもなかったが、「春華みたいな小さな子にも、ピアノを聞かせてあげる機会があると面白い」というかずさの熱意もあり、異例な企画が軌道に乗っていった。最初は小学生以上に限定し、普通のホールで行ったが、やがては対象年齢を幼稚園児にまで拡大して、防音の親子ルームや託児スペースが利用できるホールで展開するようになった。そんな中でもともとクラシックにはそれほど詳しくなかった雪菜は、「マーケットリサーチ」と称してしばしば本田さんの意見を聞き、企画を立てる際に参考にしていた。
「雪菜がなくなってから最初のコンサートですから、雪菜のママ友の皆さん全員を、今回はご招待します。ご都合がついたら、是非いらしてください。今回のホールは、親子ルームも結構広いですし。」
「今回は、橋本健二さんがゲストなんですって?」
 さすがにクラオタの本田さんは目の付け所が違った。
「ええそうです。連弾とか、用意されてます。――亮君ママ、橋本さんのファンなんですか?」
「そりゃもちろん! ――ピアニストとしちゃ言っちゃあ悪いけど冬馬さん以上だし、それにいい男じゃなーい。」
「――ご紹介、しましょうか?」
「えー、ほんと? 是非お願いします! お花もっていきます! 色紙も! あーん楽しみだなあ……。夫は置いて行こう!」
 興奮する本田さんにみんなは苦笑いした。――普段は大いにかずさ贔屓で、かずさが子どもたちのお迎えに来たときに出会うと、緊張して真っ赤になる本田さんが、かずさより贔屓にするピアニストってどんな人なんだろう? 考えることはみんな一緒だった――春希以外は。
「――っと、ちょっと冬馬さんに失礼なこと言っちゃったなー私。ごめんなさい。もちろん、冬馬さんの演奏、とっても楽しみにしてます。柳原さんの歌と司会も。」
と気を取り直して本田さんが春希に頭を下げた。
「いえ、わかってますよ――ぼくに謝られても。」
と頭を下げ返した春希に、今度は坂部さんがたずねた。
「――そういえば……春希君、今回の旅行、冬馬さんのこと、誘わなかったんですか?」
「――はい?」
 思わぬ問いかけに、春希の思考は一瞬停止した。
「――いやもちろん、冬馬さんもとってもお忙しいんだろうけど、この1年、せっちゃんがなくなってから、冬馬さん、春華ちゃん雪音ちゃんのためにとってもがんばってたから、一緒に打ち上げたいなって……。冬馬さん、春華ちゃん雪音ちゃんに対して、親友の子どもっていうより、それこそ親戚、いやほとんど家族みたいな感じだったから。――そりゃよく考えたら、こんな仲間内にいきなりお誘いするのも変なのかもしれないけど、なんだかあたしの方でも勝手に「仲間意識」みたいなものを感じちゃってたのかな。」
と意外に生真面目に語る坂部さんに、
「おーい、のりちゃんママ、ちょっと立ち入り過ぎじゃない?」
と柊さんがたしなめた。気を取り直した春希は、
「――いや、お気になさらないでください。あいつ――いや冬馬も、かなーり人見知りなもんだから、もし誘ったとしても来てたかどうか……。」
と応えたが、坂部さんは
「いや、こっちこそ失礼なこと言っちゃって、すいません。忘れてください。」
としおらしげに頭を下げた。っと、ところが、
「――いやあでも実際、今日この場に春華ちゃんパパ――北原さんがもし来てなかったら、きっと北原さんはさんざんガールズトークの餌食っていうか、酒の肴になってたと思うよ――。」
と思わぬところから爆弾を落としてきたのは鈴木さんだった。みるともうビールから焼酎に移行し、ロックを手酌でやってだいぶできあがっている。
「あちゃー、鈴木さん、もうそんななのー? 明日も早いんだよ、大丈夫?」
と呆れる水野さんに、
「大丈夫大丈夫、中学教師の朝の強さを知らないなー? あたしなんか呑んだ翌日に朝練だの試合だのつきあわされてんのよー? こんなのどってことないさー。」
と鈴木さんはグラス振り振り笑ってみせ、
「で、春希君!」
と春希を睨みつけた。
「あなた、大丈夫ー?」
「だ、大丈夫、って、何がですか?」
「のりちゃんママの言ったことの意味、わかってるー?」
「は、はあ――。」
「「はあ」じゃない! 返事は「はい」か「いいえ」!」
「は、はい。」
「じゃあ、わかってるの?」
 春希はすっかり困り果てたが、ここは適当にかわしてもあまりいいことはなさそうだ、と観念した。
「わかってる――と思いますよ。」
 すると鈴木さんは
「――んー、じゃあ、よろしい!」
と意外とあっさり引き下がった。そして
「本人がいるところじゃ、罪のないうわさ話になんないしね、今日は勘弁したげる!」
と言って一息ついた。
「――だあってさあ、せっちゃんもすっごくきれいで、かわいい人だったけど、冬馬さんもかわいいし、なんだかいじらしくて、見てると切なくなってきちゃうんだよねーわたし。冬馬さんみたいな人にあんな顔させるなんて、春希君ってもしかしたら、ものすごい悪人っていうか、ひどい男なんじゃないかなー、とか思っちゃってさー。」
「おいおい勘弁したげてないじゃない、春華ちゃんパパもう充分針のむしろだよー。」
と柊さん。
「おおっと失言失言。ってわたしきょうは失言しかしてない? ……失礼しました。――うん、大丈夫だよねー。せっちゃんの、ダンナさんだったんだもんねー。」

 ――まあ、たしかに針のむしろではあったが、どっちかというと来てよかった。

 春希はそう独りごちて、
「うん、大丈夫です。――お注ぎしますよ先生。」
と鈴木さんに向けてボトルを差し出した。鈴木さんは満面の笑みで再び、
「うん、よろしい!」
と言ってくれた。





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ss色々あり、様々に良いモノもありますが、長編なので手を付ける事に少し躊躇いもあったこのss。
品質の高さに驚いてます。

0
Posted by のむら 2016年06月06日(月) 07:45:48 返信

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