「なんで、お前……」
 
 あまりの驚きの為に二の句が告げない。
 マンションの入り口にある石段に腰掛けた和泉千晶の姿に春希の視線が釘付けにされた。
 纏っているのは赤いミニのワンピース。その上からこれまた赤いショートカーディガンを羽織り、脇に真っ白な布袋を置いた状態で千晶が微笑んでいる。
 そう。彼女はサンタクロースに扮した衣装で春希を待ち受けていたのだ。
 
「なんでって部屋に行ったら春希いないんだもん。びっくりしちゃったよ」
「そんなこと……聞いてないっ」
 
 サンタの衣装は生地が厚めに作ってあり、それ自体は保温効果がある。けれど今千晶が着ている衣装はミニスカートであり、上着部分は二の腕からむき出しだ。
 この寒空の中、そんな衣装で佇むなど正気の沙汰ではない。
 
「おまえっ……」
「呼ばれたから来たんだよ?」
 
 足元に置いてあった携帯電話を手に取り、千晶が軽く振ってみせる。
 
「やっぱり驚かせたいじゃない? だからコールバックできなくて。ごめんね?」
「謝る、なよ……」
「謝るよ。春希の罪悪感、少しでも消してあげたいから」 

 携帯をそっと地面に置いて千晶が立ち上がる。それからゆっくりと春希に向かって歩き始めた。
 最初離れていた距離は二メートル。
 それが一メートルになり、五十センチになり、そしてほぼゼロ距離に。
 
「メリークリスマス。よい子にはサンタのお姉さんがプレゼントあげちゃうね?」
「……あ」
 
 鼻先が触れ合うほどの至近距離。ともすれば互いの息が相手にかかり肌が触れ合うような。
 これはもう友達同士の距離ではない。
 だから春希は遠ざかろうとした。一歩後ろへ距離を取ろうと。しかしそれよりも一瞬早く千晶が距離を詰める。
 
「辛かったんだね春希。うん。言わなくてもわかるよ」
「いず……み……」
 
 二人の身体が重なり合う。
 千晶の腕が春希の背中へと回され、互いの心音が相手に伝わるくらい密着した。
 
「あ、ああ……」
 
 氷を押し付けられたのかと勘違いするほど千晶の身体は冷え切っていた。
 互いの衣服を通してでも伝わるその感触が、心に痛い。
 
「いったい、お前、何時間……っ。ありえないだろ……?」
「だってあたしたち友達じゃん。辛い時は頼っていいんだよ」
「だからって……いくらんなでも、こんなの卑怯すぎだろうよ……」
 
 千晶の手が春希の背中を摩りながらうなじへと伸びていく。そこから彼の後頭部へと移動し優しく撫であげた。まるでいい子、いい子するみたいに柔らかい仕草で。
 
「和泉……っ」
 
 たったワンコールだけ。
 その春希の呼びかけに応え、千晶はこうして現れてくれた。
 待っていてくれた。
 
「泣いてもいいんだよ。我慢しなくたっていいんだよ。あたしがこうして傍にいてあげるからさ」
「……っ」
 
 千晶の優しい声音が春希の心の氷を少しずつ溶かしていく。
 ふんわりとした抱擁はまるで母親が子供にするような慈愛に満ちていて。
 
「よし、よし。一人じゃないよ。春希は一人じゃない」
「いず……みっ」 

 目頭が熱くなってくるのが抑えられない。何の理由も聞かず労ってくれる千晶の優しさに心が傾倒しそうになってくる。
 このまま自分も千晶の背中へと腕を回し、ぎゅっと折れるくらい強く抱きしめたくなった。
 もっと、もっと近づきたい。もっと、もっと触れあいたい。
 和泉千晶という女を自分の物ににしてしまいたい。
 そんな強い誘惑を春希は彼女を抱きしめる寸前で振り切った。千晶の背中に回しかけた腕を振り下ろし、拳を強く握って耐える。
 
「……ぅ、っ……俺……ごめんっ……」
「そこはありがとうって言って欲しかったなぁ。こんな時にでも春希ってば真面目なんだから」
「真面目で悪いかよ。だってお前、俺のせいで――」
「違う。春希のせいじゃなくて、春希のため。そこ大事だから勘違いしないで」
 
 春希を安心させたいと千晶が更に身体を押し付ける。
 こうして抱いてあげないと春希が崩れ落ちてしまう。それが顕著に感じられたから。
 
「ねえ春希。ここは寒いよ。凍えちゃうよ」
「……あ。ご、ごめん」
「ほらまた謝る。そんなことよりさ、部屋に行こ」
 
 耳元で囁かれる千晶の提案に春希は首を振ることができない。
 元よりこうして来てくれた彼女を追い返す術など彼にはないのだ。
 
「歩ける? なんだったらおぶってってあげてもいいよ?」
「馬鹿野郎……。そこまで甘えられるかよ」
 
 春希はそっと目を閉じて胸の内から強い意思を引っ張りあげようと試みた。そうしないといつまでも千晶の温もりに溺れてしまう自分が想像出来てしまったから。
 離れがたい誘惑を意思の力で断ち切る為に一呼吸置き、ゆっくりと瞳を押し開く。それと同時に千晶の肩に掌を置いた。
 もちろん彼女を抱きしめる為じゃなく、そっと身体を離す為に。
 
「……春希?」
「ありがとう和泉。もう、大丈夫だ。自分の力で歩けるから」
 
 軽い驚きを覚えたように千晶の目が丸くなる。
 今春希が放った台詞の内、大丈夫というのは嘘。けれど歩けるだけの力を千晶から分けてもらったのは本当。
 それを証明する為に彼は自身が着ていたコートを千晶の肩に被せると、彼女の脇を通り抜け階段付近に置いたままになっていた白い布袋を掴み取った。
 
「はは。本当にサンタクロースみたいだな。これ」
 
 片手で掴みあげたそれは、春希が想定していたよりもずっと重かった。まさかプレゼントが入っているとは思わないが、千晶の私物が入っている可能性を考慮して丁寧に扱う。
 そういうことに思考が回るくらいの活力は戻ってきていた。
 
「風邪、引く前に行こうぜ。これ俺が持ってってもいいよな?」
 
 千晶に背中を向けたままで春希がそう言った。
 今振り返ると相当みっともない表情を拝まれることになる。それだけは避けたかったから。
  
「無理してない?」
「してない。じゃあ行くぞ」  
  
 靴音から千晶が歩き出したのを確認して春希も足を踏み出す。
 部屋に辿り着くまでの時間を使って強く自分を律しておこう。そう心の中で思いながら。
 
 
 
 南末次駅から徒歩十分。比較的新しく立てられたマンションに春希は一人暮らしをしていた。
 内装はバストイレ別のワンルーム。
 家賃は一月八万円。掛け持ちしているバイト代の大半はこの家賃に消えている。それでも実家を出て自分だけの空間が持てることに彼は意義を感じていた。 
 
「先にシャワー使えよ。俺、後でいいからさ」
 
 千晶を伴って部屋へと戻った春希は、荷物を置くや彼女に風呂に入るように勧めた。
 とにかくまずは冷え切った身体を温めなくちゃならない。その為には熱いシャワーを浴びるのが一番効果的だろう。だが当の千晶は半分上の空で聞き流している。
 
「どうしたんだよ? ……って、着替えがないのか」
「ううん。着替えなら持ってきてるよ」
 
 千晶が視線で先程のサンタ袋を指した。
 一体何が入っているのか疑問だったが、千晶の台詞からするとやはり私物だったのだろう。着替えや荷物の類が一式入っているならあの重さにも納得だと春希が得心する。
 だが次に放たれた千晶の台詞は完全に想定外だった。
 
「ねえ春希。どうせなら一緒に入らない? その方が効率いいじゃん」
「……はぁ?」
「洗いっこしよっか」 
「ば、馬鹿言うなよ。そんなことできるわけないだろ」
「なんで? あたしが構わないって言ってるのに。それにあたしが出るまで待ってたら風邪引くかもしんないよ?」
「そういう問題じゃないだろ。若い男女が一緒に風呂にって……分かるだろ?」
 
 服を脱いで一緒に入る。
 シャワーを浴びて、湯船につかって。当然そのままで済むはずがない。
 
「分かるよ。あたしもそういう意味で言ってるんだし」
「お前な、冗談でもそんなこと言うなよ。俺が勘違いしたらどうする気だ?」
「勘違いしたらいいじゃん」
「……和泉。誰にでもそんなこと言ってるとそのうち火傷じゃ済まなくなるぞ」
「えー。あたしそんな風に見える? こんなこと春希にしか言わないよ」
 
 唇を尖らせて憤慨したというポーズを取る千晶。
 
「だってあたし処女だし」
「し、処女って……お前……な」
「確かめてみる? 春希ならいいよ」
 
 艶っぽい笑みを浮かべながら千晶が春希の傍に寄り、そっと彼の手を取った。それから開かれていた指に自分の指を絡ませ、優しく握り込む。
 ほら、こうすることでもっと近づけるでしょ? という風に。
 
「ねえ春希。いいんだよ? しよう?」
「……っ。しない」
「どうして? 寂しいんでしょ? 傷ついてるんでしょ? あたしを逃げ道にしていいんだよ?」
「俺、そんなに器用じゃない。逃げ道とか……選べない」
「……本当に真面目だよねぇ春希はさ。難しく考えなくてもいいのに」
「考えるよっ。普通考えるだろっ。お前に対しての責任とか、色々……」
「んー。もしかしてさ、春希って経験ない?」
「なっ!?」
 
 千晶からの思わぬ切り口に対して咄嗟に台詞が続かない。
 処女だというのなら和泉の方こそ経験ないだろうにと思ってしまう。それなのにさらっとこういう台詞が出てくるあたり、女優にでもなれるんじゃないかとも。
 
「なんで、そう思う?」
「だって、ねえ」
「……馬鹿にするな。経験はある。一回だけだけど」
「――へえ。一回、なんだ」 
  
 ただ一度の経験。
 三年前、北原春希と冬馬かずさは、雪の降る夜に彼の部屋で結ばれた。
 互いを想い合いながらも、別れることを前提として。
 
「……悪いかよ。経験不足で」
「そんなこと言ってないじゃん。ただちょっと意外だっただけ」
 
 明るくて面倒見が良く、容姿も悪くない。
 相手の立場に立ってものを考えられるし思いやりもある。実際春希は女の子に人気があった。ただ本人が意識的に相手を遠ざけていただけで。
 
「ねえ春希。あたしってそんなに魅力ないかな?」
「そんなことないっ。和泉は十分に魅力的な女の子だよ」
 
 春希に対するフランクな物腰や性格的な側面から、彼が強烈に“女”を意識しないだけで、千晶が美人であることは間違いない。
 スタイルも良く、怠惰な性格さえ直せば男が放っておかないだろうと彼は思っていた。
  
「なら、さ……」
「でも、駄目だ」  
「あのね、結構軽くみられるかもしんないけどさ、あたし的には一大決心だったんだよ? それでも春希を元気付けてあげたいなって。癒してあげたいなって思ったから」
「それならもう目的は達成してる。俺、和泉には癒してもらったから。あんな電話一本でこうして来てくれた。俺を待っていてくれた。それだけで十分だよ」
「……春希」
「さあ、もう行けよ。脱衣所のラックにバスタオルが入ってるから好きに使ってくれ」
「知ってる。……じゃあ先に入るね。気が変わったら突入してきてもいいから」
「馬鹿。もっと自分を大切にしろ」
「あはは。春希ってば時々オヤジくさい台詞吐くよねぇ。ホント面白い」
 
 名残惜しそうに握りこんでいた指を一本ずつ離してから、じゃあねとひらひら手を振って千晶が脱衣所へと消えていく。その後姿を見送った春希は、緩やかにその場に座り込むと一回だけ大きく息を吐いた。
 
「和泉……」
 
 彼女と繋いでいた掌を開き視線を落とす。
 こうして手を繋ぐだけでも随分と心が軽くなる。なら身体を合わせればどうなってしまうのか。そういう思考の先を春希は倦怠感に委ね考えないようにした。
 全身に酷い疲労感がこびり付いている。なにも夜間に全力疾走したからだとかそういう物理的な理由からではなく、精神的に参ってしまっているのだ。
 もし麻理と会えなかったら。もし千晶がこうして訪れてきてくれなかったら。年が明けるまで寝込んでいてもおかしくないくらい、心にダメージを受けていた。
 
「……俺、どうしたらいいんだよ」
 
 視線が自然と千晶のいるバスルームへと向いていた。
 逃げ道は用意されている。彼が望めば千晶は受け入れてくれる。
 それが分かっているから、分かってしまっているからこそ、口では否定しても温もりを求めてしまう自分に春希は嫌気が差していた。
 だってこの選択は誰も幸せにはしない。春希も千晶も、そして雪菜も傷つくだけだ。
 もし春希が“本気で千晶を求める”ならば違った未来が待っているのだろうが、安易に逃げるだけでは何も解決しない。
 
「ごめん、雪菜……ごめんっ……」
 
 脳裏に浮かび上がる大切な人の泣き顔。今宵、彼の所為で切れてしまった人を思い唇を噛む。
 春希は膝を折り曲げると、子供のように両腕で抱え込みそこに顔を埋めた。
 また雪菜は泣いているんだろうか。一人で眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。そう慮っても今の彼には彼女に手を差し伸べる資格が剥奪されている。
 メールを介して近づけた心も、今は遠い。
 結局春希にできるのは、彼女と同じように痛みを抱え、距離が離れたまま同調するしか術がないのだ。
 
「でも俺かずさを忘れるなんて、できないよ……。あいつのことがどうしようもなく好きなんだ」
 
 今日の出来事を知ればきっと武也も依緒も落胆する。尽力してくれた小春だって悲しむだろう。何より雪菜を傷つけてしまったという事実に春希は苛まれ続けている。
 どうすればいいのか、何てことは誰かに言われるまでもなく春希だって理解していた。
 けど理屈じゃ心が納得してくれない。
 
 ――ニューイヤーコンサートに行けば会えるかもしれないぞ、冬馬かずさに。
 
 麻理の放った言葉が脳内を駆け巡る。
 今の彼には選ぶ権利が与えられている。ずっと思い続けていた彼女に手を伸ばすことが出きるかもしれないのだ。例えその先で傷つく未来が待っていても、もう一度会えるかもしれないのだ。
 その事実が彼の心を激しく揺さぶり悩ませる。
 
「俺、かずさを求めても、いいのかな……」
 
 彼女と別れてから三年間。春希はあえて考えないように勤めてきた。
 睡眠時間をギリギリまで削り、起きている時間の全てを何かしらの活動時間に当て、忙しさに忙殺されることで思いを誤魔化してきた。
 もう二度と会えないはずの彼女と、大切にしなければいけない彼女との狭間を揺れながら。
 
「――かずさ」
 
 ぎゅっと強く膝を抱き、目頭を押し付ける。 
 
「……あ、携帯……の電源……」
 
 何度自問しても答えは出ない。思考は堂々を巡り、悪循環の渦に陥ってしまう。
 そうしている間に強烈な睡魔が春希を襲ってきていた。
 だんだんと瞼が落ちていき、目を開いているのが億劫になってくる。そして意識を手放そうとした瞬間、携帯の電源を切ったままなのを思い出す。
 
「でも、あしたで、いいか……」
 
 今日は色々あって疲れたんだ。だから少しだけ休ませて。
 そう自分に言い訳しながら、春希は緩やかな眠りに落ちていった。
 
 
 
「ん、あ……れ?」
 
 窓から射し込む眩しい光を頬に受けて、ゆっくりと春希の意識が覚醒していく。
 まず最初に感じたのは全身を包み込む倦怠感。次いで寝不足の時に感じる軽い頭痛だった。
 寝覚めは最悪。それでも睡眠を取れたことに春希は感謝した。
 
「そうか。俺、座ったまま寝ちゃったから」
 
 千晶をバスルームへ送り出した後、意識が落ちるように眠ってしまったことを思いだす。
 まず春希は普段自分が使っているベッドへと視線をやった。千晶がそこで眠っていると思ったからだ。けれどベッドに人がいた形跡はなく、肝心の彼女の姿も無い。
 もしかして帰ってしまったのか。
 春希がそう思った時、身体の右側に妙な重みを感じて――
 
「う、うわっ!?」
 
 千晶は春希と同じように、座ったまま彼に身体を預けるようにして眠っていた。
 すうすうと可愛い寝息を立てていた千晶だが、今の春希の奇声で目を覚ましたらしい。彼女は欠伸をかみ殺しながら、ふぁ〜と大きく伸びをする。 
 
「……あぁ、春希おはよう。……でさ、今何時ぃ〜?」
「い、和泉!? お前、こんなところでなにやってんだ? ベッドで寝なかったのかよ?」
「だってシャワー浴びて戻ったら春希寝てるんだもん。びっくりしちゃった」
「驚いたからってこんな風に添い寝する理由にはならないだろ?」
「まあね。ただ春希泣いてたから。こうしてあげたら安心するかなって」
 
 千晶が春希の目元に人差し指を添えて涙を拭う真似をした。
 その段になって春希は自分の身体に毛布が掛けられていることに気づく。
 千晶が掛けてくれたのだろう。こんな体勢で眠っても風邪を引かなかったのは彼女のおかげかもしれない。
 
「……泣いてたって、うなされてたってことか?」
「うん。泣きながら女の子の名前呟いてた。――かずさって」
「……っ」
 
 雪菜じゃなく、かずさ。
 昨日身体を重ねようとした相手じゃなく、三年前に身体を重ねた相手の名前。
 その事実が春希にまた罪悪感を植えつける。
 
「なんかさ〜起きたら一気にお腹空いちゃったよねぇ。あたしコンビニ行って何か買ってくるよ。春希なに食べたい?」
「え?」
「その間にお風呂入っちゃいなよ。戻ったら話聞いたげるから」
 
 毛布が春希の肩からずり落ちないように気遣いながら千晶が立ち上がる。
 上目遣いに目にした彼女の服装は、もうサンタクロースではなくなっていた。
 
「一人で抱えてても重いだけだよ。肩代わりはできないけどさ、軽くする手伝いくらいはさせて欲しいな」
 
 陽光を浴びて佇む千晶の姿が、春希には随分と眩しく見えた。
 

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