雪菜Trueアフター「月への恋」第四十話「眺めの良い部屋(4)」


8/24(月)深夜 冬馬邸


「じゃ、いいですか、北原さん。開けますよ」
 春希は美代子と、かずさの部屋のドアの前にいた。
 春希は「かずさの手がかりを得るため」という大義名分で美代子を説き伏せ、美代子立ち合いの下かずさの部屋を捜索する許可を得た。
 某立てこもり事件以来、かずさの部屋のドアは外から鍵の開け閉めが可能なものに付け替えられている。美代子は合鍵でドアを開けた。

 むわっ
 ニオイからしてヤバかった。
 脱いだ服や雑誌、空の紙パックや通販のダンボールが床に散らばって足の踏み場もなく、タンスの引き出しは開けっ放しで下着がはみ出て垂れ下がっていた。
 ニオイの主な発生源は椅子に掛けられた春物カーディガンだった。プリンか何かをこぼしたものを数万はしそうなブランド物のカーディガンで拭いて、そのままこの蒸し暑い中放置していたらしい。

「あはは…冬馬かずささんはひよっとしたら、一昔前に流行ってドラマ化された、某クラシック漫画の主人公の影響を受けておられますか?」
 春希は無意味なフォローに必死だった。
 美代子は眉をひくつかせながら春希を部屋の外に押し出す。
「く…こないだ片付けたばかりなのに…いいですから、しばらく待っていて下さい!」

 小一時間後、美代子は春希を中に入れた。
「クローゼットは開けてあげないでください」
 美代子は最初にパンドラの箱指定をした。春希はとりあえずくずかごを漁るが、菓子の空袋ばかりでめぼしいものはない。

「やはりこちらか…」
 机の上のノートパソコンを起動させる。パスワードを求められた。
「パスワード、ご存知ないですか?」
「いえ。そもそもこないだまでパスワード設定せずに使っていたような…」
 と、するとごく最近パスワード設定したことになる。あやしい。
「…あたってみていいですか?」
「ええ」
 本人や家族、友人の名前や誕生日を片っ端から入れる。しかし、「パスワードが間違ってます」のメッセージが返ってくるだけだった。

「何かヒントがあれば…」
 そう考えた春希の脳裏にかずさの言葉が思い浮かんだ。
『第1ヒント、わたしたちの…』
 春希はそのパスワードを入力した。



8/24(月)昼過ぎ ニューヨーク某ホテル


 かずさは麻理と夜遅くまで話しこんだ後、結局昼過ぎまで寝てしまった。起きてきたかずさに麻理は言った。
「すまん。朝は玄関ホールで待ち伏せたんだが、空振った」
「…? 裏口でも利用されたか?」
「不便な裏口だから、まず使わないとは思ったんだがな。実際、昨日までは全て玄関からだったし」
「まあ、仕方ないさ。夕方はわたしも手伝うよ」
「ああ。そうしたほうがいいな。私が裏口、あなたが玄関で頼む」
「わかった」
「あと、北原なんだが…あなたの帰りの便と宿泊の可能性のあるホテルをつかんだとついさっきメールしてきた」
「何だって!?」
「あなたのノートパソコンの履歴を覗いたらしい。パスワードかけてなかったのか?」
「いや、かけておいたんだが…まあ、春希なら予想できるパスワードだったかな…しかし、開桜社ではそんな犯罪紛いの手口を教えているのか?」
 麻理は悪びれもせずに言った。
「…大事なのはルールを守ること。もっと大事なのはそのルールをいつどのように破るかということだ」
「…ったく。ここを含んだホテルの候補までは絞られたかな。どうしよう?」
「いずれにせよ、出張許可取ってこちらに来るのはどうがんばっても明日の朝だ。もし来たらウチの編集部に足止めさせるさ。冬馬かずさが何の目的でここに来たのかは隠し通す約束だしな」
「…今日中にカタつけてしまいたいな」
「そうだな。変装のパターンも変えられたのかも知れないし、夕方のチャンスは注意しよう」
「ああ」



8/25(火)未明 開桜グラフ編集部


 春希が灯りの落ちた編集部に足を踏み入れると、浜田が仮眠用簡易ベッドからのそりと起きあがってきた。
「起こしてしまいましたか。すいません」
「いや、いい。何かつかんだか?」
 浜田は春希がすぐ動けるように編集部に泊まり込んでいたのだ。春希は浜田に感謝しつつ報告した。
「はい。冬馬かずさの帰りの便とホテルの候補6つを押さえました」
「動機とかは? 何か大ネタがあると俺は踏んでいたんだがな」
「いえ。そこまでは…これで許可下りますか?」
 浜田は春希の表情をじっと観察していたが、やがておもむろに口を開いて言った。
「…いいだろう。今日の朝イチの便を取れ。許可は俺が取っておく。時間は短いが必ず何かつかんでこい。自分のターゲットに逃げられた始末は自分でつけてこい。ブン屋としての意地を見せろ」
「はい! ありがとうございます! 浜田さん」
 浜田はそんな春希を見てひとりごちた。
「隠しているものも吐き出してこいよ…」

 あと、出張間の業務の引継も浜田と話さなければならない重要な事項であった。
「あの…今日予定していた系列の不死川テレビとの共同取材のほう誰かお願いできませんか? 運送会社はもちろん、テレビ屋も冬馬かずさ直接撮れない中の『画になる記事』なんで放り出し任せっぱなしはまずいと思います」
「それについては鈴木を入れる。京都公演も吉松さんに任せろ。最悪、公演に戻って来られなくてもかまわん」
「…わかりました。ありがとうございます」
 春希は某運送会社の営業に会わなくて済むことに少し安堵した。
 この処置はちっともありがたくなかったことに春希は後で思い知らされることとなる。

 それにしても、この出張日程は春希の目から見てもタイトだった。
 東京・ニューヨーク間の航路の所要時間は往路は約12時間半、復路は14時間半。
 時差は14時間。朝イチの便で向かっても現地に着くのは現地時間の早朝、かずさの帰りの便は翌水曜の朝なので、かずさを捕まえるチャンスは正味1日だけである。

「待っていろよかずさ。文句は一言じゃ済まないからな…」
 春希は常に携帯しているパスポートを握りしめて言った。



同日早朝 小木曽宅前


 春希は小木曽宅前で思案していた。
 夏の朝は白々と明け始めてはいるものの、どう考えても家を訪ねて良い時間ではない。かといって、起きてくる時間まで待っていては羽田発の飛行機の時間に間に合わない。
「あきらめるか…ゴメン、雪菜」
 そうつぶやいて、家の前を去り歩き出したその時だった。

「春希君のバカぁ!」
 怒声とともに投げつけられた後頭部に朝刊がクリーンヒットした。
「いてっ!」

 春希が振り返ると、パジャマにスリッパ姿、髪もおろしたままの雪菜がいた。
「雪菜…」
「もうっ、呼び鈴、ぐらい、鳴らしてよ! 気付かな、かったじゃ、ない!」
 雪菜は息を切らして文句を言う。

「ゴメン。お義父さんたち起こしちゃマズいかと」
「ふふ。もう、春希君ったら。お父さんとあたしとどちらが大事?」
 雪菜はそう言って春希に抱きついてきた。
「お、おい…」
 まだ薄暗く人通りもないとはいえ、路上である。

「これからアメリカって時に、まずわたしに会いに来てくれたんだ。嬉しいな…」
 春希は照れて取り繕う。
「いやその。出張って言っても向こうを水曜日に出るし、ちょっとだけだよ。でも…」
 雪菜は春希の言葉を遮って言った。
「わかってるよ。お仕事頑張ってね…それと、かずさによろしくね」
「…っ!?」
 春希は一瞬答えに詰まるが、気を取り直して言った。
「ああ。マスコミのしつこさって奴を教えてやるよ」

「あ。それともし新聞切り換える時は、ウチの系列の経済産業新聞お願いします」
 春希は拾い上げた朝刊を雪菜に渡しながら言った。
「もう、バカぁ。いってらっしゃい」
 雪菜は朝刊を大きく振って春希を見送った。



8/24(月)夕刻 ニューヨーク某ホテル サイ氏宿泊室


 メフリ・ユルドゥズはカツラを外し、変装のために服の下に入れていた詰め物をどさどさ落としながら悪態をついた。
「あーっもう。なんでここまでして逃げ隠れしなきゃいけないのよ! 昨日まではみんなサングラスとかだけだったのに!」
 ナーセル・サイは変装用入れ歯を外し、茶目っ気たっぷりに笑いながら言った。
「いやいや。日本のマスコミは怖いね。さっきは裏口に張っていたよ。なかなか鋭いお嬢さんだ。からかいがいがあるよ。
 ここ数日張られていたし、変装セットの出番があって楽しいねえ」
 通信販売で入手した変装セットを前にごきげんな様子のサイ氏にマネージャーが苦言を呈する。
「しかし、わたしの髭まで切るのはあんまりですよ。自慢の髭が…とほほ」
 ファイサル・ホセインはドーランを落としつつ、
「用心に越したことはない。やつら隙を見せると何するかわからん」
 と、あくまで不機嫌さを隠さずに言った。

「もうっ! せっかくのニューヨークなのにつまらない! 部屋もこんな眺めの悪い…」
 と言ってカーテンを開けようとするメフリをファイサルは慌てて止める。
「やめろ! こないだみたいに写真を撮られたらどうする!」
 ひと月ほど前、窓から着替えを盗撮されたためファイサルは警戒を厳にしていた。

「なんでファイサルの巻き添えで私までこんな窮屈な思いをしなくちゃならないのよ…」
 ファイサルは今アメリカで最も話題のクラシック音楽家だ。だが、人気の主な理由の一つは演奏技術でなく、そのルックスにあった。
 演奏会を開けばクラシックを聴いたことのないようなオバサン連中が大勢詰めかけ、インタビューではまずファッションについての質問から始められ、滞在地に追っかけとパパラッチが絶えない状況にファイサルはほとほと嫌気がさしていた。
 サイ氏はむしろこの状況を楽しんでいるが、奔放な性格のメフリにとっては我慢がならない。

「あーっ、もう。ストレス溜まる!」
 そう言ってメフリは旅行鞄に偽装されたケースからチェロを取り出すと鳴らし出した。
「おい! やめろ! 聞かれたらどうする!」
 ファイサルがメフリから弓を取り上げる。メフリは憎らしげにファイサルを睨んで弓を取り返した。

「もう。つまんないよー。せめてバーにでもいきたーい」
 ぐずるメフリをサイ氏が諭す。
「部屋に戻ってルームサービスでもとりなさい」
「はーい」
 メフリはしぶしぶ従い、チェロを持って隣の自分の部屋に戻ることにした。



同ホテル ラウンジ


 ラウンジのピアノのそばで張っていたかずさのところに麻理が戻ってきた。
「おい。どういう事だ? もう18時を回ったぞ!」
 苛立つかずさに麻理は謝る。
「すまない。行動パターンが変わったか、よほど巧みに変装されたか…作戦を立て直そう」
「明日には春希が来てしまうというのに…」
 焦りを隠せないかずさを麻理はなだめ、エレベーターで居室にもどる。

 2人を乗せたエレベーターが上に昇っているその時だった。
「待って! 静かに!」
「え?」
 突然叫んだかずさに麻理は呆気にとられる。
 かずさは階数ランプを睨みつつ、耳をそばだてる。

 たったワンフレーズだけだったが、かずさの耳にはチェロの音が聞こえた。
「…チェロの音だった。たぶん7階!」
「ええっ!?」



<目次><前話><次話>

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

SSまとめ

フリーエリア

このwikiのRSSフィード:
This wiki's RSS Feed

どなたでも編集できます