雪菜Trueアフター「月への恋」第三十五話「夏と海とバンドと(8)」



「と〜どかな〜いこい〜をして…あぁ、またトチっちゃった…」
「焦らない焦らない、もう一回」
 誰もいなくなった宴会場で千晶が亜子の弾く『届かない恋』を見ている。

 その歌を聞きつけてかずさがやってきた。
「懐かしい曲だ…誰が弾いているのかと思いきや、セカンドギターの子か」
 そう言って、亜子の手元の楽譜を手にする。
「この譜は?」
「ひっひ〜。春希の部屋にあった楽譜、勝手にコピらせてもらいました〜」
「おまえか…ったく」
 千晶に毒づくかずさに亜子が頭を下げる。
「あ、あの。すいません勝手に曲使わせていただいて」
「ああ、気にするな。使用料は春希と一緒に千晶からもらうさ」
「ええ〜!? ちょっとやめてよこの銭ゲバピアニスト〜、JASRACに訴えられてやる〜」

 ふざけ半分にぶーたれる千晶をよそに、かずさは亜子の隣に座った。
「ちょっと貸してみろ」
「あ、はい」
 かずさは亜子からアコースティックギターを受け取ると、軽く鳴らして手本をみせた。
「ほら、やってみろ」
「は、はい!」
 世界的ピアニストである作曲者から直々の指導をうけられるとあって、光栄とばかりに亜子は笑顔になる。

「ここはこうだ」
「はい」
「ここはもっとこう」
「はい」
 ぶっきらぼうだが要点を押さえた指導により、しばらくの後には亜子の弾き語りはなんとか形になってきた。

「ありがとうございます! だんだん弾けるようになってきました」
 礼を言う亜子にかずさは照れてつっけんどんな返事をした。
「戯れでも自分の作った曲が無惨な演奏されているのが気に入らないだけだ。まあ、最初の弟子よりはずいぶんマシだがな」
 辛辣なかずさの言葉を聞いて千晶が亜子を庇う。
「無惨だなんてヒドいな〜。細かいトコ気にしない男ならもう十分でしょ」
「? なんで『男なら』なんだ?」

 千晶の代わりに亜子が顔を赤らめながら答える。
「わたし、この曲にかけているんです」
「…どういうこと?」
 亜子はゆっくりと、しかしはっきりと言った
「この曲が弾けたら…孝宏君に告白しようって」

「………」
「えへへ、だからもうちょっとだけしっかり仕上げしないと」
「………」
「♪ こ〜ど〜く〜な〜♪」
 亜子は練習を再開し初めてもしばらくかずさは言葉を失っていたが、まもなく沈黙を破って叫んだ。
「ちっが〜う!」
「え? どこか間違えました?」
「そうじゃない! 告白したほうがいい! いますぐに!」
「え!? ど、どうして!」
「こんなことしている場合じゃない、先手必勝っ!」
「えええっ!?」
「男ってのは告白されたらその気になってしまうものなんだ、まして、あいつ顔もそこそこよくて勉強はともかく料理もできて、今彼女の一人や二人いないのがおかしいじゃないか」

 かずさの変貌に目をぱちくりさせている亜子にかずさはたたみかけた。
「いいか? ちょっとかわいくて気だての良い子があいつに惚れて告ったとする。女の方から告られたら男はそうそう断れるもんじゃない。
 そうなったら彼女の座はその子のもの。彼女によほどの事がない限り後からの挽回なんてなかなかできやしない。
 そんな事にならないうちに告らなきゃ! 一生後悔する事になるぞ!」
「で、でも。孝宏くんそんな女気あるひとじゃないし…」
「何言ってる! 女4男1のバンドにいる男のどこが女気ないんだ! うちより比率が…いや、なんでもない」
「でも、小春ちゃんたちはわたしが孝宏くん好きだって知ってるから…」
「いいや! 全然安心できないね。
 とくにいい演奏できた夜なんて男も女も気が昴ぶって、普段友人には『あんな男興味ないね』なんて言ってる女が思いあまってキスしてきたりしちゃうものなんだよ!」

 『小春ちゃんたちがそんな…』と考えていた亜子も、かずさの剣幕に押され危機感を感じてきた。
 しばらくの逡巡の後、亜子は顔を上げて言った。
「わかりました。今からやります」
 千晶も急展開に驚くばかりであった。




「よし、じゃあ雪菜の弟誘き出してくるから」
 かずさはまるで自分の事のように嬉々として宴会場を出て行った。

 亜子は決意の表情でそれを見送ったが、やがてそわそわと落ち着かない素振りを見せ始めた。
 亜子の心中は不安が渦を巻いていた。
 千晶はそんな亜子に声をかけた。
「大丈夫、うまくいくおまじないをかけてあげよう」
「おまじない?」
「そう、まず、このステージにいるとびきり素敵でとびきり幸せな自分を想像してみて。
 彼と結ばれて、とっても幸せ者のヒロインとしてのハッピーエンド。どう?」
「ヒロイン?」
「そう、そんなヒロインの告白シーンだから失敗なんてするはずないじゃない。
 あなたも本番の演奏ではトチったことなかったでしょ、ほら」

 こん
 千晶が亜子のギターを軽くこづく。
「あとは、運命の女神様に筋書きを任せるだけ。
 その勇気があれば、たとえ今日うまくいかなかったとしても、女神様はハッピーエンドまで続きを書いてくれるよ。
 売れなかったら次がないような深夜枠アニメじゃないんだから」
「は、はい…」
 亜子はそう答えて、心を落ち着かせようと深呼吸を始める。

「そろそろくる頃かな…趣味の悪い私的には覗き見してビデオ撮影までしておきたいところなんだけど、遠慮しておくわ。
 先に部屋で朗報を待っているよ」
 千晶はそう言って席を立とうとしたが、亜子のまだ落ち着かない様子を見て動きを止めた。
「うーん。おまじないが足りてないねぇ。
 こういう時に主人公ならキスでもしてあげたいところなんだけど…」
 そう言って隣に腰掛け直してきた千晶に、亜子はギョッとして飛び退く。

「…私はただの脇役だからやめておくわ。代わりに、ほら、これ」
「…ギターのピック?」
「うん、ある舞台のヒロインが主人公からもらって、主人公への愛の証として生涯大事に持っていた霊験あらたかなギターピックです。
 まあ、いくらでも代えが利く舞台道具なので、おまじないにあげちゃいます」
「あ、ありがとうございます! わたし、がんばります!」
 亜子の顔が明るくなった。
「ふ〜ん。やっぱりあなたはこういうゲン担ぐほうなの?
 まあ、いいや。がんばってね」
 そう言って、千晶は宴会場を出て行った。

「さて、と」
 宴会場から戻る途中、千晶はつぶやいた。
「またギターピック一つ、次の舞台までに春希からパクっておかないとね」




 孝宏は宴会場「ミーティングルームB」の扉を開け、隅に亜子がいるのを見てほっとした。
「なんだ、園田か。宴会場で物音がするって聞いたから心配したよ」
「へえ? 何の心配?」
「迷い込んだ他の酔っぱらい客が俺らの楽器を勝手に触ってないかとか、さ」
「ふうん。ちなみに、あたしは酔ってないよ」
 そう言って亜子はギターを鳴らし始める。
「あれ? 園田アコなんてやるんだ?」
 意外そうに言う孝宏に亜子は言った。
「下手なわたしが?、って意外に思った?」
「はは、いや。でも、大変だろうってな」
 亜子はセカンドギターでようやく、程度の技量しかない。それがいつもの練習に加えアコースティックで何かやるとなると大変な苦労だったはずだ。

「うん、大変だった」
 そうはっきり言う亜子の目に、孝宏は何か異様なものを感じた。
「園田…?」
「聞いて!」
 亜子は話しかける孝宏を遮り、ギターを奏で始めた。

♪ 孤独なふりをしてるの なぜだろう 気になっていた
  気づけば いつの間にか 誰より惹かれていた ♪

 孝宏は立ち尽くした。音が自分の身体に染み込み、脈打ち、彼を捉えた。
 何だ? この感覚?
 と、彼が気づいた時には、もう彼の四肢は彼の自由にならなかった。

 付属祭で初めてこの「届かない恋」を聞いた時も、バレンタインコンサートで聞いたときも戦慄を覚えたが、その時とは何もかもが異質だった。

 耳の奥が、鼻の奥が熱い。乾いた熱風が流れ込んだようだ。
 特急がトンネルに飛び込んだ時のようにツンとなる。
 歯が凍りついたように冷たく感じた。

♪ どうすればこの心は 鏡にうつるの? ♪

 歌う亜子から目を全く離せない。
 口がからからに渇いて声が出ない。目が乾きついているのに瞬きもできない。
 命の危険すら感じた。

♪ 届かない恋をしていても 映し出す日は来るかな ♪

 ああ、そういうことか。
 孝宏は理解した。これが恋に落ちるということなのだと。

♪ ぼやけた答えが見え始めるまでは 今のこの恋は動き出せない ♪

 亜子は歌い終わると、まだ立ち尽くしている孝宏のもとへと歩み寄った。そして、言った。

「小木曽くん、好きです」




「あれ? 何で皆さん、杉浦たちの部屋にいるんですか?」
 孝宏と亜子が小春たちの部屋の前まで来ると、ちょうど春希や依緒が中に入ろうとするところだった。
「いやね、かずさが戻ってきて飲み直そうとしたら、酒は園田さんのクーラーボックスの中で、取りに行ったかずさと雪菜がそのままそこで飲みだしちゃって」
「で、俺や依緒や武也もこっち来て飲めということになった」
 孝宏が呆れた顔をしていると、背後から千晶が現れた。
「ほらほら、みんなで飲も飲も〜」
「わわっ」
 孝宏と亜子も部屋の中に押し込まれた。

 小春たちの部屋は大勢でごった返していた。5〜6人がゆうに泊まれる大部屋も、11人が集まると手狭であった。
 小春たちと談笑していたかずさは、亜子たちが入ってくるのを見ると一瞬真顔に戻って二人を見た。
 その口元が「うまくいった?」と聞きたくてうずうずとうごめいている。

 そこへ千晶が腰をおろしつつ2人に声をかけた。
「あれぇ? お二人さんどこ行っていたの?」
 何気ない一言だったが、部屋中の会話の間を計算し尽くしたタイミングで発せられたその一言は見事なカクテルパーティー効果を奏し、全員の注目を亜子と孝宏に集めた。

「う!? えっと…」
「………」
 男女9名の注目を一度に浴びた二人は恥ずかしげに少し身を縮めたが、やがて孝宏の方から口を開いた。
「えっと、ちょっと大きなことがありました…」

 部屋中の皆が何事かと目を丸くする。孝宏は続けた。
「えっと…俺、園田と付き合うことにしました」

 一瞬の間の後に小春たちの歓声が上がる。
「…おめでとう! 亜子!」
「やったね! 亜子!」
「とうとうやったか〜。亜子、おめでとう」
 次いで、かずさと千晶が親指を上げ祝福する。
「Gratuliere!(おめでとう!)」
「やるじゃん、孝宏君。カワイイ彼女ゲットだね〜」

「おめでとう、孝宏君」
「おめでとう、孝宏君。お義兄さんみたいになるなよ」
「うるさい、武也」
 武也や春希たちもお祝いを述べた。

 そんな中、雪菜だけが呆気にとられていた。
「え? え? そっちの子なの?」
 雪菜は明らかに動揺し、孝宏と小春の顔を交互に何度も見比べた。
 千晶はそれを見て雪菜の動揺の理由を察するや、雪菜の顔にグラスを押し付けその口を塞いだ。
「はいはい、めでたいね〜。雪菜お姉さんも飲んだ飲んだ」
「うぐぅ。い、いず、みさん??」
 抗議の声を上げる雪菜に千晶は聞こえないように毒づいた。
「まったく…情報が一年以上古いよ、せっちゃん。お姉ちゃんでしょ…」

「ありがとう、みなさん」
「ありがとうございます!」
 孝宏と亜子が皆に礼を言うと、かずさは新たにカクテル缶の蓋をあけた。
「さあ、今日はいろいろめでたいことが重なる日だ。じゃんじゃん飲むぞ!」
「おお〜!」
 続いて始まった酒盛りの中で雪菜の懸念は飲み込まれることとなった。
 永遠に。



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