第22話



2−3 春希 開桜社 4月5日 火曜日




開桜社編集部。いつものように活気に満ち溢れ、せわしなく人が行き来している。
麻理さんがNYへ異動して一月が過ぎ去ったが、麻理さんがいたという形跡は
人の記憶にしか残っていないんじゃないかって思えてくる。
たしかに麻理さんが残していった武勇伝はみんなの記憶に刻み込まれはしているが、
企業としての開桜社からしてみれば、
麻理さんの功績などほんの数滴の雫にすぎないのだろう。
だから、もし俺が明日から編集部に突然来なくなったとしても、
編集部は動き続けると確信できる。
おそらく松岡さんや鈴木さんあたりはねちねちと不平を訴えるだろうし、
浜田さんもスケジュール調整に大あらわになってしまうことだろう。
しかし、それも数日も経てば、北原春希がいた形跡など開桜社からは消え去り、
ほんの数人の編集部員の記憶の片隅にへばりつくのがやっとだ。
もちろん、仕事帰りの飲み会で、俺の悪事を肴に盛り上がるかもしれないが、
それも一月も経てば麻理さんの存在と同じように、
北原春希がいないことが日常になってしまう。
少し感傷的に編集部内を見渡していると、松岡さんと目がかちあう。
俺の事を訝しげに見つめてくると、すぐさま俺の仕事を手伝えを訴えてくる。
だから、俺は曖昧な笑顔を向け、この後松岡さんの仕事を引き受けますと顔で返事をする。
仕事が一つ減った、いや三つ以上盛られる気もするが、
松岡さんは機嫌よく今ある仕事に戻っていく。
俺は、そんな「いつもの編集部の風景」を少し感傷的に体感すると、
決意を胸に上司である浜田さんのデスクへと向かった。

春希「浜田さん。少しお時間いいでしょうか?」

浜田「さっき渡した仕事に不備でもあったか?」

浜田さんから渡された仕事は、まだ半分も終わってはいない。
通常運転の俺ならば、もしかしたら終わっていたかもしれないが、
いつもの俺ではない俺にとっては、半分も終わったと言える。
でも、そんなことを伝えに上司の元にきたわけではない。
そして、浜田さんも俺のただならぬ雰囲気を察していた。

春希「いいえ、特に問題はありません」

訝しげに見つめるその目に、俺は言葉で態度を示さなければならない。

春希「会議室でお話しできないでしょうか?」

浜田「わかった」

そう短く返事をすると、浜田さんは無言で会議室へと進んで行く。
意外すぎるとほどあっさりと二人きりになれたものだ。
おそらく俺のただならぬ雰囲気から、なにかしら嗅ぎとってくれたのかもしれない。
途中、松岡さんや鈴木さんがなにがあったのか教えてくれと目で訴えてはきたが、
今は何も言えず、俺も無言で浜田さんを後を追うことしかできなかった。
あいにく小会議室は、他の本物の会議で使われており、
俺達は大会議室の片隅で向かい合うことになる。
時折廊下から聞こえてくる元気な声をよそに、大会議室は冷えきっていた。
これから話さなくてはいけない事を思うと、
寒さだけが俺の口を重くしているわけではないことは明らかであった。
俺は、これから浜田さんを裏切らなければならない。
それは決して開桜社の規則を逸脱する行為ではないにしろ、
浜田さんからの信頼を傷つける行為に他ならなかった。
俺は、手にしていた開桜社の規則本を広げ、広すぎる会議室に冷えきった声を響かせた。

春希「入社前海外研修制度を使いたいと考えています。
   規定によれば、内定者が申告することによって利用できると書かれています。
   もちろん厳しい審査があるみたいですが」

浜田さんは俺の顔を見やると、すぐさま規定が描かれている冊子に目を落とす。
ただ、冊子にかかれている内容を読んでいるみたいではなかった。
たんに入社前海外研修制度のページである事を確認したくらいだと思えた。
しかし、浜田さんがこの制度を知っているとは思えないが。

浜田「はぁ・・・」

浜田さんのため息が、ひっそりと漏れ出る。
覚悟をしてきたとはいえ、浜田さんの心情は手に取るようにわかってしまいそうで
それがかえって、俺を辛くする。

春希「自分の直属の上司になってくださったばかりだというのに、申し訳ありません」

浜田「はぁ・・・」

二回目のため息が俺の心にさらに重くのしかかる。

春希「すみません。でも、どうしてもNYに行きたいんです」

包み隠さず全ての事情を打ち明ける事は出来ないが、
情報開示を拒んで駆け引きをしている時間などはない。
俺は、駆け引きこそ浜田さんを裏切る行為に思えて、
開示できる情報は初めから全て開示するつもりでここにやってきていた。
頭を深々と下げて、浜田さんの返事を待っていたが、
俺を出迎えたのは三回目のため息であった。

浜田「はぁ・・・・・・」

俺は、さすがに不安に思えて、頭を上げると、さらに四度目のため息を目撃してしまい、
今日ここで行われるべき裏切り行為のシミュレーションとは違う方向へと
動きだしていることに、ようやく気がつく事が出来た。

春希「浜田さん?」

俺の呼びかけに、五度目のため息で返事をすると、浜田さんはようやく重い口をあけた。

浜田「風岡の言っていた通りだな」

春希「えっ?」

浜田さんを驚かす発言をするつもりで来たというのに、
結果としては俺の方が驚かされてしまう。
たしかにNYへ行きたいと言えば、麻理さんのことも話題にはなるが、
麻理さんが入社前海外研修制度について浜田さんに言っていたとは予想だにしていなかった。

浜田「だからな、北原はスケジュールがあわなくて、風岡が最後の引き継ぎに来た時には
   会えなかったけど、その時風岡が冗談っぽく言ってたんだよ。
   北原の事だから、この制度を使って、もしかしたらNYに行きたいって
   言うかもしれないってな」

春希「麻理さんが・・・」

浜田「俺もさすがに冗談だと思ってたけど、風岡の読みはさすがだな」

俺は、驚きを隠せない。
浜田さんが知っていたというよりは、むしろ麻理さんが俺より先回りして
行動を起こしていた事に驚き、そして、嬉しくも思えてしまう。
どこまで俺を知り尽くしているんだよ。
俺をNYへ来させるために誘導していたのなら、別の反応をしたかもしれないが、
入社前海外研修制度を使うことに、ピンポイントで思い付くあたりがすごすぎる。
やはり仕事の上では、まだまだ追いつく事は出来ないかな。
まあ、仕事そのものじゃなくて、裏工作みたいなものだけど。

浜田「一応聞くけど、俺の下が嫌って事での申請か?」

春希「違います。今は詳しい事を言うことができませんが、けっして浜田さんの下が
   嫌というわけではありません」

浜田「お前らしいな。こういうときは、嘘でも適当な理由をでっちあげればいいのに」

春希「そんな見え透いた嘘をついても、意味がないじゃないですか。
   誠意というわけでもないですが、浜田さんには、とても感謝しているので
   嘘はつきたくはなかったんです」

浜田「でも、本当の理由は言えないわけか・・・」

春希「はい。それだけは、すみません」

浜田「まあ、いいよ。風岡もその辺の事情についてははぐらかしていたしな。
   一応このまま編集長に話しておくよ」

春希「ありがとうございます」

浜田「でも、俺もこんな制度聞いたことないし、使ってるやつなんて今までいるのか?」

春希「さあ? 俺もついこの間まで忘れていたほどですし」

浜田「いくら制度上あったとしても、形式的とまでは言わないけどさ、
   前例がないと厳しいんじゃないか?」

春希「そうですよね。俺もそれだけが気がかりで・・・・・・」

俺も浜田さんも苦笑いを洩らすだけで、どうもこの制度の実効性に不安を覚えてしまう。

浜田「風岡の事だから、編集長にも根回ししていたりしてな・・・・・・」

浜田さんはそうぽつりと呟くと、豪快に笑おうとするが、俺の顔を見ると
笑うことができなくなってしまう。
俺が真剣な表情をして批難したわけではない。
むしろ、浜田さんの発言に同意している。
だから、浜田さんが冗談っぽくいった「風岡のことだから」が
あり得る事態だと実感してしまったわけで。

浜田「まさかな・・・」

春希「いや、あの麻理さんですよ」

浜田「でも、ありえるのか?」

春希「ありえるんじゃないですかね」

浜田「前例がないかもしれないんだぞ」

春希「前例がないんなら、制度の正当性と将来への投資を訴えそうですね」

浜田「はは・・・・・・」

乾いた笑い声が低く響くが、俺も浜田さんも笑うことなどできやしないでいた。
なにせ、前例がなくてもやり遂げるのが風岡麻理だ。

浜田「どう思う?」

春希「何がです?」

浜田「風岡がしっかりと根回しできているかだ」

そうですよね。それしかないとわかっているけど、聞かずにはいられないです。

春希「編集長が話を聞いていれば、根回しは完了しているでしょうね」

浜田「そうだな。だったら、編集長はすでに知っていると思うか?」

春希「もし賭けをするなら、編集長が知っているに全財産かけますね」

浜田「それだと賭けにならないだろ」

春希「ですよねぇ・・・・・・」

浜田さんが知っている時点で、全てが動き出していると判断すべきか。
もしかしたら、他にも手をうってるかもしれないけど、
その全てがNY行きと関わっているとは思えない。
むしろ逆方向の対策こそ入念に根回ししていると俺は確信できる。
NY行きを可能にする方法は、おそらくこれ一つ。
だったら、俺は、麻理さんとの賭けに勝ったってことか・・・・・・。
これは、喜ばしい事だけれど、それと同時に、選んではいけない選択だったのかもしれない。

浜田「なあ、いつからNYに行こうと思ったんだ?
   NYに行きたいだなんてそぶりみせていなかっただろ」

浜田さんは、もうNYにいる麻理さんと勝負をしても勝ち目がないと諦めたのか、
目の前にいる比較的組みやすい俺へと目標を変えたらしい。

春希「昨夜思い付いつきました」

浜田「は? 嘘だろ。もし思い付きののりでNYに行きたいだなんていうんなら
   風岡が何を言っても、俺は認めないからな」

春希「のりでとかそういうんじゃないです」

浜田「だよな。お前はそういうやつじゃないし」

春希「ありがとうございます。NYに行きたいと思ったのは昨夜なんですけど、
   将来を考えたら、今しかないと思いまして」

麻理さんとの将来。そして、かずさとの将来を考えたら、今行動しなければ遅すぎる。
それがけっして皆が認めてくれるような結末ではないとしても。

浜田「若いうちしか無理はできないからな。
   まあ、考えようによっては、今NYに行くのはキャリアを考えれば最善かもな。
   運がいい事にNYには風岡もいるし、
   向こうでの仕事もスムーズに入っていけるだろう。
   それに、だな。俺もお前の事を評価しているんだぞ」

春希「はい、恐縮です」

浜田「もしこれが松岡みたいなやつが申請してきたら、説教して、
   この場で申請を却下していたところだ」

春希「松岡さんだって、やるときはやる人ですよ」

浜田「それは、最近になってようやく危機感を覚えたからやるようになっただけだ。
   しかも、その危機感も、危機に陥ってるのに慣れてしまって、
   緊張感がなくなってきてるんだよなぁ」

浜田さんは編集部の方をちらりと見やると、
小さく今日何度目かわからないため息を漏らした。

春希「そ・・・それは、また新しい危機感を感じればきっと」

浜田「そうだといいんだけどな。風岡がいなくなって少しはやる気を見せてくれたのに
   一カ月もたたないうちにだらけやがって。
   今度北原がNYに行ったら、
   また一カ月くらいは危機感を持ってくれればいいんだけどな」

それはご愁傷様です。
松岡さんも悪い人じゃないんだけど、浜田さんの気苦労を知ってるはずなのになぁ。

浜田「それで、いつから行く予定なんだ? 大学の方は大丈夫なのか?」

春希「一応8月からNYに行こうと考えています。
   卒論もそれまでに終わらせますし、
   卒業に必要な単位も前期日程で取り終わる予定です」

浜田「そうか。それなら、編集長にその旨も伝えておくよ。
   話っていうのは、これだけか?」

春希「はい」

浜田「そうか。今度からは、もうちょっと早い段階から相談してくれよ」

春希「すみません」

浜田「風岡みたいにはいかないけど、一応お前の上司なんだからさ」

春希「はい」

少しさびしそうに編集部に戻っていく後姿を見ると、松岡さんだけでなく
俺も浜田さんの気苦労の一つであるんだと実感でき、少し嬉しく思えてしまった。








2−4 春希 春希自宅 4月5日 火曜日 19時前




今日は、夕方から用事があると言って、早々にバイトを切り上げていた。
実家に行き、母に引っ越しの了解を取らなくてはならない。
そして、麻理さんにも今週末にNYへ行く事を伝えねばならないでいた。
いきなりNYに行ったとしても、忙しい麻理さんの事だから会う時間が取れないとなると
何のためにNYに行ったのかわからなくなる。
そう考えると、火曜日という時点は、麻理さんが時間を調整できるギリギリのライン
ともいえるかもしれない。
NYとの時差は13時間だから、今は朝の6時前ってところか。
今の時間帯なら起きているはずだから、ちょうどいいかな。
・・・っと、電話をする前に、実家の鍵を探さないとな。
麻理さんと落ち着いて話をする為に自宅に戻ってきたともいえるが、
一番の理由は実家の鍵を取りに来ることであった。
実家の鍵なんて、実家を出てから一度も使っていない。
なによりも普段持ち歩く事もなくなっていた。
だから、実家に行くのならば、机の引き出しに無造作にしまいこまれている実家の鍵を
探し出さなければならないでいた。
厳重にしまいこんでいたのなら、念入りにしまいこんでいる分、わかりやすい場所に
鍵があるのだが、いかんせ机の引き出しに鍵がおさまるスペースがあったから
そこに無造作に入れていたとなると、その場所の印象は薄すぎる。
むろん鍵の存在を忘れる為に、意図的に行った行為なのだが、
今となってはその時の自分を呪いたいほどだ。
いつか使うかもしれないのに、それを母のと繋がりを消す為に、
子供じみたことをするなと、今の自分なら、何時間も過去の自分に説教できる自信がある。
もちろん過去の自分もその説教にまっこうから反論しそうだからやっかいだな。
俺は、過去の自分と今の自分が言い争っている光景を思いう浮かべ、
思わず苦笑してしまった。
と、誰もが遭遇したくない光景を妄想しつつ
机の中につまっている荷物を丁寧に机の上に並べていくと、ほどなく鍵は見つかる。
やっぱここか。予想通りの場所にあったことに、自分の諦めの悪さに再び苦笑する。
実家の鍵を忘れようとしても、実家の母を忘れようとしても、
どうしてもそれを忘れることができないと実感した瞬間でもあった。

さて、次は麻理さんか。
はたして麻理さんは電話に出てくれるだろうか?
佐和子さんから麻理さんの現状を聞かされていると、知っているはずだ。
だから、お互いなにか気まずい気がする。
電話の呼び出し音が鳴り始め、10コールくらいで出なければ諦めようかなと
デッドラインを心に決めかけたとき、それは無駄だと実感した。

麻理「もしもし」

春希「あ、あの・・・」

こんなにも早く麻理さんが出るとは思わなかった。
だって、まだワンコール目も鳴り終わってないぞ。
いささか気まずい雰囲気を自ら作り出してしまった事を後悔していると、
麻理さんは俺のそんな気持ちを気にする事もなく、話を進めていってくれた。


麻理「私がいなくなって、おはようの挨拶もできなくなったの?」

春希「いや、そんなことは。おはようございます。
   でも、こっちはこんばんはですね」

麻理「そうだったわね。電話だから、ここがNYだなんて忘れそうよ」

春希「はい。いつも俺の側で仕事の指示を出してくれている状況だと、
   錯覚しそうになってしまいます」

麻理「そうね。でも、この距離はゼロにはできないのよね」

春希「はい・・・・・・」

麻理「で、なんのよう? って、佐和子から聞いているんでしょ?」

春希「はい。今日は、NYに行く日を速めた事を伝えようと思いまして」

麻理「え?」

春希「ゴールデンウィークに行く予定だったのを前倒しにして、
   今週末に行く事にしました。もし麻理さんの予定が会わないのでしたら
   また変更します、ただ、元のゴールデンウィークの日程に戻すのは無理でしょうけど」

さすがに今さらゴールデンウィークを再び休暇にしてくれとは言えない。
俺と交換してくれた人の喜びようを見ると、どれだけゴールデンウィークに休暇を
とるのが難しいかが知ることができた。
それなのに、俺の都合で、それをなしになどできやしない。

麻理「それは大丈夫だけど、今週末っていうと土曜日あたりにくるのかしら?」

春希「金曜日の夕方に着く便があればいいかなって思っています。
   このあと佐和子さんに連絡してみないとわからないですけど、
   きまったら麻理さんにも伝えますね」

麻理「わかったわ。佐和子には、多少は無理をしてもチケットを取るように
   お願いしておくわ」

なんだか、すっごく怖い笑顔をしている麻理さんが見えるのですが、幻想ですよね?
あまり佐和子さんに無理な要求はしないでくださいよ。

麻理「それで、北原。・・・・・・佐和子から私の事聞いているんでしょ?」

いつもの強気の発言も早々にトーンダウンし、今は一転して俺の出方を探るべく
弱気な口調に陥っていた。

春希「はい。佐和子さんから全部聞きました。
   それと、佐和子さんは最後まで秘密にしようとしてたんですけど、
   食後のギターのことも聞きました。
   これは、本当に俺が無理やり聞き出したので、佐和子さんは悪くないです」

麻理「そう・・・・・・。別に秘密にしてって頼んだわけじゃないのよ。
   たぶん佐和子が気を使ってくれたんでしょうね」

春希「そうですか。だったら、佐和子さんにもそう伝えておきます」

麻理「そうね。私の方からも言っておくけど、この後佐和子に連絡して
   チケットとるんだったら、ついでに言っておいてくれると助かるわ。
   でもなぁ・・・・・・」

春希「どうしたんです?」

麻理「うぅ〜ん・・・。あのね、北原」

春希「はい」

麻理「北原は、あの話聞いてどう思った?」

春希「どう思ったと聞かれましても、俺のギターが役になってくれているんなら
   嬉しい限りです」

麻理「それはそうかもしれないんだけどさ・・・・・・、あのね」

春希「はい?」

麻理「だからね・・・、重いとか思わなかった? 未練がましいとか」

そうか。だから、佐和子さんは、俺に話すのを躊躇したんだ。
麻理さんのかなわない思いを俺に背負わせない為に。
そして、麻理さんの思いを守る為に。

春希「そんなこと全然思ってないです。
   むしろ、麻理さんに思って貰えるなんて歓迎です」

麻理「そういうことは、思ってても言うなぁ。
   全く勝ち目がないってわかっていても、期待しちゃうだろ」

春希「すみません」

そうだよな。期待させるだけ期待させておいて、なにも叶えてあげられないんだ。
佐和子さんも言ってたな。しかも、強い口調で。
中途半端な態度は、麻理さんに失礼だ。
だけど俺は、何ができるんだろうか。
・・・・・・駄目だ。俺が迷っちゃ。

麻理「謝るな。私がみじめになるだろ」

春希「すみません」

麻理「だから、謝らないでよ。もう、自分でもみじめだってわかってるんだから
   これ以上、これ以上私を・・・・・・・」

春希「麻理さん・・・・・・」

麻理さんの声が途切れる。
受話口を手で押さえているんだろうが、それでも麻理さんの嗚咽が聞こえてしまう。
泣かせてしまった。
大事にしようって決めていたのに。
守ろうって覚悟していたのに。
それなのに俺は、今なお麻理さんを傷つけてしまう。
迷っちゃ駄目だ。覚悟を決めたんだから、今一歩踏み込むしかない。
傷つくんなら、俺も一緒に傷ついて、少しでも麻理さんの痛みを和らげなければ。

麻理「・・・ごめんなさい。ごめんね、北原」

春希「俺NYに行きますから。8月になったら、入社前海外研修制度を使って、
   NY支部に行きますから。それまで待っててくれませんか」

麻理「き・・たはら?」

春希「浜田さんから聞きました。麻理さんが根回ししてくれているって。
   俺、麻理さんとの賭けに勝ちましたよ。
   麻理さんは、俺が海外研修制度に気がつかないって踏んだみたいですけど
   俺見つけましたから。
   だから、俺の勝ちです。麻理さんがなんと言おうと
   8月からNYに行きます。その為に今週末NYに行くんですから」

電話口からは、すすり泣く声は聞こえてくるが、一時のひっ迫した雰囲気は消え去っている。
声が少しかすれてはいるが、たどたどしく麻理さんが声を紡ごうとしていた。

麻理「なに、言ってるのよ。賭けに勝ったのは、むしろ私の方よ」

春希「麻理さん・・・・・・」

麻理「北原がNYに来る唯一の方法に期待していたのは、私の方なんだから。
   もし、北原が大学や将来のキャリアをなげうってNYに来ようとしていたら、
   私許さなかったんだからね。
   絶対許さなかった」

春希「俺、間違った選択、しなかったんですね」

麻理「間違った選択にきまってるじゃない。
   北原が選ぶべき選択肢は、ウィーンにいる冬馬さんに会いに行く選択肢よ。
   だから、間違ってるに決まってるわよ」

春希「たとえ間違っていても、その選択肢を正しい結末にもっていく事は可能ですよ。
   だって、俺は麻理さんに鍛えられてきましたから」

麻理「言うようになったわね」

春希「上司のおかげですね」

麻理「そうかもね。今度その上司に会わせてくれないかしら?」

春希「今週末なんてどうですか?」

麻理「そうねぇ・・・。ちょうど予定が空いているわ」

春希「それはよかったです。俺の上司も楽しみにしているはずですよ」

麻理「食事は、オムライスがいいわね」

春希「半熟なやつですね?」

麻理「それだとうれしいわね。それと、食後には、ギターを弾いてくれるとうれしいわ」

春希「ギターも持参していきますね」

麻理「・・・・・・」

再び嗚咽が受話口から漏れ出る。
だけど・・・・・・悲壮感はない。だって、喜びに満ち溢れた声が聞けたから。
たとえ、一時の痛み止めであっても。

麻理「待ってる。・・・待ってるから、春希」

春希「はい。待っててください、麻理さん」

俺がいる限り、麻理さんを癒すことができないってわかっている。
それでも俺達は離れられない。
麻理さんも俺を離さないでいてくれる。
それが心地よくて、お互いが求めあってしまって、かずさを傷つけてしまう。
俺は、かずさに誠実でいられるのだろうか・・・・・・。



第22話 終劇
第23話に続く

このページへのコメント

何だか、怪しい雲行きな様なそうでない様な…。気になりっぱなしの展開ですね。

それと、タイトルの成り行きを説明して頂き、ありがとうございました。
「春希の心の中にかずさが常にいる」の方でしたか。
そのことを意識しながら、次回以降も読ませて頂きます。

0
Posted by TakeTake 2014年11月10日(月) 01:15:17 返信

泣きそうです

0
Posted by 冬流 2014年11月08日(土) 16:46:03 返信

賭けに勝ったというくだりは、かずさTの血の契約のくだりを思い出しました。

危うさを感じつつも、求め合うことを止められない二人。これにかずさが参戦してくる瞬間が楽しみです。

0
Posted by N 2014年11月03日(月) 22:20:44 返信

風岡麻里が乙女な恋心を抱いていても、春希がNYへ行きたいと言い出しても他の人に不自然と思われない様に海外研修の事をさり気なく話しておく辺り中々したたかですね、でも彼女からしてみれば確信があったわけではなく寧ろ賭けに近い物だったと思うので、春希からの電話は正に賭けに勝った気分だったと思います。

0
Posted by tune 2014年11月03日(月) 04:18:03 返信

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