成田空港を飛び立った飛行機は、高度10000メートルで安定飛行に入り、
私は窮屈なシートベルトをようやく外す事が出来た。

今回の仕事に10年近い準備期間を費やしてきた杉浦小春は、
日本を立つ前に編集長に辞表を提出した。





「なんだ、これは?」

見ての通りです。

「どういうつもりか…って愚問か…」

はい。

「私があれだけ止めても、お前は書くんだな?」

はい。

「なら、最後にもう一回。これはお願いだ。
冬馬かずさを…いや北原春希を調べるのはやめてやってくれ。」

麻理さんの頼みでも、これは譲れません。
あんなにいい人達がどんな罪を犯せば
10年間も苦しまなきゃいけないんですか?
納得できません。
私はあの人達の笑顔を取り戻すため、ずっとずっと調べてきました。
大学に入ってからの10年間。それこそ全てを傾けてきました。

「…分かった。だがこの辞表は、預かっておく。
お前がどんな事を見て、どんな答えを出し
どんな記事を書くのか。それを見た上で私が判断する。」

麻理さん…

「売れない記事しか書けないようならクビだ。
小麻理の名前も返上してもらう。」

…ありがとうございます

「馬鹿野郎、礼を言うのは全て終わった後だ。」

はい。




これはお前達の選択の、もしかしたら最後の禊かも知れないな。
北原、今のお前になら…お前達なら耐えられると。
全て受け入れた上できちんとケリをつけられると。
信じてる。

NYで出会った二人を思い出しながら、
麻理は静かに眼を閉じた。

小春も私の大切な部下だ。
だが私は今回の件について何も情報を与えていない。

分かるか?

今でもお前は私の大切な部下なんだよ、北原。

二人ともが乗り越えられる事を信じている。






冬馬かずさの元に北原春希はいる。
その確信は大学時代から小春の中にあった。
関わった人間全てが一様に口を閉ざし、
一切の痕跡を消してしまった北原春希。

最後に痕跡が残ると思われた開桜社でも状況は同じだったが、
バイトとして潜り込んで調査を続けるうち、
NY支部から帰国してきた新編集長。

彼女に目を掛けられ、小春はそのまま開桜社に入社した。
小麻理と言う二つ名は入社一年目には定着し、
麻理も公然と愛弟子として扱った。

それでも片時も忘れなかった。いや忘れる事なんて出来なかった痕。
彼女の友人から笑顔を奪い、関わった人達全てに暗い影を未だに落とす。
一時は敬愛していた先輩。だからこそ、小春は許せなかった。
許す事なんて出来なかった。

なんの前触れも無く忽然と姿を消した北原春希。

婚約していた彼女をあっさりと捨てたことから考えても
冬馬かずさの元にいると考えるのが妥当だし、
それ以外の選択肢は無かった。

小春は自分の立場を最大限利用し、情報を集め記事を起こした。
下らないゴシップになる可能性がとても高かったが、
それでも今出来る事を最大限にやり終えた。


後は、本人に会うだけ。


責任の伴う社会人として、あくまで表向きは冬馬かずさの独占取材。
しかしメインターゲットは北原春希である。
勿論アポイントは取っていない。
逃げられる事が明白だから。
あの男はきっと逃げるから。

あの男を直撃する。
首に縄をつけてでも日本に連れ帰り
贖罪をさせる。

その為にどれだけ時間がかかろうが構わない。
社からの援助が打ち切られた時のため、貯金もしてきた。
どんな長期取材になっても構わない覚悟である。




「Bitte um Ihre Aufmerksamkeit.」




ウィーン国際空港が眼下に近づいてくる。
一面の銀世界に目を細めつつ、緊張の度合いが増すのを小春は感じていた。

ホテルにチェックインすると、早速準備に入る。
まずは事務所かな。

本来は冬馬かずさの自宅を急襲したいところであったが、
そう簡単にプライバシーは漏れ出る筈も無く。
しかも鉄のカーテンと呼ばれた、難攻不落のアーティストである。

7年前の師匠の単独インタビューは、今でも伝説になっている。
どうやって攻略したかは企業秘密として、弟子にも教えてくれなかったけど。

HP上にもメールアドレスしか載ってはいないが、
日本の事務所に数ヶ月食い下がって、電話番号だけ聞き出す事に成功していた。
電話番号をダイヤルする。

一回

二回

通じたと同時に聞こえてきた声。
反射的に電話を切ってしまった。

間違いない。
それは北原春希、本人だった。

乗り込むしかないな。
長期戦になる覚悟を決めた。





「誰からの電話だ?」

「分からない。何も言わず切られたよ。」

「そうか。それで春希、本当に行くのか?」

「あぁ。取り敢えず、フランス公演がこのままだと暗礁に乗り上げる。
俺が行って陣頭指揮とってくるよ。
かずさはギリギリまで家で調整してくれ。」

「そんな事を聞いてるんじゃない。
私が言いたいのは、私を一人にする気かって事。」

「…約束しただろ?
俺は何があってもかずさと一緒だ。
もし俺が居ない時。それはお前の為に何処かで戦っている時だ。
安心しろかずさ。俺は何処へもいったりしない。」

捨てられる子犬みたいなかずさの頭を、ぐしゃぐしゃに撫でてやる。
涙目で、しかし嬉しそうに目を細める。

「分かった。お前がそう言うなら、私は私の出来る事をやり遂げる。」

すっと立ち上がる。
艶やかな黒髪が、音を立てて流れる。

美しい。

整った顔立ち、完璧なボディライン。
余りに非の打ち所の無い彼女は、、
知らない者が見たならば、その神々しさ故近づく事すら憚られる。
しかしその実、情熱と闇をその皮膚の下に脈動させて。
アンバランスさがその魅力を果てしなく増幅させている。

ゆっくりと春希の上に覆いかぶさりながら呟く。

「今はお前の匂いを、私に刻んでくれ。
そうすれば、永久の時もお前を待つ事が出来る。」





一週間後、小春はとあるマンションを探し当てた。
表から中は窺い知る事は出来ないが、
あらゆる可能性が、この豪華なビルの最上階に
雪馬曜子オフィスがある事を指し示していた。

ビジネス用途でない為受付もなく、従ってドアチャイムを押せば即ち開戦である。
最上階は一室しかない。

意を決してチャイムを押した。

………
……



反応が無い。
む〜

もう一回

もう一回


もういっk

「五月蝿い!」

就職してから散々叩き込まれ、自分の血肉となっていた
ビジネスマンとしての杉浦小春は、瞬間吹き飛んでいた。

先輩!北原先輩!
どうしていなくなっちゃったんですか!
みんなみんな、苦しんでいます!
先輩が裏切った事も勿論です!
でもでも、先輩がいなくなっちゃった事が
苦しいんです!悲しいんです!

お願いします、会って下さい!










ドアが音も無く開く。









え、あ、あの、ごめんなさい。
私取り乱しちゃって…

涙と鼻水でぐしゃぐしゃである。

抑揚の無い声がインターフォンから流れる。
「春希に会いに来たんだろう。」


促されるまま小春は部屋に向かった。






「泣いてないで座んな。」

持て余し気味な表情で、初対面の冬馬かずさは告げる。
そうしようと思っても、心と体が反応できない。
10年間、されど10年間である。


「あーもう、しょうがないなぁ。」


小学生のように泣きじゃくる、どう見ても20代後半の女。
人の事は言えないとは思いつつ、いざ自分が対峙すると
これ程面倒くさい物か。
こんな時、春希なら…

あらゆる事に経験値が不足しているかずさにとって、
新たに学ぶ事の全ては春希が教科書となっている。
かずさは小春の頭を優しく抱きかかえると
右手でわしゃわしゃと撫で始めた。




十数分後、泣きはらした真っ赤な目をしながら
小春はなんとか落ち着きを取り戻しつつあった。
普段は絶対にしていないだろう、覚束ない手つきで淹れて貰ったコーヒーに
口をつける。

ありがt…

吐き出しそうになるのを何とかこらえつつ、辛うじて礼は言えた。

これは…何!?

流石に問うわけにもいかず飲み込んだ台詞の代わりに、
口から搾り出したのは社会人らしさをトッピングしたお詫びと挨拶。

「いいよ。お前も私達の、いや私の被害者なんだろ?
そんな通り一辺倒な台詞はいいから、早く私を罵り罵倒してくれ。」

そんな簡単な物じゃありません。

「そっか。ならどうしたら気が済む?
私をここで殴るかい?」

違います。
私がここに来た目的は北原春希を日本に連れて帰り、
罪を償わせる事。

「それは無理だな。」

無理だなんて言わせません。
関わった全ての人達に罪を償ってもらいます。

「具体的にどうやって?」

それは分かりません。
そもそもそれを考えるのもあの男の役目の筈です。

「ふーん。」

な…なんですか!?

「この10年間、贖罪しろって言ってきたのはお前だけだった。
別にそれ自身は考えていた事だ。
だけどお前は明らかに間違ってるんだな。」

ふざけないで下さいっ!

「ふざけてなんていないさ。だって謝って欲しいのは、
贖罪して欲しいのは他ならぬお前なんだろ?」

!?

「他の人間たちはどう思ってるか知らない。
どう思われても仕方ない。
だけど他人の代弁者を気取って
自分の気持ちを押し殺してる。
お前は滑稽でそして間違っている。
お前は雪菜に頼まれたのか?
お前は部長に頼まれたのか?
お前は依緒に頼まれたのか?」



うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!




小春は自分でも信じられない勢いで、
冬馬かずさの顔を引っ叩いた。
何度も。

貴方に何がわかるんですか!
こんな世界の果てで
何度も
愛する人とぬくぬくと引きこもって!
理由も分からず大切な人をいきなり失った私達の!
何度も
私の10年間の苦しみを悲しみを分かった様に言葉にするな!!!!

返せ!
返せよっ!!!

私の大切な人を!
私の大切な先輩を!!!

「気が済んだか?」

っ!?

気がつけば冬馬かずさの口からは鮮血が滲んでいた。




「お話にならない。あれは私の物だ!」




小気味良い音と共に小春は吹っ飛んだ。








あいつはね、一言も根をあげなかったんだ。
私を護るってその約束律儀に守って。
言葉も覚束ない異国の地で。
母さんが倒れて、コネも何もかもなくなった状態から
春希はそれこそ血の滲む様な努力で
開拓し、交渉し、私のピアノを世界中に流してくれた。
でも絶対泣き言なんて言わなかった。
いえる筈も無かったんだけどね。

全てを捨てるってのはそういう事だったんだ。
いくら覚悟してても…ね。
だから私はあいつを死んでも護る。
あいつが世界中を敵にまわしても
私は死んでもあいつを支える。

全てを捨てさせた女の
決して口に出せない償いなんだ。

ポツリポツリ語った冬馬かずさの笑顔は眩しくて。
私は何も言えなくなっていた。

グラスが空になると
冬馬かずさは泊まっていけと告げた。
もう数日したら先輩がフランスから帰ってくるからと。

私はそれに及ばないと告げ、
翌日日本行きの飛行機に乗った。





麻理さんは何も聞いてこなかった。
取材に出掛けた筈の私は、
何故かリフレッシュの為、編集長命令で静養に行っていた事になっていた。


私は少しだけ大人になった

あとがき

小春はかぁいいね
転載一部改修 Jakob ◆VXgvBvozh2

このページへのコメント

水沢ですな。

0
Posted by のむら 2016年05月30日(月) 16:45:45 返信

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