最終更新: sharpbeard 2013年05月09日(木) 21:52:13履歴
コンサート開演前、控え室にて
「じゃ、かずさ。頑張って」
「ああ、またな」
春希から励ましの言葉を貰ったかずさは、開演前までの時間をゆっくりと過ごしていた。
かずさのリラックスした様子に、美代子は安心して声をかける。
「かずささん。今日はリラックスしていますね。昨日の先生の話だと、入れ込み過ぎで明らかにオーバーワークだったと聞いて心配してましたが」
「…無理ってのはできるうちにやっとくものさ」
「ええ。観客もきっと喜ぶと思います」
とは言え、昨日までギシギシいっていた両腕がここまで回復したのは春希のおかげだ。
ここに来るまでには実にたくさんの人のお世話になっている。
ツアーを組んでくれた母親に、プロモーターの人たち。
こうして世話をしてくれる美代子さん。
調律師の松川を始め、会場の準備をしてくれた人たち。
そして、会場に来てくれる観客たち。
どんなやつらが来ているのだろう。
かずさは観客に思いを巡らせていた。
その頃、開演を待つ観客席
「こんにちは。松川先輩」
「ああ、森本か。久しぶりだな…福島までわざわざ出てきたのか?」
「いやあ、松川先輩の調律したピアノで冬馬先輩が弾くんですから、かわいい後輩としては見に来ないわけがないじゃないですか」
「………」
自分を「かわいい後輩」呼ばわりするこの女性、森本靖子は峰城大付音楽科出身の音大生で、松川の後輩だ。雪菜とはバンド活動を通した知り合いで、被災ピアノの修理に携わる松川のことを春希に紹介した人物であった。
音楽科ピアノ専攻組は狭いだけあって、上下の繋がりも割とある。
「ところで、北原さんとはどうでした?」
「どうって、ちゃんと取材受けたよ。如才ない記者というか…」
「いや、それもちょっと心配だったんですよ。松川さんみたいな人に再会して、かえって冬馬先輩がやる気なくしたらどうしようって」
「どういう意味だそれは…まあ、同級生の中でピアニストの道歩いている奴、もう冬馬だけだから頑張れって言っておいたよ」
「ほんと、例年だともう1、2人残りますよね」
「………」
いつもながらこの後輩の口の悪さには閉口する。
「そういえば、付属でいつも一緒だった子は?」
「ユリですか? フランスです。ボンジュール。オーストリアでの冬馬さんのリサイタル何度も行ったみたいですね」
「そうか…しかし、冬馬も日本に来てどんどん良くなってるよな」
「でも、安定感無いですよねぇ。来日初回は散々で、追加公演は極上でしたけど、アンコールなしでしたし」
「まあ来日前は折れそうな繊細さが賛否両論だったしな。前回の公演は繊細さより力強さが増した感があった」
「で、そんな冬馬先輩の今回のメンタルはどうなんですか?」
松川は返事の代わりに親指を立てた。
「アンコールも期待できるぞ。昨日はかなり気合い入ったみたいだしな」
「いやあ、雪菜さんに聞いた時は心配だったんですよ。松川先輩に相談して良かったです」
「僕は大したことはしていない。口のうまいペテン記者のおかげだ」
「ああ、あの人もギターさえ上手ければいい人なんでしょうけどねぇ」
音楽家しか理解できない理屈で2人は肯く。
そこでふと、松川が何か気づいたようだった。
「おや?」
「どうしたんですか? 先輩」
「いや、知ってる子が来ているなって」
松川の視線の先には小柄な高校生の少年の姿があった。その少年は遺影らしきものを大事そうに持っている。
「ああ、前先輩が言っていた悲劇の彼氏ですか?」
松川は慌てて口の前に指を立てた。
「聞こえる。もう少し声を小さくしろ」
そうこうしているうちに開演時間となった。
開演
かずさの演奏が始まった。
シューマンのトッカータから始まり、技巧的ながらも音楽性の高い演奏がクラシックに疎い者も魅了する。
松川が感嘆の息を吐いた。
前より力強さが増しているが、繊細さも損なわれていない。自分がどれほど修練を積もうと彼女の域には達しないだろうと思い知らされると同時に、天才を支える喜びが彼の胸を誇らしく満たした。
数年前のクラシック漫画でもお馴染みのドビュッシー「喜びの島」、続いてベートーベンのピアノソナタ「熱情」とプログラムが進むにつれ、観客がどんどん引き込まれていく。
かずさの熱情がピアノに宿っていた。この日の観客は「ピアノからエネルギーをもらったようだった」と、口々に彼女の演奏を褒め称えた。
サティ、リスト、そして最後はシューマンの「飛翔」でプログラムは締められた。
さらに好評を博したのはアンコール曲だった。
最初の曲は復興ソングのピアノアレンジ。
曲が始まるや、観客たちは誰言うともなく立ち上がり、歌い出し、演奏者と観客が一体となった。
感動のあまり歌いながら涙を流す者までいた。
松川も、今日のピアノを始め、ここ2年ろくろく休みもとらずピアノを直し続けた日々が報われた思いだった。
そして、再アンコール。
観客の目が期待に輝き、一瞬の内に会場が静まりかえったのは、かずさがマイクを手にしていたからであった。
かずさはリサイタルでマイクを手にしたことはないし、テレビで喋ったこともないので、ほとんどの観客はかずさの声を初めて聞くこととなった。
「みなさん。声援ありがとうございます。
これから弾く曲は、皆さんも聞いたことのある童謡『きらきら星』を主題にした変奏曲です。
どうしてこの曲を選んだのか説明します」
かずさはピアノに手を置いて言った。
「このピアノが難に遭う3日前、中学生のピアノのコンクールがありました。そこでの課題曲がこの曲でした。
ピアノは津波をかぶりながらも修理を受け、この場所に帰ってくることができましたが、その日コンクールで優勝した少女が帰ってくるとはありませんでした」
そこでかずさは遺影を持った少年の方を見つつ述べた。
「だから今日、この場に立たせて貰ったわたしが、彼女の代わりに演奏させてもらいます。
この福島で頑張っているみなさんに、星になった人々の思いを精いっぱい込めて弾かせてもらいます。
それでは、モーツァルト『きらきら星変奏曲』」
少年よ。
恋人に振られた女の演奏ですまないが。
君のこれからの人生。彼女のことを忘れないでとか、忘れて新しい恋を見つけろとか、何も言えないが。
でも、彼女の代わりに演奏させて貰うよ。
君に彼女の思いが届くように。
もう会えない事を恨んでなんかいない。
あなたとの日々は宝物だって。
<目次>/<前話>/<次話>
「じゃ、かずさ。頑張って」
「ああ、またな」
春希から励ましの言葉を貰ったかずさは、開演前までの時間をゆっくりと過ごしていた。
かずさのリラックスした様子に、美代子は安心して声をかける。
「かずささん。今日はリラックスしていますね。昨日の先生の話だと、入れ込み過ぎで明らかにオーバーワークだったと聞いて心配してましたが」
「…無理ってのはできるうちにやっとくものさ」
「ええ。観客もきっと喜ぶと思います」
とは言え、昨日までギシギシいっていた両腕がここまで回復したのは春希のおかげだ。
ここに来るまでには実にたくさんの人のお世話になっている。
ツアーを組んでくれた母親に、プロモーターの人たち。
こうして世話をしてくれる美代子さん。
調律師の松川を始め、会場の準備をしてくれた人たち。
そして、会場に来てくれる観客たち。
どんなやつらが来ているのだろう。
かずさは観客に思いを巡らせていた。
その頃、開演を待つ観客席
「こんにちは。松川先輩」
「ああ、森本か。久しぶりだな…福島までわざわざ出てきたのか?」
「いやあ、松川先輩の調律したピアノで冬馬先輩が弾くんですから、かわいい後輩としては見に来ないわけがないじゃないですか」
「………」
自分を「かわいい後輩」呼ばわりするこの女性、森本靖子は峰城大付音楽科出身の音大生で、松川の後輩だ。雪菜とはバンド活動を通した知り合いで、被災ピアノの修理に携わる松川のことを春希に紹介した人物であった。
音楽科ピアノ専攻組は狭いだけあって、上下の繋がりも割とある。
「ところで、北原さんとはどうでした?」
「どうって、ちゃんと取材受けたよ。如才ない記者というか…」
「いや、それもちょっと心配だったんですよ。松川さんみたいな人に再会して、かえって冬馬先輩がやる気なくしたらどうしようって」
「どういう意味だそれは…まあ、同級生の中でピアニストの道歩いている奴、もう冬馬だけだから頑張れって言っておいたよ」
「ほんと、例年だともう1、2人残りますよね」
「………」
いつもながらこの後輩の口の悪さには閉口する。
「そういえば、付属でいつも一緒だった子は?」
「ユリですか? フランスです。ボンジュール。オーストリアでの冬馬さんのリサイタル何度も行ったみたいですね」
「そうか…しかし、冬馬も日本に来てどんどん良くなってるよな」
「でも、安定感無いですよねぇ。来日初回は散々で、追加公演は極上でしたけど、アンコールなしでしたし」
「まあ来日前は折れそうな繊細さが賛否両論だったしな。前回の公演は繊細さより力強さが増した感があった」
「で、そんな冬馬先輩の今回のメンタルはどうなんですか?」
松川は返事の代わりに親指を立てた。
「アンコールも期待できるぞ。昨日はかなり気合い入ったみたいだしな」
「いやあ、雪菜さんに聞いた時は心配だったんですよ。松川先輩に相談して良かったです」
「僕は大したことはしていない。口のうまいペテン記者のおかげだ」
「ああ、あの人もギターさえ上手ければいい人なんでしょうけどねぇ」
音楽家しか理解できない理屈で2人は肯く。
そこでふと、松川が何か気づいたようだった。
「おや?」
「どうしたんですか? 先輩」
「いや、知ってる子が来ているなって」
松川の視線の先には小柄な高校生の少年の姿があった。その少年は遺影らしきものを大事そうに持っている。
「ああ、前先輩が言っていた悲劇の彼氏ですか?」
松川は慌てて口の前に指を立てた。
「聞こえる。もう少し声を小さくしろ」
そうこうしているうちに開演時間となった。
開演
かずさの演奏が始まった。
シューマンのトッカータから始まり、技巧的ながらも音楽性の高い演奏がクラシックに疎い者も魅了する。
松川が感嘆の息を吐いた。
前より力強さが増しているが、繊細さも損なわれていない。自分がどれほど修練を積もうと彼女の域には達しないだろうと思い知らされると同時に、天才を支える喜びが彼の胸を誇らしく満たした。
数年前のクラシック漫画でもお馴染みのドビュッシー「喜びの島」、続いてベートーベンのピアノソナタ「熱情」とプログラムが進むにつれ、観客がどんどん引き込まれていく。
かずさの熱情がピアノに宿っていた。この日の観客は「ピアノからエネルギーをもらったようだった」と、口々に彼女の演奏を褒め称えた。
サティ、リスト、そして最後はシューマンの「飛翔」でプログラムは締められた。
さらに好評を博したのはアンコール曲だった。
最初の曲は復興ソングのピアノアレンジ。
曲が始まるや、観客たちは誰言うともなく立ち上がり、歌い出し、演奏者と観客が一体となった。
感動のあまり歌いながら涙を流す者までいた。
松川も、今日のピアノを始め、ここ2年ろくろく休みもとらずピアノを直し続けた日々が報われた思いだった。
そして、再アンコール。
観客の目が期待に輝き、一瞬の内に会場が静まりかえったのは、かずさがマイクを手にしていたからであった。
かずさはリサイタルでマイクを手にしたことはないし、テレビで喋ったこともないので、ほとんどの観客はかずさの声を初めて聞くこととなった。
「みなさん。声援ありがとうございます。
これから弾く曲は、皆さんも聞いたことのある童謡『きらきら星』を主題にした変奏曲です。
どうしてこの曲を選んだのか説明します」
かずさはピアノに手を置いて言った。
「このピアノが難に遭う3日前、中学生のピアノのコンクールがありました。そこでの課題曲がこの曲でした。
ピアノは津波をかぶりながらも修理を受け、この場所に帰ってくることができましたが、その日コンクールで優勝した少女が帰ってくるとはありませんでした」
そこでかずさは遺影を持った少年の方を見つつ述べた。
「だから今日、この場に立たせて貰ったわたしが、彼女の代わりに演奏させてもらいます。
この福島で頑張っているみなさんに、星になった人々の思いを精いっぱい込めて弾かせてもらいます。
それでは、モーツァルト『きらきら星変奏曲』」
少年よ。
恋人に振られた女の演奏ですまないが。
君のこれからの人生。彼女のことを忘れないでとか、忘れて新しい恋を見つけろとか、何も言えないが。
でも、彼女の代わりに演奏させて貰うよ。
君に彼女の思いが届くように。
もう会えない事を恨んでなんかいない。
あなたとの日々は宝物だって。
<目次>/<前話>/<次話>
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