雪菜Trueアフター「月への恋」第三十九話「眺めの良い部屋(3)」


8/23(日)深夜 ニューヨーク市内某ホテル客室


 ホテルの部屋に入ったかずさはルームサービスに手を伸ばした。
「すまない。機内ではろくに食事がとれなかった」
「構わない。ゆっくり食べながら今後の事を話そう」
「では、これとこれと…あと、紅茶に入れる砂糖は10個ぐらい持ってくるように言ってくれ」
 麻理は呆れ顔で言った。
「甘いものばかりだな。北原の記事は本当だったんだ。だが、そんなに食べて大丈夫か?
 たった3日足らずでも時差に合わせて休まないと体に響くぞ」
「食ったら寝るさ」
「はあ…。それでいてその体型か…若いっていいな…」
「?」
 かずさはまだ、寝る直前に食べる恐ろしさに直面したことはなかった。

 麻理がルームサービスを注文し終わるのを見計らい、かずさは麻理に話しかけた。
「思ってたよりずっと若い人でびっくりしたよ。開桜社でかなり責任ある重職にあるみたいだし」
「はは、買いかぶりだ。私はまだまだ駆け出しだ。
 改めて自己紹介しておこう。私は風岡麻理。『Stripes』紙のデスクをしている。北原とは2年前、『開桜グラフ』で上司と部下の関係だった。といっても、北原は当時バイトだったがな。
 この3日間、よろしくお願いする」
 そう言って麻理はかずさに日本語併記の名刺を渡した。
 かずさもぶっきらぼうな自己紹介をする。
「冬馬かずさ。ピアニストだ。春希とは高校以来の友人。春希にはいい記事のネタにされているよ」

 麻理は少し笑顔をこぼしつつ春希を糸口に話を始めた。
「北原にグラフで初めて記事を書かせた時のことを思い出すよ。最初はあいつ、提灯記事にもならない駄記事を書いてきたから総没にしてやった」
「ふうん」
「そしたら次は対象の母子関係から学校での欠席日数に至るプライベートまで洗いざらい書いてきた。それが冬馬かずさの記事だった」
「ぶっ…!? あの記事か…」
「対象への愛が感じられるいい記事だったよ。そう言えば、今のツアーの記事も北原に書かせているんだって?」
「ああ、ぼろ儲けさせてやってるよ。友達だしな」
「………」
 麻理は少し間をおいて言った。
「これからもよろしくしてやってくれ。友人として」
「ああ…」

「北原やその婚約者と一緒に一曲やってCDに入れたんだってな」
 麻理はこの春の『アンサンブル』増刊号の話題に話を移した。
「ああ。ひさしぶりに高校の時の思い出に浸らせてもらった。楽しかったよ」
「結婚するんだよな。北原」
「ああ、あんたも呼ばれているんだろ?」
「ああ。一時帰国できるかわからないが」
「ま、約束どおり、サイ氏との接触手伝ってくれる代わりにあんたのネタになるから、休みとるタネにしとくれ。なんなら着替え写真くらいまでなら撮って構わない。ヌードは勘弁だが」
「いや、いろいろ自信喪失しそうだからやめておく」
「?」

 そうこう話しているうちに生クリームが山と盛られたパンケーキやアメリカンサイズのパフェが届いた。
 それをいただきますも言わずに砂糖たっぷりの紅茶で流し込むかずさに、麻理は「見ているだけで太りそうだ…」とカロリー的な恐怖すら感じた。

 腹を糖分で満たすと、かずさは明日からの段取りに入った。
「明日からナーセル・サイ氏への接触試みる、ということでいいな?」
「ああ、一応おとといからこのホテルに宿泊していることは確認できている」
「ありがたい。タイムリミットは水曜朝。朝一番の飛行機に乗らないとツアーのレッスンに間に合わない。わざわざ運送屋使って自前のピアノ使えるようにして練習時間圧縮したんだが…」
 無理な渡米スケジュールをたてても演奏の質は落とさない。前の演奏の方が良かったなんて絶対に言わせない。ここまでのツアーをこなし、かずさにはそういうプロ意識ができてきていた。

 麻理は細かな作戦内容に踏み入る。
「チャンスは4回。明日と明後日、このホテルに出入りするタイミングだな。幸いなことに出入りの時間は9時15分ごろと、17時5分ごろ。かなり規則的に行動している。
 ただ、マスコミを警戒してか、いつも簡単な変装をしている。それでも、マネージャー含め中央アジア系4人で行動しているから注意すれば見逃しようはない」
「どんな4人だ?」
「ナーセル・サイ氏に、そのマネージャー。長身禿頭で顎髭の中年男でこいつが一番わかりやすい。あと、女性チェリストのメフリ・ユルドゥズ。杉浦の友人の姉だな。そして今を時めくヴァイオリニストのファイサル・ホセインという男」
「名前だけなら聞いた事がある」
「今、アメリカで最もホットなクラシック音楽家だ。『スモーキング・ファイサル』とか呼ばれている。サイ氏一行はこいつに群がるパパラッチを警戒してホテルも転々としてるようだ」
「なるほど。足取りつかみにくいわけだ」
「4回目のチャンスを逃したらホテル通じて連絡する。ただし、事務所に門前払いされ、余計に相手の感情害する可能性あるから最後の手段、だよな」
「ああ、ともあれ、基本は2人で待ちぶせか?」
「いや、あなたはいろいろと目立ちすぎる。私が待ち伏せてあなたに取り次ぐ方がいい」
「ふうん。あなたも日本人だし美人だし、目立たない訳ではないと思うけど」
「び、美人? はは、ありがとう。お世辞でもうれしいよ」
「いや、お世辞じゃなく…」

『まだ若いのにものすごく優秀で、しかも厳しくて…
 ついでに、カッコよくて颯爽としてて、…しかも、ものすごい美人だった…』
 かずさは春希の言葉を思い出し、そしてつぶやいた。
「やっぱり嫉妬してしまうな。春希と一緒に仕事できて、そんな風に見られていたなんて…」

「春希はあんたに取ってどういう部下だったんだい?」
「はは。かわいい部下さ」
「………」
「なんだい?」
「…何でも相談に乗ってあげられる、かわいい部下、かな?」
「…?」
「いやさ。春希はひょっとして、わたしとのことをあなたに話したかな、と」
「…部下の人生相談に乗ってやるのも上司の役目だ」
「話したんだな…」
 かずさの嫉妬心がぶすぶすと煙を上げ始めた。

 麻理はそんなかずさの様子を見つつ、思い出すように話し始めた。
「そう、話してもらった。それが、あいつがずっと心の底に押し込めていたものを掘り返させ、苦しめ、悩ませた事に対するせめてもの償いだった。
 はは、ふられたりしただけならなら慰めてあげられたんだろうけどな。なにせ、仕事で家族同然に一緒にいてあげられたからな。
 わたしなんかにはあいつがしたことを肯定したり、否定したりしてあげられなかった。それができるのは…あいつをちゃんと傷つけたり、助けたりできたのは、あなたか雪菜さんだけだったんだろうな」
「………」
「人生とはままならないものだ。そばにいるのに役立てないこと、役立ってあげられたくてもそばにいないこと、そんなことばかりだよ。
 わたしにとって北原はかわいい部下であったが、北原にとってわたしは役立たずの上司だったかも知れんな」
「…なぜそう思う?」
「仕事のことばかりで色恋事をほったらかしてきた私みたいな女にあんな人生相談なんてされても、小学生に方程式解かせるみたいなものさ」
 それに答えた時の麻理の口調はまるで子供のように幼く、何か拗ねたような感じをかずさに感じさせた。

「………」
 かずさは少し沈黙すると、ワインリストを手に取り麻理に言った。
「ワインを持ってきてもらおうか。このワインを」
「…? 寝酒か? ほどほどにしておいたほうがいいぞ」

 まもなく運ばれてきた白ワインをかずさは味見する。
「うん、やっぱりこれだな。これがいい」
 そう言ってかずさは麻理にグラスを勧める。
「おい、ちょっとまて。わたしにまで飲ませる気か!?」
「ああ、こんなことシラフでは話せないさ」
「何を?」
「春希のことだよ。特にあんたから春希のこと、聞きたいな」
「………」
「それとも、そんな話なんてしたくないか? あなたとなら飲んで話せると思ったんだが」
「わ、私のことなんて…」
「…なあ。話したくないんなら構わないが、せめてグラスに口をつけてはくれないか? 一人酒は寂しい」

 促され、グラスに口をつける麻理。たちまち、口中に広がる甘く華やかな香りに魅了される。
「これは?」
「ドイツのワインさ。美味いだろ? 白はこればかり飲んでた」
 かずさがイタズラっぽい笑みを浮かべる。
 麻理はとろけたような目をしてたちまちそのグラスを飲み干してしまった。

 トロッケンベーレンアウスレーゼ。ドイツのワイン格付けの中の最高位のこのワインは干しぶどう状になるまで摘み取りを遅らせ濃縮された葡萄から作られる。
 その味わいはまさしく蜜のごとく甘く、花のようにさわやか。
 それが、かずさが麻理を堕とす為に選択したワインだった。




 まもなく、すっかりできあがった麻理がかずさと2人で春希の事を盛大にグチりだした。
「だいたいあいつは、ホントは彼女いたくせに『ぼくにはそんなヒトいませんよ』なんてうそぶいてて、で、その彼女がミス峰城大付属3連覇!? なんだよその彼女いないいない詐欺!」
「ああ、部長ー春希の親友なんだがーそいつも言ってたな。その詐欺に引っかかった被害者は1人や2人じゃないらしい」
「だろ!? で、その彼女とうまくいってない理由が、あなたとフタマタかけたから!? もう、肯定否定しない約束で聞いてあげたけど、女としては私に判決権あったら終身刑だよ。あんな女の敵」
「いや、同意する。あれは最悪の女の敵。相手の心変わりに期待するところなんて、特に最悪」
「おおそうだ、それそれ。あいつこの春にはあなたのことで相談しにきた。私が『フッた女を助けたいのか?』って聞いたら、『フッたとかそういう話でなくてですね…』だと。
 あいつ、自分からは『フッた』なんて口にすらできないんだ。知らん、もう重婚してしまえと言いたくなったよ」
「まったく。ハッキリ『この勘違い女』とか言ってフッてくれた方が100倍マシだ」
「まあ、こんなムリまでして結婚式に来てピアノ弾いてくれるなんて甲斐甲斐しい女では仕方あるまい」
「もう、意地だよ。結婚しようが何しようが意地でも離れてやるものか」

 それを聞いた麻理は意外そうな表情をした。
「………」
「何だよ」
「いや、思ったより執念深い女なんだな」
「おかしいかよ」
「てっきり仕事にのめり込んで忘れるタイプかと思った」
「逆だ。忘れられないでピアノにぶつけるしかなかった」
 そう口にしただけで、今年頭にコンサートをすっぽかされたときの怒りが蘇り、こみ上げてきた。かずさは冷えたワインを流し込み、怒りをこらえる。
「あんたこそどうなんだ? 春希みたいな仕事できる男じゃないとお断り、ってなタイプに見えるが。春希に実は彼女がいることが発覚した時は残念だったろう」
「わ、私は…まあ、腹は立ったな。腹立てられる立場になかったと言われればそれまでだが」
「まったく。雪菜とすっかりうまくいってるかと思いきや、日本に帰ってきて耳にするのはフラフラして数々の女惑わせた遍歴ばかりだ。一度帰国した時に会っときゃよかったよ」
「そういう運命なんだよ。出会ったのも出会えなかったのも…環境や立場や年の差も」
「ふうん。あんたまだ30前だろ? 年の差なんて気にするんだ」
「5才ひらくと大きいよ」
「そんなこと言ってると婚期逃した上、つまらない男にひっかかりそうな気がするな。
 普段シャキッとしてる男が落ち込んでフラリときたら、ついつい引きずられちゃったりして。あんたそういうすがりついてくる男に弱そうだ」
「余計なお世話だ」




 そんなことを話していると、麻理の携帯に着信があった。
 開桜グラフの浜田からだった。
「なんだ? 浜田」
『お久しぶりです。麻理さん。夜分遅くすいません。実は…』
 浜田は、冬馬かずさがツアー中に所属事務所に何も伝えずニューヨークに行ったらしいこと、春希がその足取りを追っている事を伝えた。
『北原は冬馬かずさの足取りつかめ次第ニューヨーク出張を上申するつもりです。納得のいく材料を揃えて来たのなら俺も通してやるつもりです。ただ…』
「ただ、何だ?」
『北原のヤツは何か隠してると俺は踏んでます』
「ほう」
『あいつには俺に隠して独断先行した前科ありますし、冬馬かずさに対して身内並みの感情を持って仕事してしまっています。
 残念ながら俺では尻尾掴めませんでしたが、麻理さんなら』
「ああ、ニューヨークに来たら『Stripes』編集部に顔出すよう伝えてくれ」
『ありがとうございます。
 北原も麻理さんにビシッと言われればきっとあっさり白状しますよ。奴も俺たちに隠し事して気持ちいいはずはありませんから。お忙しいところすいませんが、奴をスッキリさせてやってください』
「ああ、わかった」
 電話を切った後、麻理はひとりごちた。
「すまんな、北原。隠しているのは私の方だ。堪忍してくれ」

 かずさの耳には電話の内容は筒抜けだった。
「だいたい聞こえた。まったく、春希は仕事熱心だな」
「嬉しそうだな」
「ああ。あいつが雪菜を置いて私を追いかけてると思うとゾクゾクするよ」
「悪い女だな」
「巻き込んで悪いな。わたしのコト、隠してくれて」
「かまわん。私が先につかんだネタだ」
「なんだかあんたも嬉しそうだぞ」
「まったく、私も悪い上司だ…あいつからお姫様を隠している悪い魔女の気分だよ」
 そう言って麻理は楽しそうに微笑んだ。



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